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シュトルムの短編小説「ハリヒ行」について*
田 中 宏 幸
「ハリヒ行」EineHalligfahrtはシュトルム54歳の1871年に発表された,いわゆる「叙 情的短編小説」lyrischeNovelleであるが,このすぐ後に書かれた「荒野の村にて」Drau‑
ssenimHeidedorfが新しい作風を示すものとして注目されるのにひきかえ,話題になる ことは少ない。また,この作品が取り上げられる場合,その評価は,芳しいものではない。
つまり断片的構成とか,一貫性の無い不透明な内容や筋,過度の感傷性などが指摘され,
当時のシュトルムの創作活動の潜在的危機までが話題になっている。(')確かに,この作品の 構成・プロットは明確ではない。二つの定かではない愛の物語が,北海とハリヒ島の自然 を背景に,政治・社会批判を折り混ぜて,感性豊かなヴァイオリン演奏に結びつけられ,
人生の無常感をグルントトーンとする哀調を帯びた追憶の叙情的メロディのうちに漠然と した印象を残す趣の作品である。一つの愛の物語では,その女性の姿も定かではない。と はいえ,このメランコリックな叙情性と無常感はまたシュトルム文学の基調であることも 確かで,この点では魅力的な作品ともいえる。(2)さらにこの作品の素材の多くは詩人自身の 体験に基づくものとされているが,確かに当時のシュトルムの心をとらえていたもの力ざこ こに込められている。従って,ここにシュトルムとその文学に至る幾つかの貴重な手掛か りも潜んでいるのである。この意味でも興味深い作品といえよう。以下,先ずこの余り話 題に上らず,またよくは評価されていない作品の構成と内容の特色をやや詳細に紹介し,
さらにその成立の背景と経緯,つまりこのような作品がいかにして書かれるに至ったのか,
そして,それはシュトルム文学の発展上どのような位置を占めることになるのかについて 考えてみたい。
1 作 品 の 概 要
この短編小説には邦訳もなく余り知られていないので,先ずその大要をスケッチ風に紹 介する。以下便宜的に示すナンバー区分はもち論原文にはない。
*ZuTheodorStormsNovelle,,EineHalligfahrt@l.
Kontakt:Porf.HiroyukiTanaka,SeminarfiirGermanistik,UniversitatKanazawa Marunouchil‑1,920KANAZAWA,Japan
l)以下4(86ページ)参照。StuckertLebenu.Welt94,303f.;StuckertDichter23,106;Martini647 2)以下81,83,87,89ページを参照。BerndVerggnglichkeit;BerndStorm;LaageErinnerung,S.32ff
I(KIII,172;GII,293)(3)
1故郷の海岸にかつては大きな樫の森があったが,ずっと昔に姿を消してしまった。
II(Km,172〜177:GII,293〜298)
2久しぶりに故郷に帰った「私」は海岸の堤防の上で朝の散歩を楽しんでいる。
3 干 拓 地 の 風 景 。
4「突然軽やかに足音もなく思い出が隣を歩いていた。彼女はずっと遙かな過去からやってきた。」スザ ンネの姿,くっきりとした顔立ち,彼方を指す小さな手。
5あの時も並んで海岸を歩いていた。眩い光とひばりの歌声の中を黙って歩いていた。
6傍らにはスザンネの母である堂々とした顧問官夫人も歩いていた。
7−行は「平安号」に乗込み船旅が始まる。すぐ近くの大きな島を後にしたころ,かもめが水中をうかがっ
ている。8水夫が「ルングホルトだ」と叫ぶ。
9顧問官夫人には海面しか見えない。「私」はセネカの言葉によれば安全な場所である「過去」を見なく てはいけないと答える。
10それは「血色のいい異教」の「青白い……キリスト教」への反抗のため神の怒りにふれ水底に沈んだ町 である。
11ルングホルトの鐘の音とスザンネの関心。
12やがてハリヒ島が彼方に小さな点として現われ,次第に広がっていく。島を取巻く白い無数の鳥。昼の 明るい空に対して開いた翼は透明な大理石のよう。メルヘンのような情景。
13ふと友人が伝えた夜の魅力的な音楽のことが思い起される。
III(KIII,177〜184;GII,298〜305)
14しかし,それは魔法の島ではな<,500年くらい前に高潮によって形成されたハリヒと呼ばれる小さな 北フリースランドの島である。島に到着。
15白い鳥はセグロカモメlarusargentatus
l6木もない島の中央の土手の上に藁葺の大きなハリヒの家。
17数年来老主人公は「国家という機械の歯車が余り幅をきかせてきたので」ここに隠棲している。
18彼はヴァイオリンの名手であったが,もう引退している。ただし,その後例外的に一度だけ演奏したら しい。夜の音楽(13)は彼によるもの
19ハリヒの家に到着。「自由の小国へようこそ」と歓迎してくれる。
20居間の様子。蔵書,地図,貝殻蒐集。銅版画。ヴィーナスとベートーベンの像。
21老人の友である雀。ヴイーナスと雀に関してギリシア神話に言及。お茶をすすめられる。
22窓からの眺望。漂流物の話。
23「私の習性に従って」蔵書を拝見。「ヘスペルス」(ジャン・パウル)を取出す。その最初のページを開くと スザンネの「小さな手」がそっとおかれた。「エンマ」という名の下に十字架が書込まれていたのである。
24この人を知っていたのかというスザンネの問い対し,老人はこれも漂流物だと答える。しかし「彼女は 愛し,悩み,死んだのだ」とコメント。老人は丁寧にもとのところにこの本を収める。
25ふとヴァイオリン・ケースが目に入り,演奏を頼むが強く断られる。
26この老主人公がにぎやかな社交的な世界を捨てて,このような寂しい孤島に隠棲していることに対す
る顧問官夫人の疑問。
27老主人公の政治・社会への不満と批判。11月の夜の嵐と荒れ狂う波,しかし「偏狭な権威ぴいきの連中
の中にいるより」爽快だと。
28なおしばらく政治家の非難。しかし老人は顧問官夫人の夫のような「魅力的な」例外もあると慰める。
29勇敢な少女マルチエ・フロールの逸話。故事により「マルチエ.フロールス」は此の地方では乾杯の辞
となっている。
IV(KIII,184〜193;GII,305〜314)
3)略号は文献表参照。ローマ数字は巻数。アラビア数字はページ数。
シュトルムの短編小説「ハリヒ行」について
