自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶
赤 川 理
はじめに 第三節 国・親・子供の関係
第一章 ボーテの所説 1 国の教育委託
第一節 社会の問題を解決する手段としての学校教育 一 学校制度は国が営む
第二節 教育システムと法による操舵 二 民間化の否定と私立学校の役割
1 教育システムと教育プロセス 三 公立学校制度の性能−財政負担者としての国
2 教育システムの自己準拠性 2 親・子供との関係
3 教育システムの法による操舵 一 義務としての国の教育委託と親・子供の基本権との
一 法治国原理に基づく要請 関係
二 教育システムの法による操舵の可能性と意味︵以 二 国の教育委託と変化した家族
上︑第四六巻第二号︶ 第四節 ボーテの議論の意義
三 法的な操舵と教育プロセスの保護 第二章 ディットマンの所説
4 多元主義 第一節 学校の教育委託と教育尺度の問いの必要性
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八−一︶ 一六一
一六二
第二節 自由な立憲国における学校の教育委託 三 名宛人の問題
1 原理的な問いの提起 四 規範作用
2 じO宕旨ぬと卑恩o庁§ぴq 第三節 学校教育におけるさまざまなアクター
3 自由な立憲国に教育委託は認められる 1 親の教育権
第三節 基本法において教育はどのように取り扱われている 一 親の教育権と学校教育との関係
か 二 親の教育権と子供との関係
1 学校の教育委託は基本法上受け容れられている 2 生徒の権利
2 基本法の教育尺度 3 教師の教育の自由
一 基本権的に刻印づけられた尺度 第四節 国家の中立性と寛容の原則︵以上︑第四七巻第二
二 基本権以外の基本法上の尺度 号︶
第四節 ラントにおける教育委託と教育目標 第五節ピエロートの議論の意義
ー ラント憲法上の準則 第四章 フーバーの所説
2 立法者の任務 第一節 基本的コンセンサスの伝達の必要性
3 ﹁現場﹂での教育委託と教育目標−教師の役割 第二節 教育者としての国と学校
第五節 自由な立憲国に教育委託が認められるということの ー ﹁卑恩oゴ§ひq﹂の概念
意義︵以上︑第四七巻第一号︶ 2 ﹁卑N苫庁巨西﹂をする国の能力
第三章ピエロートの所説 第三節学校の教育委託
第一節 テーマの法的な議論への限定 1 学校の教育委託の基盤
第二節 学校高権と教育目標 一 教育委託の歴史と機能
1 学校高権 二 教育委託の名宛人としてのラント
2 教育目標 2 教育委託の内容と構造
一 カテゴリーによる分類 一 機能からの考察
二 内容による分類 ω 基本法二条一項
② 社会国家原理・基本法三条三項 ω 基本権上の自由
③ 統合機能 ② 民主制原理
二 教育委託の機関的な形態づけ ③ 法治国原理
三 立法者の役割 ニ ラント憲法による価値秩序の具体化
3 教育委託の限界 3 憲法上の教育尺度の保証
一 国の教育委託と両親の教育権 一 価値に拘束づけられた教育の命令
二 国の教育委託の貫徹 二 司法審査可能性
第四節 学校の教育尺度 4 ﹁イデオロギー的に寛容な学校﹂
1 教育委託と教育尺度の関連 第五節 フーバーの議論の意義
2 基本法の価値秩序 おわりに︵以上︑本号︶
一 教育尺度としての価値秩序
第三章 ピエロートの所説
第五節 ピエロートの議論の意義
︵注1︶ ピエロートは︑これまでの議論を次のように総括する︒﹁⁝国は︑公立学校における子供の教育をある軌道へと導
く︒しかし︑この軌道の中では︑親︑子供︑教師は︑分化した影響を与える可能性を法的に保証されている︒民主的
に正当化された共同体性と個人の自己決定の間には全体として︑これまで広範に確証され︑また︑たとえば一方では
イスラムの意義が増大することから生じ︑また︑他方ではドイツの統一から生じたような︑新たな問題も克服するこ
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八ー一︶ 一六三
一六四
︵注2︶ ︵注3︶とができるところの柔軟なバランスが存在する︹原文注二二二︺︒﹂︒つまり︑ピエロートは︑イスラムの意義の増大 ︵注4︶やドイツの再統一という社会の大きな現状を認識しているが︑そうした社会の大きな現状から生じる個別の問題は︑
法によって解決されうるというのであろう︒
以上のようなピエロートの議論は︑どのような意義を有するであろうか︒彼の議論の特徴は︑一貫して﹁妥当する ︵注5︶法に対するさめた視線﹂を維持したことにあると思われる︒このことと︑前の段落で述べた現実の問題は法によって
解決されうるという結論をあわせて考えると︑ピエロートは︑現実の問題には妥当する法によって答えを与えること
ができると考えていることになる︒しかし︑妥当する法だけであらゆる問題に答えを出すということを徹底するので
あれば︑最終的には︑一般条項的な規定に頼らざるを得なくなるのではないか︒そして︑一般条項的な規定に頼るこ
とができない場合には︑結局︑妥当する法の外側から原理的なものを導入しなければならなくなり︑﹁妥当する法に ︵注6︶対するさめた視線﹂を維持できなくなるのではないか︒ピエロートは︑本論文においては︑これらの問いにはっきり
と答えているわけではないけれども︑現実の問題に対処する限りでは︑妥当する法だけで十分だと考えているものと
︵注7∀思われる︒
︵注1︶ ピエロートの議論について︑本稿第三章第一節から第四節までを参照︒
︵注2︶ bd昆o田①目葺国﹁民o庁已口ぬωき﹃ぬ已昆卑民各巨oqω日①凍゜・声ぴユ隅oりn庁巳①ぎぽ芦巳一ば合①目くO日ω︒︒旨ぬ゜・︒り§§ド一㊤路出部
嵩︒り゜㊤法゜教育学の見地との関連について︑原文注二二二参照︒なお︑原文注の表記方法について︑本稿第三章第一節︵注 8︶参照︒
︵注3︶ <険ド国隅o貸PPOこQ︒卯ΦOΦ㊤Φρ
︵注4︶コ⑦目貸PPOこ︒︒°qっΦ声゜
︵注5︶頂隅︒葺①゜POこoり゜ΦΦ﹂°
︵注6︶ 田隅o貸PPOこ︒乃bΦ一゜
︵注7︶ ピエロートは︑本論文において︑妥当する法という言葉を定義づけているわけではない︒しかし︑ピエロートの本論文 において妥当する法という言葉が指し示している範囲は︑制定法よりも広いけれども︑原理的なものまでは含んでいない︑
と思われる︒
第四章 フーバーの所説
本章では︑ドイツ国法学者協会第五四回総会が行われる時期にあわせて︑フーバーが同総会と同じテーマで発表し
