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和 式 複 式 決 算 簿 記 の 起 源 に つ い て

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(1)

論 説

和 式 複 式 決 算 簿 記 の 起 源 に つ い て

西 川 登

和式複式決算簿記の起源について

59

三四

五 目次

はじめに1和式簿記に関する従来の研究lI

複式簿記の本質ー二重分類簿記の条件と複式決算簿記の諸類型ーi

二重分類簿記の生成要因ー中近世イタリアと元禄時代日本の共通性‑

洋式簿記の近世日本への伝播説ーイタリア式簿記と和式複式決算簿記の相異i

おわりに1二重分類簿記の起源の世界史的問題‑

は じ め に

ーー和式簿記に関する従来の研究ーー

﹁私たちはなんと日本の文物に異邦人として育てられたことか︒明治維新は江戸までの文化を捨象した︒︹中略︺わ

れわれは一八世紀の変態仮名も読めない︒この欠落を照らす鏡は私にとってヨーロッパの思想と思想家たちだった︒

明治維新前の暦法すら私は知らない︒一体デヵルト︑一八世紀啓蒙思想を当時の文献で読めないフランスの知識人

(2)

が想縁できるだろうか︒L(江原ロo︒︒︒︒]二四ページ)︒

のっけから長い引用︑それも本題とは直接関係ない引用を掲げて恐縮する︒しかし︑日本在来の簿記.会計につい

ての過去の会計学者による理解(誤解)を見ると︑西欧コソプレックスによる歪みが少なからずあったように思われる︒

一九二一年(大正一〇)に大森研造(敬称略︑以下本文では敬称を総て略させて戴く)は次のように叙述している︒﹁然る

に︹欧米に於ける商業帳簿の歴史的発展に比して︺我国在来の商業帳簿は如何︒殆んど之を自然の発達に放任し︑商

家の備ふる帳簿は其数頗る多きも︑其間何等の統一なく︑記入の内容は粗雑にして再三重複し︑従て転写頻繁なるの

結果は時間を徒費し誤謬を伝へ︹後略︺﹂(ロ㊤b︒昌七九一ページ︒︹︺内は引用者11西川が挿入)︒

その後︑複式簿記が江戸時代に存在したとの発表を三井の研究者たちが行っている(三井ロゆωb︒]九六七ページ︑柴

ロΦω呂七六ページ)︒雑誌﹃会計﹄で大谷寿太郎は︑それらを引用し︑自身による長谷川木綿店の帳簿の分析を報告し

た︒大谷は︑﹁三井家の帳簿が既に複式簿記の形態を具へて居たと云はれるのも首肯出来ると思はれる﹂(大谷ロΦ︒︒温

七二九ぺージ)と述べながら︑次のようにも記している︒﹁東西商業帳簿に於ける最も大きな差異の一は横書き︑縦書

きの記帳方法で︑若し我が国に早くより横書きの記帳方法が行はれたならば︑或は容易に複式簿記が生じたかも知れ

ぬ﹂(同︑八九舶︑八九三ページ)︒

同じ頃︑二人の会計学者の研究が出雲の田部家の簿記法を︑それぞれ次のように結論づけている︒﹁複式簿記に属

しないと言ふ事は︑決して此の帳合の不完全なる事を意味するものではなくて︑寧ろ或る意味に於ては︑﹃複式簿記以

上のもの﹄でもあるのである﹂(平井ロ㊤ωα︺一一六︑二七ページ)︒﹁単式簿記的記帳方法を採り乍ら︑勘定目録の作製に

当つては両面勘定の組立を考へ︑そこに今日の複式簿記的な着想を持つてゐた事は全く偉とする処である﹂(山下ロo

︒︒①]一三六ページ)︒宮本又次による江戸時代の﹁帳簿と帳合﹂(ロoお]︑ロリ零])の考察は︑それらの説に影響を受けて

(3)

和式複式決算簿記の起源について

61

いる︒

一九五〇年(昭和二五)に木村和三郎は次のように述ぺている︒﹁それらは複式簿記の域に遠く及ばなかったことは

言うまでもなく︑ただ﹁大福帳﹂と称する人名勘定元帳と関日加恵Lなどと称して縁起をかついだ日記帳︑乃至は金

銭出入帳を用うる︑体系の確立していない簿記であったL(木村[お8]五ページ)︒

一方︑一九六〇年ごろより今日まで︑経済史や経営史の研究老あるいは企業の調査員らによる江戸時代の帳簿に関

する報告は︑必ずしも少なくはない︒その中には︑石本家や(藤本ロリ①巳)︑本間家(河原[6ミ]第二部第四章)︑作清

家(畠山ロ鷲︒︒])のように︑定義のいかんにかかわらず︑複式簿記とはとてもいえない例もある︒しかし︑多くは︑

財産計算(資産マイナス負債.資本)と損益計算(収益マイナス費用)とによって純利益の二面的計算(もしくはその変形

による純資産の二面的計算)を行う﹁複式決算﹂の例を報告している(安岡ロoαO]ロ霧①]︑藤田[お①巳︑北島(編)ロo①呂︑

作道ロ¢象]︑宮本ロOΦ①]︑竹内霞㊤蕊]︑田中ロ㊤課]︑賀川[お課]ロ⑩胡︺[H㊤朗﹂ロ㊤︒︒呂︑植村[お謡]ロ㊤︒︒︒︒]︑今井ロ零O]︑

[︒︒b︒]︒︒ω]o︒︒o︒︒])

益計算の二つの計算方式が一応成立したL(天野ロΦ︒︒ω]九四︑九五ページ)というのは︑財産計算は日常記録帳簿から

の誘導法とみられるが︑損益計算は帳簿記録に基づかない見積り計算のようにも見受けられるので疑問が残るーー︒

その間に︑会計専門家のものとして︑小倉栄一郎の一連の論文(ロo零]ロ㊤$二月][同七月][同九月︑一〇月﹂局一〇

月﹂ロ霧o]ロま⑦])と著作(ロΦ8])が発表されー彼は他の会計学者との無用な論争を避けるためか複式簿記という

使(P])

(︒︒U]︒︒o][6︒︒)稿(︒︒[︒︒b︒[][︒︒ω]O]r︒︒G︒︒︒]

︒︒])

(4)

和式簿記覆式輩があった事実は認めても︑﹁和式帳合は簿記︹複式簿記︺ではなく︑簿記以前的記録技術であ

った﹂(茂木冨①]エハペ←︒︹︺内も原文の裏)という会計史家もいた︒和式複式決算簿記が複式簿記であるか

否かは・﹁結局複式簿記の定義如何で姿る﹂(西川(孝)冨已一〇九fジ)︒何が複式簿記の基本的計算原理なの

か︑複式簿記の本質的条件が何なのかを︑節を改めて考察していこう︒

複 式 簿 記 の 本 質

ー 1 二 重 分 類 簿 記 の 条 件 と 複 式 決 算 簿 記 の 諸 類 型 l l

﹁普段我々は西欧的な蓮嚢をもって唯一の価値体系と警る傾庭あるが︑︹中略︺世界には多様な価値体系が

あり・それ斐化と呼ぼれるものである︒頁不可蟹ものも決して偶然に形成されているわけではない︒﹂(肇

[︒︒︒︒])

