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日本的和の世界の原理とその精神

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日本的和の世界の原理とその精神

Collective Education and the World of Japanese Harmony(1)

〈目 次〉

 序  課題と方法

第1章 日本の近代化と家族制度イデオロギー  第1節問題としての家族制度

 第2節家族制度イデオロギーの台頭 第2章 日本的和の世界の原理と精神  第1節家族制度における人間形成  第2節村と町の家族主義的性格

 第3節 家族主義的社会構成における精神形態  第4節 日本的和の世界における人間類型     (以上本号、以下続稿予定)

第3章 日本的和の世界に挑む集団づくり 第4章学級集団づくりの人民主権的発想

序  課題と方法

 近年,最大の民間教育研究団体に発展した全国生活指 導研究協議会(以下略称「全生研」)は,従来の学級集団 づくりの理論に依拠した実践が,今日の子どもをとらえ きれなくなりつつある事態の変化に直面して,発達論の 観点から現代の子どもと子ども集団をとらえ直し,学級 集団づくりの理論を再検討することを迫られている(1》。

 しかし,全生研のいわば「方向転換」とも受けとれる この変化は②,必ずしも従来の学級集団づくりの理論そ のものを一独自の指導技術体系をもって確立された理 論の思想性と,それの日本戦後史における歴史的意義に まで踏みこんで一全面的に総括することを志向してい ないように思われる(3)。その点で,全生研の理論と実践が もつ革新的な性格とその意義については(その限界と問 題点も含めて),依然として解明は進んでいない。

 かつて藤本卓は,全生研が「自らの理論性格を主要に は戦後なお強固であった『日本的和の世界』との対抗関 係の中で形成してきている」(4)と述べたことがあるが,筆 者はこの把握に賛成であり,まさにその対抗関係におい てこそ全生研の理論と実践の真価が明らかになると考え るものである㈹。

 この視点から全生研の歴史をさかのぼってみると,19

田久保 清志

65年の時点で常任委員会が研究方針をめぐって討議を重 ね,次のような研究課題を確認していることが注目され

る(6)。

1.生活指導における文化継承と文化創造の問題  A.学校外における文化の問題

 B.学校内における文化の問題

 C.教科内容そのものの文化的諸性格と,それの人格    形成におよぼす作用

2 子どもの発達と人格形成の問題

A.現代の社会変化のなかでの子どもの発達と人格形   成の問題

 B.集団づくり過程における子どもの発達と人格形成    の問題

 C.教科と生活指導の問題

  イ.子どもの社会的思惟様式と教科の論理の問題   ロ.「学習集団」形成の問題

3.集団づくりの思想性の問題  A 民主主義概念の究明

  イ.民主主義の史的発展形態としての集団主義   ロ.公教育における民主主義

 B 日本人の精神史研究

 C アジア・アフリカにおける民族主義の問題

4.教育における集団の役割

 これらの研究課題がその後どのような展開をみたのか 定かでないが,管見では少なくとも第3の思想性に関す る研究は,今日までほとんど皆無に近い。その中で唯一 の成果としてあげられるのは,全生研の理論と実践を

「日本的和の世界に垂直につきささる問題を提出し た」(7)ものとして評価する川上信夫の研究である。本稿の 着想もそこから得たところ大であるが,川上は日本的和 の世界の構造解明にあたって,ルース・ベネディクトの

『菊と刀』を検討素材とするにとどまり,その成果は問

(2)

題意識の有効性確認の域を出るものではない。

 そこで同様の課題を設定する本稿「集団づくりと日本 的和の世界(1)」においては,全生研の理論・実践と日本 的和の世界を対置させる場合,まず日本的和の世界を形 成する制度的基礎の所在を確認し(第1章第1節),そ れを歴史的に考察することから始め(同第2節),社会的

・心理的検討を加えて日本的和の世界の原理と構造を明 らかにし(第2章第1〜3節),最終的に学級集団づく りのめざす人間・集団像と対比するための,日本人の人 間・集団像を明らかにする(同第4節)手順をとる。

 それには本来ならば,全生研発足時から近年までの日 本の子ども像および子ども集団を直接の検討対象としな ければならないが,戦後にもひきつがれる日本的和の世 界をその最も純粋な形態でとらえるには,戦前の日本人 の精神形成に多大な影響をおよぼした家族制度と天皇制 イデオロギーを取り上げ,まずはそれに分析のメスを入 れることが必要である。それというのも,戦後日本の民 主化を担いうる人間像を求めて,社会科学の諸分野で敗 戦直後から精力的に進められた代表的諸研究は,日本の 近代化において,人格的独立主体としての個人を広範に 創出しえなかった原因を天皇制国家体制に求める点で一 致しており,教育学研究(とりわけ直接に民主主義教育 をかかげ,民主的主体形成を目的とする全生研等の教育 実践研究)においてもそれらの成果を積極的に摂取する

ことが求められるからである。

 以上から本稿は,戦前の家族制度による人間形成に焦 点をあてた川島武宜(法学),家族のみならず村や町の 地域共同体をも対象とした福武直(社会学),さらに日 本の社会全体を貫徹しようとする天皇制支配の特質を摘 出した丸山真男(政治学)等,諸先学の研究を教育実践 研究という独自の立場から再構成し,日本的和の世界の 解明を試みるものである。

第1章 日本の近代化と家族制度イデオ

ロギー

第1節 問題としての家族制度

 日本の近代化は,先進列強諸国の開国要求という対外 危機を直接の契機とする明治維新を経て,旧支配体制内 部の自覚的な下層武士団によって構成された明治新政府 の手によって急速に推進された。それゆえ日本の近代化 には,西欧とは異なる進路が設定された。すなわち,近 代市民革命という国民的課題は,西欧文明の限定採用 一個人主義・民主主義・キリスト教という政治的思想

的原理は排除して,科学・技術・軍備という物質文明の みを摂取する(8)一による,上からの近代国家建設とい

う当面の至上課題のうちに葬り去られることになったの

である。

 こうして旧支配階級の中から生まれた「新」政府は,

富国強兵政策の旗のもとに国内の封建勢力を,天皇をそ の頂点とするヒエラルキーにおいて再編成し,政府主導 による近代化を遂行した。そして国家の独立を確保しつ つ,開国後半世紀にして列強の地位にのし上がったので ある。そのためには,天皇を中核とする統一的な中央集 権国家の体制構築と同時に,一般庶民の意識をもこの新 たな国家体制の内に取り込み,掌握する必要があった。

 藤田省三は,この天皇制国家を国家の構成原理の面か ら,異質な2つの原理の対抗・癒着の発展関係としてと らえている。すなわちその「ひとつは,国家を政治権力 の装置乃至特殊政治的な制度として構成しようとするも のであり,他は,国家を共同体に基礎付けられた日常的 生活共同態そのもの乃至はそれと同一化できるものとし て構成しようとする原理」(9)である。この後者を欠いて は,天皇制国家が民衆の生活とその意識にまで支配を貫

