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ドイツ・ファシズム文学の展開

‑ドイツ統一からワイマール期まで‑

濱崎一敏

Entwicklung der faschistischen Literatur in Deutschland

‑Von der staatlichen Einigung bis zur Weimarer Republik‑

Kazutoshi HAMASAKI

はじめに

ドイツ・ファシズムの文学(民族主義的国家主義的国民社会主義的文学)は、

1871年のドイツ統一以後第三帝国期にいたるまでの間、おおよそ三つの歴史的 な時代区分を経て成立展開してきたものと考えることができる。その第‑期は、

1890年代から第一次世界大戦(1914‑ 191畠)の終結まで。この期においてド イツは、政治、経済、軍事面において統一国家としての体裁を整え国力を充実 してゆく一方では、急速な近代化政策によって必然的に生じた種々様々な社会 問題の深刻な様相とそして戦争を体験することになる。殊に、 200万人の戦死 者と400万人以上の戦傷者を強いられ植民地獲得競争に敗北を喫した大戦後に は、いわゆるヴェルサイユ体制下にあって、ドイツ国民は被害者意識をもつと 共に怨念の情に燃えヒトラーを生みだす基盤を準備することになった。次いで、

主に政治文化の領域において、実験と試行錯誤、流行、流血と血なまぐさい闘 争に明け暮れた波乱のワイマール期が第二期0第三期は、言うまでもなく第三 帝国期(1933‑ 1945)がそれである。

第三帝国の体制を支えたナチズム文学は、ゲッベルスの支配下にあった「国

民啓蒙宣伝省」 ( Reichsministerium紬r Volksaufkl云rung und Propa一

ganda)に属する「帝国著作院」 (Reichsschrifttumskammer)および「著

作局(Abteilung Schrifttum)によって、そしてまたrナチスの著作保護の

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90 漬崎‑敬

ための党検査委員会」 ( Parteiamtliche Priifungskommission zum Schutz des NS‑Schrifttums )、後に「著作保護局」 ( Amt Schrifttumspflege )となっ た「ドイツ的著作奨励局」 (Reichsstelle zur Forderung des deutschen Schrifttums)によって厳格な検閲が行なわれ出版許可がその都度交付された ものにかぎられていた。その結果、ドイツ・ファシズム文学の第三期に生じ書 かれた文学は、突撃隊(SA)や親衛隊(SS)そしてヒトラー・ユーゲント(HJ)

に所属したEberhard Wolfgang Moller, Herbert Bohme, Gerhard Schumann, Baldur von Schirachたちのいわゆる「青年隊」 (die junge Mannschaft)による詩文学、そしてナチ党員作家たちによるナチ・イデオロ ギーのプロパガンダ作品がその主流を形成していたPaul Ernst, E.G Kolbenheyer, Hans Johstなど第三帝国期において影響力を誇った文学は、わ ずかな例外を除きその大部分がワイマール共和国の時代にすでに書かれたもの であったのであるOこの意味において、ドイツ・ファシズム文学の成立と展開 の主に思想史的な背景のメカニズムを追究しようと試みる本論の関心は、その 第‑期と第二期、殊に第二期に集中している。

ドイツ・ファシズムの文学は、しかし、 1945年4月30日ブランデンブルグ 門すぐわきの総統官邸地下壕において、ヒトラーが愛人エヴァ・ブラウンと共 に自殺をはかった丁度その時、時を同じくして息絶えたのではない。戦後のい わゆる「皆伐」ないしは「零」の焼け跡の混乱期から45年を経た現在にいたる まで、それらはなお脈々と生き続けている。 40年代後半から50年代にかけて は、ドイツ・ファシズムにかつて迎合ないしは加担したBenn,Jiinger, Wiechelt, Bergengruen, Carossa, Schroderたちが文学の代表者とみなされ、それ以後

にもファシズムの古典作家たち, Grimm, Kolbenheyer, Blunck,Johst, Griese, Vesper, Pleyer, Dwingerの新版が重ねられていると言う。(1)当時「ドイツ民族

の運命の書」、 「ドイツ民族の最初の偉大な政治小説」と評され絶賛されたHans

Grimm (1875‑1959)の『土地なき民』 (Volk ohne Raum, 1926)は、ヒ

トラーの政権獲得(1933.1.30)後の1936年には、すなわち出版後10年の間

に365,α)0部の売上部数に達したのだが、驚くなかれ大戦後20年を経た1965年

にはさらに合計780,OC氾部にも達したo (ちなみにGrimmのこの小説は、日本

においては、 1940年12月から1941年12月の間に星野慎一による翻訳が公刊

され、とりわけその第‑巻『狭あいなる故郷』は一年たらずの間に108版を数

えている) Grimmと同じくナチス芸術アカデミー文学部門の評議員であり「国

民作家」の代表的人物の一人とされたErwin Guido Kolbenheyer ( 1878‑1%2 )

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の全集14巻は、第三帝国期のみならず戦後1957年からも公刊され、 60年代に は各作品の普及版が出版された。

さらに、これらの作家たちの戦後の自己弁明という問題がある。

Grimmは、 1954年回想録『何故、何処から、だが何処‑?一歴史的現象と してのヒトラー以前とその治下とその後』(Warum ‑woher ‑ aber wohin?

