美徳も悪徳の肥やし
―〈X〉と〈非X〉が織りなす『ブラス・クーバスの死後の回想』の物語世界―
武田 千香
はじめに
1. 5コントをめぐるドラマ―行動の表と裏 2. 〈X〉⇔〈非X〉の物語世界
3. ウマニチズモ 4. 究極の〈非X〉
むすび
はじめに
ブラジルの19世紀の作家マシャード・デ・アシス(Machado de Assis, 1839-1908)の文学の 特徴としてよく挙げられるもののひとつに、相反する概念の対立を基軸にした叙述がある。た とえばカンジド(Antonio Candido)は、理性×狂気、現実×想像をマシャードの文学の独自性 に挙げ1)、ソウザ(Ronaldes de Melo e Souza)は、マシャードのナラティブには、「苦と楽、神 と悪魔、善と悪、生と死、笑いと涙といった対立を自らの中に結集する人間の矛盾」を捉えら れるだけの多視点が備えられていると言った2)。このような叙述は、マシャードが長編小説を 手がけた当初から意識的に取り組んだもので、最初の小説『復活(Ressurreição)』(1872)の序 文では、「私はある状況の素描と二つの異なる性格の対照性を描くことを試みた」(Machado, 2008c:236)と述べている。
本論は、マシャードのその取り組みが、『ブラス・クーバスの死後の回想』においてどのよう な展開を見せ、その物語世界の創出にどのように貢献しているかを明らかにするものである。
1. 5コントをめぐるドラマ―行動の表と裏 1.1. エゴというコインの表裏:善と悪の可逆性
『ブラス・クーバスの死後の回想』には、金の拾得という出来事に対し、主人公ブラス・ク ーバスがまったく逆の行動をとるエピソードが出てくる(第51章~第52章)。ある日、自宅前 で半ドブラ金貨を拾った彼は、いったんはそれをポケットの中にしまったものの、良心と対話 した結果、警察に届けた。だが、数日後に金の包みを拾ったときには正反対の行動をとったの
である。同じ金の拾得という出来事に、なぜブラス・クーバスは正反対の対応をしたのか。も ちろん金額の差は小さくなかった3)。だが、ブラス・クーバスにはそれ以上に、どうしても金 貨を警察に届けなければならない理由があった。彼は、その前日の晩、今は人妻となっている 元婚約者のヴィルジリアと舞踏会で再会し、恍惚となってワルツを踊った挙げ句にいい感触を 得ていたのである。次の番の男性に引き渡しながら彼は「俺のもの!」と呟いている。それと 同じセリフを、やはり金貨を拾ったときにも言っているが、それは彼にとっては恋愛も金も同 等の基準で測れるものであることを示している。人妻との道ならぬ関係を予感した後ろめたさ を、彼は拾得物を警察に届けるという善行で相殺したのである。別の言い方をすれば、一方で 犯した〈非・道徳〉を、〈道徳〉で償ったとなるだろう。ブラス・クーバスは、人間の心のこう した動きに「窓の同等性の法則」と名づけている。表向きは善行でも、その裏には悪行が潜み、
元をただせばいずれもブラス・クーバスのエゴという同じコインの両面だったというわけであ る。
このように『ブラス・クーバスの死後の回想』において対立概念は、対立しないものとして 描かれる。ブラス・クーバスが死ぬ直前に思いついた心気症の特効薬「ブラス・クーバス膏薬」
の発明についても、彼は次のように言う。
私の案には、メダルと同じように二つの面があり、一方は世間に、もう一方は自分自身 に向いていた。つまりひとつには慈善事業と利益、もうひとつには名声への渇望があった。
言うなれば――名誉欲である。(Machado, 2008a:623)
1.2. 人間の性格から行動へ、行動から社会へ―『復活』から『ヤヤ・ガルシア』まで 以上のように最初の小説『復活』の序文で抱負として掲げられた「二つの異なる性格の対照 性」は、『ブラス・クーバスの死後の回想』においては可逆的なものになっている。ここでは『復 活』から『ブラス・クーバスの死後の回想』に至るまでの、その扱われ方の変化を追ってみよ う。
『復活』は、非常に疑念深い男性主人公フェリックスが未亡人のリヴィアと愛し合い、婚約 まで至ったものの、彼の異常なまでの嫉妬と、常につきまとう疑心暗鬼のせいで破局を迎えて しまう物語である。この小説でマシャードは、予告どおりフェリックスの疑い深い性格とリヴ ィアの信頼に満ちた性格を対比させ、その疑念と信頼が戦った結果、最後には疑念が勝利する という筋立てを作った。この小説で概念の対立は、それがそのまま筋になっている。
作中人物に対照的な性格を設定する手法は、次の小説『手と手袋(A mão e a luva, 1874)』で も踏襲される。主人公のギオマールは、容姿、性格とともに非の打ちどころがないが、貧しい
出自の女性で、彼女との結婚をめぐって三人の男性が競う。とはいっても争うのは主に二人で、
とことんギオマールを思い続ける情熱的でロマンチックな弁護士エステーヴァォンと、富裕な 叔母の助言を受けてギオマールとの結婚を望む主体性のない消極的なジョルジである。ところ がギオマールが選んだのはそのいずれでもなく、決して豊かではないが、非常に冷静で現実的 で将来有望な商人で、なおかつ政界進出も果たしたルイス・アルヴェスだった。『復活』と異な るのは、前の小説では考慮されていなかった社会的な身分の違いや立場といったポジショニン グが、作中人物同士の関係に設定されていることである。このため『手と手袋』の作中人物の 性格を特定しようと思ったら読者は、生来のもの以外に後天的なものをも考慮に入れざるを得 なくなる。たとえばギオマールの描写では、まずは幼くして両親を亡くし、隣家の富裕な少女 たちを塀越しに羨ましげに見ながら育った生い立ちが語られ、そのうえで彼女の「優しくエネ ルギッシュで、愛情深いしっかり者」4)という性格が伝えられる。したがって読者は、おのず からそれらすべてを考え併せて、ギオマールという人物を総合判断することになる。また、た とえばジョルジの家の食客Mrs.オズワルドと養女のギオマールとの関係に見られるように、作 中人物は社会的な立場を獲得しているため、人間関係を築く際には互いの性格ばかりでなく立 場にも配慮するようになり、両者の間には心理的な駆け引きが生じている。性格はもはや単純 な対立関係では語れなくなっている。
第3作目の『エレーナ(Helena, 1876)』の主人公エレーナも、やはり貧しい出自の女性である。
彼女は、ある裕福な家庭の主が死んだときに、その男性の私生児であるとして、遺言によって その家に娘として迎え入れられる。引き取られた家の長男のエスタシオと心を寄せ合うが、当 然、血のつながった兄と妹の恋は許されず、二人は互いに別の人との結婚を考える。最後には 二人に血縁関係がないことが判明するものの、家父長の遺言という絶対的な縛りが優先され、
エレーナはそのまま娘としてその家に留まる。この結果、エスタシオとの結婚が成らなかった ばかりでなく、彼女は自分が野心からその家に入るよう自分が仕組んだと思われているのでは ないかと疑心暗鬼になり、家の人たちから善意を受ければ受けるほど、その強迫観念が強まり、
最後には衰弱死してしまう。『エレーナ』で新しく加わった要素は、発話や行動の状況である。
たとえばエレーナは、「やさしく、愛嬌があり、頭がよい」うえ、「その時々やあらゆるタイプ の精神に臨機応変に対応できる貴重な技を持っている」(Machado, 2008d:403)とされ、作中人 物の性格は、先天的な性格とポジショニング以外に、発話や行動が為される際の状況、そして、
発話の際の当事者同士の関係や立場が加味された複合的なものとして扱われている。