くことは不可能であった。

 こうして「権力国家と共同態国家という異質な二原理 による,天皇制に固有な両極的二元的構成」㈹が成立す るのだが,本稿においての問題は,松本三之介が指摘し たように,この後者の原理である「日常的生活共同態の 面を支えるイデオロギーとして形成され動員された」の が,「家族国家観」である(11)ということに存在する。そし て,このイデオロギーの現実的基盤として作為されたも のが封建的な家族制度であり,その基礎単位たる「家」

なのである。

 法社会学の研究によれば,明治民法(詳細は次節に述 べる)の規定した家族制度は,主に明治期の貴族や官僚 を構成した旧武士層の家族秩序を,政府公認の理想像と

したものであり(12),いわゆる「家族制度」とは,家と家父 長制の2要素が密接不可分に結合した「家的家父長制」

として把握されている(13)。

 この家族制度は以下の3つの特徴的性格をもつ。

①家は,世帯の共同とは関係のない血統集団であり,

 構成員の死亡・出産・結婚等による変動はあってもそ  の同一性を保持していくものだという信念を伴う(14}。

②家父長制は,家長が家族構成員に対して支配命令  し,後者が前者に服従する関係である㈹。

③家と家父長制との結合による家族制度の最も重要な

 特色は,家長の権力を神聖化し,それを伝統の力に

 よって補強し,且つ権力支配を外見的に見えにくく,

(3)

 あるいは外見的に穏和なものにするという点にあ

 る㈹。

 本稿において重要なことは,このような家族秩序の中 に生まれ,そこに生きる人々が「この家族秩序に固有な ものの考え方,固有な行動様式に拘束される」(17}という 事実にある。人間形成の最も基本的な場である家族集団 が,戦前日本の家族制度によって一体どのような固有の 思考・行動様式を家族成員に刻印し,内面化させたの か,その具体的な分析に入る前に,この家族制度および そのイデオロギーの成立・発展の歴史的過程を見ておか ねばならない。川島武宜も指摘しているとおり,それは 家族集団の教育機能を巧みに取り込んで「国家権力の道 具にまで高めた考案」㈹として登場し,高度な政治的機 能を担わされたものだからである。

第2節 家族制度イデオロギーの台頭

 「家」観念を家としての国,すなわち国家に結びつけ る家族国家観=家族制度イデオロギーは,教育政策の展 開と密接な関連をもって明治10年代にその原型をあらわ

し,明治40年代には確立されて,以後大正期を経て昭和 の戦時体制へと動員される。ここでは次章の論述に必要 な限りで,その歴史的過程を教育史との関連において素 描しよう。

〔1〕教育統制の先行と明治民法の成立

 周知のように1880(明治13)年頃から勢いを得た自由 民権運動に対抗して,明治政府はその抑圧・解体のため に集会条例等の諸政策を断行するが,その一環としてそ れまでの開明的教育路線を転換し,儒教主義的家族道徳 による教育政策の推進を図った。すでにそれは,学制以 来の西欧を範とする知識才芸の重視を本来転倒とし,そ の是正を仁義忠孝に基づく儒教に求めた1879(明治12)

年の「教学聖旨」において,国民教育に関する天皇の最 初の勅語として公にされていたものであった。

 このような儒教道徳を教育の根基とする思想は,自由 民権運動の高揚に対する政府の危機感の増大につれて次 第に有力となり,1880(明治13)年の改正教育令によっ て,政府の教育統制が強化されることになる。その中で も,学制以来必修教科の最下位近くに位置していたにす ぎなかった修身科が,それらの筆頭教科に配置されたこ とは,政府の修身教育の重視を示したものとして注目に 値する。その後1882(明治15)年に宮内省から諸学校に 下付された修身書『幼学綱要』は,そこに挙げた20の徳 目のうち「孝行」と「忠節」だけは「人倫の最大義」と し,他の徳目は単に「人倫の大義」として,両者の価値 を明確に区分した㈹。そして,忠と孝の義務を恩(親の恩

と君主の恩)およびそれへの恩返しとによって根拠づ け,元来徳川期武士階級のみの道徳であった各藩主への 忠を,庶民家族の孝になぞらえて天皇への国民道徳に転 換し,ここに「忠孝一致の教説の基礎」⑳がまず築かれ

る。

 ところで,憲法制定準備を進めてきた政府は1885(明 治18)年,伊藤博文を総理大臣とする最初の内閣制度を 発足させた。元田永孚等の儒教主義的忠孝論者とは一線 を画して⑳,君主の行政大権を確保する外見的「立憲」

制のもとに富国強兵路線を推進しうる者として初代文部 大臣に任命された森有礼は,直ちに教育改革に着手し,

帝国臣民形成を基本課題として諸学校令を次々に公布し てそのための整備を図った。しかし国家への帰属意識形 成の手段として天皇制を活用しようとする森の姿勢は,

元田等の天皇の人格的支配による徳治論とは異質なもの

であった(22)。

 このような森の教育政策に対する天皇制国家主義から の批判も含め,改正教育令以後の儒教的徳育を不十分と する地方長官会議において徳育方針の明確化が要請さ れ,1890(明治23)年に国民教育の根本方針として「教 育勅語」が換発されることになる。従って教育勅語は,

儒教の五倫(君臣の義,父子の親,夫婦の別,長幼の 序,朋友の信)を徳目として取りあげながらも,全体を 貫く思想は儒教そのものではなく㈹,儒教的家族道徳と いう私的倫理と,国家への献身や遵法という立憲的な公 的倫理との相異なる2側面を,「一旦緩急アレハ義勇公 二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という,天皇 への絶対的献身を求める国家主義によって強引に統一し たものとなった㈹。そしてこの年,検定を経たこの時期 の代表的な教科書,東久世通禧編『尋常小学修身書』

は,全8巻ともすべて第1課を忠,第2課を孝にあてて 繰り返し教えこんだだけでなく,親を尊貴な身分にひき あげる一方,天皇を父ないし本家として擬制し,孝と忠 の同一性を正当化した点で『幼学綱要』よりも一層家族 制度イデオロギーを発展させたものとなった(25)。

 ところで一方,この間の家族をめぐる立法統制はどの ようであったか。明治政府の近代化政策はいまだあらゆ る分野での同時的統一的展開をみるには至らず,教育統 制と家族統制との間には対照的なずれが生じた。すなわ ち,概して明治初期までの法制史においては伝統的固有 法の名残りが濃密であるのに対して,教育史では開明的 な政策がとられていたのが,先述した1879(明治12年)

の「教学聖旨」前後の時期を境として両者の性格は逆転

し,以後法の世界ではヨーロッパ法の継受が盛んにな

り,逆に教育の世界では固有の伝統的な儒教倫理が強調

(4)

されるようになったのである(26)。

 明治初期の法制度においては,刑事法の分野では従来 から固有の発展をとげてきた法体系が存在していたが,

民事法の分野ではそれが無く,明治9年から10年にかけ て司法卿大木喬任のもとで日本最初の民法草案が作成さ れた。この草案はフランス民法に範をとり,戸主や家督 相続に関する規定は無かった。その後,大木のもとで

