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「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題と翻刻

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著者 小林 健二

出版者 法政大学能楽研究所

雑誌名 能楽研究

巻 36

ページ 87‑119

発行年 2012‑03

URL http://doi.org/10.15002/00008465

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ここに取り上げる九通の書簡は広島市の保田家旧蔵で、現在は県立広島大学学術センター図書館に所蔵されるものである。内容は大坂の能楽師浅井織之丞から広島の保田九左衛門に宛てられたものが六通と、観世清陽から保田常槌宛の年頭の挨拶状、同じく清陽から山崎清吉・保田常槌への八朔の礼状、保田九左衛門・兵蔵宛の浅井織之丞・官三郎・亀八郎の連名による改年挨拶状の各一通が、巻子に貼り込まれている。これらは保田家文瞥中に個別にあったものを、古書蝉が観世清賜・浅井織之丞に関するものを抜き出して貼り込んだものであり、巻子の幅は一八・六糎で全長は六八○糎になる。江戸期における上方町役者の書簡がまとまって存するのは貴重であり、その動向を窺う上で、また、江戸後期の広島における謡享受の様相を知る上でも好資料となると判断し、誌面をかりて紹介する次第である。

「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題と翻刻

はじめに保田九左衛門家

保田家は広島城下京橋町の商家で「純屋」を屋号としていた。「保田家系譜」によって代々を辿ると、初代内蔵(後に太郎右衛門。九左衛門を名乗るのは二代目から。天正十五年(一五八七)生、寛文二年(’六六二〉没)は、紀伊国から移ってきた武士で浅野家に仕えていたが、寛永十五年(一六三八)の島原の乱で負傷して浪人となり、京橋町北側に間口二間半の家を買い求めて移住し、当初は農業のかたわら紺屋と縄屋を商った。三代目九左衛門玄亘(慶安四年(一六五一)生、元文二年(一七三七)没)のころから京橋町や近隣の町年寄を勤め、六代目九左衛門忠昌(後に福抱。宝暦九年二七五九)生、文政六年(一八二三)没。以後、本稿では福抱に統一表記する)は御国恩御用銀献上により永代二十人扶持を取得する(1)など藩との関係を深め、城下を代表する商家へと発展した。保田家の歴代は文芸にも親しんでいたようで、系譜によると四代目の九左衛門金季(延宝六年二六七八)生、寛保元年

小 林健二

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保田家には多くの文書とともに四○○点を越える和漢の書籍が蔵され、現在は広島県立文瞥館の所蔵管理するところと(3)なっている。その内容は多岐に渡るものの、俳書・歌集・歌書など文芸関係の書物が多く見られ、中でも数種類の謡本が残されていることは注目される。これらの謡本が保田家歴代の謡愛好の実態を何よりもよく物語っているからである。謡本は九箱の樫食箱に収められており、「一一一十三」から「三十九」まで(「三十六」が重複)の番号が墨書された比較的新しい貼り紙が箱蓋に貼られる。次にその残存状態を刊年の 二七四一)没)は、生涯にわたって謡を嗜み、京観世五軒屋の一つである圃氏を師としていたという。五代目の九左衛門義忠(享保十七年(一七三二)生、寛政十一年(一七九九)没)は、囲碁を好むと共に、「洪竹」という俳号を持つ俳人でもあった。そして、六代目九左衛門福抱は謡をよくし、和歌を澄(2)月・慈延に就いて学んでいる。系譜には大坂の浅井織之丞を師としていたことを記し、さらに「観世太夫ノ凡儀宥」と割注にあるのは、観世流の謡を一通り習得していたことを意味しよう。七代目九左衛門福足(享和二年二八○二)生、弘化三年(一八四六)没)も、ここに紹介する書簡や所蔵された謡本を見ると、謡の稽古をよくしていたようである。このように、保田家の当主は四代目から七代目にかけて謡を嗜み、京都や大坂の師匠について研鍛を積んでいたことが知られる。

保田家に所蔵された謡本 古い順に箱ごとに示そう。頭に記した整理番号は現所蔵者が付したものである。①題画‐』‐g延宝五年(一六七七)武村市兵衛刊大本二十冊百番。箱蓋に「三十七」「謡本」の貼り紙。蓋裏に二十冊百番の書き目録が貼り付けられる。外題は書き題篭が貼られ、そこに「こから「廿」と朱轡される。二十冊目の「老松・忠度。はせを.三井寺・当麻」は補写本。余白に園・川村・橋本の名が見える朱と墨の装束付・謡い方・語句注釈に関する書き入れがなされる。園は京都で謡い伝授をもっぱらとした京五軒屋の圃久兵衛のことであろう。系譜によると、四代目金季は圃氏を師匠としていたとあるので、この謡本は金季の所持本であったと考えられる。②患】‐】19元禄二年(一六八九)林和泉橡刊中本二十冊百番。箱蓋に「三十六」と「観世流謡外三百番入」の貼り紙。「壱」の冊(龍頭太夫・空腹・高安・恋重荷・羊)だけ貞享三年刊(一六八六)の三百番本(「二百番之外百番」)からの入れ本。③いろ‐牌-9元禄三年(一六九○)山本長兵衛刊半紙本二十冊百番。箱蓋に「三十四」の貼り紙。「外百番」と直墨書。蓋裏に二十冊百番の書き目録が貼り付けられる。④患い‐得‐ご元禄八年(一六九五)岡田三郎右衛門刊半紙本十九冊九十五番。箱蓋に「三十八」の貼り紙。「内百番」と直書墨書。箱蓋に「保田兵蔵」、箱底に「乙申安永五月正月求/縄屋兵蔵忠昌□」の墨書があり、六代目福抱の所