第4作目の『ヤヤ・ガルシア(Iaiá Garcia, 1878)』になると、性格は社会的な環境と相まって、
行動や生き方にまで影響するようになる。『ヤヤ・ガルシア』に登場するのも、やはり裕福な生 まれではない女性のエステーラである。彼女はエレーナよりも誇りが高く、貧者としての矜持
を持ち併せた人物として設定されている。父親が仕えていた男爵家の長男のジョルジと互いに 惹かれ合うが、どうせその気持ちに素直に従い結婚したところで、彼ら同士の力関係が解消さ れるわけではないことを見抜き、敢えてその愛を拒絶する。やがて彼女は、社会から距離を置 いて遁世したルイス・ガルシアと、愛のない理性で選びとった結婚をする。先妻の娘ヤヤを育 て、何の因縁からか、かつて自分が心を寄せたジョルジに恋をしたその義娘の結婚に力を貸し、
それを見届けたところで自分はサンパウロへ移り住み、教師となって自立をする。このような 人生をエステーラは、決して自分の思いや感情を表に出すことなく、無表情に淡々と生きてい く。このため『ヤヤ・ガルシア』には、それまでの小説にはなかった複雑な心理的な駆け引き や思惑、そして利害が描かれることになる。人間の行動の裏に潜む動機の描写および解説こそ が、それまでの三作にはなかったこの小説の面白さとなっている。
「異なる性格の対照性」を通して人間の「情念や性格の分析」5)を行なおうと小説を書き始 めたマシャードのプロジェクトにおいて性格は、作品を重ねるごとに先天的なものから社会的 な境遇も含めたものへと変化し、さらには人間の発話や行動の発生状況やその裏に潜むものへ と、どんどん深まっていった。『ブラス・クーバスの死後の回想』の拾得物をめぐる正反対の行 動は、この延長線上に生まれたものなのである。
1.3. 弱肉強食の原理と諸概念の相対性
再び『ブラス・クーバスの死後の回想』の5コントの話に戻ろう。5コントをめぐるこの話 は、相次ぐ脱線と線状ではない筋のせいで断片的な印象を与えるこの作品の、全体を貫く貴重 な糸の一本になっている。
ブラジル銀行へ預けられた5コントは、その後、ドナ・プラシダの手に渡った(第142章)。 ブラス・クーバスはそれを老後のパンのためにあげたというが、もちろんそれも純粋な慈善行 為ではない。ヴィルジリアと愛人関係になり、彼女と落ち合う家の管理人が必要になった彼は、
その仕事を嫌がるドナ・プラシダに強引に押しつけた。その結果、罪悪感に苛まれるところと なり、それを相殺するために渡したのだった。5コントはこのときもブラス・クーバスのエゴ の帳尻合わせのために利用されたわけである。断われば野垂れ死にするしかなかったドナ・プ ラシダの弱みにつけ込んだと良心は責めたが、彼は「たしかにそのとおりだが、ドナ・プラシ ダだって、もしあのままだったら、みじめな老後を迎えたはず」と自己正当化する。そんな当 時の自分の葛藤を振り返り、語り手のブラス・クーバスは、「悪徳も、多くの場合、美徳の肥し になる」(第76章、(Machado, 2008a:701))という結論を導く。
しかし、そんな5コントもドナ・プラシダを救うことはなかった。最終的な5コントの行方 は、ドナ・プラシダが慈善病院で迎えた哀れな最期の直後に、たった数行から成る一章にまと
められて語られる。以下に引用するのは、その全部である。
第145章 単なる繰り返し
5コントについては言うまでもなかろうが、近所の石工が、ドナ・プラシダに気がある ふりをして言い寄り、彼女の感覚、いや、虚栄心かもしれないが、呼び覚ますことに成功 して、結婚した。数ヶ月後、事業話をでっちあげ、債権を売って現金を持ち逃げした。書 くまでもない。まさにキンカス・ボルバの言う犬の喧嘩。単なる先章の繰り返しである。
(Machado, 2008a:749)
5コントは、ドナ・プラシダの再婚相手に持ち逃げされたのだった。さて、最後の部分にあ る「キンカス・ボルバの言う犬の喧嘩」に注目しよう。「犬の喧嘩」とは、ある日キンカス・ボ ルバとの散歩しているときに出くわした、ろくに肉もついていない骨を奪い合う犬同士の喧嘩 を指している。まったく気にかけなったブラス・クーバスとは対照的に、キンカス・ボルバは それに「美しい」と言って見入った。単純に考えれば、ブラス・クーバスがここでこの二つを 重ね合わせたのは、ドナ・プラシダが夫に金を持ち逃げされたのが、負けた犬が喧嘩の末に骨 をとられたのと同じで、人間社会も犬の社会と同様に弱肉強食の原理で成り立っていること、
そして歴史はその「単なる繰り返し」に過ぎないことを伝えたかったからと解釈できる。だが、
このエピソードの解釈は別の次元にまで拡げなくてはならない。第141章でキンカス・ボルバ はこう言っている。
この地球のどこかほかのところへ行けば、この光景がもっと壮大になることを、(キン カス・ボルバは)忘れずに指摘した。そこでは人間が、骨やもっとくだらないものを巡っ て犬と争っている。戦いは、人間の知性が絡むからなお複雑になり、そこにはさらに幾世 紀にもわたって蓄積された狡猾さが加わるなどなど。(Machado, 2008a:747)
この部分で注目すべき点は2つある。まずはこの犬の喧嘩が、単なる犬の次元を超えて「地 球のどこかほかのところへ」も目を向けて考えるべき問題、すなわち地球規模にまで敷衍して 考えなくてはならない問題であること、そして喧嘩は犬同士ばかりではなく、犬と人間の間で も起こりうることである。まず犬と人間の喧嘩という点に関しては、たしかに学を身につけ、
十分な資力を手にできる恵まれた環境に生まれついたブラス・クーバスと、司教座の聖具保管係 と菓子作りの女性が睦み合った結果この世に産み落とされたドナ・プラシダ(第74~75章)の
間には、人間と犬ほどの社会的格差があり、それが人間と犬に喩えられているとも考えられる。
また、もしかしたらドナ・プラシダと、5コントを持ち逃げした夫の間にも、それだけの差が あったのかもしれない。次にこれを地球規模で考えれば、「地球のどこかほかのところ」で行な われている「幾世紀にもわたって蓄積された狡猾さが加わ」った人間と犬の喧嘩とは、当時の ヨーロッパの列強が世界中で繰り広げていた帝国主義的な侵略と搾取にほかならない。幾世紀 にもわたって知恵を積み上げた、財力も豊富なヨーロッパと、1822年に独立し、ようやく近代 国家の体裁をとり始めたばかりのブラジルでは、考えようによっては人間と犬ほどの開きがあ ったともいえる。もちろん犬に喩えられるのはブラジルばかりではない。マシャードが他の小 説や評論で当時のヨーロッパ諸国の帝国主義を批判していることを考えれば、これがその時代 の国際情勢全体を念頭おいて書かれた可能性は十分にある6)。
だがそのブラジルも、近代化の道を歩み始めるや西欧に倣い、南米大陸内でパラグアイに侵 攻した(パラグアイ戦争)。強者は弱者を搾取し、犠牲になった弱者はそのまた弱者を食い物に する。強弱とは相対的な関係に過ぎず、絶対的な強者や弱者はいない。奴隷プルデンシオのエ ピソードを通して、ブラス・クーバスが言おうとしたのも、そのことであろう(第68章)。プル デンシオとは、かつてブラス・クーバスが幼少のころに馬にして遊んだクーバス家の奴隷であ る。後に彼はブラス・クーバスの父親によって解放されたが、ある日、ブラス・クーバスはそ の彼と思いがけない再会を果たす。町を歩いていたら、人だかりがあったので近寄ってみると、
