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災害が作る遺跡

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Academic year: 2021

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災害が作る遺跡

著者 佐々木 達夫

雑誌名 金大考古

巻 47

ページ 8‑9

発行年 2005‑02‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/2968

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2004 年末、スマトラ沖で地震が起こり、インド洋 沿岸に津波が押し寄せた。海岸の町は流され、12 月 26 日は広域に同時代遺跡が生まれた日となった。

 私はそのときオマーン湾岸のリゾート地で、港町 遺跡の発掘をしていた。インドやスリランカ、そし てアフリカ沿岸部にまで津波被害があったが、アラ ビア半島はオマーンの一部が被害を受けただけだっ た。インド洋の東側でなく西側で地震が起こってい れば、私のいたアラビア半島東北部の海岸と遺跡そ して町も私も流されたに違いない。

 今回の津波は広い範囲に同じ時代の遺跡を作った が、これまでも自然災害は多くの町を遺跡に変えて きた。人為的な災害も多くの遺跡を作ってきた。発 掘中のアラブ首長国連邦コールファッカン町跡は海 岸の砂浜に建てられた 18 世紀から続く町であるが、

それ以前は 15 世紀頃の赤色土を壁とした建物跡のみ が発見された。15 世紀に栄えた町が 16 世紀頃に廃 絶したことが、遺跡から出土した陶磁器から推定さ れた。災害があったに違いない。家の周りの灰混じ り砂には魚骨・貝殻を含む日常生活のゴミのみが厚 く堆積し、津波を示す自然堆積砂は発見されないか ら、津波ではなかった。

 地元の郷土史研究家は言う。1808 年、部族対立が あり、オマーンとの戦いで多くの人が死んだ。血が 流れ死体が散らばり、人々はその地に住むことを嫌 がり、そのため発掘中の地は捨てられ荒れ地になっ た。この地に再び家々が建てられたのは 1935 年の イラン国王の政策に関連する。イラン海岸部に住む

アラビア語を話す人々は、国外追放となり、ペルシ ア湾岸に移住した。発掘中の山際の地にも家が建て られ移住者が住んだ。今は港施設拡充のため、すべ ての家が撤去されている。

 だが遺跡の発掘品には 13 世紀後半の黄釉下黒・緑 彩陶器や 14 世紀の元染付も少しあるが、15 世紀に は中国の青磁や染付、ベトナム青磁、タイ青磁が見 られ、そのなかでミャンマーの青磁はもっとも量が 多い。15 世紀に作られた陶磁器が中心で、16 世紀に 入る陶磁器はきわめて少ない。イランの緑釉陶器や 白濁釉陶器、イランや中央アジアの石英素地の染付 や青釉下黒彩陶器、オマーンの褐釉陶器もほぼ同じ 15 世紀のものである。この他、インド・パキスタン の土器鍋壺も少しあり、イランとアラビア半島の日 常生活用土器は大量にあるが、型式的にいずれも 15 世紀が中心である。15 世紀に栄えた海上貿易の拠点 都市が 16 世紀の災害で遺跡になったとしか考えられ ない。

 この災害は津波のような自然災害ではなく人為災 害だった。16 世紀初、ポルトガルがアジアに侵入し、

輝かしい大航海時代の始まりとともにインド洋沿岸 に貿易と支配の拠点を築いたことに関連する。今回 の地震が起きたスマトラにも津波の被害があったイ ンドにもポルトガルの砦が築かれた。ペルシア湾や オマーン湾にも砦が築かれ、発掘中のコールファッ カンにもポルトガル砦が築かれたことが古地図から わかる。

 ポルトガルはインド洋沿岸の港町を帆船で襲い、

家々を破壊し、人々を殺した。コールファッカンも 同じ状態であった。ポルトガルの来襲を察知したイ ンドのグジャラート商人は間一髪コールファッカン から逃げたが、他のアラブ人達は殺された。ヤシの

図1 右側のホテルに泊まり、左奥の海岸にある遺跡を発掘する

災害が作る遺跡 佐々木��達夫

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金大考古第 47 号

金沢大学文学部考古学研究室 920-1192 金沢市角間町 TEL(076)264-5360内線2513

264-5327,5328,5465,5950 FAX(076)264-5362

2005年2月1

�連 絡��

◆金大考古 (45 号 ,2004�年 ) 誤植の訂正とお詫び。

p4�、左段 8 行目「西方」を「東方�」�に訂正します。

◆考古学研究室ホームページに金大考古も掲載して います。

��http://web.kanazawa-u.ac.jp/^arch/top.htm��

木も家々もすべて切り倒され焼 き払われ、立っている物はなに もない状態となった。ヤシの木 の枝はノコギリのように硬いが、

それで首を切り落とした。即死 ではないから痛かったろう。僅 かに生き残った人は、服従と見 せしめのため耳と鼻を切り削が れた。当時のポルトガルの記録 はこの事実の一端を伝えている。

�  私が発掘している遺跡はこの 被害を受けた場所であろう。発 掘中は海岸の白い砂浜に建つリ ゾートホテルに泊まり、発掘を

図3 15 世紀頃の家跡を覆う層から出土し た中国染付、青磁、ミャンマー青磁、イラ ンの緑釉陶器と白濁釉陶器。

図2 建物の測量風景

終えると夕方は砂浜でのんびりと過ごし泳ぐ。冬で も観光客が太陽と青い海を楽しむ地である。史跡と 観光地にはむごい歴史と美しい現実がある。コール ファッカンが襲われて遺跡となったのは 1521 年の ようだが、同じ年イスパニア(スペイン)はマヤ・

アズテック帝国を滅ぼし、新旧両大陸で人為災害が 起きた。同じ 16 世紀に日本では信長が攻め滅ぼした 城館跡が各地に残り、発掘されて日本国の史跡に指 定され、人々が歴史に想いをはせ楽しむ場所となっ ている。アメリカが破壊している町もいずれ史跡と なるものもあろう。

 ポルトガルの破壊は津波の範囲よりも広いインド 洋沿岸全体に及び、さらに東南アジアにも広がって いる。もちろん破壊を受けた人々に国際的援助はな かったが、隣国部族とヨーロッパ対立国の軍隊が協 力してコールファッカンでも十数年後にポルトガル を追い出した。その後は援助軍が支配権を握った。

 弱い側は災害を受け、強い側は災害を与える。防 災は災害の受け止め方ではない。自然であれ人為で あれ災害を与える側を変えるのが防御となる。自然 災害は研究と政策で対処が可能だが、人為災害を止 めるのは本当に難しい。考古学は人為災害の歴史的 事実を現在と未来の人々に伝える義務がある。発掘 した遺跡ばかりでなく、津波で廃墟となった町の一 部を遺跡として残し、インド洋津波博物館とする。

現状の早急な復旧は当然だが、人類の記憶として原 爆ドームと同じように災害跡を歴史遺産として残す のも大事である。歴史を消し去る復興のみが文化的 対応ではない。

 災害は酷く、死んだ人より残った人が辛い。いつ の時代も災害は遺跡を作る。遺跡には楽しい生活と 苦しみの歴史が同居している。明るい陽光の下で眠 りから覚めた遺跡から、研究資料に混じって様々な 思いが掘り出される。

参照

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