子どもの「けんか」と学級コミュニケーション
学校数育 柳田泰典
はじめに
私達は、「教育臨床」という言葉にどれくらいの意味を込めることができるであろうか。教育学研 究と教育実践との「分離」とは言われているが、内容的にそれほど「分離」している訳ではなく、有 効に結合していないだけではないだろうか。必要なことは、研究を教育実践が利用可能なように、具 体的事実にそくして再構成していくことであり、それを教育臨床の内容として提起していきたい。
ここで取り上げるのは、学級コミュニケーションという具体的な過程である。これまでの研究は、
いじめ、登校拒否など結果に対するものが多く、日常的な学級生活を調査・分析することはあまりな かった(授業研究は多いが)。しかし、普段の子ども達の姿を調査することは簡単なことではなく、
今回は現状でもっとも有効と思われる教育実習生の体験をもとに検討することにした(1996年度、事 例数は約300ケース)1)。
事例を検討していくと、子ども達のいざこざ、乳轢、けんかの多いことに驚かされ、学級コミュニ ケーションの重要な分析課題と位置づけた。これらの事例はすべて一校分であり、普遍性を考えれば 学校を類型化しそれぞれの特徴を分析しなければならないのであるが、今回はひとつの事例としての 限界を考慮しながらの問題提起である。なお、ここで言う「けんか」とは、いざこざ、乳轢、殴り合 いなどの総称である。
キーワードは、システム矛盾、ごめんね完了型コミュニケーション、自己主張型コミュニケーショ ン、ストップ言語である。
1.システム矛盾と子どもの「けんか」
子どもの「けんか」、それだけを見ているとどうしても本人達の性格に問題があるように思える。
しかし、「けんか」のひとつの要素は、人間性よりもシステムの問題なのである。
具体例をあげよう2)。
① 放課後の遊び時間にサッカーをしていましたが、突然二人が取っ組み合いのけんかを始めました。
けんかはすぐ終わりましたが、私は二人を呼んで訳を聞きました。一人は「相手が先にぶつかって きたからなぐった」、一人は「ぶつかったのはわざとじゃない。なぐられたからなぐり返した」と 言いました(2年生)。
② サッカーをしていた時のことです。ゴールしてよろこんでいた時、A君が泣きながら「今のはゴー ルじゃない」と訴えていたのです。よく聞くと、相手のチームの人がポールを外に出したのに、相 手チームのB君がポールを蹴り再開しゴールしたと言うのです(2年生)。
③ 体育のポートポールの時、初めての試合でAさんがゴールマンをし、Aさんはポールを受け取る ことが出来ず10対0で負けてしまいました。チームで集まり反省点を話し合っていた時、少し離れ
てAさんが泣いていました。その場に行き「誰かから何か言われたの」と聞くとうなずいたo
r
Aさんが泣いているけど、誰かAさんを傷つけるようなこと言ったの」と言うと、 B君がすっと手を あげてしょんぼりしていた(3年生)。
④ 放課後、体育館でドッジポールをした。途中、女子の一人が泣いていて、訳を聞くと男子にわざ とボールを投げつけられたらしい。私は、その男子を呼んで叱ろうとしたが、何か様子がおかしかっ たので訳を聞いてみた。するとその男子は、外野で飛んできたボールを取っただけなのに、女子に 横取りしたと責められ、くやしかったがポールを渡したら偶然顔に当たってしまい、クラスの女子
に責められコートを追い出されたということであった(5年生)。
これらの「けんか」は、システム矛盾、報復均衡、人格批判という要素を持ち、その根本的問題は システムの矛盾であるoここでのシステムは、サッカー、ポートポール、ドッジポールであるが、サッ カーは遊びとして、ポートポールは授業、ドッジボールは遊びと授業の中間的なものとして行われて いるo
サッカ}を遊びとして行うという、そんな日常的なことに実は問題が潜んでいる。サッカーはスポー ツである、しかも、おとなのスポーツであるoポールをめぐって攻撃と防御がぶつかりあう、そして それをスリリングするルールがある。ルール違反ぎりぎりでのしのぎあい、違反かどうかは当事者に は判断できない。その調停者として権威をもった審判が不可欠であるo しかし、子ども達がサッカー を遊びとして行う場合、ボールをめぐるぶつかりあいだけが行われ、調停者や審判はいないのが普通 である。一生懸命すればするほど、ぶつかりや違反が発生するoそして、問題の調停は当事者である 子ども達自身(なおかつ同一年齢)に委ねられてしまうのであるo
「ぶつかってきたからなぐった
J rなぐられたからなぐりかえしたJ
、「泣きながら訴えたJ
という
のは、子ども達の調停の仕方として発生せざるを得ないのであるo こうしてサッカーを遊びとして行
うというシステムの矛盾は、子ども達の人間関係の問題へ転化するoその性格は、やられたらやりか