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持本であることがわかる。⑤$屯‐】「g元禄十一年(一六九八)田方屋伊右衛門刊中本二十冊百番。箱蓋に「三十六」「観世流外五百番」の貼り紙(「三十六」箱は二つあり、こちらは便宜「乙」とされる)。箱蓋裏に「古箱痛新出来/時二文化十三丙子九月」、底裏に「新箱出来/丙子九月」の墨轡があり、六代目福抱の時に箱を新調したことが知られる。⑥函雪l屋‐]←正徳六年(一七一六)山本長兵衛刊半紙本二冊十番《氷室〉〈小袖曾我〉他)。箱蓋に「三十五」「謡本」の貼り紙あり。蓋裏に所収曲目の「以上共十四冊謡合七十二番」の轡き目録あり。外題は打ち雲り表紙に五番の曲名を墨書。「寿呂謡曲」の陽刻朱方印と「源印雅岡」の陰刻朱方印が押される。「雅岡」は大坂の観世流能役者浅井織之丞家の二代目の謙で、織之丞からの伝授本であることが知られる。ちなみに「雅岡」を名乗るのは文化三年からなので、この謡本もそれ以降に保田家に入ったことになる。次の⑦と⑧は⑥と同じ「三十五」の箱に収められる。⑦路?旨I】画天明四年(一七八四)山本長兵衛刊半紙本二冊外組十番。体裁は⑥と同じ。③篭C-】‐ご寛政十一年(一七九九)山本長兵衛刊半紙本十冊外組五十番。⑥と同じ体裁。「寿呂謡曲」の陽刻朱方印と「源印雅岡」の陰刻朱方印が押されており、浅井織之丞の伝授本であることがわかる。 ⑨雪国‐】19文化元年(一八○四)山本長兵衛刊半紙本二十冊。箱蓋に「三十三」の墨書貼り紙。「改正/内百番」の直墨書。蓋裏に二十冊百番の書き目録が貼り付けられるが、上下に破損がある。茶色のぐるみ表紙に外題を墨轡した題篭が貼られる。以上、九種類の謡本が所蔵されていた。これらは箱に書かれた情報から四代目金季から六代目福抱にかけて収集調整されたもので、謡本中には種々の書き入れが散見され、①③⑥①型⑨の箱蓋には手書きの曲名目録が貼られるなど、かなり使い込まれた形跡が見られる。その内容は内外二百番だけでなく外三百番・同五百番も備えており、謡のための集書であったことが窺える。これらの揃い本の外に端本三点が「参拾九」の箱に収められるので、以下、それも記しておこう。⑩函霞‐己中本一冊摺り題按「二人祇王・仏原・半蔀夕顔・六浦・吉野静」。無刊記。⑪山匿L半紙本一冊寛永六年卯月刊。「老松・富士太鼓・関寺小町・江口・舟弁慶」。題篭を付すも外題は読めず。⑫哩霞1画と半紙本二冊正徳六年弥生山本長兵衛刊。摺り題按「鵜羽・鉢木・羽衣・道成寺・竜虎」「芦刈・敦盛・木賊・葵上・輪蔵」。「鵜羽」の冊の後ろに「保田」と朱書き。以上の謡本の外に、次の謡や音曲関係の書籍が「参拾九」の箱に収められる。⑬函匿上「当流謡指南抄」半紙本一冊元禄九丙子歳孟春吉日川勝五郎右衛門板。

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巻子に貼られた九通の轡簡の順番は無作為で年次順などにはなっていない。それに原則として手紙には年時が記されないので、内容を解明する一助として、宛てられた年時について順次検討していくことにしよう。I「十二月六日」付で綴之丞から九左衛門に宛てた書状瞥中に「其後、貴老様御指次之御姉様、御病気二而貿家様へ御引取後、御養生不被成御叶、御死去之由、言語絶奉驚入候」と九左衛門の姉が亡くなったことに対する悔やみが書かれており、これが手掛かりとなる。この姉を系譜でたどると義忠の次女である島にあたる。島は宝暦八年(一七五八)一一月、、、八日の生まれで、幼名はおはるといい、安永七年(一七七 ⑭酉震17℃「音曲玉淵集」半紙本五冊享保十二年丁未孟夏今村義福蔵板。⑮単震LP髭「離謡鼓覚集」半紙本五冊貞享三年丙寅中旬月轡林摂陽和泉屋五兵衛開板。⑯函匿‐田「観世当流秘密蘭曲」半紙本一冊畷月堂。⑰山匿‐忌「当流外剛曲」半紙本一冊元禄十二己卯歳九月吉日秋田屋五郎兵衛新板。右の⑯.⑰の蘭曲は部分謡を収めたもので、謡のテキストとして求められたものであろう。他の三点も謡を稽古する際に有用なものであり、これらの資料からも、九左衛門家の歴代が謡に熱中する様子が窺えるのである。

手紙が書かれた時期 八)七月二十六日に辻村九郎右衛門泰教に嫁ぐが先立たれて剃髪し、文政三年(一八二○)二月十五日に没した。系譜によると「泰教ノ死後広島竹屋町二居住シ、後、保田福抱之別荘一一住シ、蕊ニテ没ス」とあることから、紬之丞が瞥状で触れる実家に帰って亡くなった姉と同一人物であると知られる。従って、この手紙が出されたのは文政三年としてよかろう。Ⅱ「十二月」付の浅井織之丞から九左衛門と兵蔵に宛てた書状宛名が九左術門・兵蔵と連名になっており、兵蔵は保田九左衛門家当主の幼名で、文化・文政ころの兵蔵となると、六代目福抱の養子となった七代目福足が有力である。福足が兵蔵を名乗るのが元服した文化十二年であるからそれ以降で、福抱が亡くなる文政六年以前に絞ることが出来よう。Ⅲ観世左術門消賜より年頭の祝いの礼状清陽が観世大夫を継いで左衛門を名乗るのは文化十二年十二月以降である。宛名にある常槌は七代目福足が兵蔵に改名する以前の文化二年から十二年までの幼名であるから、この礼状は文化十三年の年頭と考えられよう。Ⅳ観世澗陽より八朔の進物の礼状署名が三十郎清陽なので大夫を継ぐ文化十二年以前であり、宛名に常槌が入っているので、福足が兵蔵を名乗る前の文化二年から十二年の間ということになる。また、法政大学能楽研究所鴻山文庫の浅井家旧蔵「浅井家書留」は「元文三午年浅井喜八郎」の奥書を持つ浅井織之丞家の明和から文化まで

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「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題 91