︵注1︶た論文によって︑フーバーの議論を検討する︒
︵注1︶ 勺o甘﹃冨゜=ロぴΦ5国﹁恩Φ巨目恒゜・①巳洋轟巨﹁ユ団﹃N帯庁§ぬω日品ω邑︶ユ隅Qの6庁巨①ぎ中o芦而巨合oロく而臣︒⁝§oq︒・・︒訂①︷﹂﹈豊一・﹂Φq⊃︽
出㊦ヰ戸o◎oりoり゜朝やローO切や
第一節 基本的コンセンサスの伝達の必要性
フーバーは︑現在のドイツに対する次のような認識から議論を始める︒﹁国家と社会はドイツにおいて方向づけの
危機に襲われているように見え︑社会の基本的コンセンサスは消滅しつつあり︑自己実現への渇望と並んでは個人の
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一⊥ハ六
共同体に結びつけられていること︑また︑共同体に関連づけられていることは⁝視野から外れてしまっている︒何が
﹃正しく﹄︑また︑何が﹃正しくなく﹄︑何が﹃善﹄で︑また︑何が﹃悪﹄かに関してのいくつもの世代を越えて伝え ユ られた基本的な確信は失われてしまったかのように見える︒﹂︒基本的コンセンサスの危機というこの状態は︑フー
バーによれば︑再統一の結果生じたのではなく︑すでに﹁旧﹂連邦共和国においてずっと以前からはっきり浮かび上 ︵注2︶がっていたことの結果である︒
フーバーによれば︑社会のこうした状況にもかかわらず︑﹁⁝自由な立憲国の中の開いている社会は︑ひとつの基
本的コンセンサスを必要とする︑すなわち︑特定の価値の妥当について社会の中で一緒に暮らす人々の断然圧倒的多 ヨ 数が一致することを必要とする︒﹂︒つまり︑フーバーは︑基本的コンセンサスなくして︑社会はそもそも成り立ちえ
ず︑また︑社会が存続し続けるためには︑現在の世代から次の世代へと基本的コンセンサスが伝達され続けることが
必要だというのであろう︒
基本的コンセンサスの伝達は︑﹁⁝理念型的にはすべての教育の担い手︵両親︑教会︑社会的な集団︑国家︶によっ ︵注4︶ ︵注5︶て果たされるべき課題である︹原文注四︺︒﹂︒しかし︑実際上は︑この伝達にあたって諸々の困難が生ずる︒フーバー
によれば︑これらの教育の担い手のうち︑両親と教会は︑次のような困難に直面している︒両親は︑基本法六条二項
一文により教育の優先的な担い手であるが︑離婚率の上昇や経済的負担などを背景として︑基本的コンセンサスを子
供たちに伝達するのが困難になってきている︒また︑教会は︑ごく最近まで︑意味をもたらすこと︑価値の伝達に貢 献してきたが︑わずかな人々にしか影響を及ぼせなくなってしまっている︒
両親や教会が困難に直面しているとすれば︑基本的コンセンサスの伝達について︑他の担い手に期待がかけられる
ことになる︒﹁だから︑教育の最後の本質的な担い手として︑また︑それとともに︑自由で民主的な立憲国のための ︵注7︶不可欠な︑諸々の価値観念における同質性の尺度の最後の保証人としてとどまっているのは︑学校である︒﹂︒つま
り︑フーバーは︑学校こそが社会の基本的コンセンサスの伝達の最後の砦だというのである︒
︵注1︶ 勺o富﹁呂゜自巨05国艮o庁已据︒・①昌躍已a国艮o巨晴ω日自㈱︒・訂ぴユ隅白りoゴ巳o目冨臣色口冨庁9<①臣・︒ω巨ぬωω§戸ロロ菖↑S路
口O啓戸◎◎白D°切吟O°
︵注2︶ 国已亘①♂PPOこoりひ畠゜︵注3︶ 出昏Φ5PPOこ㊤忠P
︵注4︶ 出已ずo﹃P①︑○°︑90島゜フーバーは原文注四で︑﹂8隅︼︒︒8︒・o⑲O①日o育臣︒りoゴ隅ぽ6庁房゜り§﹇已ロロ白・§﹇降色⑦国穿皆団︒りψ・oロ隅
Oo名﹁邸o庁⑦昌日昌o日①゜り§﹇旨全困﹁畠PHゲおべざ㊤㊤N\二口をあげて︑イーゼンゼーの定式化にふれている︒原文注の表記 方法について︑本稿第三章第一節︵注8︶参照︒
︵注5︶出巨︒5PPS㊤忠O°
︵注6︶ 以上︑自已ひo芦PPOこ白りぴぴ゜
︵注7︶ 国已げ⑳︹PPOこ白力ひ畠゜
第二節 教育者としての国と学校
︵注1︶ フーバーは︑本論文において︑﹁国の学校︑または︑公立学校﹂に議論を集中する︒その理由について︑彼はこう
述べる︒﹁⁝というのは︑そこ︹国の学校㊦または︑公立学校︺でのみ︑教育委託と教育尺度は︑テーマの設定が容
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一六八
︵注2︶易に起こさせるところの自由な立憲国への例の特別の親近感を指示するからである︒﹂︒つまり︑フーバーは︑あくま
で︑自由な立憲国がみずからを維持するという観点から議論を進めようというのであり︑そのためには公立学校に議
論を絞る必要があるというのである︒
︵注1︶ 勺暮隅呂゜国呂③門国区各已ロぬ留旨お§ユ卑匡o庁旨唱日四凍゜・雷げユ隅o︒合巳oぎ時o芦ユ島合o目くσ臣ψ︒ω已口ぬ︒り゜・富曽ロ菖↑﹂qっ忠
出O津ドo◎oりふ︽9︵注2︶匡已げo□PPPQ力゜切冷゜以下︑特に断りのない限り︑︹︺の中は筆者が補った言葉︑または︑原文注である︒
1 ﹁国目穗庁己ロぬ﹂の概念
フーバーは︑﹁卑N声O庁巨ぬ﹂の概念の定義づけ︑また︑﹁国区各巨ロ晦﹂と﹁知識の媒介︵≦︒力白・①ロ︒力くO§芭§ぬ︶﹂︑ ︵注1︶﹁ζo法巨ぬ﹂といった類似の事象との区別を試みる︒
︵注2︶ これらの三つの領域は︑お互いに密接に関連しているので︑明確な分離は困難であることをフーバーも認める︒し ︵注3︶かし︑彼は︑概念を限界づける試みは断念されてはならないとして︑﹁知識の媒介﹂と﹁ud匡合日ぬ﹂について︑おおよ
そ次のように述べる︒﹁知識の媒介﹂という概念は︑技術的な教育内容の単純な伝達であるのに対して︑﹁ud崖cロσq﹂ ︵注4︶は︑技術的な養成や知識の媒介を越えた人格の精神的な発展を指し示し︑また︑それに目標づけられる︒﹁これに対
して︑︿国区6巨嵩﹀は︑ある特定の知識の範囲を受け継ぐ精神的な展開に向けて方向づけられているというよりも︑
むしろ︑諸々の価値︑また︑諸々の行為の命令の媒介による一般的な人間的発展︹原文注七︺に影響を与えることに
︵注5︶向けて方向づけられている︹原文注八︺︒﹂︒つまり︑﹁Cd法§ぬ﹂は﹁知識の媒介﹂を基礎として人格を精神的に発展 ︵注6︶させること︑﹁国区9巨ぬ﹂は価値を基礎として人間的発展をはかることだ︑というのである︒
︵注1︶ 勺含隅呂゜匡已ぴo門国区①ゴ巨碩留巨叶高已a閂恩巾庁§西の日農の富ぴユ隅oりo庁巳巾目埣巳庁息島合8︿σ目詔§ぬω白︒鼠巴﹀一﹈菖ドお路
