以下に紹介する班田泣菫宛満谷国四郎曾簡は、 泣巡の辿族によ り二00四(平成十六)年以降に岡山県倉敷市に寄贈され、 現在 「菊田泣塑文血」として倉敷市役所に保管されている資料に含ま れる、 国四郎から泣塑に送られた一連の書簡であ る。 本稲では、 この「博田泣殖文血」に蔵する未発表術簡を含めた満谷国四郎密 箭の全ての本文翻刻、 ならぴに解説を試みることとする。 明治・大正・昭和を生き抜いた洋画家満谷国四郎(-八七四i 一九三六)と、 文学者かつ絹集者であった蒋田泣雖(_八七七ー 一九四五)。 この二人の岡山出身の文化人の長きに亘る交誼につ いては、「蒲田泣蕩考』(松村緑 一九七七年九月 教育出版セン ター)、「泣雖残照」(満谷昭夫―100]\]年一月 創元社)、 E 泣 瑣小伝 j (薄田泣窟顕彰会 ―100二年五月i二0―二年八月)、 「満谷国四郎残照」(満谷昭夫•宮本高明 二00八年十月 創 元社)等に詳しいため、 ここでは概略にとどめておきたい。_一人 はじめに 年 1一月 の出会いに関して、 泣塑は「詩染の後に」「泣訊詩集」(-九二五 大阪侮日新聞社)で次のように綴っている。 洞谷氏は同じ中学の先輩で、 代数の教科密の余白といふ余白 を、すつかり受持教師の百面相で埋めてゐたほどの人でした。 私が十八歳の春上京して暫く厄介になってゐましたのは、牛 込宮比町の開鶏害院といった漢学の私塾で、 熟の先生は山田 方谷の門弟宮内鹿川とい った王学の老先生でした。 私は廊子 木孟郎氏などと一緒に、 そこにおいて貰つて、 夜は伝習録の 講義などを聞いてゐました が、 その頃は漢学が一向に振はな かったものですから、 聞鶏柑院の門をくゞる若い学生はたま にしかありません。(中略)私が一人で熟の留守番をしてゐ ますと、 そこへひよっこりはいつて来た男がありました。 の男は、「私は 日牲里にゐるもので、 侮日こちらに遥ふわけ には参りませんから、 一週一日でも二日でも、 参った折にた て続けに三四時間、 本の講義が間かしていたゞけないでせう
羽原卓也•西山康
倉敷市蔵薄田泣菫文庫
満谷国四郎書簡
翻刻・解説
•山
本秀樹ほか
・' これ が縁となり国四郎は、 泣班の詩集「ゆく春」(明治三十四 年十月)に続いて「しら玉姫 j (明治三十八年六月)の挿画装禎 を担当し 、『白羊宮 j (明治三十九年五月)では、 廊子木孟郎(一 八七四ー一九四一)とともに挿画を入れた。二人は仕事以外でも 親交が深く、 明治三十九年十二月に泣菓が結婚した際には、 国四 郎からお祝いの葉牲が寄せられている。また、夙に前掲松村緑「薄 田泣菫考」が紹介するように「後年松尾哲太郎の媒酌 で、 泣班の 長女(まゆみ)が国四郎の甥、 工学士滴谷三夫(のち、 倉敷レイ ヨン取締役)と結婚したので、 この 親友同志は更に姻戚関係」を 結ぶことにもなった 。 「薄田泣蛍文耶」に所蔵される満谷書簡は全部で一二十六通に上 る。紙幅の関係上、 まず 今回はそのうちの半分�年代順に並べ て最も古いのものから十八通を取り上げ ることにした。 ただし、 その中でも以下に掲載の書簡番号⑥・⑪·⑮・⑰は、 既に前掲満 谷昭夫「満谷国四郎残照」で紹介されている。が、 本稿では、 そ れらとともに以下で紹介する全ての害簡を並べてみること で、 ニ か。 j といつて頼むのです。 その顔をよく見ますと、 忘れも しない、 代数の教科琲に教師の似絵を宵き散らしてゐた満谷 国四郎氏でありました。(中略)私達はその日から仲の好い 友達となりました。で、それから五、六年後 の詩集「ゆく春 j に同氏の挿画をおたのみすることになったのです。
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-ってくることだろう。 谷国四郎残照 人のやり取りがより明確に理解できること、また我々の翻刻と「満 j で示された翻刻と に若干の相迎点のあることから、 既にそこで紹介済みのものでも取り上げることとした。 これらの 宵簡から、 二人の岡山出身の文化人とその周辺の、 よ り詳細な実態が明らかになる。後に太平洋画会を作る画家たちと の欧米旅行で国四郎が見たもの、 あるいは文境作家たちから多く の寄稿を得た大阪の文芸誌「小天地」における編集者泣巡と挿絵 画家国四郎の仕事ぶりなど、 異なる分野で活躍した二人の交流が、 当時の画壇・文埴においていかに影梱を及ぼしたかが浮かぴ上が 翻刻と解説 【凡例】 一、 各害節の見出しには発信年月日をあ げ、 その後に封瞥・ハガ キの別、 用紙、 鉦記具の情報を記した。 一、発信年月日は、 自節で記されたものを採用した。記戟がない 場合は消印により、 また、 消印でも確認できない場合は内容 から推定した。 1 、【発信者欄】・【受信者欄】に は、 魯簡に記された発信者・受 信者の人名・住所等のそれぞれの欄に記載されてあった情報 を記した。 ただし、【発信者欄】に関して は、 ハガキ表面や①明治三十三年十一月二十――-B 【発信者欄】ポスストン府ニテ 【受信者欄】巴u
