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初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一齣

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初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一齣

著者 宇佐美 英機

雑誌名 同志社商学

巻 56

号 5‑6

ページ 50‑67

発行年 2005‑03‑15

権利 同志社大学商学会

ドウシシャ ダイガク ショウガッカイ

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007312

(2)

初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一齣

宇 佐 美 英 機

はじめに

創業年次の問題点 創業の検討 利益折半の状況 身代一致の過程 商内場・身代の分割

むすびに代えて

総 合 商 社 の 伊 藤 忠 商 事・丸 紅 は,と も に 初 代 伊 藤 忠 兵 衛 を 業 祖 と し,安 政5年

(1858)に伯父成宮武兵衛とともに持下り商いをしたことをもって,その創業年次とし ていることは,これまで良く知られた事実であ

1

る。それはまさしく,「その発生史的系 譜において,いわば 一卵性双生児 の兄弟会社」であり,その後に設立された多くの 支店や企業の統廃合の後,「 二卵性双生児 へと変

2

貌」していく企業の歴史を物語るも のである。

ただ,「一卵性双生児」として系譜をもつことは事実としても,両社の歴史の中でそ の取扱い(記述)が大きく異なるのは,大正10年(1921)3月10日に創業された「丸 紅商店」についてである。「丸紅商店」は第1次大戦後の不況によって経営の危機に立 たされた「伊藤忠商店」の危機を救済するため,住友銀行の慫慂を入れて黒字経営にあ った「伊藤長兵衛商店」が合併して発足した企業であり,昭和16年(1941)9月に再 び伊藤忠商事・岸本商店と合併し,三興株式会社となったことは周知のことであろう。

また,丸紅商店と伊藤忠商事がもう少し早い時期に再統合されなかった理由として,伊 藤忠商事や伊藤家の経営再建の事情や丸紅商店専務の古川鉄治郎の反対があったこと は,双方の社史にも記述されているところである。

しかし,すでに大正7年12月に伊藤忠合名会社は,伊藤忠商店・伊藤忠商事という 二つの株式会社に分割されており,呉服物・洋反物などを主力取扱い商品とした「丸紅

────────────

1 『伊藤忠商事100年』伊藤忠商事株式会社,1969年,3ページ。以下,『100年』と略記する。『丸紅前 史』丸紅株式会社,1977年,5ページ。

芳男『関西系総合商社の原像』啓文社,1987年,397・417ページ。

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商店」は,綿布糸や貿易を主な業務とする伊藤忠商事とは別企業であることは間違いな い。このことは,桂氏が述べるように「二卵性双生児」に変化することは戦後のことで はなく,もっと早い時期を考えるべきことを示唆しているのではないだろうか。なぜな ら,伊藤忠商事の社史の中で「丸紅商店」は語られることはなく,一方で丸紅の会社史 においては,詳細に語られている。その意味で,現在の丸紅は伊藤忠商店・丸紅商店の 系譜で,伊藤忠商事はかつての伊藤忠商事の系譜で自社の歴史を伝えていることは明ら かなのである。また,本稿の関わりでは,『丸紅前史』の中で「伊藤長兵衛商店小史」

に5ページを割いており,また,『丸紅商店之沿

3

革』でも「伊藤長兵衛一族の事業」の 一節が立てられており,注目されるところである。

本稿は,両者の会社史には丸紅商店創業以降については相違があるということを前提 にして,それ以前の時期(「一卵性双生児」と確かにいえる時期)について,両社の

「正史」ともいえる記事に問題はないのかどうかを検討するものである。本来なら大正 10年の丸紅商店創業の時期まで分析を加えるべきであるが,史料の制約と紙幅の関係 で,業祖である初代伊藤忠兵衛のまさに創業期の時期に限定して考察を加えることにす る。具体的には,安政5年から明治5年の時期に限って検討する。

創業年次の問題点

これまでの伊藤忠商事・丸紅の創業年次,ないしは初代伊藤忠兵衛の経営活動につい て関説した論稿は,そのほとんどが両社の会社史の記述をそのまま引用し,誰も疑った ことはない。しかし,会社史を詳細に読むならば,安政5年をもって創業年次とするこ との是非は,第一次史料で示されていないのである。

初代伊藤忠兵衛は,5代目伊藤長兵衛の二男として天保13年(1842)7月に生まれ,

明治36年(1903)7月8日に亡くなっているが,その間の彼の商業活動は明治28年7 月に病気療養のため須磨の別荘に転地し,翌月から執筆し始めた「経過

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録」で記されて いる。両社史における創業年次の指摘も「経過録」の記述を受けてのものである。しか し,この「経過録」は戦災で消失しており,「主要部分が筆写されてい

5

た」ものを両社 史は引用しているに過ぎないのである。「経過録」は,あくまで初代忠兵衛が後年に記 憶をもとにまとめたものであり,必ずしも客観的に執筆されているという保証はないと いうことを考慮に入れなければならないし,筆写に誤りがなかったとも断言できないの である。しかも,現時点では,その筆写本自体も所在が不明なままである。それゆえ,

────────────

株式会社丸紅商店本社,1931

4 「経過録」の名称は,『在りし日の父』(三田一編,非売品,1937年初版)24ページで2代目忠兵衛が記 している。両社の社史においては「手記」とされている。本稿では「経過録」と記す。

5 『丸紅前史』3ページ。

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引用にあたっては傍証史料を見つけて,その当否を明らかにする必要があるといえよ う。従来の研究は,この点に全くといって良いほど無関心であったといわざるを得な い。

結論的にいえば,本稿が対象とする時期に限っては,「経過録」の記述は,必ずしも 事実を正確には伝えていないと思われる。それは,「伊藤長兵衛家文

6

書」として残され た史料によって証明が可能だからである。いうまでもなく伊藤長兵衛は,忠兵衛の父・

兄であり,初代忠兵衛は6代目長兵衛の弟にあたる。6代目長兵衛は天保3年に生ま れ,明治27年1月に没している。この間,父の後を承け文久2年(1862)9月に6代 目を襲名している。

