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Daniel Derondaにおけるエピローグの不在

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Daniel Derondaにおけるエピローグの不在

著者 中島 正太

雑誌名 Core

号 23

ページ 1‑15

発行年 1994‑03‑15

権利 同志社大学英文学会Core編集部

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015009

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D a n i e l  Deronda におけるエピローグの不在

中 島 正 太

Penguin Classics版 DanielDerondaのIntroduction及び注を担当してい るのは, George Eliot並ぴにイギ、リス小説研究の第一人者である Barbara Hardyであるが,同書の中で彼女が風変わりな注を付けている箇所が一つあ る。それは第37章でBereniceの絵巻を作っている HansMeyrickがDaniel に 1break off in the Homeric style. The story is  chipped off, so to speak,  and passes with a ragged edge into nothing."lと言っている場面であるO

HansはBereniceの死や埋葬の場面まで描かず,ホメロス風に途中で断ち 切ってしまおうと計画しているわけだが,巻末でHardyは次のように注を 付けているO

The stοry is chipped of!  Like Daniel Deronda. (895) 

言うまでもなく,注の第一次的な目的は,ある単語ないしフレーズの語義 やパックグラウンドを説明することによって,読者の「読み

J

を助けること にある。がしかし一方で,読者の「読み」を助けるための注が,時として注 釈者自身の「読み」を垣間見せる場合もあるO 先に引用したHardyの注は,

まさに後者の倒であろうO というのは,この LikeDaniel Dero1da"という 注が無くても,この場面における Thestory is  chipped off."という Hans の言葉を読み誤る人,あるいはどう読んでいいのかわからないという人はま ずいないと思われるからである。むしろ,最後まで読み終えていない読者に

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対しては,この注は「なぜDanielDerondaが"chippedoff"なのか

J

という 疑問を起こさせる可能性すらあるoHardyの注は, Hans Meyrickの言葉に ひっかけて ,Daniel Deronぬという作品自体が途中で中断されているような イメージを読者に与えているという主張を暗に含んでいるわけだが,

George Eliotの他の作品群と DanielDerondaを比較してみると,彼女の主 張が決して独断的なものではないことがわかる。まず第一に ,Adam Bedeか らMiddle1 rchに至るEliotの長編小説には,全てエピローグ(もしくはそ れに相当する部分)が存在しているが,Daniel Dero~幼にはそれがないとい うことである。この場合の「エピローグ

J

とは,物語の主要人物のその後の 動向を何らかの形で示すものであるから, DanielがMirahと結婚して東洋 に渡ることを決意し, Mordecaiが二人に見守られて死んでいくというエピ ソードでそのまま終わっている DanielDerondaは,少なくとも小説の形態に おいてはEliotの他の作品と比べて Thestory is  chipped off."といっても 過言ではない。

さらに ,Daniel Derondaのエンデイングには, George Eliotのそれまでの 諸作品と比べてもう一つの特異な点がある。それは,作品の最後にMilton のSamsonAgonistesからの引用がなされていることである。 Hardyも指摘し ているように決して無関係な引用ではないし2,George Eliotが古典からの 引用を行なうこと自体も決して珍しいことではない。しかし,それまでの Eliotの古典からの引用は,そのほとんどが作品の冒頭,もしくはそれぞれ の章の始まりにエピグラフという形で行なわれてきた。それがDanielDe‑ ronぬではまさに作品の,文字通り最後の箇所に引用が行なわれていること を考えると,やはり形態上の問題ではあるが,Daniel DerondaはGeorge Eliotのそれまでの作品とは大きく異なる終わり方をしている,あるいは作 者がそういう終わり方をさせようと試みていると言えるのではないだろう か。

本論では,Daniel Derondaにおけるエピローグの不在に着目し,他の作品

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群と形態的に大きく異なるエンディングがDanielDeronぬという作品自体に

どのような効果を及ぼしているのか,またこのエンデイングによって作者は 一体何を意図したのか,という問題を考察してみたい。

まず,Daniel Derondaに至るまでのGeorgeEliotの作品(長編小説)の エンデイングについて検証してみよう。ただしその際,参考としてそれぞれ の作品のオープニングも併せて考えていくことにする。それぞれの作品の オープニングとエンデイングの形態を以下の表に簡単にまとめてみたが,ま ず時開設定の点から考察を加えてゆきたい。