えす(報復均衡)と人格批判である。①の場合は、明らかに報復であり、②の場合は教生が事実確認
をし「ノーゴール」を宣したが、 A君は rB君は知っていたのにわざとだ」と人格批判を深めてしまっ
ているのである。
ポートポールやドッジボールにもシステムの矛盾はあるoこのふたつは、子どものスポーツであり サッカー(おとなのスポーツ)とは異なっているが、スポーツのもつ均一な運動能力者による競争と いう性格はもっているのである。学級を構成する子ども達の運動能力は、さまざまでありかっ男子と 女子という「性差
J
も存在するD その集団が一緒にスポーツ(ここではポートポールとドッジポール)をすれば、「うまい子」と「へたな子」の聞に、「男子」と「女子」の間に乳際が生じやすいのである。
実際、 Aさんではなく、 Bさんがゴールマンをしていれば勝ったかもしれない(ポートボ}ル)、ま た、ポールコントロールのうまい男子がポールを横取りし相手に投げつければ勝つ(ドッジボール) のであるo
このようなシステムの矛盾は、ここでも人間関係の問題へ転化している。 Aさんが傷つくようなこ とを言う (B君)、泣く (Aさん)、その結果 Bくんは教生から「人を傷つけることを言っていいの」
と叱られ、ドッジポールでは男子が女子に責められコ}トを追い出されるのである。いずれも、人格
批判と報復均衡(誰かに叱ってもらう、コートから追い出す)が生じているのである。
システムの矛盾が人間関係を悪化させるとすれば、システムを改善するしか方法はないが、その種 の提起は少なくシステムに問題があるとは気づかないのが「普通
J
であるo しかも、システムはその ままにして人間関係を修復しようとするため、けんか両成敗か握手して水に流すかしか解決の方法が ないのであるoなぜなら、けんかの多くは、どちらにも「正当な理由J
があり、システムの矛盾を問 わなければ、追求すればするほど人間関係を悪化させていくからであるo しかし、けんかをするほう が、参加しているという意味ではまだいいのかも知れない。サッカーに入れてもらえない子、参加し でもポールにふれることもできない子など、その状況はドッジポールでもポートポールでも同じであ るが、現在のスポ}ツは「じようずな」子の活躍の場であっても、すべての子どもがたのしめるもの ではないのであるoこうしてこれらのシステムは、子ども達の人間関係を悪化させる側面と参加できない子どもを生み 出すという問題を持っていると思われるのである。さて、ここで言うシステムの改善とは、権威ある 審判を置く、タックルを禁止する(サッカー)、フリースローゾーンを設ける(ポートポール)、三角 形ドッジ、ローテーション型ドッジなど多様に提起できるが、ここで割愛せざるを得ない3。)
2.解決としてのごめんね完了型コミュニケーション
子ども遠の「けんか」は、実際どのようにして解決されていくのか。ここではその方法を、ごめん ね完了型と性格づけた。ごめんね完了型とは、「けんか」それ自体の批判、悪い方の批判(人格批判)、
そして謝罪、ゆるすへと至るコミュニケーションであるo
具体例をあげようo
① 生活科の時、どんぐりを取り合ってけんかしている子がいた。 ・・・ちょっかいを出した子には、
相手がどんな気持ちでいるのか、今は何をすべきなのかを問いかけた。その子はどんぐりを握りし めて離そうとしなかったが、いろいろ話すうちにどんぐりを返していた。ちょっかいを出された子 も泣いて相手をたたいたが、たたいたという行為に対して反省していたようだ、った。ただひとつ気 になったには、「ごめんなさい」という言葉が、お互い発せられなかったことである(1年生)。
②給食の準備中、女の子をたたいて泣かしてしまったA君が、謝らないで走り去った現場を目撃し た。そこでA君を呼び、「先生ずっと見ていたけどA君がBちゃんをたたいたことはいけないこと だよoそれでBちゃん泣いたんだよo謝らないと」と強く言うと、納得して「ごめんね」と素直に 謝ることができた。どうもA君も謝る気はあったのだけれど、 Bちゃんが泣きだし対処に困って逃 げ出したようだ(2年生)。
③ 給食をほとんど食べることのできないA君が、シャケフライを全部食べていました。嬉しくなっ て拍手すると本人も嬉しかったのか、少し調子に乗りすぎて Bさんのシャケフライを手でっかんで
しまいました白 Bさんは食べられなくなってすねてしまいました。
A君に、 fBさんはたべられなくなってすごく嫌がっとるよoそんなことされたらどんな気持ち ね。わかる」と言うと、「ごめんなさい」と謝りました。しかし、 Bさんは納得していない様子で
した。
しばらくして、 A君が「先生、僕が悪かったからおわびにこれ食べるから」と言い、スープを口 にしました。癖のあるスープでA君にはきついものだったのに、顔をしかめながら食べました。 B さんを呼びそのことを話すと、 A君の姿を見ながら考えていました。 A君は苦しそうで涙をためて いたので、 Bさんは「もういいよ、気持ちで十分だよ」と言いましたが、 A君は黙って頑張ってい