甲︻㊦津﹂O◎0り゜O吟口゜
︵注2︶ 出已げ①♪PPOこoD切畠゜フーバーは︑原文注六で︑以下の論文をあげている︒
昌O日①ωObbΦコB碧巨Qりo庁巳ゆ已ロユげo匡6庁o>巨o◎庄冠已目堕狂Z︹古日⁚ 國ふ5ユひ已6ゴ牛oロリo力§Gり﹃①Oゴ房全隅切已目ユ①o︒﹁o廿已げば吋
一︶⑦已房O庁綜日P 出O﹁①已ψりひO而晦⑦●O目くO目﹈00力江■⑦ロωゆO 仁コユ 勺巨一匿﹃6庁庁Oひ COユ゜9 ﹈b◎Oq⊃W㎝声ω朝∴ ウユ冒 00力ω①口ぴ口匡ド 切O庁已﹂O 一日
窓△宮のの§古OO<おやメ゜︒O⊂°︒OP オッパーマンの論文の右にあげられた箇所は︑﹁国区Φ庁旨ぬ﹂︑﹁知識の媒介︵司﹈ω︒・o昌乏①︹
巨庄已ロぴq︶﹂︑﹁bd巨§σq﹂の区別の困難さそれ自体を論ずるというよりも︑それらの区別の困難さを暗黙の前提とした議論で あるように思われる︒ 尋
︵注3︶ ロ已ぴoさP①゜○こQDひ島゜
︵注4︶口巨6﹃三゜①゜Po︒.0畠゜
︵注5︶出ニゴ⑦﹁PPO°℃°︒°忠切゜︿﹀内は原文イタリック体︒フーバーは︑原文注七でも︑原文注六と同じオッパーマンの論文を
あげている︒また︑原文注八では︑od<Φ邑国ミぱ\謁の参照が指示されている︒原文注八においては︑富﹃σqooぎ算Q︒o庁巳①
二目ユ国#O日ぎユO﹃カ66庁房唱﹁㊦O古已旨ぬ画㊦oり切⊆目△Φω<O昏◎力o力已ロぴqψDぴqOユO庁信w声ロ⁚司Oω房⇔匡=芦ω﹈O①n庁一日ウ巴冨﹁°匡6﹃①已oりぴq⑦鳴⑦げOロ<O口
≦o痔§No巨oさ司ロoo阜o﹃呂騨巨N○而﹃ユ問oΦ琴6犀P品◎︒戸QりNO声\NOωもあげられている︒原文注八で述べられているように︑
コールは︑司ユ冒Oωωoロぴ口字﹈︶昂⑦締臣n庁︒国﹃注⑦庁巨暢﹁③o茸ぎQn日白oユΦ゜・○巨ロエぬ①゜・o蔚①゜︒︑冶◎︒どo乃゜﹂09 を参照している︒
︵注6︶ フーバーは︑ζ゜匡o冨隅を引用する︒=旨⑦﹃PPOこoり﹄島占吟OこウP⑰呂良き出巴肩⑦﹃︑国﹃民各旨ぴq︑日⁚︒り富呉・・庁鼻oP
出o﹃①已o力晦oσe⑦げoロ<○ロユO﹃OO﹈ROo力lOo切①匡oりo庁良﹃こ︿Oロ高昌o已げo曽ひO詳9Φ﹀已恰鑓P切ユ゜N°﹂Φo◎◎Qり噂良o°Q◎◎◎べーωq⊃S︵ωo◎S︶
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一七〇
2 ﹁国這o巨ロぬ﹂をする国の能力
ところで︑そもそも国は教育︵卑恩⑦巨漏︶をする能力を有するのだろうか︒フーバーによれば︑﹁国と学校の教育
委託にみずからを捧げるところの者は︑教育︵国鼠⑦庁毒ぬ︶するその︹国と学校の︺能力をほとんど自明なものとし ︵注1︶て前提とする︹原文注一〇︺︒﹂︒国の教育する能力に疑問を持たない者もいる︑というのである︒
しかし︑教育︵国﹃獣①巨ロぬ︶をする国の能力に疑問を持つ者がいないわけではない︒フーバーは︑国にも学校にも ︵注2︶教育をする能力を認めないレレッケの議論を紹介する︒レレッケの議論を受けて︑フーバーは︑﹁⁝教育委託と教育 ︵注3︶尺度の問いは︑国︑また︑その学校に対して︑そもそも立てられないのか?﹂と問う︒
フーバーは︑この問いに次のように答える︒﹁国は︑ここでも⁝公法上の法人として︑みずから教育活動すること
はできないのであって︑その機関を通してのみ教育活動することができることは︑いともたやすく理解できる︒しか
し︑それは︑諸々の価値︑また︑行為の指示の媒介のための責任︑特定の考え方︑態度︑また︑性格を生み出すこと
のための責任を排除しない︒だから︑憲法︑学校法︑行政規則︑カリキュラムを通して︑⁝学校において︑特定の教
育尺度が基礎におかれ︑特定の価値が媒介され︑また︑特定の教育目標が追求されることを保障することは︑国には︑ ︵注4︶いともたやすく可能である︒﹂︒つまり︑国が教育するということは︑諸々の価値︑諸々の行為の指示︑諸々の態度︑ ︵注5︶諸々の考え方︑また︑諸々の性格を国が責任を負って子供に伝達することだというのである︒国が教育するというこ
とは以上の意味で理解されるのが事実に即しており︑そのように理解すれば︑国が教育する能力を持つということに
︵注6︶何の問題も生じない︑とフーバーはいうのだろう︒
︵注1︶ 勺o富﹁忌゜出cぴΦび国邑oゴ已目ぬω§躍§ユ卑恩各旨ぬω日①㈱ω旦豆ユo﹃ψりo庁巳o巨坤o旨o巨oゴ6ロぎ爵・力ω§ぬωω§けヒO菖一◆声㊤忠
ロ⑦巳︒︒白︒°9Φ゜原文注一〇では︑マウンツの注釈の参照が指示されている︒自⑦昆2冨①§︑旨゜S巨⁚○日註ぬ゜ωo冒昏甲
日oロ盲昌oo△o﹁呂芦R\○§冨﹃O萱堕Q力§畠﹂8N フーバーがあげているのは︑o◎§ユ﹂㊤㊤Nである︒一九九四年の同コン メンタールにおける基本法七条の注釈は︑一九八〇年のマウンツのものである︒したがって︑°力§ユ冶q︒Nにおいても︑基本
法七条の注釈は︑一九八〇年のマウンツの注釈のはずである︒筆者は︑一九九四年の同コンメンタールに載せられた一九八 〇年のマウンツの注釈を参照した︒ また︑原文注一〇では︑ラムの論文もあげられている︒
昌匡o﹃戸望庄巨目oq国﹁恩Φ庁已ロ西∈巨ユ﹂ぎωげ目工已oぬ巴oりOOぬ⑦⇒白︒訂自工く◎昌○⊇巨貸oo宮o戸芦⁚ヴOo︒房0匡芦﹁国ヨ白oo﹇o巨巨日o◎O°
O而げ已詳o︒語匡O﹁①已ω西O険Oげo口くOロ國o﹃日自5宙O口巴已坦=§5国ロぬo旨貰ユ戸出魯Bきロ自O已ωop目臼ピ日△司ユmユユO庁<O昌N自oり⇔§冒︑
声Φ◎◎ω白D°NωΦlN﹃︽°︵N朝N︶
︵注2︶ 出cぴ05PPOこo乃ひ怠゜レレッケについて︑出与o︹PPO°︑ウ昌ヒ゜︵原文注一一︶では︑Oo己問06 8オP団区各§口゜・恩色o巨巳
●隅﹀巨躍ユ⑦﹁o乃§︷器o庁己P一ロ⁚零ω吟ω6古監=.5◎力﹈o曽匡日づ巴︼m﹁︑出o日已㊤ぴqΦσqoゴO巨<Oロ之ぺO痔きぬN庄亀6炉昌60ユo﹃﹈≦①已冒︑
O而己ぽ巴①6犀Pお゜︒古゜力巨◎︒﹃\﹂忠゜があげられている︒同論文は︑Oo﹃エぎ巴ΦoオP>巨婿o匹萱o﹁勺o︒り︷置ω日已⑦P︒・鳴而≦餌巨甘
白りoゴ法o目§●O昌くo日已oりo力O巨o鮪Φロユ①ω<σ目oカロカロロσqω白︒§︷①μ出而日已ωぬOぬOぴo口くO⇒O口o︼︶Φ06目庁①已巽︑お㊤ぷoりoり﹄切下NやO°︵NΦ9︶
にも収められている︒
︵注3︶出巨︒︹PPOこ゜り゜忠9
︵注4︶ 出已ぴ05PPOこ切ひ怠゜
︵注5︶出昏︒︹きbこQり゜望O.
