エドワード・ボンドの『リヤ』 : 『リヤ王』の改 作とその意義
著者 今西 薫
雑誌名 主流
号 45
ページ 54‑69
発行年 1984‑02‑20
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014958
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エ ド ワ ー ド ・ ボ ン ド の 『 リ ヤ 』 一一一『リヤ王』の改作とその意義一一一
今 西 薫
シェイクスピアの『リヤ王』は, 1602年に出版された『レーヤ王の年代記』
CThe True Chronicle History
0 /
King Leir)のプロットi乙負うところが 多い.但し,乙の年代記では,レーヤ王はガリア国王のもとに嫁いだコーデ ラの所に逃げのび、,ガリア国王の力によって,ゴネリノレ, リーガンの悪は滅 ぼされ,レーヤ王は復位し,ハッピーエンドで終る.これを種本とし,また セネカ流の悲劇U!乙対抗できる新しい悲劇形式の概念を結実させて,シェイク スピアは新しい悲劇を作りあげた. しかし,王政復古期には乙のシェイクス ピアの悲劇も,テイトによって, リヤ王の復位,エドガーとコーデリアの結 婚という勧善懲悪で,メロドラマ的なものに改作され,長年上演され続けて いナこ現代においては, ヤン・コットが r~ リヤ王』はいわば誰もが賛嘆はする がこれ以上は見に行く気はしない高い山のような印象を与える.まるでとの 戯曲は上演しでも読んでもわれわれを興奮させる力を失ってしまったような 一一いいかえれば,われわれの時代にはそぐわない,少なくとも現代の演劇 にとっては場違いであるような一一気がするつと述べているが, 乙の作品 を現代社会の人々に,直接的に訴えかけるようなものにしようとする動きが 見られる。ピーター・ブルックやチャーJレズ・マロウィッツは「悲劇jはリヤ のものではなく,我々のものである
3 J
と唱え,マロウィッツなどは,r
シェ イクスピアの演劇はもはや比類のない傑作としてではなく,手を加え,再考 される4資料》として考えられるべきだっという急進的な意見を持ち, 新 解 釈による上演を心掛けてきた.エドワード・ボンドの『リヤ』 55 劇作家の中にも,シェイクスピアの作品を下敷きにして新しい戯曲を書い ている者も多いが,その中で最も注目すべきなのは,エドワード・ボンドで はなかろうか. 彼は, Irリヤ』によって,劇作家としての地位を決定的なも のにした 彼は, セネカからトマス・キッドに継承されたものを受け継い でいる.彼が,亡霊や,教訓的な台調,復讐,残忍な行為を織り込み,観客 を恐怖に陥れる術を学んだのは,セネカの演劇からである.暴力について書
く理由を,彼は次のように言う.
1 write about violence as naturally as Jane Austen wrote about manners. Violence shapes and obsesses our society, and if we do not stop being violent we have no future. People who do not want writers to write about violence want to stop them writing about us and our time. It would be immoral not to write about violence.
「暴力の荘厳化に乙もるセネカ的精神の下には,中世の大衆から受けついだ 偉大な遺産が隠されているりとジョージ・スタイナーが語るように,ボンド は『リヤ』を創作するにあたり, Irリヤ王』を詳細に分析し, Irリヤ王』の登 場人物を原型的塑像に還元させ,人間本来の姿を社会の暴力化との関連牲に おいてとらえなおしている.
また,マーチン・エスリンがブレヒト風寓話8だとする『リヤ』は,ブレ ヒト,ジョン・アーデンにつながる系譜ζl入り,政治的色彩が濃く,観客に 思想の方向づけをし,行動にうつる動機づけを与えようとするものである.