江 戸 時 代 に 開 発 さ れ た と 考 え ら れ ︑ 明 治 維 新 を 越 え て 大 商 家 で 用 い ら れ た 和 式 嚢 決 算 簿 記 が ︑ 複 式 簿 記 で は な い

と す る 議 論 は ・ 今 日 の 簿 記 教 科 書 で 教 え ら れ る よ う 覆 式 簿 記 の 形 式 的 諸 特 徴 を 列 芒 ︑ そ れ と 和 式 褒 決 算 簿 記 と

を比べるものであった・その諸特徴とは︑取引の複記︑借方食方を均衡させる左右対照式勘定︑貸借複記式の仕訳

記入︑記録・計算の誤謬の有無を試算表によって確かめる自己検証機能などである︒

複記性についていえば︑取引を二面的に把握することと複記をすることとは同じではない︒行列簿記ーコソピュ

}会計では行列簿記の考えかたにょるプ・グラムが組まれることも多いーでは総ての取引を二面的に把握するが︑

複記は行なわれず・単記である・逆に︑債権・債務だけを複記していても他の取引が記録されていなければ︑それを

複式薄記とはいえまい︒

(5)

和式複式決算簿記の起源について

fi3

イタリアに端を発した洋式複式簿記の勘定記入では︑引き算を用いない︒そして︑借方残高(貸方残高)を貸方(借

方)に記入して︑左右の合計額を一致させる(貸借均衡させる)︒これは︑ただ単に︑足し算による検算の形で記録し

ているに過ぎない︒標準式元帳HT字勘定元帳(または残高式元帳)で金額を増加欄と減少欄と(さらに残高欄と)に分

けて書くのは︑論理的必然性というより︑むしろ︑実用上の便宜性によるものといえる︒﹁均衡性のみでは複式簿記

は成立されえず︑またその欠如が(例えば現代のコソピューターシステム)完全で秩序整然たる記帳をさまたげるも

のでもない﹂(Ω匿臨Φ冠ロリミ]や︒︒切︑津田・加藤(訳)ロ零︒︒]四二ページ()内も原文のまま)︒

貸借複記式仕訳記入は︑﹁あらゆる取引に内在する二重性を明白に表現するがゆえに︑複式簿記のいちじるしい特

徴を現わす点においては元帳記入をしのぐもの﹂(凱琶︒8昌[Hりωω]亨一8︑片野(訳)ロミ呂一六六ページ)であることは

間違いない︒しかし︑貸借複記式仕訳記入が複式簿記の本質的計算構造に不可欠なものではない︒イタリァにおける

複式簿記生成の歴史を見ても︑﹁仕訳は複式勘定記入が完成した後に簿記の構造に付加されたもの﹂(田α.同ページ)

である︒現金式仕訳‑ーこの原理は伝票式簿記でも使われるーーでは︑現金収支の伴わない取引以外は︑貸借複記す

る必要はない︒行列簿記では仕訳記入と勘定記入との区別がなく︑取引記入は一回ですむ︒﹁成長後のおたまじゃく

しの尾のように︑︹仕訳が︺いつかふたたび複式簿記の構造から脱落するときが﹂(臣葬同ページ)︑コンピュータ化の

進展にょって到来しつつあるようにも見える︒

洋式複式簿記の試算表によって発見できる誤謬は︑コンピュータならプログラムの組み方次第では犯すはずもない

ものばかりであり︑逆に︑試算表では発見できない間違いも多々ある︒手作業簿記で試算表を作成しなくても︑資

産.持分計算と収益.費用計算とによって二面的に算出された利益額が一致すれば︑取引の二面的把握が確かめられ

たことになる︒

(6)

以上のように︑試算表はいうにおよぼず︑貸借複記式仕訳︑左右対照式勘定︑および貸借均衡の三つも複式簿記の

本質的な計算原理とはいいがたい︒この三点は︑むしろ︑洋式複式簿記(イタリア式簿記)における記録.計算の形式

の基本的枠組と捉えることができよう(縦書きか横書きか︑算用数字か漢数字か︑計算用具に・何を使うかなどといったことは

本質的でも基本的でもなく︑便宜的な応用技法の問題といえよう︒実務上便宜性が極めて重要ではあるが)︒﹁少しく反省してみ

ると︑複式簿記の重要な点は︑各取引が二回記録されることではなく︑むしろ各取引が二重に分類されるところにあ

ることがわかる﹂(閑§8ざ①叶もドロまb︒]マω蔭刈)︒もちろん︑イタリア式簿記における記録.計算形式の基本的枠組を備

えたもののみを﹁複式簿記﹂と定義し︑そうでないコソピュータ簿記などは﹁単式簿記﹂である︑ということも可能

ではある︒したがって︑以下の叙述では誤解を避けるために︑イタリァ式簿記のみならず行列簿記や和式複式決算簿

記などを含む広い概念として︑二重分類記という言葉を用いる︒

二重分類簿記の本質的な計算原理は︑企業などの組織体(会計実体)によって認識される総ての取引が︑資産イコ

ール負債プラス自己資本という等式ーさらに詳しく書けば

蛙曝踏鰍+蹄鰍嬉ー覇蝿薄11濫曝蹄露+ゆ熟憾‑油臨藩+避叫皿口煽畳+越蹄‑難煽+薫駄‑躍曲

という等式︑あるいはその同値変形等式・分解等式ーに基づいて二面的に把握され︑そのことにより︑会計実体に

関する貨幣的情報が体系的に集計されることにあると︑私は考える︒

ところで︑﹁損益に関する勘定がなくても︑それなりに完結した複式記入の体系を得ることは︑確かに可能﹂(安藤

ロ㊤︒︒呂二七ページ)である︒ただし︑そのような簿記と︑純利益(または純資産)の二面的測定すなわち複式決算を行

う簿記とでは︑計算目的意識に大きな差があるといえよう︒そこで︑二重分類簿記のうち︑複式決算を行う簿記を複

式決算簿記と呼ぶことにする︒

(7)

和 式 複式 決 算 簿 記 の起 源 に つ い て 65

洋式複式簿記や中国の増減記帳法(服部(編)ロ㊤︒︒8参照)︑ほとんどのコソピ鳳ータ簿記が︑複式決算簿記に含まれ

ることになる︒また︑歴史的にみれぽ︑和式複式決算簿記ー中小商家で用いられた帳合は複式決算簿記あるいは二

重分類簿記になっていなかったものも多いと考えられるーの他に︑朝鮮の開城簿記や(大森[おB][おb︒︒︒]︑徐[お母U︑

][]︒︒)簿(渡[︒︒︒︒]o]