百
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Susukida Esq . Ousaka , Japan 大坂心斎橋通金尾文淵堂杏店内 薄田淳介様 【発侶局印】BOSTON NOV 25 9,30口 【受信局印】摂祁 大コ〔阪か?〕 口 ホ 便 MASS 批三年〔月判読不能〕二十 ベン 満谷国四郎〔本文末尾〕 ハガキ 一、 漢字表記は原則として現行通用の字体とした 。 封筒班面にそれに当たる記戟がない(あるいは少ない)場合、 告簡本文末尾の記載をあげている。 また、 読みやすさを考え て、適{且ーマスあけ・改行を施している。 一、【発信局印】・【受信局印】には、 消印にあった情報をそのま ま記した。 ただし、 やはり読みやすさを考えて、 適宜一マス あけ・改行を施している。 一、 翻刻部分では、 内容による改行の場合には原文通りに行った が、 内容に関係ない改行については読みやすさを優先して記 述に反映させなかった。 また、 改行・句読点のない内容の切 れ目には、 読みやすさを考え、 適宜ーマスあけ等を施してい る 。 一、 杏簡の印字•印刷部分で、 煎要と思われない内容は適宜省略 した 。 トン府ニテ 十一月廿三日 蹄国ノ際ハ飛ダ間違ヒデ 御目二掛ルコトガ出来ナクナテ残念仕 候 又 大兄ノ新作行ク春ヲ 今回旅行ノ友二御願申タカタモ ヲャラ水泡二帰シテシマッタ 小生ハ十一日批日不足ノ旅行ニテ 洋卜陸ヲ横リ今ハ大西洋ノ岸ニウロズキ居申候 画ハ当地タカラ 甚ダウマイ者モ少イカ 古画モアリ仏国名家ノ画 比較的傑作ガ アルカラ少々息ガッケル 小生ハ一月中二「ユーヨルク」二行テ ーママ) ダンダン海ヲコヘル仕度ニヲスル 今ハ珀早々多忙デ批評モ出 来ンガ 其ノ中話スガ見ネバダメ 小生ノ世界ガ広クナリカカッ テ大二心モチガ好シク候 . . 益御布勉御盛二願上候 余ハ後便二 金尾サンニ{且しく 満谷国四郎 【解説】「行ク春」は、 一九01 (明治三十四)年十月に金尾文 淵堂から出版された泣堕の詩集「行く春 j を指す。 国四郎は泣堕 の依頼によってその装丁・挿絵を担当している。 この沿前は「行 く春」の初版が発行された約一年前に書かれたものということに なる。 この頃の「明星」の広告欄に「行く春は今春出す可りしが 騒人愁多く著者に襖悩ありて呆さず今秋高く気爽なる時漸く梓に 上る」(『明星」第七号 一九00年十月十二日)とあるが、 キが書かれた十一月下句の時点でも、「旅行ノ友」にすることは 叶わなかったようである。「今回の旅行」とは、明治三十三年「十 ボスス箋m坦乱憫】J .Sus uki da Esq cヽo Bunendou 大阪心斎祇筋世店文淵堂内 【発信局印】BOSTON 【受信局印】摂津 二便 モ忘テシマッタガ ドヲデス面白イデスカ 謹賀新年 大阪 DEC29
ロロ
甘四年一口〔月か?〕宕日判読不能〕 6-PM MASS •月に丸山晩霞、 河合新蔵、 鹿子木孟郎と共に横浜泄を出泄し、 渡 米。十一月 河合・丸山・鹿子木・満谷、 ポストン箔」(「もうひ とつの明治美術」もうひとつの明治美術展実行委員会 年七月 ニ―――七頁)を指す。 この科簡もその渡欧中のものだと考 えてよいだろう。横浜港から太平洋を渡りアメリカ西海岸へ、 そ こから大陸を横断しポストンヘという流れか。 ②明治――-+-_一年十二月二十八日 [発信者桐 l 満谷国四郎 Wマ) B日ik.iyo matsuki 980 Boylston st Boston Mass U.S.A.