「ア トリエを守る会」から「攻める会」ヘ
2002年
11月 2日の午後
(13〜15時
),アトリ
瀬 戸の 巨匠 。北川 民次 と近代化産業遺産
図
26
北川 民次晩年 (89歳)の
絵 手紙出所:筆者撮影 (2002.11.2)
図
27
ア トリエ公開でのシンポジウム「北川民 次 と瀬戸」出所 :筆 者撮影 (2002112)
工公開の特別企画 としてシンポジウム「北川民 次 と瀬戸」が
,伊
藤高義氏の司会で もって開か れた(図 27)。加藤摯吾会長は冒頭の挨拶で,「ア トリエを守る会」の名称 と組孫哉を変えることを 考えていることを明らかにされた。ア トリエ潰 しの動 きに対 しては,ア
トリエを守るという最初の日標が達成された今
,「守る会」から「攻め る会」へ とより発展的な方向で再出発 したいと いつ。
パ ネ リス ト
3人
の うち神谷幸之氏が空席の ま ま,安
藤幹衛氏 と村田真宏氏のデ ィスカッシ ョ ン,そ
れ も主 として村田氏が質問 し安藤氏がそ れに応 える形で,進
行 した。 また,フ
ロアか ら も,そ
の都度,関
係者 に発言 を募 る。2時
間 に わた るシンポは,北
川民次の芸術や人間の一端 が滲み出た興味深 い ものであったので,そ
のな かの一部,筆
者の残像の ような もの を以下 に紹 介す る。瀬戸 に しかない民次 の遺産
=壁
画村 田氏 に とって
,60年
間 とい う」り│1民次の絵 画 人生 は,ず
いぶん長 く感 じられ る。1頼戸 に し かない もの といえば,市
民会館お よび図書館の 壁画があげ られ る。壁画 を描 きたい という熱い 思 いに もかかわ らず,そ
れが陽の 目を見たのは 彼の晩年で,本
当に描 きたい時 には描 けなか っ た。村田氏はその ように述べ,安
藤氏 に次の よ うに質問 された。「丸栄の天丼画では,安
藤 さん が助手 をされていたが,そ
の ころのい きさつ に な どにつ いて うかがいたい」。安藤幹衛氏は
,北
川民次の思 い出や交流 な ど を中心 に,多
岐 にわたって話 された。天丼画の 制作では,上
ばか り向いて作業す るので,下
を向 くのが大変つ ら くな る。 人間の適応 力 とい う のはすごい ものだ と感 じた。丸栄の天丼画は,
ギ リシア神話 をモチーフに した ものである。
瀬戸市民会館の壁画の件で は
,瀬
戸 は必ず しも北川民次 を暖 か く迎 え入れたわけではない。
市民会館がで きつつあった時
,県
で美術教育運 動 をや っていた久保 貞次郎 は,「瀬戸 に壁画がな いので,壁
画 をつ くろ う。資金がなければ 自分 が出そ う」 と,内
々に市長に掛 け合 う。市民会 館の壁画プ ロジェク トが決 まってか らも,事
前に矢口れると
「イ奄力喘К 」 という自テ常他薦が続々 出て くる懸念 もあって
,直
前 まで公表 されな かった。民次が壁画を描けるように,い
ろんな 人が力を注いだのである。画家 というのは,理
解 し支援 して くれる人々がいないと大成できる ものではない。北川民次は
,一
般の人々との触 れ合いを大切 にしたが,偉
大な人だったとつ く づ く思 う。弟子や子 どもに学ぶ北川民次
安藤幹衛氏の述懐は
,続
く。若いときの自分(安藤
)の
作品を見 ると,北
川先生の弟子だな としみ じみ感 じる。身をもって教えていただい た。晩年の20年
ほどは,花
などをきれいに描か れていたが,色
づかいが不満だ,売
らんかなの媚が出ていると言 うと
,北
川先生は「安藤君,がまん して くれ」 と言われた。
安戸の「瀬戸の風景」は
,一
緒に写生 したが 私 (安藤)の
絵を見て,北
川先生が「お前,い
いところを描いたな,俺
も描 く」 といって描か れたものである。弟子からも学ぶことのできる 人が,本
当の教師であり,血
の通った教師だ と 思 う。瀬戸の風景画 を書いた北川民次の水彩画 に は
,サ
インが入っていない。冗 るため というよ りも,描
きたいから描いたというもので,後
で 人に譲る時にサインしていた。帰国 して1年
ぐ らいのころのことで,窯
場や坂道などを存分に 描いてお り,1り
│1民次にとってはある意味では 一番幸せ な時代であった と言 えるか もしれな い。「」り│1先生は
,絵
で教え,教
えられることを 大切にされ,子
どもや弟子の絵を手本にされて いました」。安藤氏は,そ れにまつわる幾つかの エ ピソー ドを紹介された。彼の没後にア トリエ を整理 していると,1943年
頃の子 どもや弟子の 油絵が出てきたこと,メ
キシヨ児童 (生徒)の
絵を,「われ一生の手本にする」との一筆を添え てずっとア トリエにかけてあったこと,また「工 場」(内藤みちひろ
)を
「これぞ,本
当の絵」と いってア トリエの隅に置いていたことなど。北川民次からの大切な贈 り物 (生涯の戒め)
安藤氏が味召介 された
,1942年
の「真っ白に塗 りつぶされた画」のエピソー ドは,印
象深いも のであった。二科会の出品 も2週
間後に迫った ある日,安
藤氏は2階
のア トリエで瀬戸の街角 をカンバスに描いていた。そこへふらりと来訪 した1馴1民次は,彼