さて,両社史によれば,初代忠兵衛が兄万治郎(6代目長兵衛)に従い近村に行商し たのは嘉永6年(1853)のことであり,安政5年に元服して,その年の5月に母方の伯 父である武宮武兵衛に従い初めて近江麻布の持下り商いをしたとされている。この時,

売上高は57両,伯父からの商品仕入代金50両を差引き,純益金7両を得た。そして,

「初行商ニハ好都合ナリシト成宮氏及ビ父兄ニ賞揚セラレタ

7

リ」と回想している。次い で,翌年には馬関・長崎へも足をのばし,売上高200両・純益30両を得た。翌万延元 年(1860)には独立して北九州方面へ持下り商いを行い,文久元年(1861)に九州持 下りを本業と定めるとともに,従前,当該方面に既得権を有していた「栄久講」商人と 会談を持ち,同講に加入したとされ

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る。

以上の経過から考えれば,初代伊藤忠兵衛が商人として活動する画期となるのは,嘉 永6年(地商いの開始),安政5年(持下り商いの開始),万延元年(独立した持下り商 いの開始),文久2年9月(父である5代目長兵衛の死亡による兄の家督相続),及び明 治5年正月(大坂で開業)などが考えられる。これらは,いずれも創業の年として意味 づけることが可能であるにも拘わらず,両社においては安政5年をその年としている。

企業が独立した経営体である場合,当然の事ながら独立した会計帳簿を備えているこ とはいうまでもない。近世の商家においても,そのように考えて差支えないだろう。こ の観点から忠兵衛の商業活動を検討すると,安政5年段階で忠兵衛の独立した決算帳簿 が作成されていたのかどうかが問題となろう。『丸紅前史』によれば,忠兵衛が安政6 年に持下り商いで得た純利益30両は「両親に預

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け」たとしている。おそらくは両親に 渡したのであろう。問題は,忠兵衛が得た利益は,「紅長」(伊藤長兵衛家の屋号)のも

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6 「伊藤長兵衛家文書」は,現在,滋賀大学経済学部附属史料館に所蔵され,整理・目録作成作業中にあ る。書簡類が多く,目録作成・公開までには今暫く時間が必要である。一部の店則については翻刻して いる。拙稿「伊藤長兵衛商店店則」『研究紀要』(滋賀大学経済学部附属史料館)第35号,2002年。同

「伊藤長兵衛商店博多支店規則」『研究紀要』第37号,2004年。

7 『丸紅前史』5ページ。

8 『丸紅前史』4−7ページ,『100年』3−7ページ。

9 『丸紅前史』5ページ。『100年』にはそのような記述はされていない。

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のとして決算されたのか,忠兵衛のものとして独立して決算されていたのかが定かでは ない,ということである。前者ならば,「預け」たのではなく渡したのであり,後者で あれば「預け」たといって良いだろう。

この点が不明なままに,創業年次が定められているのである。そこで,次章ではこの 点を検討する。

創業の検討

「経過録」に記された初代忠兵衛の商業活動の実態は,必ずしも第一次史料に基づい たものではないことは,先述の通りである。少なくとも従来の研究では,史料の存在に ついて精査されたようには思えない。もっとも,管見の範囲でも幕末から明治20年代 半ばまでの忠兵衛の商業活動の実態を明らかにできる史料は,現在のところほとんど見 あたらない。

しかし,先にも述べたように忠兵衛にとっては父・兄の家である「伊藤長兵衛家」に 伝来した史料は,若干ではあるが残されている。その中に,表紙に「従安政五午年 明 治十一年寅五月至 重暦棚卸帳」,裏表紙に「紅屋長兵衛」と記された帳簿が残されて いる。この時期の忠兵衛家の史料が見つからない現時点において,この帳簿に記されて いることは,重要な知見を与えてくれるものである。

すなわち,長兵衛・忠兵衛が注目されるのは,数ある「近江商人」の中でも,近江国 において「地商い」から始まり「持下り商い」を行い,明治5年からは本店機能を他国

(博多・大坂)に移し,持下り商いをやめて常設店舗による卸商に転身した後,近代的 な商家・企業として発展・統合を遂げて現在に至るという,日本商業史上にきわめて貴 重な事例だからである。しかも,「近江商人」としても西国へ展開した商家であるとい うことが,二重の意味で貴重な事例といえるのである。上記の棚卸帳が記録している期 間は,「地商い」−「持下り商い」−個人商店の近代化過程を如実に反映しているものと考 えられるのである。

さて,『重暦棚卸帳』が安政5年から書き始められていることは,十分注意する必要 がある。なぜなら,伊藤忠商事・丸紅両社が創業年とするのは,まさしくこの年だから である。少なくとも,伊藤長兵衛家に残された棚卸帳は,現時点ではこの帳簿が最も古 いものであり,それ以前のものが存在したとしても,安政5年から新帳が作製され明治 11年まで書き継がれたことが明らかである。それゆえ,安政5年が紅長の経営にとっ て画期の年次であったことは間違いないだろう。

この棚卸帳は,安政5年の例では「合もの・呉服・近江布」などの品目ごとに販売数

・売上額が書かれ,「代呂物惣高正味」として27貫585匁4分が総額として記録されて

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いる。続いて勘定科目は「小売掛売・仲間売〆高・質物・出入帳有高・金銀貸・仲間残 り掛・蚊帳方」が上げられ,それぞれの額が集計される。ここまでが資産の部となる。

引き続き負債項目として「代呂物借他国・地方代呂物借・金銀借」が計上され,差引額 として銀61貫618匁8分7厘(「金相庭正ミ七十一匁三分八厘」)が棚卸高とされてい る。この棚卸帳では損益決算はされず,資産の増減を記しているに過ぎない。それらの 推移は後掲第1表の通りである。詳しくは後述するが,紅長の当時の商業活動による収 支は,決して悪いとはいえない状況にあった。

ところで,この棚卸帳は上記の差引額の記載で止められたのではなかった。棚卸末尾 には「外ニ忠兵衛分口之分」として次のように記されているのである。

史料漓

外ニ忠兵衛分口之分 一金五拾両也 油喜 一同拾両也 車喜 一同拾五両也 しま武 一同拾両也 莨清 一同拾両也 しま九 一同拾両也 ■山清次郎 一同壱両 村ノ久左衛門 一同拾両 町屋次兵衛 〆金百拾六両也