︒︒︒︒])簿(冨嗣団[μ◎◎]O︒︒︒︒])簿

バ ヒ ・カ タ 簿 記 イ タリア

式簿記  

列記行簿 式合和帳

二 重 分 類 簿 記 の 生 成 要 因

Il中近世イタリアと元禄時代日本の共通性1

﹁今日︑世界中にはただ一つの数学があるのみである︒︹中略︺しかしながら︑過去におい

ては︑エジプトの数学︑バビ戸ニアの数学︑ギリシャの数学︑アラビアの数学︑中世ヨー

ロッパの数学︑イソドの数学︑シナの数学︑日本の数学などと︑幾通りかの相異なる種類

の数学があったように思われる︒﹂(ポホナー︑村田(訳)ロ鴇O﹂︑日本版へのまえがぎ)︒

複式簿記について論じた書物で世界最初の印刷物は︑一四九四年ベネチアで刊行された︑

ルヵ.パチオリ(]﹁器鋤℃騨o一〇犀同薩窃叩ーμ㎝岡刈)の﹃スンマ﹄すなわち﹃算術・幾何・比および比

(︒︒βOΦ齢凶8同︒§剛冨)

(泉谷ロ⑩◎︒8一︑ニページ)︒彼の簿記論は︑出版後の百年間にイタリア語︑英語︑オランダ

語︑ドイッ語等に翻訳された︒ベネチアに生成した簿記法はたいした変更を加えることなく

(8)

﹁イタリア式簿記﹂の名でヨーロヅパに広まった︒(Ω糞ゆ︒拝,お︑(訳)六一︑六二ページ)︒

イタリア式簿記がベネチアで生成したことにほぼ異論がないようであるが︑その起源説については︑おおざっぱに

いって︑古代ローマ説と中世イタリァ説とに二分される︒古代βーマ説は︑推論による仮説に過ぎず︑古代ローマの

会計史料の存在が確認されているわけではない︒これに対し︑中世イタリア説は︑現存会計史料のうちで﹁複式簿

記﹂といえる最古のものをどれとするかによって︑トスヵーナ説︑ジェノバ説︑ロンバルディーア説︑ベネチア説に

分かれる︒トスカーナ説は︑一三世紀末〜一四世紀初頭の会計実務が複式簿記であったとするものである︒この時期

のトスヵiナの現存資料では︑取引の複記が行われていたが︑左右対照式の勘定は未だ用いられていなかった︒ジェ

ノバ説では︑=二四〇年のジェノバ市政庁簿記を最古の﹁複式簿記﹂とする︒その元帳では左右対照式の勘定が用い

られたが︑現金勘定がなかった︒仕訳帳が用いられた跡もない︒ロソバルディーア説は︑﹁複式簿記﹂といえる最古

のものが一四世紀末のロンバルディーアの会計史料に求められるとするもので︑そこでは左右対照式の(現金勘定も

含む)総勘定元帳が用いられたが︑仕訳帳はなかったようである︒現存最古の仕訳帳は一四三〇年代のベネチアのも

のとされる︒(これらの各説については︑泉谷︑第一章第三節︑片岡ロΦ︒︒︒︒]第一章を参照されたし)︒

このように︑中世イタリア起源説のうちのどの説を主張するかは︑﹁複式簿記﹂の定義いかんに大きく依存するよ

うに思われる︒複式簿記1ー二重分類簿記とすれば︑トスカーナ説が有力となるし︑複式簿記をイタリァ式簿記に限定

すれぽ︑ベネチア説が妥当性をもとう︒ただ︑いずれの説も現存する会計史料に依拠するものであることは注意して

おく必要があろう︒これに対し︑複式簿記の起源を一都市および特定の帳簿史料に限定するのではなく︑イタリアの

いくつかの商業中心地でほぼ同時に複式簿記が発生したと考える説がある(牙閑8く巽[おα①]もヒ窃)︒ここでは一応︑

一三〜一五世紀のイタリァ諸都市で簿記実務が発達し︑ベネチアでのイタリァ式簿記の成立に帰結したと考えて︑以

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和 式 複 式決 算 簿 記 の起 源 につ い て fi?

下の論を進めていきたい︒

イタリアで二重分類簿記が発達した背景には︑イタリア人が中世から近世のヨ!ロッパの指導的商人であったこと

が考・尺られる︒イタリア商人は︑十字軍(一〇九六〜一二九一)の刺激により隆盛した地中海貿易の担い手となった︒

ジェノバとベネチアがヨーロッパと西アジアとを結ぶ中継地としての地位を確立すると︑イタリア人は︑支店・代理

店網や国際的な組合企業(パートナーシップ)によって遠隔地間商業を営み︑ヨーβッパにおける国際的金融業のほと

んどを独占した︒彼等は︑為替手形を発展させ︑海上保険を試み︑商法典を発達させた︒

﹁中世における商業︑資本︑信用を囲続する環境は古代におけるそれといちじるしく異なっていた﹂(ピ{銭Φ仲8矯掌b︒μ︑(訳)三六ぺージ)と結論づけたリトルトンは︑複式簿記の生成要素を次のように整理している︒(一)資料(簿記で整

理せらるべきもの)︑㈲私有財産(所有関係を変更する力)︑㈲資本(生産に用いられる富)︑㈲商業(財産の交換)︑㈲信用

(将来財貨の現在使用)︑(二)表現手段(資料を表現する手段)︑㈲書方ぐ氷久記録の手段)︑㈲貨幣(交換の手段︑計算の共通

尺度)︑㈹算術(計算の手段)︑(三)方法(資料を体系的に表現する方法)︒そして︑﹁この方法がすなわち簿記である﹂

(疑鮎こ℃﹄ω︑(訳)二一二︑二四ページ)としている︒

ド.ルーバはリトルトン説を発展させ︑複式簿記の具体的な生成要因として組合企業︑信用取引︑代理店業務の三

っを挙げている︒その三要因のうち︑資本の所有者とは独立した実体(︒算一蔓)としての企業の認識をもたらした組合

企業が最重要だとする︒組合が︑一航海ごとに解散する冒険企業の当座組合から一定期間存続する期間組合に移行す

るにおよんで︑拠出資本と留保利益とからなる自己資本の増減を記録することや利益分配計算をすることが必要とな

った︒次に︑信用取引の増大とその複雑化に対応して︑人名勘定の生成とその勘定形式の改善がもたらされた︒代理

店業務は前二者の要因ほどの重要性はないが︑代理店を利用した商品の遠隔地間売買"委託・受託売買が商品勘定の

(10)