〔本文末尾〕 ―1001二 Ousaka Japan 痺田泣巡様 僕モ渡米以来面白クテ君ノ処二出ス手紙 0 ママ) 其内長イノヲ出ソヲ思フガ此等ハマタダノダ 意太利ナドノ空気ヲ吸ハヌ内ハイケナイガ 然シ見ル物ハアル ハガキ ベン サスガ金モチ国ダケニ少シハ古クヨキ者モアルカ 新作ニテハ欧 州ノ者モ多イガマア少ナイ 僕モ此レカラ「ニューヨ」ヤ「ワシ ト ン」ヤヲ見テ 四月ニハ欧州へ行カレソヲダガ 二羽ヲハヤシテ欧州ヲ飛廻ルコトダカラ ヲト思フガ 佛テノ御土産グライダロヲ 兎角モ愉快ダ nら▼ ) B臼巨yo ma窃u在 9 き B oylston st Bo ston ラ Ma ss 十二月二十八日 U.S.A. ソレカラハ大 而白ヒ者モ見セラレヨ 息ヨニハ掛ケンノダカ 満谷国四郎 【解説】これは①の約一カ月後に柑かれたも ので、 ポストンから 泣堕へ宛てた年賀のハガキとなってい る。 アメリカに存在する絵 回の物足りなさと、 渡欧に対する期待感が痰える。発信者住所の (ママ) 「B目匠yo matsuki」とは、 松木文恭のことではないかと思わ れる。松木文恭は当時ポストンに在住していた日本人であり、 不 同舎の学友らが、 一九00年「松木文恭、松木喜八郎兄弟の援助 を得て、 十二月五日(水)1十五日(土)、 ポストン・アート・ クラプで展覧会を開催」(『鹿子木孟郎股ー師ローランスとの出会 いー」府中市美術館 二00一年四月 ―二四頁)したという。 この旅行では、「用意しておいた各人の水彩酉によって展覧会を 各地において開催し、 その作品の売り上げをヨーロッパ行きへの 費用に当てるといったものだっ た。 当時のアメリカにおける日本③ 明治三十四年三月二十日 k 発信者欄 l ワシントンニテ 【受信者欄】K.Susukida Esq Ousaka Japan· 大坂心斎橋筋 金尾宙麻力出版部力. 【発信局印】WASHINGTON•DC . MAR 21 4-PM SANFRANCISCO ,CAL .ST口 【受信局印】摂禅 大阪〔以下判読不能〕 ノツムリダ (ママ-扱て其後如何御葬し被成候や 松尾君カモ時々御様子承リ居候 (ママ) 益々御盛ノ様子敬賀ノ至二奉存候 小生モ無異状ナク春光卜共二 飛廻リ届リ只今ハ当地二滞在、 是レカラ「ヒラデ」「ニューヨー ク」ヲ経テボストンニカヘリ 来月最初船便デ英国二赴キ顧次意 イズレ面白イハガキハ イタリーカラ 《ママ} 段々卜茂盛デ定メシ面白イコト ワシントンニテ 滴谷国四郎 〔「(MELPOMENE.} (LIBRARY OF CONGRESS.)」の絵あり〕 デアロヲ 金尾サマニ宜シク サラバ 太利ノ方ヲマワルツムリ 絵ハガキ MAR 三月廿8 粗 一九九三年一月 9,PM 1901 ペン 満谷国四郎〔本文末尾〕 ・ 趣 味、 いわゆるジャポニスムも結果的には幸いして、 ポストン・ ワシントン各地での展覧会も成功をみた」(『満谷国四郎展」岡山 県立美術館 ―ニニ頁〉とされる。 遮田淳介様 ペ ン イ 便 滴谷生 【解説】②の書簡 の約三ヶ月後の ものである。②で「四月ニハ欧 州へ行カレソヲダ」とあったように、 この害簡でも「来月最初船 便デ英国二赴キ」と、 四月にアメリカから渡欧する旨が記されて いる。実際、 明治三十四年四月「河合・丸山・廊子木・満谷の四 名はニューヨークを出港、ヨーロッパヘ向かう」六月「河合・丸山・ 鹿子木・満谷、バリ落」(前掲「もうひとつの明治美術 j 二三七頁) とあるので、 咎簡遥りであることが痰える。 この後、「イタリア、 オ ランダ、 イギリス各国を歴遊した後帰国。十月京都御苑内で開 かれた関西美術会第一回展覧会に↑山村晩郡〉〈少女〉の二作品 を協賛出品」(前掲「濶谷国四郎展」一四四頁)とされているこ とから、 十月までに帰国していることが分かる。「松尾君」は岡 山中学の頃から満谷と親交のあった松尾哲太郎のことであろう。 ロロ ④明治三十四年七月二十四日 絵ハガキ 写信者til】Via . Lndres et Amerique〔表〕ローマニテ 〔委末尾〕 =ママ) 言信者欄】Monsiue K.Susukida Ousaka Japon 大阪心斎橋筋. 金尾文涸盤出版所ニテ 薄田泣箆様 [発信局印】ROMA 17 □ロ コ:JO口□VIA〔FERR OVIAか?〕 [受信局印】KOBE
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JUL 01 JAPAN 摂油 大阪 世四年七月二十五日..,.“999 99 99上•9999.999,•’’� • �
