一陶行知と柳田国男の場合
張 国 生
はじめに
陶行知と柳田国男は,本世紀の前期から中期にかけて教育改革を唱え,身を 持って教育実践をし,近代・現代教育の発展に貢献した先達であった。彼らの 教育実践と教育思想はそれぞれの母国の教育的遺産であることはもとより,国 境を越えて,世界教育史の遺産にもなるであろう。また,それは「歴史」にと どまるものではなく,その影響が現在まで続き,現実的意義をも持っのである。
陶行知の教育思想と実践は中国新民主主義革命時期の教育建設に大きく貢献 したが,その後,30年ほど中国において否定された。80年代初期に「偉大な人 民教育家」として名誉回復されて以来,その教育思想と教育実践が当面の教育 改革に照らされながら研究されている。柳田国男の学問は,かって教育学とは
「殆んど無縁な関係にある」(1)時期があったが,現在,「教育学者」として研究 されている。柳田社会科は1963年に学校から消えてしまったが,近年来,再び 脚光を浴びっっあり,見直されている。この変遷には時代の背景があり,それ から教育的規則性が伺われるのではないかと思われる。したがって,両者を比 較し,考察するのは当面の教育にとって示唆的なものが多く得られるであろう。
両国の教育史を一っの側面から研究するには陶行知と柳田国男が橋渡しとして
役割が果たされると思われる。
1 陶行知とその生活教育論
1.近代中国における農村教育思潮
近代中国は半封建,半植民地社会であった。20年代の中国農村地域では,帝 国主義と封建主義の二重の圧迫のもとで,経済状況が日増しに悪化していた。
当時,中国の経済が農業中心であるから,農村地域の経済発展は国全体の近代 化に影響し,都市部の商業経済にも影響を与えていた。そこで,農村問題が全 社会の注目を浴びるようになった。
…方,農村地域の教育は都市部との格差が大きかった。清朝末期から始まり,
日本及び西洋工業国の教育を手本にした新教育運動は,中国教育の近代化にとっ て大きな役割を果たされたものであるが,文化背景と社会状況の違った国の教 育制度をそのまま模倣すると問題も多く生じた。特に,工業国の教育経験は農 村地域の教育の成長に役立たず,逆に農村青年の農村離れを導いた。
このような背景のなかで,農村地域を中心とする社会改造運動である農村教 育運動が高まりを見せていたのである。多くの教育家及び教育団体は,農民教 育に関心を持っようになり,農村地域で教育実験区を設け,学校を作り,農村 教育の実験を始めた。彼らはアメリカの経験主義教育思想の影響を受け,改良 主義の方法で,農村教育を通して農業の発展を促進し,農民の生活の向上を通 して農村の秩序を改善しようとした。更に農村社会の発展と安定をもって,全 社会の安定と発展を図ろうとしたのである。農村教育実践運動は20年代から30 年代にかけて全国各地で広く展開されていたが,代表人物は黄炎培,曼陽初,
梁漱漠,陶行知などがあげられる。
黄炎培は,中国近代職業教育を初めて提唱した人で,中華職業教育社の創立
者である。黄は大職業主義を提唱し,職業教育を通して農村生産の発展,農民
生活の向上を実現させようとした。中華職業教育社は江蘇省と漸江省の農村地
域でいくっかの実験区を設け,農村地域における社会教育を中心に,農民に識
字教育をし,補習班,夜間学校,実験学校などの教育実験をした。このような
小規模な実験区だけでは,農村及び農民の生活を根本的に改善することは不可
能であった。しかし農村経済の発展,農民の生活と地位の向上における教育の 役割を重視するのは賢明であった。
曇陽初は,20年代から30年代にかけて,河北省の定県で農村平民教育の実験 を10年間行なった。その実験は主として農村社会の特徴に適応した成人教育を 中心に,平民学校,平民職業学校などによって展開されたものである。曼陽初 は文芸教育,生計教育,衛生教育,公民教育という「四大教育」を以て,農村 の「愚,貧,弱,私」を治そうと主張した。また過去の教育に存在する教育と 社会との乖離,生活実際との乖離などの弊害に対して,学校教育,社会教育,
家庭教育といった3っの形式で四大教育を行なうと考案した。
梁漱漠は,教育問題を考える時,学校教育改革ならびに教育の欠陥の是正か ら出発するのではなく,社会問題と人生問題の解決という視点で教育をとらえ,
教育実践をしたのである。梁の主張では,中国社会の問題は文化改造の問題で ある。また,中国社会は農村社会であるから,社会教育といえば,すなわち農 村社会教育である。農村建設は農村の民衆教育の成功に関わり,農村が発展す れば,中国は発展する。これは梁の農村教育実験の動機であった。彼は山東省 の農村地域で,政治,経済,文化,教育を統合した教育実験として農村教育実 験区及び農民教育実験学校を設け,農村教育を通して農村地域の建設を促進し