Vor, unter und nach der geschichtlichen Erscheinung Hitler )を書き、

過去に行なったナチス加担の自己弁明を試みているKolbenheyerもまた1957 年自己弁明を目的として自伝的長編小説『ゼバステイアン・カルストーかれの 生涯とかれの時代』 (Sebastian Karst. Uber sein Leben und seine Zeit) を公刊した。池田浩士によれば「そこにはグリム程度の後悔すら見られず、もっ ぱら自己の歩みを悲劇的でかつ雄々しいドイツ知識人の道として正当化する意 図だけがあらわれている」(2)のである。

国家主義的なファシズム文学がこのように、戦後の世代にまで生き残り普及 しかれらの自己弁明の書さえもがまかり通っているという問題は、戦後西ドイ ツの社会的一般的な風潮としての右傾化傾向という一語によって簡単に片ずけ ることができない深刻さを、今日なお私たちドイツ文学研究者につきつけずに はおかない。この現象は、戦後から今日にいたるまでのゲルマニステイクが、

ファシズム文学研究に専念しその要素と機能を分析摘出提示するに充分な状況 ではないという問題をわれわれに提起しているように思われるのである。

1.第一期(1890‑1918)

ドイツ・ファシズム文学の第‑期には、 Paul deLagarde,Julius Langbehn, Houston Stewart Chamberlain, Otto Weininger, Alfred Schuler, Ludwig Klages, Hans Bliiherたちが主としてその思想潮流を担い、反近代の旗印を明 瞭にして、工業主義物質主義に対抗する思想傾向を代表したLagardeは『ド イツ論』 (Deutsche Schriften, 1886)を書き、 Langbehnは『教育者として のレンブラント』 (Rembrandt als Erzieher, 1890)、 Chamberlainは『 19 世紀の基礎』 (Die Grunglagen des 19.Jahrhunderts, 1899)を書いたので ある。伝統を重視し地方主義に傾き西欧啓蒙主義の主知主義を排斥、反セム主 義の基盤を学問的論理として一層強固なものにしてゆくこの時期には、 「郷土芸 術運動(Heimatkunstbewegung)が最も主要な文学思潮となったTimm

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Kroger, Ferdinand Avenarius, Heinrich Sohnrey, Ernst Wachler, Wilhelm Sch云fer, Gorch Fock, Friedrich Lienhard, Adolf Bartelsたちが代表的な郷 土作家と見なされ、これらを支えた雑誌には『塔の番人』(Der Tiirmer, 1898 )、

『故郷』(Heimat, 1900)、『ライン地方』(Die Rheinland, 1鎌X))、『仲間』(Die Gese】】schaft, )があった。性急な近代化に対する或る意味では必然的な民衆の 反抗とそして挫折もしくは敗北のテーマは、 1㈱年以後の大衆文学であり総計 50万部にも達したといわれる「世界観小説」 (Weltanschauungsroman )の 氾濫に受け継がれ、ワイマール期には、 「戦争讃美文学」の流行と共に、来たる べきナチズムの支配権力を支える「植民地文学」 「歴史文学」 「血と土の文学」

( Blut‑und‑Boden‑Literatur )の隆盛を根底において支え、ついには第三帝国 期の「党の文学」 (Parteidichtung)にたどりつくことによって、非現実的な

ポェジー領域においてドイツ民族の千年王国達成の夢を獲得することになる。

この過程はまさに>英雄的<なものと見なされたが故にこそ、大衆の受容と支 持を徐々にそして確実に獲得してゆくことになった。

郷土文学を契機として1鎌X)年以後解き放たれたように流行を生んだ「世界観 小説」に関し、 Uwe‑K‑Ketelsenは次のように説明をくわえているo

「これらの小説には、世紀転換期の社会的現実が、工業化の過程の中で最早 田舎には生存の基盤を見出せない人々、そして都市‑と吸収されあるいはその ささやかな手工業の生産基盤が生産の変化と利益のカルテル化によっておびや かされた人々の視点から描写された。運命と感じられたこのような変化の中に 隠されている>意味<の探求こそが、これらの主要なテーマとなった。このよ

うな欲求を強調した文学は、当該者たちを最早ある歴史状況の犠牲者として描 く(自然主義がしたように)ことなく、むしろ登場人物たちを行動する人々と して示した。勿論その場合、苦悩と行動との間に生じる矛盾は止揚できないの で、小説の登場人物たちの能動性は速やかに>内面<‑向かうくよくよ思いわ ずらう退却の道をたどることになった。」(3)

すなわち、世紀転換期のr世界観小説」においては、新しい統一国家の近代 化によって抑圧される運命を担うことになった大衆の>意味<探求が主要なテー マとなる。かれらは>意味<獲得のための>行動<を自覚しながらも、現実と の葛藤に敗れ退却を余儀なくされながら>内面<‑の道をたどらざるおえない のである。

このような関連の中で挙げられる重要な作家には、 HeleneBohlau, Karl Sohle,

Wilhelm von Polenz, Hermann Stehr, Emil StrauB, Cllara Viebig, Jakob

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Wassermann, Gustav Frenssen, der junge Hesse, Fritz Stavenhagenた ちがいる。

農民たちを核としたこれら一般大衆の「敗北」と「挫折」そして「内面」 ‑ の道は、郷土作家の一人Adolf Bartels (1862 ‑ 1945)のこれまで取り沙汰 されることの少なかった生涯の軌跡にそのまま符合して、やがて「保守革命」

