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万葉集の「中皇命」 : その人と作品 第二部

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(1)

「中

命」

― そ の 人 と 作 品 ―

第二部

H

所知哉」と一歌の心象

中皇命,紀温泉に往 き給へる時の御歌 君が代 も吾が代 も所知哉磐代の岡の草根をい ざ結びてな (10歌) ここの問題点は 「所知哉」です。まず請訓を集 約すると次のようにな ります。 シレヤ 旧訓 ・仙覚抄 ・宗祇抄 ・代匠記 ・略解 ・楢の柚 ・注疏 ・松岡氏古語大辞典 ・金子氏 評釈 ・西村氏文化史的研究 ・斎藤氏 (研究 ・ 歌境 ・秀歌細字)・佐 々木氏新訓 ・土屋氏(午 表 ・短歌文学講座)・今井氏 (同講座)・石川 氏短歌選 ・女性の歌 ・中村氏難解歌新説 ・吉 永氏文学 と歴史 のあいだ シラス 元暦校本 シラレン 僻案抄 (所知武) シラム 宣長説 (略解)・燈 ・敦 証 ・墨 純 ・槍 ‡爪・古義 ・野雁新考 ・井上氏新考 (以上,読 を武の誤字 とす),芙夫君志 ・豊 田氏 新 釈 ・ 折 口氏 口訳 ・左千夫新釈 ・山田氏講義 ・菊地 氏清考 ・全釈 ・春陽堂講座阿部氏説 ・正訓 ・ 正宗氏 (総 索 引 ・大成)・総合研究 ・斎藤氏 秀歌 ・閑氏女流歌人 ・川 田氏女流歌人 ・池 田 氏 日本詩人選 ・窪田氏評釈 ・創元社講座(3)西 角井氏説 ・大成(10)斎藤清衛氏訓 シルヤ 考 ・高田与清訓(金子氏評釈)・武田氏 (総釈 ・皇室歌人 ・全講 ・全注釈 ・角川文犀 本)・森本氏 (符号本 ・地平社 版 ・精 粋 ・万 葉大辞典 ・創元社講座)・高田氏鑑賞 ・定本・ 沢潟氏 (新校 ・大成 ・誕 生 ・注 釈)・佐々木 氏 (評釈 ・新訂版新訓)・峯岸氏 口訳 ・朝 日 古典全書 ・土屋氏(私注 ・鑑賞世界名詩選)・ 田辺氏 (初期万葉の世界 ・大成)・大 系 本 ・ 村木氏 (古典 日本文学全集)・都筑氏万 葉 集 十三人 ・神田氏 (万葉の世界)・高安氏 万 葉 の歌を尋ねて ・塙書房版 ・小学館本 ・新潮社 集成本 ・桜井氏旺文社文庫本 これによると,シルヤが現在定説化 し て い ま す。ち ょっと待 って ください。疑わずにいられな いのです。「知」でない,特に 「所知」 と表 記 さ れているのです。 このように書 き始めた抽稿を歌誌 「歌 と評論

へ投稿 したのは昭和33年 1, 2月号で した。その 級,吉永氏に論稿のあることを知 りま した。氏も 小生 と同 じ疑問か ら説を立てています。 ここに一 端を引用 しましょう(1)0 なお一言 してお きたい。拙稿は,その後の講書 を参照 して旧稿に増補 しました。多少不体裁にな ったことを諒承願いたいのです. 「所知」をシルと訓む ことは万葉集の用字 法か ら考 えて うなずけない。すなわち万葉集 では

,

「所

OJ

r令

O

」などは四段活用の連体 形に用いた例はない。今の場合に しても,逮 体形 シルと訓ませ るためには 「知」だけでよ いのであって,何 も 「所知」 と記載する必要 はないのである。(前掲書) ここで 「知」を中心に集中の用字を 一 覧 し ま す。(算用数字は使用回数) 知 る (四段他動詞) しら しら し ら し ら し ら し ら 知16 日8 之良30 思良9 志良2 知之 しり し り し り し り し り 1 知27 之里 1 之理 1 思理 1 四里 1 しる し る し る し る しれ 知29 之流 1 師流 1 志流 1 知 2 知 る (下二段 自動詞)

(2)

しれ し れ し れ 知1 所知 1 令知 2 知れ り (知 っている) し れら しれる し れる し れ れ 知有3 知

2

知有1 之礼礼1 知 らゆ (知 られ る) しらえ し らえ し らえ し らゆ 知2 所知 8 之良延 1 所知 6 領 らす (四段他動詞) しらさ し らさ し ら し しらし し らし 知1 所知4 之良志4 所知11 志良之1 し らす し らす しらせ 所知3 領為 1 知 2 領 る (他動詞) しり し り しる しれ 知3 之利1 知2 知1 「知 らゆ」の 「ゆ」は受身の助動詞 で す。「所 知」 と表記されて当然です。「領 ら す」の 「す」 は尊敬を示 します。たとえは, し らし 久堅の天所知ぬる君故に・ -- (100人麿) この 「所知」は 「領 る」ではな く

,

「領 ら す」 と尊敬に訓むのです。 もとは,君 に よって 天 が 「領有 され,支配される」 ところか ら,受身の 「所 知」の形で表記された と思われます。 所は何 々する所の義の用法。(全 注 釈)釈 潟氏注釈,同解(2) だったら,四段 「知 る」の連体形 も 「所知」 と あっていいはずです。更には