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書簡④ 明治三十四年七月二十四日 ロ ーマニテ 【解説】③の哲簡から約四ヶ月 後、 国四郎がロ ー マに滞在してい た頃のものである。ハガキ衷面に印刷されているラファエロの〈詩 (La Poesia))についての解説と、 近々ポンペイ・フローレンス を回ることが綴られている。 泣堕が詩人であるため、 国四郎はこ の絵ハガキを送ったのだろうか。 ちなみに、 ラファエロの 〈詩〉 滴谷生 御無沙汰二打過き候 是レハ「バチカン」ノ天井画二御座候 後ハ「モザイク」二候 Poetry卜云フノデス 一両日ノ中「ポ =ママ) ンペー」二行キ「夫レカラ「フロヲレンス」二参リ可申候早々
御芳簡並ビ奉草拝見 度々ノ御送与ハもったいなき次第二存居候 兎角兄之御親惜ハ悔二肝銘仕候 先日ノ御目二掛ケタャッハ後デ モ面白くなく思ワレタル者ナレパ其侭費兄ノ手ニアレバ幸モ甚ダ しき者二存候 端世ノ方ハ六ツダケニ三日中二懇考御送り申上度 存候 先ハ取不肯御返答迄何れハ世面二て 束京日暮里 村 十 二月一8 満谷国四郎 簿田淳介様 【発信局印】東京 【受侶局印】0ロ
大阪 草々 便 駒込 03 ヽ6 は、 ヴァテイカーノ宮「「署名の間」天井の円形寓意像の一っ。 これらの女性たちはすべて金地にグロテスク文様と木製円花紋を 配した円形の装飾帯に囲まれ、 モザイクづくりのように見せかけ た金地を背に雲の上の玉座に座している。」(『世界美術大全集 j 一九九四年十二月小学館 四一六頁)とされている。 つまり、 国 四郎の説明では「モザイク」(小石を敷き詰めたもの)とされて いるが、 それは誤りで、 実際はフレスコ回(塗った石灰が生乾き のうちに絵を柑き上げたもの)である。 ⑥明治三十四年十二月一日 【発信者欄 l 東京日暮里村 【受信者欄]大坂束区谷町八丁目 百九十番本長寺内 34,12,lロ
□十二月二13 フデ 満谷国四郎〔本文末尾〕 ハガキ 44-拝啓 ⑥明治三十五年八月八日〔年推定〕ハガキ フデ 一発信者襴】銚子黒生浦 みつたに.〔本文末尾〕 寄信者梱】大坂束区南本町四ノ三十六 簿田淳介様 百信局印】下総 銚口〔子か?〕 【受信局印】大口〔阪か?〕 此頃の御起居如何 □ ,8,8 草々 D .5 .30 雨降りで実二閉口此上なし。君ノ方モ トヲ/\先月中に出来ズ申訳なし十四日二帰ルカラヤリマしよ を 用 事アレバ東京方へ願ふ. 先ハ御見舞迄 銚子黒生浦 みつたに 甘口 八月六日 便 【解説】「春草」は詩のアンソロジー「春くさ」(金尾種次郎編 • 金 尾文源堂書店 明治三十四年十月)のことか。泣蕩の四篇の詩 もそこに見出せる。 この頃、 国四郎は泣堕が金尾文淵堂で編集を っとめる雑誌「小天地」の表紙を担当していた。「御目に掛ケタ ャッ」とは、「小天地」に戟せる表紙の原案か。「小天地」第二巻 第五号(明治三十五年二月一日)の表紙〈梅枝〉は国四郎作であ .る。 また、「小天地」には付録として絵はがきが添えられており、 それも国四郎が担当していた。「小天地」第二巻四号(同年一月 一日)の絵はがき二葉〈梅〉と〈虎〉は国四郎が制作したもので ある 。 金尾文淵堂ニテ ベン 〔このハガキに描かれた国四郎節の絵について、 書簡本文は掲戟 されていないが、「満谷国四郎残照 J 10五頁に「浜辺で陽に焼 けて真黙になった二人の子供な どの自節の絵」 と紹介されてい る。〕 【解説】暑中見鐸いのはがきである。消印は捺圧弱く年の数字が 不鮮明だが、 三十年代であることは判読 でき、 宛所からして泣巡 が大阪金尾文淵堂に寄寓していた明治三十三年六月1明治三十六 年八月(前掲『泣菓残照」ニ―一頁ーニーニ頁参照)の酢簡であ ることは確かである。 その頃の朝日新問の記事に、「洋画家の海 岸旅行 洋画家小山正太郎氏家塾不同舎貝ハ窃生のため来る十日 総房海岸へ向け出発する由」(「美術訛報」『東京朝日新聞」明治 三十五年八月四日)とある。 小山正太郎は国四郎の絵の師であり` この旅行に参加するために国四郎も銚子に滞在していたものとも 推測される。 その場合「君ノ方」は、「小天地 j の表紙(第二巻 十三号 明治 三十五年十一月十日 表紙絵〈黄菊白菊〉)もしく は絵はがき(第二巻十二号 明治三十五年九月十B)の原案に該 当するか。 ⑦明治――-+五年八月_―-+日 ハガキ 【発信者欄】東京日荏里千百十八 満谷国四郎〔本文末尾]