の急進的な行動に突き進む宿命にいたることになった。

Adolf Bartelsは、 1862年北海沿岸のヴェッセルブ‑レン(ディトマルシェ ン地方)において鍵屋の息子として産まれた1898年かれは社会ダーヴィニズ ムの基調を織り込み『ディトマルシェン人』 (Die Dithmarscher)を書くこと によって成功をおさめる。かれは16世紀農民戦争の史実に基ずき、ドイツの農 民たちのデンマーク及びホルスタイン人たちに対する解放闘争とその挫折を描 いたのであったBartelsによれば、しかしそれは市民的工業国家の中で育まれ た文明力に対抗する民衆の英雄的な闘争であったのである(4)この英雄性は、表 裏一体のものとして挫折にいたるペシミズムを含んでいた。従ってそれは民衆 の無力感を共通の悲運として描き、民衆の一体感を産み出す働きをすると共に、

反転して新たな能動的なナチズム‑いたる行動の意欲を準備することにもなっ た。

『ディトマルシェン人』を上梓した翌年、かれは二番目の長編小説『ディ‑ト リッヒ・ゼ‑プラント』(Dietrich Sebrandt, 1899)を書く。一方では詩人とし て『詩集』 ( Gedichte, 1889 )、 『ドイツ民族詩集』 ( Deutschvolkische Gedichte, 1914)、 『新詩集』 (Neue Gedichte, 1921)をも公刊している。 1905年かれは ワイマールの教授となり、 1900年頃から着手してその都度すでに幾度かの出版 を経験していた『ドイツ文学史』 3巻( Geschichte der deutschen Literatur, 1924 ‑ 28)をついに完成する。この文学史は、反ユダヤ主義の人種イデオロギー

を骨子としたドイツ文学史上初の"大作"であって、 Bartelsは、 「ドイツの保守 的な国民文学作品を、かれの種々の文学史の中で>郷土芸術< ( Heimatkunst ) の項目を設けて集め、ファシストたちが文学理解という次元で結びつくことが できる政治的な区画とした最初の人物であった」(5)のである。この意味において かれは、ワイマールにおいて「新しい学問」の創始者となった。

1920年ザルツブルグの党大会において「ドイツ労働者党」 (DAP)は「ドイ

ツ社会党」及び「ドイツ国民社会党」と合同して、 「国民社会主義ドイツ労働者

党」 (NSDAP)を結成する。党員数3,∝X)名。いわゆるヒトラーのナチ党の発

足である。その4年後、 Bartelsは『国民社会主義‑ドイツの救済』 (Der

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臼l^^^^H

Nationalsozialismus. Deutschlands Rettung, 1924 )を書き、かれ自身の行 動の勝利の希望をナチスによる新しい運動に託したO後に、ナチスドイツによ るオーストリア併合(1938)を間近にひかえたナチス運動の絶頂期とも言うべき 1937年、かれは『ドイツ文学史』の増補第16版の中で確信に満ちた調子をあら わにしながら次のように述べている。「疑いもなくアドルフ・ヒトラーはわが民 族に召喚された指導者である。われわれは、 1933年1月30日かれが帝国首相 になったことを、ドイツのそしてドイツの生全体の新しい雄々しい飛躍として とらえることができる。」(6)

Bartelsは作家、詩人、ゲルマニストであるにとどまらず、生々しい現実の政 治にも深くかかわり、 「文化ボルシェビズム」と"退廃的"な「アスファルト文 学」 ( Bartelsの造語)に対する民族的文化闘争の先兵の役割を積極的に担って いった。文学雑誌『ドイツ的著作』 (Deutsche Schriften)の出版人(1909 ‑ 1933)として。党の機関紙『民族の観察者』 (Volkischer Beobachter)のフ

リーの文化欄担当者(freier Schriftsteller)、およびアルフレート・ローゼン ベルグによって設立(1929)された「ドイツ文化闘争同盟」 (KfDK)会員と

して。

ヒトラーは1926年ワイマールのBartelsを訪れつよい印象を受けたと言われ る1937年「民族の文化刷新の先駆者」として、 Bartelsにはドイツ帝国の「鷲 の紋章」が与えられた1942年80才の誕生日には、生涯ナチ党に属すること のなかったかれに、通常古参の闘士のみに贈られていた「金の党章」が授与さ れた。世紀末の「挫折」の生活感情をかつて生きたBartelsは、今やドイツ・ファ シズム運動の頂点に登りつめ「行動の人」となった証しを得たのである1945 年3月7日、ドイツの敗戦、したがってナチスの敗北を体験することなくかれ はワイマールにおいてこの世を去った。 Bartelsの生涯はこのように、ドイツ・

ファシズム文学の当初の展開を如実に象徴しているのである。

2.第二期(1918‑1933)

ドイツ・ファシズム文学の第二期、すなわちワイマール期は「背後からの一

突き伝説」もしくは「あいくち伝説」 (DolchstoBlegende)に象徴されるよう

に、敗戦とヴェルサイユ条約にたいする国民的な怨念の時代でもある。政治的

経済的な混乱ははなはだしく、内閣は短期間の内に次々と交代を余儀なくされ、

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極度のインフレと失業に苦悩し、テロが横行する。ベルリンにおけるシャイデ マン内閣打倒の50万人抗議デモ(1919.1.5)、反革命のカップー撰(1920.3.