︵注6︶ 本文のように言うことができるとすると︑フーバーは︑レレッケに与しないことになると思われる︒なお︑本章第四節.
1︵注9︶参照︒
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八ー一︶ 一七一
一七二
第三節 学校の教育委託
1 学校の教育委託の基盤 ︐
フーバーは︑基本法七条一項とラント憲法について次のようにいう︒コ般的な見解では︹原文注一四︺︑基本法七
条一項に横たえられた全学校制度に対する国の監督は︑学校の教育委託のための連邦憲法上の基盤を内容として含 ︵注1︶む︒たいていのラント憲法において︵⁝︶︑この委託は繰り返され︑また︑より詳細に形を整えられる︒﹂︒つまり︑
フーバーは︑基本法七条一項の国の学校監督を学校の教育委託の基盤に据えるのである︒
︵注1︶ 勺Φ審﹃写国已げo烈閂N庁ゴ§αq︒・①邑冨m已昆国日︷巾す∈碩の日①ロ゜・冨げ△氏oりo臥巳①ぎ中而まΦ巨oゴ①昌く①日゜・︒・巨西ωω宙辞ロ菖ド﹂q︒q⇒﹄
出o啓﹂°︒白り゜90原文注一四では︑ロ<Φ臥σ国ω♪一毯\﹂°︒一h‖ロ昌一゜おぺP﹈OO 切くo邑国吟S怠\コ日ロ菖ピおぺ゜︒︑ωOω゜があ
げられている︒原文注一四では︑忘眞⑦昌苔算留ゲ巳⑦已巳国富o日巨エ隅寄合房O苫合9帽合窃bd已ロユ①︒︒<o目ω︒・§oq︒・αq日o宮ω日⁚
ウ⑦の宏合蔀田碧ω﹈86巨日匡85出隅き゜︒ぴq①湾ぴg<8司o痔§唄No己げお昌8合﹁呂騨§ぷ○①﹃△問o色而昆P這゜︒軽◎り゜NO﹂\NON︹ もあげられている︒
一 教育委託の歴史と機能
フーバーは︑国の教育委託の歴史について︑おおよそ次のように述べる︒国の教育委託の根抵は︑一八世紀にまで
さかのぼることができる︒たとえば︑プロイセン一般ラント法において︑学校は一般的な福祉のための国の営造物と
され︑また︑学校教育は機能する公共体の基盤として見なされた︒ワイマールライヒ憲法一四三条以下でもって︑こ ︵注1︶うした考えは一般的に承認された︒これについて︑今日まで︑基盤におかれているものは︑何も変わっていない︒
フーバーは︑こうした歴史を踏まえて︑教育委託の機能について︑おおよそ次のように述べる︒国の教育委託は︑
民主制原理︑社会国家原則︑人格の自由な発展を求める権利︑また︑他の諸々の憲法上の基本決定と絡み合って︑こ ︵注2︶うした他の憲法原則︑また︑憲法上の権利に︑ひとつの特別の防護を与えるのに役立つ︒﹁国の教育委託は⁝もはや
⁝それ自体のためになされた憲法上の価値決定としてではなくて︑憲法の他の基本決定のために﹃奉仕する﹄保護義 ︵注3︶務︵oりO庁已︷N<O唇自︷O庁ゴ﹂口oq︶として現れる︒﹂︒つまり︑フーバーは︑国の教育委託を憲法の基本決定が実現される基盤 ︵注4︶として位置づける︒
︵注1︶ 以上︑勺o﹇隅﹈≦°=已ぴ⑦﹁︑国目ばゴ已握ωき苛躍巨ユ国日冨庁已叔︒力日①⇔・・宮ぴユo﹃o力o庁巳巴目中o臣窪島6庁Φロ<σ昏oりω已昌ぬω答§ひbo①菖ド
声ΦΦふ国O陣一〇◎oりひトΦ゜
︵注2︶ 出自OoおPPOこoり但切怠゜
︵注3︶ =昏⑦5PPS㊤9◎ フーバーの本論文では︑﹁o力合ロ§巨o宮﹂という言葉も使われている︵たとえば︑出呂o︹PPOこ
oり゜9﹃°︶が︑筆・者の見る限りでは︑﹁°力住巨ミ⑦葛白o庁言据﹂と特に区別されていないように思われる︒︵注4︶ フーバーは︑親や生徒の側から見る視点を忘れている訳ではなく︑国の学校教育を求める憲法上保障された請求権につ
いても問うている︒出已ひo﹁りP①゜○こ白りQ︒°忠Φ占ミ゜
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八ー一︶ 一七三
一七四
二 教育委託の名宛人としてのラント
フーバーによれば︑教育委託において主要な役割を果たすのは︑ラントである︒﹁基本法七条一項において︵また︑ ︵注1︶それぞれのラント憲法において︶下に置かれた教育委託の優先的な名宛人は︑諸ラントである︒﹂︒つまり︑フーバー ︵注2︶の考えでは︑基本法七条一項という基盤の上で︑ラントが中心的な役割を演ずるということになろう︒
︵注1︶㊥o﹇巽呂゜出已●o︹国這Φゴ旨鳴ω①辱躍§ユ団区書§ぬの日昌゜・9ユ隅留ず巳竺巨中o芦o巨合oロる昏⁝︒§ぬω・・ロ曽Ud菖ドお漣
=⑦啓一◎ooり゜切ふ﹃°
︵注2︶ 本節1の最初の段落参照︒
2 教育委託の内容と構造
●
一 機能からの考察
︵注1︶ こうして︑国の教育委託が憲法上承認されていることを確認した上で︑フーバーは︑その具体的な内容に議論を進
︵注2︶める︒彼によれば︑基本法七条一項から具体的な指示を取り出すにあたっては︑教育委託が他の憲法価値の実現のた
めに配慮する機能を有していること︑つまり︑教育委託が﹁奉仕する﹂憲法の基本決定として機能することに思いを ︵注3︶致さなければならない︒
︵注1︶ 基本法︑ラント憲法について前出︵特に本節1︶参照︒
︵注2︶ 勺而甘﹃者゜出已●oで国区o庁巨両・り①邑可躍巨ユ国区o巨漏ω目農ω9ユ⑦﹁o︒合巳oぎ中Φ芦⑦巨合mロ<σ昼ω゜・§ぬ︒・ω声菩切菖ピおqっ昏
自O啓Ho◎oりひ吟S
︵注3︶ 出已げm口PPOこψmミ゜
ω基本法二条一項
フーバーは︑まず︑教育委託と基本法二条一項との関係について次のように論ずる︒﹁⁝国の教育は︑子供がその ︵注1︶自然な素質に相応して個人的な人格を発展させることという基本法二条一項によって保護された法益に仕える︒﹂︒
したがって︑教育委託は︑基本法二条一項によって保護された法益に仕えることができるように形態づけられなけ ︵注2︶ればならない︒フーバーによれば︑教育委託の形態づけは﹁⁝学校教育によって︑手元にある素質が助成され︑ある ︵注3︶いは︑目覚めさせられることをおおよそ確保しなければならない︒﹂︒つまり︑子供の素質の開花を図らなければなら
ないというのである︒しかし︑子供の素質は︑それぞれ異なるはずである︒そこで︑﹁⁝また︑同時に︑それ︹教育
委託の形態づけ︺は︑個人的な人格の展開が︑子供たちのさまざまな素質という尺度付与にしたがって︑異なった態 ︵注4︶様で行われ得ることを保証しなければならない︒﹂︒これは︑フーバーによれば︑学校教育制度の構成原理として成績
