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梅田宏

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Academic year: 2021

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(1)

梅田宏

On Ode to Psyche

HIROSHI UMEDA

1819年春に制作された, John Keatsの, 5篇の有名なOdeのなかで, Ode to Psycheは, 一部の評家からは高い評価を受けていながら,広く,一般にはOde to a Nightingaleや, Ode on a Grecian Urnほどには,作品に対する好意的な批評が出揃っていないところの,考え てみると,一風変った詩であるThe Use of Poetry and the Use ofCriticismにおける, T.

S. Eliotの̀The Odes ‑ especially perhaps the Ode to Psyche ‑ are enough for his (Keats's) reputation.

と言う,例の有名な評言は,好意的批評の一例である(1)この評言は, Kenneth Allottの,す ぐれたmonographの引き金となったかにも考えられるが,もともと, Ode to Psycheの批 評を意図したものではなく, Eliotが, Keatsの書簡を称揚する途次において,言わば,副次 的な感想として語った片言隻語に過ぎず,意志の表白が十分に行われている訳ではない.いま のところ,本論で取りあつかおうとする詩に関しては,十分な内容を持ち,且つ,一般に良く 知られている批評はAllottの論文だけであると言っても良い. ̀ "To Psyche" is the Cinderella of Keats's great Odes,‑'と言う文章に始まる氏の論は,おおいに好意的な意 見であると言えると思う(2)

Allottの論が発表されて以来, 15年の歳月は, ̀Cinderella'の不遇を十分に埋め合わせるほ どの厚遇を,この詩に与えて来たかどうかは分からないが,もしも,われわれが,好意的な批 評と言うことに話を限定するのでなければ,かならずLも, monographの体裁であるとは限 らないが, Ode to Psycheに関する論は,無論,数多い. ̀No single interpretation of any

of the odes ‥ satisfies anyone except the interpreter.'と, Walter Jackson Bateが

言っているように,(3)元来, KeatsのOdeと言うのは,諸家の意見の相場の観がある.当然 のことながら,あらゆる意見が歓迎されねばならないが, Eliotらに対する一方の極には,

̀Critics have never felt at ease with the "Ode to Psyche"‥ and there remains the

problem of what exactly it is about.'と言った懐疑的であり,且つ,率直な意見もあり(1)

この詩が,ある程度,難解な詩であることを示している.

(2)

I

̀O Goddess!'と言う呼びかけで始まるOde to Psycheの全体, 67行の構成は,形態面から 見た場合,行数の不揃いな適を, 5個連ねた形をとっているが,詩想の発展の過程から考えれ ば,三つの段階に分かれることは, Stuart M. Sperryが指摘しているとおりである(5)その第

1段階は,最初の行から,第23行までで,全体の長さの,約与ほどに相当している.

O Goddess! hear these tuneless numbers, wrung By sweet enforcement and remembrance dear, And pardon that thy secrets should be sung

Even into thine own soft‑conched ear:

(1‑4)

第1行には,早くも,この詩の主題である,官能を軸とした,形而下の世界と詩的想像の世 界との鋭い対立がある.端的に言って,ここでは,それは, ̀hear these tunelessjiiimbers'

と言う表現に,現われていると言って良い.ここで,読者は, physicalな,聴覚的な感覚と, poetic imaginationによって得られる,聴覚的認識との,いずれかの選択を,否応なしに迫

られるのである.もちろん,読者が要求されているのは, physicalな世界を超絶した,詩的 想像の健界の肯定であるが,その前提としては,女神の神性に対する認識が,読者の側に,深

く存在しなければならない.冒頭における呼びかけが,だれに対して為されているかはtitle によって分かるのであるが, titleに謡われた女神は, Bateによれば, ̀personification of the mind, of human understanding'なのであり(6)そうであってみれば,作者が言うところの, 女神の̀soft‑conched ear'とは,まさに,形而下には絶対に存在することのない,女神の耳

だと言うことにわれわれは留意してみる必要がある.