13)、外相ヴァルター・ラーテナウに振りかかった右翼による暗殺(1922.6.24)、

そしてまたヒトラー、ゲーリング、ルーデンドルフたちによるミュン‑ン一校 (1923. ll.8‑9)等々。一兆マルクが‑レンテンマルクに固定された1923年11 月以降、ロカルノ条約(1925.10)による和平と協調のいわゆる「ロカルノ精 神」を経て1929年の世界恐慌にいたるまでの数年間は、比較的安定し.た状勢で あったにもかかわらず、 1930年9月の総選挙におけるナチ党の大躍進(ナチ党 は640万票107議席を獲得して第二党となる)が不気味に予感させるとうり、

ワイマール共和国はやがて力尽きてヒトラーの手に政権を譲り渡すことになる のである。

スポーツ、映画とラジオ、裸体運動、ジャズの流行にダンス熱、ジョセフィー ン・ベーカーのヌードダンス、麻薬にオカルト、女性の喫煙、いわゆる「クラ ンツ事件」 (1927)に見られるフリーセックスは、この混乱の時代の新しい風 俗を代表していた.そして一次大戦による皮肉な過程の女性解放と、これに呼 応して生じた女性たちによる大規模な社会進出(20年代には約1,100万人の女 性たちが一挙に定職についた)という現象は、家庭から社会生活にいたるまで、

既存の社会構造の従来見られることのなかった大きな変革を意味していた。そ してまた20世紀初頭社会主義者たちによって細々と組織されたワンダーフォー ゲルを中心とする青年運動は、ロマン主義的な理想主義に燃え世の"退廃"に 抗し自然と健康を愛し、同志愛と祖国愛、責任と義務を尊重しながら反ユダヤ 主義の傾向に染まり、このようにして偉大な指導者と「全体」を渇望する巨大 な精神思潮の流れを形成していく動因となった。

やがてナチズムに集約される保守革命の具体的な思想潮流は、オズワルト・

シュペングラーの『ドイツ帝国の新建設』 (Oswald Speng】er, Neubau des Deutschen Reiches, 1924)、アルトウール・メラー・フアン・デン・ブルック の『第三帝国』( Arthur Moeller van den Bruck, Das Dritte Reich, 1927 )、

エドガ‑ ・ユング『劣等者たちの支配』 (Edgar Jung, Die Herrschaft der

Minderwertigen, 1927 )、オトマール・シュパン『真の国家』( Othmar Spann,

Der wahre Staat, 1921)、ハンス・フライヤー『右翼革命』 (Hans Freyer,

Revolution von rechts, 1931 )などの保守的民族的著作によって準備されてい

たo例えば、これらの著作家の中、右翼サークルの中では絶大な人気を博した

オーストリアの社会哲学者オトマール・シュパンは、当時の時代を代表する"悪

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者のリスト"を提示し、ロック、ヒュ‑ム、ヴォルテール、ルソー、リカード、

マルクス、ダーウィン、精神分析、印象主義、ダダイズム、キュービズム、そ して劇映画の名を挙げた(7)が、西側ヨーロッパの経験的、啓蒙主義的合理主義、

マルクシズム、伝統を破壊する芸術運動のすべてがこ手では否定されているの が分かる。

政治と経済の暗部とは対照的に、ワイマール期は他方では「黄金の20年 代」(8)と評される波乱に富んだ文化の時代であった。殊に「表現主義」とそして

「バウ‑ウス」運動とは、文学儀域をも含めた芸術一般に根底において抜きがた い影響をあたえ、従来の在り方に深い動揺と変革の気運を準備した。同時にま たこれらは、ヒトラー・ファシズムの全体主義にいたる道筋を、図らずも用意 したと思わざるをえない微妙な側面も有していた。これらの芸術運動を担った 大部分の者たちの、真の意図には恐らくは反したこの>微妙な側面<に注目す る作業は、ファシズムの招来を可能にする人間の渇望の原点の問題をわれわれ の眼前に呈示して、これを問うべく促さずにはおかない。そう思えるのである。

そしてそれは当然ファシズム文学の成立にかかわる問題でもあった。

1905年から次々に開催された野獣派の展覧会を契機として、絵画、彫刻、音 楽そして文学のあらゆる芸術活動を包括したドイツのアヴァン・ギャルド芸術

に「表現主義」の名を冠したのは美術史家ヴイル‑ルム・ヴオリンガ‑であっ た。その後表現主義は、最盛期の「表現主義の十年」 (10年代)を経てワイマー ル期の20年代の半ばには活力を失なう。

「黄金の20年代」の文化偵域において、既成の秩序に対する反抗の姿勢に終 始した「表現主義」運動の、いわばせまり来る暗雲、すなわちドイツ・ファシ ズムとの、或る意味においては意外な関連は今もなお明確な輪郭を伴なって描 かれるにはいたっていない。しかしこの関連に注意を凝らし分析のメスをいれ る時、そこからにじみだしてくるかのように姿を現わす諸問題が、まさに今日 に生きるわれわれの諸問題であることに気付かぬ者はいないだろう。

モスクワの亡命ドイツ人たちのよって創刊された『ダス・ヴォルト』 (言葉) 読(1936.7‑ 1939.3)上において、 1937年9月クラウス・マンとベルンバルト・

ツイグラーとが行なったゴットフリート・ベンのナチズム支持表明に対する批

判は、いはゆる「表現主義論争」の幕開けとなった。ルカ‑チ、プロツホ、ブ

レヒト、ギュンタ‑など多くの思想家、作家を巻き込んだこの論争は、当時完

結することなく、今日にいたるまでひき続き、われわれにとって意味深くなお

かつ深刻な問題を残している。 「表現主義論争」の展開を編集そして邦訳し、詳

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細かつ重厚な解説をつけ加えた池田浩士によれば、 「表現主義の叛逆が、部分的 にせよナチズムの叛逆に合流していかざるをえなかった事実を、かれら(論争 に加わった者たち一引用者註)は具体的に直視しようとはしなかった。ゴット フリート・ベンやテイングシュピール(ナチ時代の民衆劇一引用者註)という かたちで生きのこっていたその叛逆が、何故にナチ権力の政策変更によってあっ