【受信者欄】大坂束区南本町四丁目= 1 十六 薄田淳介様 【発信局印 l 東京 駒込 【受信局印ーロロ 雨天勝ノ気候モ昨今二奎りて特二甚しく暑く閉ロモ通り込て避暑 ・ ノ やり直しでもやる他ハ仕方ナイnトダ 相不変御多忙御察し申 上侯 先日小天地頂戴面白く拝見仕候 肖像が大変遅クて失礼 然モ急でウマイ者出来ズ此レデモ御間二合ヘバ幸甚、今ーツノ君 ノ依頼ハ長く君ノ宝物ヲケガスコトナレパ今少シ御猶予顧上候 大坂ガ来年ハ中々兼色ガ面白サヲでスガ種々企てガアルラシイ 何カノ都合で小生モ一度ハ下坂シタイト存居候 0君ノ御上京ノ 期自何鶴首相待申居候 ドヲモ勉強ガ出来ぬので困リ居申侯 {誡) 早く帰テツマラナイコトヲシタト思ヒ居申候へとも此モ因緑ツク テ 今更致方なし 0此頃ハ写真ハ如何 発送ニハ少シ面倒ナレバ カ ヘテ安全ナレバ送りましよーか 画が少イト何ダカさむしい椋 でスナ、下村君二遇タラ宜しく頼む 東京日暮里干百十八 満谷国四郎 【解説】「避暑ノやり直し」は、 この直前、 国四郎が避暑に行っ ていたことを示すと考えてよいだろう。「早く 帰テツマラナイコ ト シタ」というのは、 避怨地からの帰りが早すぎたために「甚し 35,9,1 八月世日 □,8,30 后11.50 D〔前か〕5.30 文淵堂ニテ シ閉ロシタグラひ 拝啓 先日小天地頂煎 【発信局印 l 東京 駒込 【受信局印】〔判読不能 〕 ペン ク屠ク閉口」していることを示すと捉えられる。その避暑地は⑥ の手紙から推すと銚子あたりの房総半烏か。「先日小天地頂戴」 とは、「小天地 j (第二巻十一号 明治三十五年八月十日)の表紙 〈月下横戟〉を国四郎が担当したため、 泣路が「小天地」を国四 郎に送った ものと考えられる。「大坂が来年ハ中々僚色が面白い サう」は、 明治三十六年に第五回内国勧菜栂冤会が開催されるこ とを指しているのであろう。「下村君」は、当時『小天地』の挿固 . 表紙を担当し ていた下 村為山であろう。 ⑧明治三十五年十月〔日未詳〕ハガキ 【発信者欄】束京日呑里村干百十八満谷国四郎〔本文末尾〕 宮^信者欄】大阪市東区南本町四ノーニ十六 文淵堂ニテ 薄田淳介様 35,lo'口〔3か?〕 表紙ノ面白イノニ院イテ実ハ某画伯ノ手 ニナリシモノカ聞キ度存候節 兄ノ策トハ又一驚ヲ頂戴仕候 宜 しく時々御試みラルペく敬服ノ外なし 先日ノ小生ノモ大テコズ リでアマリ宜しくない 〇先日ノ大風雨小生ノ処ハ穴の中の如き 処でスカラ大した事も成かッタノでした 柿ヤ栗ガ落チタノで少 此レモ甘クシテ食フコトガ出来ナカッタ故グ 46
-ライデ少シノ心配モナイノデ御安心被下度願ます. では又其中二 御意得ましよ. 東京日暮里村干百十八滴谷国四郎 【解説】明治三十五年九月十日発行の「小天地」第二巻十二号に 付随する絵ハガキニ菜を、 国四郎が担当している。 そのため泣堕 は、 国四郎に「小天地 j を送ったのであろう。「表紙ノ面白イノ 二鵞イテ実ハ某画伯ノ手ニナリシモノカ聞キ度存候」とされる表 紙は、 沈錨子〈秋の初風〉だが、 この文面によるとこの沈錐子は 泣蔑ということになる。泣塑は「茶話 j (昭和元年十月 洛賜社) に「ハウプトマンの「沈鎖」を税むと、 ... 」と綴り、 さらに『忘 れぬ人々」(大正十二年四月 金尾文淵磁)の「森林太郎氏」の 箇所に、「たしか明治三十九年五月頃だったと思ふ。(中略)岩野 氏(岩野泡嗚ー稿者注)は、 その当時何かの雑誌に出てゐた森氏 のハウプトマンの「沈鎚」の二節の翻訳を引合ひに出して、「あ の訳はあれでいいのですか」と訊いたものだ」 と、 ハウプトマン 「沈錨』に注目していたことが窺える記述を残している。「先日 ノ大風雨」に関して、 たとえば「気象要院 J (中央気象台 明治 三十五年九月)には、「自二十七日至二十九日 暴風雨」とあり、 具体的には、「風水害ハ千葉、 茨城、 群馬、 播烏、 山形ノ諾県二 甚シク人畜ノ死伽、 汽車ノ転殴、煙突ノ破壊、 巨樹ノ抜折、 家屋 ノ 漬損等ノ多キヲ以テ知ルヘシ」と説明されている。 拝啓 ⑨明治三十八年五月四日 封書 巻紙 [発信者欄】東京日暮里干百十八満谷国四郎 【受信者欄 】 口〔岡か?〕山県浅口郡連烏村 薄田泣蔑殿 【発信局印】〔判説不能〕 【受信局印】備中 先日来ハ度々御芳簡を辱せし二もか�わらず一向御不沙汰 勝二打送き失礼仕候 御作白玉姫のは先月中旬駄作ヲ金尾子二相 渡し申置候 端曹の方ハ只今熟考中 一般が進歩してるのですか ら小天地時代ノ者を只今拝見スルト冷汗が出ますから可成工夫ヲ 煎ネ度存居申候、 只今も「カタロク」ノコトて金尾子来ラレ此間 一寸話アリシ御願ノ一件二付最早大兄の元へ御通知二成タト聞き 驚イテ申訳ヲスルのです 実ハ今春の太平洋回会展笈会ノ「カタ ロク」ハ酉報社二依頼致居候処 金尾君の話モアリ会ノ為メニモ 便利でアリ来春カラモ都合宜しきコトナレバ労々同君ノ手ヲ借り るコトニ致居候処で 此ノ間小生ノ友人共集会の節「明星」二関 係してる者ナド存上候て 序文ヲーツ大兄二願タラ大二光彩ヲ放 ツダロヲト云フコトガ一寸出タノで満楊大賛成で丁度僕ガ知己ダ カラ僕カラ願ヘト言フコトニ相成タノでス モ ホトンド僕ガ世話ヲシテルノで 世ノ中ニモ兄トナラ居ルノで スカラ大兄二序文力願ハル、ナレバ此ノ上ナき幸福ダト信ジて大 兄二願ふnトラ引受けタノでス ドヲーカ何でモヨイノデスカラ 西ノ補 僕も今度ノ会ナンカ 甘八年五月六日 フデ ハ便 五月四日
