瀬戸の巨匠・北川民次と近代化産業遺産 : 地域再
生に向けた北川芸術の再評価と保存・活用の創意的
試み
著者
十名 直喜
雑誌名
名古屋学院大学論集 社会科学篇
巻
40
号
1
ページ
23-65
発行年
2003-07-31
URL
http://doi.org/10.15012/00000812
名古屋学院大学論集 社 会科学篇 第40巻 第 1号 (2003年 7月)
瀬戸 の 巨匠・北川民次 と近代化産業遺産
一
地域再 生 に向 けた北川芸術 の再評価 と保存・活用の創意的試 み
―
十
名
直
喜
日次 1. は じめに2.児
童美術教育の壮大 な実験 と人間・ 社会変革の眼差 し3.北
川民次の芸術 にみ る思想 と哲学4.近
代瀬戸の原風景 を活写す る北川民次5.壁
画に込めた北川民次の夢 と思想 6.「北川民次の文化遺産」(近代化産業遺産)を地域づ くりに活かす市民運動7.北
川芸術 を地域づ くりに活かす企業の文化支援活動8.お
わ りに1.
は じめ に │1本の近代化 とは何であったかが問われてい る今Fl,地
域のなかに埋 もれた近代の文化遺産 や近代化産業遺産は少な くない。瀬戸の巨匠 。 北川民次 もそうした文lltの中で捉えることがで きる。『広辞苑』によると,北
川民次は「洋画家。 静岡県生 まれ。メキシヨに住み,シ
ケイロスら と交遊。帰国後,メ
キシヨ時代の力動感あふれ る作品を発表。二科会会員。美術教育にも当る (1894-1989)」。 「日本画壇のアウ トサイダー」「不遇」(1)の画 家 と評 される北川民次(図1)は
,「美術史か ら 消された “異質の画家"」(2)と もいわれる。 しか し,そ
の一方で,北
川民次のファンは全国に数 多くいて,北
川芸術の もつ生命力の根強さ,再
評価に向けての運動の広が りなど,
日本画壇 に おける「不遇の位置」 と好対照をな している。 1958年 以来,40数
年間にわたって発行 されて いる瀬戸信用金庫の粋な1曽│,物=「
北川民次の カレンダー」(約9万
部/年)は
,関
東地方をは じめ鹿児島や東北 などに も熱烈なファンがい て,楽
しみにしている。愛知県美術館の「北川 民次展」(1996年 11月 22「│-97年
1月26H)
は3万
人の鑑賞者があった。幕開けこそ静かで あったが,新
年に入ってからは入場者 もH増
し に増え,何
度 も足を運ぶ熱心な人もあったとい ぅ(3)。 図1
北川民次画伯 (72歳 当 時) 出所:瀬戸信用金庫Fセ ト』1967 年1月 ;J―アメ リカの近代精神やメキシヨ・ルネサ ンス の息吹 を体得 した北川民次 は
,メ
キシ コで10 年 余にわたって実践 した児童美術教育における 世 界的な先駆者である。そこで鍛 え深めた独創 的 な視点や方法論 は,
日本 に帰国後,多
彩 な形 で花開 く。 とくに近代 日本の原風景 と出会 って,独
自な 作風で数多 くの絵画,壁
画,版
画な どを描 いた。 またその独創的な視点やアプ ローチは,芸
術思 想や哲学,美
術教 育論 な どとして数多 くの本・ 随筆 な どに もまとめ られている。近代 日本の地 域 として彼がモデル に したのは,や
きものの街 としてにぎわ う瀬戸であった。 まさに近イ01頼戸 の原風景,その 自然や街並みや工場な どの景観, 男女 の働 く姿や家族像な どを,深
い愛情 と透徹 した 日で絵画に,版
画 に,壁
画 に と描 いたので ある。近代瀬戸 とい う日本の一地域ではあるが, その地域像,産
業や工場,男
女 の働 く姿など, いわば産業文化の全体像 を,北
川民次ほ ど独 自 なタッチで深 く描 きあげた画家は 日本 には見当 た らないのではなかろ うか。 それは まさに近代 日本の原風景 を,瀬
戸 をモ デル に して描 いた といえよう。北川民次の描 い た近代 日本 の原風景 は今や,工
場 跡 が更地 に なってマ ンシ ョンな どが建つな ど,瀬
戸 におい て も次々 と姿 を消 してい きつつある。近年,
日 本 において も,埋
もれて失われつつある「近代 化産業遺産」 を保存 し,積
極的 に活用 しようと い う動 きが広が っている。「産業遺産」をまちづ くりの シンボル として とらえ,観
光 と産業振興 を結びつける「産業観光」への関心 も高 まって いるのである。 「産業遺産」 とは,産
業 に関わ る諸活動 を支 え担 って きた人々の働 き様,生
き様であ り,そ
こで築かれたノウハウ・生活文化の歴 史的蓄積 である。産業遺産のなかで も,近
代 日本 をつ く りだ した工業を中心 とする近代産業に焦点をあ てたのが,「近代イb産.業遺産」にほかならない。 そこには「産業文イロ が,す
なわち近代産業を 支 えて きた庶民,裏
方の歴 史が,詰
まってい る(4)。 近代イb産業遺産が数多 く埋 もれている瀬戸に おいて も,再評価に向けた試みが出てきている。 「北川民次のア トリエを守る会」の活動 もそう した創意的な試みの一つ として注目される。そ の機関紙 『バ ッタ』では「民次は瀬戸市の文化 遺産」 と宣言する。北川民次を地域の「文化遺 産」 とみる評価に加えて,さ
らに「近代化産業 遺産」として捉える視点 も重要ではなかろうか。 すなわち,彼
の多方面にわたる業績を,近
代 日 本の精神・原風景を活写 した近代化産業遺産 と して正当に評価 し,そ
の創意的な保存 と活用に ついて検討すべ き時期に来ているように思われ る。 小論は,以
上のような視点 と課題意識 をもっ て,1馴
1民次の芸術作品や児童美術教育,思
想 や哲学などについて,近
代化産業遺産 として再 言呵面の光をあて,地
域における保存・活用のあ り方 とその意義を探 った ものである。2.児
童美術 教 育 の壮 大 な実験 と人 間 。社 会 変革 の眼差 し2.1.北
川民次の歩んだ道 静岡県生れの北川民次 (1894-1989)は,1914
年 に早稲 田大学予科 を中退 し実兄を頼 ってアメ リカにわたった。ニ ュー ヨークで劇場の背景 を 制作 す る職 人 と して働 きなが ら,ア
ー ト・ ス チューデ ンツ・ リー グで絵画の基礎 を学ぶ。 1922年 ,それ まで9年
を過ご し,しか も今 と なっては窒息す るように思 えて きたニュー ヨー クか ら脱出を試みる。その ドラマチ ックな旅の瀬 戸の 巨匠・ 北川 民次 と近代 化産業遺産 筋道 は
,彼
の『メキンコの青春』(5)に詳 しい。彼 はアメ リカ南部 を放浪 し,や
がてキューバ に渡 るも,そ
こで怪 しげな 日本人にアメ リカで働 い て貯めた3千
ドルの現金 と一巻 きのデ ッサ ン, 個 人記録の詰 まったスーツケースを持 ち逃げ さ れ る。 この突発事件が1馴│の運命 を大 きく変えた。 それか ら12年
も,30歳
か ら40歳
代 に至 る人生 の一番大切 な精神形成期 に,彼
はメキシヨに滞 留 し,メ
キシヨ・ ルネ ッサ ンスの美術運動 に加 わ るようになった。1929年に二宮てつ乃 と結婚 した民次は,1931年
秋 にタスコに移 り,野
外美 術学校の校長 になって生徒 たちを熱心 に指導 し た。1933年には,南
北アメ リカを旅行 中の藤田 嗣治が彼の家 を訪問 し, 1週
間滞在 している。 これが縁 で,民
次が 日本 に帰 った とき,藤
田に よって二科 会会員に推薦 され るのである。 1936年,42歳
の民次は,メキシヨと日本の児 童美術 を比較 した研究によリアメ リカのグ ッゲ ンハ イム奨学金 を得 ようと,タ
スコの学校 を開 鎖 し,22年
ぶ りに帰国 した。帰国後間 もな く, 故郷の静岡県 に数 ヶ月身 を寄せてのち,i頼戸 市 の妻の家 に移 り,東
京 に転居す るまでの1年ほ どの間に,数
十枚 のグワ ッシュに よる瀬 戸風景 をは じめ,1937年
の二科展に出品 した「タスコ の祭 日」「銀鉱の内部」な どの大作 を描 いた。二 科への最初の出品作 は,
日本画壇 に強い刺激 を 与 え,美