原理を憲法上認めること︑成績という尺度に基づいて生徒を選抜する必要性︑学校の成績を評点でもって評価しなけ ︵注5︶ればならないことを内容として含む︒つまり︑成績能力の観点の下で︑すべての者に彼にふさわしいものを与えるこ ︵注6︶とが必要だ︑というのである︒こうして︑一方で︑学習困難な子供への特別の援助が︑他方で︑才能ある子供への工
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八ー一︶ 一七五
一七六
︵注7︶リート教育が行われる︑また︑行われなければならないことになる︒
︵注1︶ ㊥而甘﹃呂゜民已ぴ⑦5曽N﹂聾已目σq留已ヰ即σq巨ユ国﹃恩⑦ゴ⊆口晦ψ力日①⇔°・9ユ隅白力o庁巳6戸日中⑦芦㊦巨90ロく而目︒りの§σq器§︹ロ菖ド這忠
=O津﹂o◎oりひ吟S
︵注2︶口呂o芦PPOこ白り゜Oミ◆
︵注3︶ ロ已げ⑳おPPO°︑切ロミ゜
︵注4︶ 出已げo﹃℃PPOこ白力゜朝台゜
︵注5︶ 口仁ひo□PPO°㊤0禽゜なお︑原文注二二参照︒︵注6︶匡巨①おPPOこ㊤忠べ︵注7︶ロ昏oでPPPoD°9べ
② 社会国家原理・基本法三条三項
フーバーは︑右に見たように︑教育委託が基本法二条一項によって保護された法益に仕えるように形態づけられる
︵注1︶と主張した︒しかし︑そうだとしても︑自分の資質や能力を発達させる子供たちの可能性は︑彼らがどのような社会 ︵注2︶的境遇におかれているかによって異なるはずである︒子供がどのような社会的境遇にあるかは︑どのような両親の下 ︵注3︶にいるかということに大きく依存するはずだから︑ここで両親の教育と国の教育の関係が問われることになる︒フー
バーによれば︑基本法六条二項の両親の教育権は︑子供の利益に仕える権利として認められているが︑7.・自由な社
会的法治国家は︑両親がその教育を子供の客観化された利益にもっぱら方向づけ︑また︑優先的に方向づけることを ︵注4︶信頼することはできない︒﹂︒また︑﹁⁝国の教育委託の下に子供が服することは︑彼らの人格的︑性格的︑また︑教
能力の中にではなくて︑両親の教育の方法と態様において有するところのものである︒﹂︒つまり︑子供の教育は両親 ︵注5︶ 、\@ 育に特殊な発展における不足に対する必要不可欠な改良方法を保証する︒その不足は︑その原因を彼の素質︑また︑
に任せておくだけではうまくいくとは限らないのであって︑社会国家的な配慮から︑国は子供の教育に関わらなけれ
ばならないというのである︒
フーバーは︑このことを平等の要請と結びつけて︑次のように述べる︒﹁学校の教育委託は⁝手元にある差異の社
会国家的に動機づけられた調整にも仕える︑また︑それとともに︑ある程度まで︑同時に︑何人もその︵社会的な︶ ︵注6︶出身の故に差別されない︵基本法三条三項︶ことを保障する︒﹂︒
これは︑具体的には︑どのような帰結を導くであろうか︒フーバーによれば︑たとえば︑能力主義は︑図式的に︑ ︵注7︶ ︵注8︶すべての学年段階に適用されることはできない︒フーバーが能力主義の必要性を説いていたこととあわせて考える
と︑就学したての子供たちに対しては︑まず︑平等が重視され︑ある程度学年が進むと︑今度は成績によつて異なる ︵注9︶対応をするべきだ︑というのがフーバーの考えであると思われる︒
︵注1︶ 本節2一ω参照︒
︵注2︶ <巴勺暮隅ζ゜出已ぴo炉国目﹄o巨口σq°厚①巨畔譜已且国区o庁巨西︒力日飴㈱ロ︒臼げユo﹁︒り昏巳Φ巨中o一庁o巨合6ロ<σ日゜・ψり§暢ω§什︑ロ菖↑
一Φ㊤﹄自而啓戸o◎ooひふ﹃°︵注3︶ 国の教育と両親の教育との関係は︑本節3一においても問題とされる︒
︵注4︶国昌︒口PPOこ㊤忠S
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八ー一︶ 一七七
一七八
︵注5︶=呂︒門①゜①゜PQり゜切命﹃°
︵注6︶=昌mお轡ρOこo乃゜忠べ゜
︵注7︶=昏Φ5PPOこ白り゜Oミ゜
︵注8︶ 本節2一ω参照︒
︵注9︶ =⊆げ⑦戸PPO﹂㊤9S原文注二四では︑オッパーマンの議論があげられている︒昌o目①゜・O署o§呂P︒◎合巳①已昌ユ●o艮
誉冨﹂ぎω●ま芦σq℃巨家︹ω゜︒巨⁚=§ユ9合△o︒・Qり§﹇ω苫6庁房巳qロ⊆巳o︒︒苫盲げ巨二︶o葺ω6巨芦鼻出①﹁窪・・ぬo晦①げoロ<8言ωo=ωo亭
゜︒8=ロユ勺①巳困﹃合庁9bd牛Φおo︒ぷ巴ω朝゜
③統合機能
フーバーは︑学校の統合機能について︑社会国家原理︑また︑民主制原理と結びつけて︑次のように述べる︒﹁⁝
また︑社会国家的な︑しかし︑とりわけ︑民主制原理から動機づけられているのは︑ひとが︑学校の統合機能と名づ
けることができるところのもの︑すなわち︑すべての生徒を社会的出身︑宗派的出身︑どこの地方の出身であるかに ︵注−︶ ︵注2︶左右されずに統合することである︒﹂︒学校が基本的コンセンサスを伝達する任務を負っていたことと︑この統合機能
は対応している︒
フーバーによれば︑社会的な諸前提が変化したので︑こうした統合の機能は︑これまでよりも学校教育において長 ︵注3︶い期間行われうる︒﹁というのは︑文化を通してあらかじめ与えられた基本的コンセンサスが無くなる程度におい
て︑教育委託の中に含まれた統合機能は︑国に︑基本的コンセンサスの保護のための努力を高めることを義務づける ︵注4︶ことができるのであるから︒﹂︒これまでは︑文化を通して︑学校の外でも︑基本的コンセンサスが与えられていたけ
れども︑社会の変化に伴って︑そうした形での基本的コンセンサスの伝達に期待をかけることが困難になったので︑ ︵注5︶その分だけ︑従来よりも多くの負担を学校教育は負わなければならないというのであろう︒
︵注1︶ 勺9零呂゜ロロ●㊦5即注⑦庁巨伽q︒・碧昏躍§ユ国区09口晦゜︒日昌゜︒§巳o﹁ωo庁巳⑦ぎ時o臣o一臣oゴ①目く①目゜︒︒・已長゜・の§︷﹂W菖↑S虞
=Oヰ戸Q◎oりb吟◎◎昔
︵注2︶ 本章第一節参照︒
︵注3︶ 出言ずo﹁寸PPO°︑Q力゜9◎︒°
︵注4︶=巨︒﹃︑PPO°㊤9°︒°︵注5︶ 以上について︑<巴出屋ぴ05PPOこ㊤切ふ㏄ 統合機能に関するフーバーの議論は︑基本的コンセンサスに関する彼の議論
