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113 トマス アクイナスにおミける transcendentia について 一一特に ens と res の関係一一 津崎幸子 transcendentia 即ち超越性の問題はトマス哲学において最も重要な中核的問題 の一つであると考えられる しかし, この問題はトマスをその一典型とするスコ ラ哲学

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Academic year: 2021

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113

トマス・アクイナスにおミける

transcendentiaについて

一一特にensとresの関係一一

transcendentia 即ち 超越性の問題はトマス哲学において最 も重要 な 中核的 問題 の一つであると考えられる 。 しかし, こ の問題はトマスをその一典型とするスコ ラ哲学においてだけでなく, はる か以前プラトンはじめアリストテレスやアウグ スチヌスにおいて, すでに注目 されている問題であり, 近世においてライプニッ ツやヴォノレフをはじめ カントにおいても深く研究 され ている 。 実際, t ranscende ­ nt ia は, 時代に関わり な く, 多くの哲学者の問題とし ている ものであることは 今更述べる までもない。 し かし, トマスのいう t ranscende ri t ia はカントのそ れ とは周知の如く大いに 異なっている 。 というのは, トマスのtranscendent ia はア リストテレスの伝統を承けつぐ ものだか らである 。 即ち, アリストテレスは形而 上学の課題を「 存在者たるかぎりの存在者8).)ìì (1)を研究し, また 存在 者に具体 (1) 的に属する ものど もを研究する 一つの学 」と規定 するが, このような存在論的 規 定こ そは, トマスのtranscendentiaに対 する先駆的 な理論的基礎づけであると考 (2) えられる か らである。 しかし, ここで注 意し ておくべきことがある。 それはトマスρtranscendent ia は単にアリストテレスの考え方を継承し ているだけではない, ということである。 トマスはプラトン的イデア論の影響を受けつつ, アリストテレスの超越的 規定を キリスト教教義の問題にもあてはめた。 この転換を遂行したトマスに, それによ ってスコラ哲学をある高 さにまで導いたが, スコラ哲学はその後こ の水準を維持 (3) しえず, またふたたびこの高 さにまで到達することはなかったと考えられ ている。 そこで, 私は, ζのような重要な意義を担っ ていると考えられ ているトマスの transcende nti a の特 性 は, 果し て, いかなる ものである かを, こ の小論におい て

(2)

明 らかにし てみ た いと 思う 。

1I

トマスの意味 する t ran scendent iaとは 一体いかなる ものである か 。 ト マ スに よ ると tra n scenden sには , 広義と 狭義の二つの意味がある。 それは 広義には ,

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神のようにすべ ての en sを 超 えている ものを (Deu s e sse sup er omne en s), 狭 義には , en s qu a en s及び , 或る 概念、が一般 的 な仕方 ですべ ての en sに 付随する

(5)

もの(genera liter con se quen s omne en s)を意味 し ている 。むろん, ここ で 取扱 お うとするのは , 後者の意味 , 即ち 狭義におけ る tr an scendenti a である 。

トマスは iDe natu ra generisjのなかで 次のように語っている 。 一一「六つの t r an scendent iaがある 。 すなわち , en s, re s, ali quid , u n um , verum , bo nu mがそ れである 。 そし て , これらのものは in reには 同じものであるが , rat io の上 で

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は 異なっている (re idem su nt , sed rati one d ist ingu nt ur)jと 。 トマスが彼の師 アノレベルトゥス ・ マグヌスの説に基づ いて 述べ ている t r an scendent iaとは , 端的

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には先ずかようなものである。 がしかし , ここにおこ る 疑問は , トマス自身がこ

れら六つの外に, t r an scenden t ia を認容し ていなかったか どう かということ , で ある 。 事実 , トマスは iS umm a Theol og ic ajのなかで , ip ul chrum と bon um とは , in su b je ct o には 同 じもので あ る ……。 しかしながら両者は rat ioneに 異

(8)

なったものである 」と述べ ているこ とから みて も , bo n um が 超越である 以 上 は p ulc hr um の 概念、をも t r an scendent iaに 加 える ことに 対 し ては 異議はないと 思わ