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五月四日 満谷拝 薄田大兄 机下 序ナリ詩ナリ一寸一口御願ヒ申しマス 、 御 承諾ヲ乞ふ 見ナイで充分無理ナ事でスカ何トカ御考ヘガアルダロート存じ(
ママi-ヲ シテ斯の如二候「本ハ普通雑紙ノ大サで 序、 出品者ノ全カタ ロ ク、 派ナ画ノ銀板五六十、 卜云フ理ナノデス 夫レテ今年ノ屁 蔑会ハ今迄三年ノトハ大二整理シテ出品モ骨ガ折レトル ノデ好成 鎖です「ジャン・ポー ローランス」先生ノ 画ガ出タノデ此上 ニ モ目ヲ引キマシタガ 大家ノ画ガ出夕為メニ素人ニモ他ノハ見 ラ レン 見ル者ハナイト云フコトニ成テ骨ヲ折夕我々ノ製作ヲ更 二光郎ナクツマランコトニ成タノでスガ 然し夫レハ幾数等モ上 ノ者ガアル為メテ日本ノ画界全パンカラ言ヘハ勿器整頓シタ会ナ ノデスカ 今月末迄ニハ小生モ一寸帰国 愚父ヲ見錦ふつムリで ス カラ久々振二御而会ガ出来ルト楽んで居ル コトでス 何力御土 産ヲ持テ行キマスガ 序ノコトハ其ノ時でハ少し遅レルト 金尾君 か申シマスカラ御承知被下候へば今月廿日頃迄二願ヒマス、ヲマ)
今度ハ油画ノ少サイノヲ持テ行キマスガ松尾君ガ恨ルカラ如何 二 カセネバナラント考て居リマス 何 レ ハ御面会の役二譲りマス 【解説】泣巡の「白玉姫」は、 明治三十八年六月に国四郎の挿画 装禎で金尾文淵堂から出版されている。「駄作」とはその原画の ことか。 国匹郎が泣座に依頼している「序文」とは、「太平洋画 会画集 j (明治三十八年四月 金尾文淵堂)のカタログの序文で 展蔑会モ ローランス」とは、 当時パリの画塾アカデミ ー・ジュリアンで教鞭を取っていた水彩画家である。明治三十四 年「パリに留りアカデミー・ジュリアンに学んだ鹿子木孟郎・河 合新蔵を除く四人(吉田博・中河八郎・丸山晩霞・演谷国四郎1 税者注)は、 明治 三十四年の夏から秋に かけて焔国して」いる。 「ジャン・ポー あろう。実際、 それに泣型は「序歌」と題する歌を寄せているが、 これは後の「芸のゆるされ」(「白羊宮」明治三十九年五月 金尾 文淵滋)と近似している。「小生ノ友人共集会の節「明品」二関 係してる者」として候補に挙がるのは石川寅治、 鹿子木孟郎、 石 井柏亭であろ うか。 石川寅治は、 明治三 十七年三月に(孔雀〉、 五月に〈海原〉、 八月 に(花あやめ〉など、 頻繁に「明星」へ絵 画を載せている。鹿子木孟郎 は同年十月、「『美術新報」3-14に鹿 子木孟郎「偶感(二)」が掲載され、 以後翌年にかけて、「美術新 報」「明昆」誌上で鹿子木対三宅克己・和田英作による、 いわゆ る「水彩画詮争」が展開される」(前掲「もうひとつの明治美術」 二三九頁) とされ るが、 「明星」巳年第二号(明治三十八年二月) でも「心明無疑」というそれに関する評論を掲戟している。 しか し、 三人の中で最も多く「明星 j の挿画・評論を担当しているの は石井柏亭である。柏亭は「明星」巳年第五号(明治三十八年五 月)で「太平洋画会の諾作」という批評も執節してお り、 三人の 中で「明星」と太平洋画会、 双方に最も関係が深い人物だと言え る 。9
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48-⑩明治三十八年五月十五日 ハガキ 【発信者欄】浅尾村 滴谷〔本文末尾〕 【受信者欄】浅口郡迎島村 薄田淳介様 【発信局印】口□ 総社 世八年五月一五日 【受信局印】俯中 西の浦 □口年五月一六日 イ 便 表面フデ・裏面ペン 書簡⑩ 明治三十八年五月十五日 太平洋画会展覧会に出品されたローランスの作品は「ルーテル ト 彼レノ徒弟」(「近代日本 アート・カタログ ・コレクション」太 平洋画会 第一巻 二00一年五月 ゆまに書房)で、「プロ テ スタントを主選にしたもの」(前掲「鹿子木孟郎展ー師ローラン スとの出会いー』―二0頁)とされている。 西ノ涌 満谷 蓮島村 薄田淳介様 口〔前か?