「再閲民法草案」(明治15〜16年),「修正民法草案」(明 治19年)が作成されるが,重要なのはその後に司法大臣 山田顕義を委員長とする法律取調委員会によって,明治 21年に作成されたいわゆる「第一草案」である。これは 後述する「旧民法」(明治23年)の基礎とされたものだ が,フランス・イタリア・ベルギーの各民法を参照して おり,戸主の名称は現われているが戸主固有の権利(戸 主権)の規定はなく,また長男子優先の家督相続が家名 の連続を保つために規定されたものの,家督相続人以外 の者の財産相続を配慮している点で,「家」制度はまだ 明確な規定を得てはいなかった(2T)。

 だがすでに,内閣制度の発足によって,それまでフラ ンス法の技術で独自の存在を認められていた司法省も,

それ以後内閣の政策に従属するようになっており,儒教 的な「家」を説くイデオロギーは,家族制度をまだ定着 させずにいた法制界をも明治20年代の民法典論争を通じ て支配し,やがて1898(明治31)年公布の民法によって 一層明確かつ具体的に登場することになった⑳。そし て,この明治民法が戦前の天皇制国家体制を支える家族 制度イデオロギーの根拠となったのである(29》。

 明治民法の家族法は,「家」を基礎単位とする団体法 的家父長制であり,夫婦と親子の個人対個人の相互の権 利義務関係によって成り立つ西欧の家族法とは原理を異 にしていた。つまりそれは「まず家という永続的団体が あり,すべての人は何らかの家に属する。家には統率者 たる戸主があり,他の構成員(家族)は戸主の権力に支 配される」㈹というものであって,旧武士層の家族制度 を範として強力な戸主権を規定していた。

 しかし民法の家族制度規定は,それだけに大多数の民 衆の生活現実からは遊離したものであった。実際の民衆 の生活は,家族内の非規範的意識や情緒的な行動秩序を もって成り立っており,民法の民衆家族統制の現実的効

力には危ういものがあった(3且)。

 とはいえ,明治民法が民衆にとって無関係なもので あったわけではない。それは国家法として政府公認のイ デオロギーを具体化したものであって,教育における家 族制度イデオロギー教化の権威的基礎となり,現実的に も家父長権を補強する装置として威力を発揮しただけで

なく,旧武士層の家族秩序を継受している天皇家や華族

・官僚の,一般民衆に対する優越性を正当化する道具と

もなったのである(32》。

〔2〕国定修身教科書と家族制度イデオロギーの確立  明治期の日本は,日清・日露戦争を通じて資本主義経

済の急速な発展をはかるが,それは一方で旧来の社会構 造の変容・解体をもたらした。貨幣経済の冷徹な合理性 は,次第に経済的合理観念を人々の中に育て,個人主義 的な思想・行動を芽生えさせる。ここに日本資本主義の 体質的矛盾一封建的諸関係(特に半封建的小作制度)

を保持することによってのみ発展しえたにもかかわらず、

その封建的諸関係が資本主義の発展に応じて弛緩・解体 せざるをえない㈹一が顕在化しつつあった。

 そこで政府は国民の自発的服従を確保するための諸政 策を,この時期に集中的に打ち出した。その第1は,義 務教育延長と国定教科書の改定,および通俗教育(社会 教育)の着手によるイデオロギー的統合の強化であり,

第2は,いわゆる地方改良運動を通じて末端町村が戦後 経営の困難を克服し,より一層国家目的に奉仕するよう にその行財政と生活習俗を再編することであった(34)。こ こでは,家族制度イデオロギーを直接国民に注入する役 割を担わされた修身教科書の内容と,小学校教育の定着 による伝統的生活習俗の改編について,その要点を述べ ておこう。

 教科書疑獄事件を契機に1904(明治37)年から使用さ れたいわゆる第1期国定修身教科書は㈹,個人としての 心得から説く近代市民社会的な道徳を多分に含み,教育 界保守派から忠孝の大義および祖先の崇敬を軽視してい るとの批判を浴びて改定され,1910(明治43)年から第 2期国定教科書として登場する。改定の主査委員に穂積 八束も加わり,近代国家公民としての徳目(興産・公益

・選挙関係)が削減されて,天皇や国体に関する道徳が 増加されたこの第2期修身教科書において,忠と孝の結 合に基づいて国家を「家」に擬i制する家族国家観=家族 制度イデオロギーは確立される㈹。

 まず第1に,尋常小学3年から説かれていた「忠君」

が第2期には1年から教材として加えられ,さらに4年 以上には「愛国」が付加されて「忠君愛国」の課として 新設されただけでなく(3T),6年ではその他に「忠孝」の課 が取り入れられた。こうして第1期では異なる徳目とし て並列されていた「孝行」と「忠君」と「愛国」とが1 つに連結され㈹,「家」と国家とを架橋する論理が登場す

る。

 第2に,家に関しては両期とも6年の教材に取り上げ

られているが,第1期のそれが「家庭」と題され,単に

(5)

個々の家族内の秩序を遵守して和をなすようにと諭して いるのに対し,第2期のそれは課名も「祖先と家」と改 められて「家」の歴史的伝統が強調され,祖先の名を汚 さぬよう将来にわたって「家」の繁栄に尽力すべきと説 かれるに至る㈹。こうして,先祖伝来の伝統を背負った

「家」において,父母は単なる親ではなく祖先の志を継 承して家を治める者として聖化され,第1の孝行=忠君

=愛国という,いわば同時的・横断的な架橋の論理は,

過去から将来にわたって守り続けねばならない「家」と いう,通時的・縦断的な第2の論理によって補強されて いるのである。

 ところで,この時期になると小学校はほぼ全国的に学 齢期の児童を学校生活に定着させ(4°),江戸時代からの節 句や氏神祭礼などの日には多数欠席していた児童を学校 が掌握できるようにより,各地の民衆の伝統的な生活習 俗が公的な小学校暦によって改編されるようになった。

 すでに1873(明治6)年,天皇制による全国統一的な 民衆の生活暦支配を目指して全く新たに設定された紀元 節・天長節等の国家祝祭日は,御真影拝礼をはじあとす る一連の精緻に規定された学校儀式と共に,明治20年代 後半以降には全国各地の小学校で実施されるようになっ ていた㈹。こうしてまず子どもたちを把握した天皇制国 家祝祭日は,明治30年代半ば以降,寄生地主化した豪農 層の生活意識をとらえ,40年代に至って地主層を媒介と する地方改良運動によって底辺の民衆にまで浸透し た(42)。とりわけこれを促進したのは,日清・日露戦時の 学校での関連行事(兵士送り・祝勝記念会等)によっ て,国家と村落共同体との利害の一致を民衆に認識させ たこと,およびより直接的には,この時期定着しつつあっ た様々な学校行事(運動会・遠足・父兄会・学芸会・修 学旅行等)の拡大による伝統習俗の駆逐であった㈹。