,

「恋ふる」君 な ど も 「所恋」 とあって当然です。そのような例は一 つ もあ りません。 ともあれ

,

「所」が受身 ・尊敬の表記に充 当 さ れていることが認められました。 次に下二段の 「知 る」が問題にな ります。 きぎす 春 の野にあきる雑の妾恋ひにおのがあた りを し れ 人に令知つつ (1446 家持) し れ ず --わが恋ふる千歪の一重 も 人不令知 もと なや恋ひむ-- (3272) いかにも意志的に知 らせ る如 き表記を用いてい ます。結果か ら見てのことに過 ぎません。その昔 を汲んで 「令知」 と表記 したまでです。本意は自 発 こそ当たっているのです。 はた薄穂にはな出でと思ひたる心は所知われ もよ りなむ (3800) この 「所知」の訓は, しれつ 拾砧抄 しれ り 略解 ・古義 ・井上氏新考 (知 らせつ の意)・折 口氏 口訳 ・新校 ・古典 全 書 ・大 成 (正宗 ・沢潟両氏) しるれ 森本氏地平社版 しらゆ 新訓 ・全釈 ・高木氏説総釈 (知 ら遭 た)・松岡氏有由縁歌 ・定本 ・武田氏(全注 釈 ・角川文庫本)・窪 田氏評釈 ・塙書 房 版 自発のシラユが至極 自然です。 先の訓例でも知 られるように

,

「知

「所知」の それぞれに四段 ・下二段をふ り当てています。 下二段の 「知る」が 自発である点,当然至極な ことなのです。 と くる --わが下紐の所解 日あらめや (2973) この 「所解」 も四段の 「解」 と区別され,下二 や くる 段 自発を表示 しています。同様に,所焼(5・269) おくる ぬる を初め,所造 ・所清等々,いずれ も自発以外のな にもので もあ りません。 このように

,

「所」の表記に尊敬 ・受 身 ・自発 が認められます。主題歌についていえば

,

「所知」 は 「領 らす

「知 らゆ」 と並んで,下二段 「知る」 が表記 された可能性があ ります。 主題歌の 「所知」は大別 して2つの意味に解 さ れています。一つは 「認知する」。 も一つは

,

「領 知する」。後者の側 の主なものは, - 墨縄 ・棺狐 ・注疏 (髄掌せ よ),井上 氏 新 考 ・小学館本 (掌る),金子氏評釈 (守れ), 土屋氏 (短歌講座 ・私注)・全注釈 ・大 系 本 (支配する),創元社講座 ・女性の歌 ・中村氏 難解歌新説 この外にも相当数が この側に屈 して い そ うで す。注記がな くて明確でないのです。 「認知する」の方に当た るに,シレヤの訓で, 君が代,我代の辛を知んなれば此岡の草を 結びてんと也。(拾穂抄)松岡氏古語大辞典, 同解 ヤを詠嘆の間投助詞

,

「知れば」の意 に とって います。それ よりも次の解の方が当たっているの です。 君が代の久 しか らん事 も,我世の長か らん ほ ども,汝 ら知れ りや。(代匠記) ヤは反語。「汝 ら」 とせず

,

「吾 ら」 としたい。 もっとも

,

「所知」の表記につまず きます。 右の線は先へ進め られ るべ きで した。だのに, 「シレヤ心得がた し」(略解) と,いとも簡 単 に 捨てられてしまいま した。 次に,シラムの訓で

,

「知 る」のを自分達 とす

(3)

るのは,- 燈 ・全釈 (知 りたいもの で す)・川 田氏女流歌人 (うらなってみま しょう)0 草を結ぶ ことによって寿命を うらない知 ること も聞 きませ ん。 シラムを選ぶ限 り,草根が知 るの です。 シルヤのヤは詠嘆 と通解 さ れ て い,従 っ て,ほ とん どシラムと同義に解 されています。代 表で一つずつ訳文を掲げます。 シラム 君が齢 も,吾が齢 も知 ってゐるだ ら うところの磐 といふ愛でたい名を負ってゐ る この磐代の岡の草を,いざ,祝 って結ぼ うよ。(窪 田氏評釈) シルヤ あなたの御齢 も,私の齢 も知 ってゐ るこの磐代の岡の草を,さあ行末を祝 って 結 び ませ う。(佐 々木氏評釈) 同 じな らは,「哉」 を生か したシルヤが選 ば れ ます。ただ し,次の見解に完全には承服 しかね ま す。 「知 るや」の 「や」は上の動詞 ・助動詞 と 下の名詞 との間に挿入 された詠嘆の助詞で, 語意 はその上の用言が下の名詞につづ くもの であ る。「天なるや 日月」(3246),「さを鹿 の 伏すや草む ら」(3530)な どの例である。(釈 潟氏注釈) 承服 しかねたのは文法上 の点ではあ りません。 「や」を もっと生か した釈義を求め, もっと平板 でない受 け と り方が したか ったので す。「所 知」 の表記に も疑問がの こされたまま に なって い ま す。 次に,「所知」の表記にみあ う訓 の一つが シ ラ レムです。 その意は, 「所知武」 とは,後 の人に しられん とよみ 給- り。・--君が代,吾が代の しるLにせ ん とよみ給ふなるべ し。(僻案抄) 「哉」 を 「武」に改字 した ことが致命的です。 また,後 人に知 られ るために結ぶのではあ りませ ん。 シラレム乃至 シラエムの訓は筋が通 ります。た だ し,「哉」 の改字に尻 ごみ します。歌詞の 平 板 な ことも満足 の限 りではあ りません。 四 「領知す る」 の場合,シル ・シラスの二訓があ りま した。「所知」の表記にふ さわ しい訓は 後 者 であることはさきに一言 した通 りです。そ こで シ ラスをシラム ・シルヤ ・シ レヤに対応 させれば次 のようにな ります。 シラサム 「哉」をムとよむ。領 らすであろ う ところの磐代の--シラスヤ ヤは間投助詞。領 らす ところの磐代 の---シラセヤ ヤは詠嘆。領 らして下 さい よ。磐代

