日本的和の世界の原理とその精神
Collective Education and the World of Japanese Harmony(1)
〈目 次〉
序 課題と方法
第1章 日本の近代化と家族制度イデオロギー 第1節問題としての家族制度
第2節家族制度イデオロギーの台頭 第2章 日本的和の世界の原理と精神 第1節家族制度における人間形成 第2節村と町の家族主義的性格
第3節 家族主義的社会構成における精神形態 第4節 日本的和の世界における人間類型 (以上本号、以下続稿予定)
第3章 日本的和の世界に挑む集団づくり 第4章学級集団づくりの人民主権的発想
序 課題と方法
近年,最大の民間教育研究団体に発展した全国生活指 導研究協議会(以下略称「全生研」)は,従来の学級集団 づくりの理論に依拠した実践が,今日の子どもをとらえ きれなくなりつつある事態の変化に直面して,発達論の 観点から現代の子どもと子ども集団をとらえ直し,学級 集団づくりの理論を再検討することを迫られている(1》。
しかし,全生研のいわば「方向転換」とも受けとれる この変化は②,必ずしも従来の学級集団づくりの理論そ のものを一独自の指導技術体系をもって確立された理 論の思想性と,それの日本戦後史における歴史的意義に まで踏みこんで一全面的に総括することを志向してい ないように思われる(3)。その点で,全生研の理論と実践が もつ革新的な性格とその意義については(その限界と問 題点も含めて),依然として解明は進んでいない。
かつて藤本卓は,全生研が「自らの理論性格を主要に は戦後なお強固であった『日本的和の世界』との対抗関 係の中で形成してきている」(4)と述べたことがあるが,筆 者はこの把握に賛成であり,まさにその対抗関係におい てこそ全生研の理論と実践の真価が明らかになると考え るものである㈹。
この視点から全生研の歴史をさかのぼってみると,19
田久保 清志
65年の時点で常任委員会が研究方針をめぐって討議を重 ね,次のような研究課題を確認していることが注目され
る(6)。
1.生活指導における文化継承と文化創造の問題 A.学校外における文化の問題
B.学校内における文化の問題
C.教科内容そのものの文化的諸性格と,それの人格 形成におよぼす作用
2 子どもの発達と人格形成の問題
A.現代の社会変化のなかでの子どもの発達と人格形 成の問題
B.集団づくり過程における子どもの発達と人格形成 の問題
C.教科と生活指導の問題
イ.子どもの社会的思惟様式と教科の論理の問題 ロ.「学習集団」形成の問題
3.集団づくりの思想性の問題 A 民主主義概念の究明
イ.民主主義の史的発展形態としての集団主義 ロ.公教育における民主主義
B 日本人の精神史研究
C アジア・アフリカにおける民族主義の問題
4.教育における集団の役割
これらの研究課題がその後どのような展開をみたのか 定かでないが,管見では少なくとも第3の思想性に関す る研究は,今日までほとんど皆無に近い。その中で唯一 の成果としてあげられるのは,全生研の理論と実践を
「日本的和の世界に垂直につきささる問題を提出し た」(7)ものとして評価する川上信夫の研究である。本稿の 着想もそこから得たところ大であるが,川上は日本的和 の世界の構造解明にあたって,ルース・ベネディクトの
『菊と刀』を検討素材とするにとどまり,その成果は問
題意識の有効性確認の域を出るものではない。
そこで同様の課題を設定する本稿「集団づくりと日本 的和の世界(1)」においては,全生研の理論・実践と日本 的和の世界を対置させる場合,まず日本的和の世界を形 成する制度的基礎の所在を確認し(第1章第1節),そ れを歴史的に考察することから始め(同第2節),社会的
・心理的検討を加えて日本的和の世界の原理と構造を明 らかにし(第2章第1〜3節),最終的に学級集団づく りのめざす人間・集団像と対比するための,日本人の人 間・集団像を明らかにする(同第4節)手順をとる。