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れ る 。 しかし , ここ で 課題にしたい点はt ran scendent ia が , iin reに は 同 じも のであるが, rat lOの上 でのみ 異なる 」と 語 られているこの意味を トマスに お い てし、 かに解 すべ きか , である 。 そこ で , 私はこの課題を en sと re sの関係 の考 察を 中心に明 らかにし てみ た い。 III トマスは「アリス トテレスの形而 上 学註解 」 のなかで ien sと re sは全く 同じ (10)

ものであり , ただ 概念 的にのみ 異なっている 」と 述べ , iDe verit ate jにおいて, en sと re sの相違を 次のように言 っている 。r-en sという名称は act us e ssend iに

(3)

トマス・ アクイナスにおける甘anscendentiaについて 115

(11)

由来しているが, re sという名称は e nsのquidditas 或は e sse ntiaを表示する」 と。 ここでまず注 意すべき点は, アリストテレスやトマスの同時代の人々におい ては, e nsの 田町ntiaの側面にの み興味が注がれていたのに対し て, ト マスに お いてはt e nsの ac tus esse ndiの側面が強調 され, e nsの e sse nt ia を表示する 聞との 区別が明 確に示 され, アリストテレス以来の伝統的 tr ansce nde ntiaの体 系に新しく re sが 加 えられて いるということである 。 もちろ んJ e ns の ac tu s e ssendi の側面 を強調するとのよ うな強調点の変化が, ジルソンも指摘している よ うに, ユダヤ教やキリスト教的伝統に多くの 影響を負 うて いることは 疑 うこと (12) はできない。 それで もなお, このよ うな強調点の変化こ そは, トマスの tr ansce n司 de nt iaが, アリストテレス を 超えでていると考えられる特色ある注目すべき功績 でもあろ う。 まさに, ここに, 私が, トマスの transce nue nti aの特性 を明 らか にするにあたって, e ns とr es の 関係を考察する 意義 も 存するのである 。

ではまず, 第 一の観点であるle ns と res が inr eには同じものである 」とい う意味 はどのよ うに解すべきであるか。 も っとも, この問題をとくにあたっての 困難は, e ns と res の 関係についての 完結的な解答が, 何処にも見いだされな い ことから生ずる。 そして, トマスが個々の断片的な箇所で, e ns はr es と置換さ れるとか, 間Sは transce nde nt iaであるとかいっている場合で も, 何の 理由付け

(13) なしにそう語 って いるだ け であることにある 。 そこで, 私は, e ns とはそ も そ も 何かの聞 いに答 えつつ, この問題の意味 を明 らかにしてゆきたいと思 う。 IV さて, 形而 上 学や認識論において実在論者であったトマスは, 形市上学の出発 点として, あらゆる ものが我々の 認識から独立して 存在しているという事実 を 認 めて次のよ うに語っている 。 「知 性の抱え ることにおいて優先するところ の もの が. rat ioにおいて先きだつことにな る 。 ところ が知性 の把え ることにお い て何 (14) よりも優先する ものは e nsである」と。 たしかに, トマスの言葉をか りるまで もなく, 我々の把える ものが何であれーー音であれ, 色であれ, 形であれ, 動き であれーー我々はそれを在る もの, 存在する もの, e ns として把え る 。 知性は把 え る ものが「何であるかJ. つまりその本質を知 る前に, まず e ns として把え る 。

(4)

し か し , そうはいっても , 我々の知性が質料的 な諸事物において, 始原的にz最 も 直接的に 認識 する ものが, 直ちに transc endent ia としての ens であるという ことはできない。 というのは, tra nsc endenti a としての ens は, ト マスによる と 「 何ら かの met aph y si cu m であり, つまり, esseに 関して物 体的資料に依存

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しないところ のものである 」か らである 。 しかしながら , 我々の知性は「 何ら か の仕方 で感性的認識 に依存している ものであり , 個々のものの認識 が, 普遍に必

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ず先き だつものである」 。 そして, また, 我々の知性は「最初の把握 において, いきなり完全な認識 をう る ものではなく , p ot ent i a から act usへ進むものである

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ために , 不 完全な認識 にすぎない 」。 従って, 始原的に 認識 する ものが, I認識 す

(18)

ることの根源pri nc ipi u m co gno sc endi であってもJ I必ずしもプラトンの考 えた

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ような存在 の根源pr incip iu m essendi である必要はない」とトマスはいう。 つま

(20)