術雑誌 は色刷 りで紹介 し,画
家 たちは 初めてみ るメキシヨの激 しい トー ンに驚 きかつ 注 日 した。帰国後の数年間は,彼
が非常に充実 した制作活動 を展開 した時期であった。民次は, 油彩画やテンペ ラ画に とどまらず,水
彩画 と版 画の分野で も注 目すべ き作品 を残 してい る。 戦後の北川民次の活躍 は,
日を見張 る ものが ある。児童美術教育,壁
画制作,グ
ループ活動, 著述,数
々の作品の発表,版
画の製作,挿
絵, 陶画 な ど,い
ろいろの分野で沐青力的 に仕事 を展 開 した。2.2メ
キシ コでの児童美術 教育 にみ る北 川民 次の理論 と実践 北川民次 は,創
意的 な児童美術教 育の世界的 先駆者 としての顔 を持つ。彼のユニークな児童 美術教育論 は戦後,
日本で も注 目され,彼
の教 育思想 に共鳴す る人は今 日で も少 な くない よう である。10数
年 に及ぶ メ キ シヨでの児童画教 育 の実 験 は,
日覚 しい成果 をあげ,メ
キシヨ国内だけ でな く欧米で も大 きな注 目を集めた。児童美術 教育 を通 して,彼
は人間や美術 に関す る洞察 を 深 め,独
自な芸術 性 と思想・哲学 を鍛 え上 げて い く。その間の状況は,北
川民次 『絵 を描 く子 供 たち― メキシコの思 い出―』(岩波書店,1952
年)な
どで,実
に リアル に興味深 く書かれてい る。いわば,彼
の人間観や芸術論,世
界観 な ど が,児
童美術教育 をめ ぐる実践 と理論のなかに 最 もリアルに表 れているといえよう。小論 で第1章
に とりあげるの も,そ
れ故 である。 児童教育 に目を向 けたニュー ヨーク時代 彼 が 児 童 教 育 に興 味 を持 ち始 め た の は, ニ ュー ヨーク時代 (1916-20年)の
こ とである。 劇場の背景 を制作す る職 人 として働 きなが ら, 美術学校 (アー ト・スチューデ ン ト・ リーグ) に通い,都
市の情景や,そ
こで生活す る民衆の 姿 を積極的 に描 いたジ ョン・スロー ンに学 んだ。 また,労
働者 としての生活体 験,国
吉や清水た ち画学生仲間たち との交流 を通 して,社
会や民 衆の側 に立 ち,美
術 を社会 との関係 において捉 え,制 作す るという姿勢 を身につけるのである。 児童教 育 について も,「 か くも富 み栄 えた国の 人々が, どうしてこの ように絵 を理解 しないの だろう。美術 に関心が持てないのだろ う,
と考えた」のが きっかけで,「病みつ き」になる(6)。 メキシコ野外美術学校で児童美術教育の実践 1921年 にメキシヨに渡った北川民次は,メキ シコ 。ルネサンスの旋風がまき起 こる中
,野
外 美術学校の運動に参画 し,10年
以上 にわた り児 童美術教育の壮大な実験に傾注するのである。 1924年,メ
キシヨ国立美術学校 に入学 し, 3ヵ 月後にそこを優等生で卒業 した北川民次 は,国
立美術学校長の推薦により,チ
ェルブス コ旧僧院で画学生 として「生涯でいちばん充実 した」1年
間を過ごす。1925年,
トラルパム野 外美術学校に助手 として赴 き,さ らに,1931年
にはタスコに移 り,野
外美術学校の校長 として 1936年 にメキシコを離れるまで,児 童美術教育 に取 り組んだ。 学校が 1年 のコースを終えたときに,国
内や ヨーロッパで催 された生徒作品の展覧会は,「ピ カソやマチス も,メ
キシコ児童画を見て非常に 賞賛」するなど大 きな反響 を呼び起こす(7)。 しか し,野外美術学校の隆盛 も長 くは続かなかった。2,3年
後には一つ消え二つ帰依,つ
いには彼の いる トラルパムの学校のみ残ることになった。 児童美術教師の宿命的な悩みと脱出策 困難は,美
術教師である芸術家の側に出てき た。彼 らは,「自分の絵がちっとも描けな くなっ たことを発見 した」のである。メキシヨ・ イン デ ィアンの子弟が,「次から次へ と実にすばらし い,既
成美術家にはとて も想像 し得ないような 作品を持って くるところでは,落
ち着いて自分 の絵がかけな くなる」のである(8)。 若い元気なメ キシコの画家たちが次々に,野
外美争ir■校 とい う居心地のいい椅子を捨てて,転向 して行った。 北川民次 も,1司じ悩みに出会い,「私 も幾度美 術教師を廃業 しようと思ったことか」(9)と述懐 している。その困難を打開 したのは,教
師の「威 厳」にこだわらず,「生徒のコンパニェロ(仲間)」 にな り,「謙虚 さを保つ」という彼の姿勢であっ た。「威厳から,私
が遠 ざかれば遠ざかるほど, 生徒の能力を発揮 させ ることもで きた と同時 に,私
自身にも絵が描 けるようになった」ので ある。ひたす ら,「子 どものような心持になって 絵を描いた」(1°)。 北川にとって ,「生徒達こそ私 の先生」であった。 人間の潜在能力発掘をめざす美術教育 北川民次は,児
童美術教育を通 して,人
間の 本質に迫ってい く。人間の潜在能力に注目し, それをいかに引き出すかが美術教育の使命だ と 考える。それを実現するカギは児童美術教育に あるとみて,「絵が悪 くなる時代,す
なわち児童 と成人との過渡期」に目標 をすえるのである。 10歳 ぐらいを境 にして,「周囲の意味を理解 し, 自己の行為を批評―選択する能力が発達 して く る」一方で,「絵に生彩がな くな り始め…自分の 絵 に満 足 しな くなって興 味 が もて な くな る」(H)。 「児童に潜在する才能を,成人になっても失っ て しまわないように,持
ち越 させ る」ことが大 切で,こ
の「教育全般の課題」(12)を可能にする のは,「自由を追求する精神」であ り「自由への 願望」である(13)。 そ して ,「獲得 した自由」が児 童の米計申を独創的にし,そ
の「独創力」こそ心 の停止 を征服す る唯一 の武器 とな るので あ る(14)。 美 しさと自由 lLり│1民次は,児
童美術教育を通 して,美
と自 由への考察を深めていった。美 とは何か,
自由 とは何かを,子
どもたちの絵から学んでい くの である。美は,幾
何学的法則 を持 っている。地 球の生物における進化の歴史がつ くった「必然」 の中に,美
があるという。児童たちの絵が,「実 にこの法則によく当てはまる」のに感心 し,「な ん と本能的に自由を使いこな していることか」瀬 戸の巨匠・北川 民次 と近代化産業遺産 と驚嘆する的 。 北川民次は
,メ
キシコ児童画にある重苦 しい 表情の中に,「われわれには不思議 に思える美 し さ」を見出す。絵の中でみ られる「調和 と均衡」, 「特質その もの」,そ
の「迫力」が,「美 しさ」を 生み出すのである。メキシヨ児童たちを力づ け たものは,「自由その もの」ではな くて,内に宿っ ている「自由を追求する精神」「自由への願望」 でぁった(16)。 1り│1民次は,美
しさを自由と独創 性 との関係で捉えるのである。「不 自由な精神」 は,何
かにとらわれていて独創的な表現がない が,「自由な精神」は,迫
力に富み,美
しさにあ ふれている。「自由な精神」とは,「自由を追求す る精神」に他ならない。このように彼は,「自由」 を能動的,主
体的に捉える。 メキシヨでの 10数 年におよぶ児童美術教育 を通 して,北
川民次は自らの思想 と哲学を鍛え 深めていった。創造的精神は,個
性のある独創 的な作品を生み出すが,そ
の基盤 となるのが人 生観であり世界観であって,美
術には人生その ものが現れる。 2.3。 日本 における児童美術教 育 の実践 とその 挫折 児童美術教 育 にか け る北川 民 次 の熱 い思 い が,
日本への帰国 (1936年)を促 した。 グ ッゲ ンハ イム財団の奨学金 を得て,
日本 における児 童美術教育の研究 をす るためである。 しか し,2.26事
件 か ら日中戦 争へ 向か う当時 の 日本社 会の状況 は,彼
の理想主義的な児童美術教育 を 実行 に移す こ とを許 さなか った。 絵本 の制作 戦時中の彼の大 きな仕事 は,絵