の---シラサ ム ・シラスヤには シラム ・シルヤについ て述べた と同 じ難がっ きまといま す。「哉」の 問 題 と,-歌が平板に終わ って しま うことです。一 例を示 します。 あなたの寿命 もわた しの寿命 も支配 してゐ る, この磐代の岡の草を,さあ結 び ま せ う よ。(全注釈) 一通 りのことを述べたにす ぎず,心 のゆ らぎ ・ 高ま りといった ものがほ とん どあ りません。元暦 本のシラスも右に準 じて考 えられます。「哉」の無 視 と歌詞 の平板 さは致命的です。 岡のほ と りの草葉を結んで,我等 の運命を 祝 は うとす る。 しか しそれはご く軽い意味で の,旅行中のある夕べな どの出来 事 で あ ら う。君 と共に旅行 され る親 しい情愛を よくあ らは してゐる。(同書)総釈,同文 この鑑賞言 も疑われ ます。原歌は もっと心躍 り があって しか るべ きです。 も一つ難点 が あ りま す。第二句が字余 りになることです。その難を免 れるシラセヤは,釈 の方が ど うで しェうか ?(3) 君が御齢 も,ついでに私の齢 も,幾久 しく ど うか守 って くれ よ。では この磐 代の岡の草 を, ど りゃ結びませ う。(金子氏評釈) - 守 って くれ よ。では この磐代の- -。前後 の続 き柄がまず過 ぎます。「いざ結びてな」は見 る 影 もあ りません。 ほぼ このよ うに旧稿をつづ った後 ,吉永氏の例 の論稿が発表 され ました。それを ここに追記 しま す。 わた しは シ レヤと訓むべ きだ と 考 え て い る。--・これは己然形にヤの添 うた形であ る か ら,当然反語に見 る べ き で あ った。つま り,わか るはず もないのに とか,支配するは ず もないのに とか解すれば何で もなか ったは ずである。すなわち全体は,あの方 の寿命の

(4)

ことも私の寿命のことも,さきのことはわか らないが,(草を結べば命が延びるとい うの ですか ら)岩代の岡の草をさあ結ぶ ことにい た しましょうとなって渋滞がない。(前 掲 書 17頁) これは代匠記に近い説です。「私たちには わ か らない」 と解 してい,補正 もい りません。ただ し 「所知」の表記の難問は解けていません。 連体形をシルと訓ませ るためには 「知」だ けでよいのであって,何 も 「所知」 と記載す る必要はないのである。む しろ己然形 シレと し れ 訓ませたいために,「おのがあた りを人に令知 つつ」(1446)などにならって,「所知」 と記 し れ 載 したのであろ う。・-- 「人に令知つつ」の シレほ知 られの意味であるが,シレヤの場合 はもちろん借訓 した ものと考える べ き で あ る

。(

1

6

頁) 己然形 シレと訓ませ るに も 「知」で こと足 りま す。四段のシレを表記す るに下二段の受身や 自発 を借用するはずがあ りません。 17京か ら引用 した上掲文中に 「支配するはず も ないのに」 とい う一句があ りました。それは 「領 知」の立場です。 これには別な難点が 重 な りま す。 このように解すると,「いざ結び て な」の 「いざ」が死んで しま うとい う意見 もあるに はある。つま りこの 「いざ」には,そ うした 俗信 (草木を結ぶ ことによって延命を願 うと い う俗信)に対す る不信を前提に したような 語気が感ぜ られないとい うのである

。(

1

7

京) 「不信を前提に した ような語気」に とどま りま せん。反語を使 った この否定は絶対的 な 不 信 で す。そこには 「いざ」のあ りようがあ りません。 その点の次の釈 明は意をな しません。 しか し,上の句を家持の 「玉 きはる命は知 らず」 と同 じく,自らに言い聞かせているも のと考 え,「いざ」はそ うした意味で気 の す すまぬ 自らを励ます ものと解すれば,それな りに結構通 じるのではないだろ うか

。(

1

7

京) 引用の家持歌 は, 玉 きはる命は知 らず松が枝を結ぶ心は永 くと そ思ふ (1043) このシラは 「認知」のそれです。 自分の運命が これか らどうなってい くかわからない。だか らこ そ松や草を結びます。「領知」は家持歌にも,主題 歌に もあてはまらないのです。 五 ここに一つの存炭を書 きとめ,後考 に 待 ち た い。それは革に神性を認め ることの当否です。 領所の 「知 る」が用いられ る場合は極めて限ら れています。 し りま 高殿を高知座 して(68人暦) --高知 るや天の御蔭 天知 るや 日の御蔭の 水 こそは-・- (52 藤原官御井歌) し りま - -御あらかを高知座 して-- (167人暦) ここでは宮殿 ・屋根につ い て, しか も 「高 ・ 天」づ きで慣用 されています。主格は天皇。主題 歌 とは隔 りがあ りす ぎます。 しめ 吉城の高間の草野はや知 りて標 ささま Lを今 そ くや しき(1337) この 「知る」は占有する意。草野は地域的 (壁 間的)なもの。寿命 といった形而上的なものとは 随分ちがい,その点に疑問がはさまれます。 とい うことは,「領 らす」について もいえます。 一体,集中で 「領 らす」 の主体 (左端) と客体 はどうなっているか といいますと, 天皇 国6 天の下 9 京 2 天 1 皇子 国1 天の下1 天地のよりあひのきは み1 天 3 高 日 1 ここでも領知の 「知る」 と同じこと が い え ま す。地域的である点,「草根」・「代」に当た ら な いことがはっきりします。 もり 思はぬを思ふ といはば大野なる三笠の杜 の神 しらさむ し知三 (561 大伴百代) シラスのスは絶対に尊敬 です。いよいよもって 「草板」にふさいません。か くて元暦本のシラス は訓義共に捨てられます。 わが衣君に著せ よとほ ととぎす吾を領袖に来 店つつ (1961) 「領」は,古 くシラ七テ ・ウシ-キと訓まれま した。 君に著せ よと知らす ると云意,いかに とも 得がた し。(代匠記精撰 本) 第4句の領は今の通用 としてウナガスとよ むべ し。(井上氏新考) ここに新たな定訓が求め られました。