それには本来ならば,全生研発足時から近年までの日 本の子ども像および子ども集団を直接の検討対象としな ければならないが,戦後にもひきつがれる日本的和の世 界をその最も純粋な形態でとらえるには,戦前の日本人 の精神形成に多大な影響をおよぼした家族制度と天皇制 イデオロギーを取り上げ,まずはそれに分析のメスを入 れることが必要である。それというのも,戦後日本の民 主化を担いうる人間像を求めて,社会科学の諸分野で敗 戦直後から精力的に進められた代表的諸研究は,日本の 近代化において,人格的独立主体としての個人を広範に 創出しえなかった原因を天皇制国家体制に求める点で一 致しており,教育学研究(とりわけ直接に民主主義教育 をかかげ,民主的主体形成を目的とする全生研等の教育 実践研究)においてもそれらの成果を積極的に摂取する
ことが求められるからである。
以上から本稿は,戦前の家族制度による人間形成に焦 点をあてた川島武宜(法学),家族のみならず村や町の 地域共同体をも対象とした福武直(社会学),さらに日 本の社会全体を貫徹しようとする天皇制支配の特質を摘 出した丸山真男(政治学)等,諸先学の研究を教育実践 研究という独自の立場から再構成し,日本的和の世界の 解明を試みるものである。
第1章 日本の近代化と家族制度イデオ
ロギー
第1節 問題としての家族制度
日本の近代化は,先進列強諸国の開国要求という対外 危機を直接の契機とする明治維新を経て,旧支配体制内 部の自覚的な下層武士団によって構成された明治新政府 の手によって急速に推進された。それゆえ日本の近代化 には,西欧とは異なる進路が設定された。すなわち,近 代市民革命という国民的課題は,西欧文明の限定採用 一個人主義・民主主義・キリスト教という政治的思想
的原理は排除して,科学・技術・軍備という物質文明の みを摂取する(8)一による,上からの近代国家建設とい
う当面の至上課題のうちに葬り去られることになったの
である。
こうして旧支配階級の中から生まれた「新」政府は,
富国強兵政策の旗のもとに国内の封建勢力を,天皇をそ の頂点とするヒエラルキーにおいて再編成し,政府主導 による近代化を遂行した。そして国家の独立を確保しつ つ,開国後半世紀にして列強の地位にのし上がったので ある。そのためには,天皇を中核とする統一的な中央集 権国家の体制構築と同時に,一般庶民の意識をもこの新 たな国家体制の内に取り込み,掌握する必要があった。
藤田省三は,この天皇制国家を国家の構成原理の面か ら,異質な2つの原理の対抗・癒着の発展関係としてと らえている。すなわちその「ひとつは,国家を政治権力 の装置乃至特殊政治的な制度として構成しようとするも のであり,他は,国家を共同体に基礎付けられた日常的 生活共同態そのもの乃至はそれと同一化できるものとし て構成しようとする原理」(9)である。この後者を欠いて は,天皇制国家が民衆の生活とその意識にまで支配を貫
くことは不可能であった。
こうして「権力国家と共同態国家という異質な二原理 による,天皇制に固有な両極的二元的構成」㈹が成立す るのだが,本稿においての問題は,松本三之介が指摘し たように,この後者の原理である「日常的生活共同態の 面を支えるイデオロギーとして形成され動員された」の が,「家族国家観」である(11)ということに存在する。そし て,このイデオロギーの現実的基盤として作為されたも のが封建的な家族制度であり,その基礎単位たる「家」
なのである。
法社会学の研究によれば,明治民法(詳細は次節に述 べる)の規定した家族制度は,主に明治期の貴族や官僚 を構成した旧武士層の家族秩序を,政府公認の理想像と
したものであり(12),いわゆる「家族制度」とは,家と家父 長制の2要素が密接不可分に結合した「家的家父長制」
として把握されている(13)。
この家族制度は以下の3つの特徴的性格をもつ。
①家は,世帯の共同とは関係のない血統集団であり,
構成員の死亡・出産・結婚等による変動はあってもそ の同一性を保持していくものだという信念を伴う(14}。