773Oお茶の後一行は近くを散策。予期しない窪地の中の庭園。豊富な樹木。小さな淡水の池とポンプ。顧問 官夫人はポンプに関心を示す。
31この間に「私」とスザンネは心地よい庭のなかで「夏の静けさのなか,息づく自然のなかで若い男女が 陥りやすい夢うつつの状態になった。」黙っていたが語り合っているような気がした。コーヒーに呼ばれ て我にかえる。
32「私」は一人そっと抜出しハリヒの家の見学。作業小屋,薄暗い厩舎。
33納屋のなかに新しい船を見付け乗込み,なぜ先程ヴァイオリン演奏を断られたのか考える。
34風の鳴る音に11月の嵐の「大海の音楽演奏」と「巨大なオルガンのストップ」を想像。
35スザンネがやって来る。船に乗るようにすすめるが,暗いからといって乗らない。ふと「宝石のような 青い」目の光にひかれる。
36彼女の提案で二人は海岸へ向う。溝を跳びこえるスザンネの身の軽やかさ。
37海岸の風景。波の音,かもめの翼の白さと空の青さのコントラスト,小さな黒い烏の鳴き声。
38スザンネは海岸の鳥の巣に夢中。
39「私」はぼんやり岸辺に座り波の音とそよ風のなかで夢想。
40スザンネはその間に姿を消す。
4l彼女は彼方で鳥の巣にかがみ込み手にした卵に耳を当てている。親鳥が怒ってはばたいている。この
「荒々しくまた優雅な」光景に「私」はひかれる。
42鳥が彼女に襲いかかろうとする。スザンネは驚いて卵を投捨て,「飛ぶように」駆寄り私にすがりつい
た。43一瞬,愛が燃立つ瞬間を歌った,或る詩人(ラインホルト)の詩が浮かぶ。
44しかし「私」は当時の生活状況を考えて思い留まる。
45これはスザンネには意外だったらしい。
46「私」は,あれは鳥に襲われたせいだったのだねと不器用に取繕う。
47しかし二人は帰路一度は手を取合って溝を跳びこえたのであった。
48帰ってみると望遠鏡で,この光景を見ていた老主人公たちは二人は愛しているのだと誤解する。「なぜ
昔の愛の歌をさっき聞きたがったか今分かったよ」と老人は言う。「私」は弁解する。老主人公は「私は 情況がよく分かっていない」と言う。
49スザンネも母親に呼ばれたが,どんな風に説明したのかは分がらない。
5Oやがて別れの時がきた。
51帰路の船旅の記述。我々は黙って暗い海を見つめていた。何を見ていたのか。スザンネはあの烏のこと を考えていたのだろうか。それとも…
52「私」は航海の安全を守るという妖精が乗り合せていたかどうかは知らない。しかし,二人の守護神が
乗り合せていたような気がした。時々私に向けられたまなざしは快い謎であったが。
53町に帰着。
V(KIII,193;GII,314)
54バラのように薫り,輝く日がある。実もならないが,失望ももたらさない。ハリヒ島での一日はスザン ネの若々しい甘美な姿を中心に「ルングホルトのように過去という安全な国に大切に収められている。」
VI(KIII,194〜195;GII,314〜315) 55数年後にハリヒ島の主人公を再訪。
56老主人公の死。
57老主人公から贈られた遺産。蔵書,手書き原稿類,クレモナ製ヴァイオリン。原稿類のなかに隠棲の別 の原因となったと思われる事情を記した「手記」を発見。
58老主人公の町の旧居。ここで「私」はこの手記を読んでいる。
WI(KIII,195〜196;GII,315〜317)
59窓からの秋の日没の光景。「すべてが別れを告げている。…はるか彼方の空に…なお輝く雲が広がって
いる。それはまだ見えた地平線の彼方の地の上方に浮かんでいる。しかし彼方の黄金の光も間もなく消え
るだろう。」
60部屋をふりかえるとヴァイオリン・ケースに夕日のかげ。ヴァイオリン入手の経緯。
61ケースに記されていたイタリア語の詩行。ドイツ語に訳してみると自分がいつか作ったように思われ
た。
62かつての自らの演奏の回想。
63引退して久しいが,求められて再び演奏するためらいと勇気。「自らを超え,他の人々をも感動させる ための電光のようなものが我々の神経を巡って流れるのは人生の或る節目までのこと」と考えて引退し
ていた。
VI(KHI,196〜199;GII,317〜319) 64エヴェリーネとコンサート会場の情景。
65アードルフのベートーベンのピアノ・ソナタの巧みな演奏と聴衆の感動。
66合唱の演奏。「アイヒェンドルフのすばらしい叙情詩」を作曲した偉大な新作曲家(シューマン)の作 品も演奏。楽長クライスラーがきていたのかどうか分からないが,すばらしい演奏に耳を傾けた。
67いよいよ私の番になった。シュポーアの協奏曲が演奏される。伴奏はアドルフ。我々は以前にはしばし ば共演した。私のヴァイオリンは歌った,いや本当に歌ったのは魂であった。
68演奏が終ってエヴェリーネの手が私の手のなかにあった。
IX(KHI,199;GII,319)
69エヴェリーネヘの断ち難い思いと諦め。彼女もバラのように自然の一部であるが,自然は我々自身がも たらす以上のものを与えはしない。人間は孤独である。しかし人生の苦悩はバラの美しさで和らげられる
のではないか。
X(KIII,199〜200;GII,319〜320)
70或る時私は,あなたの顔に未来の前触れのようなものを見たことがあった。
71「おお,エヴェリーネよ・この世の美の流れは永遠に流れ出ようが,あなたは輝きかつ消える一つの波
のきらめきに過ぎない。」
72ヴァイオリン・ケースの言葉「我が心より生まれ,我が物ともならず,失われ行きい」はなんと不思議
な縁であろうか。
XI(KHI,200;GII,320)
73ここで数枚の紙片が無くなっているらしい。「私」のコメント。
XII(KHI,200;GII,320〜321)
74エヴェリーネとの別れ。「私の永遠の青春の息吹きがあなたの心に触れたのです。…いつか…私への追 憶が不意にあなたを襲うことでしょう…ひょっとしたら静かな夕べに…あるいは死の戦きが迫ってきた
とき。」彼女の手は震えていた。しかし黙って手を引いて立去って行った。
75エヴェリーネは去った。が,歌のミューズの神よ,あなたはお見捨てにならないで下さい。
XHI(KHI,200;GII,321)
76ここで「手記」は終っている。巻毛も,押し花も,リボンも添えられていない。「この老い行く人の心 をなお深く感動させた,このエヴェリーネとは誰であったのだろう。その人の名前は分からない。故人の
安らかならんことを。」
2 作 品 の 内 容 ・ 構 成 と モ チ ー フ
この作品の大要は以上の通りであるが,内容をまとめると,弁護士,或いは法律家とお ぼしき語り手である「私」の魅力的な乙女スザンネとの淡い心の触合いを中心に,政治.