と平灰が合っている︒本章第一節参照︒
二 教育委託の機関的な形態づけ
フーバーは︑国が学校制度を形態づけなければならないことについて︑次のように述べる︒﹁﹃⁝すべての若い市民
に︑その能力に応じて︑今日の社会生活にふさわしい教育の可能性を﹄開くという教育委託の目標︹原文注三〇︺を
国は︑⁝﹃学校﹄という生活の実態の︵機関的な︶秩序を通して︑保証しなければならない︒この意味において︑基 ︵注1︶本法七条一項は︑学校制度を計画し︑また︑組織する︹原文注三一︺⁝国の権利を内容として含んでいる︒﹂︒つまり︑
国は︑教育のために学校という機関を設立しなければならず︑また︑学校教育の内容にも責任を負うというので︵注2︶ ︵注3︶ある︒フーバーによれば︑﹁この課題から︑国は︑原則的に︑解放されることは許されない︒﹂︒
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八ー一︶ 一七九
一八〇
︵注1︶ ㊥2隅ζ゜自已げΦさ国﹃N庁古巨頃留巳畔躍⊆邑国﹁恩⑦庁9σq︒︒日①㈱q︒冨げ画隅oりo庁巳o巨中⑦⁝庁巳法99<①日ωω§西゜・ω訂騨﹇wCO菖ド声Φ忠
出o啓﹂°︒ρ9°︒°原文注三〇は︑ロ<①エφ国トベま\べ声‖oo菖ピ巳べ゜︒ωOω゜をあげる︒原文注三一は︑bo<σ瓜○国ω古﹂昂\﹂°︒ト︒汁
nヒd菖ドお認二〇〇をあげる︒
︵注2︶ <讐口已ぴ05PPOこoり゜9◎︒
︵注3︶ =已ピ⑦﹁︑PPO°切9◎︒°本文にあげたフーバーの議論は︑第二節で取り上げた国の教育する能力を認める彼の議論を基盤 としていると思われる︒
三 立法者の役割
フーバーは︑学校教育に対する立法者の役割について次のように述べる︒﹁国の教育委託の形態づけは︑原則的に︑ ︵注1︶議会の責任の領域にある︒﹂︒そして︑基本法の法治国原理︑民主制原理に基づいて︑立法者は︑学校制度における本
質的な決定をみずから行わなければならず︑また︑それを学校行政に任せないことを義務づけられる︑という連邦憲 ︵注2︶法裁判所の判決をフーバーは引き合いに出す︒また︑学校の教育委託の形態づけにあたっては︑基本法七条一項だけ
ではなく︑両親の教育権︵基本法六条二項一文︶︑子供の発展権︵基本法二条一項︶のことが考えられるべきである
のはもちろん︑場合によっては︑基本法四条一項︑基本法五条一項︑あるいは︑基本法一二条一項の基本権も顧慮さ ︵注3︶れなければならないという︒﹁これらの憲法上の基本決定の間の境界は︑流動的であり︑また︑しばしば︑固定させ ︵注4︶るのは困難である︒そういう理由で︑それに記号をつけることは︑また︑立法者の責任である︒﹂︒つまり︑立法者が
憲法上の基本決定の具体的な調整をしなければならないというのが︑フーバーの考えなのである︒
︵注5︶連邦憲法裁判所は︑この問題の解決にあたって︑﹁本質性理論﹂の助けを借りた︒﹁それ︹本質性理論︺によれば︑
法律の授権の明確さの要求は︑学校法の規律が︑基本権的に保護された子供の人格の発展へ関連すればするほど︑大
きく麓・L・そして・了バーによれば・授業の内容に基づいて︑次のように区別されることが許される︒﹁⁝そこ
において︑知識の媒介が中心を占めるーたとえば︑自然科学の諸学科︑あるいは︑数学1ところの諸学科は︑−国語︹ド
イツ語︺︑歴史︑倫理︑それに︑外国語︑体育︑また︑名高く同時に悪名の高い性教育のような人格︑また︑価値に ︵注7︶より強く方向づけられた諸学科よりもわずかの範囲において︑議会の留保の要求の支配下にある︹原文注三八︺︒﹂︒
つまり︑知識の伝達を中心とする学科に対してよりも︑人格の形成に深く関わる学科に対しての方が︑議会の関わる
余地が大きいというのであろう︒このことと先ほどの本質性理論についてのフーバーの叙述とをあわせて考えると︑
子供の人格に深く関わる学科については︑議会が学校法の規律を定めるという形で関わらなければならないが︑その
規律は︑子供の人格に深く関わるものであるだけに︑比較的高度の明確さが要求される︑というのがフーバーの考え
であると思われる︒
︵注1︶ 勺卑隅ζ゜出已●oお卑恩①ゴ巨伽q︒︒①巳げロ晦巨且国鼠o巨目ぬ︒力日①⇔︒力富ぴ△隅o力o庁巳①︷日中m一ロ①巨合mo<6旨・力ψ力§㈹・・ω§﹇bd菖ド一㊤q︒︽
国⑦陣﹂OoQりひふoo°
︵注2︶ =已げo﹁P①゜○こ白り゜恕゜︒°<険ドウPωO°原文注三五では︑U︒<o巷国ω古一Φ朝中‖bd菖一﹂笥ω一〇〇⁝bo<o巷国冷︑﹄OO\ぱぺ⁝
ロ<o臥○団ドSま\﹃°︒‖oo菖一゜﹂Φ﹃°︒︑ωOω゜があげられている︒
︵注3︶ ︿巴雪﹄げ①ぴPPOこoり゜切﹄︒︒°
︵注4︶出暮Φおζbこo力ひ﹄°︒°
︵注5︶口巨︒5PPOこoり゜9︒︒°
︵注6>出昏⑦5費POこQ︒°9°︒°
︵注7︶ 国已ず①口PPOこψm﹄ρ 原文注三八では︑マウンツの注釈があげられている︒昌60ユo﹁呂芦日︑﹄巨゜S巨2﹁漣゜冒⁚
O巨ロユぬoωo冒昏ロ巨⑦旨§昌ooユo﹁者窪oミO自葺oこ︶庄ユ伽q︑o力口5ユ冶ΦN 筆者の参照したマウンツの基本法七条の注釈につい
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八−一︶ 一八一
一八二
て︑第二節2︵注1︶参照︒
3 教育委託の限界
一 国の教育委託と両親の教育権
フーバーによれば︑﹁⁝国の教育委託は︑他の憲法上の基本決定との︑特に︑両親の教育権︵基本法六条二項一
文︶︑また︑自分の人格の発展を求める子供の権利︵基本法二条一項︶との緊張関係に立っている︒国の教育委託の ︵注1︶定義上の形態づけにとっては︑かくして︑まず第一に︑この基本権的地位の重みが問題である︹原文注四〇︺︒﹂︒
︵注2︶ こうして︑国の教育委託と両親の教育権の関係がここでも問題になる︒フーバーによれば︑﹁これは︑学校の国の
教育委託は︑両親の教育権に対して下位ではなく︑また︑そういう理由で︑正当化を必要とするということによって︑
特徴づけられている︒むしろ︑両方の側の手元にある憲法上の基本決定は⁝お互いに原理的に同位である︑その結
果︑たとえば・両親の誓権もすでに憲法によって・その限界を基本法七条亘に見い欝・﹂・つまり・フーバ|