作品(出版年代) オープニング名称(設定日時) エンデイング名称(設定日時) Adam Bede (1859)  Chapter 1 (1799. 6.  18)  Epilogue (1807. 6) 

The Mill on the Fお'ss Chapter 1  Conclusion 

(1860)  (One  February  after‑ (Five  years  after  the  noon many years ago)  flood) 

Ro la(1863)  Proem (1492. Spring)  Epilogue (1509. 5.  22)  Felix Holt (1866)  Author's Introduction  Epilogue (1833.5) 

(1831) 

Chapter 1 (1832. 9.  1) 

Middlemarch (1871)  Prelude ‑ Chapter 86 (1832. 5)一 Chapter 1 (1829. 9)  Finale 

Daniel Deronda  Chapter 1 (1865. 9)/  Chapter 70 (1866. 10)  (1876)  Chapter 3 (1864. 10) 

時開設定という点では初期の二作,つまり AdamBedeとTheMill on the  Flossがかなり似かよった形態をもっている。前者では1章で1799年6月18 日という物語の始まる日付が規定され,エピローグでは1807年6月という物

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語の終わりの年・月が明記されている。後者では,前者と比べるとやや不明 瞭ではあるが 1章で oneFebruary afternoon many years ago"という始 まりの時間が, Conclusion"では,前章(第7部第5章)の洪水から5年 後という形で終わりの時聞が,それぞれ設定されていることに変わりはない。

そして,以後の3作品における始まりと終わりの原型をなしているのが,

Romolaにおける Proem"と Epilogue"であるO この二つの箇所によって,

物語世界がとり込んでいる時間は f1492年の春から1509年5月22日」と明確 に判断することができる。次のFelixHoltでは,オープニングに相当する Author's introduction"では1831年,それに続く 1掌では1832年9月1日と いう月日が冒頭に提示されているO

以上の4作品においては,それぞれ名称、の違いはあるが,作者が意図的に 選んだ、始まりの時間がプロローグ的な部分で提示され,そしてその物語世界 の終わりとなる時聞がエピローグ的な部分で示される,という形式は共通し ている。別の言い方をすれば,プロローグ的部分も,エピローグ的部分も,

共に物語の時開設定という役割を課せられているということになるoDaniel  Derondaの冒頭には, Mancan do nothing without the make‑believe of a  beginning." (35)という作者自身によるエピグラフがあるが,この言葉を借

りれば,今まで延べてきた4作品のプロローグ的部分は, make‑believeof  a beginning"という役割を,エピローグ的部分は, make‑believeof an en‑ ding"という役割を,それぞれ忠実に果たしているといえるだろうO

と こ ろ が , 次 の Middlemarchに な る と , 冒 頭 に Prelude", 巻 末 に Finale"が設定されており,形式的には今までの4作品の延長上にあるよ うに見えるが,それぞれの果たす役割が前の4作品とは全く異なっている。

前掲の表からもわかるように Middlemarchの物語時間はその始まりが1章 で,その終わりが86章で設定されており, Prelude"と Finale"は時間設定 の役割を果たしていないということになる。さらに拡大して言えば, Eliot  のそれまでの4作品では常に冒頭。巻末で時間の設定がなされていたことを

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Daniel Derondaにおけるエピローグの不在 考えると ,Middlemarchは形式上 1章で始まって86章で終わっていると見 なすことも不可能ではない。それでは,物語時間の設定という役割から開放 された Prelude"と Finale"では何が行なわれているのだろうか。そこで Daniel Derondaにおけるエピローグ不在に至る一過程として ,Mitemarch における