 社会状況に論を戻すと,思想界においても穂積八束や 井上哲次郎,加藤弘之らが家族国家観を主唱し㈹,日露 戦争の勝因を家族制度に求める(家や郷土を思い,君国 のために犠牲になる心情を養成したとする)主張もなさ れ㈹,実際,軍隊においても家族主義が強調されるよう になった㈹。資本主義の発展に伴う社会構造の変化に対 処するため,政府は新たな工場制労働関係や,弛緩しつ つあった農村の地主小作関係を家族的秩序で統制しよう

とし㈹,折から広まりつつあった自然主義や社会主義の 思想に基づく家族観の出現に対抗して,国家主義の側か

ら家族制度イデオロギーの宣伝が行なわれた(48}。

〔3〕家族制度イデオロギーの強化と戦時体制への動員  しかし大正期に入って,産業構造の重工業化は労働者

を急増させ,第1次世界大戦は資本の独占化を促進した。

それは一方で労働運動の発展と大正デモクラシーの高揚 を生み,米騒動や小作争議など農民運動を惹起し,旧来 の支配秩序に動揺をきたすに至り,家族内にも世代間に よる考え方の相違・対立が見られるようになった㈹。

 この段階ではもはや「個々の思想家や官僚による家族 制度イデオロギーの教義の発展というような方法によっ ては効果をあげることはできなくなっており,全国的規 模で学校教育の場で家族制度イデオロギーを強化するこ

とが必要」(5°)となり,1917(大正6)年設置の臨時教育会 議は,国体観念・国家思想の酒養を強調した答申(9 本)と建議(2本)を行なった。

 その中でも「教育の効果ヲ完カラシムヘキー般施設二 関スル建議」は,「物質偏重ノ弊二因リ(中略)醇美ノ風 敦厚ノ俗次第二頽敗」しつつある社会の現状を救うに は,「国民思想ノ帰饗ヲーニシ其ノ適従スル所ヲ定ムル」

ことが不可欠であるとし,以下の5項目について「相当 ノ措置ヲ取ラレムコト」を要望した(51)。①国体ノ本義ヲ 明徴ニシテ之ヲ中外二顕彰スルコト ②我国固有ノ淳風 美俗ヲ維持シ法律制度ノ之二副ハサルモノヲ改正スルコ

ト ③各国文化ノ長ヲ採ルト共二徒二之力模倣二安セス 独創的精神ヲ振作セシムルコト ④建国ノ精神二基キ正 義公道二依リ世界ノ大勢二処スルコト ⑤社会ノ協調ヲ 図リー般国民ヲシテ生活ノ安定ヲ得シムルコト。これら は「学校教育ノ効果ヲ完全二収メムトセハ同時二社会ノ 状態ヲ改善セサルヘカラス」という建議の認識に立つも のであった。

 その第2項目の法改正の建議を受けて,政府は,1919

(大正8)年臨時法制審議会を設置し,「現行民法中我国 古来ノ淳風美俗二副ハザルモノアリト認ム其ノ改正ノ要 領如何」と諮問した(52)。審議経過は一般に,委員中の保守 派(主に官僚・在野法曹)が家族制度の理念に現行民法 を一致させようとしたのに対して,進歩派(法律学者)

は現実の家族生活に民法が適合するよう改正しようとし ていたとされている(53)。その結果,公表された民法改正 要綱(1927年)は戸主権に一定の制限を加えるなど,明 治民法よりも進歩的な部分を含んだものとなり(54),それ ゆえ要綱に基づく法案作成作業は1944年まで続けられな がら,時勢の逆行によりついに実現せずに終わる(55)。

 だが民法改正の目標はついえても,臨時教育会議の建 議の精神は,続く昭和の戦時体制下に引きつがれていく

のである。

 昭和初期の打ち続く恐慌は,多くの労働争議・小作争

議や社会主義思想の浸透を誘発し,いわゆる思想問題が

一般化した。中国大陸への侵略を開始した日本は国家総

力戦体制に突入し,その思想戦対策として国体思想の確

(6)

立,皇国の世界史的使命の宣揚を図った。

 すでに1932(昭和7)年,国体の原理を閾明してマル クス主義に対抗し得る理論体系の建設を目的とする,国 民精神文化研究所を設置していた文部省は,さらに「直接 に政府官版による公定イデオロギーとしての『経典』」

㈹とするべく,みずから『国体の本義』(昭和12年)『臣 民の道』(昭和16年)を編纂し,加えてr戦時家庭教育要 項』(昭和17年)を発したのである。ここにおいて家族制 度イデオロギーは国民精神総動員体制に組み込まれ,神 がかり的な戦争遂行のイデオロギーとなった。

 古事記・日本書紀の天孫降臨神話によって万世一系た る天皇の血統を権威づける『国体の本義』は,まず「我 が国は皇室を宗家とし奉り,天皇を古今にわたる中心と 仰ぐ君民一体の一大家族国家である」(5T)と規定し,「臣民 は祖先に対する敬慕の情を以て,宗家たる皇室を崇敬し 奉り,天皇は臣民を赤子として愛しみ給ふ」(p.47)と,天 皇と国民との関係を説明する。そして「孝は家を地盤と

して発生するが,これを大にしては国を以てその根底と する。孝は,直接には親に対するものであるが,更に天 皇に対し奉る関係に於て,忠のなかに成り立つ」(p.43)

と,「忠孝一本」(p.47)の論理で家と国家とを結びつけ

る。

 そしてそれを補強するために「家」の伝統性を持ち出 して言う。「我が国の家の生活は,現在の親子一家の生 活に尽きるのではなく,遠き祖先に始り,永遠に子孫に

よって継続せられる」(p.44)ものであって一ここまで は第2期国定修身教科書の論理展開にほぼ同じだが,

『国体の本義』にはさらに以下の強引な論理が付け加わ る一「我等の祖先は歴代天皇の天業恢弘を翼賛し奉っ たのであるから,我等が天皇に忠節の誠を致すことは,

即ち祖先の遺風を顕すものであって,これ,やがて父祖 に孝なる所以である。我が国に於ては忠を離れて孝は存 在せず,孝は忠をその根本としている」(p.47)

 孝と忠の関係は,もはや忠がその根本であって決して その逆ではない。そうでなければ戦時下のイデオロギー としては失格である。だからこそ『国体の本義』は,次 のように説くのを怠らない。「忠は,天皇を中心とし奉

り,天皇に絶対随順する道である。絶対随順は,我を捨 てて私を去り,ひたすら天皇に奉仕すること」(p.43)で あり,「天皇の御ために身命を捧げることは,所謂自己 犠牲ではなくして,小我を捨てて大いなる御稜威に生 き,国民としての真生命を発揚する所以である」(p.35)