②家父長制は,家長が家族構成員に対して支配命令 し,後者が前者に服従する関係である㈹。
③家と家父長制との結合による家族制度の最も重要な
特色は,家長の権力を神聖化し,それを伝統の力に
よって補強し,且つ権力支配を外見的に見えにくく,
あるいは外見的に穏和なものにするという点にあ
る㈹。
本稿において重要なことは,このような家族秩序の中 に生まれ,そこに生きる人々が「この家族秩序に固有な ものの考え方,固有な行動様式に拘束される」(17}という 事実にある。人間形成の最も基本的な場である家族集団 が,戦前日本の家族制度によって一体どのような固有の 思考・行動様式を家族成員に刻印し,内面化させたの か,その具体的な分析に入る前に,この家族制度および そのイデオロギーの成立・発展の歴史的過程を見ておか ねばならない。川島武宜も指摘しているとおり,それは 家族集団の教育機能を巧みに取り込んで「国家権力の道 具にまで高めた考案」㈹として登場し,高度な政治的機 能を担わされたものだからである。
第2節 家族制度イデオロギーの台頭
「家」観念を家としての国,すなわち国家に結びつけ る家族国家観=家族制度イデオロギーは,教育政策の展 開と密接な関連をもって明治10年代にその原型をあらわ
し,明治40年代には確立されて,以後大正期を経て昭和 の戦時体制へと動員される。ここでは次章の論述に必要 な限りで,その歴史的過程を教育史との関連において素 描しよう。
〔1〕教育統制の先行と明治民法の成立
周知のように1880(明治13)年頃から勢いを得た自由 民権運動に対抗して,明治政府はその抑圧・解体のため に集会条例等の諸政策を断行するが,その一環としてそ れまでの開明的教育路線を転換し,儒教主義的家族道徳 による教育政策の推進を図った。すでにそれは,学制以 来の西欧を範とする知識才芸の重視を本来転倒とし,そ の是正を仁義忠孝に基づく儒教に求めた1879(明治12)
年の「教学聖旨」において,国民教育に関する天皇の最 初の勅語として公にされていたものであった。
このような儒教道徳を教育の根基とする思想は,自由 民権運動の高揚に対する政府の危機感の増大につれて次 第に有力となり,1880(明治13)年の改正教育令によっ て,政府の教育統制が強化されることになる。その中で も,学制以来必修教科の最下位近くに位置していたにす ぎなかった修身科が,それらの筆頭教科に配置されたこ とは,政府の修身教育の重視を示したものとして注目に 値する。その後1882(明治15)年に宮内省から諸学校に 下付された修身書『幼学綱要』は,そこに挙げた20の徳 目のうち「孝行」と「忠節」だけは「人倫の最大義」と し,他の徳目は単に「人倫の大義」として,両者の価値 を明確に区分した㈹。そして,忠と孝の義務を恩(親の恩
と君主の恩)およびそれへの恩返しとによって根拠づ け,元来徳川期武士階級のみの道徳であった各藩主への 忠を,庶民家族の孝になぞらえて天皇への国民道徳に転 換し,ここに「忠孝一致の教説の基礎」⑳がまず築かれ
る。
ところで,憲法制定準備を進めてきた政府は1885(明 治18)年,伊藤博文を総理大臣とする最初の内閣制度を 発足させた。元田永孚等の儒教主義的忠孝論者とは一線 を画して⑳,君主の行政大権を確保する外見的「立憲」
制のもとに富国強兵路線を推進しうる者として初代文部 大臣に任命された森有礼は,直ちに教育改革に着手し,
帝国臣民形成を基本課題として諸学校令を次々に公布し てそのための整備を図った。しかし国家への帰属意識形 成の手段として天皇制を活用しようとする森の姿勢は,
元田等の天皇の人格的支配による徳治論とは異質なもの
であった(22)。
このような森の教育政策に対する天皇制国家主義から の批判も含め,改正教育令以後の儒教的徳育を不十分と する地方長官会議において徳育方針の明確化が要請さ れ,1890(明治23)年に国民教育の根本方針として「教 育勅語」が換発されることになる。従って教育勅語は,