けなく葬り去られねばならなかったのかという問題もまた、こうして問われぬ ままに終わった」のである(9)

池田浩士はさらに、完結することのなかったこの論争が今日のわれわれに残 した問題を四点にまとめて提示している。(la [1]表現方法や表現形式という観 点に加えて、表現技術の観点から表現主義芸術と論争とをとらえなおすこと。

[2]送り手と一受け手の関係と、集団的な創作や演技の問題。すなわち、い かにして表現者と受容者との一方的関係を打破するか、という問題[3]組織 対象者として人間を見るのではない表現は、いかにして可能か、という問題[4]

それぞれの人間が自分自身の表現をもつことがどうすれば可能か、という問題。

およそ半世紀前に、しかもそれより20年以上も以前の出来事についてとり行 なわれたこの「表現主義論争」の現代的な意味は、それが[1]においては、

明らかに文学、芸術そしてマス・メディアの総体と人間との関係の問題を、[2]

および[3]においては、支配と被支配の関係に犯されることのない人と人と のコミュニケーションの問題を、そして[4]が個の確立と表現の問題を提起

しているところにある。そしてその上に勿論これらの四点は、相互に密接に関 連しあって、個が所属する集団もしくは社会の在り方を基本的な次元で問う問 題でもある。従ってこれらの問いは、われわれが今直面してどうしても避ける

ことのできない極めて現実的な意味をもっている。

ワイマール期のアヴァンギャルドを特徴づけるバウハウス運動もまた、「表現 主義論争」の編集作業にあたって池田浩士が抽出したこれら四点の問題に深く かかわっていたものと考えることができる。

バウハウスは、建築家ヴァルター・グロピウスにより、在来の芸術学校と工 芸学校の二つを統合してワイマールにおいて開校されたが、 1925年にはデッサ

ウ‑、そして1932年にはさらにベルリン‑移った後、ワイマール共和国が崩壊 した半年後には消滅を余儀なくされる1919年、その開校に際してグロピウス が公表したビラ『ワイマール国立バウハウス宣言』の末尾にはバウハウスのめ

ざす目的と理想とが次のように高らかに唄われている。「それゆえにわれわれは、

手職人と芸術家との間にうぬぼれた塀を作ろうとするような、階級分離の不遜

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98 iU崎‑戟

を伴なわない新しい手職人の未来を築きあげようではないか.!われわれは一 体となって、建築、彫刻、絵画のあらゆるものが一つの形態をとる、新しい未 来の建築様式を希求し熟考し創造しよう。それは幾百万の手職人の手から、新 しい来るべき信仰を象徴する結晶として、いつかは天空にむけて立ち昇ってゆ くだろう。」(ll)

芸術の総合化はバウ‑ウスの中心思想の一つ「総合住宅建築」において具体 化され、その試みもまた住宅住民の機能的な共同性を創出しようとするという 意味において、階級分離の克服というグロピウスの基本思想と結びついていた。

バウハウスの理念はこのように、手職人と芸術家との垣根がとり払われ、芸 術家が再び中世におけるように個別的な人間として集団の中に立ち戻り、そし てそこでそのまま匿名(anonym)の存在となることを理想とした。芸術は、

このようにして、かつてのように再び意識的な計画性から離脱して無意識にと り行なわれる手仕事となる。従って、従来とは異なり、この場合手職人が有能 な芸術家となり、その作品はより高次の次元で共同体理念のメディアとなる。

グロピウスが書きつづったバウハウス設立宣言ビラの表紙には、リオネル・フア イニンガ‑の作品、星空を背景として天空にそびえ立つ聖堂の木版画が、構図 の全体としてきわめて直進的に勢いよく描かれ、芸術の総合化と社会統一の信 仰をダイナミックに象徴していた。(lカ

ナチスによって後には排斥されることになるゴットフリート・ベン以外にも、

ナチズム‑合流していった表現主義者には、党員画家のエミール・ノルデ、文 学著作家のクルト・ハイニツケやアルノルト・ブロンネン、そしてナチス文学 アカデミー(Deutsche Akademie der Dichtkunst)および帝国著作院 (Reichsschrifttumskammer)双方の会長であり、親衛隊(SS )の旅団長で もあった‑ンス・ヨ‑ストたちがいる。表現主義者たちが、一方的な支配被支 配の人間関係を打破し克服したコミュニケーション成立の基盤を確立しえずに、

そしてまたバウ‑ウスが、新しい信仰として求めた共同体の理念を真の意味で は創出しえずに、いずれも挫折してゆく運命をたどったのとは対照的に、ドイ ツ・ファシズムの思想家、哲学者、作家、詩人たちは、自らすすんで自覚的に

「民族」という全体に有機的な一分肢として組みこまれてゆく道を選んだoかれ らは、ゲルマン民族の「血」とそしてドイツという祖国ないしは個々の郷土の

「土」に、従って「血と土」 (Blut und Boden)に、確固とした存在の基盤を

見出しうるという希望を抱き、これらに根づくことによって、 20世紀初頭の現

代という時代の中で断片化され分離分割された個と共に、時代の危機とそれか

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ら当時政治、経済、文化のあらゆる領域で途方もなく進行していた混乱とを、

同時に救済できるものと信じた。

その一人、哲学者のJulius Langbehn (1851‑1907)は、 39才のときナ チズムの古典と称せられる『教育者としてのレムプラント』 (Rembrandt als Erzieher, 1890)を書くOわずか二年間で40版、 1922年には76版、 1945年 までには150,㈱0部が売られたという当時著名なこの書は、ドイツ人たちが長き にわたり待望していた「救済の書」と評された。注目に値するのはこのように、