 さて『国体の本義』の目的がその名の通り,国体観念 の明徴にあるとすれば,続く『臣民の道』はまさにその 実践編である。「国体の尊厳を知りながらそれが単なる

観念に止まり,生活の実際に具現せられざるものあるは 深く憂ふべきである」{SS)とする『臣民の道』は,情勢の進 行を反映してその第1章に「世界新秩序の建設」をお

き,第2,3章をそれぞれ「国体と臣民の道」「臣民の道 の実践」とした。基本的な論理は『国体の本義』と大差 ないが,いくつかの点で注目すべき展開が見られる。

 だが,それについては次章第3節で言及することにし て,ここでは,その翌年に出されたr戦時家庭教育要 項』が端的に示した,以下の3点の「我ガ国二於ケル家 ノ特質」㈹を本章の結びとして確認しておくことにしよ う。戦前の「家」は,ここに初めて明確に規定され明文 化されて国民に示されたのである。

①祖孫一体ノ道二則ル家長中心ノ結合ニシテ人間生活  ノ最モ自然ナル親子ノ関係ヲ根本トスル家族ノ生活ト  シテ情愛敬慕ノ間二人倫本然ノ秩序ヲ長養シツツ永遠  ノ生命ヲ具現シ行ク生活ノ場ナルコト

②畏クモ皇室ヲ宗家ト仰ギ奉リ恒二国ノ家トシテ生成  発展シ行ク歴史的現実ニシテ忠孝一本ノ大道二基ヅク  子女練成ノ道場ナルコト

③親子,夫婦,兄弟,姉妹和合団簗シ序二従ツテ各自  ノ分ヲ尽クシ老ヲ扶ケ幼ヲ養フ親和ノ生活ノ裡二自他  一如,物心一如ノ修練ヲ積ミ進ンデ世界新秩序ノ建設  二参スルノ素地二培フモノナルコト(60)

〔補論〕

 すでに述べたように(注21),本節では家族制度イデ オロギーの成立・発展過程を歴史的に考察することを課 題としている。だが,イデオロギーがどの程度まで現実 に民衆をとらえ,具体的な効力を発揮したかというイデ オロギーの実現過程の問題が別個に存在する。この点の 解明なくして,イデオロギーの全面的分析は終了しない。

しかし,今日まで戦前の家族の実態については,法社会 学の分野でも資料の制約や現時点からの調査の限界など により,いまだ充分な研究がなされていない。前掲の有 地享r近代日本の家族観』および『日本の親子二百年』

は,当時の新聞・雑誌に掲載された家族関連の記事を収 集,分析した貴重な研究のひとつであるが,ここでは戦 前の文学作品(小説)に描写された家族関係を素材とし てその時期的な内容変化を分析した,潮見俊隆・阪本美 代子「近代日本文学における家族」前掲『家族 政策と 法7』を取り上げよう。それによれば,親子関係は3つ の時期を画して変化する。①明治20年代から日露戦時ま での資本主義の形成期は,士族階層と平民階層とで明確 に異なる家族類型を示す。前者は,祖孫一体の家の存続

・発展という価値が親の意識と行動を決定し,子はそれ

に対して一応の疑問は抱くがその域を出ない。一方後者

(7)

では,子は家族生活を支える道具であり老後の扶養のた めの手段であって,儒教的な家観念の入り込む余地がな く,家族制度イデオロギーの定着する基盤がなかった。

②日露戦後,資本主義が確立してから大正6年の第1次 世界大戦終了までの時期には,士族階層の従来の伝統的 親子関係に動揺が生じる。親の意識から儒教的家観念は 次第に影をひそめ,より現実的な孝の強調に重点がうつ る一方,子は親と対立して第1期よりも独立志向が強ま

り,親子関係よりも夫婦関係を優先して考えるようにな る。③第1次大戦後から昭和12年日中戦争開始までの独 占資本主義成立期には,ブルジョアジー(資本家および 中産階級)と労働者階級の分化による家族関係の相違が 鮮明に現れてくる。前者では,儒教的家観念がほとんど 効力を失い,子の独立志向も強まって現実化へ向かう。

親も第2期の孝の強調から個人の尊重へと意識が近代化 する。それに対して後者では,依然として貧困のために 子の労働力は親の統制下におかれ,家族制度イデオロ ギーの定着は困難である。子の独立は経済的貧困の前に 阻まれているが,その中でも独立志向は生まれつつある。

(第3期以後の戦時体制下の小説は,その描写の信頼性 の点から取り上げられていない)一以上の結論の妥当 性は,対象とした小説の現実描写の正確さにかかってお

り,そのまま受けとめるわけにはいかないが,民衆の家 族生活に家族制度イデオロギーが定着しなかったとする 点には留意が必要である。ただし検討の素材とされた20 編の小説には農民家族を描いたものがなく,この点も含 めて今後の研究の進展にまたねばならない。

第2章 日本的和の世界の原理と精神

 前章では,日本の近代化における家族制度とそのイデ オロギーの成立・発展過程を歴史的に考察した。その上 で本章では,家族制度イデオロギーに基礎づけられた

「家」と,その集合体としての村と町において,いかな る精神構造がそこに暮らす人々の中に形成されたのかを 明らかにしよう。

第1節 家族制度における人間形成

 前述のように,長子単独相続を原則とする戦前の家族 は,「祖先から子孫へと直系的に承継されてゆくr家』の 現象形態」{61)であって,その本質は「家」として把握され ねばならなかった(62)。このような「家」は「住居としての 家や家財,家業のための生産手段,祖先の埋葬された墓 地などを含めたものとして観念され(中略)家のために

は個人の人格が無視され犠牲にされても当然のことと考 えられた」(63)のであるが,このような「家」において,人 はどのような性格・精神を刻印されたのであろうか。ま ずは,敗戦直後にこの問題に取り組んだ川島武宜の論文  「日本社会の家族的構成」を手がかりにして分析を進め

よう(64)。

 川島は戦前の家族制度を,封建武士的=儒教的家族制 度と民衆の家族制度という2類型においてとらえ,現実 にはこの2類型がしばしば混合して実際の家族生活を構 成していたとしている。だが,この異なる2類型は,ま た一方で「民主主義的な,すなわちr近代的』な原理  (特に家族原理)に対立せしめられるときには,いずれ

も『前近代的』なものとして1つの共通な姿においてあ らわれる」㈹のであって,この2つの類型の相違を区別 しながら両類型に共通する面を明らかにしようとしてい

る。

〔1〕封建武士的=儒教的家族制度

 主に貴族,大地主,大町人,封建的土族層に成立して いたこの家族制度における対人関係の基本原理は権威と 恭順であり,その権威的秩序の担い手は第1に家長(戸 主),次に父,それに次いで夫であって,彼らはそれぞれ 家族,子,妻に対して権力をもつ。しかもこの権力は物 理的な強制力としてではなく,「服従する人々の精神に 対する絶対的な高い威力,すなわち『権威』としてあら われ,その結果,服従者はこれを抗しがたいものとして 意識し,すすんでこれに服従する」㈹ような,見えないも のとして存在する。

 この服従の性格の特質は,民主的・近代的社会関係 一①自己の行動についての自主的な判断と決定,②そ れに基づく人格の相互尊重,という2つの原理による㈹

一と比較対置させることによって明瞭に浮かび上がる。

すなわち,その服従が自己の意志に反してやむなく成さ れる服従なのではないにもかかわらず,またそれは、み ずからの主体的・内面的な判断・選択に媒介された自主 的服従なのでもないということである。以下具体的にそ れを見よう。