(5)

あぎがは り 商変領為 との御法あらは こそ--・(3809) 「領為」 はシラスの訓。天皇が 「認める」の意 と解せ られ,主題歌には遠すぎます。 奥国領君が染屋形・-- (3888) 「領」は,シラセル ・ウシ-クの両訓が行なわ れてきま した。いずれにせ よ

,

「奥 国」を 「支 配 す る」霊異 の存在が 「君」です。主題歌の主体 ・ 客体いずれにも遠いといわなければな りません。 あしひ きの名に負ふ山菅折 り伏せて君 し結ば は蓬 はざらめや も (1477) 妹が門ゆき過 ぎかねて草結ぶ風吹きとくなま たか- り見む (2056) 草その ものが神性 ・権威だ ったのではあ りませ ん。いろいろな願いをこめて結ぶ 料 だ った の で す。 磐代の浜松が枝を引 き結びまききくあらはま たか- りみむ (141 有馬 皇 子)143・144・ 146歌参照 木では松が よく選 ばれています。松そのものに 神性は認めかねます。同 じ意図- 命長かれ と結 んでいます。 ところも同 じ磐代です。磐代の土地 に神性を認める向きも少 くあ りません。南紀への 要路の関係にすぎますまい。地名 も関係 していそ うです(4)。 本来 どこの草太 で もよか ったのです。 家持の1043歌 もここに参照 されていいで しょう。 やち くさの花は うつろふ常盤なる松の小枝を 吾は結はな (4501 家持) 常盤を思わせる松や草が選ばれま したが,大事 なのは 「結ぶ」 ことそのことに呪性を認めていた と思われます。古代人が しき りと結んだ紐 とて, 同列に考 えていいと思 うのです。 神 さぶ といなにはあらず秋草の結び し紐を解 くは悲 しも(1612 石川賀係女郎) 紐その ものが神性を備 えていたのではな く,結 ぶ ことに呪性があった と考えます。「言 ふ」 こ と に呪性が認められた と同 じです(5)0 六 主題歌 の訓義を考察 し,そのまま認め うるもの はあ りませんで した。その中で代匠記 と吉永氏の 「認知」説に傷の浅い ことを知 りました。そこで は 「所知」 の表記が一番の難点で した。それに一 応ふさうシラレン ・シラスに も従いかねました。 の こる途 は下二段の 「知 る」一つです。「所知哉」 の訓義が次のように求められます。 シル レヤ 知れるか。いや,知れは しないの だ。 集中には下二段 「知る」は連用形 シレしか見出 されません。 しか し,己然形 シル レを想定 して不 可,とは思いません。なお,第二句は レとヤがつ らなっていて,字余 りが許容 されることを一言 し てお きます (6)0 古 く反語のヤが動詞 ・助動詞の己然形を受けま した。 ここでは 「知る」以外のものに な りま す が,用例を一,二ひいて傍証 とします。そこに句 切れのあることに も留意 して下 さい。 紫のにはへる妹をに くくあらは人妻故にわれ 恋ひめや も(21 大海人皇子) ささなみの滋賀の大わだ淀む とも昔の人にま た も蓬はめや も(31 人麿) 海原のねやはら小菅あまたあれば君は忘 らす 吾忘 るれや (3498) これ らの例にならって,主題歌を次の如 く和点 し,解釈 します。 君が代 も吾が代 も知るれや磐代の--・ あなたの寿命 も,私の寿命 もとても知れはし ない。ですか ら,あなた よ, ここ磐代の岡に生 えている草を,さあ結びましょうよ。 「所知茂」に句切れを求める注釈は多 くあ りま せん。代匠記は先に引 きました。′1ノヤ ヤ 所知故の哉は助辞にて,ただ知 レと仰す る意s/I)ツカサド な り。知 レとは 領 掌 れ といふ ことな り.(注 疏)金子氏評釈,同解 これは命令形で,問題外です。句切れの点に論 証を集中する石井氏 (総合研究)に して も,シラ ムの訓に立 っています。句切れは-歌に重要な変 化をきた しません。 意味の上か らい-ばつづ きますが,句法 と しては切れ るのであ りまして, これは万葉正 格の二句切 として尊重すべ きであ りませ う。 (女性の歌清原氏説) 万葉正格 もいいけれ ど,シレヤの訓

,

「支 配 し てゐるか と思ほれます」の釈は語法を無視 してい ます。 シルヤ シルは支配す る意で,齢を支配す る,即ち齢をのべ ることも出来 る 意 で あ ら う。ヤは間投詞で,意味を強めてゐる。種々

(6)