̀tuneless numbers'を, 「聞こえる」ものだとする発想法はOde on a Grecian Urnにお いて,さらに彫球を加えられた形をとり,再度現われるものと本質的には同じであって,つぎ

のすぐれた詩句に見られる発想法へと,やがて,発展するのであるが,いずれの詩において も,それは,それぞれの詩が持つ,特殊な官能性の核心、をなしており,作品全体の詩的論理の 流れのなかで,ほかにはどうにも抜き差しのならぬ必然性の一堂を担っている.

Heard melodies are sweet, but those unheard Are sweeter; therefore, ye soft pipes, play on;

Not to the sensual ear, but, more endear'd, Pipe to the spirit ditties of no tone:

(Ode on a Grecian Urn, ll‑14)

(3)

さて,以上のことに,仮に気付くことなく,本論の詩を読み始めたとすれば, ̀tuneless numbers'と言う文句は,一見,極めて気まぐれな意味をしか持ち合わせていないように見 え,それは,ただ単に,われわれ近代の詩の読者が,おおかたは,その運命にあるように,文 字通り,詩のtunelessな鑑賞‑と,われわれを導くと言うことを,皮相的に意味するにとど まるかにも思われるのである.しかし,作者が非凡であるのは,この一句に,また別の働きを 与えている点にある.すなわち,この一句は,あとになって出て来る

No voice, no lute, no pipe, ‥.

等の羅列が逆説的に暗示するところの,古代の人たちの, Psyche以外の神神に対する̀antique vowsのかまびすしさ, ̀fond believing lyre'‑の一種のironicな雰囲気を醸し出してい る.そこには, ̀happy pieties'の真の意味を問おうとする作者の意志の表白が,ひそかにな されているとも言える.

このようにして語り出される,なにやら,秘密めかした打ち明け話の内容は, ̀remembrance dear'によるものであり,しかも,それを語ろうとする動機は,かならずLも作者の盗意によ るのではないが, ̀sweet enforcement'による,すなわち,いやしくも詩人たるからには,語

らずして終るにはあまりにも惜しい,個人的な経験を報告をしたい内心の衝迫を抑え難いゆえ であり,それを語ることは詩人としての冥利につきるが,一方,ある程度の苦吟を覚悟すると 言うのである.それほどの話とあれば,また,それが,女神自身にとっても耳よりな話とあれ ば,たとい̀tuneless'であっても,読者は耳をそばだてずには居れない訳である.しかし, それは,あくまでも̀tuneless'なのであるから,読者の方では辛棒しても,作者の詩の行を 最後まで,くまなく辿らねばならない.そうしなければ, ̀dittiesofnotone'は,読む者 の̀spirit'には達し得ないかも知れないのである.

Ode to a Nightingaleにおいて,読者を̀Nightingale'の世界‑と導くために,作者は,普 痛や,麻醇の感覚,さらには, BacchusやMuseの力をも借りようとする,洗練された,し かし,なかなかに手の込んだ手続きを必要としたのであった.この作品の場合

Already with thee!

と言う, ̀Nightingale'との一体感の宣言までに, 34行を賛した作者であるが, Psycheの姫に 読者を引き合わせるためにも,かなり綿密な考えをめぐらしたようである.ただ,それは, Ode to a Nightingaleにおけるほどexplicitではない.用心深く隠されている論理の力を借 りて,作者は,なんら蹟蹄の色なく, ̀Psyche'の世界を展開して行く.

Surely I dreamt to‑day, or did I see The winged Psyche with awaken'd eyes?

(5‑6)

(4)

作者は, Psycheを夢に見たと言っているのでもなく,現実に見たと言っているのでもな く,どちらともきめかねているのでもない.また,故意にその点を暖味にしているのでもな い.ひたすら,詩的空想のありのままを報告しているのである.森の中で,神話に登場する神 神の姿を目撃したと言う作者の証言は,ちょうど, Ode to a Nightingaleにおいて, ̀Night‑