り, I認識 される べき 対 象はそれを認識 すべき 力 に対比 する もの」 であり, ensに は, 具 体的 , 個別的 ens か ら出発して, すへての感性的経験 を超泊している ens, すなわち ip sum esse su bsi st ensに至るまでのヒエラノレキー が存在し, これに 対応

して知性のヒエラノレキー が考えられている 。 結問, ens は知性のアルファー であ (21) るとともに , オメガー であるということができ る 。 かくして, 物 体的質料の参与 することのないtranscendent ia としての ensが, 知性のいかなる レベル においてでも出会う ようなもの ではなく, 昂揚 され, 純化 (22) された知性においてはじめ て出会う ような ens q ua ens であることは当然 である 。 し か しこ のような ens q ua ens が認識 にのぼるのは、 トマスによると, Iそれが act us である かぎりにおいてであって, 決してp ot enti aにおけ る ものたる かぎり

(23) に おいてではない」。 一 体 , ens が act us であるというこ の意味はどのように解すべきである か。 次 に , 私 は, こ の問題 の解明に焦点をあてつつ, 課題 である l ens とr es が i nre には同じ ものである 」という 意味の解答に近づいてゆきたいと 思 う。 V さ て, トマスはアリストテレスにならって, 実 在 的 な ensを二様の意味で理解 している 。 一つは, esseとしての ens, つま り, act us essendi としての ens で

(5)

トマス ・ アクイナスにおけるtranscendentiaについて 117

あり, 他の一つは , ess entia とし ての ens , つまり , 現実には存在 しないが , 実 在 しうるも の, po tenti a とし ての ens である。 しか し, トマス は �Summa The­ o lo gi caJ において, ens とは「本来的には a ct us におい であるものなることを 告げるものであり , a ctus とは ,然 るに ,本来 , po tenti aへの連関 をも つものであ るため に , ものが端的 な 意味 で ens とよ ばれるのは, 何よりも 基 本的 pn maには, 単なる po tenti a におい であるところのものから 区別さ れる かぎりにおいてで あ

�� ��

る」と 話り , この ensの a ctus は I"ess eに 由来する 」 という。 な ぜな ら , ["あ

(26) らゆる a ctusの聞で 第ーに 位するものは ess e と いうことに ほかならない」 から ℃ある 。 いいか えれ ば , Iいかなるものもそれが存在 !ているかぎりにおい てで (27) なけれ ば a ctuali tas をも っていな し、」 からである。 このような 意味 に お い て , (28)

I"e sse はあらゆる fo rma及び nat u ra にとってさ えもその actuali tas である」 という ことが成立する。そこで , 彼は , ess eの essentm に 対する間{系 を次のよう に 述 べて いる<' I" es配の essentm に 対する関係 は, あた かも a ctusの po tentiaに

(29)

対する関係のようなもので あ り J 1" こ れを受け とるものに 対する受けとられるも のと いう トげt にあるものである。 例え ば , 私が人間・馬等の ess eを語る場合,

こうしたe ss eそのものは形相的 なものfo rma le であり , そして受けとられたも のと して考えられ ているのであって, 決して , ess e がそれに 適しているご ときも

(30)

の illud c ui co mpe titと して考えられ ていないのである」 と。 しかし ,ここ で注立 すべきは, トマスが e岱 eそのものをfo rmaとはいわず に, fo rmaleという形容詞 で 表現 していることである。な ぜなら , 本来的には , fo rmaの位置 にある ess entia が , esse:こ対しては却って, 1" e ss e がそれに 適し ているご ときもの」 と して e ss e を受け と る po tenÌ1 aの位置 におかれ , ess eそれ 自身は , fo rma に 対しでさ え も , それらを して質料的 な po tentJ a にし てしまうような I"fo rmaのfo rmaJ とよん でも よいような fo rma を 超 えた最 も普遍的 な根源的 な 位置 におか れているから

(;11)

である。 このようなわ け で , 1" es田はesse ntm に 属しているのではな く」むしろ, (32)

1" essentia が ess eに 依存 している」のであり , ess e なしには ess enti a は a ctua-li tas を有 することはできない。 従って , esse ntí a は ess eを受け とるこ とによっ

て , はじめ て完全な ensとなるものであることが成立する。 かかる意味において,

(33)

(6)

lesseとは何ものにあってもその最も内奥的なもの, 何よりも深く内在するもの

(34)