本の制作 であ る。粗悪な もの しかなかった当時の出版状況の 中,良 心的で芸術的 な絵本の刊行 を目的 として, 久保 貞次郎の資金協 力の もとに実行 された。久 保 らと「コドモ文化会」を設立 し,シ
リーズ第 1巻 として北川原作の『マハフノツボ』(三協社) を 1942年 に出版 した。しか し,その後は用紙の 人手さえ困難 とな り,第
2巻
予定の『うさぎの みみはなぜながい』(戦後の 1962年 に福音館書 店 より出版)を
はじめ,あ
とは原稿のまま陽の 目を見ることはなかった(17)。 『マハフノッボ』(図2)は
,陶
土の採掘場, ロクロ場,窯
入れ,窯
焼 きなど,や
きものづ く りの工程 と仕事 をする人々の様子を,北
川民次 の挿絵 と物語でつ くられた美 しい絵本で,1940
図2
絵本 『マハフノツボ』 とその挿絵 (一部) シ ナリヽォ ′ ノt卜
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シ資′
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ヽ夕
I
t .藤
含 化 文 モ ド コ ‐ ‐‐ ^れ,■77t・
・ ヽ ン / . ヽ 〇 出所:久保 点次郎編 『北川民次版画全集 (1928-1977)』 名古屋 日動画廊, 1977年。年代 における瀬戸のや きものづ くりの風物が, オ リジナル・ リトグラフで表現 されている(18)。 近fい頼戸の骨格 をなす窯場の情景や労働者の仕 事ぶ りな どが庶民的雰囲気の中に捉 えられてお り,「わが国で刊行 された ものの中で,1辟交をこ えて芸術的 トー ンをもった優れた絵本」 といわ れ る(19)。 夏季児童美術学校の実験 と挫折 戦後 になると
,1949年
の夏に1り│1民次 は,日 本での本格的な児童美術教育の実験 として,名
古屋 の東山動物 園で夏季 児童美術学校 を始 め る。北川 たちが,絵
具 を練 り,画
材 を用意 し, 自分 たちを先生 と呼ばせ ないで名前 を呼ぶ よう に仕向け,生
徒 たちの側 に立つ仲間 として親密 な関係 をつ くってい く。 この lヶ 月の学校 は, 保護者 に も理解 されて一定の成果 をあげた。 し か し,動
物 園か ら学校 を移転す る構想 は政府の 認め る ところ とな らず,保
護者 たちの熱 い支援 を受けつつ も,種
々の困難 に失望 して美術教育 か ら遠 ざかってい くのである。 創造美育運動 「創造美育運動」 は,久
保 貞次郎 の リーダー シ ップの もとに教師,画
家,父
兄が集 まり,新
しい美術教 育の普 及 と実践 をめ ざ した もので あった。子 どもを大人の望む形 にはめ込 もうと す るのではな く,子
どもの人格 を認め,独
立心 と自信 を育て る美術教育であ る。「創造美育運 動」(通称 :「創美」)に参加 した1り│1民次 は,1952 年 の創造美 育協会設立 に発起 人 と して名 を連 ね,理
論的 なバ ックア ップ な どを情 しまなかっ た。 創 美運 動 は,一
時 は大 変 な広 が りを見せ, 1955年の 第4回
セ ミナール で は 全 国 か ら 1,670人の参加者 を得ている。戦後の混乱のな か,教
育につ いて新 しい姿 を模索 しようとして いた教師たちに,あ
る熱気 を持 って受け入れ ら れていたのである。 しか し,文
部省 による管理 的傾向が強 まるなか,隆盛 期の熱気は去 り,徐 々 に衰退 していった。 2。4.透
徹 した 日本社会批評 と変革視点 抑圧 され依存心の強 い日本の子 どもたち 児童美術教育 を通 してみた」り│1民次の 日本社 会論 は,半
世紀前 に行 った もの とは思 えない斬 新 さが ある。メキシコの子 どもたちと接 して き た北川民次の 目に,
日本の子 どもたちは不 自然 でア ンバ ランスに映 った。「か くも独立的精神 を 傷つ け られ」,「 おそろ しく依存心が強 い」 し, 「ちっとも遊ぼ うとしない」のである。本来, 「児童の無意識は自由」であるが,
日本の児童 の場合,抑
圧 され固着 している不幸があまりに も多いという(20)。 児童画の日米墨上辟交は,各
国 の社会状況,
とくに「児童 と自由との関係」を 反映 していて興味深い。「メキシヨ児童の絵に凄 い迫力が現れ,ア
メ リカ児童の絵に優美さがあ り,わ
が国の児童画が市死念に陥る」(21)。 日本社会は,「ある程度の,一
しか し間違った 一 自由」を児童に提供 しようとするが,彼
らの 生活実態 との間に食い違いがあって「妙な真空 地帯」ができ,そ
れが「児童に対する過度な甘 やか しやセンチメンタ リズム」をもたらしてい るというのである。それに対 して,「わが国の児 童 も他の国のそれ と同 じく,彼
ら自身の真の現 実が必要なのだ。生 きた問題 にぶつか らなけれ ばならない」 との処方箋を提示する(22)。 「抑圧」の重石 とその除去 「抑圧 という忌 まわ しい妨害」によって,児
童が無意識状態で豊富に持 っている才能,「天才 的な能力の芽生え」は,大
人への成長過程で「手 の届 かぬ無意識 の下積 み に国着 させ て しま ぅ」(23)。 それゆえ ,日本における児童美術教育の 第一歩は,「抑圧 された児童の心性の表面に張 り瀬 戸の 巨匠・ 北川 民次 と近代化産業遺 産 渡 され た一 種 の 皮膜 を取 り去 る とい う仕 事」(24),「児童に新 しい環境 を与え
,種
々な方法 で彼 らに生気 を取 り戻 させ ること」(25)でぁっ た。名古屋動物園の夏季美徘『学校での実験では, 「上辟交的急速に効果をあげた」。 ヒステ リックな不安 と「猜疑 と恐怖の国」 日本 への警鐘 1り│1民次は,
日本を「猜疑 と恐怖の国」 とみ た。それは日本の児童の精神風景に他ならない。 「自由を食い尽 くされた児童の精神には何が残 るか。そこには,猜
疑心 と恐怖の観念が根深 く 巣 くうのである。」(26) 高度な文明の中で生活する現代人は,「何か満 たされないもの」「不吉な不均衡」を持 っていて, 「そのような欠陥が,現
代人の心を不安定にし 不健康にしている」(27)。 とりわけ日本人は,「ヒ ステ リックになるほど不安にか られて」いる。 日本の親の愛情は,世
界のどこの国民にもひけ はとらないだろうが,「その愛情の中に一種の恐 怖心が混 じっている」 と見るのである(28)。 そうしたヒステ リックな不安,猜
疑心 と恐怖 は,
どこから来るのであろうか。1帥1民次は, 社会や人間をどう捉 えるかによるのではない か,と みる。アメ リカ人 もメキシヨ人も,「もう 少 し楽観的だった。 自分たちの力で,社
会は多 少で も改善できるものだ と信 じていた」。一方, 「このことに関 しては,
日本人は運命的に見, 不可抗力と考える」(29)。 北川民次は,運 命の波に 身を委ねがちな日本人の世界観,人
生観 を鋭 く えぐり,警
鐘 を鳴 らした。 日本社会への処方箋一宿命を切 り開 く「自由を 追求する精神」一 そこからの脱出は可能であろうか。北川民次 は,メ
キシヨの児童に学べ という。 自由に乏 し い彼 らに「自由への闘争心」を与えることに成 功 した時,彼
らはすばらしく創造的にな り驚 く べ き表現力を発揮 したのである。「自由への願望 と闘争心」「自由を追求する精神」が,児
童をい や大人をも創造的にし,創造的活力で持 って「宿 命的な不幸か ら救 って くれる」のである。 半世紀前の北川民次の慧眼,処
方箋は,今
日 なおみずみず しい生命力を持 ってお り,混
迷す る日本社会に斬新な示唆を与えるもの といえよ つ。3.北
川民次 の芸術 に見 る思想 と哲学
3.1.日
本洋画壇 の 「正統」 とアウ トサ イダー 明治以降,
日本か ら多 くの画家や彫刻家が1欧 州 に渡 った。戦後,海
外 に行 く美術家 は膨大 な 数 に達 し,