シュトルムの短編小説「ハリヒ行」について 79
社会的失望から北海の孤島のハリヒに隠棲している老主人公を訪ねた思い出と(I‑V), その隠棲のもう一つの原因とみられるエヴェリーネなる謎の女性への熱烈なる,しかし満 たされなかった愛の体験が,その愛の歌である,感性豊かなヴァイオリン演奏を巡って語 られているということになる(VI以下)。この他にスザンネの母親の顧問官夫人が登場する。
この全体的な外的構成は先に示したように隔行によって区分されたI〜XIIIの13の部 分から成立っている。内容的には1−Vがハリヒ訪問の思い出を叙述した主要部,このう
ちIとIIの最初の部分はいわゆる導入部,またVはこの部分の締括り,IIの7以下は船旅 の記述,Ⅲ/Ⅳがハリヒ島での思い出。この後の部分は,この主要部に対する補遺的な役割 を果たすハリヒの老人の「手記」が中心。見方によっては主要部を2部分に分け,全体を 大きく「船旅」,「ハリヒでの滞在」,「手記」の3部に区分することもできよう。(4)
さらに各部分の詳細と関連をみると,先ず,故郷の海岸の今昔の記述(1)から朝の散歩(3) までは導入部であるが,4で昔の回想が突然どこからともなく蘇ってくる。追憶はシュト ルムの手法の本質的なものであるが,それの呼びさまされるきっかけは様々である。(5)ここ では当時と同じ場所での同じ行動力寸きっかけとなって現在から過去が蘇ってくる。これか ら後は,語り手自身の過去の体験が語られる。時称も過去で語られている。その最初の部 分は海岸をスザンネと並んで歩いた思い出(5),その後が船旅の部で,これは7から13まで とかなり長い。ⅡIは老主人公の隠棲を中心としたハリヒの物語,IVは30から50までが「私」
のスザンネとの心の触合い,これもかなり長く,この後51から53は帰路の描写でこれは 短い。V(54)は語り手のこの時点でのこの追憶に対する感想で,一つの大きな区切りない し中間枠の機能を果たしている。ここまでは海岸散歩中の回想であることは明確である。
この後のVI以下の補遺の部(第3部)の中心は,老主人公の「手記」である。これは語り 手が遺産のなかに発見するもので,その導入枠として,先ずハリヒ島のその後の再訪のこ とと,老主人公の死が報じられる(55,56)。次いで遺産のこと,手記の発見(57),老主人 公の旧居で「手記」を「私」は読んでいる(58)。ここは現在時称。Ⅵ1−Ⅲつまり59から 75までが1人称で書かれた手記でそれが引用されている。途中Ⅲ(73)で「私」の注がは いる。最後のXIII(76)は語り手「私」による終結部であるが,この時点は58と同じという ことになろう。しかしこれカヨ全体の締括りの枠とも感じられる。58の時点はそれほど明確 ではないが最初の導入の時点である現在,及び中間枠に続くものと考えられよう。読者は それに気付かないうちに読み終り,残された謎に語り手と共に思いを馳せるかもしれない。
もちろんシュトルムがその効果まで考えて、このように結んだのかどうかは分からない。
この作品の構成が不明確な原因のひとつは,このかなり長い,しかし叙情的で暗示的な「手 記」のせいであり,この枠の不透明さもそれに寄与しているであろう。
しかし構成の不明確さは本質的には,この作品を構成している記述単位・成分であるモ
4)初稿の区分を参照。以下86ページ参照。
5)LaageErinnerungが詳細に分析している。
チーフーこの語をこの意味で用いる−が多過ぎ,またその関連が判然としなかったり,
作品構成上の中心となる要素が明確でないという点にかなりの比重の原因力苛あろう。ここ で幾つかのモチーフについて構成上の機能について考えてみよう。
この作品の最も主要なモチーフはといえば,やはり「いとこ」Vetterと呼ばれている老 主人公の孤島への隠棲であろう。この背景には政治・社会的不満と失望,それにエヴェリー ネとの愛の破綻,そして愛の歌でもあり魂の歌でもあるヴァイオリン演奏がこれに結びつ けられる。これが中心となればモチーフの構造は比較的明快であろう。例えば「手記」は 111で謎であったヴァイオリン演奏拒絶の「私」の疑問(25,33)に対する或程度の答えと,
隠棲の補足的動機として有機的に結び付くであろう。しかし,これに副次的なものがかな りの重みで付加されるため主要なモチーフないし主題はぼかされてしまっている。
その第一は「私」という語り手でもある,もう一人の主人公のスザンネとのほのかな愛 の体験である。これは1Vの部分の中心的モチーフである。このモチーフのために詩行が引 用され叙情性が高められている(43)。またハリヒの自然もこの道具立てとなっている(31, 36〜42)。従って全体としてみると一見関係の無い二つの愛の物語が結ばれているような印 象を与える。もちろん女性は,いずれも若く魅力的で,いずれも実らない愛に終るという 共通点があり,そして漠然とヴァイオリン演奏のモチーフが両者を結びはしている(48)。
この辺が作者の苦慮したところではあろう。
次に背景としての自然描写がかなりの部分を占めている点が挙げられる。これに民話・
歴史・逸話などのモチーフが結び付けられる。自然描写は先ず冒頭の導入部で故郷の海岸 が登場するが,ここには歴史的記述が含まれる。11の船旅では北海の情景とルングホルト 伝説−これには「血色のいい異教」と「青白いキリスト教」の対立が結びつけられてい る−,そしてハリヒの遠望(12)が旅情を伝えている。IIIではハリヒ島での自然描写
(14〜16),ここはかなりリアリスティックである。11月の北海の嵐は自然の厳しさを伝え るが,政治・社会批判と関連付けられる(27)。そして,この最後に乾杯の辞「マルチエ・
フロールス」が現われる(29)。Ⅳではハリヒの庭園と海岸は二人の愛の背景となる。帰路 は夜の北海,妖精クラバウタァマンが登場する。背景としての自然は有機的な機能を果た している場合も多いが(27,31,38〜42),I1の部分などは,やや主要な筋からはそれるよ うにも思われる。シュトルムは紀行文のトーンも響かせたかったのであろうか。自然のな かには,もちろん鳥や植物も描かれている。
さらにルングホルトに関連してセネカが引用され(9,[54]),またギリシア神話(21),
ヘスペルスが登場しエンマという女性も話題になる(23)。最後の手記では,秋の風景が暗 示的である(59)。コンサートの場面はヴァイオリン演奏のモチーフの展開であるが,ここ にはアードルフのピアノ演奏(65),合唱,楽長クライスラーと多彩なモチーフが加えられて いる(68)。最後の象徴的な3行の詩(72)は叙情的気分を高めるが,1Vの部の詩行(43)との
シュトルムの短編小説「ハリヒ行」について
81関連はどうなのであろうか。
象徴的といえば,VとIXのバラのモチーフが注目される。それは美しさとそのはかなさ の象徴として二つの愛の物語に関わっている。ヴァイオリン演奏も芸術のすばらしさと美 のはかなさを象徴しているが,これは専ら老主人公に関連する。(6)しかし,III/IVの部分で も何度か(18,25,33,48)このモチーフへの暗示があり,この意味ではライトモチーフ 的でさえある。こうみてくると統一を欠くとはいえ,異質な愛の物語を結びつけるために シュトルムがいろいろ配慮したことをうかがわせる。この点でルングホルトなどもセネカ ヘの暗示と共にVのなかに繰返されたり,最後の詩の引用も手記の最初(61)に言及がある