の絵をみて「白い絵具を出 せ」 と言われる。大切な白をパ レットにひね り 出す と,「もっともっと」といって,い
きな リパ レッ トナイフで画面を真っ白に塗 りつぶ して し まった。唖然 として立ち尽 くす安藤氏に日もく れず,「じゃ,
さよなら」といって東京に帰って しまったという。出展の締め切 りも迫っていた ので,安
藤氏はフィアンセに急速モデルになっ てもらい,
ヒマワリをバ ックに洗濯物をきれい にたたんでいる彼女 を描いて,何
とか間に合わ せた。その
1週
間後に,東
京の1り│1民次から小包が 届 く。水彩画が2枚
と,「あそこをぼ くはこう描 いた。参考になれば」 との添 え書 き。恥ずか し いや ら,あ
り難いや ら,感
動で しばらく声 も出 なかったという。真っ白にして しまった代わ り に,「おれはこういう絵を描いたぞ」と身をもっ て手本を示 された。「1馴1先生の戒め として,今
も手元に残 しています」。 幸せな画家
,北
川民次伊藤伊平氏によると
,彼
の工房には1り│1民次 やイサム・ ノグチ,井
伏鱒二などがよくやって きて,や
きものを楽 しんでいた。民次の晩年に おける一番の飲み友達は,加
藤器吾氏であった という。晩年の文通友だちであった伊藤文子さんは,
瀬 戸の巨匠・北川 民次 と近代化産業遺産
「1馴1先生はとて も優 しい人で
,い
い思い出を もらいました」と懐か しむ。その傍で,「彼女は てつ乃夫人に,
また酒場(「どなべ歌」)の女将に も似ている」 との,安
藤氏のつぶや きも聞こえ る。村田氏は,「1り│1民次の絵は何度みても飽 きな いが
,画
家が住んでいたア トリエで,親
しい人 たちが集まり,こ
の ように語 り合 う画家はあま りいないではないか」という。「10年 前はどうな ることかと心配で した。今,こ
んな形でア トリ エが残 り,多
くの方がこのように語 り合 う。北 川先生 もずいぶん幸せな方だ と思います」。彼の 言葉が,ア
トリエの庭に集 う多 くの参加者の心 に染み入るように思われた。6.7。 「北川民次の文化遺産」を活かす市民 。関 係者の提言
バ ッタに寄せられた提言
北川民次のア トリエ
,そ
こから生み出された 数々の名作が,地
域にとって今 日どのような意 味をもつのか,そ
の保存・活用のあ り方は何か。『バ ッタ』(第4,6号)に寄せ られた提言は
,多
くの示唆や ヒン トを投げかけている (下線は筆 者によるもの)。
「ア トリエを残すことは
,単
に建物を残すだけのことではなく ,ア トリエを通 して北川民次
さんの人生その ものを残す ことだ と思 います,瀬戸の子 どもたちに とって
,北
川民次 さんの絵 や版画だけでな くア トリエ も,北
川民次 さん と の出会い と感動 を与 えて くれ る場 とな り,絵
画 や美術 に興味 を持 って くれ るきっかけになって くれ ると思 い ます。瀬戸か ら日本全国へ,そ
し て世界へ発信で きる,私
たちが嗜今れ る」り│1民次 さんのア トリエに して残 していただ きたい と思 い ます。」(大竹泉)
「子供心にも先生の作品のなかの工場や鉱山
の風景 は
,自
分 自身の遊び場所 その ものであっ ただけに,身
近 な もの として心 に焼 きつ きま し た。あれか ら35年
,ま るでその時代にタイムス リップ して しまったかのようなア トリエに,大
きな感激 を覚 えました。・…一人の芸術家を知る 上で
,こ
のような場所が活躍当時のままの姿で 保存されていることの大切 さをしみ じみと感 じました。」(鈴木政成)
「ア トリエは
,lU‖
民次 という画家の存在を 核 として,ま
ず瀬戸に住む人々にとっては,
自 分 た ちの まちの歴 史 と 化 を学 び.共
有 す ることの出来 るかけが えのない場 として
そか ら訪 れ た人 々に とっては
,瀬
戸 をよ りよ く 矢日るこ との 出来 る施 設 と して活 用 され てい くべきであろうと考えている。このア トリエが
,瀬
戸市の総合的な都市計画の もとで社会教育施設 として位置づ け られ
,瀬
戸 を知 り, また語 るに ふ さわ しい場 として適切 な保存 と活用が図 られていくことを願っている。 」
(村田真宏
)「安戸のア トリエは ,北 川芸術の源泉であり
, 北川芸術 を理解す る上 で,大
きな役割 を果 たす 力を保有 している家なのである。・…安戸のア トリエ を基礎 に して, 「」, I記令 館 で も結 想されて 行ったな らば
,北
川芸術 は一層その理解が深まってい くのだろう」(神谷幸之)
民次を知 らない世代からの提言
「時代の共通性がない我々の世代…の日で見 て も作品か ら伝 わ るオーロラは
,強
烈なメッ セージとなって脳裏 を刺激する。我々の世代が 守るべ きは,ア
トリエその ものではない。民次 が愛 した瀬戸の まちの風景 を,形
ではな く本質的に ,つ まり人が生きている『躍動感 =生 の分 泌』を継承 していくことだろう。その意味で
, 民次の描 いた絵か ら学ぶべ きものは大 きい。ア トリエが`
サ ロ ン と して動態 的 に機 能 す るこ と で