また欧米美術の展覧会は,引
きも切 らず公開 されている。しか しなが ら,久
保 貞次 郎 は,「日本の洋画壇 は,ま だ多 くの優れた芸術 家 を生 んだ とはいえない」 と手厳 しい評価 を ド している(30)。 西欧の技法 と日本的な単調 さ 久保 によると,黒
田清輝はフランスの油絵の 形式や技法 を 日本 に伝 えたが,そ
の背後 にある 西洋の精神 を伝 えることを しなかった。藤島武 二 も,
日本での仕事 は本書炎な味 を求める道 をた どるばか りにな り,坂
本繁二郎 はこの湿潤 な風 土 を東洋風 に描 くにとどまった。ル ノアールの 歩んだ道 を踏 んだ梅 原竜二郎 は,徐
々に思想的 に 日本化 し,や
がて内容の伴わない豪幸 さだけ を追 うように変わってい く。青木繁,岸
田劉生 は,才
能 に恵 まれ る も近代的画家 と呼ぶ には 日 本的す ぎて,近
代 入 として育 まねばな らぬ思想 に対す る追求力に欠けていた。近代画家 とみな されている藤田嗣治の絵画は,西
欧的な手法 に よってい るが,そ
の精神の底 には 日本的な単調 さが流れていて,芸
術の もつべ き輝 きによって われわれ を魅惑す る ものが少 ない。静止的な美の追求と冒険精神の欠如 現代の代表的洋画家 とみなされている人々の 作品に共通する特徴は
,静
止的な美を追ってい る点である。それ らの作品は停滞的な感情にひ た り,あ
いまいであ り,冒
険精神の欠如は覆 う べ くもない。それ らは,自己の主張を画面ではっ きりと確立 しようと試みていない。明確な思想 を提示 していないために,混
乱 しているか,曖
味 となる。「定立」(thesis)とは提出された判断・ 主張のことであ り(31),「信条や原則」(32)に他な らないが,彼
らの作品には,「定立」もな く,む
しろ他に定立があるならば,そ
の とげをな くし て しまおうとする他に対する無関心さがあ り, ただ静けさに耽溺 して心の安 らぎを得 ようとす る無気力さがある。そこには,何
物かに向かっ てあげる抗議や批判の思想がな く,時
代の風潮 や権力になびきやすい。久保貞次郎は,
日本洋 画壇の正統を形成 している人々やその思想を, 上記のように撫で切 りにするのである(33)。 日本の成熟 しない「近代イロ のなかにあって, 近代の米計申と正面から向かい合った芸術家は異 端視 され,ア
ウ トサイダー としての評価 を余儀 な くされてきた。久保貞次郎は,
日本近代画壇 の代表的なアウ トサイダーとして,北
川民次 と 瑛九の二人を挙げる(34)。3.2.北
川民次が追求 したもの 「美」よりも生命の表現 北川民次は,当
時の日本では美術国 とはみな されていなかったアメ リカ(9年
)や
メキシヨ (13年)に長 く住んで,そ この美術を吸収 した。 それゆえ彼の芸術 は,フ
ランスを中心 とす る ヨーロッパに留学 した日本画壇の大勢とはかな り違った流れを汲んでいる。 まずフランス的美術は,唯
美的であるのに対 して,彼
の主張する絵画は美 しさを否定 したと ころか ら出発す る(35)。 世 間が美だ と考 えている ような ところには,美
は存在 しない。そうした 「美」の向こうにあるもの,す
なわち,
もっ と 激 しい ところ,
もっ と醜悪だ と言われている と ころを追求 しつかみ出せ という。 もっと大 きなものを掘 り当てねばならない。そこにこそ
,「美
の向こうにある美」
(36),すなわち本物の美があ
る。
北川 民次が アメ リカで獲得 した美術の精神 は,唯 美的なフランス美術 と異な り,もっと荒 々 しい,生
の 生 活 と結 び つ く もの で あった。 1910-20年代 のアメ リカ人は,健
康で生命 をむ きだ しに した もの を好んだ。 さらにメキシヨで は,メ
キシヨ 。ルネ ッサ ンス運動の同僚 たちか ら,強
烈 な生命の表現 としての美術の息吹 を受 け継 ぐ。 「新 しい美」の創造 と「価値の転換」 」り│1民次は「特異な作家」,
といわれてきた。 メキシヨ風で,泥
臭いグロテスクな題材。画風, とっつ きの悪い絵,
と重なれば,そ
う見なされ ても無理 もない。醜い顔など,時
として嫌悪の 情す ら呼び起 こさせ る(37)。 久保貞次郎 は,そ
の一例 として「芸者」(1941 年)をあげる。「醜い作品で,だ
れが何 といおう と好 きになれない…仲間のだれ も,そ
の絵をほ めない」という。 ところが,そ
の6年
後に突如, 評価が逆転する。「この『芸者』ハ 急に新鮮に, たとえようもな くうるわ しくぼ くには見えたの は,戦
争が終 わって2年
,絵
力斗苗かれてか ら6 年 もたったある朝 の こ とだ った。同 じようなこ とが た び た び 北 川 民 次 の 作 品 で は起 こっ た。」(38) 屈指 の美術評論家です ら,す
ぐには民次の絵 の良 さがつかめない。いわんや,わ
れわれ門外 漢 においておや,で
ある。 しか し,久
保 は,民
次の絵の深 さ,新
鮮 さに注意 を促 す。「かれの絵瀬 戸の巨匠 。北川 民次 と近代 化産業遺 産 はとっつ きは悪いか もしれないが
,見
ればみる ほど新鮮さをまし,汲
み尽せないものをたたえ ている」(39)。 民次の人物が人々の感情 を損 な うのはなぜ か。「通俗的観念に迎合 していないから」と,久
保 はいう。「通俗的観念は多 くの人々にとって は,安
心感のよりどころである。・…民次の人物 像がひとび とのこの欲望に痛烈な打撃を与える ゆえに,ひ
とび とはかれの人物像に反感,嫌
悪 感を抱 く」。これこそ,「北川芸術が第一流 と言呵画 されない大 きな理由であろ う」 と,久
保 はみ る(40)。 しか し,北
川民次の真骨頂は,む
しろそこに ある。通俗的観念に挑戦 し,「明確 にそれを無視 し,反
逆 し,そ
れを乗 りこえたところに,新
し い美を創造 しようと企ててきた」(41)。 この「真の 実力を持った芸術」が正当に評価 されれば,他
の一流 と呼ばれる作品の評価は逆転 し,
日本の 美術界に「価値の転換」を引き起 こすことにな りかねなぃ(42)。3.3.北
川民次の芸術 とその魅力 北川民次の思想 と作品にみる独創性 北川民次の絵画 に滲み出 る思想 は,ま
れにみ るデ リケー トな感情で支 えられている。その「デ リカ シー と,思
想への忠実 さ」がい りま じって, かれの絵画 は「複雑 さ」 を増す。その複雑 さが 感 じ取れない段階では,彼
の絵 は粗雑で ぎこち な く,無
表情 に映 る。 しか も,彼
はたえず新 し い領域 を開拓 してい くので,庶
民 はおろか専門 家です らす ぐには追いついていけないが,
日が たつ につ れ新 作 の精 神 に近 づ け る よ うに な る(43)。 久保貞次郎 は,1り
│1民次 を「日本ではまれ に み る動揺の精神の鼓吹者」 とみ る。たえず 自分 のつ くり上 げたスタイル を打 ち壊 し,た
えざる 変革を求めてや まない。この「重対書の精神」は, 「波ひとつたたない静けさを最上の もの と称え る」日本文化の伝統に真っ向か ら挑戦する(“)。 1り │1民次の風景 。人物・静物は,彼
の思想が にじみでているゆえに「独特」であ り,美
術愛 好家が気軽に近づ けないようである。しか し, 彼の「独創的思想」は,時
がたてばたつほど輝 きを増 し,複
雑な色彩の調和による微妙な トー ン,強
靭な構成力となって,彼
の作品にあらわ れる。「ある日とつぜん太陽が照 り輝 き出したよ うに,美
しさが身にしみわた り,期
待をこえた 魅力あるもの となって迫って くる」。この迫力, 醍醐味こそ,北
川芸術が「日本美術史の上で, 確固たる位置を要求する根拠の一つ」に他なら なぃ(45)。 民次芸術にみる庶民性や謙譲 さ―その背景に西 欧の思想一 北川民次は,ア
メ リカやメキシヨの美術から 学ぶだけでな く,そ
の背景をなす社会から「西 欧の精神」を身につけた。そこで体得 した「西 欧の思想」は,そ