の花押帳であるが、その中に「山崎情三郎保令(花押)/保田常槌/鈴木半五郎為良(花押)此三人文化十一戌ノ□お右加ル」と記された貼り紙があり、常槌は文化十一年から浅井織之丞の門人に加わったことがわかる。従ってこの礼状は文化十一年か十二年のものであると絞られるが、Ⅵの書状に「江戸表方去八朔御返事御届申上候」と見えるのがこの書状であるならば、文化十二年ということになろう。V浅井織之丞雅岡・同官三郎秀央・同勉八郎邦丘より九左衛門と兵蔵宛の年頭の挨拶状官三郎は織之丞の息子、亀八郎は弟の喜八郎である。「浅井家書留」によると、喜八郎が邦丘に改名したのは文化五年(一八○八)以降である。また、織之丞雅岡の没年は、享保三年(一七一七)から文久二年(一八六二)までの中津惣町の「町会所」の記録である「惣町大帳」によると、文政九年十二月(4)下旬であることがわかる。従って》」の礼状は、文化五年以降、文政九年以前に絞られる。さらに、宛名の九左衛門が六代目福抱、兵蔵が養子の七代目福足であるとすると、福足が兵蔵を名乗る文化十二年以降、福抱が亡くなる文政六年以前に絞り込むことができる。Ⅵ「三月廿八日」付の綴之丞から九左衛門宛の書状書中にある三十郎が左近と改名した記事が手掛かりとなる。すなわち、観世清陽が二十世大夫を継いで左衛門となったのが文化十二年十二月であることから翌文化十三年の瞥状であると推測できる。また、文面に「御新宅栄次郎様御儀、御庖 瘡二て御死去之由、絶言語鷲入侯御事」とあるのも有力な情報となる。家譜によると、新宅は五代目からの分家で、栄次郎は二代目七兵衛の息子になる。栄次郎は文化九年生まれで文化十二年十一月六日没と記すから、この記述を踏まえても本状は翌文化十三年三月のものとしてよかろう。Ⅶ「五月十五日」付け保田九左衛門宛の浅井織之丞書状轡中に観世大夫が文化十三年の勧進能中に舞台を焼失し、翌十四年には屋敷借家が類焼したこと、さらに当春二月に仮屋も近火で類焼したと、三ヶ年の間に三度も火難にあったことを述べることから、文化十五年の書状(その年は五月二十六日から文政と改元)としてよかろう。Ⅷ「六月十五日」付け保田九左衛門宛の浅井織之丞替状瞥中に「当御師匠も、来ル八月於江戸表、勧進能興行在之」とあり、織之丞の師匠である観世流二十代大夫の観世滑陽が勧進能を行ったのが文化十三年であるから、その年の書状としてよかろう。Ⅸ「七月七日」付け九左衛門宛の織之丞瞥状瞥中に「中津船二て大坂表へ引収、来酉三月比二見合、罷下り可申侯間」とあり、文化十年が癸酉なので、他の脅状の年代を勘案してその年としてよかろう。従って文化九年の書状と考えておきたい。以上、九通の脅簡は文化九年(一八一二)から文政六年(一八二三)までの十年余りの間に送られたものであることが判明する。

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書簡からわかることl中津から広島へ

これらの書簡には中津という地名がよく出てくる。その部分を抜き出すと次の通りである。I(文政三年十二月六日)昨年秋中津方帰帆掛二立寄り可申段、御申越し、何様近年心掛居候得共、年々中津滞留隙入、十一月中下旬二引取候様二相成り、夫方御地へ罷出候而ハ、最早御当用之時節二も相成候事故、其段中津方三国やへ向断之普状さし出、乍残念昨年も得罷出不申、其節三国屋方貴老様へ御談し在之御儀被下候由、一入残心之至奉存候。Ⅵ(文化十三年三月二十八日)弥来ル秋なれは、野子も致出府可申含、明春なれは、当秋例之通、中津へ罷下り、登り之節ハ、其御地へ罷出可申と相心得罷在侯。Ⅶ(文化十五年五月十五日)野拙久々其御国へ罷出不申二付、当秋中津占帰帆之節、立寄り候ハ、、貴前様初、東西之御社中様方へ、申談置稽古致度旨、罷申越候。Ⅷ(文化十三年六月十五日)中津表ハ例年八月十五日、狂ひなく相勤り候事なれは、当年ハ壱ヶ月もはやく中津表へ腿下り、神能相済次第、御暇を願罷登り、東武之様子次第――て、直様御出府と相心得、則其段学頭衆中迄、先便断申立置候。いつれ江戸表之様子者、当月中か来月迄二者、是非模様相知レ可申、弥延引と申事なれは、中津占引取掛ケニ其御地へ罷出可申侯間、此段御含尚又山崎氏初、東辺御社中様方へも御序之刻、夫々御噂被成置可被下侯。 Ⅸ(文化九年七月七日)猶又、当春御約速二付、当年ハ中津表占引取掛二其御国表へ罷出申度、貴顔二相願置候通り、近来差行甚六ヶ数御座侯得者、近比御面倒恐入侯得共、来ル九月上旬迄二、其御地之御船之幸便も、可在之其段御聞合、何卒九月上旬迄二、無間連中津迄御過し被下候ハ、、千万恭奉存候。右五通の文面からは、浅井織之丞が中津で八月十五日に行われる神事能に出演した帰途に、瀬戸内の航路を利用して広島に寄り、保田九左術門をはじめ社中の人々に謡の指南を行っていた実態が知られる。浅井織之丞家は大坂の能役者で、初代織之丞章盈が観世流十五代大夫元章に師事してから頭角をあらわして一家をなしたが、ここで九左衛門に書簡を送る織之丞は二代目の朝盈である。朝盈は寛政十一年二七九九)より藤林佐仲という役者の後をうけて中津藩のお抱え能大夫となり、文政九年に死去するまで勤めた。文化三年に刊行された「乱舞人物録」には「奥平御役者大坂住観浅井織之丞」と見られ、大坂を本拠とする中津藩(奥平家)のお抱え役者であったことは知られて(5)いたようだ。中津藩のお抱え能大夫の役目としては、城中の舞台を勤めるのはもちろんのこと、毎年八月十五日に中津藩内の大貞八幡神社(別名、薦神社)で行われる神事能に出勤することが重要な職務であった。鴻山文庫に所蔵される「中津藩能番組」によると、職之丞は寛政十一・十二、享和元・二、文化元.二・四・五・八年の神事能に出演していることが認