Middlemarchの Prelude"については,すでに多少論じたことがあるが3

その大きな特徴は,書かれた時代より前の時代を描いた作品の冒頭で,さら にその前の時代が言及されているという点であろう。作品の出版は1871年,

I章の時間設定は1829年,そして Prelude"では16世紀の宗教家であり思想 家である SaintTheresaへの言及がなされている4 この Prelude"によっ て,続く 1章の1829年9月という年代を,単に作者の都合で決められた年代 というだけでなく,それ以前のより大きな歴史の流れからとらえることがで きるO 具体的に言うと,読者は Prelude"に描かれた Theresaの情熱を Dorotheaのそれと重ね合わせることもできるし,同じく Prelude"で言及 されている, Theresaに続いて epiclife"をめざそうとした多くの名もない 女性たちの挫折や絶望,その歴史の一端としてDoroth聞をとらえることも また可能なのである。前作FelixHoltの Author'sintroduction"とは対象的 に,Middlemarchの Prelude"では作中人物の紹介や社会的背景及び時代設 定に関する説明などは一切行なわれていないが,作品に歴史的な視野を取り 込むことによってある意味ではより暗示的に,しかしより雄弁に作中人物を 取り巻く状況を説明しているといえようO

さて ,Middlemarchでは84章でDorotheaがLadislawとの結婚を決意し,

86章を経て87章でFredとMaryが互いの結婚に同意し,物語はそのまま Finale"へと

5 1

き継がれていくわけだが,その Finale"は次のように始まっ ている。

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Every limit is  a beginning as well as an ending . . . . Marriage,  which has been the bourne of so many narratives, is  still  a great  beginning . . . . (M890) 

ここで作者は,あらゆる終わりは同時に始まりであると言い,多くの物語の 到達点である結婚ですら, gr tbeginning"になり得るものだと主張して いるO そしてその後,主要人物の86章以後の動向が語られてゆく。先の「結 婚が beginning"になりうる j という主張は, Dorotheaの苦悩や成長がま

さにCasaubonとの結婚から始まったことを見てきている読者にとっては十 分納得のゆくものであるし,また作中人物の動向を結末で説明するという手 法も,イギリス小説における伝統的な手法に属するもので,特に珍しいもの ではない。

しかし問題は,それぞれの作中人物への言及が,時間的に一致していると は言いがたいという点である。 Finale"で読者は, FredとMaryが今でも 仲睦まじく StoneCourtで暮らしていることや, Lydgateが50歳で死に,

その後Rosamondが再婚することなどを知るわけだが,果たしてそれらが 同時点のものなのかは明らかにされていない。さらに作品の最重要人物であ るDorotheaに関しては,彼女がLadislawの献身的な妻として生涯を送り,

男子を出産したことなどが語られているが, Finale"の時点で彼女が生き ているのか死んでいるのかははっきりさせられないまま,作者自身のコメン トが最後に延べられるという形で Finale"は終わっている。 Finale"にま とわりつくこの時間上の暖味性は,やはり Finale"が物語の終わる日時の 設定という役割から解放されていることと無関係ではないだろう。しかも Finale"は, 86章でいったん定められた物語の終わりの日時を限りなく暖 味にしてゆき,作品自体を終わりへと導く役割からも逃れようとしているか のようである。 Finale"のこういった特異性はMiddlemarchが書かれる数年 前に作者が

J

ohn Blackwoodに宛てた手紙の一節を思い起こさせるものが あるO

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Daniel Derondaにおけるエピローグの不在

Conclusions are  the weak point of most authors, but som of the fault lies in the very nature of a conclusion, which is  at best a  negation.

この手紙の中でEliotは,ほとんどの作家(の作品)の欠点は結末部分に あり,さらにそれは結末部分の持つ negation"(否定)という本質と関連し ていると述べているO 物語の結末部分がその物語世界の「否定」につながる というのはやや過激な言い方かもしれないが,作品を「終わらせる」という ことがEliotにとっていかに苦痛の伴う作業であったかがうかがえる言葉で はあるO 特にMiddlemarchのように,共同体社会そのものをそこに住む人々 を通して描こうとした作品では,物語の終結によって共同体社会の永続性ま でが「否定」されてしまうことをEliotは恐れたのだろうO それゆえ, 16世 紀からの連続を暗示させる Prelude"と呼応する形で Finale"を設け,そ の中で月日を暖昧にすることによって86章で提示された月日よりもさらに未 来への連続性を強調し,物語世界に対する negation"(否定)としての結末 から一歩進んだ greatbeginning"としてのエンデイングを確立しようとし たのではないだ、ろうか。実際, Finale"ではFredとMaryの子供やLadis‑ lawとDorotheaの子供といった,作中人物の次の世代に属する人物にも言 及があり, greatbeginning"への準備が着々と進められているようにも見 受けられるO