プルデンシオが、仕事を怠けたという理由で情け容赦なく黒人奴隷を鞭打っていた。彼は解放 された後で奴隷を購入し、「子どもの頃に受け取った金額に多大な利子をつけて返済してい」た のである。「プルデンシオにとっては、その行動を他人に転じてこそようやく、昔、受けた鞭打 ちから自由になることができた」のである。強者は弱者を搾取し、搾取されたその人間はさら なる弱者を搾取する。言ってみればそんな搾取の連鎖でこの世は動き、人はみな他人を「馬に して」生存競争を勝ち抜いていく。それを思えば、支配者も被支配者も相対的な関係にすぎな い。第153章でブラス・クーバスが語る、夢に出てきたキャンタベリーの大司教をめぐる話も、
この視点から解釈できるだろう。キャンタベリーの大司教がペトロポリスの一介の徴税人にな った夢を見た後で、そういう場合には大司教という存在が徴税人を追い出すのか、それともそ の二人が共存できるのかなどと、いろいろな空想をめぐらせたことを語る箇所である。彼はそ こで、そんなことは現実ではいくらでもあり得ることで、「要は、一人の大司教の中に、二人の 大司教――つまり大司教の顔と、別人の顔――が共存できることに気づけばいいのだと結論づ けている。ここでブラス・クーバスが問題にしたのも、人間の立場の相対性なのだろう。
弱肉強食の原理と、こうした相対性はブラス・クーバスの語り全体の根柢を流れているもので ある。
2.〈X〉⇔〈非X〉の物語世界
2.1. パンドラによるイニシエーション
その弱肉強食社会の原理と諸価値の相対性は、第7章でブラス・クーバスが出会ったパンド ラが唯一の掟として挙げるエゴイズムの、「ジャガーが子牛を殺すのは、ジャガーの発想が、ま ず生きることを考えるから。だから子牛の肉は、柔らかければ柔らかいほどいい。それが万物 の掟」(第7章、Machado, 2008a:634)という教義に通じる。パンドラにブラス・クーバスが出 会ったのは、死ぬ間際の意識錯乱状態の中でだった。現代においてもブラジル文学全体から見 ても有数の名場面とされる、そのブラス・クーバスの体験が記された第7 章「意識の混濁 (O delírio)」は当時から名高く、ポルトガルのレアリズムを代表する作家エッサ・デ・ケイロス(Eça
de Queirós, 1845-1900)までが好んで暗唱したことは、よく語られるところである7)。
死の床で意識が遠のく中、一匹のカバが現われ、ブラス・クーバスは「世紀の源流」へ連れて いかれる。時代をひたすら遡り、着いた先は真っ白な大空間だった。突然、ひとりの女性の姿 が現われる。聞けば名を「自然またはパンドラ」だと言い、苦を与える母親にして敵だと言う。
ブラス・クーバスはそこで、女性から「無の快楽が待っているわ」と死にいざなわれるが、思わ ずあと数年生かせてくれと頼む。女性は「そんなわずかな生の一瞬」を何のために生きるのか、
「食いつくし、あとで食いつくされるため」かと問うた後で、ブラス・クーバスを山頂に案内 する。そこで見せられたものはあらゆる世紀と人類のパレードで、帝国同士の騒乱、欲望と憎 悪の闘争、生けるものと事物の相互破壊が性懲りもなく繰り返し現われた。言ってみればそれ は全世紀の縮図だった。
目の前を行くすべてが見えた、――苦痛と悦楽、――栄光という名のものから、惨苦と いう名のものに至るまで。愛が惨苦を増殖するのも見えたし、惨苦が弱さを増幅するのも 見えた。そこへがつがつと貪り食う強欲がやってき、続いて、燃えさかる怒り、涎を垂ら す妬み、汗まみれの鍬やペン、野望、飢餓、虚栄、憂鬱、富、愛。そのすべてが人間を、
まるでおもちゃのガラガラのように揺すり、ぼろ布のように、破滅に追い込んでいった。
それらは、ひとつの悪がとるさまざまな形態で、今、臓腑に噛みついたかと思えば、次は 思考に噛みつき、永遠にそのアルルカンの衣装を翻しながら、人類の周囲をうろつく。苦 痛は、いっとき後退しても、代わって現われるのは、夢なき眠りともいうべき無関心か、
苦痛の異母兄弟たる快楽だ。すると人間は、打ちのめされ、反抗的になって、事物の宿命 に先駆けて走り出し、朧気で掴みどころのない幻像を追いかける。つぎはぎの幻像。雲を つかむような端切れに、不確かな端切れに、目に見えない端切れ。これらすべてが、架空 の針によって、心もとないステッチではぎ合わされている。そして、この幻像は、――こ
れぞまさに幸福という妄想、――人間を永遠にかわし続けるか、あるいは、裾だけをつか ませ、人間がそれを胸に巻きつけると、嘲るように笑い、夢幻と姿を消す。(Machado, 2008a:634-635)
こんな哀れな人間社会を見せられて、ブラス・クーバスは呻くことしかできなかった。生と は食い尽し、食い尽されることで、幸福や希望もしょせんは人間を闘争に掻き立てるための神 話にすぎず、人間はただそれを虚しく追いかけ、惨めに果てるのみである。その光景は「残酷」
ではあったが、「面白」くもあり、ブラス・クーバスは突然笑いだして、パンドラに「腹を割っ て、私を呑み込んでほしい」と頼む。だが、パンドラは、その光景を最後までブラス・クーバ スに見届けるよう強いた。
世紀は、相変わらず猛スピードで、渦を巻きながら過ぎていき、世代は世代に重なり、
(…)どれも最後は、時間どおり、きっちりと墓に入っていく。(…)私は、じっと目を 凝らし、来ては過ぎてゆく齢を見守った。そのころにはもう落ち着き払い、覚悟も決まっ て、なにやら愉快といってもいい気分になっていた。そう、愉快。各世紀には、それなり の光と陰があり、倦怠と闘争、真実と過ち、そして、体系や新しい思想や新しい幻想がぞ ろぞろと続いてきた。それぞれの世紀が、春の新芽を吹かせるが、やがては紅葉を迎え、
再び若返る。このように生には暦のような規則性があり、その傍らで歴史や文明が作られ、
裸で武器を持たなかった人間が、武器を手にするようになり、衣服を纏い、掘っ立て小屋 や宮殿を建てた。貧しい村や百戸の家から成るテーバイを開き、学問を打ち立てて探求し、
芸術を創作しては称揚し、雄弁家なり技術者なり哲学者なりが現われて、地球の表面を駆 けずり回り、地球の懐の奥まで降り、雲の層まで昇り、そうやって神秘的な作品を創り上 げ、それで以て生きるための必要性と孤独から来る憂鬱を紛らわした。そろそろ私の目も 見飽きてきて、集中力を失っていたところへ、ついに現世紀がやってくるのが見えた。そ の後からは未来がやってくる。現世紀はすばしっこく抜け目なく、快活に自信満々にやっ てきた。多少の乱れはあるが、堂々と物知り顔でやってきたが、最後はやはり最初の世紀 と同様に、惨めな終わりを迎えて過ぎていき、それ以降の世紀もやはり素早く、同じよう に単調に過ぎていった。(Machado, 2008a:635-636)
つい先ほどまで生に執着していたブラス・クーバスだったが、このときを境に世界観を大きく 転換し、いよいよ生に幻滅して人間社会を見限ることになる。それまでの理想は音を立てて崩 れていった。歴史は血なまぐさい闘争の連続で、制度も科学も学問も芸術も砂上の楼閣に過ぎ
ず、進歩も幻想以上の何ものでもなかった。何よりもそこで見せられた生は、果てしなく流れ る永遠と永遠の挟間に起こるほんの一瞬の小さな出来事でしかなく、人生とは単純に生と死を 単純に繰り返すルーティーンだった。こうした実態を見せつけられたことで、ブラス・クーバ スの人生観は一変した。このことは、彼が突然笑い出して、先ほどまで執着していた生を簡単 に放棄したことに現われているだろう。言ってみれば、彼はパンドラによるイニシエーション を受けたのである8)。パンドラは概念の対立とは無縁で、「母」にして「敵」であり、「善」と