の後,彼
を育み,彼
の芸術を 実 らせていった。それは,
ヨーロッパに行って 長 く滞在するも帰国すると西欧の文化の精神 を 次第に失ってい く多 くの 日本人画家 とは対照的 である。西洋の近代思想は,民
主主義の思想で ある。それは,
自由,平
等,友
愛の精神をもと にして,懐
疑や批判の精神,現
象を観察 し問題 を自由に考究する習慣 をもち,寛
容の精神 を裏 付けとしている。この思想は,合
理主義である が,
また「反逆の精神」をも含んでいる(46)。 北川民次の芸術は,庶
民的であ り,
自分のス タイル を変革 して止 まない謙譲 さをもってい る。 また複雑 さ,明
快 さをあわせ持 っている。 彼の芸術のそうした特徴は,彼
の思想・哲学が 反映 したものである。北川民次は,絵
画の目的 は画家の人格や人生観,世
界観が画面を通 して適度 に表現 され るこ とであ り
,絵
も結局は哲学 であるという。日本の洋画家たちについて,「彼 らには大 いなる構想,強
烈 な願望,人
生への熱 意が欠如 している。あれだけの技巧の持 ち主が なぜ思想の一端で も絵 に打 ち込んで くれないの か」 と苦言 を呈す るのである(47)。 1り│1民次の芸術が,
日本趣味 におちい らず, 頑固 に芸術の本源 を突 き止め ようとす るのは, 帰国後 も西洋の思想の地面 に脚 をふ まえていた か らである。彼の絵画が庶民的なのは,西
洋の 民衆の呼吸 を体験 しているか らである。 1りII民次 は,ち
っぽ けな安 らぎを求めず,
自 らが確 立 した境地 をもたえず破壊 し,
もっ とそ の奥 にあるものを捜 し求め掴 もうとし続 けた。 彼 はそれ を謙譲 な態度 にす ぎない という。 しか し,そ
のや り方は,
日本画壇 ばか りでな く,
日 本社会全般 か らも歓迎 されない。人々は基本的 には安定 を願 っていて,変
革 を望 んでいないか らである。民衆や 日本画壇 は,そ
うした謙譲 さ を危険視 したのである “ 8)。 この謙譲 さは,懐
疑 の精神,「動揺の精神」か ら生 まれて くる。彼の作品のスタイルが,幾
た びか変わ り,
しか もだんだん重厚 さ,内
容の精 密 さ,明
快 さを加 えていったのは,こ
の重舛署の 精神 の結果 である。 北川作品にみる強靭・ 複雑 さ 日本の多 くの代表的画家の作品が単調 なのに 比べ て,北
川民次の作品は一本調子でな く複雑 さが一つの特長 となっている。それは,彼
の思 想のなかに,幾
つかの信条や問題 を同時 にあわ せ抱 いているか らである。思想の基礎のスケー ルが大 きくなればなるほど,内 面の真実が増 え, 重な り合い,調
和 を もって統一 されてい く。 し か も, それ ら力淋目互 に助 け合 って,思
想 をよ り いっそ う強固に形成す る。北川民次の絵画は, 日本の代表的な画家の中で,
きわだ って強靭か つ複雑である。しか し鑑賞者が,そ
れ らを感 じ 取れない時,無
感覚,無
表情,
きめが荒 い作品 とみて排斥 しがちになる。 北川作品の明快 さとその奥行 き 北川民次の作品は,明
快 であ る。彼の思想が 複雑であるのに,作 品が明快 であるのはなぜ か。 明快 さは,フ
ェルナ ン・ レジェやセザ ンヌの作 品な どに,こ
の うえな く強烈にみ られ るが,彼
らを単純 な思想の画家 と評価す る人はほ とん ど いないであろう。 ヨー ロッパの一流芸術家の作 品は,い
ずれ もこの明快 さを もっている。北川 民次の もつ明快 さは,
日本画壇 においては実に ユニークであるが,
しか しセザ ンヌや レジェに 比べ る時,
日本の画家であるという自らの限界 を認め ざるを得ない とみ られ る。 芸術 に表現 された明快 さは,作
家の思想の明 快 さであ り,そ
の芸術的思想の的確 さに他な ら ない。それは,作
家が外部 に突 き出す 「定立」 の内容であ り,そ
の内容がいままでの定立 に鋭 く対決 していればいるほ ど,彼
の定立 はあざや かにな り,明
快 にな る。 その定立の内容が,果く 真実 に根 ざす度が増せ ば ますほど,そ
の定立 は 明確 さを増す。そ うした定立 をつ くろうとすれ ば,他
の定立,す
なわち今 まで社会 に発生 し伝 わって きた数限 りない信条や原則 との摩擦 は当 然避 けがたい し,
また,み
ずか ら前 に提出 した 定立 とも対決 しなければな らない。その摩擦 の 激 しさが,思
想 を強靭な ものに し確固たるもの に して,ひ
いては作品を明快 な ものにす る。lL 川民次 は,こ
の摩擦の必要性 と価値 をアメ リカ とメキシヨで体得 した。 ことにメキシヨ現代美 術が摩擦 の中で生 まれ育 ってい くところを,彼
は 日のあた りに見なが ら13年を過 ご したので ある。瀬 戸の巨匠・北川 民次 と近代化産 業遺産 明 るさ
,楽
しさを増す画風ヘー新 しい境地の開 拓一 1936年,22年
ぶ りに帰国 した北川民次が発 表 した作品は,「灰色の時代」と呼ばれ る一連の テ ンペ ラと油絵である。 この「灰色」 によって 描 いた絵画は,
日本では彼が初めてである。 し か し,「灰色の時代」はメキシヨ絵画の影響が濃 く,民
次 自身の もの とい うよりも,メ
キシコ派 の一員であった画家の体質 を強 く反映 した もの とみ ることがで きる(49)。 戦後 も,く すんだ色調が続 いたが,1960年
代 に入 ると,1り
│1民次の画風が一変す る。 それ ま での憂 うつ さが消 えて,画
面が明 る くな り,楽
しさが増 して きたのである。オノサ ト・ トシノ ブは「北川芸術はこれか らようや く作者 自身の もの になった」(50)と ぃ ぅ。1970年代 に入 る と さらに,「楽天的 とさえみえるほ ど原色に富み, あざやかな画面 とな り,図
は大 まかな捉 え方」 に変化 してい く。十数年来の明 るい人物像や花 や風景について,久
保 は「独特 な表現」であ り, 「新 しい境地の開拓」であると捉 えた(51)。3.4.近
代的精神 と「素朴な生命力」希求 「素朴な生命力」「無垢なる精神」の回復をめざ す メキシヨ時代における」り│1民次の作品には, 文明に汚染 され,廃
碩の米計申によって支えられ ている現代人の胸に深 く突 き刺さる「無垢なる 精神の輝 き」がある。その精神をわが国にもた らした数少ないアーチス トのひとりとして,「H 本美術史上に輝 く存在」といわれる価値がある, と久保は主張する(52)。 北川民次力寸苗き,人
々に訴えようとしたもの は,一
体何か。それは,機
械文明に毒 されて, 現代の人間がずっと前から失い始めている「素 朴な生命力」を回復することであった(53)。 その 目的 を実現 しようとして,帰
国後50年
近 くに わた り,メ
キシコの人物や寺院,風
景,サ
ボテ ン,瀬
戸の工場や働 く人々,
日本の風景,幾
つ かの比喩 をもとに した風刺的な題材,そ
れ に集 団,
肖像,家
族愛,バ
ッタ,花
な ど,す
べ て身 近 な民衆的な もの を対象 として描 き続 けた。 近代的精神の火 表面的 には近代化 を装いなが ら,背
後では前 近代的な ものや曖味 さ,低
俗趣味のあふれた戦 後 日本 において,北
川民次は近代的米計申の火 を 燃や し続 け,そ
の芸術 を豊かに して きた点は, 注 目に値す る。 しか し,戦
後 日本の「近代イ囮 のなかにあって,近
代化の思想 を真剣 に実現 し ようとした人々一北川民次 をは じめ坂田一男, 長谷川二郎,I英 九 ら一がアウ トサイダーの位置 におかれ,正
当な評価 を与え られていない。久 保 は,そ
う した ところにこそ,
日本の近代化の 思想的な不徹底 さ,未
熟 さが如実 に表れている とみ るのである(54)。 日本画壇のアウ トサイダー 日本近代画壇 において,北
川民次の切 り拓 い た境地 は,そ
のオ リジナ リテ ィ,深