ナチズムが政治の表舞台‑踊り出て台頭躍進してゆく時期よりはるか以前に、

この書が高い評価を与えられ多数のドイツ人たちに読まれ、その勢いがワイマー ル期はもとより第三帝国期にいたるまで少しも衰えなかったという歴史的事実 ばかりではないLangbehnはこの書に、通常の慣習からすれば当然書くべき

自分の著作者名を掲載しなかった。 「一人のドイツ人による」(voneinemDeut‑

schen)とのみ単に書きしるして、意識的に匿名(anonym)に留まろうとし た。何故なら、かれはかれ自身の存在を民族という概念でくくられてはいたが

‑つの共同体のメディアとして理解していたからであるo(1頚

Langbehnにとって、芸術は、郷土の「土」に結びつきそして民族の個性を 表現するものでなければならなかった。それが時代の混乱の中をさまよいつつ あるドイツ人の魂を救済する唯一の道である。 『教育者としてのレムプラント』

において、かれはその思いを次のように述べるo(lのrさまよえるドイツ人の魂は、

再び故郷の土に結びつかなければならない。ホルスタインの画家はホルスタイ ン的に、チューリンゲンのそれはチューリンゲン的に、バイエルンのそれはバ イエルン的に、徹底して内部と外部、精神と対象を描きつくさなければならな い。」 「純粋な芸術は、内在的統一的に民族の個性に結びついていることからの み生じるO現代芸術の展開が一面貧困であるのは、このことを証明するものだ。」

このような思いをさらにもう一歩進めると.国家的生の個は、その意志から離 れて民族という全体に組みこまれこれに奉仕する存在となる。かれはさらに言 う。 「個は、それが真に個人的な意志を離れ、民族の生の偉大な建設に組みこま れて、それに奉仕する場合にはじめて有用なものとなる。ドイツ人であればド イツ性(Deutschtum)に仕えなければならない。」

Langbehnがこの書において強調した思想には、見のがしえないもう一つの 柱があった。絵画と文字(Buchstabe)、すなわち芸術と学問とを対置して、

かれはあらゆるドイツ人たちが芸術の味方になるように訴えるのである。既成

の学問の主知主義と専門主義、そしてこれに基ずくところの科学、技術、文明

(12)

100 溶暗‑級

は、人間の生にとって不可欠な感情の諸力を封じこめてしまった。学問は世界 を常に部分的にしか見ることがなく、 「全体」を忘れている。芸術だけが「全体」

の像を描くことができるのであって、従って教授(Professor)は芸術家(Kunst‑

ler)と交代すべきだとかれは言うのである009′

従来知性に支配されてきた人間の感情を解放してこれをむしろ優位におき、 「血 と土」に結びつき根ずきながら、民族共同体を志向してゆく哲学の過程におい て、かれ自身共同体のメディアとして匿名(anonym)に留まろうとする。グ ロピウスの「バウハウス宣言」の芸術家が、匿名の手職人として集団に埋没し、

その作品も恐らくは確実に匿名のまま、かれらが天空‑むけて直進的に憧れた 共同体のメディアとなることを願った信仰と、これは出発の部分において少し も異なってはいない。個の匿名性が、集団のメディアという機能に通じ、そし てまたひいてはそれが共同体の創出につながってゆくという意味において、両 者には調和し一致する部分があるのだが、しかし、後者が「階級」 (Klasse) の呼び名で示した人と人との隔絶を、どのようにして克服するのかという社会 的な人間の最大のテーマに固執して、理想と憧憶の次元で足踏みしながら、め ざす共同体の明確な像を創造しえない間に、結局のところナチス権力のもとで 解体を余儀なくされてゆく状況に比較して、前者は、個を「民族」という全体

‑従属的に奉仕させることによって、性急な時代の危機状況を突破することが できた。少なくとも十二年間にわたって国家の権力をわがものとしこれをほし いままに操り、ドイツ・ファシズムの到来を歴史的な必然とすることができた のである。

「表現主義の叛逆が、部分的にせよナチズムの叛逆に合流していかざるおえ なかった」歴史的事実と、そしてまたグロピウスの方法と憧懐とが苦しくもナチ ズムの古典Langbehnのそれと重なり合っている部分をもっていたという事実 は、両者とも、内容と質において当初からナチズムの対極に位置しているはず のものが、容易にファシズム‑通じてゆく、ないしは転換してゆく可能性を秘 めているという重々しい問題をわれわれに投げかけている。

「表現主義論争」の中から池田浩士が「論争の再生のために」抽出した問題 点の上記の四点、殊に[2]と[3]と[4]とが個の在り方と個と個の関係 の問題を提起したそれ以上に、恐らくは、個とは直接的には切り離されたとこ ろで成立し自律性を保つ人間の集団の在り方を、そしてこの集団をとりまく時 と歴史の推移を、絶えず見つづける作業がわれわれに課せられている。たとえ

「生きられている瞬間の闇」というプロツホのテーゼがあったとしてもoOO

(13)

政治および経済の混乱の中で、従来思いもよらなかったほどの多様な個別化 が生じ時に退廃的な兆候を示しながらも、ドイツのワイマール期は、社会的な 思想潮流においてそして表現主義やバウハウスの芸術運動において、従って思 想と表現において、新しい生と社会の在り方を模索し追求したのだが、いずれ もヒトラーのもとで実現したドイツ・ファシズム‑一方では意識的に他方では 意に反してはいても集約されてゆくという結果に終わった。世紀の転換期にお いて「郷土文学」から「世界観小説」 ‑という展開をたどり、農民および小市 民層の近代文明に対する挫折感とそこから反転して生じる反抗を目的とした行 戟‑の意欲、そして同時にしかし容易には行動に踏みきれない内面の俊巡を描