外ニ金四拾両也 御上様御調達金 但し両度ニて 午十月十三日改,以上

すなわち,この棚卸帳の記載を見る限り,紅長の棚卸末尾に「忠兵衛分」が記帳され ていたことが明らかである。ここで上げられた人名(商人)や金額の実態は,必ずしも 明らかではない。社史,すなわち「経過録」によれば,忠兵衛が安政5年に得た純益は 7両とされているが,その額は上記の記述に一致してはいない。安政6年の30両につ いても同様である。このような「忠兵衛分」が棚卸末尾に記載されることは,万延元年 まで続いている。この3年間に現われる人名を検討すると,安政6年・万延元年の記述 によって「油喜・車喜」は「ヨシタ」の者であることが分かる。「ヨシタ」は恐らく現 豊郷町吉田であろう。「しま九」は「しまや九郎右衛門」,「莨清」は「村(現豊郷町八 目)ノ清右衛門」「町屋次兵衛」は旧五個荘町町屋の人物と推測される。

したがって,ここに登場する人物は,直接的には忠兵衛が商いの対象とした者ではな く,地商いの結果,紅長が債権をもつ人物であり,その債権を忠兵衛のための「積金

(安政6年)」「積り金(万延元年)」として別勘定にしていたものと推測される。調達金

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などを除外すれば,安政5年には総額116両,翌年には121両,万延元年には197両が 忠兵衛のために積み立てられていたものと考えられる。

ところが,文久元年に至り,この記帳方式は変化をみせる。すなわち,当該年の棚卸 末尾に次のように記されている。

史料滷

忠兵衛棚卸,当酉とし!別ニ致し候,右棚卸外 一金弐百両 別分

史料から明らかなように,忠兵衛の積金分が紅長の棚卸末尾に記載されなくなるの は,文久元年からである。それにさいして,紅長は200両を「別分」として処理したこ とも明らかであろう。この200両は,前述のように前年までの積金が197両であったこ とに対して,新たに3両加えて「別分」として処理したものと思われる。それは「忠兵 衛棚卸」が,この年より「別ニ」なったことによるものであろう。史料滷中の「忠兵衛 棚卸」は,史料漓の記載を指すものと判断できることから,忠兵衛が行う商業活動に対 して独立した棚卸帳が作成されてはおらず,文久元年に至ってようやく忠兵衛分が別帳 となったと考えられる。そのさいに,それまで持下り商いで得たとされている純益は,

「積金」の中に振り替えられていたのではないだろうか。もしこの推測が正しければ,

独自の棚卸帳を作成することが自立的な経営のあり方だとすれば,文久元年をもって創 業の年だと考えることもできよう。この点に関わって,慶応2年(1866)の棚卸末尾に 注目される記述がある。それは次の通りである。

史料澆

外ニ忠兵衛棚卸帳写

尤無利息無雑用致し置候,利子雑用積り差引致し候ハヽ三分一相成 哉存候

一金弐百両也 申とし分口分 一金百五拾八両壱分壱朱 酉積り 一金弐百両弐歩弐朱 戌とし 一金三百六十七両弐歩弐朱 亥とし 一金五百三十三両三歩 子とし 一金千弐百五十八両壱分三朱 丑とし 一金三千拾弐両弐分弐朱 寅とし 〆金五千七百三拾壱両壱分弐朱 忠兵衛分合テ

金八千〇八十八両弐分壱朱

この記述は,一体何を示しているのであろうか。詳細については後述するが,ここで

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は「忠兵衛棚卸帳写」とされていることに注目したい。この史料が書かれたのは,先述 の通り慶応2年のことである。その時点で「忠兵衛棚卸帳」が存在しており,その記述 は「申とし」(万延1)の記録から始まっていると推測される。もっとも,「申とし分口 分」が意味するところは,恐らく文久元酉年の史料滷にある「一金弐百両 別分」と金 額が一致しているので,忠兵衛積金を指すのではないかと判断している。「酉積り」も その可能性が残るが,金額が朱の単位まで記されていることや文久元年から「忠兵衛棚 卸当酉とし!別ニ致し候」と記していたことを勘案すると,万延元年「申とし」──す なわち忠兵衛が単独で持下り商いをしたとされる年──にはまだ忠兵衛の営業にかかる 独自な棚卸帳が作成されていなかったと推測される。

ただ,なぜこの年に忠兵衛分が別帳になったのかについては,残された史料では分か らない。翌年に父である5代目長兵衛が亡くなることを考慮するならば,あるいはその ことが関係していたのかも知れない。また,前年の万延元年5月に忠兵衛は成宮武兵衛 から独立して,初めて売子2名とともに長崎へ麻布を持ち下ったとされていることか

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ら,これが契機となったことも考えられる。いずれにせよ,文久元年という年が忠兵衛 にとっても,紅長にとっても一つの画期となる年であったといえよう。

このように見てくると,伊藤忠商事・丸紅の両社が安政5年の忠兵衛による持下り商 いの開始をもって創業年次としたのは,持下り商いを始めたということに価値を置いた のだと思われる。それは何よりも,「近江商人」とは持下り商いをした商人であるとい うことを重視することにより,初代伊藤忠兵衛を「近江商人」として評価することに意 義を見いだしていることが明らかである。そのことに異議を唱える必要はないが,独立 した商家の主人,という観点から考えるならば,創業年次について別の理解も可能であ るということを指摘できるのである。

利益折半の状況

元治元年(1864)より忠兵衛と長兵衛は向こう4年間利益を折半することで合意し た。このことについて,『丸紅前史』では「元治元年(1864),長兵衛は本家の商売が思 わしくないため,むこう4カ年利益折半を申し入れた。忠兵衛はこれを承諾し,契約書 として双方の店卸

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帳」に記録したと記している。一方,『100年』では,「手記(経過 録)」を引用して次のように記してい