ngale'との合体の経験が,夢でもなく,現でもなく,詩的な空想として語られているのと軌を 一にしているOde to a Grecian Urnにおいては,詩的想像力によって現出せしめられた超 絶的な世界と,日常的次元の人間の世界との間には,詩の展開の過程において,次元の転換を 読者に意識せしめるような,画然たる一線が存在するOde to Psycheにおいては,その境 界線は, ̀Grecian Urn'の詩ほど画然とせず,しかも,次元の転換は,比較的遅く,第3連 と,それから,第5達の始めに起るようである.第2連の終りまでは,ちょうどOdetoa Nightingaleの第6達までがそうであるように,日常的な事実の描写と,単なる詩的空想とが 交鎗し合っている.読者は,しばらくは,現実と単なる夢とが入り混った世界で,時間を過ど さねばならない.詩人は,ぼんやりと,昼間,森の中を歩いていて,突然,思いもかけず,な にやら美しい2匹の生き物が,軍の深くおい茂ったあたりに,並んで横たわっているのを目撃 することになる.

I wander'd in a forest thoughtlessly,

And, on the sudden, fainting with surprise, Saw two fair creatures, couched side by side

In deepest grass, beneath the whisp'nng roof Of leaves and trembled blossoms, where there ran

A brooklet, scarce espied:

'Mid hush'd cooトrooted flowers, fragrant‑eyed, Blue, silver‑white, and budded Tyrian, They lay calm‑breathing on the bedded grass;

(7‑15)

Apuleiusによれば, Psycheが,この世で最も卑しむべき相手と妻せられる運命を逃れて,

西風に運ばれ,降り立った谷間を流れる川添いに,辿りついたCupidとの新床は,目もくら

むばかりに壮麗な宮殿のなかに,多くの姿を見せぬ召使いたちにかしづかれてPsycheを待っ

ていた.しかも,夫との逢瀬は,夜間のうちに限られ, Cupidは,おのれの姿を花嫁の目の前

に現わすことをしなかったのであるから, Apuleiusが,両者の恋愛風景を描く場合には,あ

まり視覚的だとは言えないのである. Keatsの場合,この両者の描き方は,極めて絵画的であ

って,視覚的なとらえ方をしている.また, Keatsの場合における両者の情景は,

(5)

O Goddess!

と言う呼びかけから推測されるように,神神の世界で,両者の仲が,言わば「公認」されたあ とのものであるらしい.一方, Apuleiusの場合には,両者の恋愛風景の描写と言うのは,例 Lの宮殿の中の情景以外にはないと言ってよい.要約すれば, KeatsのOde to Psycheにおけ る情景は,場所と,昼夜の区別と,物語の前後関係との3点において, Apuleiusの場合と異 っていることになる.このような異同には,なにかの寓意があるものと考えるよりは,単なる 趣味の違いと考えた方が,よさそうである.ただし,そのような異同が,単なる詩想の展開 に,なんらかの形で関与することはあるかも知れない.

Keatsは, 「1817年詩集」の巻頭をかざっている長詩のなかで,月の光に照らされた̀the fair paradise of Nature's light'を感嘆し,暗にThe Golden Assの作者もこれに同感だっ たと言う意味のことを,つぎのように書いている.

So felt he, who first told, how Psyche went On the smooth wind to realms of wonderment;

What Psyche felt, and Love, when their full lips

First touch'd what amorous, and fondling nips They gave each other's cheeks; with all their sighs, And how they kist each other's tremulous eyes:

The silver lamp,‑the ravishment,‑the wonder‑

The darkness,‑loneliness,‑‑the fearful thunder;

Their woes gone by, and both to heaven up flown, To bow for gratitude before Jove's throne.

('I stood tip‑toe...',141‑150)

西風に対する言及があることなどから,この恋愛風景が,夫婦の仲違い以前のものであること を理解することは容易である.まだ̀The Vale of souトmaking'を経ていない両者の,この ような情景に,なにかの寓意を見ることは困難である.長詩Endymionの解釈をめぐって, 作者の描く,このような風景の中には,見境なく, allegoricalな意味合いをさがLもとめるこ とに血眼になる癖のついた読者は, Ode to Psycheのなかの恋愛風景にも,なにかの意味づけ をしようと懸命になるのだが,そのような読者は, ̀I stoodtip‑toe‥.'のなかの,なんの他愛 もない,このような情景にさえも, Allegoryの幻影を見るであろうKeatsが,本質的に, 官能を重んずる詩人であると言う評価は,いつの時代にも変ることはなかった.ここに引用し