生成をもたらしたという︒(山①因︒︒︿︒﹂亭嵩㎝占嵩)︒

以上のようなリトルトソおよびド・ルーバの所説を︑泉谷勝美は次のように敷術している︒(1)簿記の生成の要

因は様々で︑それぞれの要因が果たした局面も同一ではなかった︒(2)企業の計算記録が︑備忘録から外部顧客や

組合員︑使用人等に対する証拠資料に発展するために︑記帳方式が画一化される方向に進んだ︒(3)貨幣が十進法

でなく︑複数貨幣が流通と計算貨幣の採用という悪条件のもとで︑当時の計算能力で計算の正確性を期すために︑貸

借平均をはかる勘定形式に発展した︒(4)商人は︑貨幣・度量衡・商品・交通等の知識とともに簿記に習熟するこ

とが要求され︑それらについて教育の果たした役割が大きかった︒(5)複式簿記は特定個人の発明でも︑一地方の

特産技術でもなく︑その発展には長年月を要した︒(泉谷︑五二〜五四ページ)︒

さらに︑次のことも見落としてはなるまい︒すなわち︑簿記・会計なくしては︑﹁事業の全体像がもはや概観でき

ないほどに拡大してしまった状態に商人達があったこと﹂(テソ・ハーヴェ︑三代川(訳)冒Φ︒︒呂二二ページ)︒そして︑

遠隔地間にはりめぐらした支店・代理店網を管理することが必要となり︑支店管理者.代理人の報告責任の必要が生

じたことである(現代の会計学では︑会計の意思決定情報機能ばかり重視されるむきがあるが︑責任(帥︒︒︒巨陶甑ξ)機能も重

視されてしかるべきである)︒

それでは︑日本ではどうであったろうか︒わが国の現存資料で複式決算が確認されている最古の例は︑鴻池両替店

の一六七〇年(寛文一〇)1内容は寛文九年九月から始まるllの﹁算用帳﹂であり︑﹁鴻池両替店では︹一六七〇

年に︺十人両替の公用を開始するにあたって︑︹中略︺帳合を明確なものにしたと推測される﹂(作道ロΦ象]二九︑三

〇ページ︒︹︺内は引用者が挿入)︒鴻池が︑同じく十人両替の一員であった天王寺屋から︑簿記法を学んだという説も

あるらしい︒二重分類簿記である可能性も考えられる現存最古の史料は︑冨山家の一六三八年(寛永一五)の﹁算用

(11)

和 式 霞 式 決算 簿 記 の 起 源 に つい て 69

帳Lで︑これは︑﹁財産計算の内容を持つもので︑損益計算の記録はない﹂(河原ロO謡]二三ページ)︒これを河原は︑

﹁いわゆる︑単式簿記でありしと評価している(同︑二七ページ)︒この﹁算用帳﹂の計算結果を累年記録したものとも

考えられる﹁足利帳﹂が︑冨山家の純資産の増減を﹁元和元年(一六一五)から寛永一七年(一六四〇)までの二五年間

にわたって記録﹂(同︑八ページ︒()内も原文のまま)している︒いずれにしても︑元禄時代(一七世紀後期から一八世

紀初頭)には︑伊勢︑近江︑京都︑大坂(大阪)などの上方の大商家の間に複式決算がある程度普及していたものと考

えられる︒

戦国時代より始まり統一政権成立によって加速された経済成長の花開いた時代が︑元禄時代といえよう︒﹁近世初

頭から一八世紀はじめにかけて︑わが国の耕地面積は二〇〇万町あまりから三〇〇万町へと増加した︒また人口も約

一︑二〇〇万人から約二︑六〇〇万人に増大した﹂(宮本又郎ロミ︒︒]︑一五ページ)のである︒徳川家康の江戸開府によ

って形成され︑家光政権における参勤交替制度の確立によりより発展せしめられた人工的大消費都市の江戸と︑それ

を支える﹁天下の台所﹂の大坂および古くからの工業先進都市の京都との間に︑遠隔地間商業が発展した︒それに伴

う三都間の為替送金も成長し︑為替手形の形式を利用した貸付け︑いわゆる擬制為替も発達した︒商人の教育水準は

高く︑読み︑書き︑算盤が必須とされた︒算術の教科書も普及し︑一六二七年(寛永四)に初版の出た吉田光由(著)

の﹃塵劫記﹄は︑﹁大きな流行を来し︑内容を多少加除し︑﹁○○塵劫記﹂あるいは﹁塵劫記○O﹂と称したような書物

を輩出させた︒その種類は明治中期に至るまで三︑四百種に及んでいるL(吉田(著)︑大矢(校注)ロ⑩謡]二六ニペ!ジ)︒

大商家の代表とでもいうべき呉服商の多くは︑伊勢︑近江の出身で︑﹁京都に仕入店としての本店を置き︑江戸に

卸︑小売の店をもつという﹂(正田ロ㊤謡]一〇八ページ)﹁江戸店持京商人﹂の形態をとり︑﹁両替屋︹金融業者︺を兼

営する者が少なくなかった﹂(中田ロo$]一五三ぺージ)︒日本ではイタリアと異なり︑近江商人の一部などを除けぽ︑

(12)

共同企業は発達しなかったが︑家制度が継続企業(σqO一5αqOO鵠OO﹁口)としての事業ロ家業の認識をもたらした︒﹁家督.

財産は当主一代のものではなく︑先祖よりの﹁預りもの﹂であり︑これを子孫に譲渡していくべきものとされL(岡

本ロリミ︺二一三ページ)︑家の永続性が希求された︒家産を支えるための家業を営む場すなわち店11表は︑家産‑店

の営業の他に投資資産としての不動産や利貸し債権などを含むーを維持し︑家(同族団)構成員の生活を管理する

機関すなわち元方目奥から︑戯然と分離された︒いわゆる番頭経営は︑奉公人重役の当主に対する報告責任制度をも

たらすこととなった︒また︑遠隔地にある支店管理のためにも︑会計報告が力を発揮するようになった︒

このようにみてくると︑中近世のイタリア商人と元禄時代の日本の大商家とのあいだには︑かなりの共通性がある

といえるであろう︒すなわち︑簿記の発展を担ったものはイタリァにおいても日本においても︑常設店舗網を持ち︑

遠隔地間の取引を行う︑金融業者兼商人(日①同︒訂箕訂準8であり︑ゾムバルトのいうところの資本主義的企業であっ

たと考えられる︒資本主義的企業とは︑﹁独立の経済的有機体として︑それを構成する個々人の上に︑個々人を越え

て組織される︒この組織体は︑経済取引の遂行者として立ち現れ︑それ自身の生命をもつもので︑往々にしてその寿

命は構成員の寿命を越えるにいたる﹂(ω§げ翼口⑩︒︒O]唱・b︒OO)ものをいう︒現代の会計学で会計公準と呼ぼれる︑貨幣

評価︑会計実体︑および継続企業の三つは︑発生史的にも基本的な前提であり︑それらは信用経済の発達とともに現

れてきたように思われる︒すなわち︑二重分類簿記による企業会計では︑種々の資産の異なる性質を捨象して︑総て

の資産を統一的価値尺度としての貨幣額で測定せねぽならぬ︒このことは︑貨幣額として計算される企業の資本.利

益といった抽象的な概念が商人に明確に認識される程に︑貨幣経済が発達していることが︑二重分類簿記発生の前提

として不可欠であることを意味している︒そして︑複式決算簿記の使命は﹁資本主義的企業﹂の資本と利益の測定.