ようとした。
農村教育実験の中で,もっとも注目を浴び,中国の近代教育の改革と発展に 大きな影響を与えたのは,陶行知の農村生活教育実験であった。陶行知は生活 教育理論を基礎にし,都市部の平民教育を農村に導き,農村生活教育実験を展 開した。陶行知は最初平民教育に力を入れていた。平民教育は主に都市で生活 している一般労働人民を対象にし,彼らに識字教育,補習教育を施すことであっ た。陶行知は平民教育を読書運動と位置付け,平民に本を多く読ませることに よって,その素質の向上を図ろうとした。しかし,実験の挫折で当時の中国に おける平民教育のあり方について,陶行知は新たに認識するようになった。
1924年10月に発表した「平民教育概論」の中で,「中国は農を以て立国し,(民
衆の)八割九割が田舎に住んでいる。平民教育は民間への運動で,田舎への運
動である」(2)と指摘していた。その後,陶行知は農村教育実践の模索をはじめ
た。この教育実践は「洋八股」(外国教育の模倣)に反対し,教育と生産労働 との乖離に反対し,教育を農村社会と結び付けようとするものであり,農村の 社会生活の向上に寄与しようとするものであった。
陶行知の教育思想の根本は「生活教育」理論であるが,その農村生活教育実 験の思想基礎も生活教育理論であった。この理論の形成には,デューイの経験 主義教育思想及び都市平民教育運動の挫折からの影響があるが,同時に生活を 中心とする新教育の必要から出発したのである。この生活教育理論は,農村教 育からスタートし,農村教育運動を通して系統化し完成された。それは,「生 活即教育」「社会即学校」「教学倣合一」そのものであった。これについては別 の項で詳しく考察するが,陶行知のこういった生活教育理論は近代中国の農村 地域における教育に寄与し,教育が農村の生産と生活実際及び農民の需要と結 合する基礎となった。
陶行知は1926年から農村教育に取りかかり,多くの論文を発表して,農村の 生活実際に適応する教育の建設を教育界に呼びかけた。1927年,陶行知は教員 養成を中心とする暁庄師範学校(2年後に暁庄学校と改名)を創設した。その
目的は,農村中心学校を中心にし,農村の社会実際と結合して師範教育を行な い,合格した農村教師を養成して農村改造の任務を担わせようとするものであっ た。1929年になると,暁庄学校は中心小学校,幼稚園,幼稚師範民衆夜間学 校,暁庄医院などを有する程の規模に発展した。陶行知のこの農村師範教育実 験は当時の中国社会に大きな影響を与え,中国の近代教育に希望をもたらした。
2.「人民教育家」陶行知
陶行知は原名文溶で,1891年10月18日,安徽省激県に生れた。19才の時,南 京金陵大学文学部に入学した。在学中に王陽明の「知行合一」の学説に傾倒し,
「知行」というペンネームで文章を発表していた。1914年,トップの成績で卒 業後,渡米し,イリノイ大学で市政学を学んでから,コロンビア大学に入学し,
デューイを師に教育学を専攻した。1917年秋,全国人民に教育を受ける機会を
与えるという志を抱いて帰国して南京高等師範学校(後に東南大学に合併)の
教員になり,新教育の提唱,旧教育の改革に投身し始めた。この時から正式的
に名前を「知行」と改めた。「知行」という名を「行知」としたのは1934年で あるが,これは後で述べる。
1919年5月,陶行知はデューイの訪中を迎えた。12月に「5・4」運動勃発,
陶行知は南京学界連合会の会長に就任し,各学校で演説し,反帝愛国運動を支 持した。1921年,『新教育』の編集長に就任,1922年,いくっかの教育団体か ら合併した中華教育改進者の主任幹事に兼任した。同年,南京高等師範学校が 東南大学に合併された時,陶は教育科主任教授に就任した。1923年,陶行知は 東南大学の職を辞職して,一家で北京に移り,中華教育改進者の主任幹事に専 任するようになった。この時から,曇陽初らと協力して,中華平民教育促進会 を発足し,平民教育をはじめた。陶行知は平民教育が社会環境改善のもっとも 重要な方法だと考え,それを通して新しい社会を創造しようとした。これは教 育救国の改良主義に基づく主張であるが,陶行知は一人の愛国主義者として一 日も早く中国の貧困と立ちおくれの状況を改善しようとし,その願いを平民教 育に託したのである。しかし,80%以上の農民が教育を受けていないのを見て,
平民教育の舞台が農村にあるべきと認識し,農村教育に精力を注ぐようになっ
た。
1926年,陶行知は全国に「百万元の基金の募金,百万人の同志の募集,百万 校の学校の創設,百万個の農村の改造」(3)をしようと,農民の教育状況の改善