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る。

────────────

0 『100年』5ページ,『丸紅前史』6ページ。

1 『丸紅前史』7−8ページ。

2 『100年』7ページ。

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史料潺

我利益ハ年々増進シ,本家収得ハ増進尠ク,既ニ我利益ノ積斗〈斗ワ当時計ノ略 字〉ハ5〜6年間ニシテ本家ノ身代ヲ超過セリ,為ニ家兄長兵衛ヨリ当分利益合併 論ヲ協議ニ預リ,之ヲ承諾セリ,当時左ノ如キ契約書ヲ双方店卸帳ニ記載セリ

契約書写

当年ヨリ卯年迄四ケ年間,旅方〈忠兵衛ノコト〉ト本家商内ト一所ニ致シ,の び金一躰ニシテ弐ツ割約定ノ事 以上

『丸紅前史』では紅長の商売が思わしくないとし,『100年』では利益の増進が少ない としている。ここでは微妙に紅長の評価が異なっていることを読みとれよう。紅長の経 営は本当に思わしくなかったのだろうか。また,「契約書」は上記の史料のように「店 卸帳」に記されたのだろうか。そこで改めて『重暦棚卸帳』の記載を検討してみよう。

『重暦棚卸帳』の文久3年の棚卸末尾には次のように記されている。

史料潸

惣差引金千五百拾両三歩三朱 永七拾五文

来子年!卯年迄四ケ年間,旅方・内方のひ金一所ニ合し,二ツ割極成 また,翌元治元年の棚卸末尾には次のように記されている。

史料澁

亥年棚卸高金千五百拾両三歩三朱 永七十五文 指引 三百八拾壱両一朱 子としのひ金 一五百三拾三両三分 旅方のび金 合金九百拾四両三歩壱朱

丑三月九日相改

史料澁の記載から明らかになることは,確かに忠兵衛の持下り商い(旅方)による利 益は,紅長の商売(内方)の「のび金(利益)」より上回っていたと考えられる。しか し,紅長の商売は決して思わしい内容ではなかったといえよう。それでは経営の危機状 態にあったとは思えない紅長が,忠兵衛を「旅方」として位置付け,利益の折半を図っ たのは何故なのだろうか。この点に関して『100年』は,「数年ノ持チ下リニヨッテエ タ彼ノ利益ワ,先祖代々ノ蓄積デアル兄ノ財産,スナワチ地方ノ小旧家トシテノ面目ヲ タモッテキタ家督財産ヲスデニウワマワッテイ

13

タ」と述べている。忠兵衛の財産が元治 元年時点で長兵衛を上廻っていたかどうかを証明することは難しいが,家長としての面 目が働いたことは充分に考えられる。忠兵衛がこの時点ではまだ分家・独立していない 状況にあっては,家長としての長兵衛は同一経営体内の行動として忠兵衛の活動をとら えようとしたのではないだろうか。

────────────

3 『100年』7ページ。

初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一齣(宇佐美) 577)5

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ところで,これまで利益折半の約束は双方の棚卸帳に書かれたとされている。そし て,それは元治元年のことであったとされている。しかし,史料潸によれば,前年の文 久3年10月の棚卸期に「来子年」よりのこととして取り決められたことが明らかであ ろう。また,忠兵衛の棚卸帳が見つかっていない現状では確定できないものの,「経過 録」が記している「契約書」とは若干字句は異なっており,実際は『重暦棚卸帳』にあ る史料潸のごとく備忘的に染筆されたものと考えられる。それが,忠兵衛にとっては大 きな意味を持ったため,「極成」という字句が「約定ノ事」という留文言に改変される ことになったのではないだろうか。後年に追憶で記された「経過録」執筆時点では,利 益折半を余儀なくされた忠兵衛にとっては,それが不本意なことであったがゆえに,

「契約書写」として書き残すことにつながったのだと考えられる。

身代一致の過程

利益折半は,慶応3卯年(1867)までのこととして約束されていた。しかし,この約 束は延長することを余儀なくされた。その間の事情については,両社史ともに詳しく触 れていない。おそらくは,忠兵衛自身が特に書き残さなかったからであろう。この点に 関わっては,慶応3年の棚卸帳に長兵衛が書き記したことで明らかになる。そこでは次 のように記されている。いささか長文であるが,これまで知られていない事実であるた め,あえて紹介しておく。

史料澀 口演

卯年店商売相止メ,旅方而已相成,夏持下リ壱万五千両斗売捌申候,国ニ弐千両

(ママ)

合テ 万 七千両斗高出来申候,残リ物聊!出来不申候,口銭三千六七百両御坐候,

毛類都合御座候

秋下リ壱万四五千両売上ケ仕候,半過!諸品下落致し人気悪敷相成候得共,九分通 リ追々売捌申候ゆへ,荒口銭弐千両斗御坐候,極月!際立不景気相成,中ミ店方持 代呂物損掛方集リ不申候,つふれニも及候様相成,九州姪之浜六百両斗夏物掛損相 成,秋うり長州九州得意衆中ニ弐千両斗行々掛損相成,仍夏秋弐千両掛そん棚 卸引置申候,将又手代弥兵衛八月比茶屋遣致し,凡百両余御坐候,右之小遣差引損 ニ為登米八百両余リ致し,弐百両余リ損相立,夫而已ならす筑博田ニ米帳合 致,又候金百両余そん致し,弥兵衛一条都合四百五拾両斗不事損相立申候,仍暇 遣し申候,夏物掛損金六百両斗,三つ合三千弐三百両損相成候得とも,棚卸弐千両 斗ニ致し置候,

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布類盆前後千両余リ買入置,極月壱わり余リ下リ申候ゆへ,布蚊帳極月三四千両買 込,辰正月比!一際下ケ,今日姿ニ而者盆前後買六掛,極月買七五掛,正二月三月 弐千両斗買入八五掛,昨秋高重畳!六掛迄引下,都合弐千両丈分下リ請申候,暮迄 上リ請候事度々事候得共,聊上リ,此度半季不立内存外下リ,暮まて上リもうけ差 引致し候処,不及事御座候,卯とし棚卸辰四月致し申候ゆへ,半金ニも損引申候