報告であったと考えられよう︒

(13)

四 洋 式 簿 記 の 近 世 日 本 へ の 伝 播 説

I ー イ タ リ ァ 式 簿 記 と 和 式 複 式 決 算 簿 記 の 相 異 1 ー

和 式 護式 決 算 簿 記 の 起源 に つ い て 71

﹁この考えはさらに︑認識知(エピステメ)と技術知(テクネ)とを階層的に区別した古代ギリシャの思想が源にな

っているともい︑兄よう︒エピステメとは︑少数の疑いのない公理から論理的に演繹(えんえき)された科学的な知

の体系であり︑テクネの上位にあるものとされる︒しかし︑伝統的な日本のアプローチは︑いわば現場情報1ーテク

ネを尊重し︑エピステメとテクネの間に明確な区別は設けない︑といものだった︒﹂(青木ロ㊤︒︒︒︒])︒

イタリア式簿記が江戸時代以前に日本へ伝来したか否かという点について︑西川孝治郎は次のように述ぺている︒

﹁十七世紀の初めオランダおよびイギリス両東印度会社が九州の平戸に商館を設けてそこで日本との取引を記録計算

したのは︑複式簿記がわが国土で実施された初めである︒﹂﹁このように複式簿記がルヵ・パチオリのズムマ出版から

百余年の後日本の国土へはいって来たが︑それが平戸商館の石垣をこえて日本側に伝わった形跡はまだ見出だされて

いない﹂(ロ㊤象]五三︑五四ページ)︒ちなみに︑一七世紀の前半に日本在留二十余年︑その間に平戸オラソダ商館長も

務めたヵ胃ソ(竿き寅切爵同8H①8〜μ0刈︒︒)は次のように記している︒︹日本人は︺﹁伊太利流の簿記法を知らないが・

勘定は正確で︑売買を記帳し︑一切が整然として明白である﹂(幸田(訳)ロ霧己一八八ページ)︒また︑次のような小

倉栄一郎の叙述もある︒﹁外国の影響から隔絶され︑固有の商業資本が形成された江戸時代に︑固有の帳合法が自ら

の要求に応じて成立したという想定は十分に論拠のあることである﹂(口㊤①鱒]一七ページ)︒︹イタリァ式簿記の伝播が

あったのならば︺﹁何程かの西洋式の名残りが留められていてしかるべきであるのに︑そのようなものは何も発見さ

れていないのである﹂(小倉ロ㊤隷﹂三二三ページ)︒

(14)

これに対し︑イタリア式簿記が安土・挑山時代に日本へ伝播したという説を︑岩辺晃三が精力的に主張している

(口ΦQ︒①﹂[6︒︒昌ロΦ︒︒c︒二月]ロ⑩︒︒︒︒三月])︒彼はイタリァ式簿記の日本への伝播の傍証例として︑たとえば︑角倉了以

(一五五四〜一六一四)を取り上げて︑次のように述べている︒﹁土倉業は︑いわぽ金融業であり︑また︑朱印船による

貿易に携わったことからみて︑当然︑簿記の技術は有していたと考えられる︒土木事業に携わり︑河川の改修および

堀の開削を行なったのであるが︑これには緻密な計算を必要とし︑数学の知識を有していることが必須であった︒

︹中略︺ヨーロッパからもたらされた科学的知識を了以自身が何らかの方法で修得していたと考えられる﹂(ロΦ︒︒G︒

三月]三一べージ)︒しかし︑金融業や大規模土木事業︑あるいは数学の知識は︑ローマやメソポタミア︑エジプト︑

中国などの古代文明にもあったのであるから︑イタリァ式簿記の日本伝播の論拠にしては︑説得力に欠ける︒また︑

﹁筆者︹H岩辺︺は︑﹃塵劫記﹄が﹃算法統宗﹄︹明末の中国の数学書︺によるものではないとするならぽ︑そこにはヨ

ーロッパの数学の影響が存在したと考える﹂(同︑三六ページ︒︹︺内は引用者が挿入)とあるのも︑論理飛躍に感じら

れる︒簿記が数学(商業算術)の一部として論じられた中近世ヨーロッパと異なり︑中国の商算書に簿記が何等かの

形を留どめた﹁痕跡は全くない﹂(武田[おま]=一ページ)︒和算書においても簿記の叙述はない(吉田ロ①︒︒出ロoミ]︑

鈴木ロ刈︒︒呂︑山崎ロ霧o]︑目本学士院日本科学技術史刊行会ロ鶏昌等参照)︒したがって︑仮に︑和算に西洋数学の影響

が認められたとしても︑そのこと自体ではイタリア式簿記の日本への伝播の証拠とはなるまい︒その他の論拠として︑

イエズス会に会計担当者が存在したこと︑漂流者の弥次郎がゴアの聖パウ戸学院で数学を学んだ筈であること︑来日

修道士アルメイダが商人であったこと︑セ︑ミナリヨで数学が教えられた筈であること︑蒲生氏郷の家臣となったロル

テスが諸学を極めていたこと︑などが挙げられている(岩辺口oc︒①]二〜七〇ページ)︒ただ︑﹁文化論的アプローチと

もいうべき観点から敢えて主張を試みた﹂(ロ⑩︒︒己一ページ)ものであり︑﹁イタリァ式簿記が伝えられたと考えられ

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和 式 獲式 決 算 簿 記 の起 源 に つ い て 73

るが︑確かな痕跡は見出し難いL(同︑二ページ)と自ら認めるところなので︑それらの一つ一つをここで検討するこ

とはしない︒ただ︑二つの疑問を述べておくに留める︒

その一は︑イタリア式簿記の記録.計算形式の基本的な枠組を備えたものが︑前述の小倉説にもあったように︑近

世日本の帳簿資料の中に見出だせないことである︒イタリァ式簿記も和式複式決算簿記も本質的な計算原理には変わ

りがないといっても︑記録.計算形式の基本的枠組の相違は無視できない︒イタリァ式簿記には︑既述のように・左

右対照勘定︑貸借均衡︑貸借複記式仕訳記入という枠組を持っている︒

近世日本の帳簿は縦書きであるから︑欧米のような左右対照勘定形式をそのまま使えないが︑福沢諭吉の﹃帳合之

法﹄(ロ︒︒認])や︑中国宋代以降の帳簿(郭(著)︑津谷(訳)[お︒︒︒︒]二〇六ページ)︑あるいは﹁進歩した支那簿記﹂(根岸

ロOω︒︒]四二一ページ)︑﹁南支系中国簿記﹂(戸田ロ逡b︒])に見られるような︑上下両欄を対照させる形式を勘定記録に

用いることは可能である︒そのような勘定形式が江戸時代に全くなかったわけではないが(小倉ロリ8]五六ページ)・

むしろ例外的と思われる(勘定記録の現存確認例は多くなく︑断定は控えるが)︒しかも︑和式簿記の場合︑﹁この二段に区

分した様式は︑正.負を区別して合計するのに適している︒しかし︑それ以上の意味は存しない︒︹中略︺︹ある帳簿

の記入形式は︺他の帳簿の上下の記入法とは何ら関連をもたない﹂(同︑一三九ページ︒︹︺内引用者挿入)︒すなわち・

﹁西洋の簿記法にみられるごとく︑二面形式が取引記入法則と決算構造に結合して有機的な基本的技法になるという

にはいたっていない﹂(同︑一三八ページ)のである︒

イタリァ式簿記では︑勘定残高を合計額の少ない側に加えて勘定の左右の合計額を一致させる(貸借平均させる)と

いう︑加法専用形式の勘定を用いる︒和式複式決算簿記にも︑加法専用によって︑(上下対照ではなくて)前後に分け

られた勘定の両方の合計額の一致を確かめる形で記録されている例もある(西川ロリ︒︒b︒七月]三九ページ・賀川ロ¢︒︒呂

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二七Qぺージ)︒しかし︑和式簿記では︑合計額の多い側から少ない側のそれを差し引いて︑差額として勘定残山口阿を記