儒教の五倫(君臣の義,父子の親,夫婦の別,長幼の 序,朋友の信)を徳目として取りあげながらも,全体を 貫く思想は儒教そのものではなく㈹,儒教的家族道徳と いう私的倫理と,国家への献身や遵法という立憲的な公 的倫理との相異なる2側面を,「一旦緩急アレハ義勇公 二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という,天皇 への絶対的献身を求める国家主義によって強引に統一し たものとなった㈹。そしてこの年,検定を経たこの時期 の代表的な教科書,東久世通禧編『尋常小学修身書』
は,全8巻ともすべて第1課を忠,第2課を孝にあてて 繰り返し教えこんだだけでなく,親を尊貴な身分にひき あげる一方,天皇を父ないし本家として擬制し,孝と忠 の同一性を正当化した点で『幼学綱要』よりも一層家族 制度イデオロギーを発展させたものとなった(25)。
ところで一方,この間の家族をめぐる立法統制はどの ようであったか。明治政府の近代化政策はいまだあらゆ る分野での同時的統一的展開をみるには至らず,教育統 制と家族統制との間には対照的なずれが生じた。すなわ ち,概して明治初期までの法制史においては伝統的固有 法の名残りが濃密であるのに対して,教育史では開明的 な政策がとられていたのが,先述した1879(明治12年)
の「教学聖旨」前後の時期を境として両者の性格は逆転
し,以後法の世界ではヨーロッパ法の継受が盛んにな
り,逆に教育の世界では固有の伝統的な儒教倫理が強調
されるようになったのである(26)。
明治初期の法制度においては,刑事法の分野では従来 から固有の発展をとげてきた法体系が存在していたが,
民事法の分野ではそれが無く,明治9年から10年にかけ て司法卿大木喬任のもとで日本最初の民法草案が作成さ れた。この草案はフランス民法に範をとり,戸主や家督 相続に関する規定は無かった。その後,大木のもとで
「再閲民法草案」(明治15〜16年),「修正民法草案」(明 治19年)が作成されるが,重要なのはその後に司法大臣 山田顕義を委員長とする法律取調委員会によって,明治 21年に作成されたいわゆる「第一草案」である。これは 後述する「旧民法」(明治23年)の基礎とされたものだ が,フランス・イタリア・ベルギーの各民法を参照して おり,戸主の名称は現われているが戸主固有の権利(戸 主権)の規定はなく,また長男子優先の家督相続が家名 の連続を保つために規定されたものの,家督相続人以外 の者の財産相続を配慮している点で,「家」制度はまだ 明確な規定を得てはいなかった(2T)。
だがすでに,内閣制度の発足によって,それまでフラ ンス法の技術で独自の存在を認められていた司法省も,
それ以後内閣の政策に従属するようになっており,儒教 的な「家」を説くイデオロギーは,家族制度をまだ定着 させずにいた法制界をも明治20年代の民法典論争を通じ て支配し,やがて1898(明治31)年公布の民法によって 一層明確かつ具体的に登場することになった⑳。そし て,この明治民法が戦前の天皇制国家体制を支える家族 制度イデオロギーの根拠となったのである(29》。
明治民法の家族法は,「家」を基礎単位とする団体法 的家父長制であり,夫婦と親子の個人対個人の相互の権 利義務関係によって成り立つ西欧の家族法とは原理を異 にしていた。つまりそれは「まず家という永続的団体が あり,すべての人は何らかの家に属する。家には統率者 たる戸主があり,他の構成員(家族)は戸主の権力に支 配される」㈹というものであって,旧武士層の家族制度 を範として強力な戸主権を規定していた。
しかし民法の家族制度規定は,それだけに大多数の民 衆の生活現実からは遊離したものであった。実際の民衆 の生活は,家族内の非規範的意識や情緒的な行動秩序を もって成り立っており,民法の民衆家族統制の現実的効
力には危ういものがあった(3且)。
とはいえ,明治民法が民衆にとって無関係なもので あったわけではない。それは国家法として政府公認のイ デオロギーを具体化したものであって,教育における家 族制度イデオロギー教化の権威的基礎となり,現実的に も家父長権を補強する装置として威力を発揮しただけで