いた文学は、ワイマール期において、このような背景に支えられながら単なる 幻想的な俊巡の次元を越え,現実の世界に正面から対噂してこれを批判する行 動に移りナチズムの「保守革命」に積極的に参加してゆく形態をとる。近代化

と物質主義に反抗して「郷土」とそしてであるが故に「血と土」をもとめた文 学は、それ以上に行動の具体的な理念を獲得するようになるのである。その理 念は、戦争の讃美であり植民地の獲得でありそして民族のアイデンティティを 確立するためのドイツの歴史の再構築であった。

「血と土の文学」、 「戦争讃美文学」、 「植民地文学」そして「歴史文学」とい うドイツ・ファシズム(ナチズム)文学の個々のジャンルについて、その概要 を述べようとすれば、その第一期から第三期までの作品と作家を統一的に整理 する膨大な作業が必要である。そしてその作業は、今日にいたるまで日本のゲ ルマニストは勿論、ドイツのゲルマニストたちによっても厳密な意味ではなさ れてはいない。個々はなはだしく不統‑でばらばらというのが従来の印象であっ て、それは、われわれの今後の大きな課題であるということができる。本論に おいては、 Jan Berg、 Hartmut Bohme以下数人の手による『 1918年から 現代にいたるまでのドイツ文学社会史』 (Sozialgeschichte der deutschen Literatur von 1918 bis zur Gegenwart, Frankfurt am Main 1981 )およ びUwe‑K.Ketelsenの『 1890年から1945年にいたるドイツの民族主義的国家 主義的そして国民社会主義的文学』 (Volkisch‑nationale und national‑

sozialistische Literatur in Deutschland 1890 ‑ 1945, Stuttgart 1976 )lに 従い、それぞれのジャンルに区分けされる作家名の中、比較的重要だと思われ

るものをいくつか挙げるにとどめる。個々のジャンルにかかわるおおまかな概 要説明は、筆者が主につけくわえたものである。

ナチスが大衆操作のために用いた最も重要な標語の一つ「血と土」は、ナチ

(14)

102 潰崎‑敬

ス支配の十二年の間「帝国農民指導者」 ( Reichsbauernfiihrer)であり、そし てまた「帝国食料農業大臣」 (Reichsminister fur Ern云hrung und Land‑

wirtschaft )の任に留まったRichard Walter Darreによって作られたもので ある。かれの一連の著作『北方人種の生の源泉としての農民』(Das Bauerntum als Lebensquell der nordischen Rasse, 1928 ) 、『血と土に関して』( Urn Blut und Boden, 1929 )、『血と土の新貴族』( Neuadel aus Blut und Boden, 1930 )

に表わされた「血と土」のイデオロギーは、ヒトラーに深い感銘をあたえた。

かれは、農民こそは単にr食科の基盤」 (Ern云hrungsgrundlage)であるばか りではなくて、 「生の原動力」 (Lebensmotor)ドイツ民族の「血の刷新の源泉」

(Bluterneuerungsquell )であると強調するのである。09この思想は、工業お よび技術とこれらが生産する物の集約点である都市とそして農民とを二項対立 的にとらえ、農村の優位を説くものであった。それはまた、世界におけるゲル マン民族の「血」の優越性を鼓吹し他の民族、殊にユダヤ人たちを排斥する人 種イデオロギーに繋がり、さらに先進西欧諸国の近代が培ってきた民主主義、

自由主義、議会主義といういわば都市的な思想潮流と制度そのものを排斥否定 して、ヒトラーの政治的独裁制を確立してゆく思想展開の具体的な核ともなっ たのである。この意味において、 「血と土」の思想は、政治、文化、芸術、文学 のあらゆる領域において当初から第三帝国期にいたるまでつらぬかれていたド イツ・ファシズム(ナチズム)の基本思想であると考えることができる。

Darreによって作られた「血と土」の概念は、ナチズム文学の最も重要なジャ ンルの一つである「血と土の文学」 (Blut‑und‑Boden‑Literatur )をも当然規 定することになった。その主な作家には、 Friedrich Griese, Emil Straul3, Josefa Berens‑Totenohl, Heinz Kindermann, Arthur Dinter,Hans Frank, Knut Hamsun, Heinrich Waggerl, Josef Martin Bauer, Richard Billinger たち多数のものがいる。

第一次大戦後のワイマール期において隆盛をきわめた「戦争讃美文学」

( Kriegsliteratur )の代表的作家には、 Werner Beumelburg, Ewin Erich Dwinger, Hans Zoerlin Franz Schaubecker, Hans Carossa, Rudolf G.