ボンドは「できうる限り,政治的,社会的問題は合理的に解決すべきである と考える.正義という理由があるとしても,暴力に訴えるのは,視点、を変え れば,きわめて危険な乙とだ
9 J
とする. 彼は, 乙うした政治的,社会的教 訓を含む彼の演劇をくく合理的演劇J>>CRationalTheatre10) と名付けている.彼の《合理的演劇》は,まず社会とそこに住む個人の実相を描き出し,人々 の道徳概念を見つめなおすと乙ろから始まった.ilrリヤ王』で...善と悪と の対立,賢さと愚かさの対立,耳を貸さない天に正義を求めて絶望的に叫ぶ
56 エドワード・ボンドの『リヤ』
ことが,何かしら道徳劇の単純さをもって表現されるllJ とイーニッド・ウ エJレズフォードも述べているが,ボンドの見方もこれと同じものであり,
『リヤ王』に見られる宗教に基づく道徳概念は現実にそぐわず,結果的に人 々を道徳的盲目の状態に陥れると考えた. ボンドは, [fリヤ王』の芸術的価 値は認めるが,現代における社会的意味はないと断定する.彼は改作の理由 を次のように説明する.
I'm not criticising King Lear in any way. It's a play for which . .1 have enormous admiration, as I've learnt more from it than any other play. But... as a society we use the play in a wrong way. And it's for that reason 1 would like to rewrite it so that we now have to use the play for ourselves, for our time, for our problem.. .12
では,一体ボンドの『リヤ』はどのような作品なのか,本稿では『リヤ王』
の改作とその意義について考察してみようと恩う.
I
まず,ボ、ンドはリヤの精神遍歴の過程を三つの段階に分けて考えている.
Act One shows a world dominated by myth. Two shows the clash between myth and reality, between superstitious men and the autonomous world. Act Thr巴巴 shows a resolution of this in the world we prove real by dying in it. (p. xi v)
第一幕の神話というのは,自己認識を妨げる《壁))13の創造ζi躍起となり,自 ら作りあげた実体のない自画像に陶酔しているリヤの話である.まず舞台は 敵の攻撃を防ぐための城壁の構築現場を, リヤが視察に来る場面から始まる.
兵士も人夫も彼を恐れている. リヤは絶対権力者であり,目的達成のために は,人命の犠牲もいとわない.彼は暴力は暴力によって相殺される運命にあ ることに気付かず,問題を暴力的に解決しようとする.人民に平和をもたら
エドワ ド・ボンドの『リヤ』 57 すという大前提で作りあげようとしている城壁でさえ,農民によって繰り返
し破壊活動がなされ,彼らが強制労働に駆り出されているので,田畑は荒れ 放題である.彼の目差す平和のための壁は暴力の壁であり,彼は人を信頼す る乙とができず,身の安全をはかるために,ただ外界を遮断しているにすぎ ない.彼は身のまわりに起こっている現実を直視せず,情況を把握しようと もしないので,二人の娘,ボディス,フォンテイネJレが敵であるノース公と コンウォーノレ公と秘密裏に婚約してしまっていて,城壁の存在意義が失われ ているととにも全く気付いていない.
『リヤ王』では,愛情を物質で量ろうとし,自分を最も愛すると申し出た 者に,最大の物質的恩恵を与えようとしたリヤ王の盲目的な判断に悲劇の発 端があったが, 11リヤ』では, リヤが自分のまわりを壁で被い,視界を制限 してしまったととろに根本的な誤りがある.娘達iこ裏切られて,軍事行動に 入らなければならなくなっても, リヤは自分の置かれた立場をまだ理解して いない.戦いに破れ,墓掘り人の怠子夫婦の所に身を隠さなければならない 状況下でも,責任を回避しようとする. リヤ王が,退位を宣言した後,ゴネ リノレとリーガンl乙彼の権威と尊厳を踏みにじられでも,自分の立場を理解し なかったように, リヤも自らの神話を信じて疑わない.
『リヤ王』において, リヤ王の神話を保ち続けようとするのは, コーディ リアである.彼女は博愛主義的で,厳粛な愛と慈悲の女神であり,彼女が生 け賛になることによって,世界は秩序を回復し,調和が生まれたが,ボンド のコーディリアは平凡な一人の主婦にすぎない.彼女とリヤとの接触は, リ ヤが娘達の軍lζ破れ,墓掘り人の息子である青年のもとに身を寄せた時から 始まる.夫であるとの青年は,大自然の中で伸び伸び暮してきたので, リヤ を暖かく迎え入れるが,牧師である父親から宗教教育を受けてきた妻のコー ディリアは, リヤのように身の安全を守るために,内に議もりがちである.