 この特質は,先の民主的社会関係の原理①に対して は,日常生活において次の2つの現象として生ずる。第

1に,このような権威的秩序への違反に対する制裁が,

決して精神的・内面的な悔い改めの要求ではなく,まず 外的な制裁(体罰・叱責・勘当)として行なわれ,第2 に,この服従が外形的行為における服従,つまり一定の 形式儀礼行動であって,それさえ成されれば義務が果た

されたことになるということとして現れる。つまり,近

代的モラルにおいては親子や夫婦の関係は内面的自発性

(8)

にその基礎をおくのに対して,ここでは行為の価値が外 形によって判断され,その内面のありようは二の次とさ

れるのである(6S)。

 そしてまた,まさにそのために儒教的家族制度は,

「政治的権力による命令とくに法律によって強行される ことと結びつき,かつそのことと矛盾を感じない」㈹の であり,そこでは「孝や貞は決して人間の内心の問題で

9るのではなく,法律によって強制されるのであり,道 徳は同時にそのまま法律である」㈹という,私的モラル

と公的権力とが直接に結合し,前者が後者によって支配 される構造を可能にしていたのである。

 次に,先の民主的社会関係の原理②に対してだが,こ れについても儒教的家族制度では,親子や夫婦の関係は

「一方的な支配と一方的な服従の関係」㈹であるという 点で,民主的な関係とはその原理を異にする。近代的な 権利・義務の関係は,相互が平等な主体者であることを その前提とするが,儒教的家族制度にあってはこの前提

自体が成り立たないのである。

 ところで,このような社会関係において形成される人 間一特にその主体性について考える時,看過できない のは「『個人的責任』という観念がそこでは存在しえな い」㈹という驚くべき帰結である。つまり,ここでは服従 者は自己を一個の独立主体として意識することがなく,

その行為は常に家族内での彼の位置によって他者から規 定される。それゆえ彼はみずから主体的に判断・選択し て行動する機会を与えられず,その能力を持つことがで きない。「個人的責任」の意識は,個人が主体的に判断・

選択し決定した行為において生じるのであって,「自分 の行動なきものは,r責任』をおうことはない」㈹のであ

る。

 それでは,彼に対する権力者は主体的行動に基づく責 任主体になりうるのであろうか。実に川島の回答は否で ある。なぜならその権力者は「義務をおうことなく,た だ『権力』のみをもつ支配者であり,かれは責任をおう べき何びとをももたない。かれのなすことはすべて正し い」㈹ものとして存在するからである。それというのも,

彼が絶対的な権威である先祖代々の「家」の伝統を一身 に背負った価値の体現者なのだからである。

 この「無責任」構造の論理は,後述するように天皇制 ファシズムの構造解明に有益な視点となるのだが,ここ ではひき続き民衆の家族制度の問題に論を進めよう。

〔2〕民衆の家族制度

 川島は先行研究の不十分性や,民衆家族の地方的・階 級的多様性などから,民衆の家族制度についての論究は 困難であるとしながらも,それらに共通な特色を取り出

すことは不可能ではないとして,民衆の家族においては 儒教的家族制度のような強力な家長権は存在しないこと を指摘する㈹。

 その根拠を,川島は民衆の家族労働の生産力の低さに 求め,典型的な農民家族に例をとれぽ,そこではすべて の家族構成員が各自の能力に応じて家の生産労働に従事 しなければならず,家長の財産に頼って寄生することは 経済的に不可能であったことによるとしている。それゆ

えここでは,儒教的家族制度のような絶対的な権威と恭 順という厳格な上下関係ではなくて,もっと協同的な性 格の濃い横の関係が存在する㈹。

 このような家族は一見近代的であるかのように見える が,しかし決してそうではないと川島は言う。なぜなら それは,やはり「ここでも家族のr秩序』は1つの権威 である」㈹からに他ならない。それは,古来からの伝統に 支えられた,抗し難い絶対的権威として人々に君臨する。

だから人々は,自己の主体的決断によって媒介されるこ となく,やはりその権威によって外から拘束されるので ある。儒教的家族制度と異なるのは,その権威が「家長

・長老・父・主婦等に分属しているのであり,ただ絶対 的な専制がない」㈹ということにすぎない。しかし,たと え分属しているとはいえ,それらの者もやはり各個の伝 統に基づいた一定の役割をもっており,その意味で抗し 難い権威を有しているのである。

 ただ,ここで留意すべき点は,「権威はここでははな はだ人情的情緒的性質をおび,だから権力が権力として あらわれない」㈹ということである。そのために,個々人 の権威ではなくて家族の全体的秩序が,あたかも家族構 成員に対して権威をもっているかのような様態を呈する ことになる。そしてまた,このような家族秩序は,儒教 的家族制度の場合とは異なって,政治権力や法律などの 外的な強制力によっては維持されにくい。

 しかし,とはいえ強制力によっては成立しない近代的 家族と同一の精神的基礎の上に立つものではない。それ

というのも「ここで家族的人情や情緒を決定するもの は,人間の合理的自主的反省をゆるさぬところの盲目的 な慣習や習俗であるが,近代家族においては,合理的自 主的反省,『外から』規定されることなく自らの『内か ら』の自律によって媒介されるところの『道徳』が支配 する」㈹からである。だからここでも人は,個人として行 動することはできず,独立主体として自己を意識するこ

とができない。ここでは「何びともつねに,協同体的な 秩序の雰囲気に包まれ,そこに支配する必然性の客体と

して,自らを意識しなければならない」(81)のである。

 従ってまた,このような秩序に対してことさらに自己

(9)

の個人的・主体的な意識や行動を対立させることは,そ の秩序の破壊を意味するがゆえに固く禁止されタブーと される。ここでは人は,自己の意識や行動の意義・目的 を考え,自己を納得させる必要はなく,「すべては雰囲 気の中でなんとなくわかって」(s2)しまうことになる。

 こうして,儒教的家族制度のみならず民衆の家族制度 においても,自己の主体的内面的判断に基づく行動はな されず,従って個人的責任の観念は生まれることなく,

すべての家族員の意識と行動は,その家族を包摂してい る雰囲気に還元されてしまうのである。

 かくして,以上の考察を通じて,戦前日本の家族制度 がその内部に造出してきた人間=精神構造がその姿を現 わし始めた。だが,前章で述べたように,人間生活の基 本単位である家族が政治的支配に巧妙に利用されて,

「家族制度イデオロギー」として社会全体を貫徹したこ とにこそ,人間形成としての問題があるのである。従っ てこの問題に取り組むには,「家」のみならずその拡大

・延長としての村と町にも目を向けなければならない。

「天皇制における無責任の体系」㈹は,この家族制度にお ける人間形成に依拠して,「家」において造出されてき た精神構造をそのひな形として成立したのである。

第2節 村と町の家族主義的性格

 一般に,生産力の発展に伴って人々は経済的な自主独 立を獲得し,それによって支配関係はなお残存しつつ

も,人格的には平等な個人として相互の関係がつくられ るようになる。だが,日本の近代化においてこの過程 は,前述したような家族制度の機能によって阻害され,

近代的な個人を広範に創出することができなかった。家 族制度の生活原理は,家族内にとどまらず外部の世界に も反映され,日本社会全体を色濃く家族主義的に染めあ げたのである。