の説があるが,歌詞か らい-は, ここで切 る 二句絶の歌 と見 るのが よいや うに思はれ る。 (私注) ここで句切 らない通解は歌調を全 く平板に して います。句切 っても,シルヤの訓はわずかな救い に しかな りません。 「所知哉」前後の関係を見 るに, - 何 々だ (。だ)か ら草を結びま しょう--と,通解 したのは平板な説 明に終わ っています。 代匠記の線に立 った吉永氏が逆接的に連接 させ, - わか るはず もないのに とか,支配す るはず も ないのに とか解す・-- (前掲書), これ で は 「磐 代の」以下が無意味になって しまいます。 知れは しない。だか ら草 を結びま しょう-- と なる時,草を結ばずにいられない哀切 さが色濃 く こめ られます。作者 の本意は ここにあったはずで す。 念 のため集中に類例 を探 します と, 道 の辺の草深百合のゆ りもと言ふ妹が命をわ れ知 らめや も (1467) 「命」 といい,反語に よる 「知 らめや も」の強 い打消 しといい,句切れ といい,主題歌 そっ くり です。一首全体 の酷似は例 の家持の1043歌です。 偶然の一致で しょうか ? もし参照 されているの だ とした ら,主題歌理解になに よ りの傍証です。 直接の関係はないに しても,傍証の有効度 は変わ りません。家持は 「知 らず」,中皇命は 「知 る れ や」(反語), これ らは本質的に別な ものではあ り ません。 「代 ・命」を 「領 る」の例は皆無 で す。「代 ・ 命」を 「知 らず」に叛する例は1043歌以下5を数 えます。 これ も一言 してお きたい ことです。 七 主題歌 の批評 ・鑑賞には11・12歌 と一括 してふ れま した。正解 されなす ぎた-歌 のため,改めて 諸評にひ とわた りしないでほい られません。 一首 明朗に して,滞 のない調べを持 ってゐ る。(佐 々木氏評釈) 「所知哉」を反語 とせず,句切れを認めない一 本調子の滞 りな さであってはな りますまい。 非常に,若い女性 らしい,清いなつか しい 語気のす る歌で, これは女性 らしいいぶ きが あ り,女性の体の香をさへ伝達 してゐるや う に恩へ る。(研究斎藤氏評)歌境,同文 過褒 とは思いません。 しか し,通解か らは こん なに こまやかな心ゆらぎは読み と りかねます。同 じことを先に引用 した全注釈の評言についてもい わなければな りません。いや,講 評 全 部 に--と,断言 します。 うら若 き兄弟な どの遊びごとらしき,何 と な く無邪気な感 じのある,和気溢 るるや うな 歌である。(左千夫新釈) 仲睦 く,君に伴ほれて行 く旅 の幸福感 とで も言 ったや うな ものが, しみ じみ と味 は れ る,や さしさのこもった歌で あ る。(総合研 究高木氏評) 重量感の溢れた歌 (創元請座森本氏評) 「いざ結びてな」の結句はまるみのあるい ひ方で,作者が女性であることを感 じさせま す。生に対する異状に大 きな よろ こびを内容 として,調子にも張 りがあ り,いかにも上代 人 らしい熱があ ります。(女性の歌清原氏評) 明るい歌です。言葉 のすみずみまで 女 性 的 で す。 しか し,ただ明るい,柔かいだけではあ りま せん。張 り ・重み ・深 さを忘れてはな らないので す。それを一語につづめれば 「知 るれや」です。 命を意識 し,その限界の前に敬虚 に頭をたれてい ます。 これあるがため-歌 の明るさ ・柔かさはい やが上 に引 き立てられています。人間の有限性か ら目をそらしていません。暗い宿命観になってい ません。そ こにあるのはひ とえにつつ ま し さ で す。その純粋 さが宿命をす ら明るさに化 していま す。年代に限 られない 「若 さ」だ とい っていい も のです。 一首,心深いものではあるが,明るくて, おほらかで,おのづか ら品位の高い ものであ る。(窪 田氏評釈) 筆者は次のように改稿 したい。 純潔で,自らの宿命を見つめる目にはいさ さかのかげ りもな く,心深 い-歌であって, おのずか ら品位の高い珠玉に結晶 している。 主題歌には同 じ作者の,同 じ紀温点行の2歌が つづいています。 かや 吾が背子はか りは造 らす草な くは小松の下の 草 を刈らさね (11歌) 吾が欲 しり野島は見せつ底深 き阿胡板の浦の

(7)

珠 そ拾 はね (12歌) いか に もあ どけな く,あま えてい る感 じを受 け ます。 それ でいて, ち っ ともいや味を 感 じ ま せ ん。 何 といふや さ しい純真 に充 ち満 ちて ゐ る こ とで あ ら うか。 それ に うら若 い女性 の美 しい 純 情 で あ る。 しか も高貴 な女性 の気 品 と香気 を も,作 品の うちに透浸 させ て ゐ る。(伍藤 氏万 葉 の詩 精 神 と文化) 作者 は この時30歳 に達 していま した。必ず しも うら若 くあ りませ ん。 しか もこの初 々 しさです。 その秘 密 には前稿 でふれ ま した。 この三首 の御歌 に溢れ てゐ る純 情 の精神 を 私 は美 しい と思ふ のであ る。純情 の精 神 とは 所 謂 セ ンチ メ ンタ リズム と同一 の ものではな い。或 いはまた苦労 を しない弱 々 しい善良 さ や悪 意 のない感傷 で もない。 さ ういふ軽薄低 弱 な境 地 よ りは遥 か に遠 い高度 に純粋 な精 神 で あ る。感動 の純一 な状態 の真実 を常 に矢 は ない最 も高 次 な清潔 な精 神であ る。(同書) この批評 に全幅 の賛意 を表 します。ただ い ささ か補足 させ て下 さい。 氏の訓 は シラムで した。「知 るれや」- この訓 に よって右評 言 は内実 を獲得す るのではあ ります まいか。- か くて-歌 は人 間性 の根底 に位置 づ け られ , そ の純 情 はいやが上 に輝 きま きる と思わ れ ます。 それはセ ンチ メソタ リズムか らは遥か に 遠 く,は るか に深 い ものです。そ の深遠 さは人 間 存在 の真 実 に 由来 します。 こちたい理屈 の所産 で はあ りませ ん。生 まれ なが らに してな り出でた高 潔 さです 。 この よ うな境位 に立つ主題歌 の一連 は 単 な る甘 さに終わ りませ ん。無 限 の共感 を呼び ま す。わ れわ れが こ こに読み とるものは一片 の言葉 ではない のです。心 情 その もののひ らめ きです。 久遠に朽 ちない光輝 です。 注 (1)「問人皇女」(日本文学昭和38年3月号)です。筏, 単行本 「文学 と歴史のあいだ」(1)に収録 さ れ ま し た