青年が, She'd like to put a fence round us and shut everyone out."
(p. 26)と言うようK,常iζ《壁》を設けて,排他的である.また,彼女は現
58 エドワード・ボンドの『リヤJ
実主義者で,政治に巻き込まれて,家庭の平和が乱される乙とを極度に恐れ ている.彼女にとって,夫はあまりに楽観的で理想主義的なのである.コー テeィリアは,乙のようにリヤの娘ではなく, Iiリヤ王』のコーディリアとは 対照的である. リヤの二人娘は,全くゴネリjレとリーガンに匹敵し,ボディ スは常に冷淡で,抜け目がなく,残忍であるが,フォンテイネノレは自制心が なし感情に走りやすく,怒りをぶちまけるタイプである.
『リヤ王』では,ゴネリJレとリーガンは,突如 monster" として観客の 前に姿を現わすが,彼女達が,そうなった原因が明確化されていなしコー ディリアと比較し,不公平に取り扱われているとボンドは考える.
1 thought that the other daughters, though I'm not excusing them, were very unfairly treated and misunderstood. What 1 wanted Lear to do was to recognize that they were his daughters‑they had been formed by his activity, they were children of his state, and he was totally responsible for them14•
ボンドの『リヤ』では,二人が乙うした性格になった原因が解き明かされ ている. リヤの娘遠の非道徳的態度は, リヤが城壁の構築においても示した 社会と社会,人間と人間との聞に《壁》を設けて,葛藤を回避しようとした,
社会,人間への不信感に根ざしている.娘達の道徳観の欠如は,とりもなお さず, リヤの道徳観の欠如に由来し,彼女達が成長するにつれて,それはリ ヤのものをはるかに越えて残忍性を帯びてきたにすぎない.フォンテイネル の満足感は,彼女が憎しみを抱くものを破壊する乙とによってのみ得られる.
リヤの重臣,ウォリングトンに対する Killhis hands! Kill his feet! . . . Kill it! Ki11 all of it! Ki1l him inside! Make him dead! Father! Father 1" (p. 14) という発言は, リヤに対するうっ積した反抗心が爆発し たものである.乙の熱い燃えるような怒りとは対源的に,ボディスの行為は 冷酷である.何の怒りの感情も示さず,平然と二本の編み物棒で,ワォリン グトシの鼓膜を破ってしまい,良心の阿責のーかけらも彼女にはない.ボデ
エドワード・ボンドの『リヤ』 59 ィスもフォンテイネJレも世界を殺伐とした戦いの相としてとらえている.
ウエルズフォードは wリヤ王』のエドモンドに代表される新しい世代の 者達の住む世界を次のように説明している.
r
ゴネリノレ, リーガン, そして エドモンドにとっては,世界はホッブスの〔言うような〕世界である.つま り,各人は各人に対して手を振り上げ,唯一の人閣の幹は,相互に消滅させ られないための唯一の手段として,人々が理性と自己の利益によって結んだ 契約である.そしてこの契約は自己自身の利益を守るために破るζとが必要 なら,何ら道徳的なためらいなしに破ってよいのだというような世界であ るべ」ゴネリlレとリーガンが,乙の思想によって父親の人間としての本来の 姿を破壊してしまうことができたように,ボディスとフォンテイネルもリヤ との関係を一種の契約関係と見なしていて,それが不利になってきたので,破棄したにすぎない. リヤは全くそのことには気づいていない.
E
第二幕では, ζうしたリヤの認識不足に原因を発し,幻想の中に形成され た彼の神話が崩れ始める.彼は外部の敵ではなく<<壁》を作らせた内なる敵 と対崎しなければならなくなる.
『リヤ王』では, リヤ王の行動,言動が儀式的であり,作品を通して《存 在》から《消滅》への過程におけるリヤ王の遍歴の姿が抽象的に描かれていた が, wリヤ』ではリヤの神話の崩壊はきわめて具体的である.wリヤ王』では,
リヤ王のとる行動は全く受動的であったが, リヤはその点自ら積極的に外に 出て行き,それがいかに独断と偏見に満ちていようとも,彼なりの判断を下 す. リヤ王の場合,彼が決断を下したのは開幕の場だけであり,それもほと んど感情的発作から出たものとしか考えられず,論理思考に基づいて悲劇を 形成しようとするボンドには,納得のいかないものであった.