は︑国の教育委託と両親の教育権の同位性を認め︑そのことを議論の出発点とするのである︒
︵注1︶ 勺o穗﹃呂゜コ已げ05両﹃恩6巨目帽︒・①巨穿轟旨ユ国艮oゴ旨暢目①⇔ω富ぴ臼雲o◎合巳m巨中o芦o巨6庁05<①書ωの§傷の§rロ菖↑おΦ昏
国⑦窪゜︒㊤口芯゜原文注四〇では︑ロ<①巷国﹄べぱ\$‖co§ド﹂q⊃﹃°︒ωOω゜があげられている︒
︵注2︶ 国の教育と両親の教育との関係は︑本節2一②においても問題とされていた︒
︵注3︶ 工已ぴo門PPρ︑°Dひふρ フーバーは︑国と両親が同位であることは︑支配的な見解であるという︒原文注四一は︑判例と
して︑切くσ邑団ω企ま朝\﹂°︒ω‖切菖ピ﹂q⊃べω︑声OO⁚ロく而昧○国Oぷ鵠ω\NNO冨ω①の誤りと思われる1筆者注﹈‖切菖ド日゜︒⇔
ωωΦをあげる︒
また︑﹄日oqoロぎ算oり合巳o巨△日﹇⑦日芦ユ巽ぽn宮・力買06巨日西ユ⑦・カロ9ユΦ田6憂墾芦唄ωぬoユn宮ω芦⁝ウoω訂合法口碧ω﹂86巨日
句巨而お国隅雲︒・口而吟oゴoロく自司o痔芦ぬN①巨①お昌o昆自=①巨N︑口Φa∂豊o良P冶◎︒ふw㊤N田\NO朝・⁝昌o日器○暑Φ﹃蒙5PZ①合
≦o庁庁oロ冷⇔ゴ庄o庁6白○コ日ユω§o昌ω宣工●①o力O齢昌法o庁①o力6ゴ已罫⑦oりΦ昌已ロ巳合而oり甘口ξ ぴq臼①﹃き苦日oo㊦﹇o巨胃目Nロoa巨o昌⇔○⊆︹
8庁甘ロO芦﹁らoロ頓ドO窪房6#oロ甘駐穗ロ冨戸Φべ◎ひΦド もあげられている︒﹇ここでは︑O㊤Φなどの方が適切であるように
筆者には思われる︒﹈
二 国の教育委託の貫徹
両親の教育権と学校の教育委託が同位だという定式を立てたからといって︑具体の場合に︑衝突する憲法上の地位 ユ を衡量して解決を導くことができるわけではないことをフーバーも認める︒また︑彼は︑三領域理論を学校外の領域
においては両親の教育権の優位︑学校の基本決定の際には両親の﹁学校の全計画﹂の顧慮の義務︑また︑いわゆる学
校内の領域においては国の学校を形態づける力の優勢を推定するものとして紹介し︑この理論は︑単に︑大まかな方向 ︵注2︶づけとして理解されなければならず︑あらゆる事例において拘束力を持つ準線として理解されてはならない︑という︒
フーバーによれば︑両親の基本権上保護された権利︑または︑子供の基本権上保護された利益を引き合いに出し ︵注3︶て︑国の教育レジームからの解放を要求することは︑原則的にはできない︒こうして︑この限りで︑国の教育委託の ユ貫徹には︑両親の教育権に対する原理的な優位が与えられる︒もちろん︑国の教育委託は常に貫徹される訳ではな
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八ー一︶ 一八三
一八四
く︑両親や生徒の基本権上保護された利益の重要さに対して︑国の教育委託の侵害がわずかであるときには別である ら ことをフーバーも認める︒そうだとすると︑国の教育委託の限界は︑結局︑必ずしも一義的に画定できないものにな
ると思われる︒
7→は︑国の警委託の限界づけのひとつとして・基本法七条四項の私立学校の保証をあ難・フーバ|によ
れば︑基本法七条四項の私立学校の保証は1国の認可は留保されるがーすべての両親に︑私立学校を設立し︑また︑
自分の子供をそれで国の警レジームから広範に引き離す権利を保障籠・こうして・国の教墓託は・基本法七条
四項との関係において︑ある程度相対化されることになる︒
しかし︑議論はこれで終わらない︒﹁単に︑国民学校20民︒・°・oげ巳o︶︑あるいは︑基礎学校の領域において︑憲法
は公立学校の明らかな優位を承認する︑また︑それとともに︑国の教育委託の明らかな優位を承認する︵基本法七条
五項︶︒制憲者は︑その中に︑⁝基本的コンセンサス︑また︑それと結びついた憲法文化それ自体を実現するための ︵注8︶強制統合の不可欠の最小限を見たのだろう︒﹂︒つまり︑フーバーの議論によれば︑基本法七条五項の領域︑すなわ
ち︑私立の国民学校の設立に関して︑個人権的な私立学校の自由を一方的に強調することは認められないことに
あ なる︒フーバーによれば︑﹁国の教育委託の比較的広範囲な相対化が長期間におそらく基本的コンセンサスを脅かす
ように作用することは別として⁝憲法解釈上⁝基本法七条五項の枠内においても顧慮すべき基本法七条一項を十分に 計算に入れないことは︑異議が申し立てられなければならない︒﹂︒ここでは︑基本法七条一項と五項との関係が前面
に出ているが︑フーバーの実質的論拠は︑私立学校の自由の一方的な強調による国の教育委託の相対化が︑国による
︵注11︶基本的コンセンサスの伝達を脅かしうるという原理的な懸念であると思われる︒
︵注1︶ 勺卑2琴出已Oo□国艮各已編゜り芦日躍已且国区o巨高ω日昌ω訂ひユ臼︒力合巳oぎ埣⑦芦oま9⑦ロ<o臥昂ω旨ぴqω︒力訂巴一W3ン因ピおq⊃吟
国O口﹂o◎白力ひ吟Φ゜
︵注2︶ 匡已ひ①びPPOこ㊤9ρ コ一一領域理論﹂については︑フーバーは︑原文注四四で︑オッパーマンの論文を参照するよう指
示している︒昌o目昂○旨⑦目崔目︑白り⇔庁巳6§臣古⑦巨自皆庁⑦ぎψりずま§堕ヵ工客︹諺u一﹃出芦△ぴ已oゴエm︒力Qり富陪巽mo宮ω昔二﹈巨ユ窃−
希日窪犀一︶⑦巨゜りo匡き再出Φ蚕5鳴湾げg<8﹈oω瓜︼°力6昌・D⑦①巨巳霊巳穿庁庁9boP9声Φ︒︒ぷ吻目ω切゜
︵注3︶ 出已ぴo□PPO﹂㊤苦㊤゜フーバーは︑﹁性教育決定﹂を引き合いに出す︒原文注四七では︑bd<①邑国S︑畠\ミ‖U︒書一
声q∋べ◎︒︑ωOω゜があげられている︒
︵注4︶国巳︒おPPOこ6︒°忠q⊃°
︵注5︶出旨︒古PPO°oり゜9⑩゜
︵注6︶国き︒芦PPO°︑白り゜留O°
︵注7︶ 出⊆ひo□PPO°︑oり゜口口O°原文注五三参照︒
︵注8︶ =已ぴoさPPO°力ひ口ρ﹃新 解説 世界憲法集﹄ 初宿正典・辻村みよ子編 二〇〇六年 における基本法七条五項の翻
訳︵初宿正典翻訳︑同書 一五五−一五六頁︶を参照して︑言巨ω゜・合巳O﹂に﹁国民学校﹂という訳語をあてた︒なお︑﹃解
説 世界憲法集﹄ 第四版 樋口陽一・吉田善明編 二〇〇一年 における基本法七条五項の翻訳︵初宿正典翻訳︶も参照︒
こちらでは最初の﹁国民学校﹂の後に﹁︵<o完ωψ︒合巳o︶﹂と原語が補われている︒