ました。 Bさんも複雑な気持ちのようでしたが、許してくれることになりました(3年生)。
④ ドッジボールをしていた時、女の子が男の子からポールを当てられ、当たったところが顕だ った ので泣きかけていました。そうしたらすぐ後に、他の男の子が今度はわざと、同じ女の子の頭にボー ルを当ててきました。二人の男の子に謝るように言うと、後の男の子はふざけた様子で謝り、最初 に当てた子は謝ろうとしませんでした。「わざと当てたわけじゃないけど謝ろう」と言葉をかけま したが、結局謝りませんでした(5年生)。
子ども遠の「けんか」、その解決はごめんねと言うこと、そしてそれをゆるすという形で完了して いる。重要なことはごめんねと言うことであり、それを言わなければ言わないことを批判されるo し かし、ごめんねと言ってもゆるしてくれないこともあり、事例でも癖のあるスープを食べることでご めんねを「証明」し、ゆるしてもらっているのであるo とにかくごめんねを言わせるためにさまざま な「指導」が行われる、「相手の気持ちを考える
J
I相手は嫌がっとるよJ
I自分がされたら嫌だろうJ
など、その例は多い。しかも、それでもごめんねを言わない場合、烈火のごとく叱られること(人格 批判)がよくあるo
このように見ると、ごめんね完了型コミュニケーションは、「けんか」の原因を明らかにしその解 決を考えるものではなく、「けんか」それ自体の早期解消をめざすものと言えそうであるo これが、
問題の処理をパターン化し画一化させている。問題解決にはもっと多様性があってもいいのではない か、どんぐりの数を増やす、給食の準備の仕方を変える、給食室にシャケフライをもらいに行く、頭 に当てることの危険性を説明するなど状況に応じた対応は可能であるD しかも、「けんかJそれ自体 の早期解消は、子ども達のコミュニケーションを抑制する効果さえもっているのであるo 自己主張は 不一致を拡大し、謝ることを拒否しているかのように受け取られかねない。学級のコミュニケーシヨ ンは、教師も含めて
00
しなさい (Youmust型)という言語が支配している、このような場で、私 はこう思うなど (1think型)と主張すれば「素直じゃない」とさらに叱られるのがおちであろう。ごめんね完了型に対して、自己主張型コミュニケーションを想定してみよう。これは「けんか」を 自己主張の機会ととらえることであり、集団の「和」をこわす行為とはみなさない。自己主張を構成 する要因は、 1think型の言語活動と事項批判(事実や現象と人格と切り離して問題にする)であるロ
「あなたがどんぐりを取ったので、考えていたようにできません。返して」と言うのと、「なんで取る のよパカ」と言うのでは大きな違いがあるo前者の場合、相手も「こうしたいので、どうしても欲し いんです」と言えば、相互に理解し二人で解決策を考えることもできる。しかし、「なんで取るのよ パカ
J
と言われれば、「なによケチ」と対抗し「けんか」になってしまいかねないのであるoごめんね完了型コミュニケーションは、「ごめんね」に「和を元に戻す
J r和を乱したことを反省す
るJ
機能を与え、問題の追求や追求による人間関係の車し際(人格批判)をできるだけ避けようとして
いるかのようであるoそしてその機能は、自己主張を出来るだけ抑制しようとせざるを得ず、 1think
型の言語活動や事項批判といった自律を支える諸機能の発展さえ疎外しているのである 4。)
3.自己主張型コミュニケーションとストップ言語の形成
子ども達の「けんか」は拡大しやすく、最初何が問題だったのか分からなくなるようなことが多い。
それは、たたかれたらたたきかえす、たたかれたら泣くという行為で拡大していくのであるが、これ は「報復均衡
J
(同じ苦痛を相手に与える)と「責任転嫁J
(原因を相手に帰す)という要因によって もたらされるものであろうoi
けんか」がごめんねという形でしか解決されない、逆に言えば自己主 張や相互理解が保障されなければされないほど、子ども達のささいな乳際は「けんか」へ発展してい くのであろうo これを我慢が足りなくなった、我ままになったと考えるか、自己主張への契機と考え るか、そのとらえ方によって学級指導はまったく違ったものになるはずである。現在の学級がすべて「ごめんね完了型コミュニケーション
J
であるという必要はないが、自己主張 型コミュニケーションが進んでいるとは考えられない。たしかに、意欲、個性、自ら学ぶなど自己主 張が発展しそうな言葉は使われ始めているが、これらは「学力観jであって学級集団の原理は依然と して「和」なのであるo しかも、新学力観が意欲や個性などの名によって競争を拡大(平等の排除) していけば、格差を調整するために「和」はますます強調されざるを得ないのであるo自己主張型コミュニケーションは、「和」ではなく「議論、理解、協同」をめざすものであり、人 間関係の基本原理を変えていくものであるo この正否はさらに検討して行かなければならないが、