ただし,この Finale"における greatbeginning"の提示が,限りなく明 るい未来を予見しているかというと必ずしもそうとは言えない。確かに作者 は作品の最後で,名もなき人々の善行に対する期待と,世の中に対する希望 的観測を述べているが,その一方で, Dorotheaの人生に言及し,

I

次の世代 にはDorotheaよりもはるかにつらい犠牲を強いられるものもいるかもしれ ない」といった内容のコメントをしている九つまり Eliotは, greatbegin‑ ning"を示唆しながらも,部分的にその可能性に対する疑念を表明してし

まっていることになる。

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さ ら に Finale"で使われている,作中人物のその後の動向を簡単に要 約して終わらせるという手法も, greatbeginning"に対して矛盾を起こし てゆく。この手法は, after‑history"と呼ばれ7 19世紀のイギリス小説,こ とに全知の視点を持った語り手による作品においては,ほとんど慣習的にと いっていいほど多用されている手法である。なぜ、それほどまでに多用された のかーそれはこの手法が作品を「終わらせる」のに非常に適していたからで ある。別の言い方をすれば,作者が作中人物のその後の人生の要約をはじめ た時点で つまり作者がそれ以上先は物語として語る必要がない,あるいは 語れないと判断した時点で一作品は終わりへと向かつてゆくのであるoMid‑ dlemarchの Finale"では,今まで述べてきたように,時間の設定を暖昧に するなど,独自の手法が取り入れられているが, Fred, Mary, Dorotheaな

どは皆 after‑history"的な手法で語られているし, Lydgateに至っては,そ の死までが after‑history"の中に記載されている。つまり彼らの物語は終わ りへと向かっていることになるわけであるO そして皮肉なことに, Finale"

でその後の動向が一切語られていないBulstrodeFare brotherの方が,途 中で放り出されている分だけかえって「まだ終わっていなしリという印象を 与える(だからといって彼らの物語が greatbeginning"の見本であるとは

とても言えないが)。

結果として ,Middlemarchの Finale"では作中人物の属する共同体社会の 永続性を強調することには一応成功しているがーあるいはEliotにとっては それだ、けで十分だ、ったのかもしれないがーそれぞれの登場人物の物語の終わ り方は, after‑history"的手法を採用しているという点からも, Eliotが多 くの作家の弱点であると指摘した negation"としてのエンデイングから完 全に逃れているとは言いがたい。次作のDanielDerondみが作中人物を取り巻 く社会状況よりも,人物そのものに力点を置いた作品であることを考えると,

Milemarchにおける Finale"のようなエンデイングでは十分とは言えない だろうO それでは ,Daniel Derondaにおけるエンデイングではどのような手

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Daniel Deronda 法がとられているのだろうか。

Daniel Derondaの終わり方については,本論の冒頭で簡単に述べたが,こ の作品にはもう一つ, Gwendolen Harlethを中心にしたプロットがある。結 婚して平凡に生きるよりも賛沢に自由に生きたいという願望を持つGwen‑

dolenは, ドイツで賭博に夢中になって大金を失い,さらに一家の破産とい う経済的な圧迫にも負けて, Grandcourtという上流階級の男性からの結婚 申し込みを承諾するOこの時点で,結婚せずに生きたいという彼女の夢はいっ たん破れてしまうわけだが,結婚後さらなる挫折感や苦しみが彼女を待ち受 けている。妻に完全な服従を求める Grandcourt,そのGrandcourtの内縁の 妻(しかも彼の子供までいる)Mrs. Glasherへの罪悪感などが,結婚後も自 由気ままに暮らせると考えていたGwendolenを追い詰めてゆくO 彼女をと りまく社会的状況(経済的事情,女性の就職事情,結婚生活における男女の 力関係など)が彼女の望む生き方を阻んで、いるという点で,また彼女自身の 持つ欠点や未熟さもそのことに少なからず関係しているという点でも,以上 のようなストーリーの流れは,まさにMiddlemarchのDorotheaのそれと共 通するものがあるO この,社会的状況が登場人物の生き方に影響を及ぼすと いうパターンは, Eliotのそれまでの作品で何度も繰り返されてきたもので あり,その意味で彼女が最も書き慣れていたものであろう。従って, F. R.  Leavisをはじめとして, Gwendolenのプロットを高く評価する批評家も多