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(6)められ、城中の舞台でjDほぼ同じ年に演じている。この番組集は文化八年までの記録なので、当然それ以降も大貞八幡の神事能に出勤していたと考えられよう。Iの書簡によると、織之丞が広島に寄る際に中津の能に出勤している弟の喜八郎を同道していたことも知られる。お抱えとは言いながら不安定な身分であった町役者の織之丞家にとって、広島の数寄者相手の謡教授は重要な財源の一つであったことが窺えよう。ところが、Iの文政三年の書簡によると、中津での逗留期間が次第に長くなって、なかなか広島に廻れないという内情が述べられている。「惣町大帳」には、神能の期間だけでなく、龍方の修練のために織之丞の中津常住を望む町衆の声も見られ、織之丞の中津滞留が長くなっていたのは事実だったようであり、この書簡からも、思うように広島に廻れないもどかしさを窺い知ることができる。また、Ⅸの文面では、九月上旬までに広島から中津まで迎えの船を寄越して欲しい旨を記しているように、中津から広島に廻るというルートは瀬戸内の航路があってこそ可能であったことも見逃せない。織之丞は喜八郎とともに、享和こぬなく生年・文化二年には福山の鞆にある沼名前神社の神事能にjb出勤しているが、鞆の浦も瀬戸内海航路の重要な潮待ちの港であった。

書簡に登場する人々

[謡教授の面々] 書簡の文面からは九左衛門親子と一緒に織之丞から謡の教授をうけていた人々のことが窺える。ここではその面々について見ていこう。○山崎氏IⅥⅦⅧの書状に再三名前がみえる山崎氏は、Ⅳの観世三十郎清陽からの八朔の礼状に保田常槌と並んで記される山崎清吉その人か、親類と思われる。九左衛門や常槌の謡仲間であって、文面からは織之丞が九左衛門と同様に頼りにしている人物であることが窺えよう。ところで、前にも記したように「浅井家書留」の「書判鑑」の項には、約七十名の署名と花押が写されているが、その中に「山崎情三郎保令(花押)/保田常槌/鈴木半五郎為良(花押)此三人文化十一戌ノ□6右加ル」と記された貼り紙がある。この保田常槌と並ぶ山崎漬三郎保令が、書簡中にしばしば出てくる山崎氏、及び山崎清吉ではなかろうか。清吉とはいかにも幼名のようなので改名して情三郎となったことも考えられよう。となると、貼り紙に見えるもう一人の鈴木半五郎為良も広島の人で、謡い仲間ということになろうか。○七兵衛ⅥⅧに見える「七兵衛」は九左衛門家から別れた新宅当主の通り名である。新宅の初代は義根(明和七年二七七○)生、文政七年二八二四)没)であり、五代目九左衛門義忠の子で福抱の弟にあたる。天明四年に元服して七兵衛義根と称し、天明五年二七八五)に分家して醤油業を創始した。新宅の二

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代目は干宣(文化四年二八○七)生、安政六年(一八五九)没)だが、干宣が義根の養子として入家したのは文政七年であるから、Ⅷの文化十三年の書状に記される、夫人同伴で大坂から京都を遊覧し織之丞の宅にも寄って談笑したのは初代七兵衛ということになる。時に七兵衛は三十六歳であった。七兵衛も九左衛門と一緒に織之丞から謡の教授をうけていたのであろう。この他に、IⅦ三国屋伴蔵.Ⅶ角川社中.Ⅷ東辺御社中といった名前が出てくるが、Iの文面に「不遠中御出会仕候而、四五番相催申度、山崎氏・三国屋辺御出合之節、宜敷御入談候御沙汰被下候様相侍居候」とあるように、山崎清吉や三国屋伴蔵などと謡の会に興じている九左衛門の様子が窺えるのである。[観世清賜]本状の中で貴重なのが、師匠である観世大夫清陽の動向を織之丞が記していることである。まず、取り上げたいのはⅥ

、、の書面であるが、「一一一十郎様、去冬御家督早々左近と改名、先師願之通り、勧進能被仰二、私来ル秋か明春一一も可相成や、其儀追々可申上候」と、三十郎清陽が父清興の文化十二年九月六日の逝去をうけて家督相続し、「左近」と改名したことを述べることである。なぜならその前後の歴代が左近を名乗るのに清陽だけは左衛門として、左近を称しなかったとされ(7)るからだ。しかし、襲名直後に弟子の織之丞が「左近」改名を述べていることは、一時的にでも左近を名乗った可能性を 窺わせていよう。もちろん、清陽の近くに居なかった大坂在住の織之丞が、師が左近を名乗ったと勝手に早とちりしたことも考えられるが、注意すべき点としてあげておきたい。そして、この書状に見られるように、清暘は先師が幕府の認可を得ていた十五日間の勧進能を江戸幸橋門外で興業することになるが、この勧進能は散々だったようで、大風で建物が崩壊したため開催を延期し、二日目の終了後に火災によって会場が全焼、再開後には将軍の生母死去により歌舞音曲が停止されるなどの受難が続いた。翌年九月までかかってやり遂げたものの、大損を招いて幕府から千五百両の借金を余儀(8)なくされたのである。実は清陽の受難はまだ続いたようで、Ⅶの醤簡によると、文化十三年の勧進能中の火災だけでなく、翌十四年には屋敷と借屋ともに類焼の憂き目にあい、さらに翌十五年二月には近火により仮屋もまた類焼してしまったという、まさに踏んだり蹴ったりの状態で、清陽は「必至之御難渋」に陥り、職分のみならず素人の直弟子にも救済を求めることになったのである。織之丞はそこで、「近年は大いに物入りなのですでに社中や九左衛門から金を借りているが、京都の仲間衆のように師恩に報いたく、山崎氏にも借金をお願いをしたので、さらに七月前までに金を融通をしてもらいたい」と、九左衛門に丁重に願い出ている。この織之丞の無心が叶ったかは不明であるが、右の金子無