である」という。

さて, 以上私は,ens の actusがe慣に, つまり, actus e臨ndiに由来して

いるζとの意味を, また, 同時に, 君臨 のessentia に対する優位性を確めてき

たのであるが, actus essendiに由来するens が, es民ntiaを表示するres より も根源的であるとされる理由も, まさにことに存するのである。実際, この点乙 そは, トマスの存在論がアリストテレスを超えでているとされる彼独自の新たな 発展である。 なぜなら, はじめにも, 一寸指摘しておいたように, アリストテレ スやトマスの向時代の人々の関心は,事物が存在し, もしくは, 存在しうるとい われる場合のessentiaの側面, つまり,modus essendiに集中され, actus e蹴n­

diそのものには向けられていなかったからである。 これに反して, トマスにお いては, アリストテレス流の分析を受けつぎながらも, すべてのens の究極的 根源を actus essendiにおいているからである。 このような意味において, 現代 のトミスト達がアリストテレスの形而上学を「本質的J,トマスのそれを 「実存 (35) 的」とよぶのも当然であろう。しかし, そうはいっても, トマスのそれを, キル ケゴール達のような実存主義と, 直ちに, 同一視することはできない。なぜなら, これらの人々においては,esse そのものが, あくまでも時間的地平のなかにおい てのみ抱えられているからである。そして, ハイデッガーにおい て は, e蹴と ens の存在論的差異が重視され, トマスに近くあるとはいえ, それでも,esse を 問う可能的地平が示されたにすぎず, 遂に,esse そのものの意味は明示されずに 未完のまま挫折してしまっているからである これに反して, トマスにおいては, 句se こそはあらゆるens を支える根拠で あり, そ札自身はもはや何らの支えを必要としないものである。きればこそ, 彼 (36)

は「神はform aそのものであるというよりは, むしろi�削箇儲seである」と述

(37)

ベ, iipsum e閤の名称こそは他のいずれにもまして神を示すにふさわしい」と 考える。従って, 神においては, es民こそがそのe碑n由その も の で あ り, e蹴とessentiaの区別はただ単に概念的なものにすぎない。これに対して, 神以

外のすべてのens は, そのesseを神から与えられ, それを受けとってはじめて ens となるのであるから, idquod habet esseではあっても,ωseであることの

(7)

トマス ・ アクイナスにおけるtranscendent自について 119

できない分有としてperpa r ticipa ti onem の ens にすぎない。 従って, 被造物に おいては, ens と ess en tiaとは実在的に区別 されてい る。 ミのようなわけで, 神 も被造物 も同じく ens でありながらその意味内容は大いに異なって い る。 され ばこそ, トマスは神をens とよぶことをさけ, 厳密には lpsu m ess e とよんで‘

(38)

いるのであり, また , 1"神は omne ens を超えた ess e である」というのであろう 。 こ のかぎりにおいて, 我々法, トマスの存在論の 奥深くに 存してい るプラ トン的 イデアの影響を 否定する ことはできない。 しか し, 神 の ens と被造物 のそれと が, いかに異なっているとはいえ, すべての ens はこ の田町において神に類似 しているのであるから, いかに anal ogia 的 な仕方においてであ っても ensの

もつ根源性 , 普遍性 , 共通性が, 他 のあらゆる 概念のそれらよりも最も優れて第

ー のものであることには変 りない。 そこ でトマスはアリストテレスに従って1"ens lZ何ものの genus でもありえない。 けだし , genus がもっ, もろ もろ の differen­ t1a は gen us の本質の外にある ものでなくてはならぬ。 だが ens に属しないて、

(39)

あろう ような 街宣eren tia は決して見いだすことはできない」 と主張している。 た しかに, すべての 概念のうちで最も 根源 的にして共通的 な ens が何らかの ge ­ nus のうちにある ものではなく, 却って, すべての genus が ens のうちに含まれ ている ものである ことは否定できない。 こ のような 意味において, 彼は, ens は 「類を超えた もの tra nsc enden tiaに属する ゆえ, 実体よりも, 関係よりも, より

(40)

共通的なものである」と帰結する。 要 するに物 体的 質料に 依存しない ess eを 有 しているかぎりの ens そのものは, すべて transc en den tia とよばれうるので あ り, また , res も ess eを 有 している かぎりにおいて, 何らかの意味において ens そのものであり, その限りにおいて res も transc en den tia であるという ことが でき る。 こ こにおいて, はじめて, 我々は, tra nsc en den tia としての ens と res とが, e 鉛e としての ens に関して, つまり 「 実在的には 同じものである」の意