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これに対して, Danielのプロットでは,彼がユダヤ人としてのアイデン ティティーを確立してから抱く,ユダヤ民族による新しい国家の建設という 願望が,社会的な状況によって阻まれるということはなく, Mordecaiに代 表されるユダヤ入社会も,むしろ彼の情熱を支援する側に立っている。実際 Danielは物語の最後で,自らの夢を実現すべく旅に出ょうとするわけだが,

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におけるエピローグの不在

このようにDanielをとりまくあまりに理想的な状況が,プロット全体のリ アリティをそこなわせていることもまた否定できない。

リアリティの問題はさておき ,Daniel Derondaのようにイギリス入社会と ユダヤ入社会という二つの異なったパックグラウンドが混在する物語では,

作品全体を終わりに導くことがより難しくなるO 例えば,Mi必'lemarchの Finale"では, thereis  no creature whose inward being is  so strong that  it  is  not greatly determined by what lies outside it." (M896)という風に,

共同体社会とそこに住む人々の力関係をまとめているが,これは登場人物す べてがMiddlemarchという共通のパックグラウンドを持っているからこそ 説得力を持つ手法であって ,Daniel Derondaでは,このように登場人物をひ とまとめにしてコメントを加えるといった手法は実質上不可能に近い。その 意味でも ,Daniel Derondaは,今までEliotが得意としてきたエンディング

における手法をことごとく拒否した作品だと言えるだろうO

それでは, Gwendolenのプロットの終わり方を考えてみたい。先にも述 べたように,彼女は結婚後も様々な形で挫折感や罪悪感を味わうわけだが,

その精神的苦しみが頂点に達するのは56章であろうO 彼女はGrandcourtと 共にイタリアでヨットに乗るのだが,事故でGrandcourtは海に落ち,溺死 する。彼が海に落ちたとき,一瞬彼の死を望み,救助の手を差しのべなかっ たGwendolenは,罪の意識に苦しむ。やがて彼女は, Danielを相談相手と し,彼に励まされることによって徐々に苦しみから立ち直ってゆく(その分 Danielへの依存度も高まる)。そして,心の支えとしていたDanielにユダ ヤ人であることを告白され,東洋へ旅立っために別れを告げられた Gwen‑

dolenは, Danielが去った後,泣きながらも母親に 1shall live. 1 shall be  better." (879)と宣言する。そして次章 (70章)では,彼女がDanielに宛てた,

「生まれてきてよかったと人々に思われるような女性として生きていきた い

J

という内容の手紙が紹介される (882)0 以上のような形でGwendolen の物語は終わっているわけだが,まず第一に気づくのは,この終わり方が,

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Daniel Derondaにおけるエピローグの不在 11 

19世紀イギリスの,特に女性を主人公にした小説においてよく見受けられる 結婚や死による終わり方とは一線を画しているということであるoBarbara  Hardyもこの点を指摘して次のように述べているO

. . . Daniel Derond conclusionhas a special  toughness and fluidity.  Gwendolen is  not like  Maggie Tulliver, whose problems are  solved by  death, or  like  the  preceding  heroines, Esther  Lyon in FeZix  Holt or  Dorothea in Middlemarch, whose problems  are  solved  by marriage.  She  stands alone at the end of the novel, facing the question‑mark of the future  . . . . But Gwendolen is  not only alone, propped up neither by death, nor  marriage, but has to  start on a new set of expectations . . . . We are left  with a new refusal to simplify the nature of moral development, as well as  with a new kind of ending to a novel. 1t  is  an ending which leaves us with  a true sense of life's  difficulties and their full  complexity and toughness  (28‑29) 