「悪」の両方をポケットに持ち、「生」でありながら「死」でもあった。彼女が示した世界は「光 と陰」、「真と偽」、「倦怠と闘争」、「苦と楽」が混在するもので、今、自分が生きている「自信 満々の」現世紀も結局は同じように通り過ぎて、それ以降の世紀も過ぎた後は、すべての「物 事が互いに混交を始め」、「周囲にまぎれ」霧に覆われてしまった。二項対立は存在する余地も なかった。ブラス・クーバスがこの作品の中で展開する、対立概念が対立しない世界観は、こ のときにパンドラから伝授されたものなのである。
ブラス・クーバスが自分の死を最初に語られなければならなかった理由はここにある。つま りブラス・クーバスは、死ぬ直前にパンドラと出会い、そのときにその世界観を伝授されたか らこそ死に、そして、作者として生まれ変わり、それに基づいて自らの人生を再構築すること ができたのである9)。このように考えれば、この小説における第7章「意識の混濁」の意義が わかるだろう。ここは小説の「テーゼを提示する」重要な箇所なのであり10)、だからこそどう しても小説の最初のほうで語られる必要があったのである。
となれば『ブラス・クーバスの死後の回想』の語り手が死者であることは必然となる。ブラ ス・クーバの語りは、生と死を超越したパンドラの教義を伝授された「生と死の両方を司る語 り手」11)ならではのものなのである。ブラス・クーバスは第四版への序文でこう書いている。
「グザヴィエ・ド・メーストルは部屋の中を、ガレットは彼の故郷を、スターンはよその土地 を旅した。そして、ブラス・クーバスは、おそらくは彼の人生を旅したと言うことができるだろ う」。「人生を旅した」と言い切れるのは、人生のすべてを知り尽くした人物だからである12)。
2.2. 〈X〉⇔〈非X〉の世界
二項対立を超越した生死の両刀遣いがエゴイズムを基調に語る社会では、先ほどの5コント のエピソードで見た諸価値の相対性や対立概念の可逆性があらゆるものに適用される。たとえ ばキンカス・ボルバの「恩の理論」(第149章)はその好例である。そこでは恩に関する常識が 覆され、歓びを感じるのは受けた者ではなく、施した側だとされている。ボルバは、エラスム スの『痴愚神礼讃』に出てくる、互いに気持ちよさそうに掻き合うロバの話を引き、「そのエラ スムスの指摘を否定するつもりは毛頭ないが」と断わりながらも、「もし片方のロバの掻き方が
相手より上だったら、きっと前者の目には、特別な満悦の表情が浮かぶはずだ」とつけ加える。
彼いわくその理由は、自分が他者により多くの施しを与えられることを実感すれば、それは他 者以上の善行が働ける自分に対する優越感につながり、その結果、良心が「自分を美しいと思 って、とことん自分をみつめる」ようになるからだという。すなわち『ブラス・クーバスの死 後の回想』において〈常識〉は〈非・常識〉になり、〈善〉や〈美徳〉は肯定的な価値が剥奪さ れて〈非・善〉や〈非・美徳〉になるのである。『ブラス・クーバスの死後の回想』の物語世界 では、既存の諸規範〈X〉に対し〈非X〉が提示されていると考えることができる。
規範ばかりでなく、諸制度も転覆の対象となる。『復活』から『ブラス・クーバスの死後の回 想』までのマシャードの文学における「結婚」と「恋愛」を例にとってみよう。いずれの小説 においても、それらは重要なモチーフとなっている。だが、『ブラス・クーバスの死後の回想』
とそれ以前のいわゆる前期の四小説の間には大きな違いがある。『復活』から『ヤヤ・ガルシア』
までは「恋愛」が、結婚へ到達するためのプロセス、すなわち〈制度〉に参入するための〈道 徳〉に適ったものであるのに対し、『ブラス・クーバスの死後の回想』では、結婚した後の〈非・
道徳〉的かつ〈非・制度〉的なものになっていることである。それと同時に「結婚」も貶めら れ、もはやそれは前期の小説で称揚されていたような「恋愛」の到達点ではなくなっている。
何よりもそれをよく物語るのがブラス・クーバスとヴィルジリアの関係である。なにしろ彼ら は、結婚するために出会いながら破局を迎え、ヴィルジリアが他の男性と結婚して「社会のあ らゆる掟がたちはだかる」(Machado, 2008a:684)状態になって初めて激しく愛し合うようにな った。しかも彼らの心は、社会の障害が多ければ多いほど燃え上った。すなわち彼らの「恋愛」
は〈非・道徳〉と〈非・制度〉を前提としていたのである。〈制度〉としての結婚はまた、ドナ・
プラシダを通しても疑問に付される。なぜなら彼女は最初の結婚で夫に先立たれ、その後も結 婚を切望したにも拘わらずなかなか実現せず、さんざん待ったあげくようやく相手をみつけた と思ったら、今度はその人に5コントを持ち逃げされ、結局結婚に失敗しているからである。
ドナ・プラシダにとっては〈制度〉としての結婚は無効だったのである。
さらにロマンチック・ラブでは前提とされる〈愛〉についても、ブラス・クーバスはその幻 想を打ち砕く。『ブラス・クーバスの死後の回想』の〈愛〉は唯一無二のものではあり得ない。
ヴィルジリアは、「心から」ブラス・クーバスを愛し、「心から」夫を裏切ったが、その夫が死 んだときには「心から」涙を流した(第152章)。ブラス・クーバスにとって〈愛〉は絶対では なく、「タイミング」にほかならず(第56章、Machado, 2008a:684)、ヴィルジリアも「悪感情 を慰める精神の枕」に過ぎない(第62章、Machado, 2008a:689)。さらに近代社会にとって重 要な社会単位とされる〈家族〉についても同様で、ローボ家はヴィルジリアが浮気をした時点 で崩壊し、ブラス・クーバスの家族も、遺産相続でのもめごとや野党系の新聞社を設立したこ
とが原因ですぐに壊れるほどの脆いものであった。ブラス・クーバスの言うとおり「この世に は、十分に固定したものなど何もない」(Machado, 2008a:629)のである。
このように『ブラス・クーバスの死後の回想』においては、〈制度〉や〈常識〉的な理想が次々 と脱神話化されていく。まさに『ブラス・クーバスの死後の回想』と前期の小説の大きな違い はここにある。『ブラス・クーバスの死後の回想』では社会の制度や規範が絶対的な前提とはな らないため、作中人物はそれに捉われない自由な発想や行動ができるのに対し、前期の小説の 場合はそれがその枠内に留る。とはいえ前期の小説が社会の体制を肯定していたと言っている のではない。前期の小説の作中人物らも自己と社会の対立の狭間で苦しみ、社会に対して疑問 や不満を抱きはする。だが、それを打ち破るべく立ち上がり、挑むことはしない。『エレーナ』
では結局亡き家父長の遺言が優先され、エレーナは、実の子ではないことが明らかになった後 もヴァーリ家に留まらなくてはならなかったし、エステーラ(『ヤヤ・ガルシア』)は、社会の 既存の秩序にあえて挑まずに留まることを望んだため、達観の道を選ぶしかなかった。自己を 抑えて社会を甘受することを選んだのである。『ブラス・クーバスの死後の回想』の自己は社会 に屈することはなく、またその必要も感じない。正式な結婚生活を送りながら、奔放な愛が楽 しめるのは『ブラス・クーバスの死後の回想』の世界だからで、〈X〉と〈非X〉の両方が認め られる世界だからこそ、それができたのである。
ただし『ヤヤ・ガルシア』には、一人、プロコピオ・ジアスという社会規範や既成の価値観 に挑戦する人物が登場している。彼は自分を「実用的な人間」だとし、「完全な美徳などは詩人 のでっちあげ」だと言い放って、人間が利害で動くことを堂々と認める人間である(Machado,
2008e:572-573)。まさにこの人物のこの思考路線こそが、『ヤヤ・ガルシア』から2年後に出版
された『ブラス・クーバスの死後の回想』で、ブラス・クーバスの語りの基調となっていくも のである。
2.3. 問われるヨーロッパの知