録する﹁加減法併用簿記法﹂(高寺ロΦお]二二〇ページ)が︑一般的であったと考・兄られる︒

和式複式決算簿記にも︑現金式仕訳を用いて︑現金収支の伴わない取引については複記されている例もある︒しか

し・その場合でも︑現金取引は単記の仕訳記入となっている(小倉ロ㊤①・︒]九〇ページ︑西川ロ㊤︒︒呂六八ページ︑同[お

︒︒㊤]二〇四ぺージ)︒イタリァ式簿記が総ての取引について貸借複記式の仕訳記入をするのとは異なる︒

このように︑和式複式決算簿記にも︑部分的には見掛けの上で︑イタリア式簿記を縦書きに書き替︑兄(多少の変形

を加え)たのと同様の形式になっているものも︑全くないわけではない︒しかし︑それとてもイタリァ式簿記が貸借

複記式仕訳・左右対照勘定︑貸借平均窒セットとして組み込んで︑記録.計算形式をシステム化しているのとは︑

大きく異なる・もし・イタリァ式簿記が︑織豊時代に日本へ伝わり︑近世の商家に伝播したのだとするならぽ︑イタ

リア式簿記の記録・計算形式の基本的な枠組みを備えた帳簿を︑江戸時代の資料の中に見出だせないのは︑どういう

訳であろうか︒

疑問の二は・簿記法を解説した教科書の類いが近世の日本覧出だせないことである︒欧米におけるイタリァ式簿

記の普及には︑次の二点が重要な役割を果たした︒﹁すなわち︑第一に簿記を学校のカリキュラムの対象とすること

であり・第二に生徒の教科書として役立つような適当な書物の現れることであった﹂(芝︒︒崔量℃.含︑片岡.片岡

(訳)ロ㊤ミ﹂一二七ページ)︒パチオリの﹃スムマ﹄が会計史上高く評価されるのは︑それが単に簿記を論じた印刷本と

して世界最古であるというだけではなく︑既述のように︑西欧諸国へのイタリア式簿記の伝播に極めて大きな影響を

持ったためである︒一六〜一八世紀の三〇〇年間についての西洋会計史の研究の大半が簿記書の追跡にあるといって

よい程に・欧米では多数の簿記の教本類が書かれている(浜田冨・.ω]第蚕早︑久野[§﹂第二部︑第三部参照)︒明

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和 式 複式 決 算 簿 記 の起 源 に つ い て

?5

治以降の日本における洋式簿記の普及にも︑学校教育と教科書の果たした役割が大きかったのではなかろうか︒もし︑

イタリァ式簿記が一六世紀末に日本に伝来したのなら︑何故︑当時の複式簿記の書物が残っていないのであろうか︒

簿記教科書類の存否に関連して︑近世日本においては諸商家間の会計実践にほとんど統一性が見られない点にも注

意を要する︒欧米においては︑﹁教本類は会計実践の標準化に重要な役割を果している︒一八世紀にはイタリァ式

簿記が支配的となり︑西ヨー悌ッパ中に定着した︒時にはこの標準化は記載される諸事項の同一性にまで及んだ﹂

(0訂臨の拝マαQ︒︑(訳)七三ページ)︒これに対し︑近世日本の諸商家の決算報告書を見ると︑その表示形式は家ごとにま

ちまちである︒大きく分ければ︑純利益を二面的に計算するものと︑純資産の二面的計算を行うものとに類別できる

が︑前者においては資産の部を先に記載するものもあれぽ︑負債・資本の部を先行させるものもある︒後者において

も表示形式が一様ではない︒また︑﹁貸シ方﹂という言葉が︑資産の部全体を示す例もあれぽ︑売掛金を指すものも

あり︑負債.資本の部を表すのに︑﹁預り方﹂という語を使う例もあれぽ︑﹁借り方﹂というものもあるなど︑用語法

にも統一性が見られない︒和式簿記では︑日々の取引を日常的に記録した帳簿類の現存確認例は多くなく︑研究の蓄

積も乏しいが︑管見の及ぶ範囲でいえば︑同じ商家の中でも簿記法は店によってかなり異なり︑同じ店でも部署によ

り相違が見られ︑細部に至れぱ︑同じ部署でも記帳者によって変化がある︒このことは︑近世日本では簿記技術が現

場作業の中でOJTによって伝えられる部分が大きかったであろうことを反映しているものと思われる︒

以上のように︑和式複式決算簿記にはイタリア式簿記の基本的枠組を持つものが見当たらないことや︑イタリア式

簿記の伝播を示すような簿記論に関する和書が発見されていないことから︑近世以前にイタリア式簿記が日本国内に

伝播したとは︑考えにくい︒むしろ︑前節で述べたような中世イタリアと共通点を多く持つ元禄時代の経営環境の中で︑

必要に迫られた大商家が日本国内で自生的に簿記法を発展させていったとみる方が︑自然のように思われる︒しかし︑

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だからといって・イタリア式簿記の日本伝播説を全く否定しきるつもりはない︒吉野ヶ里遺跡の新発見を見るまでも

なく・史料の未(発)見が事実そのものの不存在を証明することにはならない︒数学において一般的不存在の証明問

題に讐いものが多いようであるが︑歴史研究において﹁存在しなかった﹂と断定するに積重さが要求されよう︒

右に疑問として掲げた二点こそは︑あるいは︑科学技術の日本的アプローチの特質が︑舶来技術の受容上に顕著に

示された典型例を表しているのかも知れない︒日本の伝統的接近法には︑﹁体得とか会得とかの概念が︑蓮屈﹂1

それは当然言葉籟らざるを得ないーによる理蟹りも上位におかれ﹂(村上[謹]一七三fジ)るという特徴が

ある︒たとえぽ・﹁日本刀の鋼の組成や反り加減︑あるいは血流しなどはすぺて︑経験の重積の上に発明されたもの

であって・冶金理論や・力学や︑流体力学などの理論から産み出されたものではない︒総じて︑﹁コッ﹂にょる会得

を身上とする日本の科学技術のあり方には︑つねに︑経験主義的な傾向が色濃く反映されている﹂(同︑一八ページ)

のである︒

ところで・﹁パツィオロ︹欝︒凶o躍は勺伽9ざの複数形で姓を示すとき使われる︺の簿記の根底にょこたわる理論に

ついては・彼の陳述の中から︑いわば︑言外の意をくみとつて解釈しなけれぽならない︒パツ茅・の著謹鐘論

化をくわだてた部分はまつたく見られないからである﹂(甥仲二︒8p℃・刈Q︒(訳)二九ぺ←︒︹︺内引用者挿入)ともいわ

れている・確かに・西肇各科の学問(科学)の専門分化が確立した一九世紀半ばの簿記書︑あるいは遡って︑イギ

リスで産業革命が起こり︑フラソスで百科全書が編集された一八世紀半ばの簿記論の水準からみれば︑パチオリの体

系化は全く未熟といわねばなるまい︒しかし︑教科書を叙述する1言葉で伝えるーという.芝自体が︑一般化

(抽象化.理論化・体系化)への傾向の反映とみることができよう︒パチオリの簿記論でも︑今日の簿記入門教科書の多

くと同様・小規模な個人企業を例に用いている︒今も昔も︑個人零細企業では実際問題として︑複式簿記による記帳

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和 式複 式 決 算 簿 記 の起 源 に つい て

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などは面倒なぼかりで︑現実的必要性に乏しい︒逆に︑パチォリ以前に二重分類簿記を採用していたイタリアの大商