も宜敷候得共,格外之損ゆへ辰とし相廻し申候,卯七月迄身分過是もうけ御座候得 共,昨秋已来!散々損相成,改心致し居候,已後心得可申候事

辰四月廿日,已上

この史料は慶応4辰年に記されたものであるが,史料末尾にあるように,紅長では

「昨秋已来!散々損」が生じていた。それは得意先による売掛損のみならず,手代の茶 屋遊びによる損害もあった。前年に「地商い」をやめ,長兵衛もまた持下り商い専業に 切替えた。しかし,秋頃までは順調であったが,それ以降で散々な状況に立ち至ったこ とが明らかであろう。長兵衛が「改心」し「已後心得」として上記の史料を染筆しなけ ればならなかったのも由なしとしないのである。このような状況では,忠兵衛との利益 折半の約束の期限を延長せざるを得なかったであろう。この間の連年の棚卸高は,当然 のことながら棚卸帳に記録されているが,それらの数値は第1表のようになる。

表の数値は,資産と負債の「惣差引」の金額として記載している額であるが,この外 にも若干の金額(「古金」類)が存在しているので,実際はこの有高を上回る額が手元 にある。一見して明らかなように,経営自体は決して危機的なものではなく,むしろ順 調に資産を増加させていたことが分かる。慶応3年には,前年の4倍を超える程度の急 上昇を遂げていることが分かる。しかし,前掲の史料澀にもあるように,長兵衛もま た,慶応3年より従来の地商いをやめて持下り商いに転身していた。秋までは順調な商 いであったようだが,持下り先の売掛損などが多額発生し,経営的には失敗していたと 考えられる。おそらくは,慣れない商法と顧客相手にとまどったのであろう。それにも 拘わらず,同年の棚卸額は飛躍的に伸びている。これは明らかに,忠兵衛の営業成績が 極めて順調であったことを示していると思われる。長兵衛の純益を遙かに上回る忠兵衛

1 紅長棚卸帳惣差引額

安政5 安政6 万延1 文久1 文久2 文久3 元治1 61618.87 69288.25 78601.19 89242.41 100436.11 1510.33

75

1892.00 40 慶応1 慶応2 慶応3 明治1 明治2 明治3

2176.21 米札4.3

2357.03 8.3

10174.10 11207.00 15200.00 17600.00

*安政5〜文久2年の期間の単位は匁,それ以降は両。

初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一齣(宇佐美) 579)5

(12)

の純益が,結果として紅長の惣差引額の増大となっていると見られる。このさい,忠兵 衛が上げた純益は史料澆に記された額であることが明らかである。なぜなら,史料澆の

「子とし」の額533両3分は,史料澁の「旅方のび金」と一致しているからである。

史料澆に見える「申とし分口分」とは,先述の文久元年の積金額であると見て良い。

したがって,ここに記された金額は,慶応2年までの忠兵衛の各年次の純益を記してい ると判断できる。その総額は5731両1分2朱となっていた。この額と第1表に示した 同年の惣差引額2357両3朱を合算すると史料澆にある8088両2分1朱となる。この数 字は,慶応2年の棚卸時点の長兵衛・忠兵衛の「身代一致」の額ということになる。し たがって,「寅とし」に3000両余の利益を上げていた忠兵衛が,翌年も同程度の成果を 上げたとすれば,長兵衛の損金を補ってもなお慶応3年の惣差引額になることは容易に 推測できる。このように,紅長においては確かに長兵衛・忠兵衛の利益折半が実施され る一方で,双方の棚卸帳が作成されていた。そして,双方の資産は慶応2年時の棚卸を 終えてから合算され,翌年からは身代一致した紅長の棚卸帳として記録されるのであ る。

さて,上記のように慶応3年の棚卸帳の金額は,前年比の4倍ほどに急上昇してい る。それは,地商いから持下り商いに転身したことによるものと推測される。そして,

その大部分の成果は,忠兵衛が開拓した北九州・西中国地域の商内(得意)場からの収 益であろうと述べた。これらの資産増加をうけて,明治3年に商内場の分割が実施され る。この時,忠兵衛が開拓した商内場の多くは長兵衛が継承し,忠兵衛は「狭小」な地 域に甘んじざるを得なかった。これを契機として忠兵衛は持下り商いをやめ,大坂に進 出することを決心した。これらの商内場分割・大坂進出のことは,両社史も「経過録」

をして語らしめている。しかし,正確にはどのような文面で定められたのかについて は,これまで「経過録」の記述でしか知り得なかった。ところが,『重暦棚卸帳』では 次のように記されている。

史料潯

一此度本家新宅身代一切速ニ相分ケ候ニ付,

法立

商内方仕入売場ニ至迄,是迄通同様之心得方ニ助勢合,厚致親懇ニ渡世取過候様 可致事,就ハ両家相続商内等運不運ニ乙甲出来,格別不同相成不申ため,左 ニ法立之通,固金ヲ相立,永相続金利廻ニ致,年々店おろし帳相除可申事

右法立

一本家店卸表延金之内弐割方新屋へ相譲り可申事 一新屋店卸延金高内弐割方本家へ相納可申事

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但,不勘定之節,不足金右同様弐割方助勢合持合可致事

右法立,永々固之ため可致候得共,当年より十ケ年如此合相立可申事,其後ハ都合 見通しヲ以相固可申事

この史料にある「法立」を見れば明らかであるが,長兵衛・忠兵衛は各自の商業活動 によって得た利益の20% をそれぞれ互いに渡すことを定めている。これがどちらの経 営にとって優位であったのかは,俄に判断しがたい。なぜなら,多くの得意先を確保し たのは長兵衛の方であり,経営能力は忠兵衛が優位だと考えられるからである。しか し,当座においては,長兵衛が得る収益の方が多くなるであろうことは確実であった。

そのうしろめたさと,能力を勘案した結果が当面は10年期限の取り決めとしたのであ ろう。この取り決めがいつまで効力をもったのかについては,必ずしも明らかではな い。というのは,棚卸をしなければ「延金」は計算できず,その「延金」の2割の額に