味 も理解 する ことができ る。

しかしながら, こ こ で, 直ちに, 次のような 疑問に出会わざ るを得ない 。 けだ

し transc en den tia としての ens が, 最高の 共通的 な概念として, す べ て の gen usを超えた ものであるとすれば, ens については何ら定 義することもできず, ens という も, res という も, 同じこととなり, もはや tra nsc en den tia とは全く

(8)

空虚な概念となるのではない か, ということである。 トマス もいう。 一一 lens

は 全く包括的 であってJ ensに 外 的 な n aturaはない か ら, 例えば gen usに d i貸e ren ti aを, d i査eren t iaに acc ide ns を 付加する ような仕方 で, ensに予め含ま れていない 外 的 なものを 付加 することはできない。 というのは, いかなる na tura (41) も それ自身本質的 な仕方 で e ns なのだか らである」と。 し かし, い かに ens が 最高の共通 概念、であり, 無規定的 i ndeterm in atum であるとはいっても, へーゲ ルのいっている ように, e ns が虚無であるということはできない。 ens は最 も積 極的 な要素esseをもっている ものである か ら。 では, 一体, い かにして ens と res は区別さ れるのである か。 次に, 我々は, lensと resとが ra tlOの上では 異なってい る」の意味を解 明する地平に立って, こ の 点 を明 ら かにしてゆきた いと 思う。 さ て, まず, こ の 課題に関しては, トマ

スのIDe verita te Jのなかの 次の 言葉が よき手が か りとなるであろう。 すなわち, 「何もの かを ens の 上に 加 えるといわれ るのも, ens という名称に よっては表現 さ れていなし、がーーし かし ensのうちに含まれてい る一一-ens の 一つのm odus

(42)

を表出する か ぎりにおいてにほ かならなし、」と。 しかしながら, こ の ens のm o・ dusには, s pecial isと general iterとの 二様が考えられ, ens のs peci alis m odus は

I d ive rsus m odus essendijとして, カテゴりー に属するた めに, transcenden ti a か ら斥けられ る。 これに対して, lom ne ensに gene ral iterに相伴 うmodus J の みが, い かなる m odus esse ndi をも規定することなく, transcenden tiaを導き出 す仕方として認められる。 res とはまさにこ の ように om ne ens の 上に一 般 的 な 仕方 で何かが付け 加 えられた ものにほ かならない。 では, r,凶は ens のどの よう な側面であり, また , どの ようにして我々にあらわにさ れるのであろ う か。

トマスはこ の 点 に関して次の ように諾って い る。 lom ne ensに おいて把えら れう る ものが, 絶対的に abs olute 肯定的 に言 表わされる も のは, その 凶se ntm なしには見いださ れず, その essen tiaに よってそれは esseと よばれるのである。

(43)

res とはこの ようにして 得られる」と。換 言すれば, res とは, 端的 な 意味 で ens たるの ではなく, pote ntiaとしてのessen tiaが, 絶対的 な仕方 で, m seに一一知

性とか 意志へ の関係なしに一一肯定さ れ る かぎりに おい て ac tu5になった e ns

(9)

トマス ・ アクイナスにおけるtranscendentiaについて 121

対 的 な 肯定一-ra tio を ens の上に 付け 加 えているも のに ほかなら な い。 こ のかぎりにおいて , 端的に esseとよ ばれる ens と , essen ti a が肯定される 限り において esseとよ ばれる res とは区別されるべ きである 。 かくして , トマスは アヴィセンナ に従っ て , iens は a ct us essendi に 由来して い る が res は ens の essentia を 表示 する」 と帰結 する 。 ここに 至っ て , 我々 は, はじめ て iens とres とが , 単 に ra t io の上 だけで異 なっ ている 」という 意味も 理解 す るこ と ヵ:で きる 。

さ て , 以上 において , 私 は , ens の概念、 の 展開 を 中心 に , res との関係 を考察 しつつ , トマスのt ra nscenden tia の特性を 確め てきたので‘ あるが , tra nscenden t胞 には , 一方においては ens そのも のが , 他方には , om ne ens に一般 的 な 仕方 で 相伴 うも ろも ろ の transcenden tia が考 えられる。 いいか えれば , ens以外のも ろ も ろ の t ra nscenden tia とは , 実在 的にではな く , 概念的に何も の か が ensの 上