人は︑パチオリが記したもの以上に高度な簿記技術や会計評価方法を用いていた︒これらの大商人にはパチォリ簿記

論の一部は﹁ほとんど役立たなかったであろう﹂(O冨臨Φ5も駆㌣(訳)五ニページ)︒入門書のモデル・ヶースが現実問

題にそっくりそのまま利用できる場合は︑むしろ少なかろう︒トーマス・ジョ:ンズの簿記書(目ぎ冒器甘コ︒︒,・§僑

㌣§魯駐§概㌣§賦畠ミ切§寒恥愚ミ寧2磐団實ぎ一窪μ)には﹁商人の帳簿に二つ同じものがないのは︑住宅の間取りが

一軒一軒違うのと同じことだ﹂と書いてあるそうだが(西川(孝)ロ⑩譲]一〇二ページ)︑それでもモデル化して教本に

まとめるのが西欧合理主義の接近法︑それだからOJTに頼るのが日本的やり方︑といえるのではなかろうか︒

ともあれ︑イタリア式簿記が日本に伝わったと仮定して︑織田信長の時代から︑一六七〇年に鴻池家に複式決算簿

記が出現するまで約一世紀︑遡って冨山家の一六一五年の帳簿が二重分類簿記だったとしても︑その間に半世紀近く

ある︒この空白をどう考えるか︒近世初頭の日本で︑中華人民共和国商業部が︑中国の日常用語と計算慣習に合うよ

うに洋式簿記を改革して︑一九六四・五年に加減法併用の﹁増減記帳法﹂創出した(服部(編)ロo︒︒8五ページ)のと

似たことが︑行なわれたと考えることも可能であろう︒そして︑元禄時代までに上方の大商家間に伝播する過程で︑

イタリァ式簿記が︑その教授法まで含めて︑すっかり﹁和式﹂化されきってしまったという可能性も︑現在のところ︑

全く否定することはできない︒

五 お わ り に

ー 二 重 分 類 簿 記 の 起 源 の 世 界 史 的 問 題 I l

﹁何世紀にもわたって︑進歩の大道におきまして︑ドィッは西欧諸国に先んずるどころではなく︑その後を追った

(20)

のであります︒︹中略︺それにもかかわらず︑ドイッの実証研究の威光に屈伏して︑ドイッの提供するあまりにも

乏しい史料に基いてつくりあげられた学説を︑ドイツよりも進んだ文明に適用しようと四苦八苦したことが何度あ

ったでありましょうか︒L(ピレソヌ︑佐々木(訳)ロ⑩︒︒︒︒]二五ページ)︒

﹁今日の時代遅れの世界史には二つの致命的な欠陥がある︒

第一に︑あまりにもヨーロッパ偏重である︒世界史のなかのヨーロッパの時代は実はきわめて短く︑ヨーロッパ

(史)の世界史への貢献は限定されたものであるにもかかわらず︑︹後略︺﹂(謝ロ⑩︒︒︒︒]ヨペ!ジ)︒

和式複式決算簿記は︑近世の経済発展を背景として︑日本国内で自生的に生成したものと考えられるが︑イタリア

式簿記が近世初頭に日本に伝来したという可能性も全く否定しきれるものではない︑と書いた︒しかし︑可能性とし

て考えられる思い付きを記すことが許されるならぽ︑外国からの伝来すなわちイタリア式簿記の伝播と短絡的に考え

る必要もないであろう︒イタリア式簿記の起源が一五世紀頃のベネチアに求められるといっても︑二重分類簿記の計

算原理そのものがイタリア人の独創であるかは︑疑わしい︒だからといって︑ローマ起源説を支持するわけではない︒

ローマ起源説は︑﹁ギリシァーーローマの遣産が不当に強調され︑そこからまた必然的に︑ギリシアとローマの文明が

築かれる基礎になった近東の偉大な文明のいっそう深い恩義を無視することになった﹂(ωぎαq①Hロ鵠①]掌"罐︑平田(訳)

ロミ︒︒]六五〇ページ)というヨー冒ッパ中心史観の偏見が︑会計史研究上に現れた例と考えられる︒

先に︑貨幣評価︑会計実体︑および継続企業という会計公準が︑二重分類簿記の発生史からみても︑基本的な前提

であろうと記したが︑もう一点見落とせないことがある︒それは︑二重分類(二面性)の基本概念が一次の等式に基

づいている点である︒このことは︑一次方程式が解ける程度の代数の知識を商人階層が持っているような情況でなけ

れば︑二重分類簿記の原理の発明(発見)は覚束無いであろうことを意味しよう︒(既にできあがったシステムを利用する

(21)

和 式複 式 決 算 簿 記 の起 源 に つ い て 79

だけならば︑代数の知識がなくても︑取引類型別の記帳原則を十数種も暗記しておけば何とかなろう︒パチォリは商人が代数を習

得できなくても簿記が利用できるように考慮して︑教本を書いたのかも知れない)︒

ギリシア数学は︑数学の厳密化.理論化という面で果たした貢献は測り知れないが︑代数は幾何代数であって︑記

号代数や数値計算はあまり発達しなかったといわれる︒また︑﹁近世ヨーロッパに伝えられた古代ギリシアの数学は︑

決してギリシア直伝のものではなかった︒それは一旦アラビアの地に伝えられ︑そこでイソドや︑おそらくは古代メ

ソポタミアの数学の名残りと混ぜ合わされて︑十二世紀前後のヨーロッパに伝えられた﹂(村田ロ㊤︒︒昌七四ページ)ので

ある︒ピサのレオナルド(フ,ボナッチ)(常︒コ・︒凱︒(国げ8§幽)9ミo〜μ恕o)という商人がアラビア語を話す仲間から教

わった︑ゼロを含むイソド式記数法が︑﹁古代以来の数学にたいして︑西方ではもっとも重要な貢献であった﹂(ω繭謁Φ同・

掌刈鵯(訳)六六一ページ)といわれる︒そして︑﹁今日のような形式の乗法や除法が考察されてイソド記数法による筆

算法の完成を見たのは︑大体十五世紀のころであった﹂(吉田(洋)口o$]四六ページ)点も見落としてはなるまい︒こ

の=一〜一五世紀という時期は︑イタリアにおける二重分類簿記の発展の歴史と︑ほぼ符合する︒この時期には数学

のみならず︑﹁東方を主人とも教師とも考えていた広範な諸部門がある︒﹂﹁とくに東アジァからは︑回教圏とビザソ

ツという大きな通路を経て︑火薬︑製紙︑それにおそらく印刷術︑さらに運河の間門︑航海術では船尾材の舵︑縦帆︑

羅針儀︑その他多くのものがもたらされた﹂(ω貯αq︒さ亨胡︒︒騨朗O(訳)六五三︑六五四ページ)のである︒

また︑貨幣経済の発展というものは︑直接生産に携わる農村部よりも︑消費生活者が居住する都市部で︑より進展

したと考・兄るのが自然であろう︒世界史の流れからみれぽ︑ヨーロッパや日本は都市化が著しく遅かったといわれる︒

﹁中東は紀元前三千年紀から頁して高度な都窪会を維持してきた︒鉱︑金︑金︑と金残だけを求める人間は・近

代ヨーロッパと現代日本だけでなく︑この地域には昔から数多く存在した︒﹂﹁人口数十万人規模の︑あるいは百万人

(22)