た作品は,かれが,詩人として,さまざまな思想的遍歴を経験する以前のものであるだけに,

なおさら,その点が明白である.若君しい男神と,中年女のVenusを嫉妬に逆上させたほど

(6)

の,みずみずしい美しさに輝く王女との姿を描く,若いKeatsの関心は,その愛のしぐさに 注がれている.引用された詩句には,その前後の構成を見ても,寓意のはいり込む余地はな い.この点はOde to Psycheにおいても同様で,作者の関心は,男女の神神の姿態の官能性 の描写に向けられている.しかし,この場合には,単に空間的な描写に加えて,時間的な奥行 きが与えられ,筆力の自由さの増大が感じられる.

Their arms embraced, and their pinions too;

Their lips touch'd not, but had not bade adieu, As if disjoined by soft‑handed slumber,

And ready still past kisses to outnumber At tender eye‑dawn of aurorean love:

(16‑20)

Ode on a Grecian Urnにおいては, ̀Grecian Urn'のmagic spellの続く限り,その側 面を彩る,浮き彫りの̀もののかたち'は,人界を支配する自然の法則を超えて永遠であった.

Ode to Psycheにおいては, Psycheの姿は, Cupidとともに, ̀soft‑handed slumber'の magic spellの続く限り,その愛の姿勢を失うことはないであろう.しかしながら,かれら は,いかに̀the realm of Flora, and old Pan'の牧歌的風景のなかとは言え,白昼,しか も,羽根をはやした異形のよそおいで現われたことで,作者をさえ,いたく驚かした.あのギ リシャの‑王国の王女であったはずのPsycheの背中に,羽根がはえていることが作者の注目 を引き, Apuleiusの物語のなかでPsycheがOlympusの神神のなかに加えられたと言う故 事が真実であったことを,作者は,眼のあたりに思い知らされるのである.筆者の論は,二柱 の神神の姿に, Apuleius以来,潜在的に存在する,伝統的な寓意を否定するものではもちろ んないがKeatsによって,この恋愛風景に関する独自な寓意が,新たに与えられているとは 筆者は考えないのである.新たなものは,むしろ,白昼の,この異形の発見のなかにあり,そ れは,古代と,近代との,出会いを意味するのである.

The winged boy I knew;

But who wast thou, O happy, happy dove?

His Psyche true!

(21‑23)

II

都会の雑踏を逃れて来てみれば神秘の影がさすこともあろう森のなかとは言え,自然の親し

(7)

い観察者である作者にとってみれば,ほとんど日常的とも言える歩行の行く手を遮って姿を現 わした古代の神神を,どのように作者は処置したらよウ、のであろうか.処置と言う言葉は,い

ささか,神神に対して使うのには,神威を恐れぬひびきがあるかも知れないがFloraが微笑 みPanが横行したであろう自然のただなかにおいても,千歳を経たいま,こうも揃って姿を 現わされたのでは,作者ならずとも,狼狽せざるを得ないではないか.他に目撃者がなかった

ことは幸いであったが,早急に,適切な場所‑,移し申し上げねばなるまい,と作者は思うの である.作者の脳裡には,古代の神神の祭妃の様子が描かれ,検討がなされる.しかし,この 女神の若さと美しさ,特に,その誕生と,その神性とを思うとき,すでに形骸化した祭把のし きたりを踏襲することは,なんの意味もないと作者は思うのである.この疑問に対する急を要 する結論は,女神の美徳と神性に対する賛美の体裁をとり,あたかも,火炎を拝する異教徒の 夜祭りを妨椀とさせるような祈構文風の文体に託されて,性急に歌いあげられる.

O latest born and loveliest vision far Of all Olympus'faded hierarchy!

Fairer than Phoebe's sapphire‑region'd star, Or Vesper, amorous glow‑worm of the sky;

Fairer than these, though temple thou hast none, Nor altar heap'd with flowers;

Nor virgin‑choir to* make delicious moan Upon the midnight hours;

No voice, no lute, no pipe, no incense sweet From chain‑swung censer teeming;

No shrine, no grove, no oracle, no heat Of pale‑mouth'd prophet dreaming.