 まず明治期以降の階級構成・産業構造の変化を確認し ておこう。1872(明治5)年に84%を占めた農林水産業 人口は漸次減少し,昭和に入って50%を割り,1940(昭 和15)年には43%になるが,この時点でもなお他職種の うちで最大多数を占めていた。この間,工鉱業人口は 5%から32%へ,商業人口は6%から13%へと増加し,

それに伴って基本的な階級対立も1920(大正9)年前後 を境に地主・小作関係から資本家対労働者の対立へと変 化する(鋤。だが大規模な重化学工業化が促進される戦時 体制の直前(1930年)段階を見れば,工鉱業人口はよう やく20%に達したにとどまり,しかもその約2/3は5人 未満の零細工場や手工業に従事する労働者であって,昭

和初期になってもなお農家や自営商工業者の比重が高 かったことが確認できる㈹。

 また,こうした産業構造の変容と同時に都市が発展 し,例えば人口5万人以上の都市に住む人々は,1920

(大正9)年に全人口の16%であったのが,10年後の 1930(昭和5)年に25%,さらに1940(昭和15)年には 35%へと膨張している㈹。だが,人口移動を考慮すると,

1940年の時点でもなお,日本人の8割は農村で生まれ 育ったと推計され(ST) ,明治期以降の日本の近代化におい て,村は人間形成の最も基本的な場であり続けた。

 では,その村にはどのような家族制度的関係が結ばれ ていたのだろうか。集約的な労働に基づく稲作農業をそ の主要産業とする多くの村においては,低廉な必要労働 力を確保せねばならず,そのために家父長権の下に統轄 される家族集団ならびに本家・分家の相互扶助を中心と する同族集団等を必要とした㈹。そして,灌概設備の設 置・維持や稲作の肥料源および生活上の薪炭用のための 山林の管理のために,村をあげての共同的な労働と管理 が求められた。

 このような生産関係を基盤とする村は,数十戸から多 くても百数十戸の集落であって,人々は相互に熟知し あった者としてつきあい,しかも各自の家は地主小作関 係や雇用関係を軸とする身分階層的地位を占め,先祖 代々の歴史を背負った複雑な家関係および人間関係の網 の目の中で人々は暮らしていた{89)。とりわけ重要なこと は,村の中では家族の枠を越えて実の親子以外に親子関 係を結ぶ慣行が広く行なわれ,両者の間で様々な援助・

奉仕活動がなされていた点である(9°)。このように血縁関 係とその擬制による複雑な相互依存関係は,日常的な 地縁的i接触によって強化され,村は多岐にわたる家族的 関係によって構成されたのであり,このような村の家族 主義的構成は,前述したような資本主義経済の浸透や,

小作争議・恐慌などによる弛緩を見せながらもなお存続

したのであった(91)。

 一方,都市部における町についても,村よりは家族的 性格は弱いとはいえ,例えば町内の親睦と融和をめざす 町会(町内会)は,個人ではなく各世帯を自動的ないし は半強制的に構成員とし,多面的な機能を担って行政の 末端となり、町内の親睦と融和をめざした点で,農村の 部落に類似した性格をもっており,やはり村を原型とし て社会的な関係が営まれていたとされている(92)。

 このように村や町もまた家族主義的性格に色どられた

のであるが,その中で一体人々はどのような観念形態と

社会的性格を付与されたのであろうか。それを4つの視

点から次節で明らかにしよう。

(10)

第3節 家族主義的社会構成における精神

〔1〕内と外

 家族制度の生活原理は,家族員に媒介されて外部の世 界にも反映され,そこに家族制度的な社会秩序を形成す る。その際,媒介をなす人々にとって家族ないし擬制的 家族関係の外部の世界は,「家族内とは全く異なる,r秩 序』のない,『権威』のない世界」㈹として映り,本来何 のつながりもない関係として現れる。つまり「人は家族 の内と外とでは全く異なる社会規範に支配される」(94)の であって,それゆえにまた「内と外によって自分の行動 の規範が異なることは,何ら内的葛藤の材料とはならな

い」{s5)事態を生み出すこととなる。

 土居健郎は,内と外を区別する基準を遠慮の有無に求 め,次のように述べている。「遠慮が働く人間関係を中 間帯とすると,その内側には遠慮がない身内の世界,そ の外側には遠慮を働かす必要のない他人の世界」があり

「一番内側の世界と一番外側の世界は,相隔たっている ようで,それに対する個人の態度が無遠慮であるという 点では相通ずる」㈹。

 この遠慮という土居の心理学的説明は,川島の以下の ような媒介過程の説明を補完する。すなわち,典型的な 資本主義発展過程をたどらなかった日本では,単純な商 品交換的な結合ではなくてより継続的な人的結合を生 み,家族的関係をとり結べない無秩序の世界において,

人は自らを頼りない孤立者として意識し,何らかの庇護 を求めざるを得なくなる。だが家族的な結合関係しか知 らない人間は,ここでもまた同様な関係しかとり結ぶこ とができない(97)。こうして新たに親子関係が至るところ で再生産されていく。土居も言うように「人々は遠慮と いうことを内心あまり好んではいない。できれば遠慮し ないに越したことはない」㈹と思っているのである。

 このような家族主義的社会関係が,村において典型的 に見られることはすでに述べたとおりだが,今日の社会 学研究はそれが実に様々な集団において見られることを 明らかにしている。たとえば商家(店主一番頭一手代一 丁稚),工場(工場主一親方一職人一徒弟),政治家・官 僚の派閥,とりわけ強烈には暴力団・やくざ集団な

ど㈹。これらについては川島も同様に指摘している。す なわち,親方子方とよばれた地主・小作人関係,大家店 子としての家主・借家人関係,書生や女中など奉公人と 主家の関係,さらに企業一家という工場労働関係,会社

・役所・学校の親分子分的派閥徒党,近代的制度たる議 会の親分子分的政党,そして最後に子としての臣民と親 として天皇とによって成り立つわが家父長制国家

_(100)

   o

 こうして,いわば下からの家族的関係の拡大延長は,

前章に述べた上からの家族制度イデオロギーの教化と接 合して,戦時下ファシズム体制において国家全体を貫く 原理として登場する。(前章の『国体の本義』を想起せ よ)。ここに日本国家主義の「超」国家主義たる所以があ る。丸山真男は言う。「我が国家主義は単にそうした(対 外膨張ないし対内抑圧の一筆者注)衝動が,ヨリ強度 であり,発現のしかたがヨリ露骨であったという以上 に,その対外膨張乃至対内抑圧の精神的起動力に質的な 相違が見出されることによってはじめて真にウルトラ的 性格を帯びる」(1°1)。ここにいう独自な精神的起動力,それ はまさにすでに明らかにしたように,家族制度における 親への孝の倫理が,家族国家における天皇への忠に無媒 介に結合されたところに発するものである。では,その