未来に直面し新しいスタートをきる一人の女性というイメージを読者に提 示するこの手法を, Hardyは anew kind of ending to a novel"と呼んでい る。さらに言えば,Mi必'lemarchの Finale"において示唆された greatbe‑ ginning"がここでまさに与えられている ただしそれは, Hardyの言葉を 借りれば, a true sense of life's difficulties"を伴うものではあるがーと考 えることもできるだろう。

一方,結婚という比較的オーソドックスな形で終わっている Danielの物 語もまた未来への希望を十分に感じさせるものだが,それに加えて,エンデイ

ング部分のまさに最後に起こる Mordecaiの死にも注目すべきだろうO つま り,Daniel Derondaの結末部分は Gwendolenのプロットにおける新しい形 のエンデイングと, DanielとMirahの結婚によるエンデイングにMorde‑

CaIの死による作品自体のエンディングが加わった三重構造になっているの で あ る 。 そ し て こ の Mordecaiの死も,未来への希望に輝く Danielと

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におけるエピローグの不在

Mirahの腕に抱かれて死んでゆくという形をとることによって,ポジテイ ブなイメージをもたらしている。そのイメージをより強化するのが,死んで ゆく Mordecai自身の言葉であるO

Death is  coming to me as the divine kiss which is  both parting and reun‑ ion‑which takes me from your bodily eyes and gives me full presence in  your soul.  Where thou goest, Daniel, 1 shall go. Is  it  not begun? Have I  not breathed my soul into you? We shalllive together." (882) 

Mordecaiにとって死は parting"であると同時に reunion"でもあった。

死によって肉体は滅びても, Danielの心のなかに fullpresence"をもたら し

, Daniel, Mirahとの魂のつながりを強めていくのだと彼は主張している。

61章でMirahにユダヤ教の三位一体説を説いたMordecaiは,その死によっ て自己と DanielとMirahのユニティを完全にし,そしてこの三重構造のエ ンデイングを持った作品を,文字通り終わらせていくという役割を呆たして いる。先程の引用の最後の部分にある 1sit  not begun?"という疑問丈は,

人生の終わりである死をまさに始まりとしてとらえた言葉で,先程引用した Middlemarchの Finale"における Everylimit is  a beginning as well as an 

nding."というフレーズと呼応するものである。しかも,より説得力のある 形で,

r

始まりとしての終わり」を提示することに成功していると言えるだ ろう。

以上述べてきたように ,Daniel Derondaにおけるエンディング,またエピ ローグの不在をも含めたEliotの手法は高く評価すべきではあるが,そのこ とを十分に認めたうえで,最後に一つ疑問を呈しておきたい。それは,

Danielは本当にユダヤ入国家を作ることができたのだろうか,という疑問 である。同じような疑問をGwendolenに対しても投げかけることができる。

Gwendolenは本当に better"な 生 き 方 を す る こ と が で き た の か と。

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Daniel Deronda 13  Gwendolenの生きた時代は1860年代,MiddlemarchのDorotheaは1820‑30 年代,年代的に Gwendolenは Finale"でEliotが言及している many Dorotheas"の一人であると言えるし,またその意味で彼女を取り巻く社会 状況や人間関係が彼女に afar sadder sacrifice than that of Dorothea"を強 いる可能性がないとは決して言えない。しかしDanielと違ってGwendolen は,最後の手紙でも具体的に何をしたいのかということは全く述べていない ので,彼女の場合問題になるのは Hardyのいう moraldevlopment"とい うことになるだろうO つまり社会的状況はどうであれ,彼女が道徳的,精神 的に成長できれば彼女なりに目標を達成できたということになるので,Mid‑ dlemarchの Finale"と関連づけて彼女の行く末を憂うのは少し考えすぎか

もしれない。

これに対して, Danielのユダヤ人による新しい国家を建設するという野 望はより具体的で,その雄大さはMi必lemarchでサン・シモン団の団員を転 向させるためにその組織に加わろうとしたLydgate(M179)も遠く及ばない だろうO この野望が達成されたかどうかは作品の終わり方からも見て,読者 が想像する他なさそうだが,仮にもし達成されたとすれば,それを最後に書 くことによってより希望に満ちたエンディングになったのではないだろう か。それを書かなかった(あるいは書けなかった)のは,やはり作者の Eliot自身も Danielの野望の成就には疑問を抱いていたと考えることもで きるのである九以上のような読み方はDanielDeronぬのエンディングに明 るい希望を見出している読者の日にはややひねくれたものに映るかもしれな いが,明るい希望が強調されればされるほど,その希望に対して疑いが生じ る可能性もまた高くなってくることは否定できない。