ところで『ブラス・クーバスの死後の回想』には、西洋の古典からの引用が非常に多く見受 けられる。先ほど述べたように、ボルバが「恩の理論」を語る際にはエラスムスの言葉を引用 しているし、また犬の喧嘩の話をしたときにはパスカルの言葉を引用して、「人間は、残りの宇 宙に対して、優勢な点が一つある。それは、死ぬことを知っていることである」という『パン セ』のフレーズをもじり、「骨を犬と争う人間は、飢えを知っている点で、犬よりも優勢なんだ」
と言っている。パスカルは他の箇所でも、「人間は考える葦である」というフレーズが「人間は 考える正誤表である」と言い変えられて、パロディにされている。これらに共通するのは、い ずれも引用されたうえで修正が加えられているという点である。エラスムスの場合は、『痴愚神
礼讃』に出てくるロバに対し、互いに気持ちよさそうに掻き合うのではなく、掻き方が上手な ロバのほうには必ずや満足な表情が浮かぶはずだと異が唱えられ、パスカルに関しては、死ぬ ことを知っている利点が、飢えを知っているという利点に変えられ、「考える葦」が「考える正 誤表」に修正されている。ただし、エラスムスを引用した際にボルバ自身が入れている「否定 するつもりは毛頭ない」という断わりからもわかるように、これらは完全に否定されているわ けでは、決してない。とはいえ必ずしも正しいとは言えず不完全だとされて、修正や加筆が施 されていることはたしかである。同様の扱いは、ブラス・クーバスが行なった、ヴォルテール の『カンディード』に出てくる鼻の用途に関する考察やエルヴェシウスの原則への補足にも見 られる。第49章で彼は、鼻の用途についてヴォルテールを超える最良の解釈をみつけたと言っ て自説を紹介し、また第133章では、エルヴェシウスが立てた利の原則は、適用範囲を外界の みに限っているが、それは人間の心の中にまで広げられるべきだとしている。ここではエラス ムスやパスカルやヴォルテールのようなヨーロッパの知の巨匠までが、〈非X〉の可能性に晒さ れているのである。
〈非X〉の誹りは聖書にも向けられる。たとえば「下りぬものは幸いなり」というタイトル がつけられた第33章を見てみよう。その続きは本文中に出てくる「彼らには若き乙女の初接吻 が与えられるであろう」で、言うまでもなくこれは「心の貧しい者は幸いである。天国は彼ら のものだからである」から始まる山上の説教のパロディである。パロディとは、故意に場違い のものに置き換えることで、原典に内在する二重性や矛盾を暴露する仮面である13)。これによ りそこにはアイロニーを含んだ距離が生じ、批判的な視点が差しこまれる。純真だが、足が悪 いために結婚の相手としては不適切なエウジェニアを弄んだあげくに、初接吻を奪ったエピソ ードが語られる章に、心の謙虚さを説いた教えが重ね合わされることで、読者はそこにパロデ ィを見出だし、聖書の教えとブラス・クーバスの行動に代表される人間社会の現実をおのずと 見比べることになる。その結果、聖書の教えに横たわる現実の人間社会との矛盾、すなわち聖 書の〈非・現実〉性が浮き彫りになるというわけである。このようにこの作品ではキリスト教 の教義も絶対性を失い、聖書の〈X〉も〈非X〉の脅威に遭う。さらにその警鐘の音が消えや らぬ第35章で、聖書は再び標的になる。
第三十五章 ダマスクスへの道
さて、それから一週間後、ダマスクスへ向かっていた途中で、神秘的な声が聞こえ、そ れは私の耳元で、聖書の言葉(使徒行録、第九章七節)を囁いた。「立って町に入れ」。声 は、私自身から出たものだったが、出所は二つ。まずは、少女の純真さを前にして私の中
に広がった憐れみ。もう一つは、少女を本気で愛し、娶ることになるのではないかという 恐れ。足の悪い妻なんて!(Machado, 2008a:668)
ご丁寧にも原典箇所をつけるほどの気の配りようである。ここで並置されるのは、ダマスク スの道で聞いた声をきっかけに心を改めてキリスト教の伝道者になったパウロと、神秘の声を 機に足の悪いエウジェニアを妻として迎えることにならないように、チジュカの丘を下りるこ とにしたブラス・クーバスである。聖書の価値は現実との対比において、正反対の二つの地平 の間で完全に相対化される。結局は聖書も絶対性を剥奪され、〈聖〉は〈非・聖〉になる。
このように『ブラス・クーバスの死後の回想』は、ヨーロッパの築いた宗教や学術の体系に も〈非X〉の視点を差し込む。だが、パロディには「規範に対してお墨付きの審判を行なうと いう逆説的原理がある」という点にも注意しておきたい14)。すなわち、ここではヨーロッパの 知が完全に否定されることはない。価値の転覆はされるが、それは規範を前提とした一時的な ものに留まり、結局は〈X〉と〈非X〉が共存し続けるのである15)。
3. ウマニチズモ
3.1. ウマニチズモ:〈非X〉の思想体系化
『ブラス・クーバスの死後の回想』には、物語の3分の2を過ぎたあたりで提示されるウマ ニチズモという風変わりな教義がある。これはキンカス・ボルバが打ち立てたとされる思想体 系で、まずは第91章において、窮状から脱したボルバの手紙の中で予告された後、第117章で その詳しい内容が解説される。実はこのウマニチズモは、『ブラス・クーバスの死後の回想』の 次作である『キンカス・ボルバ(Quincas Borba, 1891)』にも継承され16)、むしろこの中で与え られている説明のほうが、具体的でわかりやすい。まずはそのウマニチズモがどんなものなの かを、『キンカス・ボルバ』の解説も交えながら見ていこう。
この説によれば、ウマニタスとは宇宙を構成する「生の根本原理」(Machado, 2008a:764,766)
で、我々人間ばかりでなく、この世のあらゆる生き物の中に平等に宿っているとされる。した がってどんな生き物もこの世界の原理であるウマニタスの化身になるから、どれも同等に貴重 な存在となる。この結果、ウマニチズモにおいては、羨望(ねたみ)も相手のウマニタスを讃 美する気高い感情として解釈されるほか、戦争や殺戮などの暴力行為も肯定される。なぜなら 戦争は、もし平等に配分されたならば弱体化につながるウマニタスを、むしろ保存するための 行為とみなされ、同じように殺戮も適者生存のための選別作業として考えられるからである。
この場合、敗者や被害者も決して否定的な存在とはならない。というのも彼らは、たとえ戦争 や殺戮によりいわゆる死を被ったとしても、肉体は消滅するが、本質であるウマニタスは存続
すると考えるために、それが本当の死だとはみなされないからである。むしろ敗者や被害者は、
その根本原理の保存のために貢献できることを実感して幸福感を味わえるというのである(「ど んな個人も、自らの先祖である根本原理のために、無上の喜びを以て、犠牲になるはずだ」(第 117章, Machado, 2008a:733)。
ボルバは、これを説明するのに2つたとえ話を出す。まずはボルバの祖母が馬車に轢かれて 死んだという話で、『キンカス・ボルバ』の主人公フビアォンは、思わず「お気の毒に」と言う。
するとボルバは次のように解説を加えて反論する。
馬車の主人は教会の庭にいて、腹を空かせていた。かなり遅かったから、腹がぺこぺこ だったんだ。その場で御者に合図を送ると、御者はロバを鞭で打ち、主人を乗せるために そこへ向かった。ところが、その途中で馬車が障害物にぶつかり、それを轢いてしまい、
その障害物がうちのばあさんだったというわけ。この一連の出来事の中で先立つのは保存。