など,全体の関連はかなり工夫されている。
しかし,全体としては旅行記風の描写,社会批判,二つの愛の物語,詳細なコンサート の情景と複合的で,構成は断片的で統一感は稀薄という印象にならざるをえない。個々の 断片はそれぞれ魅力的で,また,まとまりも感じられるから,要はこれらの部分の結合の 企て自体か,複合の方法に問題があるということになろう。もっとも夫々の部分にも例え ば既に述べた「手記」の暗示的記述に加えて,「私」のスザンネに対する態度,(7)あるいは エヴェiノーネの態度,エヴェリーネの謎などのような暖昧さがあって,この作品の構成の
軟弱感の要因となっている。
ところで,この断片的という印象はこの作品の叙情的気分には有利であるが,一方,逆 に全体を通して流れるメランコリックでぺシミステイックな情緒,無常感には,この断片 を少なくとも緩くは結び付ける作用が感じられる。しかし,この基調はシュトルムの全作 品を貫くものでもあるので,(8)この作品のまとまりを保証するものではない。それにして も,この作品ではこのトーンが色濃くその底流となっている。それは既に冒頭の「樫の森」
の描写に現われている。思い出は,はるかな過去からやってくる(4)。ルングホルト伝説も またそうである。ハリヒの形成についての客観的記述にも500年の時の経過が示されてい る(14)。エンマの運命(24)。バラのような日々とは過ぎ去った甘美な日々を例えている (54)。思い出は過去の国に収められている(54)。数年後にハリヒを訪ねる(54)。やがて老 人もこの世の人でなくなる(56)。無常感のメロディが最も豊かに流れるのは「手記」であ る。秋の夕暮れの光景。クレモナ製のヴァイオリンはずっと昔に天折した音楽家のもので あった(60)。かつての自らの素晴らしい演奏(62),すばらしい芸術とそのはかなさ(VI)。
「人は独りで生れ,孤独のうちに死ぬのである。」(69),「おお,エヴェリーネよ…あなた は輝きかつ消える一つの波のきらめきに過ぎない。」(71),「いつか,あなたもまた蔭の人々 の一人となったとき…私への追憶が不意にあなたを襲うことでしょう…ひょっとしたら静
6)Klein,242は特にこのモチーフに注目している。
7)これについてはピーチュに宛て1873年「これは二つの心の軽やかで若々しい触合いの描写,即ち『ば らにも似た日々』です。こういうものは書かれる価値はないのでしょうか」とその意図について打明け ている。GII,739;Loets,322参照。
8)注2)参照。
かな夕べに…また恐らくすべての地上の霊があなたを見捨てるあの最後の瞬間の,死の戦 きが迫ってきたとき。」(74)などに,それが現われている。
結局,この作品のこの点での特色は,やはりモチーフの過剰と不調和,そして構成の弱 さ,暖昧さという余り芳ばしくない結論になる。もちろん叙情性は別の観点からは一つの 魅力ではあろう。
3 作 品 の 素 材
ゴルトアンマーによると,この作品の素材は作者自身の個人的回想とシユレースヴイ ヒ.ホルシュタイン地方の民話のモチーフ,それに特にハイネの紀行文「北海(1826)第 3部」とされている。なお,個人的回想の詳細は不明とされている。さらにここに引用さ れている1873年ピーチュ宛の書簡には「この老人は私です。場所は正確ですが(『ジュー デローク』Siideroogハリヒです。4年前に一度行きました),その他の人物は創作です。」
とある。(9)これは興味深い事実である。つまり,かなりの部分がシュトルム自らの観察・体 験に基く素材により,しかも老主人公がシュトルム自身をモデルとしているとすれば,こ こに示されている社会批判,芸術観,人生観,そして愛の体験などはまた詩人自身のもの でもありうるからである。
ここで,その素材について少し詳細にみることにする。先ず物語の舞台となった場所で あるが,これは,先にみた通りシュトルムにより,明確にそのモデルが示されている。そ れに「正確」というシュトルムの言葉から,北海の自然描写,ハリヒの記述は詩人自身の 観察によるもので,しかもかなり現実的に,少なくとも現実の印象に基づいていることが 推定されるわけである。II及びⅡIの部分の自然の描写が豊富なのは,恐らくシュトルムが 広大な光景と爽快な自然に強く心を奪われたからに違いない。もちろん,ここにゴルトア ンマーとともにハイネの「北海」の影響を推定することもできよう。('0)ハイネには既に リューベック時代に感動している。('1)このジューデローク・ハリヒはフーズム西方凡そ30 km標高5m東西・南北何れも1kmほどの小島のようである。シュトルムはここに書簡によ
ると1869年に出掛けている。
前後するが冒頭の記述はもちろんフーズムの海岸であろう。
ところでハリヒ島の老主人公がシュトルム自身だとすれば,あの社会批判と隠棲はシュ トルムの望むところでもあったのであろう。これを裏付けするような伝記的事実も伝えら れている。すなわち1867年以降のプロイセンの支配による様々な体験により,以前より
9)GII,738参照。なお,1884年2月19日付三女EIsabe宛書簡(Loets,457;Km,248)参照。
10)特にIIのRungholt(8‑11),「魅惑的な夜の音楽」(13),Klabautennann(52)そして「手記」のEveline
という名前などに。ただしシュトルム自身の記憶,或いは彼も関係したMiillenhoff編集の伝説・民話 集も資料となりえたであろう。Km,248参照。
11)Storm:FerdinandR6se,GW,527f.;Gertrudl,110f;LaageStorm,12参照。
シュトノレムの短編小説「ハリヒ行」について
83もっていたプロイセンに対するネガティブな感情は憎悪にまで高まったのである。なにし ろ州知事の職は廃止となり個人的にも不利な立場におかれるし,経済的にも苦しめられる ことになったのである。これを裏書きする詩人の言葉が多数伝えられているが,その一つ の例を1867年8月16日付でエガースにあてられた書簡から引用しよう。「ところで,私達 が呼吸している空気はとても不快なものです。私達は全くまぎれもなく暴力のもとで暮し ているのです。私達がデンマークの暴政に対して援助を求めた連中のせいですから事態は それだけに深刻なのです。連中はデンマークの暴力を克服するのに手を貸したあと,私達 を被征服者のように扱うのです。連中は重要な制度を,私達の意見も聞かずに御破算にし て,違った制度を勝手に押付けてきます。…」とある。('2)シュトルムのプロイセン嫌いは 有名であるから,これ以上立入らないが,「11月の夜,嵐がこの家に襲いかかり…窓から…
泡立ち荒れ狂う波の山から土手だけがなんとか顔をのぞかせているその下の方に,嵐に鞭 打たれた海が見えるとき−ねえお分かりにはなりますまいが,偏狭な権威ぴいきの連中 のなかにいるよりは,また別の大きな力のなかにいる感じはどんなに爽快なことでしょ う」('3)という老主人公の言葉はまさにシュトルムの言葉でもあるに違いない。1864年の帰 郷が希望と期待に満ちたものであり暫時はその期待を裏切られることもなかっただけに,
1867年以降の政治・社会情勢はシュトルムを強く失望させたのである。
さて,問題はこの老人がどこまでシュトルムか,つまりどこが創作かという点にある。