を越える規模の都市は︑工業化した近代ヨーロッパにはじめて出現するのではなく︑中東や中国や北イソドには工業

化以前から存在しつづけていたL(後藤ロ㊤︒︒︒︒]三ページ)のである︒仏典に︑祇園精舎の建立のために︑ある大商人が

黄金を地に敷いて買い取った土地を寄進した話があるが︑これなども古代インドにおける商業の股賑を伺わせる︒イ

ンドに生まれたゲ1ムが︑西に伝わってチェスとなり︑東に伝わり︑ついには将棋に発展したという説もあるそうだ

が︑もしかしたら︑二重分類簿記も同様の経路をたどったのかも知れない︒インドのデリー大学教授が︑﹁近代簿記

(日巳①昌げ8穿︒9ごσq)の発明者は(アラビア数字と同様)インド人であってイタリア人ではなく︑前者が後者に近代簿記

を輸出した﹂(冨一一リ訟ぴq函日[同OQ◎①]や竃o)として︑バヒ・カタ(浮甑函ぎ邑というインド固有の二重分類簿記(山︒¢げゲ︒瓢仲.団

︒︒︽︒︒8日鼠げ8葬ΦΦ嘗σq)を紹介している︒バヒ・カタの起源がパチオリ以前にさかのぼれるかどうかの実証的史料はな

いし︑イソドからヨーロッパに伝わったとする説の論理性にも問題があるが(Z︒冨︒・ロO︒︒"]℃﹄︒︒︒︒)︑イソド会計史研究

の今後に注目したい︒

二重分類簿記の世界史的起源の問題はさておき︑日本の文化の発展には多くの面で中国文明の影響が大きく︑中国

文明は朝鮮を経由することが多かったことも︑忘れてはなるまい︒江戸時代のすこしまえは︑中国数学の第二回目の

移入期で(第一回目は奈良朝時代のすこしまえ︒大矢ロΦ臼]三ページ)︑﹁武士にも商人にも︑その他の職業者に取りまし

ても︑或る程度まで︑数学の必要を促す︒!さういつた機運に向つて来た﹂(小倉(金)ロ雷o]一二ぺージ)時期であ

った︒この第二回移入の数学の特徴に算盤の伝来があげられることにも注目したい︒和式複式決算簿記では︑﹁記録

は帳簿の中になされ︑計算はべつにそろぽんで行なわれている﹂(西川(孝)ロo①①]六六ぺージ)︒イタリァ式簿記では︑

その成立期が筆算の確立期に符合し︑計算と記録とが合体しているのと対照的である︒ところで︑算盤の伝来時期の

確定はできないが︑﹁豊臣秀吉の時代︑文禄年間に︑あらゆる史料が集まっている﹂(大矢︑一一︑一二ページ)ことに

(23)

和 式 複 式 決算 簿記 の 起 源 につ い て 81

も注意を引かれる︒有田焼などの磁器製作技術のように︑もしかしたら︑二重分類簿記も朝鮮から伝来したのかも知

れない︒韓国のユン教授は︑﹁開城簿記もイタリアのそれより約二百年先だったものではないか﹂(サロリ趨五月]一

四四ページ)と記している︒もっとも︑四介松都治簿法(開城簿記)の具体的資料は﹁前世紀の実践を保証する域をで

ないものかと思われる﹂(徐ロ零巳一五ニペ!ジ︒なお︑四介松都治簿法の諸起源説については孫[お︒︒己を参照)︒

思い付きばかりを書き過ぎたようだ︒歴史研究においては︑史料に裏付けられた歴史事実と︑事実をどう整理する

かの歴史解釈と︑情況証拠に頼っただけの推論とは︑それぞれ明確に区別せねぽなるまい︒二重分類簿記の世界史的

起源はおろか︑和式複式決算簿記の起源もはっきりしたことは全く分からない︒最後に次の言葉を引いて︑締め括り

たい︒

﹁遺された歯の一片から死滅した過去の動物の全体を復元して見せる古生物学者の大胆さが必要である︒この大

胆さは歴史学に必須の精神である︒しかしこの大胆さを学問上の単なる冒険から救ふものは︑資料の導くところに

従つて事物の聯関を忠実にたどつてゆく対象への沈潜と従来からの学問上の達成に対する尊敬以外にはない︒﹂(石

母田[お蕊]一ぺージ)︒

︻引用文献︼

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天野雅敏(稿)﹁徳川後期における阿波藍商資本の蓄積構造﹂(1)(2)L﹃愛媛経済論集﹄第二巻第二号︑第三巻第一号

八二年一一月︑一九八三年六月)︒

天野雅敏﹃阿波藍経済史研究ー1近代移行期の産業と経済発展ー﹄吉川弘文館一九八六年︒

安藤英義﹃商法会計制度論﹄国元書房一九八五年︒

石母田正﹃中世的世界の形成﹄伊藤書店一九四六年(︽岩波文庫青四三六‑一︾岩波書店一九八五年)︒ (

(24)

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)

岩邊晃三(稿)﹁江戸初期帳合法とルネヅサンス;イタリァ式簿記の日本への伝鍾ついてー⊥埼美学﹃社会科学論集﹄第

()

岩邊晃三(稿)程讐大福帳と歴史の謎ーイタリア式簿記の伝播に関連してー﹂埼玉大学﹃社会科学論集﹄篁ハ三号二

九八八年二月)︒

岩邊晃三(稿)﹁江戸時代の会計と文化的側面ーイタリア式簿記の日本での伝鍾ついてー﹂埼美学﹃社会科学論集﹄第

()

(稿).()

8一炉>H浄動智§§嚇§[o"OO;b︒

()

(稿)()

大谷寿太郎(稿)﹁江戸時代に於ける織物問屋の脹簿(一)(二)﹂﹃会計﹄第四一巻第五号︑第六号(互ご七年=月︑三

月)︒

大森研造(稿)﹁我国在来の商業帳簿﹂﹃経済論叢﹄第一二巻第五号(一九一二年五月)︒

大森研造(稿)﹁開城簿記の起源に就いて﹂﹃経済論叢﹄第一四巻第一号(一九二二年一月)︒

大森研造(稿)開舞記法の形式と内容﹂﹃会計﹄篁三巻第喜二九二三年四月)(右三篇︑﹃大嚢授遺稿﹄一九三七年に

再録)︒

大矢真一﹃和算以前﹄︽中公新書五七七︾中央公論社一九八〇年︒

岡本幸雄(稿)﹁﹁イエ﹂制度と日本の近代化﹂宮本又次(編)﹃江戸時代の企薯活動﹄︽日本経営史講座篁巻︾日本讐新

聞社一九七七年︒

参照

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