つまりウマニタスは腹が減っていた。たしかに、もしそこにいたのがうちのばあさんじゃ なく、ネズミか犬だったら、うちのばあさんは死なずにすんだが、ウマニタスに食う必要 があったという事実に変わりはない。だからネズミや犬が死んだりする代わりに、たとえ ばバイロンとかゴンサルヴェス・ジアスといった詩人が死んだとしても、じゃんじゃん死 亡記事のネタを提供するという意味では違うかもしれないが、本質的には同じなんだ。
(Machado, 2008f;765)
ウマニチズモでは、何よりもまずウマニタスの保存が優先されるから、たとえ「うちのばあ さん」が死んでも、それが「馬車の主人」の空腹を満たし、飢え死にから守るためである限り 悪いことではなくなる。
もうひとつのたとえ話は、ある2つの部族が住んでいる地方で、ジャガイモが不足したとき のものである。ジャガイモは1部族分しかなく、分け合えば両方が死滅するしかない。そうい うときにウマニチズモでは、戦いを奨励するという。ウマニチズモの観点からは、戦争はウマ ニタス保存のための行為として肯定され、〈常識〉とは逆に、「平和こそが破壊」(Machado, 2008f:766)だと考えられるからである。それはボルバが掲げたモットーの「ジャガイモは勝者 の手に」(Machado, 2008f:766)にも表われている。すなわちウマニチズモでは、弱肉強食、適 者生存こそが〈善〉とされるのである。
これがブラス・クーバスの物語の基本方針と一致することはもはや言うまでもないだろう。
すなわちウマニチズモは我々の価値観や常識を逆転させる〈非X〉の思考の思想体系化を試み たものなのである。ウマニチズモが作品の後半で提示されている理由はここに見出せるだろう。
ブラス・クーバスは、それまで自分が語ってきた物語の原則を、キンカス・ボルバの思想を使 ってここで一気に総括したのである。〈非X〉が理論化されることで、〈X〉極に対する〈非X〉
極が厳然と規定されることになる。ウマニチズモは〈非X〉の思想体系化である。
3.2. ウマニチズモ:科学合理主義批判
さらにウマニチズモの主張が当時一世を風靡した進化論や優生学の主張に酷似していること も見逃してはならない。これらの科学思想は、ヨーロッパのみならずブラジルにおいても非常 に大きな影響力を持った。アフリカから連れてこられた奴隷が人口の大半を占めていたブラジ ルでは、人種の優劣が真剣に議論され、とくに白人至上主義を掲げ、混血を文明の退化の原因 として位置づけたゴビノーの理論は、ブラジル社会に深刻な影を落としていた。ましてや黒人 の血を濃く引き、さらにてんかんを持病に持っていたマシャードにとって、その問題は決して 他人事ではなかったであろう。マシャードが当時の科学合理主義に対して批判的だったことは よく知られ、それは狂気をテーマにその科学的根拠の矛盾をつく短編「精神科医(“O alienista”)」
17)を書いたことにも表われている。そして、その批判的精神がウマニチズモという似非思想 にも込められていると考えることができるのである。
実は進化論や優生学と並んで、もうひとつ19世紀のブラジルにとって重要な科学的新思想が あった。オーギュスト・コントが打ち立てた実証主義である。コントは、現代でこそ嘲笑の対 象にされ、ほとんどまともに研究されることもなくなっているが、19世紀の後半にはラテンア メリカの国々に多大な影響を与えた。ブラジルでも1876年から定期的にセミナーなどの会合が 催されるようになり、1878年にはリオデジャネイロ実証主義協会が発足している18)。実証主義 は医師や技師など科学技術関係者ばかりでなく軍人らの間でも信奉され、奴隷制度廃止運動や 共和主義運動の強力な推進力となった。その標語である「秩序と進歩(Ordem e Progresso)」 は、1889年に共和制に移行した際に国旗の中に取り入れられ、それが現在の国旗にも踏襲され ていることは周知のとおりである。
実はウマニチズモは、その実証主義のパロディだとも言われる。ボルバがもっともらしく唱 える静態期、拡散期、拡張期といった三段階のウマニタスの発展過程は、『実証哲学講義』(1830 年~1842年)の中に書かれている人間の精神の発展段階(神学的段階、形而上学的段階、実証 的段階)に重なる19)。ボルバは、その思想ばかりでなく、人物までがコントを思わせる。コン トにもやはり精神異常を来した経験があり20)、ボルバが書いた「それぞれ100ページほどから 成る四巻本で、最後は政治論になっている」(第117章)書は、コントの『実証政治学体系』(1851 年~1854 年)と重なる。また晩年のコントはクロティルド・ド・ヴォーという女性と出会い、
彼女への愛が崇拝に変化した結果、実証哲学を「真の宗教」にすべく、人類を「偉大なる存在
(Grand-Etre)」とした「人類教(religon de l’Humanité)」という宗教を創始している。自らの 思想が宗教でもあるべきだとはボルバも言ったことである(第157章)。これだけコントとの共 通点が見出される以上は、やはりボルバにはコントがある程度重ね合わされていると考えざる を得ない。ウマニチズモが基づくウマニタスとは、おそらくラテン語の humanitas(人間であ る状態や性質)から命名されたものだと思われる。となると、ウマニチズモという命名の背景 には、人類を神格化した人類教があったことも想像される。マシャードは、このようなウマニ チズモを通して、当時のブラジルを席捲した一連の科学思想に対する批判を込めたのだろう。
3.3. ウマニチズモ:人文主義批判
引き続きウマニチズモという命名に注目してみよう。すると今度はその矛先が単に当時のヨ ーロッパ伝来の科学思想に限らない可能性も出てくる。
以下に引用するのは、ボルバが羨望に対する常識的な捉え方を転覆させた場面である。
羨望について、じっくりと考えてみるといい。羨望という感情に対して、厳しい目を向 けなかった道徳家は、これまでギリシアにもトルコにもキリスト教にもイスラム教にもま ったく見当たらない。この点において世界の見解は、イドゥメアからチジュカの山の上に 至るまで一致している。だが、いいか、旧い先入観を捨てて使い古されたレトリックを忘 れ、羨望を探求するといい。この実に繊細で気高い感情を。ひとりひとりの人間が、どの 人もウマニタスの凝縮だということになれば、当然、たとえ外見が正反対でも、基本的に 人間が他の人間と対立することはない。(…)羨望とは、闘争し合う賛美にほかならない ことが、難なくわかるだろう。そして、闘争は、人類の重要な機能になるから、あらゆる 好戦的な感情は、人類の幸福にもっとも適合したものとなる。だから羨望は美徳なのだ。
(Machado, 2008a:732)
ボルバはまず羨望について、「イデゥメアからチジュカの山の上に至るまで一致し」て否定的 な見解を持っていると言ったうえで、それとは正反対の見方を提示する。こうすることで彼は、
それまで全人類が築き上げてきた総意の価値観の転覆を図ったのである。ブラジルの文学者ソ ウザは、ボルバの理論について次のように述べる。
ウマニチズモは、人間を宇宙全体の中に位置づけることで、人間の総体的なイメージの 哲学的な転覆を体系的に図り、人文主義の伝統が打ち立ててきたあらゆる価値体系の、真 面目かつ滑稽な転換を図ることを特徴としている。新たにアイロニーの視点から人文主義
を捉えることにより、倫理的な連帯性は、戦闘的な主観性によって実効性を奪われ、美徳 は悪徳に、悪徳は美徳になる21)。
すなわちここでボルバが俎上に載せているものは、単なる一時代の一握りの思想だけでなく、
「人文主義の伝統が打ち立ててきたあらゆる価値体系」だということになる。そう考えると、