なく,旧武士層の家族秩序を継受している天皇家や華族
・官僚の,一般民衆に対する優越性を正当化する道具と
もなったのである(32》。
〔2〕国定修身教科書と家族制度イデオロギーの確立 明治期の日本は,日清・日露戦争を通じて資本主義経
済の急速な発展をはかるが,それは一方で旧来の社会構 造の変容・解体をもたらした。貨幣経済の冷徹な合理性 は,次第に経済的合理観念を人々の中に育て,個人主義 的な思想・行動を芽生えさせる。ここに日本資本主義の 体質的矛盾一封建的諸関係(特に半封建的小作制度)
を保持することによってのみ発展しえたにもかかわらず、
その封建的諸関係が資本主義の発展に応じて弛緩・解体 せざるをえない㈹一が顕在化しつつあった。
そこで政府は国民の自発的服従を確保するための諸政 策を,この時期に集中的に打ち出した。その第1は,義 務教育延長と国定教科書の改定,および通俗教育(社会 教育)の着手によるイデオロギー的統合の強化であり,
第2は,いわゆる地方改良運動を通じて末端町村が戦後 経営の困難を克服し,より一層国家目的に奉仕するよう にその行財政と生活習俗を再編することであった(34)。こ こでは,家族制度イデオロギーを直接国民に注入する役 割を担わされた修身教科書の内容と,小学校教育の定着 による伝統的生活習俗の改編について,その要点を述べ ておこう。
教科書疑獄事件を契機に1904(明治37)年から使用さ れたいわゆる第1期国定修身教科書は㈹,個人としての 心得から説く近代市民社会的な道徳を多分に含み,教育 界保守派から忠孝の大義および祖先の崇敬を軽視してい るとの批判を浴びて改定され,1910(明治43)年から第 2期国定教科書として登場する。改定の主査委員に穂積 八束も加わり,近代国家公民としての徳目(興産・公益
・選挙関係)が削減されて,天皇や国体に関する道徳が 増加されたこの第2期修身教科書において,忠と孝の結 合に基づいて国家を「家」に擬i制する家族国家観=家族 制度イデオロギーは確立される㈹。
まず第1に,尋常小学3年から説かれていた「忠君」
が第2期には1年から教材として加えられ,さらに4年 以上には「愛国」が付加されて「忠君愛国」の課として 新設されただけでなく(3T),6年ではその他に「忠孝」の課 が取り入れられた。こうして第1期では異なる徳目とし て並列されていた「孝行」と「忠君」と「愛国」とが1 つに連結され㈹,「家」と国家とを架橋する論理が登場す
る。
第2に,家に関しては両期とも6年の教材に取り上げ
られているが,第1期のそれが「家庭」と題され,単に
個々の家族内の秩序を遵守して和をなすようにと諭して いるのに対し,第2期のそれは課名も「祖先と家」と改 められて「家」の歴史的伝統が強調され,祖先の名を汚 さぬよう将来にわたって「家」の繁栄に尽力すべきと説 かれるに至る㈹。こうして,先祖伝来の伝統を背負った
「家」において,父母は単なる親ではなく祖先の志を継 承して家を治める者として聖化され,第1の孝行=忠君
=愛国という,いわば同時的・横断的な架橋の論理は,
過去から将来にわたって守り続けねばならない「家」と いう,通時的・縦断的な第2の論理によって補強されて いるのである。
ところで,この時期になると小学校はほぼ全国的に学 齢期の児童を学校生活に定着させ(4°),江戸時代からの節 句や氏神祭礼などの日には多数欠席していた児童を学校 が掌握できるようにより,各地の民衆の伝統的な生活習 俗が公的な小学校暦によって改編されるようになった。