︵注9︶國昌①さppO︑㊤9ρ
︵注10︶ =已ぴo芦PPOこ白り゜O口O°
︵注11︶ 本章第一節参照︒
第四節 学校の教育尺度
こうして︑フーバーによれば︑基本的コンセンサスは自由な立憲国のための文化的な基本条件として必要不可欠で
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八ー一︶ 一八五
一八六
︵注1︶あるのだが︑国は︑教育委託に基づいて︑そうした基本的コンセンサスを促進するべく︑学校制度を設立する︒
︵注2︶ このことを前提として︑彼は︑学校教育の具体的な内容︑目標︑尺度の問いを提起する︒﹁すなわち︑重要なのは︑
国に憲法を通して︑国がそれを教育制度の内容的な形態づけの尺度にしなければならないところのある特定の教育目
標があらかじめ与えられるかどうか︑または︑国は1立法者としてであろうと︑行政としてであろうとーある特定の ︵注3︶価値の目標づけられた媒介を促進することが許されるかどうか︑ということである︒﹂︒
︵注1︶ 勺o甘﹁匡゜自⊆ぴo﹃︑国﹃恩Φ庁§ぬ︒・①巨げ轟旨ユ国這o庁巨碩︒・日昌ω声げユΦ﹃oo合巳①戸日中6法o巨合⑦目くo日︒︒ω已目αqωω§︑dd竃ド﹂q⊃忠
=①窪゜︒Qり゜9ρ 基本的コンセンサスの伝達の必要性については︑本章第一節参照︒
︵注2︶ 出已ぴo﹁費POこむ力留⇔
︵注3︶ =已ぴ05PPOこ白り゜9ρ
1 教育委託と教育尺度の関連
︵注1︶ ︵注2︶ フーバーは︑相対峙する二つの見解を取り上げて議論する︒フーバーは︑まず︑レレッケの見解を紹介する︒フー
バーによれば︑レレッケの議論は︑教育する国家は︑あらゆる形の宣伝的な﹁宣教的な﹂仕事をやめなければならず︑
また︑単に︑争いの決定のために︑学校制度の組織化のために︑危険の防御のためだけ︑青少年に対して影響を及ぼ ︵注3︶して良いということを出発点とする︒フーバーによれば︑こうしたレレッケの見解に基づくと︑学校の課題は︑次の
ようになる︒すなわち︑社会の重要な諸問題︑また︑社会の重要な諸見解を伝達すること︑解説すること︑また︑論
評すること︑である︒そして︑場合によっては︑それらの諸見解を評価することをしても良いし︑また︑そうしなけ ︵注4︶ればならないが︑学校は︑それらの諸見解と同一化してはならない︒
︵注5︶ フーバーは︑レレッケの見解と対立する見解として︑へーベルレの議論を取り上げる︒フーバーによれば︑へーベ
ルレの議論は︑自由な民主制も︑ある特定の価値の中にだけ見いだすことができるところのひとつの﹁内的な事物に ︵注6︶即した支え﹂を必要とする︑という議論である︒フーバーによれば︑こうしたへーベルレの見解にしたがえば︑学校 ︵注7︶制度は︑組織として形態づけられるだけでは不十分であることになる︒
以上の二つの対立する見解を取りあげた上で︑フーバーは︑こう述べる︒﹁この背景の前で︑連邦憲法裁判所の裁
判は︑国は︑まったくもって︑学校において両親に左右されずに︑︿固有の教育目標﹀を追求する権利があるという
ことをはっきりさせた︹原文注六四︺︒これは︑授業目標︹原文注六五︺の︑養成の段階︹原文注六六︺の︑ならび
に︑授業内容の内容的な確定を含むのだから︑基本法七条一項から︑教育尺度の確定の権限も取り出されることがで
︵注8︶きる︒﹂︒連邦憲法裁判所によれば︑国は教育内容に関わることができ︑その根拠は基本法七条一項であるというので ︵注9︶ある︒つまり︑フーバーは︑最終的には︑連邦憲法裁判所の判決に依拠して国の権限を認めるのである︒
︵注1︶ 勺臼o﹁呂゜出已σ05国冠6ゴ已昌ぽq︒︒①辱凋巨画国艮o巨ロoQω日巴酬゜・冨げユo﹃留ず巳⑦巨時o芦忠臣ロゴΦロ<m爵︒︒︒・巨晦゜・︒・§戸ヒo菖↑おq︒命
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︵注2︶ 国巳︒05PPOこoり㊤韻宇朝望゜
︵注3︶ 出已げ而5PPO°︑白D印留O土ロド国已げoさPPO°︑司P窪︵原文注六一︶では︑○Φa智Φ巨60犀⑲せウ﹁恩o庁已昌σqω恩色6已ロ●ユo﹁﹀昏躍ユ氏
自由な立憲国における学校の教育委託と教育尺度︵四・完︶ ︵都法四十八ー一︶ 一入七 ●
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︒・ニロφωの§桿o禦=㊦﹃窪︒︒oqoぬ㊦OΦロ<o口O口oOoOoロゴ窪o﹃︑﹂Φq⊃ぷ留゜N閤﹄べρ︵NΦO零︶ があげられている︒レレッケの議論について
は︑本章第二節も参照︒
︵注4︶ 以上︑=匡●oさ①゜①゜○こoの⑰O声゜
︵注5︶国已ぴ①で竃゜Oこoりひロド
︵注6︶ =cげo□PPO°︑Qり⑰留舎=与而﹃P①゜O°︑ウロ゜ΦN︵原文注六二︶では︑勺⑦甘﹁匡浮oユP<σ昏ωω旨oq°︒Oユ日宣6目①尻卑蕊oゴ§ぬω獣匹P
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ている︒
︵注7︶ 出已げ05PPOこoりひロド
︵注8︶ 出已ぴΦ5PPOこoり゜切摯゜ ︿﹀の中は原文イタリック体︒
連邦憲法裁判所の裁判として︑原文注六四では︑bd<⑦昧○国禽︑ぱ\ご宍‖ロ豊一゜﹂Oぺ゜︒ωOω゜があげられている︒原文注
六五では︑uo<o臥σ団古べS\ベロがあげられている︒原文注六六では︑﹈貸ぬ窪昏巨︑◎りoゴ巳①旨ユ日︷①目一口画o﹁零⇔宮ω胃o合匡昌σq
ユoo力切匡ロ臣6ω<o爵oりo力已目ぬω㈹6ユO庁︷ψり日⁚ウ①o力訂n庁蔀出芦o力﹂o①6ゴ菅口句巴穗︹口o﹃①已のぬ⑦鳴①げ而昌くo目司O亮ふ已oqNo置庁5﹈ゴOO画o﹁﹈≦旬已ロぶ
Ooa図o呂而o牛P﹂q⊃°︒古oり゜NO戸\NOωがあげられている︒ なお︑フーバーの基本法七条一項についての考え方については︑本章第三節1参照︒
︵注9︶ フーバーはレレッケの議論に与しないということになる︒第二節2︵注6︶参照︒フーバーは︑へーベルレの議論から 大きな影響を受けつつ︑連邦憲法裁判所の判例を最終的な決め手にしているものと思われる︒
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