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「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題 95

心は、家元である情陽を頂点として、職分クラスの織之丞達がそれを支え、九左衛門などの孫弟子が底辺で下支えする人的構造(ヒエラルキー)が見えてこよう。織之丞達職分にとって九左衛門のような裕福な弟子は実に貴重な存在であったのである。また、Ⅲの左衛門情暢から常槌への年頭挨拶の礼状や、Ⅳの三十郎時代の清陽の八朔礼状からは、保田常槌が織之丞だけでなく、観世家の弟子筋に入っていたことも窺え、織之丞を介しての観世大夫を頂点とする師弟の構造が窺える資料でもある。[織之丞の勧進能出演]ⅥⅧには、師匠が興行する勧進能に出演する旨が書かれているが、実際に織之丞はこの勧進能に出ていたようである。残された番組によると七日目(文化十四年四月二十九日)の〈七騎落〉に立衆の一人として名前が見られるが、これは予定外の出演であったらしい。また、十三日目(文化十四年八月二十二日)の〈烏帽子折〉にツレとして番組に記されるが、実(9)際には出演しなかったようだ。この欠勤に関しては、中津の神事能に出勤したためと考えれば理解出来る。「惣町大帳」によると、文化十四年の大貞八幡神能は何故か八月二十三日(川〉に行われており、その年の能大夫はもちろん織之丞であった。勧進能が行われたのが八月二十二日であるから、神事能に出勤した場合は、前日に行われた江戸での勧進能に出るのは不可能であり、この欠勤の理由が推測できるのである。 [頼春水]Ⅵの追而書きに「兼而相願置候、春水大先生へ御願被下候能調、いまた御出来無御座侯御儀と奉存侯」とある「春水大先生」とは江戸時代の儒学者である頼春水(延享三年二七四六)生、文化十三年(’八一六)没)のことであろう。春水は安芸国竹原の出身で、天明元年二七八一)に三十人扶持で広島藩儒に登用され、学問所創設に参画、江戸詰中講学所で在江戸藩士の教育も担当した。文化十年(一八一三)には御歩行頭次席、職録を合わせて三百石と当時の儒者としては最高の侍(Ⅱ)遇を得た人物であり、頼山陽の父親としても有名である。その春水に織之丞は九左衛門を通して「能調」を頼んでいたようだ。それが何であったかは不明であるが、春水は文化十三年の二月十九日に亡くなっているから、この時はもはや物故者であり、織之丞の願いが叶うことはなかったと思われる。

書面に出てくる番組と難波新地常舞台再建

Iに「且又当月朔日謡会番組、乍御慰奉貴覧侯」とあり、Ⅵには「尚々、当二月難波新地常舞台再建二付、興行在之。則乍御慰番組入賞寛侯」とあることから、織之丞は自分が出演したか、あるいは関係した番組を九左衛門にしばしば送っていたようだ。これらに該当するものではないが、保田家文書の中には織之丞の筆と思われる、「四月廿五・廿六・廿七日於竹内氏/能組」と「寅四月七日仙洞御所」(文化十五年と思われる)の二つの番組が残されている。

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以上、保田家に残された浅井織之丞と観世消陽の書簡を紹介し、そこから江戸後期における広島市井の謡い享受のこと、大坂の能役者である浅井織之丞の謡教授のこと、職之丞が中津の神事能の後で広島に寄って稽古をつけていたことなどを見てきた。また、織之丞の師匠である観世流二十世大夫清陽に関する事績も垣間見ることができた。以前、福山市鞆の浦にある沼名前神社の江戸中後期に行われた神事能の番組を調査した折に、京や大坂の能役者が多く(脚)出勤しているのに驚かされた。さらに、九州の中津や宇佐の 竹内舞台の番組では、二十七日に観世織部がシテをつとめる〈夜討曾我〉のツレ役で、また〈百万〉のシテとして名前が記される。一方、仙洞御所の番組には名前が見えないが、ツレや地謡などで参加していたのであろう。なお、Ⅵの文面からは、文化十三年二月に難波新地の常舞台が再建され、記念の興行があったことが知られる。中川桂氏の調査報告によると、難波新地常舞台は寛政年中には存在していたが享和頃に一旦中絶し、文化六年に再建されたとい(肥)うことである。したがって、文化十三年の時点では既に難波新地には舞台が常設されていたことになり、あるいは部分的な増改築がなされ、その記念興行がなされたことが考えられる。織之丞は大坂の役者なので、この記事には信過性があると想われるのである。

おわりに (1)「平成十七年度収蔵文轡展京橋町・保田家文掛展I広島城下商家の活動と文化‐」(平成十八年三月、広島県立文轡館)。(2)西本寮子「広島城下・保田家蔵轡についての覚番」(「近世芸南地域の歴史と文化」平成十七年)、西村晃・西本寮子・菅原範夫「翻刻・県立広島大学蔵保田忠昌宛澄月・慈延・夢宅書簡」弓県立広島大学人間文化学部紀要」二号、平成十五年三月)。(3)「保田家蔵醤目録」(平成十五年度県立大学重点研究事業成果報告書、平成十六年三月)。(4)「惣町大帳」後編(咽)文政九・十年(平成二十年三月、中津史料刊行会)。(5)拙稿「浅井織之丞家の歴史と系譜」舍護能史研究」一四一 能番組にも京阪の役者の名前が見えるので、上方の役者達が瀬戸内の航路を使って広範囲に活動している様子が窺えたが、この浅井織之丞の書簡からその具体的な様相が見えてきたといえよう。他の瀬戸内海に面した地域や、九州北部にも京・大坂の役者の足跡は見出せるかもしれない。その可能性を窺わせる上でも、本資料は意義あるものと評価できよう。また、中津藩のお抱え能楽師とはいえ、一介の町役者であった浅井織之丞が、弟子を獲得するために地方に伸張し、重要な財源としていたことを知るうえでも有効な資料といえるのである。

(12)