(24‑35)

Psycheは̀latest born'であったがゆえに, Olympusの神神のなかでは,もっとも年が若

い.ほかの神神は,清酒たる時の流れに洗われて,遠く,色あせてしまった.いまでは,神神

の名残りとてこの世にはないが,おそらくは,日暮れて,天空に輝く月と金星とは,その昔,天

界に美を競った女神たちの執念の化身でもあろうか.しかしながら,その月と星にも, Psyche

の美は,ひときわ,まきるのである.古代の神神は祭把の演出のために,事事しい舞台装置や

道具立てを人間に奉られ,そのことに満足であったが, Psycheがそのような奉献を受けるい

とまもなく,古代の信仰は衰えたのであった.おかげで,遅ればせに神格を授かったとは言

え, Psycheには,神威を一段と高めるための神殿もなく,大人の信仰をより多く集めるため

の祭壇もない.神としての座所が定まらなければ,神の美徳をたたえる頒歌隊は, Psycheの

(8)

まわりに集おうにもそのすべがない.祭把をとり行なう場所が決まらないとなれば,女神の耳 をたのしませる竪琴も,笛も,また,嘆覚を通って女神のみこころを安んぜんがための,さげ 香炉から立ちのぼる豊かな香の香りも,その道具立てを進んで行なう有志者が,行く先にとま どう.神殿のまわりに,神容をゆかしく包みかくす木木などは,まして育ちようがないのであ る.神託を取り次ぐ場所もなく,また,予言者も傍に居なければ,神意は宙に迷う以外にな い. ‑このようなことは,普通,神としての繁栄には,大きな不利と言うものの,それによ って女神の威光は,いささかも減殺されることなく,たとえばDianaやVenusと競って も,一歩もひけをとるどころか,遥かにこれをしのいだのであった.

第3連と第4連とが,この詩の論理発展の第2段階にあたるものと思われる.この二つの連 の関係の緊密さは,一見して明らかである.第3連に始まる作者の筆のはこびは,天衣無縫の 度を加え,想像力の働きは,ますます旺盛となり,詩的論理の展開は,読者の予想を遥かに 超える. ‑いまここで,写真術にたとえを借りるとすれば,第3連と第4連との関係は, negativeとpositiveとの関係にある,と言える.陰画のなかに伏せられた映像は,陽画とな

ってあらわになって始めて,そこに写された対象が,見る人の目に明らかになるのである.第 3達に,一時,像を結ぶ,女神に対する賛美の言葉も,実は,作者が真に言おうとするところ ではない.女神の美も,それは,単に,形而下的官能に訴えて来る視覚的なものに過ぎず,あ くまで,女神の外面的な‑属性に過ぎない.第3連で述べられていることは,作者が真に言お うとしていることの陰画の段階である.ここを読む段階では,真に作者の意図を汲みとること はできない.しかし,この連は,決して不要なものではない.陰画かあって始めて,写真家が 表現しようと意図したものが,陽画として現われるように,もしも,第3連の論理を欠いた場 合には,第4連に見られる予想外の論理は,まったく読者には伝わりようがない.

O brightest! though too late for antique vows, Too, too late for the fond believing lyre, When holy were the haunted forest boughs,

Holy the air, the water, and the fire;

Yet even in these days so far retir'd From happy pieties, thy lucent fans, Fluttering among the faint Olympians, I see, and sing, by my own eyes inspir'd.

So let me be thy choir, and make a moan Uf氾n the midnight hours;

Thy voice, thy lute, thy pipe, thy incense sweet From swinged censer teeming;

Thy shrine, thy grove, thy oracle, thy heat

(9)

Of pale‑mouth'd prophet dreaming.