シュトルムの証言は抽象的なのであって,例えばヴァイオリンは現実には,少なくとも巧 みに弾いたとは伝えられていない。シュトルムはピアノはかなり堪能であったことは確か であるが,またコンサートで演奏したとは伝えられていない。従ってこれは創作であるが,
しかしシュトルムの創作活動に置換えてみれば,あながち無関係でもない。特に老人があ る年齢以後は人々を感動させる電光のようなものは流れないと悟り引退するが(63),これ はシュトルムが当時,創作力の衰退を感じ,1868年には全集出版を企てたり,ドイツ詩集 の編纂を試みたりすることと無関係ではあるまい。('4)
次にこの老人の愛の対象であるエヴェリーネにはモデルがあるのだろうか。つまり,こ の体験はシュトルムのものであろうか。これについては伝記的には何も知られていない。
他の人物は創作というシュトルムの言葉は一応は信じなくてはならない。しかし創作にし ても間接的なモデルはシュトルムの脳裏にあり,これが老い行く芸術家の激しい愛のモ チーフの展開となったのであろう。
この老主人公のもう一つの注目すべき点は,その「手記」のなかに流れる強い無常感で あろう。これがシュトルム文学全体の基調であることについては,既に先にも触れたので あるが,特にこの作品で,これが強くにじみ出てくるのは,多分にシュトルム自身の当時
GBr.I,510参照。なお一般的にはLaageStorm,53ff.など参照。
GII,303
これについては本章以下及び4(88ページ)参照。
jjj234111
の感情を反映しているせいと考えていい。1864年の帰郷の喜びもつかの間,恐れていた,
この幸福の代償が1865年5月,妻コンスタンツェの死という形で現実のものとなった。('5)
シュトルムは若いころから人生の無常感に絶えず思いを馳せていたが,('6)この悲嘆と孤独 のうちにそれは一層募ったのである。やがて絶望的な日々の煩悶のうちに現世の「生の美 しさのために」没我的に行動する人間への信仰に至り,以前からシュトルムの心の底に流 れていた反キリスト教的傾向の解決を見出すのである。('7)しかし,この無常感は,その後 も差し当たりは強い余韻を残し,時に弱く,時にまた強く,生涯鳴り止むことはない。創 作も再開きれ1867年には二つのいわゆる「諦念小説」Resignationsnovelle「聖ユルケンに て」InSt・Jiirgenと「画家の作品」EineMalerarbeitが発表されるが,特に前者のメラン コリックな感情には強く無常感が響いている。後で見るようにシュトルムが創作力の衰退 を感ずるのは,この後である。創作の筆はおかれ,総括の意味での全集の刊行と,自伝的・
回想的作品を企てたことが伝えられている。('8)作家としての終焉を感じていたとすれば,
無常感もまた無縁ではない。因みに,全集を詩人としての「遺言」Testamentと称してい る。('9)この後約3年の休止の後書かれた作品の殆どが,この「ハリヒ行」を含めて,詠嘆 的であり,また強い無常感を漂わせているが,それは,シュトルムの心情が,なおそのよ うな状態にあったことを反映している。もちろん,それはまた自身の回想による素材形成 のせいもあるが,この素材の選択自体が実はこの感情に由来するものと言わなくてはなら
ない。
さて,シュトルムの音楽への造詣の深さに関しては既に報告したことがある力ざ,(20)この 作品では「手記」のコンサートの記述にそれが示されている。ここに登場するアードルフ のモデルはゴルトアンマーの指摘の通り1868年来フーズムで音楽教師としてシュトルム とも親交のあったアードルフ・メラーAdolfM611erに違いない。(2')メラーは1871年1月 17日ここのギムナージウムでベートーベンの生涯と特質についての講演を行った後で,い わゆる「月光ソナタ」,作品10,NQ3二長調ソナタの2,3楽章,そして「悲槍ソナタ」を 演奏している。シュトルムはこの批評を翌日の「フーズム週間紙」に寄稿している。これ は「コンサート」EinKonzertというタイトルでゴルトアンマー編の全集に収められてい る。(22)もつとも,この新聞記事には署名もタイトルもないが,(23)シユトルムが書いたものと
この辺の事情については、Gertmdll,111ff.;StuckertLebenu.Welt,85f.;LaageStorm,48ff・参照。
LaageErinnerung,32参照。
LaageStorm,49f.及び以下4(88ページ)参照。
以下4(89ページ)及びGertmdll,137f.u.165;StuckertLebenu.Welt,92f.;LaageStorm,56
参照。
1868年6月28日付Westennann宛書簡(GBr.I,532)参照。
拙論「テーオドール・シュトルムと音楽」参照 GII,740参照。
GIV,602所収。なお,これに関して拙論「,,EinKonzert@@シュトルムの演奏会批評雑感」参照。
この新聞記事の原本はNissenhaus,Husumに所蔵。コピーは同館のLengsfeld及びStorm‑Gesell‑
schaftのLaage,Heitmann諸氏の好意的配慮による。
jjjj56781111
1 9 )
2 0 )
2 1 )
2 2 )
2 3 )
シュトルムの短編小説「ハリヒ行」について
85考えられている。作品のなかではアードルフは二長調ソナタの2,3楽章を演奏するが(65),
まさにこのコンサートが素材である。批評では「悲痛な憂諺」から「霊気のような清らかな 晴朗さ」へと高まるソナタの巧みな演奏は聴衆に「救済の効果」をもたらしたとある。作 品ではもっぱら聴衆がいかに我を忘れて聞きいったか,そして「やがてメヌエットにはい ると,うっとりとした溜息がホールのすみずみまでみなぎるように思われた。やはり音楽 というのは,すべての人々に,自分たちは一つの星に生れたのだということを感じさせる 芸術なのだ」(24)と老主人公の手記は認めている。音楽芸術のもつ「救済」,「慰め」の効果,
聴衆を感動させ高い精神の世界に導く教養的効果,そして当時まだ強かった社会的身分差 を一時は忘れさせる,市民的社交の効用をシュトルムは感じとっていたに違いない。シュ トルムはフーズムでも異郷のハイリケンシュタットでも合唱団を組織し,自ら歌い,かつ 指揮したことは広く知られているが,これもこのような音楽観と無関係ではない。以下の コーラスの演奏には(66),この自らの体験も込められているであろう。なお,ここにアイ ヒェンドルフの叙情詩に素晴らしい音楽表現を与えた「新しい偉大な作曲家」の作品が話 題になるが,これはシューマンをさす。メンデルスゾーンとともにシュトルムが好んだ作 曲家である。(25)
老主人公以外に関してはどうであろうか。シュトルムの言葉によれば一応「私」とスザ ンネは創作ということになるが,「私」−当時は弁護士とある−も実はシュトルムでは な い か 。 つ ま り , そ の 一 部 力 − ど こ か は 分 か ら な い が − モ デ ル と な っ て い る の で は な いか。そして,スザンネには束の間の愛を交したエンマが重ねられているように思えてな らない。(26)しかし,このエンマはさらに「ヘスペルス」の,かつての所持者としてもここ に記されている。もう一人の登場人物である顧問官夫人は「手記」の記述では「敬愛する 従兄弟の顧問官」がでてくるので,この夫人らしいことは分かるが,この夫妻のモデルは 不祥である。
この「ヘスペルス」Hesperusはジャン・パウルの長編小説(1795)であるが,ここに,
