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現代人と終末思想

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現代人と終末思想

著者 石井 裕二

雑誌名 基督教研究

巻 63

号 1

ページ 1‑11

発行年 2001‑09‑28

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004236

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現代人と終末思想

Modern People and Eschatological Thought 石 井 裕 二

Hirotsugu Ishii

1 はじめに

──────────────────────────────────── 

今年でキリスト教は二千年の歴史を持つことになる。このことはキリスト教が「二 千年前にできた」ことを言うだけでなく、伝統が二千年にわたって「継承されている」

ことを意味する。伝統の継承は二つの要因が重なることによって可能となった。一つ は、いつどこのキリスト教も聖書を規範文書として保持してきたことである。もう一 つは、キリスト教のいわば二面性である。すなわち、キリスト教は、一面において時 代状況の変化・発展に応じて、キリスト教みずからの思想と制度を変化させて対応し ながらも、他の一面において、時代状況にまったく同化・埋没するということはなか った。二十世紀においても、キリスト教は大きく様変わりして時代に対応した。しか し、二十世紀の状況にまったく同化・埋没してしまうことはなかった。その観点から 二十世紀におけるキリスト教思想の特質を見なおす必要があるであろう。今回の主題 は、その一つの試みとして設けたものである。キリスト教思想における二十世紀の著 しい特質は、終末思想の復興と再理解であったと思うからである。以下においては、

最初に終末思想の特質を簡潔に説明し、それがキリスト教の歴史においてどうなって きたか、さらに現代人にとって何を意味するかを考えてみたい。

2 終末思想とは何か

──────────────────────────────────── 

終末思想は終末論とも言うが、古くからあった語ではない。イエスの教えの中心は

「神の国」であった。「神の国」とは「神がすべてのものを現実に支配する出来事」を意 味する。そのとき現存世界の支配者と支配構造は神の裁きによって破滅し、その上で 神の支配が現実のものとなる、と彼は教えた。キリスト教では、この意味での「神の国

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の到来」の教えとその説明を、今から二百年ほど前から終末論(英語ではエスカトロジ ー)と呼ぶようになった。ここでは終末論よりも広い意味において「終末思想」の語を 用いる。

エスカトロジーのもとになっているのは、ギリシア語の「エスカトン」である。この語は もともと存在の末端または究極を指す語であって、空間的な極限、程度の最高・最低、地 位の末端、時間の最後などに当てはめられる。エスカトンの語は新約聖書の中ですでに 用いられているが、エスカトンの多角的な意味は最初から持ち込まれている。たとえば

「後のものが先になる」はエスカトイ(最後にいる者たち)がプロートイ(先頭の者たち)に なると書かれている(マタイ 15:45)。ぶどう園に「最後に来た者」(マタイ 20: 8)も、地 の「果て」(言行録 1:8 その他)も、エスカトンである。新約聖書がエスカトンを世界の 時間的な終末を指して用いているところは、使徒言行録 2 :17(ヨエル 3 からの引用)、 パウロ(1 コリント 15)、ヨハネ福音書、および黙示録である。それらはそれぞれに固有な 終末思想を表明したものであって、終末思想の意味内容を容易に統合することはできない。

◆  ◆ 

終末論に大きな影響を与えたペンテコステのペトロの説教は共観福音書伝承に属する が、旧約聖書のヨエルをゆるやかに引いてこう語る。「神は言われる。終わりの日々に、わ たしの霊をすべての人に注ぐ」。ここでエスカトンは歴史の最後の日々を意味すると共に、

そのエスカトンは人々への聖霊の注ぎによってペンテコステの日にすでに始まっているこ とを告げている。パウロとヨハネ福音書において、エスカトンの意味は明確に終末論的であ る(1 コリント 15 : 20 − 28 ;ヨハネ 6 : 39,44,54 ; 11 : 24 ; 12 : 48)。とくにパウ ロが、「世の終わり(ここではテロス)」が来るとき、イエス・キリストの働きを通して、「神が すべてにおいてすべてとなる」と述べていることは、キリスト教的終末論の目指すものが何 であるかを示唆する意味において重要である。それは、イエス・キリストを通して、究極的 に神が全存在をみずからに合一することであった。同じく初期キリスト教の終末論を性格 づける意味において重要な新約聖書の語句は、ヨハネ黙示録 22 : 12 − 13 にイエスの言葉 として書かれている事柄である。「見よ、わたしはすぐ来る。わたしは、報いを携えて来て、

それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者(プロ ートス)にして、最後の者(エスカトス)。初め(アルケー)であり、終わり(テロス)である」。

◆  ◆ 

終末思想にはやがて西洋的な思想の特質が現れてくる。ただし、現今の世界では広 範囲に文化の混合がおこなわれているので、一概に西洋と非西洋を区別することはで きない。それゆえ、これから西洋/非西洋と言う場合、キリスト教の伝播後、他の非

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西洋的諸文化との接触と混合がおこなわれる以前において、西洋に特殊的に保持され ていたと見られる思想傾向を復元(想定を含む)または抽出し、非西洋的なものとの 比較において西洋思想の特質を把握することを目的とする。

終末思想に戻れば、「一般的または通俗的な意味での終末思想」と言うべきものがあ る。その意味に二つの段階がある。第一段階は、今言った意味での「西洋」に特有の 歴史意識の傾向である。それによれば、世界には「始めと終わり」がある。時間は過 去から未来へ一方的に進むのであって、繰り返しはない。それゆえ、「すべてが改ま る」とか、「太古の昔(永遠の原初)に回帰する」という感覚は、西洋には基本的にな い。この西洋の一般的な歴史意識に対して、終末思想の第二段階の意味が加わった。

それによれば、歴史の終わりは現存世界の完成ではなく、破滅である。さらにもう一 つ加えなければならない。この西洋の終末論的な歴史意識は、全世界の運命に関わる ものであるために、非西洋の世界にも適用されなければならない。つまり、終末思想 は、西洋以外の部分が適用を免れることを許容しない。西洋の破滅は全世界の破滅で ある。「神の国の完成」は、西洋では「破滅後」に関する宗教的理念である。

以上のような終末思想における破滅の想定または予感と、それを普遍的に適用する 要求とは、現在の世界において有形・無形の作用を各方面に及ぼしている(それにつ いては後に改めて述べる)。

3 伝統的キリスト教における終末思想の放棄と再発見

──────────────────────────────────── 

終末思想は、西洋のキリスト教の中で一貫して保持されてきたわけではない。終末 思想は新約聖書の中で非常に目立った教えであるため、聖書を読むたびに至る所で目 に入るにもかかわらず、キリスト教自体が発展するにつれて終末思想は弱められ、事 実上無視されるか、または本来のものと異なる意味に置き換えられてきた。途中は省 略するが、たとえば十八世紀から十九世紀にかけて、キリスト教の本質的意味は道徳 性に求められた。そこでは多くの人々が、世の中にキリスト教という宗教が存在する 意味を考え、それは結局、新約聖書が教える道徳性の高さにあると信じていた。イエ スが神の国の到来を告知し、近い未来に全世界が神の裁きを受けて破滅すると説いた ことなどは、ほとんどの人々によってまったく無視された。また新約聖書の中で、と くにパウロが「イエスの十字架上の死」は人々の罪を贖うためであると強調したこと は遠ざけられた。キリスト教はむしろ、欧米のいわゆるキリスト教的世界の道徳性の よりどころであって、欧米人はこの道徳性に基づくキリスト教的文化によって繁栄し、

非キリスト教的世界に対して優越するのであった。

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しかし、十九世紀末から二十世紀初めにかけて、ヨーロッパの繁栄の持続が疑わし くなってきた。社会的矛盾の拡大は誰の目にも明らかになりつつあり、このまま行け ばヨーロッパの伝統的社会が崩壊するのではないかという不安を、少なからぬ人々が 懐き始めた。