「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題

7(u)頼春水の事績については「日本古典文学大辞典」第六巻(昭和六十年、岩波書店)を参照した。 号、平成十年四月)。(6)拙稿「中津藩の神事能l「中津藩能番組」をめぐってl」(「能楽研究」能楽研究所紀要二十七号、平成十五年三月)。(7)表章「観世「左近」大夫考(七)’十六世から二十一世までの歴代I」(「観世」平成三年二月号、後に「観世流史参究」(平成二十、槍書店)に所収)には次のようにある。「観世累葉家譜」は彼が「左衛門・左近」と称した由を記し、従来の観世家系図類もそれに従っているので、旧稿S左近襲名」)では彼をも歴代の左近の一人に数えたが、それは誤りらしい。彼の自署は「観世大夫清陽」.観世)真観楕陽」「観世左衛門精腸」などの形ばかりで、「左近」と称したことの明証を得られないのである。二十世の通称は三十郎から左衛門に変わったもので、左近とは称さなかった可能性が強そうである。「風姿花伝」第三〈奥書〉の世阿弥署名に「左衛門大夫」とあるのを踏襲したに相違ないこの通称を名乗ったのは、歴代の観世大夫で清畷だけである。(8)(7)と同じ論文を参照のこと。(9)表章「文化十三・十四年観世大夫勧進能の番組と出演者」(「観世流参究」平成二十年、槍書店)。(Ⅲ)「惣町大帳」後編(u)文化十三・十四年(平成十年九月、中 (「観世流参究」「惣町大帳」逵津史料刊行会)。 末尾ながら、本書簡資料の調査と掲戟をお許しいただいた県立広島大学学術センター図書館と同大学の樹下文隆氏、また、保田家文書の調査に極々ご高配をいただいた広島県立文書館の西村晃氏に対して、記して深謝する次第である。 〈付記〉本誌が表章先生の追悼号になると聞き、この浅井織之丞と観世楕陽の書簡を紹介することとした。平成七年度に一年間、国内研修で先生にお世話になった折に、潟山文庫の浅井家旧蔵資料を調査させていただき、浅井織之丞の事綴をまとめる機会を得たことと、十方庵敬順の著した「遊歴雑記」という書物の中で、観世清陽の説を「キョモト」と読むことを発見し、直ぐに先生に報告して喜ばれた思い出があるからである。思えば先生からは数知れないご学恩を賜ったが、それに少しでも報えることができれば幸いである。 (皿)中川桂「近世後期大坂の能常舞台」(「護能史研究」’三一号、平成七年十月)。(週)拙著「沼名前神社神事能の研究」(平成七年、和泉書院)。

(13)

98

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別啓当正月十五日御日附之貴札、同七月上旬相達侯処。其節ハ例之中津下り留主中二而、此節帰宅之上、右御細瞥恭拝見仕候。誠一二昨年已来、折々御安否相伺候得共、いかに間違候や、一円御様子も不相分、勿論御返書も被下候御儀二候得共、逗中一一而相滞候事や、御返書も参り不申、いふかし九奉存侯。尤私6行届さる勝ゆへ、自然御機嫌等相そむき申侯儀共やと、甚以案事・罷居候所、今便之御細書二て、大二安心仕候。「貴老様御儀、去ル冬者、御不快之御様子御座侯処、去夏御全快之後、御親類様二御不幸事御座候よし、是以御様子承知不仕、其後貴老様御指次之御姉様、御病気二而貴家様へ御引取後、御養生不被成御叶、御死去之由、言語絶奉驚入侯。打続嚥々御愁傷之程、奉遠察候。此上御労し二被成不申様、乍憾御保養専一二奉祈侯。筆末二相成候得共、御家内様方初御一統様方にも、宜敷御悔被仰上被下度奉頼上侯。

(14)

99「保田家|日蔵浅井織之丞等轡iii」解題

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一、昨年春三国屋伴蔵殿方御文返在之。昨年秋中津5帰帆掛二立寄り可申段、御申越し、何様近年心掛居候得共、年々中津滞留隙入、十一月中下旬二引取候様二相成り、夫方御地へ罷出候而ハ、最早御当用之時節二も相成候事故、其段中津方三国やへ向断之書状さし出、乍残念昨年も得罷出不申、其節三国屋方賀老様へ御談し在之御儀被下候由、一入残心之至奉存候。既二当夏前方御存知之鎌田啓次郎用向二付、其御国へ髄下り可申との事故、幸之折から同船可致稲り申談し置候処、出船前二俄二無拠用向出来鎌田へ断申、彼是申中、中津下り之時節ニ相成り、当年も不相替中津表江罷下り、無滞相勤漸々此節無事帰宅仕候。是又御安気可被下侯。将又、御病後、御謡も御中絶之由、しかし元来御好之道二御座候得ハ、春二も相成り候ハ、、不相替御取出し被成候ハ、、格別御保養二も相成り可申様、乍揮奉存侯得々

(15)

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何分早々右御取出し奉祈侯。御隣家主人へも宜敷御伝達奉頼上侯。右御様子共御隣家占何之御噂無之故、前文之通り甚心配為居候所へ、今便之御懇書二て先々安心仕候。追而安否相伺可申侯得共、寒中御自愛専一二奉祈侯。余者重便之申略候。以上。

追而鹿香一種、御霊前奉備度、可然御取斗奉頼上侯。且又当月朔日謡会番組、乍御慰奉貴覧侯。毎々御噂仕罷在候。不遠中御出会仕候而、四五番相催申度、山崎氏三国屋辺御出合之節、宜敷御入談候御沙汰被下候様相侍居候。復、喜八郎へも御加奉被下候恭奉存候。尚私占宜敷申上呉候様との御事二御座侯。以上。 十二月六日九左衛門様 織之丞

(16)

101「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題

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尚々御夜具入伴袋今便返納仕候。毎事御頼二而寒風しのき、難有奉存候。御改被下御入手可被下侯。此書状御隣家へ御届可有奉頼上侯。不取敢一筆啓上仕候。甚寒之節御座候処、被成御揃、弥御勇剛可被成御座奉慶賀候。子誠滞留中者、不相替御懇之預、御世話重畳恭仕合奉存候。扱又小子議船中無滞(兵庫津C無事着岸仕候。乍慮外此殿御安気可被成下侯。追々御安否可申上承候得共、不取敢