Binding, Ina Seidel, Ernst von Salomon, Ernst Jiinger, Fnednch Georg

Jiingerたちが挙げられる。かれらは、前線の戦友愛、相互扶助と犠牲の精神、

従って戦争という極限の状況で生じた共同体体験を描きこれを美化すると共に、

エゴイスティックな利己心と物質主義的な目的思想を超越したところに成立す

る全体主義的な民族共同体を理想境として、これをワイマール共和国の混乱と

(15)

疲幣に対置してみせた。戦争を遂行する軍隊内部の指導者に対する服従原理と そして全体‑の奉仕は、来たるべき民族共同体のモデルとされた。

「植民地文学」 (Kolonialliteratur)のジャンルのおいては、他に競うべく もなくHans Grimmが代表的な作家である。かれの作品『土地なき民』(Volk ohneRaum, 1926)は、ヒトラーの『わが闘争』およびアルフレート・ローゼ ンベルクの『20世紀の神話』とならびナチズムの聖典と称せられ、 「土地なき 民」というこの作品表題は、当時ドイツにあふれた無産の民とそしてドイツの 国民自体を象徴的に言い表わすナチズムの重要な標語となった。都市に集中せ ざるをえなかった無産のかつての農民たちは、都市労働者としてついには失業 に追い込まれ、ワイマール末期の失業者数は6α)万人に達した。このような状 況を突破する方策は、財産の分配換えや生産手段の社会化といった社会主義革 命、ないしは社会構造の再編に見出されるのではなくて、単に外国の領土を獲 得すること、獲得された植民地にドイツ人たちが移住することであると主張さ れた。ドイツの窮乏はすべて土地不足に起因する、という発想がここにはあっ たのである。大戦後のヴェルサイユ条約によって、植民地のすべて、以前の領 土の約13%(ェルザス・ロートリンゲン、ポーランド回廊、シュレスヴィッヒ・

ホルスタイン北部その他)を失なっていたワイマール期、殊に20年代において、

その怨念の故に「植民地文学」は大成功をおさめたGrimm以外にGustav

Frenssen, Johannes Gillhof, Paul von Lettow, Bernhard Voigt, Josef Ponten Wilhelm Pleyerたちがこの領域の代表作家である。

「歴史文学」 ( Historische Literatur )は、神話や伝説そして歴史の中にゲ ルマン人の本来の在り方を見出そうとする。その際個々の英雄性が強調される

と共に、全体が完結した民族共同体である帝国の実現が憧憶の対象となる。同 時にそれは民族のアイデンティティの確保とそして自民族の優越性を証明する ことを目的とし、来たるべき植民地獲得戦争にとって有効な自国民の排外主義 的な団結を促そうとするものであったoこの領域の主な作家には. Hans Friedrich Blunck, Paul Ernst, Erwin Guido Kolbenheyer, Ernst Bertram, Bbrries von Munchhausen, Will Vesper, Wilhelm Sch云ferなどがいる。

(16)

104 清崎‑敬

Anmerkunjjen

(1) Vgl.Jan Berg/Hartmut Bohme/Walter F云hnders/ Jan Hans/ Heinz‑B.

Heller /Joachim Hintze / Helga Karrenbr∝k / Peter Schiitze / Jiirgen C.

Thoming / Peter Zimmermann: Sozialgeschichte der deutschen Literatur von 1918 bis zur Gegenwart. Frankfurt am Main 1981. S.413. Und auch Uwe‑K.

Ketelsen: Volkischnationale und nationalsozialistische Literatur in Deutschland 1890 ‑ 1945. Stuttgart 1976. S. 24.

(2)池田培土『ファシズムと文学ヒトラーを支えた作家たち』白水社1978年 (3) Uwe‑K.Ketelsen [Anm.(1)I. S.40

(4) Vgl. Ebd. S.38.

(5) Sozialgeschichte der deutschen Literatur [Anm.(1) ] S.364.

(6) Adolf Bartels: Geschichte der deutschen Literatur. Braunschweig / Berlin / Leipzig / Hamburg 1937. S. 728.

(7) Vgl.ピーター・ゲイ『ワイマール文化』亀嶋庸一訳みすず書房1987年S.115.

( Peter Gay: Weimar Culture‑the Outsider as Insider. Harper & Row 1968. ) (8) 1923年ベルリン生まれのPeterGayは、 1969年以降イエール大学のヨーロッパ比較思想

史の教授であるが、その著書Weimar Culture‑the Outsider as Insider, Harper &

Row 1968邦訳については上記註の(7)を参照]の中で、ワイマール文化を「黄金の20年 代」 「ペリクレス時代の再来」として描くことによって、従来ヒトラー・ファシズムの前 史ないしは予備期間としてのみ否定的にとらえられていたワイマール期のプラス評価の転 換に先駆的な役割を果した。その後、プレスラウ生まれの歴史家Walter Laqueur (チ ル・アヴィヴ大学近代史教授およびロンドンの現代史研究所所長)がWeimar, A Cultural History 1918 ‑1933, London 1974 (邦訳『ワイマールを生きた人々』ミネルヴァ書房1980 午)においてプラスシンボルとしての「ワイマール文化絵巻」もしくは「ワイマールの万 華鏡」を描くことになる。

(9)池田浩士『表現主義論争籍訳』れんが書房新社1988年S.533‑S.534.

(10) Vgl. Ebd. S.534‑S.536.

Walter Gropius: Manifeste des staatlichen Bauhauses in Weimar, Weimar 1919, zitiert nach Herbert Wilmsmeyer: 》 Volk, Blut, Boden, Kunstler, Gott 《‑Zur

Kunst‑p云dagogik im Dritten Reich. In: Wissenschaft im Dritten Reich, Hrsg. von

Peter Lundgreen, Frankfurt am Main 1985. S. 91.

(lカVgl. Ebd. S.92.に掲載されている木版画 (1討Vgl. Ebd. S.99.

(14) Ebd. S.97.

Vgl. Ebd. S. 97‑0.Z/O*

Vgl.池田浩士[Anm.(9)J S.534.

Vgl. Sozialgeschichte der deutschen Literatur [Anm.(1) ] S.378.

(Received April 10, 1989)

参照

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