いずれにせよ,これまでの作品において常に過去の時代を題材にし,社会 の枠組みの中で人間関係を描いてきたEliotが,Daniel Der・ondaにおいては 初めて同時代に生き,未来への希望を捨てようとしない男女を描こうとした わけで,その意味では同作品のエンデイングにおける,エピローグの不在を

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含めた,従来の手法からの脱却は必然的なものだと言えるだろう。 Daniel, Gwendolenのプ口、yトから after‑history"を排し, Mordecaiを死によって Danielと精神的に結びつけることで, Eliotは作品の終わりにおいてなお作 中人物をさらなる未来へと旅立たせ,彼女の言う negation"としてのエン ディングを兎服した新しい形のエンデイングを実現することに成功したと言 え る の で は な い だ ろ う か 。 た だ し 空 白 の ま ま の 作 中 人 物 た ち の after‑ history"を埋める作業は読者の想像力に委ねられており,その意味では先程

も述べたような,作者の強調する未来への希望とは相容れない読み方が導き 出される可能性もあるが,それはエピローグが存在しないDanielDeronぬ と いう作品の,ある意味では宿命とも言えるだろう。

キ エ

本稿は,日本英文学会中部地方支部第44回大会における研究発表(1992年103日) をもとに加筆・修正したものである。

1.  George Eliot, Daniel Deronぬ(Harmondsworth,Middlesex: Penguin Books,  1986) 514.以下同作品及びBarbaraHardyによる Introductionからの引用はす べてこの版によるものとし,引用文の末尾に該当頁数を記した。

2.  Hardyはこの引用について, appropriate in many wysfor a novel celebrat‑ ing national feeling and the defeat of the Philistines" (903)とコメン卜してい る。

3.拙稿「 Dodo"から Dorothea"へ‑Mi必lemarchにおける DorotheaBrooke  の metamorphosis"

core (同志社大学英文学会core編集部 21  [1992]  : 21‑35)  を参照されたい。

4.  George  Eliot, Middlemarch (Harmondsworth, Middlrsex:  Penguin  Books,  1985) 25.以下同作品からの引用はすべてこの版によるものとし,引用文の末尾 に (M‑一)という形で該当頁数を記した。

5.  Gordon S. Haight, The George Eliot Letters, vol. 2 (7 vols, New Haven, Conn  Yale University Press, 1954‑1956) 324 

6.原文は次の通りO . • we insignificant peoplwithour daily words and acts  are preparing the lives  of many Dorotheas, some of  which may present a far  sadder sucrifice than that of Dorothea whose story we know." (M896) 

7.  Marianna Torgovnickはこの言葉を abrief summary of the  lives' of charac 

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ters after the conclusion of the novel's major action"と定義している(Marianna Torgovnick, Closure in the Novel [Princeton, New ]ersey: Princeton University  Press, 1981] 20)。

8.  F. R. Leavisは, Gwendolenのプロットを thegood part of Daniel Derondd'  と呼ぴ,この作品にはGwendolenHarlethというタイトルを付けるべきだと主張 している(F.R. Leavis, The Great Tradition [London: GeorgW.Stewart] 104,  114)

9.  Eliotがこの問題について結論を下さなかったのは,Daniel Deronぬが「現在」

を扱った作品(物語の結末年と執筆年との差が10年しかない)であることとも無 関係ではないだろう。ただし, A.V.Dicey, ]ames Picciottoなど,作品出版当 初の時点でDnielの野望実現に疑念を表明している評者も少なくない(David Caroll, ed., George Eliot:  The Critical Heritage [London: Routledge and Kegan  Paul, 1971] 399‑404; 406‑417)。ちなみに,ユダヤ人による共和国のイスラエ ルが独立したのは, 1917年のイギリスによるパルフォア宣言(ユ夕、ヤ人のパレス チナ復帰を支持する宣言)を経た1948年のことである。

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