(2)沢潟氏注釈が例証とするところは, ねる わす 人の所寝うまいは不寝て・・・・・・(2369) J.も A山 人の所見表は結びて人の不見-- (2 851) とくる --・吾が下紐の所解日あ らめや (297 3 ) たナ くる --言霊の所佐国そ・-- (3254) 初め2つは自発に近いものです。不寝 ・不兄と対 照させたこと自明です。 3番 目は完全な自発。最後 も,自然に助力が行なわれる意識からの用字でなか ったでし.tうか ? (3)(6)佐竹昭広氏の 「万葉集短歌字余考」の次の項に 該当します。 第3則 句中に,ヤ行書があり,その上に くる 音節の尾母音が

(

i)・(e)である,即ち,ヤ行子音(j) がその上の音節の尾母音(i)・(e) と相接する時,-・・・その字余 りは差支へない。(文学14の5) (4)寿命を次のものに関係づけています。 君代の 「岩」 桧机 ・美夫君志 ・左千夫新釈 ・ 石川氏短歌選 ・女性の歌 「岩」を名にもつ岩代 墨縫 ・野謂新考 ・正

・全釈 ・豊田氏新釈 ・精考 神性をもつ 「磐代」 折 口氏口訳 ・全注釈 ・小 学館本 これは全 く驚きです。それ らが重視されるだけ 「草」の影は うすれます。一歌で一番重要なのは その 「草」ではないでしょうか ? 初二句は.磐の一語にかかって ゐ る。(窪田 氏評釈) これでは命の認識どころの話ではあ りません。次 の評言を取 り下げにしてしまいたいほどです。 心深いものではあるが.明るくて,おほらか で,おのづから品位の高いものである。(同書) (5)西村真次氏は集中の草木を結ぶ例歌を挙げて解明 しています。 草或は枝を結んでゐもが,これについて国学 者は様々の説明を下 してゐるけれ ども,マジッ クとしての解決を試みたものはないa草或は枝 を結ぶことによって,相離れている両性を結合 し,遠ざかって行 く人を近づかしめ,短か くなっ てゆ く生命を伸ばそ うとい うのであって--0 (同氏文化史的研究)

(

「か く待たゆれば」

難波天皇妹,奉上在山跡皇兄御歌一首 まちよき またゆれは 一 日こそ人も待吉長きけをかく所得者あ り

かつ

ましじ(484) 上 の訓 がはば通解 にな っています。次 の よ うに 異説 がないではあ りませ ん。 - 6

(8)

7-(1)「符告」の本文に従 ってマチツゲとよむ旧訓 が捨てられていません(1)0 (2)四句の 「所得者」の訓は多分に不安定です。 それは釈義 ともつれあって,やや こしい問題にな っています。 論点は以上です。ついでに一言 してお きます。 「長 きけを」の ヲについてです。 「長 きけを」は待つ 目的語ではあ りません。第 二句の 「人 も」が 「待ち」の 目的 語 だ った よ う に,第三句以下で も待たれるのは 「人」です。「得 たゆれは」の訓をとるならば

,

「人が待たれ る の で,私は」のようになるのです。 「長 きけを」は 「一 日こそ」 と対応 し て い ま す。共に副詞句です。「長 きけを」は 「長い 日数 の間」 と訳 しま しェうか。最近次の親切な解説が 示 されました。 ヲは経過時間を表わす。(小学館本) 旧訓マチツゲを現に支持 して譲 らないのは土星 氏です。 ヒ トは作者の心には特定人を指 して居 るの であらう。マチツゲはコソの結びで,特 ちつ づけるの意。「告」を 「吉」に作 る本に よれ ばマチ ョキであらうが,それでは全体がひど く軽 く感ぜ られ,マチョシといふ心持 も受け と りに くい。(間氏私注) 次の例歌に教すれば