すでに1873(明治6)年,天皇制による全国統一的な 民衆の生活暦支配を目指して全く新たに設定された紀元 節・天長節等の国家祝祭日は,御真影拝礼をはじあとす る一連の精緻に規定された学校儀式と共に,明治20年代 後半以降には全国各地の小学校で実施されるようになっ ていた㈹。こうしてまず子どもたちを把握した天皇制国 家祝祭日は,明治30年代半ば以降,寄生地主化した豪農 層の生活意識をとらえ,40年代に至って地主層を媒介と する地方改良運動によって底辺の民衆にまで浸透し た(42)。とりわけこれを促進したのは,日清・日露戦時の 学校での関連行事(兵士送り・祝勝記念会等)によっ て,国家と村落共同体との利害の一致を民衆に認識させ たこと,およびより直接的には,この時期定着しつつあっ た様々な学校行事(運動会・遠足・父兄会・学芸会・修 学旅行等)の拡大による伝統習俗の駆逐であった㈹。
社会状況に論を戻すと,思想界においても穂積八束や 井上哲次郎,加藤弘之らが家族国家観を主唱し㈹,日露 戦争の勝因を家族制度に求める(家や郷土を思い,君国 のために犠牲になる心情を養成したとする)主張もなさ れ㈹,実際,軍隊においても家族主義が強調されるよう になった㈹。資本主義の発展に伴う社会構造の変化に対 処するため,政府は新たな工場制労働関係や,弛緩しつ つあった農村の地主小作関係を家族的秩序で統制しよう
とし㈹,折から広まりつつあった自然主義や社会主義の 思想に基づく家族観の出現に対抗して,国家主義の側か
ら家族制度イデオロギーの宣伝が行なわれた(48}。
〔3〕家族制度イデオロギーの強化と戦時体制への動員 しかし大正期に入って,産業構造の重工業化は労働者
を急増させ,第1次世界大戦は資本の独占化を促進した。
それは一方で労働運動の発展と大正デモクラシーの高揚 を生み,米騒動や小作争議など農民運動を惹起し,旧来 の支配秩序に動揺をきたすに至り,家族内にも世代間に よる考え方の相違・対立が見られるようになった㈹。
この段階ではもはや「個々の思想家や官僚による家族 制度イデオロギーの教義の発展というような方法によっ ては効果をあげることはできなくなっており,全国的規 模で学校教育の場で家族制度イデオロギーを強化するこ
とが必要」(5°)となり,1917(大正6)年設置の臨時教育会 議は,国体観念・国家思想の酒養を強調した答申(9 本)と建議(2本)を行なった。
その中でも「教育の効果ヲ完カラシムヘキー般施設二 関スル建議」は,「物質偏重ノ弊二因リ(中略)醇美ノ風 敦厚ノ俗次第二頽敗」しつつある社会の現状を救うに は,「国民思想ノ帰饗ヲーニシ其ノ適従スル所ヲ定ムル」
ことが不可欠であるとし,以下の5項目について「相当 ノ措置ヲ取ラレムコト」を要望した(51)。①国体ノ本義ヲ 明徴ニシテ之ヲ中外二顕彰スルコト ②我国固有ノ淳風 美俗ヲ維持シ法律制度ノ之二副ハサルモノヲ改正スルコ
ト ③各国文化ノ長ヲ採ルト共二徒二之力模倣二安セス 独創的精神ヲ振作セシムルコト ④建国ノ精神二基キ正 義公道二依リ世界ノ大勢二処スルコト ⑤社会ノ協調ヲ 図リー般国民ヲシテ生活ノ安定ヲ得シムルコト。これら は「学校教育ノ効果ヲ完全二収メムトセハ同時二社会ノ 状態ヲ改善セサルヘカラス」という建議の認識に立つも のであった。
その第2項目の法改正の建議を受けて,政府は,1919
(大正8)年臨時法制審議会を設置し,「現行民法中我国 古来ノ淳風美俗二副ハザルモノアリト認ム其ノ改正ノ要 領如何」と諮問した(52)。審議経過は一般に,委員中の保守 派(主に官僚・在野法曹)が家族制度の理念に現行民法 を一致させようとしたのに対して,進歩派(法律学者)
は現実の家族生活に民法が適合するよう改正しようとし ていたとされている(53)。その結果,公表された民法改正 要綱(1927年)は戸主権に一定の制限を加えるなど,明 治民法よりも進歩的な部分を含んだものとなり(54),それ ゆえ要綱に基づく法案作成作業は1944年まで続けられな がら,時勢の逆行によりついに実現せずに終わる(55)。
だが民法改正の目標はついえても,臨時教育会議の建 議の精神は,続く昭和の戦時体制下に引きつがれていく
のである。
昭和初期の打ち続く恐慌は,多くの労働争議・小作争
議や社会主義思想の浸透を誘発し,いわゆる思想問題が
一般化した。中国大陸への侵略を開始した日本は国家総
力戦体制に突入し,その思想戦対策として国体思想の確