ウマニチズモの命名には、もうひとつ人文主義のhumanismo(英humanism)も念頭に置かれ ていた可能性が生じる。ウマニチズモは、人類のあらゆる知的体系の中でも、とくにヨーロッ パの知に照準を合わせているのかもしれない。
3.4. ウマニチズモ:人道主義の虚構性
ウマニタスは「人間のひとりひとりに配分されて凝縮されている普遍的な根本原理」(第117 章、Machado, 2008a:731)であり、ウマニチズモは「ウマニタスが身体のさまざまな部位に配 分されるという意味でブラフマンの原理に通じるが、この二つの間には大きな違いがある」と ボルバはいう。その違いとは、ブラフマンの場合は、その配分のされ方には「神学的および政 治的な意味」しかないが、ウマニチズモではそれが「人間の価値を決定する重要なルール」に つながっている点だという。だからウマニチズモでは「ウマニタスの胸や腎臓」を先祖に持つ ウマニタスは強者となるが、「髪の毛や鼻の頭の子孫」は弱者になる(Machado, 2008a:732)。だ が、ウマニチズモのその論には矛盾がある。というのも、一方でウマニタスは「普遍的な根本 原理」だと言いながら、それには生まれながらにして不平等が備わっていると言っているから である。これではウマニタスが〈普遍〉的でありながら〈非・普遍〉的な存在でもあることに なってしまう。
だがその矛盾は、ひとたび当時のブラジル社会の現実に目を向ければ、決して矛盾ではなく なる。というのもそこでは、ヨーロッパから輸入した自由・平等思想が称揚されながらも、自 由を剥奪する奴隷制度が合法的に存在するという現実が実際に存在していたからである。平等 という普遍性を謳いながら、実はそれとは真っ向から対立する不平等の原理が現実を支配して いたのである。人間は生まれながら不平等を背負い、主人の子は主人で奴隷の子は奴隷という ように、身分は先祖次第で生来定められていた。「普遍的」な存在でありながら、先祖が腎臓か 鼻かで価値が異なるというウマニタスは、まさしくこのブラジルの現実を反映したものなので ある。シュヴァルツ(Roberto Schwarz)は、マシャードの小説を分析した際に、ブラジルの社 会が旧体制を温存したまま取り入れたヨーロッパの近代的な思想を、「場違いの思想(ideia fora
do lugar)」という言葉で表現したが22)、これはその好例である。
矛盾を来すのは、ヨーロッパの新思想との関係においてばかりではない。カトリック教会ま
でが、神の前での平等を謳いながら支配階級の利害と密接に結びついていた。カトリックの教 義に従えば、当然のことながら奴隷制度は糾弾すべき対象になるはずであったにも拘わらず、
教会はその廃止へ向けて取り組むどころか、自らが奴隷を所有し、奴隷らにも実質的な教義を 伝授せず、ひたすら忍耐と屈従の〈美徳〉を教えた23)。そうした矛盾は法律にも見られた。黒 人奴隷同士または黒人奴隷と自由人が結婚することや、奴隷が自らの食料を栽培することを認 める「人道的な」政策が、公式には明記されていたが、それらが実際に遵守されることは稀で、
法律と「現実の社会的な慣行」とは明らかに矛盾していた。「主人が奴隷を殺傷することは禁止 されていたが、ほとんど無視され、広く行なわれていた奴隷への鞭打ちを禁じる法律が布告さ れたのは、奴隷制廃止の2年前」であったし、奴隷は「逃亡防止ために、夜間は閉じ込められ」、
「親を仕事に就かせるために、奴隷の子どもたちの中には、日中は首まで土中に埋められた者 もいた」24)。このように〈X〉(人道主義)が謳われながら〈非X〉(奴隷制度)が横行する現 実は、『ブラス・クーバスの死後の回想』にも描かれている。先述した元奴隷のプルデンシオは、
赦してほしいと懇願するのも聞かずに奴隷に鞭を振り下ろし続けた(第68章)。また第123章
「本当のコトリン」は、何よりもそれを如実に物語っている。「本当の(verdadeiro)」という 形容詞をつけていることこそが〈非X〉という実態への告発である。「本当の」コトリンは、一 方では兄弟会で役員を務めるなど熱心に慈善活動を進め、他方では「頻繁に奴隷を地下牢に閉 じ込め、奴隷はいつもそこから血を流して出てきた」状態だった。さらには役員を務めた会に は肖像画を描かせ、自分の善行は新聞社に書き送るのが常だった。ということで、ここにもウ マニチズモの命名の謎を解くための鍵がもうひとつある。おそらくウマニチズモは、自由・平 等・友愛、人間愛、博愛といった理想を掲げるヒューマニズム(humanismo)の虚構性を告発 するための似非思想でもあるのである。
ウマニチズモは、奴隷制度がいかに人間の尊厳に反するものかを巧みに暴く。先ほど引用し た馬車が祖母を轢いた話の中で、「うちのばあさん」もネズミも犬もゴンサルヴェス・ジアスも、
すべてが同等に扱われていたことを思い出していただきたい。ウマニチズモにあっては、人間 も動物も同列に扱われる。もちろんそれは、自己保存本能が真っ先に働くという意味で、人間 も動物も変わらないという意味にも解釈できる。だが、おそらくそこにはそれ以外のもっと残 酷な原則が横たわっているだろう。人間も動物も同等だと言えば、それは一見徹底した平等主 義のようで美しく聞こえる。だが、奴隷制度が敷かれた当時のブラジル社会の実情に照らせば、
それこそが悲惨な現実の如実な表象となる。なぜなら奴隷は、自分自身の所有権すらもないと いう意味で、まるで家畜同然だったからである。自由を獲得したプルデンシオが実感した違い について、ブラス・クーバスが行なった分析を読んでほしい。
子どもの頃の私は、彼に馬乗りになり、口に手綱をつけ、容赦なく尻を叩いた。彼は呻 いて苦しんだ。それが今、彼は自由の身。自分自身も、自分の手も、自分の足も自由にな り、働くのも、休むのも、寝るのも自由。昔の境遇から開放され、やっと自分の上に立つ ことができた。そこで奴隷を購入し、私から受け取った金額に、多大な利子をつけて返済 しているのだった。(Machado, 2008a:696)
彼は、解放されて初めて自分の肉体を自分で使えるようになったのである。
だが、もちろんブラス・クーバスが言及する矛盾はブラジルだけのものではない。ボルバは、
鶏肉を「哲学的にしゃぶりながら」こう述べる。
私にとっては、この鶏肉以上に、僕の思想の卓越性を知る恰好の証拠資料はない。この 鶏が、トウモロコシから栄養をとり、トウモロコシはアフリカ人によって植えられ、その アフリカ人はアンゴラから輸入されたと仮定しよう。そのアフリカ人は生まれ、成長し、
売られた。船で運ばれ、その船が作られている木材は、十人、十二人という人手によって 森から切り出され、その船の帆は、織るのに八人、十人という人手がかかっているわけだ が、ここには、それ以外の綱や他の船体部分は考慮されていない。つまり、今こうやって、
朝食に食べた鶏肉は、大勢の人間の努力と闘争の賜物で、その目的はただ一つ、僕の食欲 を満たすことだ。(Machado, 2008a:733)
ここでもボルバの視線は、先の人間と犬の喧嘩同様に、やはりグローバルな次元に向けられ ている。搾取は国内のみならず、ひとつのネットワークで連結されている国際社会のシステム 全体においても横行していたのである。
4. 究極の〈非X〉
〈X〉の仮面のもとで〈非X〉がまかり通り、〈X〉と〈非X〉が臨機応変に入れ替わり、瞬 間単位でそのきらめきの色合いを変える、変わり身の早い玉虫色の人間社会、そして、〈X〉と
〈非X〉の狭間で引き裂かれる人間、『ブラス・クーバスの死後の回想』が描き出すのはそのよ うな人間社会の模様である。
ところで人間は、このまま〈X〉と〈非X〉の引き裂かれた状態で終わるのだろうか。いや、