ヨーロッパのその動向に敏感に反応したのはキリスト教神学である。それまでのキ リスト教の自己理解では、キリスト教はイエス・キリストから現在に至るまで、途中 に幾度か大変革があったにせよ、基本的伝統は正しく保持されているとされていた。

この伝統に深刻な疑問が生じた。キリスト教の伝統は全面的に間違っていたのではな いか、という疑問である。疑問を提示した一人、アドルフ・ハルナックは、伝統的教 理の成立の歴史を克明に解明した教理史学者である。彼は言った。キリスト教の伝統 的教理は、本来のイエスの宗教をギリシア思想によって変質させたものである。それ 以降、キリスト教的教理の受け入れをキリスト信仰と取り違える結果が生じた。われ われはこの教理信仰から離れて、本来のキリスト信仰を取り戻し、史実としてのイエ スの宗教を受け入れなければならない(

Das Wesen des Christentums, 1900

)。また新約 聖書学者ヨハネス・ヴァイスは、イエス自身の教えの核心をなすものは終末思想であ ることを指摘した(Die Predigt Jesu vom Reiche Gottes, 1892, 19002)。アルバート・シ ュヴァイツァーはよりラディカルにこう書いた。千数百年にわたってキリスト教のイ エス理解は根本的に誤っていた。結果として、今日に至るまでのキリスト教の全歴史 は、終末論の放棄、宗教の非終末論化であった。イエスの教えと行動の基本的な動機 は徹底的に「神の国の到来」に向けられていた(

Das Messianitäts-und Leidensgeheimnis, eine Skizze des Lebens Jesu, 1901; Geschichte der Leben-Jesu-Forschung, 1906,

上記の言 明は同書19849, S. 417参照)。

ハルナック、ヴァイス、シュヴァイツァー等がそれぞれの仕方で伝統的キリスト教 を批判し、イエスの宗教の源泉に立ち返る提言をおこなったことは、キリスト教の現 存する歴史的形態とその思想を根本から問い直そうとするものであった。彼らによっ て、イエスの教えの核心は「神の国の到来」であったと指摘された意味はけっして小 さいものではない。「神の国の到来」は、もはや個人の救いの問題ではあり得ない。

それによって個人の運命が軽視されることはないが、問題の核心は全世界、全宇宙の 運命である。しかし、彼らの提言はその時点ではそれほど広く影響を与えなかった。

4 終末思想の復興

──────────────────────────────────── 

未来への不安は以前からあったものの、ヨーロッパ諸国が第一次世界大戦を勃発さ

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せ、互いに大々的な殺戮と破壊をおこなった事態は、あらゆる予測を超えていた。廃 墟に立ちすくむ群集の間でひときわ激しく衝撃を受けたのは、ドイツのキリスト教指 導者たちである。彼らはヨーロッパのキリスト教的文化の優越性を信じて、その宣伝 の先頭に立ってきた。敗戦直後、彼らは自分自身の存在理由を見失い、自己理解の根 拠をどこにも見いだせない状態に陥った。このドイツの問題意識は、それ以後におけ る世界の動向の中で、次第に全世界のキリスト者の間に共感を見いだすことになる。

その状況の中でスイスの一牧師カール・バルトが、新約聖書の『ローマ書』の解釈 書を書いていた。1919 年にスイスの書店から出版された初版はあまり目立つものでな かったが、三年後に内容を書き改めて出版された第二版(

Der Römerbrief, 1919, 2.

Aufl., 1922)は、キリスト教の流れの方向を変える出来事となった。その著作に二つ の重要な要素があった。一つは、十八世紀および十九世紀のキリスト教理解、いわゆ る近代キリスト教を根底から批判したことである。もう一つは、新約聖書の終末思想 を未来の出来事とする従来の解釈を廃して、「終末」を「今ここでわれわれが直面す る出来事」としたことである。