「利廻」を加えた額を「固金」としてお互いに渡すこととされている以上,その額は受 け取った額を資産に,渡す額を負債として計上することになろう。それゆえ,棚卸帳の 記録を追うことによって双方の商業活動による利益が明らかとなるはずである。

ところが,この棚卸帳の最末尾,すなわち明治10年度棚卸記帳の後の紙丁に次のよ うな記録がある。

史料潛

未正月忠兵衛身代相分,其節相続固金として年々延金弐割譲合,十ケ年之間積立,

年々壱割之利足相積候事 申二月十日改

一金四百六拾壱両三朱也 新宅!受取候 但,弐千三百八拾一両三朱 延勘定之内 此り 四十六両弐朱 申年利足

元利〆 五百〇七両壱分一朱かり

これは明らかに明治4未年の取り決めが,翌年に実施されたことを示している。これ によれば,「利廻」とは具体的には1割であったことが判明するとともに,元利は「か り」勘定とされたことが分かる。すなわち,受け取った額は,相手方の家のために積み 立てる性格のものであったといえる。そして,史料から判断すれば,忠兵衛は明治4年 に2381両3朱の利益を上げていたといえよう。このように,永相続のために「固金」

を立てるという取り決めについては,従来は知られていない点であるとともに,忠兵衛 の最後の持下り商いの純益が明らかとなったのである。

ところで,実際に『重暦棚卸帳』の記載を検討すると次のように計算されている。例 として,明治6年,7年の棚卸帳記述を上げよう。

漓明治6年の棚卸帳では,「正金借」の勘定科目のなかに,983円6銭が「酉とし

初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一齣(宇佐美) 581)6

(14)

(カ)

(明治6年) 迄 固金かり」,98円30銭が「右ノ利足」として負債勘定され(A=1081 円36銭),その年の資産・負債の差引額が出される。この額に対して,553円(B)が

「酉とし延高2765円75銭4厘,右弐分固金引」として減額計算され,残額が酉としの 最終的棚卸額とされている。したがって,滷明治7年の棚卸帳では,A+B=1634円36 銭が「固金」,163円40銭が「戌とし利足」として「正金借」の科目において負債勘定 されるのである。そして,漓で述べたような計算によって「戌とし」の延金2217円82 銭が求められ,この2割の額443円55銭が差し引かれて最終棚卸額とされている。

したがって,長兵衛の棚卸帳には,あくまでも長兵衛の営業活動によって得た利益の 2割が次の年の「かり」勘定に計算され,前年までの積立金に加算され,その額の1割 が利足として計算されるのである。史料潯中に見える「固金ヲ相立,永相続金利廻ニ 致,年々店おろし帳相除可申」とあるのは,この決算方法を指している。それゆえ,忠 兵衛が上げた収益による固金の額は,忠兵衛の棚卸帳に記録されたものと思われるが,

実態は不明である。少なくとも,毎年次の棚卸帳の記載をみても,資産の分に忠兵衛か らの「固金」を受け取っているという記録は見られないし,長兵衛が「固金」を忠兵衛 に渡しているということを示す科目もない。

もっとも,資産勘定の科目の中に「○

14

紅為替帳尻かし」(明治6),「○紅改差引帳か し〆」「○紅萬万帳かし〆」(明治7),「○紅さし引かし」(明治8),「○紅改差引帳表」

(明治9),「○紅預ケ金」(明治10)などの費目がある。これが忠兵衛から渡される「固 金」なのかどうかは,判断が難しい。なぜなら,「延金」の2割と考えるにあまりにも 高額な数字であるからである。たとえば,明治7年の「○紅改差引帳かし〆」は6774 円76銭であり,最も少ない明治8年の「○紅さし引かし」でも1789円25銭となって いる。この額は,たとえ忠兵衛が利益を上げているとしても,その額の5倍の収益は考 えられないからである。

それゆえ,史料潛に「新宅!受取候」とある一連の記述に関わっては,「受取」につ いては棚卸帳記載に反映されていないのではないかと推測される。この限りでは,少な くとも忠兵衛の棚卸帳においても「かり」勘定として記帳されたことを示すと判断でき る。しかし,年々増大していく「固金」が実際に渡され,それらは別の帳簿に記録され ていた可能性も否定はできない。たんに帳簿上の操作ではなく,実際に「固金」が蓄蔵 された可能性もあるが,明証できる史料は欠けている。

このように長兵衛・忠兵衛両家の永相続を考えて,万一の事態に備える目的をもった

「固金」の積立ては,長兵衛の棚卸帳を見る限り,明治10年棚卸まで続いている。10 年棚卸帳では,2812円28銭の「積建金元」と281円20銭の「右利子」が計上され,

────────────

4 「○紅」と記している所は,原本では○の中に紅の文字が書かれており,忠兵衛の屋印を意味するが,

作字を避けるため,本文のように記した。

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2(582

(15)

その年の延金5745円の2割である1149円が差引されて最終棚卸額となっている。した がって,明治11年度は4242円48銭(2812円28銭+281円20銭+1149円)の「積建 金元」と424円25銭の「利子」が「かり」勘定されるはずであった。しかし,長兵衛 家においては,その11年から新しい棚卸帳を作成することとなったが,3000円を超え る為替金の不渡り(不良債権)が生じ,裁判沙汰となったため棚卸を実施しなかった。

そして,12年以降の棚卸帳には上述のような「固金」「積建金元」の記述は見られなく なっている。最終的にはどのように話し合われたのかは定かではないが,この約束は解 消されたのではないかと思われる。その原因としては,第一に明治11年3月に6代目 長兵衛から長男栄次郎に家督が譲られるという代替わりが行われたこ