(17)

102

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右御礼労無事着候と知申し上度、以略脅如此御座侯。乍筆尾御家内様初其外御一統様方へも宜敷御伝声奉頼上候・猶来陽万々目出度可得貴意侯。以上。

十二月浅井織之丞保田九左衛門様同兵蔵様参人々御中

(18)

103「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題

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御札致拝見候。弥御堅固被成、御勤珍重奉存候。然者年頭之為、御祝納御扇子料被成、御意恭不相替幾久敷致祝納候。右御報此斯御座侯。恐慢誠言。観世左衛門正月情陽(花押) 保田常槌様観世左衛門

保田常槌様

(19)

104

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御札致拝見候。弥御堅固被成、御勤珠重奉存候。然者為八朔之御祝詞御扇子料被掛、御意恭不相替幾久敷致祝納候。右報如此御座侯。恐慢謹言。

保田常槌様 山崎清吉様 惰陽(花押)八月 観世三十郎

(20)

105「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題

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D‐L悪口 改年之御吉慶、不可有休期御座申納候。御全家様、御揃弥御壮健被成御超歳重畳目出度奉存侯。次二当方無異儀、嘉年仕候。此殿御安気可被下侯。右年始御祝詞申上度、以愚札如斯御座侯。猶期後喜時候。恐慢謹言。

御伝聞可被下侯。 猶々御家内様皆々様へも、宜敷

(21)

106

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保田九左衛門様同兵蔵様 正月三日 浅井亀八郎邦丘(花押)浅井官三郎秀央(花押)浅井織之丞雅岡(花押)

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107「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題

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一筆啓上仕候。追々春暖相催候処、御全家様被成御揃、弥御壮健可被成御座珠重奉欣喜侯。次二当方無異儀罷在侯。乍慮外御安気可被下侯。子誠、先便者年始預御祝札、並御年玉、白銀壱両被掛御意、不相替御懇情、黍幾久く拝収仕候。且早春、書状差出し申侯。定而相届候儀と奉存侯。其節得御意侯通、当春中罷下り可申や之儀、申上候処、御新宅栄次郎様御儀、御庖瘡二て御死去之由、絶言語鷲入侯御事、御一統様方貴前様二おひても、嚥々々

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108

御力落と奉遠察候。右二付、中々御謡心二ても無御座よし、御尤至極奉存侯。其外、其御地茂去秋巳来御不景気二付、当春罷下候儀、可相見合旨致承知候。何様此節、金弥公御登坂、私宅へ預リ御尋久皆二て増々掛御目、其御地之御様子委承申侯。|、江戸表方去八朔御返事(井香銭之御挨拶方々此節)御届申上侯。三十郎様、去冬御家督早々左近と改名、先師願之通り、勧進能被仰二、私来ル秋か明春二も可相成や、其儀追々可申上侯。弥来ル秋なれは、野子も致出府可申含、明春なれは、

(24)

109「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題

…… 当秋例之通、中津へ罷下り、登り之節々其御地へ罷出可申と相心得罷在侯。当春来何角御心配二付、御謡もしかjI御取出しも無御座よし、しかし追々御地立に付、乍御保養御取出しも在之候者、御隣家一一も初リ可申。貴前様方御引立無之候而者、何分浮立申間敷、何も御保養之思召二て、追々御取出し御引立之程、宜布御事二御座侯。乍筆尾、七兵衛様初、御家内様方へ可然御とむらひ被仰上被下度奉頼上侯。右者右御報労時節御見鋒迄。早々如此御坐候。恐々頓首。

(25)

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毎々乍御世話、山崎氏へ書状御届被下度奉願上候。 尚々、当二月難波新地常舞台再建二付、興行在之。則乍御慰番組入賞覚侯。「兼而相願置候、春水大先生へ御願被下候能調、いまた御出来無御座侯御儀と奉存侯。差急申儀二而も無御座候得共、尚御序之刻、又々御願込可相成々はやき方重々難有、此段御含、何分可然御取成候程、奉希侯。 九左衛門様参人々御中 三月廿八日織之丞

(26)

111「保田家1日蔵浅井織之丞等書簡」解題

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……

歩甥臨砂塾臥搬⑱騒 態々一筆啓上仕候。向署之節御座侯庭、御全家様被成御揃、弥御勇福可被成御座奉慶賀候。次二当方無異儀罷在侯。乍禅安気可被下侯。誠二昨冬物入御懇書被下置候後、御文通も不被下、私方方当春来一両度御安否相伺候得共、相届不申侯や、其後御様子一円相知レ不申二付、いか国為被在侯御事やと、折角御案事申居、此節之御様子御尋可申上と為含罷在侯折柄、其御国、三国屋伴蔵殿方文通在之。野拙久々其御国へ罷出不申二付、当秋中津方帰帆之節、立寄り候ハ、、貴前様初、東西之御社中様方へ、申談置稽古致度旨、罷申越候。何様昨冬御心配被成下侯一件二付、右御厚礼為可申上今年ハ中津表手廻し致、早々引取、是非其御表へ罷出可申と存含居候事ゆへ、其段

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三伴殿方へ返書造し置候得ハ、御同人方御出合も可在之候間、尚山崎氏初御方角川社中様方へも被仰合、何分宜御談合置之程、奉頼上侯。|、去春已来山崎氏へ相願候一件二付、昨冬貴前様方御内々御噂之御故障之儀茂、無御滞相済可申御儀と奉察、御同慶仕候。当春山崎氏方御文通在之。則御返諜差出候二付、貸家様へも、時節御安否御尋申上候節、申上侯通り、去ル子年御師家勧進能中、舞台焼失致、昨年屋敷借家共不残類焼致候二付、漸々仮家之御住居之処、当春二月近火二て又候御仮家も御類焼二而、三ヶ年二三度之御類焼二付、当時誠二必至之御難渋二付、職分之銘々共ハ勿論、御素人之御直弟中夫々様方へ御頼筋段々申蒙り在之、京都仲間