立,皇国の世界史的使命の宣揚を図った。
すでに1932(昭和7)年,国体の原理を閾明してマル クス主義に対抗し得る理論体系の建設を目的とする,国 民精神文化研究所を設置していた文部省は,さらに「直接 に政府官版による公定イデオロギーとしての『経典』」
㈹とするべく,みずから『国体の本義』(昭和12年)『臣 民の道』(昭和16年)を編纂し,加えてr戦時家庭教育要 項』(昭和17年)を発したのである。ここにおいて家族制 度イデオロギーは国民精神総動員体制に組み込まれ,神 がかり的な戦争遂行のイデオロギーとなった。
古事記・日本書紀の天孫降臨神話によって万世一系た る天皇の血統を権威づける『国体の本義』は,まず「我 が国は皇室を宗家とし奉り,天皇を古今にわたる中心と 仰ぐ君民一体の一大家族国家である」(5T)と規定し,「臣民 は祖先に対する敬慕の情を以て,宗家たる皇室を崇敬し 奉り,天皇は臣民を赤子として愛しみ給ふ」(p.47)と,天 皇と国民との関係を説明する。そして「孝は家を地盤と
して発生するが,これを大にしては国を以てその根底と する。孝は,直接には親に対するものであるが,更に天 皇に対し奉る関係に於て,忠のなかに成り立つ」(p.43)
と,「忠孝一本」(p.47)の論理で家と国家とを結びつけ
る。
そしてそれを補強するために「家」の伝統性を持ち出 して言う。「我が国の家の生活は,現在の親子一家の生 活に尽きるのではなく,遠き祖先に始り,永遠に子孫に
よって継続せられる」(p.44)ものであって一ここまで は第2期国定修身教科書の論理展開にほぼ同じだが,
『国体の本義』にはさらに以下の強引な論理が付け加わ る一「我等の祖先は歴代天皇の天業恢弘を翼賛し奉っ たのであるから,我等が天皇に忠節の誠を致すことは,
即ち祖先の遺風を顕すものであって,これ,やがて父祖 に孝なる所以である。我が国に於ては忠を離れて孝は存 在せず,孝は忠をその根本としている」(p.47)
孝と忠の関係は,もはや忠がその根本であって決して その逆ではない。そうでなければ戦時下のイデオロギー としては失格である。だからこそ『国体の本義』は,次 のように説くのを怠らない。「忠は,天皇を中心とし奉
り,天皇に絶対随順する道である。絶対随順は,我を捨 てて私を去り,ひたすら天皇に奉仕すること」(p.43)で あり,「天皇の御ために身命を捧げることは,所謂自己 犠牲ではなくして,小我を捨てて大いなる御稜威に生 き,国民としての真生命を発揚する所以である」(p.35)
さて『国体の本義』の目的がその名の通り,国体観念 の明徴にあるとすれば,続く『臣民の道』はまさにその 実践編である。「国体の尊厳を知りながらそれが単なる
観念に止まり,生活の実際に具現せられざるものあるは 深く憂ふべきである」{SS)とする『臣民の道』は,情勢の進 行を反映してその第1章に「世界新秩序の建設」をお
き,第2,3章をそれぞれ「国体と臣民の道」「臣民の道 の実践」とした。基本的な論理は『国体の本義』と大差 ないが,いくつかの点で注目すべき展開が見られる。
だが,それについては次章第3節で言及することにし て,ここでは,その翌年に出されたr戦時家庭教育要 項』が端的に示した,以下の3点の「我ガ国二於ケル家 ノ特質」㈹を本章の結びとして確認しておくことにしよ う。戦前の「家」は,ここに初めて明確に規定され明文 化されて国民に示されたのである。
①祖孫一体ノ道二則ル家長中心ノ結合ニシテ人間生活 ノ最モ自然ナル親子ノ関係ヲ根本トスル家族ノ生活ト シテ情愛敬慕ノ間二人倫本然ノ秩序ヲ長養シツツ永遠 ノ生命ヲ具現シ行ク生活ノ場ナルコト
②畏クモ皇室ヲ宗家ト仰ギ奉リ恒二国ノ家トシテ生成 発展シ行ク歴史的現実ニシテ忠孝一本ノ大道二基ヅク 子女練成ノ道場ナルコト
③親子,夫婦,兄弟,姉妹和合団簗シ序二従ツテ各自 ノ分ヲ尽クシ老ヲ扶ケ幼ヲ養フ親和ノ生活ノ裡二自他 一如,物心一如ノ修練ヲ積ミ進ンデ世界新秩序ノ建設 二参スルノ素地二培フモノナルコト(60)