に付加されたも のである 。 しかしこれは本来の意味での付加とはい え な い。 とい

うのは , こ の 場合 ensに 付加されたも のは ens とは 別 の何も の かでは な く, 一 層明瞭に表現された ens そのも のに ほかならないか ら 。 従っ て , か ような 一般 的 な modus によって ensに何も のかを 付加 することによってえられたも ろも ろ の tra nscenden tia は ensに関しては相互に置換すること con vertere が 可能 とな

り , ens との 置換可能 性こ そは, も ろも ろの transcenden tia の 資格を決定 する重 要 な性 格 となる。

要 するに , esseを有 する かぎりの om ne ens は , 或る条仰 が み たされた場合 , も ろも ろ の transcenden tiaになりう るという 可能 性を 意味して い る。 従って , transcendentia としての ens は 端 的 な 意味において simpli ci ter 存在するが ,これ に 対して , ens 以 外 の t ra nscenden tia は或る限られた意味 に お い て secundum quidの み 存在 するのである か ら , ens のみが , も ろも ろ の tra nscendentiaの体 系のうちで最も 重要 な根源、 的価値 を有 するも のであることが 帰結 されるであろ う。

結 局, トマスの transcenden tia の特 性 は , 何よりも esseとしての ensの 優位 性 に 基づいていることが理解 されるであろ う。

(10)

(1) Aristoteles: Metaphysica, 1003 a 20.

(2) Hans Meyer : Thomas von Aquin, Bonn, 1938. S. 159-160.

(3) G. �ノレチン存:カント 存在論および科学論←岩波書居, 159頁

(4) Thomas De natura generis, c. 1 , 476.

(5) Ibid.,: De veritate, q. 1, a. 1.

(6) Ibid.,: De natura generis, c. 2, 478.

(7) Bans J'v1eyer : Ibid., S. 160.

(8) Thomas: Summa Theologica, 1, q. 5, a. 4, ad 1.

(9) Ji!日"'1: 1夫学J 56号(美学会編) 13百�24nにおいて;たが紐,!ËであるかL、 なかについてJSじている。

帥 Thomas: In N met. lect 2, n. 553.

(11) Jbid.,: De veritate, q. 1, a. 1.

(12) F. C. Copleston : Aquinas, Penguin Books, 1959, P. 65.

(1司Thomas : Sum. Theol., 1, q. 39, a. 3, ad 3. (1� Jbid., 1, q. 5, a. 2. (1同Ibid., 1, q. 11, a. 3, ad 2. (16) 1bid.,: 1, q. 85, a. 3. (1甘1bid., il司1bi<1., 1, q. 85 , a. 3, ad 4. 附 lbid叫 側 Ibid., 1, q. 85, a. 1.

�1) R. P. Phil1ips Modern Thomistic Philosophy. n, P. 160.

�2: H. D. Gardeil : Initiation à la philosophie. N P. 29-30

�S) Thomas: Sum. Theol., 1, q. 84, a. 2. �.� lbid., 1,司. 5, a. 1, ad 1.

間 Thomas Dc natura generis, c. 1, 476.

側 1bid.,: Sum. Theol., 1, q. 76, a. 6.

(11)

トマス・ アFィナスにおける廿anscendent出について 凶Ibid., 1, q. 3, a. 4. 凶Ibid・-捌 Ibid., 1, q. 4, a. 1. ad 3 . 倒Ibid., 1 , q. 3 , a . 4. 倒Ibid., 1, q. 29, a. 1, ad 4. Cl� tbid., 1, q. 13, a. 11, ad 2. 倒Ibid., 1, q. 8, a. 1.

闘 E. Gilson : Being and Some Philosophers, Canada,1952, P.167. 闘 Thomas. : Sum. Theol., 1, q. 13, a. 11.

間Ibid..

倒 Thomas : De natura generis, c. 1, 476.

倒Ibid., : Sum. Theo1., q. 3, a. 5.

同Ibid., 1, q. 30, a. 3, ad 1.

削 Ibid., : De veritate, q. 1, a. 1.

�21 Ibid. . �� Ibid..

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