『リヤ王』の表象的主題は,自我を没自我の域に高めることであり,嵐の 場面で大自然に触れて, reason in madness"16
C I v .
vi. 173) というトム60 エドワード・ボンドの『リヤ』
の言葉に象徴される極限状態で,認識変革の第一歩を踏み出す乙とになる.
Lear's [King Lear'sJ progress‑drarnatic and spiritual‑lies through a dissipation of egoisrn; subrnission to the cruelty of an indifferent Nature17"
とグランヴイJレ±パーカーが言うように, 嵐の場面は一つの劇的頂点を形づ くっている. 乙のように, [fリヤ王』では, リヤ王は荒れ狂う自然のエネル ギーの中に身を置いて, 精神の浄化作用を求めたが[fリヤ』では対立する 社会体制,階級の葛藤のエネノレギーが,暴力という形をとってリヤを巻き込 み, 彼の悲劇を作り出している. [fリヤ』には嵐の場面はないが, リヤは囚 われの身になった時に初めて,自己の内面の探求を始める. リヤは,ほとん ど試行錯誤とも言える学習のしかたで,社会と自分の関係を理解し出す.こ のリヤの遅々とした自己開発と比べ,一介の主婦から革命軍の総指揮官にな るコーディリアの変身は劇的である.外界からの侵入を嫌い,殻の中に閉じ 込もっていた彼女の反抗は暴力的である.それは,弱者の論理であり,権力 に対抗するための権力指向であり,また暴力を恐れるが故に,よけいに暴力 に頼ろうとする国家の存在論理に似ている. 民 衆 の 正 義 感 を 背 景 に し た 暴 力行為による,ボディス,フォンテイネル軍への彼女の憎しみをこめた戦い は, [fリヤ王』のコーディリアが, 父への愛ゆえに軍を起乙したのと対照的 である.
乙の二人のコーディりアl乙共通点があるとするなら,それは最初の頑なな 精神的態度であろう. もちろん,彼女達は二人とも罪のない犠牲者であるが,
潔癖であるが故にリヤ王の誤解を招き,父娘とも悲劇的結末を迎えねばなら なかったコーディリア.そして,夫を説得する乙とができず, リヤを匿った が故に,夫を失い,強姦され, 胎児を失うコーディリア. [fリヤ王』のコー ディリアは,自己の内面に確固とした判断基準を持っていて,一歩も譲歩せ ず,ただ心 tζ愛を秘めて,それに従って行動する真撃な人間の姿であり,
『リヤ』のコーディリアは,怒りをこめて正義を貫くために,唯物論的立場 に立って物事を判;断する,追い詰められた女性の革命に目覚めた姿である.
エドワード・ボンドの『リヤ』 61 乙のコーディリアの率いる軍に破れて捕えられたフォンテイネルは,殺害 され,検屍にかけられる. Irリヤ王』では, リーガンに関し, 彼女を解剖し て見れば,どういう物体で彼女の心臓ができているかがわかる,と言ってリ ヤ王が叫ぶ場面があるが, Irリヤ』では, リヤは平然と娘の検屍に立ち会い,
彼女の体の中に悪の根源となるものがあるに違いないと信じている. しかし 彼が自にするのは娘の正常な肉体であり,その汚れのない美しきである.乙
ζで,彼の心をうった衝撃は,フォンテイネルを自分が創造したように,自 分が破壊したのだという確信である. 1destroy her. 1 knew nothing, saw nothing, 1. learned nothing! F 001! F 001! W orse than 1 knew!円 (p.60)
ζ ζで,彼に際立った精神的変化が見られる.