そんなことはない。そうしたときには必ず妥協という仲裁が入る。そしてその妥協も、何の根 拠なく為されるわけではなく、必ずあるものに依拠する。世間体である。ローボが妻とブラス・
クーバスの仲を知っても、何の行動にも出なかった(出られなかった)のは、社会規範を守ろ
うとしたからでも良心が痛んだからでもなく、世間体を憚ったからであった(第112、113章)。 ヴィルジリアがブラス・クーバスとの駆け落ちを渋ったのも世間体に気遣ったからだった(第 63 章)。人間のエゴの暴走を食い止めるべく仲裁に入るのはいつも世間体で、だからブラス・
クーバスは、世間とは「よきかすがい」(第113章)だと言ったのである。
では、その妥協はいかにして成立するのか。そこで物を言うのが形式的儀礼である。ある日、
ブラス・クーバスは国会議事堂で、目だけを出してあとは顔と身体の残りをベールで隠す美し いトルコ人女性らの絵に目を留めた。一見、隠れているように見える顔や肉体も、透けたベー ルのもとでは丸見えだった。形式を繕って実際を保つための形式的儀礼を使うことこそが人間 社会の処世術だという意味で、ブラス・クーバスは次のように言う。
愛すべき形式的儀礼よ、君は人生の杖、心のバルサム、人と人の仲立ち、地と天の絆。
君はある父親の涙を拭い、預言者の甘い顔を引き出す。もしそれで苦が眠り、良心も落ち 着くならば、その甚大なる功績は、おまえ以外の、だれのものだと言おう。頭の帽子を通 して表する敬意は、心には何も語りかけない。だが、たとえ関心はなくとも礼儀を弁えれ ば、心地のよい印象を与える。その理由は、昔の理不尽な形式とは違い、文字は人を殺さ ないからだ。むしろ文字は生かす。精神こそが論議や疑念や解釈の対象となり、従って、
闘争や死の対象となる。愛すべき儀礼的行為よ、万歳。ダマセーノの心の平和と、モハメ ッドの栄光のために。(Machado, 2008a:739-740)
形式的儀礼とは、〈非X〉を〈X〉で繕う擬装である。ブラス・クーバスが生前に知り合った もっとも誠実な人に、ジャコ・タヴァーリスという人物がいた。彼は「誠実を絵に描いたよう な男性」だったが、そんな彼でも、あるときはたった二時間で四度も嘘をついたことをブラス・
クーバスは指摘した。ある日、ブラス・クーバスと二人で話していたときに、迎え入れたくな い客B氏に対し、居留守を使おうとしたときの話である。
B氏が帰り、私たちは、ほっと息をついた。息をついた後で、私はジャコに、彼が二時 間もしない間に、四回嘘をついたことを指摘した。一回目は、居留守を使ったこと。二回 目は、厄介な客なのに、喜んでみせたこと。三回目はこれからでかけると言ったこと。そ して、四回目は、それが妻とだと言ったこと。ジャコは、一瞬、考えた後で、私の観察ど おりだと素直に認めたが、同時に言い訳もした。絶対的な真実は、進んだ社会とは両立し ないもので、そもそも町の平和も、互いの騙し合いの上に成り立っているのだと……。
(Machado, 2008a:711)
『ブラス・クーバスの死後の回想』が描く〈X〉と〈非X〉の織り成す人間社会では、ジャ コ・タヴァーリスのように〈X〉を絶対として生きること自体に無理があるのであり、却って それを押し通せば「町の平和」を壊すことになり、社会を成り立たせようと思えば、「互いの騙 し合い」を容認するしかない。人間は〈X〉極と〈非X〉極の狭間で葛藤しながらも、適宜、
世間体を基準に妥協点をみつけ、形式的礼儀を蓑に、まるで「蛇さながらの戦術と柔軟性を駆 使して」「世間の目と耳の森を」縫っていったブラス・クーバスとヴィルジリアのごとく(第 65章, Machado, 2008a:694)、〈X〉と〈非X〉の森を掻い潜って生きていくのである。
最後に、このような『ブラス・クーバスの死後の回想』の物語世界を理解したうえで、最終 章を読んでみよう。
第百六十章 否定の章
(…)
この最終章は、全体が否定から成っている。私は、膏薬で名声を勝ち取ることもでき ず、大臣にもなれず、カリフにもなれず、結婚も経験しなかった。だが、これらのないない・ ・ ・ ・ 尽くしの一方で、顔から汗を流してパンを買わずに済むという幸運にも恵まれた。それ ばかりではない。ドナ・プラシダのような死を迎えることもなければ、キンカス・ボル バのように、半ば発狂することもなかった。あれこれ合算すれば、だれもが、私の人生 はプラスマイナスゼロ、したがって、生に対しては借金もなく終わることができたと想 像するだろう。だが、それでは想像力が足りない。なぜなら、神秘の此岸に来てから、
私は、わずかな黒字を出したことに気づいたからだ。まさにこれが、この否定の章の究 極の否定なのだが――私は、子どもを持たなかった。つまり、我々の苦という遺産を、
どの被造物にも伝えることはなかったのだ。(Machado, 2008a:758)
ブラス・クーバスはまずは人生のプラスの項目を、続いてマイナスの項目を挙げて、それら を合わせればプラスマイナスゼロになったと言った後で、実はそうではなく「わずかな黒字を 出した」ことに気がついたと述べる。〈X〉と〈非・X〉の混在する人生を送った結果、何が「わ ずかな黒字」だったかといえば、それは「子どもを持たなかった」ことだという。「子どもを持 たなかった」とは、言うまでもなく「子どもを持つ」の否定文だが、これはどういう意味なの だろうか。これを理解するために、ウマニチズモの生殖に関する考え方を見てみよう。
この新しい教会[ウマニチズモ]には、安易な冒険は存在しないし、堕落も悲哀も子ども じみた歓びも存在しない。たとえば愛は祭司で、生殖は祭式。生は宇宙最大の恩恵である から、乞食の中にも貧困より死を好む人は一人も見当たらず(これは、ウマニタスの快い 働きかけによるものだ)、生の継承は遊興の機会からはほど遠く、精神的なミサとも言う べき崇高な時間となる。つまり本当の意味での不幸はただ一つ、生まれないことである。
(Machado, 2008a:732)
高らかな生への賛歌である。ウマニチズモにおいては生を授かることが至高の恩恵とされる のなら、「子どもを持たない」ということは、ウマニチズモの根本を否定することにならないだ ろうか。とするとこれは〈非X〉であるウマニチズモの否定となり、〈非・非X〉ということに なる。すなわちブラス・クーバスは、〈非X〉を基調とした人生レヴューの最後の最後で、彼が 依拠してきた〈非X〉の思想をも打ち消したというわけである。だからこそ彼はこのことを「こ の否定の章の究極の否定」と言ったのである。
では、この否定をどう解釈したらいいのだろうか。ブラス・クーバスは、〈X〉を打ち崩すた めに終始〈非X〉を提示するというやり方を通してきた。しかしそれと同時に、人間社会とは
〈X〉でも〈非X〉のどちらか一方に依拠するわけではなく、常に〈X〉と〈非X〉が混在す る空間であり、それこそが現実であることを、語りのすべてを通して訴えてきた。したがって
〈X〉を否定して〈非X〉を打ち立てたままでは、その現実の表象にはなり得ず、自分の主張 と矛盾してしまうことになる。だからブラス・クーバスは、最後でどうしても〈非X〉の理論 たるウマニチズモ、すなわち〈非X〉極の絶対性を否定することで、縒り戻しをかける必要が あったのである。
むすび
第二章でブラス・クーバスは、抗心気症膏薬の発明を思いついたときの心境をこう描写する。
その案は脳内の空中ブランコをこぎ出し、突然大きく前に飛び出したかと思うと、両腕と両脚 をXの字に広げて「私が出す謎を解け、でないとおまえを食う」と言った。何やら私には、そ こでブラス・クーバスがその案に出させた謎かけの答えこそが、この〈X〉と〈非X〉の織り なす物語世界のように思えてならない。