「報復均衡J
i
責任転嫁」さらに「人格批判」を含むごめんね完了型コミュニケーションを、iIthink 型の自己主張J
i事項批判J
i解決の模索J
である自己主張型コミュニケーションに変えていこうとする場合、最小限の課題としてストップ言語という新しい言語の形成が必要であるo
ストップ言語とはいざこざを一時停止させる言語であり、その性格は価値中立なものであるo いざ こざを一時停止する言語、それを現状で見れば、「やめろ
J
iなにするんだよJ
iパカJ
iいいかげんに しろ」などそれ自体が敵対的であることが多い。これらは、相手の人格を批判することでその行動を 規制しようとするものであるが、そうであるがゆえに、反感を買う恐れが強く、そう言われたことで「けんか
J
を誘発さえする言語である。しかも、一言で停止できればいいがそうならなければ、さら に人格批判や敵意をエスカレートしてしまうものですらあるoまた、そういうことを言えない気の弱 い子どもややさしい子どもは、反発を恐れて使うことのできない言語でもある(そのため嫌なことが あっても、下を向いて我慢するか、泣くしかない)。このような状況を避けるためには、一時停止の言語から敵対性や人格批判の要素を取り除く必要が ある。ストップ言語とは、価値中立な一時停止言語のことであるが、その行為をやめて欲しいという 意志表示であるo例えば、「ストップ」でもいいだろう。黙って手でパツをつくってもいい、片手を 高く上げてもいいだろうo これらは「停止」という以外の要素(敵意や批判)を含むものではない。
ただ必要なことは、学級で合意しておくことであるoそういう合図があったら、それを尊重しその行 為を必ず停止することの合意は必ず必要であるo合意できるのであればストップ言語は多様であり、
理解しやすいわかりやすい言語、「ナンジャモンジャ」でもいいのである白
ストップ言語は、いざこざを一時停止させ自己主張型コミュニケーションを発展させるワンステツ
プであるD ストップ言語がなく、さんざん「けんか」してから自己主張しても、解決が複雑になるだ けであろうo
おわりに
子ども達の「けんか」は複雑であるoちょっと触れただけなのにたたきかえされたというものから、
取っ組み合い殴り合いまである。また、靴を隠す、口をきかない、遊ばないなど、いわゆる「陰湿」
なものまで含め、さらに性差や年齢、個人差、学校差、地域差を考慮した研究や問題提起が必要にな るであろうo しかし、問題はその複雑さや多様さなのではなく、なぜ複雑になるのかなぜ多様になる のかなのではないだろうか。その原因こそ自己主張の抑制なのであるo
自己主張が抑制されるということは、問題解決能力やコミュニケーション能力の未熟さをそのまま にすることであり、様々な不満や不安を内向化し蓄積させることにつながるのであるo蓄積された不 満や不安は出口を求めることになるが、その出口は複雑かっ多様になるのは当然のことである。「子 どものけんかに口を出すな
J
という考え方も多いが、それは単なるストレス解消論、不満や不安の解 消論(ガス抜き)ではあっても、自己主張やコミュニケーションを発展させるものにはならないので あるD子どもの教育や学校教育を人間関係という視点で見る時、みんな仲良く、迷惑をかけないなど、あ まりにも「しつけ」に価値を置きすぎていないだろうか。自己主張型コミュニケーションは、それに 対するアンチテーゼとして提起したが、それを是とすれば、授業方法、特別活動、学級経営まで含め て変えていかなければならない課題であるo
注
直接引用した文献はない。参考文献は多々あるが、それらは今後予定している「学級コミュニケー ション研究序説Jを参考にしていただいき、本論では掲載しないことにするo
1 )これらの事例は、けんか、掃除、給食、授業など様々な場面におけるものであるO 実習校はN大 学附属小学校で実習生はすべて3年生であるo
2 )具体例は要約したものであるo登場する児童は事例ごとにA、Bとしてある。 Lたがって同じ児 童ではないが、特定されることでの問題を避けるため個人の性格などには一切ふれず、できるだけ 全体的な分析を行っている。
3 )子ども達のスポーツをどう考えるか。私は、子ども達がサッカーや野球などおとなのスポーツを する事に反対している。多少の手直しを加えても、練習や試合が過剰になりすぎるなど問題が多々 あるからである。私の提起は、遊びとスポーツの中間形態としての「ソフトスポーツ」の創造と実 施であるが、それにふれることはできない。
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