1 must walk through my life, step after st巴p,1 must walk in weariness and bitterness, 1 must become a child, hungry and stripped and shivering in blood, 1 must open my eyes and see! (p. 60)
乙れは, Irリヤ王』の荒野の場面を想定したものと考えられるが, こζで興 味深い点、は, Irリヤ王』と『リヤjjI乙共通する blindness" と vision"の パラドックスであろう. リヤは,との後,新政権の手によって,両眼を科学 的処理によって抜きとられてしまう.グロスターは盲目にされた直後では,
All dark and comfortless" Cill. vii. 83)と言うように,まだ洞察力を得 る段階に入っていないが, リヤは TheSun! It hurts my eyes!" Cp. 63) と,盲目の直後に,彼の罪と責任を認め,彼をとりまく社会の矛盾に気がつ く18
E
第三幕では, Irリヤ王』のストーリーからはずれ, 全くボンド独自のもの になる.コーディリアが, 乙乙で絶対権力者ならば, リヤは反体制者であり,
静かな農村に住んでいる.彼は,多くの人々に自然の中にいる烏を者むと入れ ようとして,鐘の中に閉じ込められる愚かな人間の寓話を聞かせている.乙
62 エドワード・ボンドの『リヤ』
乙に至って, リヤにつきまとっていた墓掘り人の息子の亡霊は,その存在価 値を失い始める. Il'リヤ王』の道化は, リヤ王の精神的均衡を保つための理 性の役割を荷なって,常に人間の,そして社会の持つ理性と感情を体現し,
観客に呈示していたがIl'リヤ』の墓掘り人の息子も, 道化のように,二百 性を持っている.乙の青年は,生と死の両側に彼の存在域を広げるのである.
彼は,生前死後を通してリヤに憩いの場一一一生前は肉体の,死後は精神の憩 いの場一一ーを提供しようとする. シェイクスピアの劇に現われる亡霊は,復 讐の魂であったが, この墓掘り人の息子の亡霊は, リヤの心にある幻想を映 す影であり,迷える魂でもある.乙の亡霊は,死後の世界での生き方がわか らず,現世での生活は容易だったと嘆く.これは,ボンドが,生命を軽視し 死後の世界を考えないという現代の風潮に,メスを入れ,死後の世界を創造 し,そこでの苦難を表現する乙とによって,現世の価値を強張しているので ある.乙の亡霊は,時にはリヤ i乙安逸な道を指し示して,彼を誘惑する.
(The Ghost) becomes a destructive thing in the play . . . .1 think you start inventing a myth about the case of the golden past. And if you try and live in the past, then that becomes a very destructive thing. And the ghost does live in the past, and he does belong to a stage of society that 1 think one can't go back19•
とボンド自身が言うように, リヤはもはや自分の殻に閉じこもることもなく 過去を振り返る乙ともなく,意義ある死,即ち,意義ある生の道をとる.乙 の亡霊である青年の二度目の死を目撃しでも,もはや以前の時のように嘆く 乙とはない. リヤもまた,自分の行くべき所,そしてその時をもう知ってい るからである. リヤ王がコーディリアを抱きかかえたように, リヤは青年の 亡霊の死骸を抱き,次のように言う.
1 see my life, a black tr巴eby a pool. The branches are covered with tears. The tears are shining with light. The wind blows th巴tearsin the sky. And my tears fall down on me. (p. 86)
エドワード・ボンドの『ワヤ』 63
リヤは, もう悟りの境地に達している. トニー・コウノレトは乙れを評し,
This new perception, in which Lear sees his life as something deathly, sad and yet now curiously serene, illustrates the distance he has travelled in the play. The circularity of the image‑tears blown into the air and falling back on himself‑precedes a final breaking‑out of the self‑destructive circles in which his life has always moved20•
リヤは,ここで死が彼に襲いかかるのを待つのではなく,死を覚悟して,社 会の弊害となる《壁》を取り壊しに出かける.
1 hit my head against a waH all the time. There's a wall everywhere.
I'm buried alive in a wal .lDoes this su妊eringand misery last for ever? . . . I'm old. 1 should know how to live by now, but 1 know nothing, 1 can do nothing, 1 a m nothing. (p. 80)
壁で囲まれた王国の内実が《無》であり,自己の内面にあるはずのものが《無》
であると,煩悶を経て悟った今<<壁》を破壊する乙とが, リヤにとって《無》
から逃れ出る唯一の道なのである.