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113「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題

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同様とハ乍申、野子儀近年打続内外大二物入在之、御社中様江無拠相願借用仕、既二貴前様方も拝借仕候程之仕合二て、京都仲間衆中之ことく、甲斐々敷師恩難報歎ヶ敷奉存候二付、思召を不顧、先便山崎氏へ其段又候相願置候得者、尚御序之刻、可然様、御取合被成下先達而相願候通り、来ル七月前迄二御繰合、御融通被成下候様、偏二御取成之程奉希候。御隣家様、昨年者少々御故障筋在之趣御内意二而承伏仕るうち、いかに身分二火か付申共、御遠慰もなく、右躰之儀、押而相願入候段、重畳恐人侯得共、其段者乍揮貴前様方何分二も可然御取成之程偏二奉希侯。可相成儀二御座侯ハ、、前書二相願侯通り、来ル七月最前之

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114

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間二合候様二、御取計御登し被成下候様、呉々御助声之程、奉頼上侯。先ハ時節御見舞労、乍序此段再願迄、以略書如此御座侯。筆尾二相成候得共、御家内様初、御一統様方へも宜敷御伝声、是又奉頼上侯。脅外期後喜候。以上。

保田九左衛門様参人々御中 五月十五日浅井織之丞尚塵

(30)

115「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題

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一筆啓上仕候。向署之節御座侯庭、御全家様御揃、弥御壮栄二被成御座、珍重御儀奉存候。当方無異儀罷在候。乍慮外御安気可被下侯。誠二其後ハ打絶御安否不申承、毎々御噂而已仕罷在候。先月者七兵衛様御家内様御同伴――て、珠敷御登坂、海陸無御滞、早速私宅へも御尋被成下、久々二て緩々得拝顔、貴前様初其外御地之御様子承知仕、大慶不過之、貴前様不相替御丈夫二て、春来御家内様御召連、九州筋御遊覧御旅行之由、宇左中津二ても御泊り、折々御謡之よし、七兵衛様占委細承之、能御保養と奉察侯。孤又、七兵衛様御上京後、可応御招申上、尚又緩々御咄も被申上承と存含相たのしみ罷在候処、京都方御下り後、直様御帰帆之御跡へ、御旅宿へ御見舞申、其よし承り、御残多奉存候。定而御船中無御滞御帰国と、万々目出度奉存侯。乍慮外御序之刻、此よし可然様

(31)

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御伝声可被下侯。兼而御咄申上侯通り、当御師匠も、来ル八月於江戸表、勧進能興行在之。先師5も私出府之儀被申付、其心得二罷在候処、八月と申事}’てハ、例年中津表之御神能用一一差支候二付、内々江戸表学頭迄尋遣し候処、建札与八月と在之候得共、治定メ時月相知レ不申よしなから、延引成候趣、風聞仕候。中津表ハ例年八月十五日、狂ひなく相勤り候事なれは、当年ハ壱ヶ月もはやく中津表へ罷下り、神能相済次第、御暇を願罷登り、東武之様子次第二て、直様御出府と相心得、則其段学頭衆中迄、先便断申立置候。いつれ江戸表之様子者、当月中か来月迄二者、是非模様相知レ可申、弥延引と申事なれは、中津占引取掛ケニ其御地へ罷出可申侯間、此段御含尚又山崎氏初、東辺御社中様方へも御序之刻、夫々御噂被成置可被下侯。

(32)

117「保田家1日蔵浅井織之丞等脅簡」解題

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、六月十五日浅井織之丞保田九左衛門様参人々御中尚々乍御世話、和田氏へ書状御向日栄助様占早々御届被下候様、御頼被下度被頼上侯。 此余申上度御事共、数々御座候得共、最早出帆前、彼是多用二付、余ハ後便之条、万々可申上侯。文略御免可被成下侯。乍筆尾御賢息様初、御家内様、其外之御一統様まても、宜敷御伝声奉頼上侯。目出度可敷。

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▼汁 任幸便、一筆啓上仕候。残暑強御座侯虚、御全家様御揃、弥御壮栄二被成御座、珍重之御儀奉存候。当方無異罷在候。此殿御安気可被下候。誠二先便モ何とや方へ向瞥状差出し申候。定而相達し可申と奉存侯。猶又、当春御約速二付、当年ハ中津表占引収掛二其御国表へ罷出申度、貴顔二相願腫候通り、近来差行甚六ヶ敷御座候得者、近比御面倒恐入侯得共、来ル九月上旬迄二、其御地之御船之幸便も、可在之其段御聞合、何卒九月上旬迄二、無間達中津迄御過し被下候ハ、、千万恭奉存候。金屋君井

(34)

119「保田家旧蔵浅井織之丞等書簡」解題

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和田氏様も、御船手寄二御座侯得者、何分可然被仰合、前書之通り無間違迎に御遣候被下度、くれノー奉頼上候。九月中旬迄ハ、相見合居候得共、自然中旬迄二御地之船参り不申候ハ、、中津船二て大坂表へ引取、来酉三月比二見合、罷下り可申侯間、左様御承知可被下侯。無程中津出船前取込、右御頼迄。文略乱筆御用免可被下侯。乍筆尾、御家内様始御一統様、別而御社中様方へも別紙さし上不申失敬之段、呉々も宜御伝声奉頼上候。書外期後喜時候。以上。

七月七日織之丞尚慶九左衛門様参人々御中

参照

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三 朝鮮陣古文 明治一六年(一八八三)六月二一日 四 耆舊得聞 明治一六年(一八八三)一〇月一三日

平成二

れ︑雪堂が敬愛しており︑彼より相当年輩であったと思われるので︑

⑯昭和八年一月二十八日 ハガキ ペン 【発信者欄】東京淀橋区下落合七五三 満谷国四郎

独立行政法人通則法

部落差別の解消の推進に関する法律

平成十八年(二〇〇六)五月、関西大学為春会幹事となる(平成十九年四月まで)

 二十六 右弘法大師御在  行状記 並 和讃  世流布数本の内今且く需に應じ 要文を取捨して甲乙四句の初毎に