(36‑49)

Psycheが神として誕生したとき,いわゆるthe four elementsや,森の木木のなかに神 格を兄いだしたところの, ̀愚かしくも信じやすい'大人が爪ぴぃた竪琴の古代は遠ざかりつつ あった.仮に,彼女の誕生が̀antique vows'に間に合っていたとしても,その精神性のゆえ にこそ光り輝くPsycheの神性は, ̀happy pieties'にこそ生きがいを感じた大人には,おの ずから,受け入れられにくいものであったであろう.思えば, ̀latestborn'であったことは, 彼女にとって幸運であった.近代の強烈な光を真向から浴びせられて,古代の神神が気息奄奄 としているいまの時代こそ, Psycheが羽ばたくのにふさわしいときなのである.近代におけ る,新らしい詩の創造と言う精神活動に従事している作者には,そのようなPsycheの元気な 姿が,手に取るように見える.

もはや,遥かな過去のものとなった古代の信仰の事事しい祭把の有様を,いまさらに繰り返 すことがこの女神を祭るのにもっともふさわしい方法ではない.静諾極まりないPsycheの世 界に,鼓膜をくすぐる楽の音や,粘膜にしみ入る香の煙がなんの意味があろうか.詩人である

ことこそ彼女の祭司たるには最適の資格であるように作者は思う.みずから条妃を司るからに は,詩人たるに恥じない方途が講じられなければならない.それは形而下に展開するようなも のであってはならない.一方,彼女の神性を思うとき,この役目を見て見ぬふりを装うこと は,詩人としての資格をみずから放棄することとほぼ同然の,感心できない態度と言わざるを 得ないのである.考えてみれば,愛の経歴と,美しさに対する称賛と,背に生えた異形の翼

と,独特の神性そのものとは別に,ありふれた神らしい神の,大仰で,あまり品が良いとも言 えない,あまたの所属物や,よそおいが,わずらわしく彼女の身辺をとり囲み,その神体にこ びりついて,古びた員のからのように,彼女の耳殻をさえ硬直させると言う困った状態に至ら なかったことこそ,神としての有利と言うべきであった.かえって,彼女は,彼女の神性に似 つかわしい風の祭把を得たことになるのである.すなわち,作者は,祭司としてみずからを推 挙するとともに,いくつかの約束ごとを女神に示すのである.その約束どとは,つぎの段階 で,読者に明らかにされるであろう.

III

Yes, I will be thy priest, and build a fane In some untrodden region of my mind,

Where branched thoughts, new grown with pleasant pain,

Instead of pines shall murmur in the wind:

Far, far around shall those dark‑cluster'd trees

(10)

Fledge the wild‑ridged mountains steep by steep:

And there by zephyrs, streams, and birds, and bees, The moss‑lain Dryads shall be lull'd to sleep;

And in the midst of this wide quietness A rosy sanctuary will I dress

With the wreath'd trellis of a working brain, With buds, and bells, and stars without a name, With all the gardener Fancy e'er could feign,

Who breeding flowers, will never breed the same:

(50‑63)

愛の経歴を帯び,美の属性を有し, 「人間の精神」と言う,一風変った神性に輝く女神が, 時間の流れを超越して生きていたことを知って,詩人は気負い込む.詩人の詩的想像と,詩的 論理とを通して詩人に現われたこの女神の座所として,もっともふさわしいのは,詩人自身の 心の奥である.新たに近代に崇拝者を得たばかりの女神の神域は,前人未踏の精神の領域にな ければならない.そこには, Apuleiusの物語で,末だ人間であった頃のPsycheが,山中に 孤独であったとき,彼女の周囲で西風に松雀をひびかせた松の木木のかわりに,たくましい

̀思想の木木'が,思う存分に枝を張ってそびえ,風にざわめいて,一斉に合唱する.これら の木木は,詩的想像力を肥Lにして, 「精神」の土壌のなかから,特に女神のために,とりあ えず伸びあがって来た若木であるが,その周囲の「精神」の領域には,すでに長い時を経た, うっそうたる森林におおわれた山山が,十重二十重にPsycheの神域をとりまいて,見わた すかぎり続いているのである. Apuleiusの物語では,あるときは彼女をPsycheのもと‑逮 ぶ役割をし,あるときは彼女のもと‑,彼女のよこしまな姉たちを運んで,彼女の難儀のきっ

かけを作るのに一役買った西風も,いまでは,ただ,平和な谷間を作る役目を果たすだけであ る.