く人間性の 根源 に迫 る迫真性 な ど,不 滅の光 を放 っている。 しか し,
日本近代画壇 における北川民次の言刊面 はそれにふさわ しい ものではな く,「日本画壇 の アウ トサ イダー」 とみなされて きた。 アウ トサ イダー とは何か。アウ トサーダー と は,久
保 によると,「 憑かれた人間」の ことであ る。「自分が どこへ行 きつつあるのか,そ して 自 分が何 ものであるのか, とい う問題 に とり憑か れた男」に他な らぬゆえ,「進化す る」人間で も ある(55)。■ 4 近 代瀬 戸 の原風 景 を活 写 す る北 川 民 次
4.1.帰
国直後 に描 いた瀬戸絵画の最高傑作群 北川民次の「名作の故郷」 としての瀬戸 1936年にメキシヨか ら帰国後,妻の実家のあ る瀬戸の勿1田町 に身 を寄せ た民次は, 1年
足 ら ず して上 京 し,池
袋近 くに居 を構 えたが,戦
火 を避 けて1943年にふたたび瀬戸 に移住 し,室
と呼ばれ る陶磁器工場の空 き家 をア トリエに し て住みつ く。 帰国前の数年 間 (1932∼36年
),民 次の住んだ メキシヨの タスコは,銀
鉱 山で栄 えた山間の町 であった。瀬戸 もまた陶土や珪砂の鉱 山があ り, や きものづ くりの まちである。両者 に共通す る の は,働
く人々の飾 り気のない,心
の温か さが あるまち とい う点である。 山あいの 自然の地形 図3
「瀬戸風景」(一部) に沿ってできた工場や住居の 'It景 も,
タスコに 似ていたことが,民
次の心を1′せえた。そこから, 瀬戸のまちの風物を主題にした数々の名作が生 まれる。今や,そ
の面影を失って しまったとこ ろが多いが,そ
れで もなお「名作の故郷」 とし てその名残をとどめている(56)。 日本の水彩画史に新 しい 1ペ ージ 「瀬戸 といえば,北
川民次,民
次 といえば瀬 戸」(57)と ぃわれる。それほど,北
川民次はたえ ずみずか ら住んだ瀬戸 を描 いて俗む ことがな かった。彼の最初に描いた瀬戸風景は,1937年
の「瀬戸の工場」という作品で,第
25回 二科展 に「タスコの祭 日」「銀鉱の内部」と一緒に出品 した各200号
の大作である。 メキシヨか ら帰国 して間 もない 1936-7年, 瀬戸に住んで短期間に,北
川民次は20数
点の 水彩画(グワッシュ)(58)に よる「瀬戸風景」(図 瀬戸風景 (まちか ど) S´′ο Sι´″´,■ (S′″σ′C`′″′で,´) 1936-37(‖召不l111-12)`l: 388×38 5cm 名占岸│li美術館 出所:愛知 県 美術 館 (村│‖真宏・ 高橋 秀 治)編
『北 川 民 次展』北 川 民次11モ実 行委 員 会,1996年,61ペ
ー i頼′i風 景 、Sで,/`,Sご `″て ,′´ν 1936-37(‖ “ 利l ll-12)イ│・ 388×38 5cm 個 人蔵 出 所 :同左,60ペ
ー ジ。瀬 戸の 巨匠・ 北川民次 と近代化産業遺産
3)を
描いた。久保貞次郎によると,そ
れらは 「かれの『瀬戸絵画』の最高傑作群」(59)と ぃぅ。 メキシヨ,ア
メ リカで得た一筋に自分の道を歩 んだ頑強に生一本な主張が,瀬
戸の風物,産
業 文化 と遊遁 し激 しくぶつか りあうなかにも,貫
かれている。 この一連の瀬戸風景は,「彼の水彩作品を代表 する」もので,「日本の水彩画の歴史に新 しい1 ページを加えた」 と村田真宏氏は評価する。ア メ リカの画家ジョン・マ リンの強い影響を受け なが らも,瀬
戸の町並みや工場の変化に富む情 景に触発されて,陶
磁器生産が盛んなこの行の 息づかいが伝わって くるような表現を完成 させ た。「瀬戸の工場」(1948年,図
4)も,そ
の一 つである。 これらの作品は後年,「民次の灰色の時代」と いわれて日本の水彩画を大 きく革新するもので あったが,当
時はほとんど注 目されなかった。 民次芸術は,瀬
戸の工場風景に出会って,
日本 で最初の美 しい花を咲かせたのである(60)。 図4
「瀬戸の工場」 瀬戸の工場 Eασ′οッ グ″S´′ο 1948(昭オl123)年 72.6×90.8cm 瀬戸市 出所:図1に同 じ,90ペ
ー ジ。 日本の近代版画に新展開を画 した「瀬戸十景」 表紙 を合めて 11点 の リノカッ ト(リ ノ リウ ム(61)版)による版画作品「瀬戸十景」(1937年 , 図5)は
,瀬
戸を題材 とした絵はが きの原画を 瀬戸市か ら委II属されて制作 した ものである。民 次は,「一般の絵はがきにはない ものを」と考え て版画にした。この 11点 の版画作品は,自と黒 の明確な対比および刀の切れ味を引 き出 した表 現に特徴がある。 しか しなが ら,そ
の自と黒の 強い対比を生か した表現は,瀬
戸市の受け入れ るところとならず,絵
はが きとしては採用 され なかった。 瀬戸の街の情景 を描いた「工場の一角」「煙突 のある風景」「瀬戸市街」は,水
彩による一連の 「瀬戸風景」と共通する構成がみられる。 また, 「ロクロを回す男」(図5)の ように働 く人々の 姿を描いた作品では,壁
画的な画面構成を版画 という小 さな画面にも巧みに取 り入れてお り, 後年の絵画作品「赤津陶工の家」 (1960年)を予 見させ るものがある。 版画制作が盛んな環境下にあったメキシヨ時 代に,民
次は熱心に版画の制作 と研究を行って いた。それが,帰
国後間 もないこの時期に優れ た版画作品を生み出す背景 となっている。「瀬戸 十景」に代表 されるこの時期の彼の版画は,「日 本の近代版画の展開上で も,新
しい 1ペ ージを 加えたもの」 として高 く評価 される(62)。4.2.名
作の舞台 となった瀬戸の写生地 近代瀬戸 を活写 した数々の名作 を生み出 した 北川民次の写生地 は,図
6に見 るようにア トリ エ近辺か ら瀬戸川 をはさんで東に長 く伸びてお り,民
次が折 に触れ散策 した地域である。瀬戸 の風情が最 もよ く滲み出,垣
間見 られた地域 で もあった。それ らは,伊
藤高義氏 に よると次の 7つの区域 に分 けることがで き,各
区域 を象徴工場のなか 。瀬戸十景 ′,2ルοF″′οη一 つ ″S“″′Sグ Sο′ο 1937(昭矛l112)年 197×13.Ocm 愛知県美術館 '1.■1. 出所 :図 1に同 じ
,68ペ
ー ジ。 瀬戸 市役 所 図5
「瀬戸十景」(一部) 至 工 業 回 地 ろ くろを廻す男・瀬戸十景 ルrク″ 71″′,′グ,′g αια′ヵ′-71′″sご′″。s ゲ&わ 1937(昭不「112)年 196×12 2cm 愛知県美術館 品 野 陶 器 セ ンタ 図6
北川 民次の瀬 戸写生地 (略図) 至 工 業 団 地 `‐`` 至 赤 津 ◎ 湯の 根 ② 至 璽 興 寺 至 瀬 戸 市 衛 ④ 出所 :『 バ ッタ』第3号 ,199510。 秋 葉 町 北川 ア トリエ瀬 戸の 巨匠・ 北川民次 と近代化産業遺産 する代表作 として 10点 をあげている(63)。 10という数字は,北川民次の作品に馴染みの 深い数字 といえる。1937年 の版画作品「瀬戸十 景」
,そ
して 1967年 の随筆「瀬戸風景十年」は 瀬戸信用金庫のカレンダー発行 10周 年 を記念 して執筆 したものである。伊藤氏のあげた瀬戸 の写生地 10点 も,そ
うした文脈の中でみると 面白い。 ア トリエ近 くの工場,窯
場,鉱
山一安戸,陣
屋, 窯神,湯
之根付近― ア トリエ近 くのや きもの工場,窯
場,陶
上の 鉱山は,多
くの作品のモチーフになったところ である。安戸から窯神に抜ける峠の道は,①
「ひ ば りの丘」(1950年,図
7)の 名作を生み,そ
の 近 くにある 珪砂工場は「砂の工場」(1959年) のモデルになった といわれる。「工場 は休み」 (1960年),②
「瀬戸の工場」(1948年,図
4) も,安
戸の丘の上からの眺めから生 まれた作品 で,陶
土の山をバ ックに黒い工場 と煙突の立ち 並ぶ風景を描いたものである。 湯乃根にあった大 きな登 り窯は,③