バルトによる近代キリスト教の批判は、近代における政治・社会・文化への全面的 な批判に連動するものであった。終末思想もまた、バルト自身の思想の意味と範囲を 越えて、その後のキリスト教思想の全体を方向づけるものとなる。バルト自身の終末 思想の核心は、最も簡潔に言えば、「今ここでの《超越的瞬間》における、永遠と時 間の遭遇、神と人の合一」を説いたものである。それによって彼は、歴史の未来に破 滅的な終末を想定してきた従来の終末思想を完全に否定した。内容に立ち入った説明 は、ここでは割愛せざるを得ない。

バルトによって、新約聖書の言う終末の出来事は「今ここでわれわれ自身が直面す る出来事」であるとされたことは、ヨーロッパの伝統的なキリスト教理解を一変させ るものとなる。それまで千数百年にわたって、人々は一般に、新約聖書に書かれてい る世界の終末や破滅は、もしあるにしても遠い未来の想定であって、現実問題ではな いと考えてきた。それを「今ここでの出来事」として受け取ると共に、伝統的な終末 思想を全廃する提言に衝撃を受けて、人々は新約聖書を読み直した。新約聖書の内容 には厳しい批判性がある。それを人々は改めて読み取ることになった。近代に至るま でのキリスト教理解は一貫して楽観主義的であったが、人々はそれを破棄すると同時 に、彼ら自身の自己理解の楽観主義をも放棄させられたのである。

二十世紀のキリスト教神学は、こうして終末思想を主題に取り戻した。カール・バ ルトは 1922 年にこう書いている。「全体に、ただまったく、そして休みなく終末論で ないキリスト教は、全体に、ただまったく、そして休みなく、キリストと関わりを持 たない」(

Der Römerbrief, 2. Aufl., 1922, S. 298

)。この短い発言は、彼の神学の主題が

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キリスト論と終末論の統合を目指すことを示す。

◆  ◆ 

われわれが改めて気づくことは、初期キリスト教の神学の主題はキリスト論と終末論 の統合であったことである。それに対して、古代後半から中世にかけては、キリスト論 と神論の調停が主題となった。中世後半において神学の主題はキリスト論から離れ、現 存世界の解釈の問題、すなわち存在論および世界観のもとに統合された。その意図は、

政治・社会・文化および宗教の全領域にわたって、キリスト教を統合の原理とすること にあった。宗教改革においてキリスト論の主題は取り戻されたが、救済論との不可分の 結びつきにおいてであった。実際には救済論が他のすべての神学的主題に優越し、それ らを服属させる地位についた。それに関連してわれわれが今となって考えさせられること は、宗教改革の「信仰のみ」という原理がすぐれて個人主義的であったことである。「信 仰」とは「わたしが信じる信仰」である。宗教改革がそれまで個人を抑圧してきた教会的 権威を批判して、個人を救いの対象として重視したこと自体は非難に当たらない。それ はともかく、たとえばルターとツヴィングリが聖餐におけるパンとぶどう酒の意味につい て激論したとき、論争の事実上の主題は、パンとぶどう酒が「個人の救い」にとって何を意 味するかであった。彼らの主たる関心は、たとえば「パンは一つ、杯は一つ」という主題に 向けられることがなかった。このことから新たな問題として、教会の分裂が深まる。

◆  ◆ 

バルトの『ローマ書』以後、二十世紀の大半を通じて、キリスト教神学は終末思想 について、また終末論とキリスト論の統合または関連について、大いに論じた。そし てその議論の中で、新約聖書における終末思想の意味の広がり、したがって不統一性 と多義性を追体験しなければならなかった。二十世紀の終末思想は、相容れない多く の主張を生じたのである。しかし、どれほど思想内容が広がり、それゆえ多義的で不 統一であっても、われわれから見れば終末思想に以下のような共通の特質がある。第 一に、終末思想は西洋の歴史意識において広範囲に共有されているが、非西洋世界で はほとんど共有されていない。第二に、西洋の一般的な終末思想は、比較的浅いレヴ ェルの意識の上に成り立っている。それゆえ終末思想は、西洋的な歴史意識の枠組み を超え出て、より深い根底を見いだすのでなければ、不毛な対立を招く。そして最後 に、非西洋の思想状況のもとにあるわれわれもまた、終末思想の深みにあるものを探 求して理解し、それとの連帯を見いださなければならない立場にある。