しかし,それはなんと想像を絶する世界であることか.作品を生み出してい冨く苦労は,

̀pleasant pam'と言う文句で表現されているが,詩的想像力の産物である木木の合唱は,形 而下におけるように,物理的な音を伝えてくるのではない.見わたすかぎりの̀思想の木木' の枝鳴りも,同様に,肉体的な一器官としての耳には伝わって来ないのである.そこには,た だ,静譜な,形而上の世界の心象風景があるばかりである.そこでは,西風も無音に過ぎて行 く.小川の流れの音も耳には聞こえない.烏はさえずっているけれども,言わば, 「声なき声」

でさえずるのであり,夢のようにかすかな蜂の羽音も,物理的な音であるかぎりは,この世界 に忍び込むことを許されないのである.この無音の音は,さしもに活動的な木木の精をも眠り

‑と誘う.こうして完全に静まりかえったPsycheの神域には,豊かな番の煙を立ちのぼらせ

るさげ香炉のかわりに,ばらを這わせた四日垣が,玉垣として女神の聖域をかざるのである.

(11)

そのばらの襲郁たる香りは, ̀思想の木木'の枝鳴りと同様に,形而下のものではなく,詩的想 像力のなんたるかを理解する人によってのみ,はじめて現実に知覚することが可能なのであ

る.このようなばらの栽培が,ありきたりの庭師には手に余る仕事だと言うことは,四日垣の 材料が̀working brain'だと言うことからも察せられ, ̀Fancy'と言う,形而下の世界には 姿を見せることの決してない庭師にしてはじめて可能な業なのである.詩的想像の世界に咲き 乱れるばらは,まだ菅あり,釣鐘状のものあり,星の形をしたものもあると言うわけで,その 種類は,さすがにこの世のものならぬ不思議な庭師の手になるものだけにさまざまで,名前の つけようもないが,その香りは,たしかにわれわれの詩的想像に訴えて来るのである.このた

° ° °

しかさこそ, Ode on a Grecian Urnの第3連において, ̀幸せなる恋'が,人間のはかない情 熱とは異なり,永遠に熱烈で,真剣であり得る秘密である.

More happy love! more happy, happy love!

For ever warm and still to be enjoy'd, For ever panting, and for ever young;

All breathing human passion far above,

That leaves a heart high‑sorrowful and cloy'd A burning forehead, and a parching tongue.

{Ode on a Grecian Urn, 25‑30)

形而下の性界の情熱を,ではなく,詩的想像力の他界に生まれる情熱を̀warmなものと感じ とる詩精神は,事事しい古代の条妃の演出に欠かすことができなかった快い音曲や,官能をく すぐる甘美な香の香りよりも,さらに快い音曲を,さらに甘美な香の香りを志向するのであ

る.

夜が訪れるとき, Psycheの神域は完成する.

And there shall be for thee all soft delight That shadowy thought can win,

A bright torch, and a casement ope at night, To let the warm Love in!

(64‑67)

夜こそ,しみじみとした思いが,若い胸に,恋のあこがれの灯をともす時間である.あの運命

の山のいただきにPsycheを見送った数多くの,しかし,煤煙をふき出し,陰気にもえた松明

のかわりに,一本の明かるい松明が用意される. ‑幸せなPsycheが,その神性にいかにも

ふさわしく,真に情熱的で,たしかな愛を迎え入れることができるように.

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{1) T. S. Eliot, The Use of Poetry and the Use of Criticism (London: Faber, 1933), p. 100.

{2) Kenneth Muir, ed., John Keats: Reassessment (Liverpool U. P., 1969), p. 75 {3) Walter Jackson Bate, John Keats (Harvard U. P., 1964), p. 486.

(4) Ian Jack, Keats and the Mirror of Art (Oxford U. P., 1967), p. 201.

(5) Stuart M. Sperry, Keats the Poet (Princeton U. P., 1973), p. 249.

¥Q) Bate, op. cit., p. 492.

(昭和49年9月26日受理)

参照

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