,

「マチョシといふ心 持 も 受けとりに くい」 ことなど,さらさら あ りま せ ん。ひどく軽い,- これ も主観的なものに思わ れます。 青丹 よし奈良の大路は行 きよけどこの山道は 行 きあ しか りけ り(3728 中臣宅守) 「人 も」の ヒ トが 「特定人を指 して居 る」 こと はもちろんです。 アナタと二人称でい うべ きところを,汎称 たる 「人」の語をもって したので あ る。(森 脇氏解釈 と鑑賞) これです。端的には皇兄その人をさ し て い ま す。その人を念頭において,お会いしたい 「いと しい方」ほどの気持 ちで受け とるべ きです。その とき 「人 も」のモが生 きてきます。 「書」又 は 「告」に作 る所を 「去」の誤 り としてマチ ヌレと訓むのは感情の上からは最 も勝 って居 ると思ふ。(私注) これ も個人的 ・主観的な視点か ら論述 していま す。マチツゲの生碇 さが気にされて当然です.マ チ ヌレはもはや問題外 といわ ざるをえません。 2 句まで と,それ以下 との照応は半殺 し の 有 様 で す。 ここで-,二句に訳文を与えます。その上で三 句以下の検討を始めます。 一 日だけだ ったらい としい人をさえ待ちや すいのですが,-・ -次の問題点の手始め として,第四句の訓を列挙 します。

a

カクマタル レバ 旧訓 ・拾穂抄 ・代匠記 ・童 蒙抄 ・略解 ・折 口氏 口訳 ・金子氏評釈 ・総 釈石井氏説 ・久松氏現代語訳 ・全注釈 ・私 注 a'ヵクマタユ レ,: 佐 々木氏新訓 ・定本 ・符号 本 ・森脇氏解釈 ・沢潟氏 (大成12・注釈) ・集成 a"ヵクマタユル- 地平社版・中西氏・講談社本 bカクノ ミマテ,: 玉の小琴 ・古義 ・井上氏新 考 ・川田氏女流歌人 ・総索引 b'ヵクノ ミマタ,,' 全釈 ・新校 ・峯岸氏 口訳 ・ 大系 ・塙書房版 ・小学館本 ・久 松 氏 秀 歌 (講談社版)・旺文社文庫桜井氏訓 Cカクシマタレバ 元 ・細 C'ヵクシマクエ,: 佐 々木氏評釈 ・古典全書 dカクマタサエ/: 武田氏皇室歌人 b類のノ ミは 「所」を 「耳」の誤写 とみたので す。そ うした本文は一つもあ りま せ ん。「所」の ままですなおに理解できれば 自然消滅する運命で す。 のこる訓は

a

類が圧倒的です

。cc

'

dはぞっと しません。それを覚悟で こころみた訓です。ア リ カツマシジの推量にあわせて未然形を置 こうとし たのです。b'が支持をえているのも,同 じ理由に よるものと思考 します。 ここで検討の順序を確認 しましェう。まずa頬 が成立可能か どうかを明かにすることです。不可 能 とあれば,第二段階 として

,bcd

類の検証に 入 ることになるはずです。 早速

a

類の 「所得者」の釈義に当た ります と,

(9)

(1)得た されては 久松氏現代語訳 得た され ると 全注釈 ・沢潟氏注釈 ・集成 (2)待ってゐなければならぬ とす ると 折 口氏 口 訳 (3)待たれ るのでは 金子氏評釈 待たれ るな らば 総釈石井氏説 待たれ て 私注 待たれ るとす ると 森脇氏解釈 と鑑賞 (1)はdの訳にな っています。(2)も本意か らずれ ています。(3)を選ぶべ きです。すでに幾 日も得た されてい るのであって,その点,「待たれ るので」 とすべ きです。それを受けて,「もう我慢が 出 来 そ うにない」 ところへ現に来ています。それが ア リカツマ シジであ りま しょう。 なお一言 してお きます。訓はa'のマタユ レノミを 選ぶべ きです。 自発 の助動詞ルが集中ではユ となる事が通 例であ る。-・・リレの用ゐられた ものは仮名書 つ か は さ

お も は ろ の初 出は 「 都加播佐礼」(894)で,「於毛波流 わ す ら れ ず 留」(3372),「和須良礼受」(4322)な ど二 , 三あ るに過 ぎず,今は時代 も古 く,ユの方が よい。(沢潟氏注釈) これに従 うべ きです。a''は 「この ように待たれ ることは」 の意で,切実 さを欠 きます。 四 ア リカツマシジの語釈 は橋本進舌博士に負って います。主題歌において も定訓の座 を 動 き ま せ ん(21。 マ ジの古形がマシジである--。推量の助 動詞 マ シに否定のジがついた ものがその源 を なす ものであろ うと思われ る。(大系) 語の成立 はその ようだ ったに相違あ りません。 玉 くしげみ宝の山のさなかづ らさ寝ずはつひ にあ りかつま しじ(94 鎌足) このア リカツマシジは,- とても生 きてはい られないで しょう・--と,未来にかけた物言いで す。 しか し,マシ ・ジ共に,必ず しも未来の推量 に限られない ように,マシジも未来にわた らない 場合があ るのです。 やすみ LL吾が大君の 夕されは見 し給ふ ら し 明け来れは問ひ給ふ らし 神岳の山の黄 葉を 今 日もか も問ひ給 はま し-- (159 持統 天皇) 八百 日ゆ く浜の真砂 もわが恋にあにまさらじ か沖つ島守 (596 笠女郎) いずれ も未来にわた りません。現在の推量にす ぎません。 明 日香川水ゆ きまさ りいや 日けに恋の増老あ りかつま しじ(2702) マサ レバの旧訓は姿を消 し,考以来 マサ ラJIが 採用 され,現在では武 田氏の次の見解 も立ち消え です。 上三句の序に よって も,現にま さ りてい る とす る方が よいだろ う。(増訂版全注釈) 同感です。三句に及ぶ修飾が第三句につ らなっ ています。それが今後の想定 (まさらば)だ った ならば実観の薄 い ところに とどま ります。長大な 修飾は実感 (まされは) の所産だ ったはずです。 その時,-歌の中心である第五句に も実感が宿 さ れます。やむにやまれぬ訴 えゆえに-歌 は歌われ たはずです。すなわち,武 田氏 と共に旧訓に復す べ きです。 -- 日ま Lに恋が増 さったので,なが らえ 得ない ことだろ う。(武 田氏上掲書) この訳文は拙劣です。次の よう 改 め ま し ェ う。 --恋がつのるので生 きてい られそ うにもな いのです。 同様に して,主題歌の場合,通解の 「生 きてい られないで しょう」は問がぬけています。 --・こんなに待た され ると,生 きてゐられ よ うとは思ひません。(全注釈) 四,五句 とも忠実な訳になっていません。 --か う待たれては居 ることが出来ない。 (私注) ・いま現在の苦 しみを訴 えている点 はいいのです が,次の ように補正 した らどうで し ェう。 -- こんなにあなたが待たれ るので私は生 きてい られそ うにもないのです。 さて,以上の結論 として