この詩人の影響が推定される。文学作品の素材については,既にハイネの「北海」に触れ たが,さらに音楽会の記述に出てくる「楽長クライスラー」(66)は明らかにホフマンの影 響を想定しなくてはならない。音楽観に関しても影響があるもののようで,これについて は既にシュースターの研究で言及されている。(27)ヴァイオリンの演奏についても(62,67)
ホフマンの「顧問官クレスペル」RatKrespel(1818)或るいはグリルパルツァーの「哀 れな辻音楽師」DerarmeSpielmann(1848)の影響も推定されよう。これ以外の文学から 取られた素材としてはラインホルトの詩の引用(48),(28)そして「手記」に引用の詩行(72)
2 4 ) 2 5 ) 2 6 ) 2 7 ) 2 8 )
GII,318参照。
Wendt,77ff.この文献のコピーもStonn‑Gesellschaft,Husumの好意的配慮による。
Constanze宛1844年6月11日付書簡(BriefeandieBraut,37ff.);LaageStorm,17参照。
Schuster,217ff.
GII,740によるとC.Reinhold(ReinholdK6stlin,1813‑1856)の詩,,DasPaar"の一節という。
がある。これについては不祥である力ざ,自作の詩「若き愛」JungeLiebeのモットーとして も用いている。(29)ケスターによるとこのモットーは最初1851年他の詩に添えられ,1852年 にこの詩に添えられたという。彼によると「ハリヒ行」でのイタリア語からの翻訳という のは創作とされている。(30)とすれば,自作からの引用ということになる。しかし,このモッ
トーは自作であろうか。
これ以外の素材については,さらにモチーフの項でも触れたセネカ,ギリシア神話,そ して自らも蒐集したシユレースヴィヒ・ホルシュタイン地方の民話・伝説・童話,(31)マル
チエ・フロールの逸話などがある。
4作品の成立とその背景,シユトルム文学の発展上の位置
以上,形式的特色,内容上の特色,自伝的素材の詩人との関連など見たわけであるが,
この作品の特色をまとめれば,確かに「全く追憶に基づき,形をとるに至らず,ばらばら の形象のままに尽果て,憂諺な省察のうちに流れ去る。」(32)とか「見通すことが難しい構成 であり,そのなかで様々な傾向,様式が非有機的に結ばれている。」(33)とか「この断片的形 象が緩く連続する物語は,内的一貫性とモテイヴェーションを失い,単なる気分的記述と 弱々しい感傷性のなかに消え入りそう」(34)というような評になるであろう。しかし,さら にシュトゥケルトが「気分の柔弱さとすべての堅固な輪郭の溶解という点では,シュトル ムがこれまで書いたすべてを越えている…」,(35)そして「シユトルムはあらゆる努力にもか かわらず,この課題の処理には失敗しており,当時のシュトルムの小説創作の潜在的危機 の証拠」(36)などとも述べているが,我々は,ここで,この作品成立の経緯とその背景にも
う少し詳細に目を向ける必要があろう。先ずこの作品の成立の経緯を再現してみよう。
ゴルトアンマーは1871年5月22日付でシュトルムが息子ハンスに宛た書簡の記述をも とに1871年春にこの作品が完成したものとしている。(37)この書簡によると,何週間もか かって完成した原稿は,かなり大部のものになったこと,そのテーマは「ハリヒ行」であ ることが報じられている。(38)一方これに先立つ5月16日次男エルンスに宛て「長く注意深 い執筆の作業の後にやっと『ハリヒ行』を完成しました。船旅Unterwegs‑ハリヒにて
GI,217;K1,72所収。
KVIII,135参照。
注10)参照。
StuckertLebenu.Welt,94
ebd.303Martini,647
StuckertLebenu.Welt,304
ebd.303GII,738
GII,738に引用されている。
jjjjjjjjjj90123456782333333333
シュトルムの短編小説「ハリヒ行」について
87AufderHallig‑遺稿PosthumeBlatterの3章です。しかし−描写素材が大き過ぎ,
この素材と創作部分の結び付きがうまくいかず,また人物の新鮮さと迫力が不足している せいか,本来あるべき形のものにはなっていません。…しかし,先週の木曜日(今日は火 曜日です)原稿を(皆がせかすので)「サロン誌」のためにローデンベルクに送りました。
それで,想像できないかもしれませんが,ここのところ大変気が重かったのです。…とも かくローデンベルクに昨日また手紙で,送った原稿は客観的に距離をおいて見ると,よく は気にいらないので,返送するかどうかの判断は任せますと書いてやりました。それで何 かほっとしました。」と書き送っている。(39)つまり,既に見たようなこの作品の問題点,つ まり,素材の過剰については少なくとも,その初稿では作者自身が気付いていたようであ る。そして,この初稿の出来栄えには余り自信が無かったようである。事実この原稿は間 もなく返送されてくる。そしてシュトルムは自分の作家としての衰えに心を痛めるのであ る。しかし,この後ローデンベルクの扱いは当然であったと認め原稿を徹底的に改訂し,
6月19日今度はヴェスターマンに送付している。(40)この2日後「少なくとも今度は私の見 たところでは印刷に値するものです。…それにしても処理の難しい素材でした。これで3 度推敲しました。」(4')と次男エルンストに宛て書いている。いかにシュトルムが,この作品 の完成に悩まされたかがうかがわれる。にもかかわらず,作者自身が感じていた問題点が 結果として残ったのではないか,つまり,かなりの難産だったわけである。もし最終稿の 構成などに問題があるとすれば,ひょっとすると3度目の改訂の処理に無理があったので はないかとも推定される。この初稿の手書原稿は現存するらしいので,(42)この辺の経緯は これとの比較で詳細が分かる可能性はある。ともかくも,この作品は同年10月雑誌「ヴェ スターマン・ドイツ月報」WestermannslllustrierteDeutscheMonatsheftenに発表され た。その後1873年にはベルリンのペーテルPaetel社から他の作品とともに単行本として 出版。両者ともにより大きなタイトルとして「随想集」ZerstreuteKapitelのもとに収めら れた。後に1877年全集の第8巻として上梓するにあたって,この作品は独立のものとされ,
この「随想集」の構成は変更された。(43)
ところでシュトルムは当時,創作については一種の行詰まりを感じていたこと,またそ の身辺は必ずしも好ましい情況になかったことについては,素材との関連で前章で簡単に 触れたのであるが,ここで,もう少し詳細に,その背景を探ってみたい。1864年3月州知 事として喜びの帰郷の後,やがて新しい職務にも馴れ,再び詩作の余裕も生まれハイリケ ンシュタットで開始した「海の彼方より」VonJenseitdesMeeresを完成,合唱団も再設 立され,シュトルムは幸福を感ずるのであるが,同時に「突然の死」の予感に悩まされた
3 9 ) 4 0 ) 4 1 ) 4 2 ) 4 3 )
GII,738;Loets,310f.所収。
次注の書簡による。
GII,739;Loets,312所収。
LaageStudien,170f.