15

と,第二に明治12 年2月に博多掛町に呉服卸商伊藤長兵衛商店を移転・開設したことがあると推測される が,この点の解明は,今後の課題であ

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る。

商内場・身代の分割

次に,「西国商内場」の分割の検討に移ろう。ここでも「経過録」の記述と相違して いることが判明する。両社史では次のように分割されたとしてい

17

る。

しかし,棚卸帳の記載によれば次のとおりである。これは,前出史料潯の続きに記さ れているものであるが,行論上分離した。

史料濳

西国商内場相分 定

────────────

5 なお,これまでの諸文献では7代目長兵衛は若林家出身の養子長次郎(6代目二女やすの婿)とされて いるが,これは正確ではない。「伊藤長兵衛家文書」に残されている家督相続願い・改名願いなどの史 料によれば,明治2012月に栄次郎は7代目を廃され,同212月に分家となる。この措置にとも ない,6代目が再び8代目長兵衛を襲名し,その後,同2611月に長次郎がやすとの婚姻を経て家督 相続し,9代目を襲名したとするのが正しい。6代目長兵衛は,最初の隠居時には「定平」,二度目には

「賢蓮」と改名している。栄次郎が分家させられた原因は,経営能力に欠けたからとされているが,事 実の解明は別の機会に論ずることにする。

6 拙稿「伊藤長兵衛商店博多支店規則」『研究紀要』(滋賀大学経済学部附属史料館)第37号,2004年,

45ページ。『丸紅前史』69ページ。

7 『丸紅前史』10ページ,『100年』9ページ。

2 商内場分割地域

『丸紅前史』 『100年』

本家得意場 馬関・長府 豊前・筑前・筑後

馬関・長府 豊前・筑前 分家得意場 萩・山口及宮市

以西 厚狭市迄

萩・山口及宮市 以西厚狭市迄

初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一齣(宇佐美) 583)6

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一本家

長州下之関并ニ豊浦より九州一円 一新宅

防長州両国

下之関・豊浦ハ本家商内場ニ致候ニ付,残荷物丈下之関懸りへ商内可致事 本家よりハ残物たり共下之関・豊浦之外中国方へハ持出取引致間敷事

一此後新売場相弘候共,新宅!九州へ参り不申事,本家よりハ中国筋へ参り不申事 一見して明らかなように,「経過録」では具体的な地域が明示されているのに対し て,『重暦棚卸帳』の方は漠然とした広範囲を示している。実質的には「経過録」が示 すように具体的に商内場が分割されたと思われる。しかし,明治3年時点の取り決めは 棚卸帳のように定められていたと考える方が良いだろう。後世に至って,忠兵衛は「経 過録」を染筆する中で,当時の実態を書き記したと見るのが事実に近いのではないだろ うか。とりわけ,「九州一円」と棚卸帳は記しており,忠兵衛が記すように具体的な国 名は上げられていなかったと思われる。しかも注目されるのは,明治2, 3年度の『重 暦棚卸帳』は,明らかに長兵衛とは異なる人物により染筆されている。確証するには至 らないが,この2年分は忠兵衛が記している可能性がある。仮にそうだとすれば,前掲 史料潯と濳もまた,忠兵衛が染筆したことになる。そうすると「経過録」の記述は,ま すます後世に書き改められたということになろう。同一の「経過録」に依拠したはずの 両会社史において,「筑後」国を『100年』は上げていない。いずれかが転記を誤って いることは明白なのである。ともあれ,誰が明治2, 3年度の棚卸帳を記したのかとい う点についての解明も,今後の課題として残さざるを得ない。

ところで,このさい忠兵衛が分割された資産はどれだけであったのかについては,こ れまで不明であった。しかし,『重暦棚卸帳』には,そのことが記録されている。次に それを示すことにしよう。

史料潭

惣指引有高 壱万七千六百両 外ニ(略)

右高之内,新屋分金

一金六千弐百両 巳付立金引 一金千両 当勘定分口 合金七千弐百両也

外ニ古金

一古壱分銀 弐百五拾両 一古弐朱金 弐拾両

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4(584

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一小判 五枚 〆

忠兵衛分引 有高金壱万四百両也

これは明治4年正月12日のことであった。この時,1000両と古金類が配分されてい ることが分かる。「巳付立金引」とされている額は,明治3年2月29日に,文久元年か ら明治2年迄の間の「別口金」として勘定された額である。史料澆で明らかなように,

慶応2年までの忠兵衛の純益総額が5730両余であったことを想起するならば,身上一 致の期間に得た純益から500両程度が忠兵衛分として配分されたに過ぎないのである。

ともあれ,万延元年の200両を含む6200両が「新宅身上分」として計算されており,

翌年正月12日に1000両が「当勘定分口」として新たに追加されたことを示している。

このように,明治4年正月12日時点において,17600両あった紅長の資産(有高)

のうち,7200両が忠兵衛,10400両が長兵衛の資産として分割された。加えて別に所 有していた「古金」も二分割され,275両分が忠兵衛のものとされたのである。かくし て商内場は分割されるとともに身代も分割され,忠兵衛は明治4年に持下り商内に見切 りをつけて大坂に店舗を構え,翌5年正月から新しく呉服太物商として商業活動を開始 することになったのである。その創業にさいして,彼が所有していた資産は,7475両 であった。そして,前述(史料潛)のように忠兵衛は,明治4年に2381両3朱の利益 を上げたといえよう。この後の忠兵衛の資産の増加の実態については,「伊藤長兵衛家 文書」では明らかにすることはできない。

さて,最後に忠兵衛の大坂進出にあたって,両家が取り交わした規定書が『重暦棚卸 帳』に記されている。この規定書は,忠兵衛家にとって重要な意味があったため大事に 保存されたらしく,その存在を写真で確認することができ

18

る。本文もまた,翻刻して紹 介されている。一方,長兵衛家には写真で見られるような一紙証文は残されていない。

しかし,写真と翻刻史料本文を照合すると,必ずしも正確ではないことが分かる。長兵 衛家では,明治4年度の棚卸決算の後ろにほぼ同文のものが書き残されている。そこ で,次にその史料を翻刻する。

史料澂 定

此度新宅大阪表出店致し候ニ付,規定事

一大阪店!本家得意場へ持下商内相成不申事,本家不抱場所ヘハ勝手之事,自然店 代呂物売捌困り候節ハ本家得意場所ニ不抱無拠持下り商内可致事,常格諸品とも 持下商内相成不申事