〕O · 40 口八年八月五日 口便 千百十八 【解説】⑨の手紙から約十日後の書簡となる。泣葛は、 明治三十 七年二月「生活苦により連島に陥り静登」(前掲「泣雖残照」ニ l ―一頁)にいた。 明治三十八年十月には、 結婚相手の市川修と而 会するため京都に赴いている。明治三十九年一月六日、与謝野究・ 晶子述名の年賀状が「備中国浅0郡連島村・簿田淳介」宛に届 ているため(前掲「泣蔑小伝」五 五頁参照)、 泣堕はこの頃ま で連島に居たものと思われる。 なお国四郎は杏節⑨で綴っている ように「愚父ヲ見舞ふつムリ」で岡山に帰省している。 この時の 父親の様子は、〈病床の父 準一郎〉(「明治38.5.20 慈父於 病床 永眠の前の約一ヶ月 国四郎写」の字あり)とい、?水彩画 に描出されている。 ⑪明治三十八年八月四日 【発信者梱】東京日暮里 【受信者欄】岡山県浅口郡 宮藉局印】□
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【受侶局印 l 俯中 申居候 早々 口'8、4 浅尾村 昨日到培しました ハガキ フデ 同三日の中御面昭ヲ得ルコトハ相成可申楽み 滑谷局迄持行き捨テルナリ ⑫明治一__十八年十二月七日 [発信者欄】滴谷〔本文末尾〕 【受信者ll】岡山県浅口郡 連烏村 【発伯局印】満州軍総司令部 位固モ違ウシ大ニョイノダ ハガキ 凱旋記念 束京 簿田泣菓殿 フデ 〔この杏簡に付された国四郎自節の絵につい て、 柑簡本文は掲載 されていないが「満谷国四郎残照」一0五頁に、「三日月の下月 見草にかこまれて、 左手を顎に当てた憂いをおびた和服の夫人の 姿を描いた業魯」と紹介されている。〕 【解説 l 「原画」が何を指すかは分かっていない。 ハガキに岬国か れた絵と似た構圏を持つ国四郎の作品に は、 山の陰に半分箆れた 月を背猥に月見草に囲まれた女性が描かれた〈かぐや姫〉がある 。 が、〈かぐや姫〉の発表年は明治四十 1 一年となっており、 若干の 差がある。 なお、 不同舎の同門である吉田博も、 同時期、 月見草 に囲まれて左手を顎に当てた女性の絵〈月見草と浴衣の女〉(明 治四十年頃 水彩・紙)(前掲「もうひとつの明治美術」一八七 頁参照)を描いている 。 君ノ画端告ノ内ノ一ツ画キソコナイナ リ 毀,12,7 原画ハ此レトハモ少シ 画室ノ附二苔ルノモヲシク此レヲ 辿 書簡⑫ 書簡⑪ 明治三十八年八月四日 ゥt99 ‘ 、 "“I49,‘59,"’図‘t r4411名;,·i' J·"・り
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明 50-ク 日暮里 湖谷 ⑬明治三十九年 I _一月九日 ハガキ 【発信者欄】日硲里 漑谷〔本文末尾〕 【受信者欄】岡山県備中浅口郡 辿島村 【発信局印】下谷〔以下判説不能〕 【受信局印】備中 西ノ補 今日元帥ヲ新橋二迎ふ 唯シ写生ナリ 満谷 【受信局印】備中 口〔西〕ノ浦 □D年十二月□日 記念画端杏売切レ拠所ナク郵便局ニテ画 【解説】日露戦争から元帥大山巌が凱旋、 国四郎は新橋で凱旋の ・様子を写生した旨が記されている。国四郎は日露戦争中、『近事 酉報」「戦時画報」で表紙・挿絵を担当してもいた。 薄田淳介様 冊九年三月八日 御手紙ニョリ一寸直しマシタ タルベシト自信仕候 四月ニハ御上京ノ由 バナルマイ よふ 今度ハ君ノ名吟ノ意ハ多少ハ伝ヘ 今日金尾へ申磁し故二来ルベ<申阻候 フデ 兎角御宿仕リマシ 実なりや 実ナレバ画室へ戒厳令ヲシカネ 松尾兄も同ジコトヲ申居ラレ候 一解説】「御手紙ニョリ一寸直しマシタ」と は、 明治三十九年五 ハ便 口便 月に金尾文淵堂から出版された『白羊宮 j の挿画のことであろう。 この年の四月、 書簡の「四月ニハ御上京ノ由」の通り、「足かけ 六年ぶりに上京、島村抱月、坪内逍造に対面」(前掲「泣堕残照」 二―三頁)している。 ⑭明治三十九年六月二日 ハガキ 百信者欄】桂夢〔本文末尾〕 フデ 書簡⑭ 明治三十九年六月二日