しかし,新政権の座について,城壁の構築を再開していたコーディリアは リヤの行為を黙って見逃すわけにはいかない.新政権下では,壁は《束縛=
自由》を象識し,コーディリアは,人々を自由な状況に放置しておけば,不 自由になると考え,彼らを統率し,束縛することによって,道徳規範 lと従っ た自由を与えようとする. しかし,それはリヤにとっては自由という名の暴 力にすぎない.コーディリアの政権下では,暴力が制度化され,道徳が暴力 のー形態になっている. リヤはコーディリアに対し,
Y ou sacrifice truth to destroy lies, and you sacrifice life to destroy death. . . . If a God had made the world
,
might would always be right,
that would be so wise,
we'd be spared so much suffering. But we made the world‑out of our smallness and weakness. (p. 84)64 エドワード・ボンドの『リヤJ
と言う.乙れに対し,コーディリアは自分達はリヤが創造しようと,夢に描 いていた社会を実現するのだと言葉を返す. リヤは乙れに反論する. Your law always does more harm than crime, and your morality is a form of violence." (p. 85)
ボンドは,権力者側の押しつける道徳は暴力であり,非人間的行為だと考 える.乙のコーディリアに対するリヤの発言は,ボンドが作品の序文で,
Agression has become moralized, and morality has become a form of violenceプ(p.vill) と述べたものと同じで,新しい支配体制により権力 を集中し,ユートピアを実現しようとするコーディリアの政治姿勢は,暴力 から始まり,暴力に帰する組織体の必然的な生命ノfターンである.ボンドの 考えは,
. . . if you behave violently, you create an atmosphere of violence, which generates more violence. If you create a violent revolution, you always create a reaction... Lenin thinks for example that he can use violence for specific ends. He does not understand that he will produce Stalin, and indeed must produce a Stalin . . .21
でありIT"リヤ王』のコーディリアが, 第一幕の厳格なイメージから,慈悲 深い一女性となり,幕切れで精霊のような人閣を越えた存在として強張され るのに比べIT"リヤ』のコーディリアは,外的状況に左右され,平凡な女性 からスターリン的存在にならざるを得なかった,人聞の弱さを象徴し,それ を普遍化した存在である.
リヤは,いよいよ実際に城壁に立ち向うが,彼の行為は,象徴的なもので あって,次の世代を荷う若者達l乙考える動機づけを与えようとし,社会変革 を期待している22 最後に, リヤは城壁を壊し始めたとζろで, 兵士に射殺 されて幕が下りる.
エドワード・ボンドの『リヤ』 65
I V
『リヤ王』も『リヤ』も王の死によって,劇jは完結するが, A. C.ブラッ ドレイはIfリヤ王』の悲劇的結末は不可避的なものではなく, 必然性に欠 けると指摘している23 ボンドはこの点に留意し, Ifリヤ』において,王の死 を不可欠にするように,因果律に従って作粛をなしている.また,キワスト 教的な見地から言う《救い》というものが, Ifリヤ』には全く見られない. リ ヤ自身に, If1 saw a Christ on his cross 1 would spit at himプ(p.76) と言わせているように,自己犠牲を行なうことでは,何の解決にもならない ことをボンドは知っている. ボンドにとって 11リヤ王』のコーディリアの 行為は,キリスト教的ヒューマニズムに根ざす自己犠牲にすぎず,無意味な
ものである.
幕が下りる前のリヤの墜を壊す行為を,同様な宗教的ヒロイズムの見地か らとらえではならない.それは,彼の象徴的かっ具体的な,政治的,社会的 アピールと考えた方が妥当である.ボンドはこの点について,次のように述 べている.
My Lear makes a gesture in which he accepts responsibility for his life and commits himself to action.... Lear is very old and has to die anyway. He makes his gesture only to those who are learning how to livé4•
このように,個人の生命がいかに社会とかかわっているかを主題にし,暴力 と政治,道徳と宗教を扱ってきたボンドが結論を下すところは明白である.
Our problem isn't a wall that we can dig up like Lear does. His action simply means that he understands the things he's done wrong in his life . . . . If we can identify what our real dangers are, this is the only way 1 can see towards making genuinely revolutionary activity25.