GII,739;GIV,669参照。
り,この幸運力罫何かの不幸で埋め合わされるのではないかという不安を感じていたらし い。(44)この予感は1865年5月現実のものとなる。妻のコンスタンツェが世を去る。いまや 詩人にとって「孤独と死に対する悲痛な謎」との戦いが始まった。(45)この戦いから「深き 影」TiefeSchattenの一連の悲痛な叙情詩が世におくられた。この最後に付されるはずで あった7番目の詩は,やっと1913年ケルトルートの伝記で公刊されたが,注目すべきもの で,「未来の存在の希望をもたず…ただ生の美しさのために」没我的に行動する,高貴で善 良な人間への信仰が示されている。(46)シュトルムのこの解決には論点もあろうが,(47)とも かくも詩人に生きがいを与えたことだけは確かであろう。一方7人の子供をかかえた現実 の生活は,大変なものであったことが想像される。この後9月にはツルケーネフに招かれ てバーデン・バーデンに赴き,国際的な文学的・芸術的雰囲気を享受,新たな刺激を受け た。翌1866年には,その昔情熱を傾けたドロテーアと再婚。ヴァッサーライエの新居に移 る。この後の生活には,差し当たりはもちろん問題がなかったわけではない力:,それもや がて克服され,その体験は後に「三色すみれ」Violatricolor(1873)となって実を結ぶ。
しかし一方で,またもや政治的問題が彼を苦境に陥れるのである。即ち1867年にはシユ レースヴイヒ・ホルシュタインはシュトルムが嫌っていたプロイセンに併合されることに なった。シュトルムの州知事職は廃止され,区裁判所判事に就任せざるをえなくなる。こ れはシュトルムにとっては一種の降格で,少なくとも経済的には俸給は3分の2に減少,
仕方なく住居の一階を他人に貸し,シュトルムー家は2階のみで生活することになる。な によりシュトルムが気にいらなかったのはプロイセンの強引なやり方で,これについては 先にも述べた通りである。(48)このような事情はその創作活動に有利なはずがない。1867年 秋長男ハンスにあてて「それにしても,私のミューズの女神はどこにいるのか。女神は永 遠の眠りについてしまっています。人の心を感動させるようなものは,もう書けないでしょ う。」ともらしているという。(49)それでも同年「聖ユルケンにて」と「画家の作品」力ざ完成 している。しかし11月8日付のピーチュ宛の書簡によると,シュトルムは当時自分の書い たものに自信を失っている。(50)こうして翌1868年6月にはヴェスターマンに宛て「私の作 家としての創作活動は終ったと思わなくてはなりませんので,私は遺言状を作ろうと決心 しました。こういう訳ですので,貴方が私の遺言実行者になって下さるかどうか,つまり,
私の全集を刊行していただけるかどうかお尋ね致したく存じます。」(51)と認めている。やが て数箇月後に6巻の「全集」SamtlicheSchriftenが同社から出版された。1870年に刊行さ
LaageStorm,48参照。
ebd.49参照,引用文は1865年6月3日付MOrike宛書簡(GBr.I,470所収)から。
この詩はGertrudll,114;またKm,150,GI,296所収。なおLaageStorm,49f.参照。
LaageStorm,ebd.
3(83ページ)参照。
Gertmdll,137 GBr.I,513所収。
GBr、I,523所収。
jjjjjjjj4567890144444455
シュトルムの短編小説「ハリヒ行」について
89れたドイツ詩集HausbuchausdeutschenDichternseitM.Claudiusも同じ頃の企てであ ろう。それは「30年以上の人生経験の要約」でやはり遺言状のようなものである。(52)
ゴルトアンマーによるとシュトルムはさらに当時1−2巻の規模の「海辺の灰色の町か ら」AusdergrauenStadtamMeerと題する自伝的著作を構想していたらしい。しかし,
これは未完に終り−これをゴルトアンマーは残念がるが−その一部が「随想集」のタ イトルのもとに発表されるに留まったという。これが最初に発表されたのは1871年から 1873年の「ヴェスターマン・ドイツ月報」においてであるが,その後単行本として或いは 全集でも,この総括的タイトルが用いられたが,この詳細はゴルトアンマー編全集の注を 参照されたい。(53)こうして創作活動の締括りになるはずの作品は新しい創作活動への開始 となった。シュトルムはこの,いまとなっては中断の3年間の後,以前よりむしろ手固く 重要な作品を30編以上書上げるのである。しかし,差し当たり発表された「随想集」の諸 編はまだ,蹟いがちの,模索的なもので,まだ新しい様式を示すものではなかった。それ は「屈託のない省察とか憂諺な追憶のうちに青春時代の様々な形象を呼戻し詠嘆的な別れ の歌を歌う」(54)と評されている。それはまた素材が回顧的であるばかりでなく,形式もま た「彼が既に克服していた物語形式,『回想スケッチ』への意外な回帰」(55)を示してもいる。
しかし,ともかくも創作は再開されたのである。そのスランプ状態は今一度青春時代の原 点に帰ることによって克服されたかのようである。とすれば,この「非生産的な」(56)3年 間は新しい道を切り開くために必要な「創造的休止期」(57)として評価されよう。全集の刊 行や,詩集の編纂,そして郷土の文化史的な調査を含めた自伝的回想は,いわば行詰まり
を感じていたシュトルムに少なくとも創作再開への契機を与えたのであるから。
そして,この「ハリヒ行」も後に単独のノヴェレとされたが,少なくとも成立の時期,
経緯からは全くこの時期の作品群に属し,同じような特色を帯びている。自伝的素材と断 片的構成は,まさに「随想集」の他の諸編と共通のものであろう。そして,その詠嘆的気 分もまた共通している。なにしろ「政治的.詩的諦念」(58)の時期であった。このトーンが どこからくるものかは,以上に述べたシュトルムの当時の情況から容易に察せられよう。
この作品成立の背景は以上で大体明らかになったと思われるが,さらに,この自伝的回 想スケッチの延長としての要因以外に,その制作へと向わせた他の動機も推定される。例 えば1869年のジューデローク・ハリヒの旅の強い印象,それと関連する爽快な自然への隠 棲の希い,つまり不愉快な現実からの逃避を頭に描いていたのではないかと思われる。そ
52)LaageStorm,56参照。引用はこの詩集の序文(GIV,612ff.;KVIII,112ff.所収)の冒頭から。
53)GI,78及び1V,669参照。なおGertrudll,149参照。
54)StuckertLebenu.Welt,94 55)ebd.301
56)ebd.