「瀬戸の 風景」(1937年)などいろいろな姿で描かれてい る。 また,「章の像」(1946年)の背景には,窯
神の丘の風景が見事に描かれている。 図7
「ひば りの丘」 出所 :『 画業60年 北川民次回顧展』毎 日新聞社, 1973年 瀬戸の近代化産業遺産 としての「赤いオイルタ ンク」一幸町,東
。西本町界隈― 「赤いオイルタンク」(1960年,図 8),④
「酸 素溶接工場」(1937年,図
9)は,こ
の界隈に特 有な狭い露地のごみごみ した風景を庶民的な風 物詩 として描 きあげた ものである。今までの 日 本にない独 自な風景画 として注 目される作品で ある。 石炭か ら重油に燃料が切 り替えられた高度成 長期に入った頃,瀬
戸のまちにオイルタンクが 工場の新 しい活気のシンボル として登場 してき た。「赤いオイルタンク」は,当
時の幸町付近の 工場風景を描いた ものである。赤いオイルタン クが,灰
色 と自の工場や煙突 と調和 して美 しく 輝 き,明
確な造形美で,見
る人の心に深い印象 を与える。従来の 日本画に特徴的な甘い情熱や 情緒 を排 して,厳
しい造形美が追及され,
もの を造る街の飾 り気のない素朴な美 しさが見事に 表現 されている。 「赤いオイルタンク」について,伊
藤高義氏 は「民次芸術の頂点を極め られた作品」 と高 く 評価する。「1960年 代の瀬戸の街の情景はこの 一作によって永遠にその姿が残 されました」 と 言い切 る(64)。 この一作が瀬戸の近代化産業遺産 として類 まれなことを活写 した名言である。 まさに,瀬
戸を多面的に深 く描いた」り│1作品 の総体こそ,近
代瀬戸の精神 を体現 したもので あ り,近
代瀬戸の産業i童産 としてこれほど文化 的に洗棟されたものは,近
代 日本の各地域で も 比類がないといえよう。 狭い露地風景一西郷町付近の露地一 民次は,伊
藤伊平氏のせ ともの工場に好んで 通った。その工場近 くの狭い露地風景は,⑤
「瀬 戸のまちかど」(1946年,図
10)の モデルにな り,瀬
戸信用金庫のカレンダーにもなって,多
くの人に親 しまれた。 また,「灰色」時代の水彩赤 いオ イル タ ンク R``ノ θ〃‐7セ″?カ 1960(昭 和 35)年 1167×91 0cm i「ヽ人蔵 図
9
「西突素溶オ,た li場」 酸 素熔接 li場 0■,'マθ″;γ `イ ″″rS力 `,ノ , 1937(昭 和 12)年 4()9× 40 2 cnl 名占岸 市美術館 出 所 :図 1に同 じ,62ペ
ー ジ。 出所:図1に同 じ,116ベー ジ。 図8
「赤いオイルタンク」 図10
「瀬戸のまちか ど」 瀬 戸の まちか ど S´′ο Sσσ′′,■. 1946(llF`利121)年 803×65 2 cnl 個 人蔵 出所:図 1に同 じ,91ペ
ー ジ。 画の名作「瀬戸風景」(1936年)は,伊
平工場 と 母屋の一 角がモデル になった ものである。 丘 に立 ち並ぶ工場―東茨か ら秋葉町の眺め― 記念橋か ら豊円へ通 じる道路,東
茨町か ら秋 葉町の丘に立 ち並ぶ工場 を見上 げた風景 を描 いたのが
,瀬
戸信用金庫のカレンダーを飾った⑥
「瀬戸風景」
(1960年)である。今も,国 道から
眺め上 げると,そ
の面影 を感 じ取 ることがで き るとい う。 白イ酬庄の工場風景―古瀬戸付近― 品野町か ら赤津町の分岐点の北側 には,多
く の陶 土工場 が あったが,陶
土の粉 塵で 全体 が 真 っ白に見えた。 こう した工場風景か ら生 まれ たのが,⑦
「白い11場」(1951年),「ねんど工場」 (1958年)などである。「瀬戸の工場」(水彩画, 1936年)も,品
野に行 く道路脇のI:場が描 かれ たものである。瀬 戸の巨匠・ 北川民次 と近代化産業遺産 名作「赤津陶工の家」の舞台一赤津町の工場― 霞仙陶苑 をモデルにした③「赤津陶工の家」 (1941年
,図
11)は,陶
工たちと登 り窯が見事 に描かれた作品である。伊藤高義氏をして,「戦 前の瀬戸のや きもの工場の雰囲気が,こ
の一作 で長 く物語 られるもの と思われる」 と言わ しめ た名作である。上述の「赤いオイルタンク」(1960 年)と
ともに,近
代瀬戸の産業遺産の双璧 をな す ものといえる。 民次は,霞
仙陶苑の工場で数々の陶画を作っ た。市民会館の壁画のモザイクタイル,図
書館 の壁画のモザイクタイル も,ここで制作 された。 「陶房の人々」(1968年),「陶工たち」(1966年) も,こ
の工場で働 く人々をモデルにしたもので ある。 山間風景 とやきもの工場一品野町5丁
目,島
原 町付 近― ⑨「瀬戸風景」(1966年)は,品
野本町か ら岩 屋堂へ通 じる道路,品
野町5 「日の道か ら,丘
の上のや きもの工場群 を見上 げた風景 を描 いた ものである。⑩「松の本のある風景」(1949年) 図11
「赤津陶工の家」 赤汁mlの
家 〃 `,″ s(“,′々,′′ピ′´′′4々 `22′ ′ 1941(‖召不│116)イli 1285×163 8 clュ1 名Il出i lij美術館 出 所 :図1に同 じ,81ペ
ー ジ。 のモチーフとな り,「瀬戸市品野町岩屋堂公園ヘ の道」(1960年)のモデルになったとみられるの が,岩
屋堂の入日の島原町か ら見える山間の風 景である。 また,現
在の品野陶磁器センターの 北側,陶
土採掘場の丘の上付近は,「品野風景」 (1946年)の
モデル とみ られる。 以上にみるように,北
川民次の描いた近代瀬 戸について, 7つ
の区域に分けてそれぞれの代 表的作品を位置づ ける伊藤高義氏の試みは,近
代瀬戸の原風景を浮かび上が らせ る一つの手法 として興味深い。 4。3.近
代瀬戸の原風景 と精神 を活写 民次の瀬戸絵画 にみる5分
類 北川民次 は,瀬
戸の織 りなす情景 を多面的 に 描 き続 け る。彼 を とらえて離 さなかった 1930 年代 か ら70年
代 の瀬 戸 は,陶
磁器産業が繁忙 を極めた最盛期で もあった。民次の瀬戸絵画 に は,近
代瀬 戸の原風景 とその精神が汲みだ され 見事 に表 出 されてい る。瀬戸 を描 いた彼の作 品 群 は,数
十点 に及ぶ。 それ らは,久
保 貞次郎 に よる と5つの ジャンルーA.丘
や 山肌 を背景 に 工場や煙突,B.人
物 をクローズア ップ,C.自
然や街,D.工
場の建物や工場裏の シー ン,E.働
く労働者群像,F.煙
突バ ックにオブ ジェや 人物 ― に分類で きる(65)。A(丘
や 山肌 を背景 に工場や煙突)の 代表的作 品に,久
保 は1948年の「瀬戸風景」をあげる。 「工場 は休み」(1960年)は,煙
突か ら煙が立 ち のぼ っていない静かな風景である。 これ らの独 特 な調子 を もつ風景 は,「瀬戸の 自然が民次の絵 を模イ方文してい るといいたい くらい」の名作であ る。B(人
物 をクローズア ップ)に
は,「砂礫置場 の母子」(1964年),「花火」(1951年),「白い工 場」(1951年),「か まど」(1951年,図
12)など図
12
「かまど」 か ま ど スIJ′″ 1950(昭 和 25)年 910×116 7cm 個 人蔵 出所:図1に同 じ,102ペー ジ。 数多 くある。 ところで,「かまど」とは,窯
のこ とであり,焼
きもの生産の中心をなす象徴的な 存在で もある。宙に浮かんで飛んでいるような 女は「かまどの神」の姿 といわれる。かまどに 関わるい くつかの作品を通 して,焼
きもののま ちとそこに働 く人たちの,か
まどにまつわるさ ま ざ まな イ メージ を描 こ う と した の で あ る(66)。D(工
場の建物や工場裏のシーン)に
は,「赤 いオイルタンク」(1960年,図 8)や
「工場A」 「工場B」 (1961年)などがある。 また,「瀬戸 の工場裏」(1952年)などにみ られる場末のシー ンも幾つかあ り,民
次の得意のテーマである。 彼のニューヨーク終業時代の師ジョン・スロー ンは,働