〔補論〕
すでに述べたように(注21),本節では家族制度イデ オロギーの成立・発展過程を歴史的に考察することを課 題としている。だが,イデオロギーがどの程度まで現実 に民衆をとらえ,具体的な効力を発揮したかというイデ オロギーの実現過程の問題が別個に存在する。この点の 解明なくして,イデオロギーの全面的分析は終了しない。
しかし,今日まで戦前の家族の実態については,法社会 学の分野でも資料の制約や現時点からの調査の限界など により,いまだ充分な研究がなされていない。前掲の有 地享r近代日本の家族観』および『日本の親子二百年』
は,当時の新聞・雑誌に掲載された家族関連の記事を収 集,分析した貴重な研究のひとつであるが,ここでは戦 前の文学作品(小説)に描写された家族関係を素材とし てその時期的な内容変化を分析した,潮見俊隆・阪本美 代子「近代日本文学における家族」前掲『家族 政策と 法7』を取り上げよう。それによれば,親子関係は3つ の時期を画して変化する。①明治20年代から日露戦時ま での資本主義の形成期は,士族階層と平民階層とで明確 に異なる家族類型を示す。前者は,祖孫一体の家の存続
・発展という価値が親の意識と行動を決定し,子はそれ
に対して一応の疑問は抱くがその域を出ない。一方後者
では,子は家族生活を支える道具であり老後の扶養のた めの手段であって,儒教的な家観念の入り込む余地がな く,家族制度イデオロギーの定着する基盤がなかった。
②日露戦後,資本主義が確立してから大正6年の第1次 世界大戦終了までの時期には,士族階層の従来の伝統的 親子関係に動揺が生じる。親の意識から儒教的家観念は 次第に影をひそめ,より現実的な孝の強調に重点がうつ る一方,子は親と対立して第1期よりも独立志向が強ま
り,親子関係よりも夫婦関係を優先して考えるようにな る。③第1次大戦後から昭和12年日中戦争開始までの独 占資本主義成立期には,ブルジョアジー(資本家および 中産階級)と労働者階級の分化による家族関係の相違が 鮮明に現れてくる。前者では,儒教的家観念がほとんど 効力を失い,子の独立志向も強まって現実化へ向かう。
親も第2期の孝の強調から個人の尊重へと意識が近代化 する。それに対して後者では,依然として貧困のために 子の労働力は親の統制下におかれ,家族制度イデオロ ギーの定着は困難である。子の独立は経済的貧困の前に 阻まれているが,その中でも独立志向は生まれつつある。
(第3期以後の戦時体制下の小説は,その描写の信頼性 の点から取り上げられていない)一以上の結論の妥当 性は,対象とした小説の現実描写の正確さにかかってお
り,そのまま受けとめるわけにはいかないが,民衆の家 族生活に家族制度イデオロギーが定着しなかったとする 点には留意が必要である。ただし検討の素材とされた20 編の小説には農民家族を描いたものがなく,この点も含 めて今後の研究の進展にまたねばならない。
第2章 日本的和の世界の原理と精神
前章では,日本の近代化における家族制度とそのイデ オロギーの成立・発展過程を歴史的に考察した。その上 で本章では,家族制度イデオロギーに基礎づけられた
「家」と,その集合体としての村と町において,いかな る精神構造がそこに暮らす人々の中に形成されたのかを 明らかにしよう。
第1節 家族制度における人間形成
前述のように,長子単独相続を原則とする戦前の家族 は,「祖先から子孫へと直系的に承継されてゆくr家』の 現象形態」{61)であって,その本質は「家」として把握され ねばならなかった(62)。このような「家」は「住居としての 家や家財,家業のための生産手段,祖先の埋葬された墓 地などを含めたものとして観念され(中略)家のために
は個人の人格が無視され犠牲にされても当然のことと考 えられた」(63)のであるが,このような「家」において,人 はどのような性格・精神を刻印されたのであろうか。ま ずは,敗戦直後にこの問題に取り組んだ川島武宜の論文 「日本社会の家族的構成」を手がかりにして分析を進め
よう(64)。