57)ebd.93
58)LaageStorm,57
れに「皆がせかすので」という書簡の言葉からは経済的理由も推定される。(59)この現実的 動機は,場合によっては小さなものでないかもしれない。
ところで「創作の潜在的危機」とは何を意味するのかということであるが,それは先に 述べたシュトルム自身の自信喪失に象徴される創作力の衰退,その結果としての不安定な 形式,具体的には自伝的素材による追憶風作品に見られる断片的・叙情的な構成,特に「ハ リヒ行」の内容・構成の不明確さとなって現われているものを指している。「シュトルムは この変動期の動揺のなかで不明確な形式に陥った」(60)のである。この不明確な形式は「異 質なものを…センチメンタルで陶酔的な音楽の感傷性に結び付けている」(6')というのであ る。「この動揺と模索は,素材の文体の変化の巧みさが増加し,当時の一般的手段による小 説技法の拡大にもかかわらず,長く持続した。」(62)そしてシユトルムが,この危機をいかに 克服したかについてはマルテイーニは「夢想的・内面的なものと,ハイゼ風の当時の物語
と,よりドライな真実の表現,リアリスティックなもの,悲劇的なものの文体を可能にす る新しい形式の間を揺れ動いた危機をゆっくりと通り抜けなくてはならなかった」(63)と述 べている。つまり,シュトルムの作品の展開は,一般に初期の「叙情詩から生れた」(64)叙 情的な作品から「私の小説は完全に叙情詩を呑込んでしまいました」(65)と自ら表現してい るような作品へと次第に叙事的傾向を帯びていったとされているが,この発展は徐々に前 後しながら,つまり明確な時期的区分なく進展したもののようである。とはいえ,ある程 度の区分は可能かもしれない。例えばシュトゥケルトは作品のタイプを「情況小説」
Situationsnovelle,「心理的問題小説」psychologischeProblemnovelle,「悲劇的運命小説」
tragischeSchicksalsnovelleに3区分し,時期的な区分にも用いている。それぞれ 1847‑56年,1857‑67年,1871‑88年の作品に割当られている。最後はさらにIとIIに分 けられ前者は1880年まで,後者はそれ以後となっている。(66)すぐ分かるように,これは シュトルムの伝記的事実と大体平行している。つまり最初のフーズム時代からポツダム時 代,ハイリケンシュタット時代,フーズム帰郷時代,ハーデマルシェン時代である。この 区分はもちろん便利な点もあり,あな力ぎち不当ではない。この区分でいえば「ハリヒ行」
は悲劇的運命小説の時代に入るわけであるが,現実は以上みた通り,過渡期的作品で,タ イプ°はむしろ最初の時期に属する。クラインはタイプ別の区分で,この作品を「叙情的短 編小説」とし,さらに「静かな音楽家」EinstillerMusikant(1875)やもっと後の作品も
5 9 )
6 0 ) 6 1 ) 6 2 ) 6 3 ) 6 4 ) 6 5 ) 6 6 )
Ernst宛の1871年5月16日,22日付の書簡にはGeldとか「お前たちのために」原稿を書いて「嫁ぐ゙ 見込みがなくなった」と残念がっている言葉がある。
Martini,647
ebd.ebd.
ebd.
1882年3月1日付ErichSchmidt宛書簡にある。GBr.II,240
1885年8月7日付Keller宛書簡で述べている。GBr.11,331
StuckertLebenu・Welt,229ff.;StuckertDichter,94ff.
シュトルムの短編小説「ハリヒ行」について
91ここに区分している。(67)要するに時期とタイプは完全には一致しない。従って,この作品 の位置も時期的には中間,タイプでは初期の傾向,しかし新しい形式に向かう前の模索の 作品と位置付けられることになろう。それを「別れの歌であり,新しい歌ではない」(68)と 位置付けることも出来るかもしれない。しかし,何より,その内容・形式・構成の暖昧さにも かかわらず,その色濃く流れる叙情性と独特の憂諺なトーンはまたシュトルムの本質を示 すものとして注目されようし,初期の諦念以上に深い憂診が表現されているとすれば,(69)
それはまた一つの代表作ともいえよう。
引 用 ・ 参 考 文 献
文献は著者名で引用。タイトルの一部を補う場合は以下の文献表ではその部分をイタリックで示してあ る。その他の略記についても以下に示してある。
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buchll.Berlinl970.S.209ff.コピーは名古屋大学の好意による。
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22Storm,Theodor:TheodorStormsSamtlicheWerkeinachtBanden.Hrsg.von.AlbertK6ster.
Leipzigl919f.−ヶ9K
23‑:SamtlicheWerkeinvierBanden.Hrsg.vonPeterGoldammer.5.Aufl.Berlin/Weimar
l982→5G24‑:Briefe.Hrsg・vonPeterGoldammer.2Bande、2.Aufl.Berlin/Weimarl984→6GBr.
6 7 ) 6 8 ) 6 9 )
Klein,236ff.
StuckertLebenu.Welt,304
ebd.25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36
‑:BriefeindieHeimatausdenJahrenl853‑1864.Hrsg.vonGertrudStonn.Berlinl914
‑:BriefeanseineBraut.Hrsg.vonGertrudStorm.Berlin/Braunschweig/Hamburgl915
STSG=SchriftenderTheodorStorm‑Gesellschaft、1952ff.
Stuckert,Franz:StormsReligiositat.In:DVjl9.1941,S.183ff.
‑:TheodorStonn.DerDic〃"γinseinemWerk.3.Aun.TUbingenl966
‑:TheodorStonn・SeinZ,g加加〃"dseineWな"bBremenl955
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