一本家!大阪出店之義ハ相成不申事,自然出店致し候節ハ同品商内致し間敷事

────────────

8 『丸紅前史』口絵写真,13ページ。

初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一齣(宇佐美) 585)6

(18)

右之条々両家後代ニ至迄互相守,実義ニ可致事 明治五壬申二月吉日

両家主 すでに『丸紅前史』で翻刻されている史料本文とほぼ変わりはないが,史料澂で下線 部をひいた「店代呂物」は,写真・翻刻文では「持品」となっている。また,「両家主」

も「本家長兵衛 新宅忠兵衛」となっている。これらのいずれが正しいのかは,俄に断 定できない。いずれも第一次史料であるからである。また,写真を見る限り,「本家長 兵衛」の下に押印はされていない(「新宅忠兵衛」は付箋で覆われていて見えない)の で,それが本当に両家で手交された証文の原本であるのか断定できないのである。さり とて,棚卸帳では署名もせず「両家主」とだけ書いてあり,このような証文を作成した とも考えにくい。ただ,写真で明らかなように,忠兵衛家ではこの証文奥に次のように 記した付箋を貼っている。それは翻刻された形跡がないため,あえてここで示しておこ う。ただ,写真撮影時の角度と本紙の皺のために判読しづらい文字があり,推定を交え ていることをお断りしておきたい。

史料潼

(カ)

此定書 趣ハ甲乙ノ得意場ヲ皆本家ノ分ニ譲り,新ニ大坂ニ開店ヲナシ,此際本家

(カ)

ノ満足ヲ得タルコトハ兄長兵衛ノ実ニ喜ナリ,尤親類他人ヲシテ皆知レリ,依之大

(カ)

坂店ハ本家ヨリ不易親義務有店ナリ,同業店ヲ開ク等ノコトハ子孫々代ニ至リテモ 出来サルコトナリ,之ヲ新宅ヨリハ拒ムノ権ハ道徳上十分ニ有セリ,万々一兄死去 ノ後々代浮薄ノ世トナリタレハ,此書ヲ以テ申入ルヽコトナリ

この付箋が染筆されたのは,おそらくは史料澂が書かれて間もないことであったこと は,文面から容易に推測できよう。この一事を取ってみても商内場の分割が忠兵衛にと って決して本意ではなかったことが分かるとともに,並々ならぬ決意をもって大坂開店 に取組んだことを窺い知ることができよう。

むすびに代えて

以上,初代伊藤忠兵衛の創業期の状況について,「伊藤長兵衛家文書」として遺され た『重暦棚卸帳』に記されている記述をもとに,これまで検討されていないことを明ら かにしてきた。それらは,従来の研究が依拠してきた『丸紅前史』『100年』の記述の 欠を補うものであることは,改めて述べる必要はないであろう。すでに述べたように,

伊藤忠兵衛家の経営活動は日本商業史や近江商人研究にとって重要な意義があるにも関 わらず,これまでの研究は全面的に両社史の記述に依拠しながらも,史料批判が十分に されていない。また,すべからく父・兄の家である伊藤長兵衛家(紅長)・伊藤長兵衛

同志社商学 第56巻 第5・6号(25年3月)

6(586

(19)

商店の実態分析を捨象している。もちろん,先学が伊藤忠商事・丸紅などに伝来する史 料調査を実施していた様子は,それぞれの論稿から窺い知ることはでき,にもかかわら ず,史料を発掘できなかったのだと推測している。しかし,近年の調査によれば伊藤両 家ともに少なからず史料を伝来させていることは明らかなため,今後は,これらの一次 史料を用いた議論が必要であろう。本稿は,初代・2代忠兵衛の経営活動を改めて見直 すとともに,長兵衛家の実態解明を行う最初の試みとして提示した。大方のご教示をお 願いしたい。

参考文献

(主に初代に関わるもの。論文中引用を除く)

1]丸山侃堂・今村南史共著『丁稚制度の研究』政教社,1912

2]駒井喜一『近江人要覧』近江人協会,1930年(初版),1934年(2版)

3]大阪毎日新聞・東京日日新聞エコノミスト編『財閥盛衰記 地方・中堅財閥の巻』明星書院,1930

4]大阪毎日新聞経済部編『経済風土記 近畿外篇』刀江書院,1930

5]鈴木茂三郎『財界人物評論』改造社,1936

6]中小産業調査会編纂『中堅財閥の新研究』中外産業調査会,1938

7]伊藤忠兵衛(2代目)『父ノコトドモ 創業百年祭ニ因ンデ』

8]伊藤忠兵衛翁回想録編集事務局編『伊藤忠兵衛翁回想録』伊藤忠商事,1964

9]宮本又郎編『日本をつくった企業家』新書館,2002

[10]末永國紀『近江商人学入門』サンライズ出版,2004

[11]高橋久一「伊藤(忠)商店における財務管理方式」『経済経営研究』(神戸大学経済経営研究所) 年報25(蠢),1975

[12]高橋久一「伊藤忠兵衛本部の店法」『経済経営研究』年報26(蠡),1976

[13]石川健次郎「近江商人の近世的経営遺産と近代への対応−中井源左衛門家・丁吟・伊藤忠の場合

−」安岡重明ほか編『近江商人の経営遺産』第四章,同文館,1992

[14]作道洋太郎「関西系商社の成立と展開−岩井産業・安宅産業を中心として−」『関西企業経営史の 研究』第五章,御茶の水書房,1997

[15]水原正亨「初代伊藤忠兵衛と近代初期の流通業」『近代大阪の企業家活動』(作道洋太郎編)第六 章,思文閣出版,1997

[16]名武なつ紀「戦前期における大阪都心の土地所有構造」『土地制度史学』第163号,1999

[17]辻 節雄『新版 関西系総合商社』第一章・第二章,晃洋書房,2000

【付記】本稿は,平成16年度科学研究費補助金「近世・近代商家活動に関する総合的研究」(基盤研究

(B)(2)・研究代表者 宇佐美英機),および(財)昭和報公会の研究助成による成果の一部であ る。

初代伊藤忠兵衛の創業期における商業活動の一齣(宇佐美) 587)6

参照

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