,a'

を選ぶ ことになん らの支障をきた しません。 しか し,他の訓釈が さ らに任だ ったならは一考を要 します。 カクノ ミマタパの場合,「耳」の改字は別 と し て,さて ど うか といいますに, 長い 日数 をこんなに待 ってばか りゐるなら ば,堪 えられないであ らう。(全釈)

(10)

未来の推量に終始 していて,訴 えるものに欠け ます。 カタノ ミマテ/:は,- き り返 されないで しェうか ? では,待たねはいいで は な い か, と。待つ まい としても待たずにい られないのがマ タユ レ,Iです。一見弱そ うに見 えて,実 はぎ りぎ りなものが ここにはひそんでいます。 カクシマタエバは, この ように今後 も待たなけ ればならないな らば-- と,未来の推定に主眼が おかれ,現在の嘆 きは二次的なもの とな ります。 この ように して,マクエ レノミを越 えるものはな く, ここに決定 をみ るのです。 五 題詞に 「難波天皇」 とあ り,仁徳天皇が当てら れています。古事記に よると,天皇には異母妹が

1

0

人以上います。その一人が題詞の 「天皇妹」に 撮せ られ ます。 それを八 田皇女 と推定す るのは土 屋氏です。 しば らく氏の論に聞 きまし ェう。 八 田皇女が後宮に入 られたのを怨んで,皇 后磐暖が山城に退身 され,それを慕 って天皇 が山城に赴 かれた--。山城 と大和 と臭 って はゐるが,或は其の物語に関連 して,か うし た歌 も語 り伝- られた ものではあるまいか。 巻二巻頭の磐媛皇后の作が伝説的の ものであ るのは共の場合に述べた如 くである。此の作 な ども多分にさうした伝説的要素を有す るも のであら う。作風か ら言へは民謡的色調が濃 い もの といへ よう。但 し相聞の歌 は,殊 に比 の巻の次 々に見 えるものの如 きは,作者 を明 記す るものにも民謡的なものが 少 く な い。 (私注) いささか引用が長す ぎました。-歌を伝説的 ・ 民謡的に眺め る傾向を一文に代表 させたか ったの です。多かれ,少なかれ,それが通念になってい ます。 作品そのものは,別 して伝説的で も,民謡的で もあ りませ ん。難波天皇を孝徳天皇 と解 し,「妹」 を聞入皇后,皇兄を中大兄皇子に擬 したならば, -歌 は現実の世界に息を吹 きか えします。 古い調子の歌であるが,仁徳天皇の時代 と いふが如 き古 さはない。歌か ら言 って も,守 は り孝徳天皇の時代 とす るのが適 当 で あ ら う。(全注釈) 全 く同感です。 時代が余 り古す ぎるとか,歌柄が ど うだ と かい って, これを救ふのはど うであ ら うか。 (総釈石井氏説) この見地に質 しません。伝説 ・民謡の ヴェール をかけた くないのです。 ヴェールは生 きた肌を見 えな くします。 まして,生 きた鼓動はったわ って 来 ませ ん。 二段か ら成 ってを り,怨言を述べて,よく その意 を致 してゐる。描写がないので抽象的 に叔 し,迫力に欠ける所がある。(全注釈) 巻二巻頭の次の磐媛歌に くらべた ら激越 さにお いて劣 るところがあ りましょう。 君が行 きけ長 くな りぬ山尋ね迎-かゆかむ待 ちにか得たむ (85 磐媛) か くはか り恋ひつつあ らずは高山の岩板 しま きて死なましものを (86 同) しか し,主題歌には心理 のあやが生 きい きと写 されています。言辞が先走 らず,心情が宿 ってい ます。 平 明率直で,何の粉色 もないが,真実その ものである点に人を動かす力がある。女性 ら しいつつましさもよく,二句切れで引締 って をるの も,古趣がある。(佐 々木氏評釈) 同感です。第10・ll・12歌 と底流を共に してい る,- このように評 した ら強いた ことになるの で しェうか ? 注 (1)マチョキ以外の訓を示します。 (a)マチツゲ 旧訓 ・拾穂抄 ・童蒙抄 ・安藤野雁新 考 ・折口氏口訳 ・金子氏評釈 ・私注 (b)ヒトヲモマテシ (人母待志) 音義 ・川田氏女 流歌人 (C)ヒトモマツベキ (人母待倍吉) 井上氏新考 (也)は,助詞ヲを補読させ,モだけ 「母」と表記す るのは不自然です。「志」の改字も暴挙です。(C)ち 目にあまる誤字説です。 (2)ア1)カツマシジが決定的で,他を蹄みるに及びま せん。念のため列挙しますと. アリユタユズモ 旧訓 ・拾地抄 ・代匠記 アリガテナクモ 考 ・略解 ・古志 ・折口氏口訳 ・ 川田氏女流歌人 アリガテヌカモ 井上氏新考 - 70

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