く人々を描け,実
際に存在するものか ら目をそむけるな,そ
れを忠実に写生せ よ,
と 説いた。このスローンの教えを,民
次は瀬戸の 地で も守 り続けるのである。E(働
く労働者群像)の労働者をテーマにした 図 も割に多く,「かまどと働 く人々」(1952年, 図13)は
その代表作である。「労働者の家族」 図13「
か まどと働 く人々」 か ま ど と働 く人 々 ス[グ′″ α″グ I夕ο/力ι,s 1952(昭 和 27)年 1300×162 0cm 個 人蔵 出所 :図1に同 じ,103ペー ジ。 (1963年)な
どもあげ られ る。 以上 にみ る ような久保 貞次郎 に よる5つ
の ジャンルヘの分類 は,民
次の描 いた近代瀬戸の 多彩な原風景 を,社
会的視点か ら分類 した もの として貴重である。近ft頼戸の産業文化の多様 な実像,す
なわち独 自な視点か ら捉 えた芸術的 深 さと社会的広が りを,
うま く整理 し分類 した もの といえる。 この久保の社会的分類 と伊藤氏の地理的分類 を交差 させ ると,民
次の描 いた近代瀬戸 を,そ
の社会性 と地理性 とい う複眼的な視点か らより 立体化 して提 えることが可能になる。 瀬戸 をテーマに した逸品一瀬戸市民会館の壁画 瀬戸 をテーマ に した」U‖作 品において逸 して はな らぬ ものに,1959年
に完成 した瀬戸市民会 館の タイルモザ イク壁画3面
(「陶上の山 と採掘 夫」「ロクロ場風景」「登 り窯」,図
14)がある。 瀬 戸の まちの生産 シー ンを提 えなが ら,デ
リカ シー をたたえ,ス
ケールの大 きな思想で裏打 ち されたこの ような壁画は,「わが国の壁画のなか で も比肩す る ものはあるまい」(67)と ぃわれ る。瀬 戸の巨匠・北川 民次 と近代化産業遺産 図
14
瀬 戸市民 会館の タイル モザ イク壁画 「陶11の山と採掘夫」 他の人々に真似のできない領域」(69)である。 瀬戸りJt物は,民
次芸術において最 も重要な位 置を占めている。働 く人々のまち,庶
民的雰囲 気のまち,i頼戸。陶上でにごった水の流れる川 がまちの中央を走る。煤煙ですすけた建物や空 気。いずれ もが民次芸術に徹底的に反映 してい る。久保はいう,「この画家は瀬戸を描かず とも, 瀬戸の精神をもって描いているのだ」(70)と。 民次が好んだ瀬戸の雰囲気,働
く女性の美 しさ20余
年,住 みなれた瀬戸の印象を次のように 語っている(71)。「よそ者の私ですが,好 きなんで す よ,こ
の瀬戸が。ここではだれ も遊んでいな い。町中こぞって土にまみれて働いている。・… 主人も職人も,同
じようになって働いている。 上掘 り人夫が,町
の中を大いば りで歩いている 街なんだ。いいですね ぇ。」 瀬戸に住みついた理由 も,そ
うした雰囲気が 気に入ったからである。「外国帰 りには住みに く いという「1本で, どこの馬の骨かわからぬ男を 快 く受け入れ」る懐の深 さが,瀬
戸にはあった。 民次にとって,「男女 とも,身
な り構わずよく働 く。その人々と友人になれるのが,何
よりもの 喜びだった」(72)。 とくに瀬戸の女性の甲斐甲斐 しく働 くた くま しい美 しさに,民
次は注 目する。陶磁器産のま ち,瀬
戸には,婦
女子に適 した仕事がた くさん あった。「泥んこになっていつ も緊張 して働 く」 彼女たちは,小
銭 をため込んで鼻息 も荒い。「職 場には,い つ も喜び と笑いがあって明るい」。そ うした彼女たちの姿は,「ぼ くにはとても美 しく 思える」 という(73)。 「ロクロ場風景」 「登 り窯」 出所 :絵 はが き「瀬 戸市民会館内廊壁画の原画」瀬 戸市役所,1972年 「瀬戸の精神」を活写 人々の労働の姿 と活気や活力といったものが 伝わって くる「赤津陶11の家」(1941年)は,壁
画的な画面構成をめざした北川絵画の代表的作 例(68)と ぃわれる。「じつに瀬戸的」で民衆的な 気分 とほこりの臭いか貰 いているこのような油 絵は,北
川の「根底的なスピリットであって,5。
壁画 に込 めた北川民次 の夢 と思想
5。 1.壁画制作に向けた北川民次の夢 とその実現 「壁画家」北川民次の自負 と夢 「ぼ くはタブロ_(74)画家ではな くて壁画家 なんですよ。ぼ くの油絵はその下絵かスケッチ にす ぎないんですよ」 といったのは,油
絵や水 彩画などのタブローで日本の近代画壇に独 自な 新境地を開いた1り│1民次その人である。1936年 に帰国以来,「ぼ くは壁画を作 りたいのです よ」 と言い続けた。メキシヨ・ルネッサンスの壁画 運動を目の当た りに見てきた彼にとって,
日本 で壁画を作 ることは夢であった。 ついに民次は,1959年
に,2つ
の大 きな壁画 をほとんど同時期 に完成させ るのである。その 一つが名古屋CBC(中
日放送)会
館の大理石モ ザイク壁画であ り,
もう一つが瀬戸市民会館の タイル。モザイク壁画である。北川民次65歳
の 時のことであった。両壁画の意欲的な制作記録 写真(図 15)が,『バ ッタ』で紹介されている(75)。 同写真は今 となっては得がたい貴重な資料であ り,地
域の貴重な近代化産業遺産 として注 目さ れる。 名古屋CBC会
館の大理石モザイク壁画 1959年7月,CBC会
館新築を期に,会館東側 の外壁 に高 さ6.8メー トル,幅
16.6メー トル の「平和 と芸術」と題する大壁画 (図16)が
完 成 した。 日本では類 を見ない大規模な大理石モ ザイクで,岐
阜の矢橋大理石の協力により実現 したものである。民次の意気込み も大変なもの であったが,名
古屋に本当に文化の香 り高い壁 画がで きたと話題になった(76)。 「モザイク壁画はこれまであまり注意を払っ たこともない し,研
究 もしていなかった…こと に大理石だ というのだか ら私はすっか りまごつ いて…」 と民次は,初
めて試みる大理石モザイ ク壁画への とまどいを率直に述べている。や っ との思 いで作 った原画であるが,大
理石モザ イ クを作 って くれ る矢橋六郎がすんな りと引 き受 けて くれて,民
次 は安堵す るのである(77)。 瀬戸市民会館の タイル・ モザイク壁画 とその誕 生秘話 同 じ頃,瀬
戸市で幸斤しい市民会館建設が始め られた。伊藤高義 ら「創造美育」(民次の提唱で 生 まれ た新 しい美術教 育運動)の
瀬 戸 の メ ン バ ーは,「市民会館 に民次の壁画 を」という思い を募 らせ,久
保 貞次郎 (民次芸術 に理解バ 果い 美術評論家)や
松本顕治 (瀬戸の北川民次後援 会長)に
相談す る。松本顕治が民次 と市長の仲 介の労 を とり,壁
画制作実現の運び となった。 壁画は,人
目につ きに くいホール人日の反対 側上部の壁面 につけ られ ることになった。壁画 の原画 として,「陶土の山 と採掘夫」「ロクロ場風 景」「登 り窯」と題す る3部
作(図 14)が描 かれ た。原画 には,「壁画は公衆 を意識 して公衆 に呼 びかけ,人
間の精神 を鼓舞 し正 しい方向に向け させ なければな らない」 という民次の考 えが盛 り込 まれている。その原画 を もとに,高
さ 2.5 メー トル,幅
4メ ー トルの見事なモザ イク壁画 が1959年 9月 に完成 した(78)。 新 しい感覚の壁画は,そ
の前年のメキシヨ・ ヨー ロッパ旅行で得 られた ものである。 日本で は まだ本格的な壁画のない時代 に先駆 けて制作 された もの として,造
形性の美 しさとともに, 多 くの美術誌 に も紹介 され高い評価 を受 けた。 せ とものづ くりをす る人々の姿 を現代的 なイ メー ジで表現 した壁画は,今
で も新鮮 な美 しさ をたたえ,や
きものづ くりの瀬戸の象徴 として 生 き続 けている(79)。 モザ イク壁画に使われ る特殊な陶板(タイル) は,赤
津町の赤津焼窯元,霞
仙陶苑で試作 を重 ね苦労 してつ くられた ものである。民次の希望瀬 戸の 巨匠 。北川民次 と近代化産業遺 産 図