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5 終末思想の通俗化――破滅の予感・恐怖と西洋的意識の支配指向

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バルトの『ローマ書』から 71 年後、パネンベルクはバルトの終末思想の核心を的確 に把握し説明したのに続けて、それをパネンベルク自身の歴史意識と結びつけた。そ れによれば、近代ヨーロッパ文化の没落と第一次世界大戦による破滅の経験が、人の 死についての新たな感受性と重なって、バルトの『ローマ書』の終末論を受け入れる 準備となった。

◆  ◆ 

パネンベルクはこう書いている。「カール・バルトによってはじめて、神の支配につ いての終末論的使信は、現在の人間に現実に直面する使信として改められることが出来 た。それは彼が、第一に、神の支配を人間と世界に対する神自身の現実性の関係として 把握したことによってであり、第二に、この現実性を神に対して自立化した世界に対す る 裁 き の 現 実 性 と し て 理 解 す る こ と を 学 ん だ こ と に よ っ て で あ る 」(W o l f h a r t Pannenberg, Systematische Theologie, Bd. 3, 1993, S. 578)。要するにパネンベルクは、バル トの『ローマ書』によって、終末論は未来に起こると想定される出来事について考える ものではなく、「今ここでわれわれが直面する神の現実性の体験」であること、それは

「世界に対する神の裁きの現実性の体験」であることを告げるものに改められたと言っ ているのである。ここで言う神の裁きの体験は、バルトおよびパネンベルクの表明の仕 方を越えて、新約聖書自体の文脈に立ち返って言い換えてみると、たとえばこうなるで あろう。すなわちそれは、いっさいのものが「虚無に服していること」(ローマ 8 : 20)、 したがって、現存する世界から存在の理由および根拠が奪い去られている体験である。

それはわれわれがしばしば経験する虚無感を超える絶対の虚無の体験であり、われわれ が時に経験するどんな恐怖感をも超える絶対の恐怖の体験である。しかもそれは、われ われ個人に関わる感覚、たとえば主観的なニヒリズムのようなものではなく、全世界の 全実在に対する神の裁きとして体験される。マルコが伝えるイエスの言葉によれば、

「神の国が力にあふれて来る」(マルコ 9 : 1、この「力にあふれて」は、文脈から見て、

ローマ 9 : 22 と共に「神の裁きの力」を指すと理解される)出来事である。それが「今 ここで」起こりつつある。バルトの『ローマ書』における終末論の核心部分が指し示す ものはそれであった。

しかしパネンベルクは、バルトの終末論の意図するものを的確に指摘しておきながら、

ただちにそれを西洋的な歴史意識と結びつける。彼は言う。「新約聖書の大破滅終末論 をそのように現実のものとする解釈を受容する用意は、多くの人々によって近代のヨー ロッパ文化の没落として経験された第一次世界大戦とその結末の大破滅によって、また

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それと関連して、個人の生の感覚における死の限界の意味への新しい感受性によって、

準備されていた」。ここでパネンベルクは、近代ヨーロッパ文化の没落と第一次世界大 戦による破滅の経験が、人の死についての新たな感受性と重なって、バルトの『ローマ 書』の終末論を受容する準備となったと言っているのである。

◆  ◆ 

この歴史意識はパネンベルクに限られるものでなく、西洋では一般的である。その ように一般的な破滅の感覚が二十世紀神学における終末思想の復興の土壌であったこ とは事実である。しかし、それが事実であることによって、われわれはむしろ慎重に 考え直さなければならない。

先に述べたように、一般的な意味での終末思想は「西洋に特有の歴史意識」である が、全世界の破滅を予見することはどんな除外をも容認しない。すなわち、西洋の没 落は全世界の没落となり、その破滅は全世界・全宇宙の運命となる。この意識は、全 世界を西洋の価値意識のもとに統合することを当然とする感覚である。西洋では一般 に、その意識世界が非西洋世界を包括すべきものとすることに疑問を抱かない。しか し、事実として、非西洋世界は西洋の歴史意識を共有しているのではない。非西洋世 界にも没落や破滅の事実はあるが、それによって全世界の破滅を必然とは考えない。