「ウルトラ的性格」とはどのようなものであろうか。

〔2〕公と私

 内と外の2つの世界を同一の原理で無自覚に構成する 人々は,家と国家とを区別せず忠孝一本の倫理からそれ らを融合一体のものとして観念するに至る。公と私との 関係を『国体の本義』は「『わたくし』に対する『おほや け』は大家を意味するのであって,国即ち家の意味を現

している」(p.47)と述べ,家と国家とを結ぶ媒介として 説明していた。こうして成立した家族主義的国家を,今 一度その外部から(特にその支配の性格に着目して)見 てみると,そこにはまさに「ウルトラ的性格」とよぶに ふさわしい特質が浮かび上がる。

 徳川期の将軍(政治的実権者)の権力を,天皇(精神 的君主)の権威に一元化することに基礎を得た日本の国 家主義は,西欧の近代国家のような国家主権の技術的・

中立的性格を表明せず,逆に内容的価値の実体として国 家支配を貫徹しようとする(1°2)。このように,国家が「国 体」において真善美の価値を体現するところでは,そこ から発せられる国法は「自らの妥当根拠を内容的正当性 に基礎づけることによっていかなる精神的領域にも自在 に浸透しうる」ものとなり,従ってそれゆえ「国家秩序 によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存 在しない」(1°3)ということになる。『臣民の道』は言明して いる。「我等は国民たること以外に人たることを得ず,

更に公を別にして私はない(中略)我等が私生活と呼ぶ ものも,畢寛これ臣民の道の実践であり,天業を翼賛し 奉る臣民の営む業として公の意義を有するものである

(中略)私生活を以って国家に関係なく,自己の自由に 属する部面であると見倣し,私意を恣にするが如きこと

は許されない」(p,71)

(11)

 さらに注目すべきは,以上の事柄と表裏一体の関係に ある「公私混同」の論理である。すなわち「『私事の倫理 性が自らの内部に存せずして,国家的なるものとの合一 化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なる

ものの内部へ,私的利害が無制限に侵入する結果とな

る」{1°4)事態を生み出す。

 このような天皇主権のもとにあっては,公私が必然的 に混同され,事実上君主と特権階級の私的利益が,あた かも公的利益として追及されることになる(1°5)。従って

「日本には集団から独立した個人の自由が確立されてい ないばかりでなく,個人や個々の集団を超越するパブ リックの精神も至って乏しい」(1°s}と言われるのも根拠の あることであって,「内外の区別ははっきりしているが,

公私の区別ははっきりしない」(1°ηということになるので

ある。

 さて,ここで以上のように公と私とを融合させた日本 国家の「ウルトラ的性格」について言及しておこう。

 日本国家主義は,その対外膨張,武力進出において驚 くべき必然的帰結を示す。すなわち「国家主権が精神的 権威と政治的権力を一元的に占有する結果は,国家活動 はその内容的正当性の規準を自らのうちに(国体とし て)持っており,従って国家の対内及び対外活動はなん ら国家を超えた1つの道義的規準には服しない」(1°8》とい う帰結である。主権者たる天皇が絶対的価値を体現して いる以上,国家活動それ自体が常に正義となるのであっ て,それゆえ「いかなる暴虐なる振舞も,いかなる背信 的行動も許容される」(1°9)こととなるのである。

 だが本稿においてより重要な点は,以上の性格を備え た対外行動が,家族制度の拡大延長としての天皇制国家 において,いかなる精神的原動力によって支えられてい たかということである。

 丸山は述べている。支配層の道徳意識や行動規範を規 定しているもの,それは他ならぬ絶対的価値の体現者で ある「天皇への親近感」であり,「天皇への距離」(ll°)なの であると。そしてここから,本章第1節の最後に触れた

「天皇制における無責任の大系」が現出する。「全国家秩 序が絶対的価値体たる天皇を中心として,連鎖的に構成

され,上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例 する,価値のいわば漸次的稀薄化にあるところでは,

独裁観念は却って成長し難い。なぜなら本来の独裁観念 は自由なる主体意識を前提としているのに,ここでは凡 そそうした無規定的な個人というものは上から下まで存 在しないからである。一切の人間乃至社会集団は絶えず 一方から規定されつつ他方を規定するという関係に立っ ている」(111)。従ってナチスの場合には,開戦の決断に明確

で主体的な意識が認められるのに,日本の支配層にはそ れが認められず,あたかも「何となく何物かに押されつ つ,ずるずると」(112)戦争に突入するという,奇妙な様相 を呈したのである。

 しかし,ここでひとつの疑問が起こる。それは,この 絶対的価値実体としての天皇自身こそ,唯一究極の主体 的決断者ではないのかという疑問である。もしそうであ るならば「天皇制における無責任の大系」には例外規定 が必要になる。

 だが,家長に関する同様の疑問(本章第1節)に対し て川島の回答が否であったように,ここでの丸山の回答 も「否」である。というのも,価値の実体であるとはい え,天皇は決して価値の創造者なのではない。「天皇は 万世一系の皇統を承け,皇祖皇宗の遺訓によって統治す る。(中略)天皇も亦,無限の古にさかのぼる伝統の権威 を背後に負っている」(113)からである。つまりこれをひと つの同心円で表わせば,「その中心は点ではなくして実 はこれを垂直に貫く1つの縦軸」に他ならず,しかも

「中心からの価値の無限の流出は,縦軸の無限性(天壌 無窮の皇運)によって担保されている」(114)のである。

 かくして「天皇制における無責任の体系」は,公と私 の融合をその中にはらみながら,日本の社会を隈無く 覆ったのであった。

〔3〕上と下

 すでに前章で封建的な家族制度においては,上位者に 対する徹底した恭順の姿勢が培われることを見た。この ような上下関係は,天皇を頂点とする家族主義国家にお いてどのように拡大延長されるだろうか。

 前項で,天皇制国家内部の人間・諸集団が絶えず一方 から規定されつつ,同時に他方を規定するという関係に あり,そこに無責任の体系が胚胎していることを指摘し た。この関係を家族内秩序にみてとれば,一方からの規 定については上位者に対する下位者の恭順として理解可 能だが,その下位者が同時に他方(さらに下位の者)を 規定するという点については,家族制度の検討において 明確には現れてこなかった。それは家族が情愛的性格を もった小集団であることによるのだが,そうだとすると 基本的にはその拡大延長であるとはいえ,情愛的性格の 稀薄な大集団(その最たるものは国家)においては,そ の規定関係の様相も若干異ならざるを得ない。

 この点を丸山は「抑圧の移譲による精神的均衡の保 持」という心理機制として説明した。すなわち「上から の圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行 く事によって全体のバランスが維持されている体系」(115)

である。実際,そのような例は,軍隊のように秩序統制

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