というものであり,このように革命というのは,危機の実相を正しく認識す
66 エドワード・ボンドの『リヤ』
ると乙ろから始まり,その革命行動も権利意識から発するものである.ifリ ヤ』において,ボンドは<<壁》に象徴される自由の問題をも考察し,自由と いうのは,決して強制力のある法によって保証されるものではなく,権力者 によって制定された法は,弱者には悪として作用することを例証している.
『リヤ王』では,常にイノレージョンとリアリティの二元的な対立が, リヤ 王を中心に見られたが, ifリヤ』では, 亡霊も含めてリアリティの中での対 立,葛藤が基調になり作品が構成されている。また, ifリヤ王』は基本的に は個人の問題であり,それを普遍化して宇宙的秩序の中の人聞の叡知を引き 出そうとしているのであるが,逆 iと,世界の秩序が戻るまで,受難を耐えし のぼうとするリヤ王の態度は,我々,現代人にとって危険な道徳である26と いうボンドの考えに立っと, ifリヤ王』はその点, 社会道徳の見地からしで も反動的と考えられる.
『リヤ』では,人々の正義感,秩序意識が,対立,葛藤の中で様々な影響 を受け,構成されていく乙とを示すが,作品の劇的展開が簡潔で,ボンドの 伝えようとしたメッセージも直接的である.また, G.サJレガードが,
As with Brecht, the end of the play hurls the problem straight at the audience instead of neatly resolving it within the plot.... Thus the pervassive violence of his plays is continually aimed at making the audience aware, not of violence itse ,f! but of ways to
巴ndit27•
と言うように,ボンドにとって演劇を作る乙とは,現代社会の問題をあるが まま提示する彼自身の道徳行為の一つである.彼は,演劇というのは社会を 見きわめる手段であるとし,演劇のみではもちろん社会変革を望むことは到 底できないが, .. . theatre can co‑operate with all those who are in any way involved in rationally changing society and evolving a new conscIousness. 1t may initiate the change in some people
また,芸術はただ社会をうっし出す乙とにとどまらず,それを正しく評価し,
エ仔ワード・ボ、ンドの『リヤ』 67 で き る 限 り 実 践 的 役 割 を 荷 う べ き だ と し て い る .
以 上 , 作 者 の 思 想 を 背 景 に 『 リ ヤ 』 で 提 起 さ れ た 本 質 的 な 問 題 を 内 容 を 追 っ て 解 釈 し て き た が , 彼 の こ う し た 演 劇 に 対 す る 姿 勢 を 考 慮 す る な ら ば ,
『リヤ』の現代的価値も自ずから理解できょう.
注
1 サミュエル・ジョンソンは, ζのコーディリアを救うテイトの改作の方を良しとした.
. . • since all reasonable beings naturally love justic氾, 1 cannot easi1y be per‑ suaded that the observation of justice makes a play worse: or ̲.. the audience will not always rise better pleased from the 五nal triumph of per 自ecut民edv吋ir討tuピ巴 (σJ. E. Brown C巴d),The Critical Opinions of Saumel Johnson, p. 80, quoted in H. B. Charlton, ShakespeariaπTragedy CCambridge: Cabridge University Press. 1961), p. 229).
2 ヤン・コット著蜂谷昭雄・喜志、智雄訳『シェイクスピアはわれらの同時代人Jl (東 京 :13水社, 1965), p. 127.
3 Lear Log," in Theatre at Work: A Collectioπ of Inte内 初vsand Essays, ed. by Charles Marowitz and Simon Trussler, London 1967, p. 147, quoted in Horst Oppel and Sandra Christenson, Edward Boπd's Lear and Shake.やeare'sKing Lear (Mainz: Akademie der Wiss巴nschaftenund der Literatur, 1974), p. 5. 4 Charles Marowitz,Notes on the Theatre of Cruelty," Theatre at Work, p. 184,
quoted in Horst Oppel and Sandra Christenson p. 5.