◆  ◆ 

非西洋においても、近年の宇宙規模での見方では、たとえばどんな星にも寿命があっ て、地球も例外でないことは自明である。しかし、その意味での地球規模・宇宙規模の 終わりを考えることは、西洋一般の終末思想とは異質なものである。なぜならば、その 意味での終わりの予測は一般に、今ここでの自分自身の生き方に影響を与えるものでは ないからである。

6 非西洋的な歴史意識との対立

──────────────────────────────────── 

日本人をはじめ非西洋の人々の多くにとって、世界の破滅的終末の預言は怪奇小説 や空想映画の題材以上の意味を持たない。ここで関心があるのは、自分の死後の運命 である。たとえば、死ねば他界へ行くとされるが、実際にはどんなことか。自分の霊 魂、死んだ肉親や先祖の霊魂はどうなるのか。つきつめて言えば、自分が死ぬことは どんなことか。この関心のゆえに、人々はキリスト教の終末思想を知っても、一部の 例外を除いて、それを死後の霊魂の運命と他界の思想に置き換えて見ているのがふつ

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うである。それゆえ、キリスト教と関わりのない人々でも、死んだ親たちが「天国か ら見ている」という表現などに抵抗を感じない。日本人の言語感覚では、ペットの死 も「昇天」であり得る。要するに、自分や身近な存在の死後の運命に関心はあるが、

世界と歴史の終末を感知する感覚は一般的でない。この相違は、現在の思想状況にお ける重要な対立の一因となっている。

身近なところでは、自然環境の捉え方の相違がある。現在の西洋人の多くにとって、

自然環境の悪化を避けようとする動機はきわめて強い。しかし、その動機そのものは、

じつはそんなに古くからあったものではない。それほど遠くない過去において、西洋 では国内でも国外でも盛んに開発事業をおこない、自然環境の改変をむしろ誇りにし ていた。全世界からの自然的資源の収集は、莫大な量に上っていた。また今では多数 の西洋人が嫌悪して、絶対に許さないとまで主張することの多い捕鯨も、過去の西洋 では大規模におこなわれていた。一転して自然保護の動機が急速に高まったのは、比 較的近年のことである。その理由の一つは、人為的な自然破壊が許容限度を超えたと する科学者の警告が受け入れられたことによる。しかし、それだけでは説明のつかな いものがある。というのは、日本人の立場から見て、西洋の自然保護運動の中に非西 洋、とくに日本文化と日本人に対する攻撃性の介在を感じることがあるからである。

◆  ◆ 

中世またはそれ以前のヨーロッパにおいて、鯨は食用と油のために捕獲されていた。

17 世紀から 19 世紀まで、鯨油の生産に重点が移り、大部分の鯨油はマーガリンの原料 とされた。主要な捕鯨国として、ノルウェー、英国、ブリティッシュ・コロンビアが挙 げられる。1950 年代後半における毎年の鯨油生産量は 50 万トン、1 年間に捕獲された鯨 は 55,000 頭、捕鯨船は 360 隻であった。以上は、Encyclopaedia Britannica1962 年版の記 述である。1946 年にInternational Whale Commissionが設立されたが、ヨーロッパ諸国に よる捕鯨の状況は比較的近年まで上記のようであった。1998 年版のブリタニカを見れ ば、鯨についての記述の構成は一変し、「商業捕鯨」もしくは「商業漁業」を非難する 論調が一貫している。たとえば、鯨肉は日本では高い価値があるため、商業捕鯨を最終 段階において支持しているが、鯨肉は日本以外ではドッグフードとしてのほかは拒否さ れている。Encyclopaedia Britannica CD, 1998参照。