ナラズでしよふ フデ 呵々 桂夢 浅口郡連島村 【受信者梱}岡山県備中 I 発信局印】下谷 39 .6 .2 后4,5 【受信局印】備中 西ノ捕〔以下判読不能〕 菊田淳介殿 切角楽みニシタ御上京もさてとナルト御面会ノ機モ少く残念致候 帰途ノ御荷物定メシ御面倒様 金尾君もモヲ金ヲクレタ .ノ方ニモ一口出来 大・ニ安心しました 田舎ターチガウよ 東京の御ウワサニ日モ只 【解説】明治三十九年、 泣型は詩壇での名声が高まるにつれて発 表鉗台も広がり、「白百合 j 「明星』「早稲田文学」などの雑誌に 作品を発表するなど、 旺盛な活躍ぶりをみせた。 泣雖が東京に滞 在している期間に、 出版元を束京に移した金尾文淵批から「白羊 宮」が刊行されている。「金尾君もモヲ金ヲクレタ」とは「白羊宮」 の挿画料か。 自節色彩画の上には「東京話の図」と書かれている。 桂夢は満谷の号。 ⑮ 明治三十九年七月十九日 ハガキ 【発信者梱】束京日暮里ニテ〔表〕〔満谷のサイン〕〔本文末尾〕 【受信者欄】備中浅口郡連嶋 薄田淳介様 【発信局印】〔局名判読不能〕口•7.20前8.9 松尾君 書簡⑯ 明治三十九年十二月二十四日 〔このハガキは「満谷国四郎残照」一0六頁に「葉密4,6」と し て紹介されている。前頁の説明では、「いわゆる当時のモダンガ ールの服装の二人が「BANNNAI (バンザイ)」と書いたキスし ている人形の大きなポスター風の紙をもち、 ... 」とされる。〕 [解説]「戦の話し」とは、 明治三十九年第五回太平洋画会展蔑
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J 本日圃伯を驚かし大二獲物あり 〔満谷のサイン〕 【受信局印】備中 三十九年七月二十一日 七月十九日 西ノ浦 戦の話しを持帰る事二約束致侯 ハ便⑰明治四十年十二月十二日 ハガキ 【発信者欄】東京〔滴谷国四郎のサイン〕〔表〕 【受信者欄】京都上京区下長者町 薄田淳介様 弊屋一同 御目出度候由 御見参二入レ申上候 桂夢〔本文末尾〕 室町通り西入(北側) ペン 宿説】明治三十九年十一月、 泣堅は「京都に出て寺町通鞍馬口 下ル高徳寺町に一戸を借り、十二月二日に結婚」(前掲「泣蔑残照 j ニー三頁)している。相手は市川修。 このハガキは、 国四郎から 泣堕へのその祝辞であろう。 国四郎は明治三十_一年鈴木すゑと結 婚、 翌年長女三重が誕生している。節で描かれた絵の男女と女児 が、 その国四郎一家を表していると思われる。 みな正装と見える。 頓首 実二後レなから 博田淳介様 宮禍局印】下谷 39.12 .25 前 6,7 【受信局印 l 〔局名判読不能〕 30.1026 大疫至極二奉存候 十二月廿四8 D〔前か?〕11,12 会に出品された国四郎の(戦の話〉のことであろう。 ,.⑮明治三十九年十二月二十四日 ハガキ 百信者梱】表記なし [受信者欄】京都上京区寺町通 鞍馬口下ル高徳寺町束側 フデ 【発信局印】下谷 40 .12.12后3,4 【受信局印】京都荒神口 40 .12.13后0,l ドーシクコトカ 君ノ御喜ノ報ヲ聞テ早速御喜ヲ出スコトニ考へ モー出シタツムリテ昨夜迄平気で居夕処ガ 愚要二冊カレテナル 程トビックリシ此二取不肯御喜ピヲ出スコト斯ノ如シ モー生此 ノ節ハ男でも女でもアル方が良イト去フ方ナンデ何分ニモ御目出 度い イッカハ拝見二行キタイ者ダ(但し画ノ中小児ノ手ノ内ハ 詩句ナリ)桂夢 〔描かれている絵は、「満谷国四郎残照 J I 0六頁に「葉書4,7」 として紹介されている。 一0五頁で「幼 児を抱 き箪と原稲用紙を もつ和服滸流しの男の姿がペン世きで描かれ」「私の母まゆみが 泣堕の長女として生まれたのが同年十一月二十一日なので、 に対するお祝いの葉世でしょう」とされてい る。〕 【解説】「但し酉ノ中小児ノ手ノ内ハ詩句ナリ」と 言うように、 抱かれた赤子がこちらに向けた両手の平には詩句らしき波線数行 が描かれている。 岡山ならびに当時の郷土史にあたってみた限り ではこのような風習は確認できない。 あるいは、 一生お金に不自 由しないよう、 生まれた赤子の手にコインをにぎらせる恨行と関 係あるか(それを泣座が詩人であるため、 国四郎が工夫を凝らし
一解説】これは国四郎が、 泣雖の弟薄田鶴二に宛てた柑簡である。 この年の二月、 泣塑の文集「落葉 j が鶴二経営の獅子吼由房から 刊行されているが、 初版の「落菜」には国四郎の名は記載されて いない。一方、 獅子吼苦房の渾田泣蔑.簿田鶴二共著「新杏翰』 (明治四十 1 年七月)の広告に掲載された再版予定の『落葉」の 欄には、「満谷国四郎口翰及装禎」とある。 また同広告桐では、 泣班『新詩集』が「満谷国四郎及装禎」で近刊ともされている (H 新 詩集 j .の刊行は確認で きないが)。これらに使用するための絵を 国四郎が鵡二に送る約束だったのであろうか。 なお、 このハガキ には、 持戻再配達票 が付されている。 このハガキは消印により、 御承知相成度候 草々 日経里村 溜谷 拝啓 遅延して失礼仕候 十五日ノ頃迄ニハ必ズ出来致骰可申候