5 Irリヤ』の初演は,イングリッシュ・ステージ劇団,ウィリアム・ギャスケノレ演出に より, 1971年9月にロイヤル・コート劇場においてなされた.1982年のシーズンには,
ロイヤル・シェイクスピア劇団により,ロイヤル・シェイクスピア劇場において『リヤ 王』アザー・プレイス劇場において『リヤ』を同時に,多くの同じ俳優を配し,実験的 上演がなされた.
6 Edward Bond,Author's Preface' to Laer (London: Eyre Methuen, 1972), p. xiv. 以下『リヤ』からの引用はすべてこの版によるものとし,本文中に引用頁数を括弧内!C 示す.
7 George Steiner, The Death of Tragedy (London: Faber and Faber, 1961), p.22.
8 Martin Esslin, The Theatre of the Absurd (Harmondsworth, Middlesex: Pen‑ guin Books, 1980), p. 433.
9 Edward Bond, Author's Note on Violence" to Plays: One CLondon: Eyre
68 エドワード・ボンドの『リヤ』
Methuen, 1978), p. 16.
10 ζの点,エリック・ベントレーはボンドの演劇を Theatreof Idea"の伝統に属す ると考える.(C. W. E. Bigsby, Contemporary English Drama CLondon: Edward Arnold, 1981), p. 123).
11 イーニッド・ウエルズフォード著,内藤健二訳『道化JI(東京.I嘉文社,1979), p.242. 12 Gambit No. 17, p. 24, quoted in Malcolm Hay and Philip Roberts, Bond,' A
Study of His Plays CLondon: Eyre Methuen, 1980), pp. 105‑6. 13 O.ケレンスキーは,乙の〈壁〉について,
This might be an analogy with western attempt to guard against Communist infiltration, and with those in our midst who deny that there is any such danger."
と述べている COleg Kerensky, The New British Drama CLondon: Hamish Hamilton, 1977), p. 22).
14 Simon Trussler (edふ New Theatre Voices of the Seventies (London: Eyre Methuen, 1981), p. 29.
15 イーニッド・ウエルズフォード, pp. 243‑244.
16使用したテキストは, Kenneth Muir (ed.), King Lear CLondon: Eyre Methuen, 1972).
17 Harley Granville‑Barker, Prefaces to Shakeゆ.eare(London: B. T. Batsford,
1930). p. 265.
18 ボンドは,盲目は洞察に至る劇的メタファーである,と言う.
Lear is blind till they take his eyes away, and by then he has begun to see, to understand. (Blindness is a dramatic metaphor for insight, that is why Glousces‑ ter, Oedipus and Tiresias are blind.) Author's Preface" to Lear, p. xiii.
19 K. ‑H. Stoll,Interviews with Edward Bond and Arnold Wesker Twenty Century Literature (December 4, 1976) in Malcolm Hay and Philip Roberts, p. 133.
20 Tony Coult, The Plays of Edward Bo河d(London: Eyre Methuen, 1977), p.45.
21 The Guardian, September 29, 1971, quoted in Malcolm Hay and Philip Roberts, p. 129.
22 Lear sets an example... to the young people who are left ̲ . . at the end of the play. They are really impatient people in the play‑they represent for me a new possibility for change in society. They are equivalent of Fortinbras. CBond's letter to C. Meyerson, March 28, 1977, quoted in Malcolm Hay and Philip Roberts, p. 137).
エドワード・ボンドの『リヤ』 69 23,A. C. Bradley,King Lear" in Frank Kermode (edふ Shakespeare:King Lear
(London: Macmillan, 1969), p. 88.
24 From the programme of the Liverpool Everyman Theatre's production of Lear, Oct. 1975 in Malcolm Hay and Philip Roberts, Edward Bond: A Companion to the Plays (Stratford.on‑Avon: Edward Fox and Son, 1978), p. 54.
25 The Guardian, September 29, 1971, quoted in Malcolm Hay and Philip Roberts, p. 138.
26 From the programme of the Liverpool Everyinan Theatre's production of Lear, Oct. 1975 in Malcolm Hay and Philip Roberts, Edward Bond: A Companion to the Plays, p. 53.
27 Gamini Salgado, English Drama (London; Edward Arnold, 1980), p. 209. 28 Edward Bond,Prξface" to The Bundle CLondon: Eyre Methuen, 1978 ,)p. viii.