◆  ◆ 

攻撃性はたしかに強まりつつある。それについて日本では、結局は経済的利害の問 題と見なして対応をはかろうとする人々と並んで、根源を人種差別とする見解が目に 付くようになってきた。実際には多様な動機が混在していることであろう。しかし、

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われわれの視点から見落とせないことは、対立の根底にしばしば歴史意識の相違が働 いていることである。

われわれは先に、ヨーロッパのキリスト教が二十世紀に入ってから終末思想を取り 戻したことを指摘した。終末思想は神学者間の議論の問題だけではなく、その後次第 に通俗化して、西洋の気分に影響を及ぼしている。世界が破滅をもって終わるという 感覚、しかもそれは必ずしも遠い未来のことではないという感覚は、今では少なから ぬ人々の心の中にある。日常生活においてこの感覚が表面化することはほとんどない が、きっかけがあれば恐怖心となって出てくる。その一例は、関心が自然的秩序の破 壊に向けられるときである。自然破壊は、今の西洋では、世界の破滅を危惧する動機 となることができる。とくに、終末論的な歴史意識を西洋と共有せず、それゆえ世界 の終末に無頓着と思われている日本人が、高度な技術を用いて広範囲に自然破壊をお こなっていると知らされるとき、彼らの危惧は恐怖心と嫌悪に変わる。世界の破滅に 対する恐怖感を持たない人々が自然破壊を続けることは、それ自体世界の破滅の予兆 であることができる。これはもはや理屈の問題ではない。日本人が続ける自然破壊は、

大気汚染であっても漁業や捕鯨であっても許しておけないとする感情は、彼らにとっ てしばしば抑制できないように見える。日本人の側でも、対立が生じれば経済問題を 原因と考える人々がいること、また人種差別のレヴェルで受け取る人々がいることは、

別の意味において通俗化した自己意識から発している可能性を考えなければならな い。

7 おわりに――終末思想の通俗性を超えるもの

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以上においてわれわれは、現代の西洋における一般的な歴史意識が、通俗化した終 末思想の影響を受けていることを見てきた。しかし、通俗化した終末思想は、新約聖 書の伝えるイエスの「神の国の福音」から逸脱したものである。イエスは世界の破滅 への恐怖ではなく、神の支配の現実化による「祝福された未来」を教えたのである。

◆  ◆ 

イエスが「神の裁き」と世界の破滅に言及したのは、人の傲りに対する警告であって、

破滅の恐怖から自力で逃れさせるためではない。人が自然を大切にし、自然と共に生き ることは当然の義務である。しかし、それを破滅の恐怖を回避する手段と結びつけるの は、むしろ人の傲りである。聖書の言葉を用いて言えば、神を恐れない人々の傲りが破 滅を招く。破滅への恐怖心に動機づけられた通俗的終末思想は、イエスの「神の国の福

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音」に反する動機へ向かう。

◆  ◆ 

イエスの教えは、西洋の一般的な歴史意識の制約を受けない。彼が求めたのは、普 遍的または無制約な「真の実在」への畏敬である。聖書はそれを「神への恐れ」また は「神信仰」と言う。「すべての存在において働く真に実在的なもの」を、新約聖書 では「生ける神」とも言う。ヨハネ福音書はそれを「真理」と言い表している。

キリスト教の終末思想は、現代人が通俗化して受け取る場合、未来に対する恐怖心 となり、文化と人種による差別の原因となることができる。しかし、イエスの「神の 国の福音」、すなわち「本来の終末思想」は、通俗的な終末思想から人々を解放する。

本来の終末思想は「生ける神への信仰」の表明である。この信仰は、西洋的世界と非 西洋的世界のそれぞれに対して、在来の通俗的レヴェルにおいて必然的と見える対立 を解消する方向で働く。「真理はあなたがたを解放する」(ヨハネ 8 : 32)。

本稿は 2001 年 1 月 23 日、同志社大学神学館チャペルにおける最終講義の草稿をまとめたものである。

なお本稿には、時間的制約のため同講義で省略した部分を書き加えてある。

参照

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