を呼びかけた。そして教育実験校として,1927年3月,南京市外の暁庄で農村 師範教育の「暁庄学校」を創設した。中国近代史上有名な人々がこの学校の創 設に関わり,董純才など後に新中国の教育をになっていた人々も陶行知の学生 となった。陶行知の著名な「生活即教育」「社会即学校」「教学倣合一」という 生活教育理論もこの時に確立され,実験されていた。暁庄の教員と学生たちは 中国共産党の指導の下で,帝国主義と反動派に反対する運動を展開したから,
国民党政権に危惧を働かせ,1930年に閉鎖された。陶行知本人も国民党政府に 指名手配されたので,内山完造の協力を得て日本に亡命した。当時,デューイ,
ガンジ,アインシュタイン,ロマン・ロランなどが国民党政府に電報を送り,
陶行知に対する手配の解除を要求した。
1931年 日本から上海に帰り潜伏しながら,科学普及教育に力を注ぎ,科学
下嫁運動(科学の大衆運動)を提唱した。これは日本で科学の発達が工業発展 を促進したのを見て,陶行知は中国における科学発展の重要性を認識したから である。陶行知は自然科学園と児童科学通信学校を創設し,「児童科学叢書」
『大衆科学叢書』を編集して科学普及運動に携わった。
「9.18」事変後,陶行知は民族の危機に面して,国民党政府の反動政策に 憤り,中国共産党の抗日救国の呼び掛けに答え,抗日救国の宣伝と教育普及活 動に取りかかった。1932年,上海郊外で「山海工学団」を創設し,「工を以て 生を養い,学を以て生を明らかにし,団を以て生を保っ」(4)というスローガン を掲げ,工場学堂,社会を一っにすることを主張した。「山海工学団」の教 育実践は氏の生活教育思想の新たな形での実践であり,発展であった。「山海
ll学団」は労働者,農民,都市貧民子弟を募集し,労働のなかで教育を行なっ た。陶行知は「小先生制」を創造し,教育の普及を図ると同時に,子供の主体 性を尊重する教育法を提唱した。1933年,陶行知は上海で,民衆及び児童の生 活向上に必要な教育の普及を目標にした「中国普及教育助成会」を発足させた。
暁庄学校の時,陶行知は「行是知之始」という演説の中で,王陽明の「知是 行之始,行是知之成」という理論を否定し,「行是知之始,知是行之成」と主 張したことがあるが,1934年7月に「行知行」という文章を発表し,名前を正 式に「行知」と改あ,唯物主義の認識論を固く信じることを表明した。
1936年,陶行知は全国各界の救国会の委託で国民外交使節としてヨーロッパ,
アジァ,アフリカ,アメリカなど28か国を歴訪し,中国人民の抗日救国を宣伝 した。1938年夏に帰国後,『生活教育』雑誌を「戦時教育」と改名し,12月,
「生活教育社」理事長に就任した。1939年,国内外に名を知られる育才学校を 創設し,その教育実践の中で,生活教育理論をより充実させた。抗日戦争中の 陶行知は,戦時教育,民主教育運動の中でリーダとして活動していた。1945年,
中国民主同盟の創設に参加した。1946年,学校に上がる機会を失った青年たち のために,重慶で社会大学を創設し,自ら学長に就任した。同年4月,反内戦,
反独裁,和平民主運動のために上海に赴いたが,不幸なことに,1946年7月25 日,過労のため脳溢血で逝去した。享年55才。
陶行知の一生は,人民のため,人民の解放のために教育に献身した一生であっ
た。逝去後,毛沢東は弔辞「痛悼偉大的人民教育家 陶行知先生千古」を書き,
その一生を高く評価した。現在,陶行知は南京暁庄で永眠している。墓の前の
「牌坊」(お墓の前に立てられた門)の横額に氏が残した墨跡「愛満天下」が刻 んであり,その両側に郭沫若が書いた氏の教えが刻んである:
「千教万教教人求真,千学万学学倣真人」(繰り返し繰り返し人に真を求め るように教え,繰り返し繰り返し真の人間になるのを学ぶ)
新中国成立後,陶行知は,映画「武訓伝』批判運動(°「)をきっかけに,一時的 に不当に否定され,その教育思想もデューイの経験主義教育論の継承として批 判されたが,1981年に北京で開かれた「記念陶行知先生90誕辰大会」をもって 正式に名誉回復された。それ以来,陶行知に関する文章が大量に発表され,陶 行知と交渉のあった人々による「陶行知記念文集」,教え子の張健主編の「陶 行知年譜稿』および『陶行知の一生」,『陶行知文集」,「陶行知教育文選」,「陶 行知全集』などが相次いで出版された。近年出版された教育史書の中でも一席 を占める陶行知は人民教育家として敬愛され研究されている。しかし,30年の 空白期間を経て,陶行知の教育思想と教育実践の研究,現在の教育と結合する 研究は依然として一っの課題である。
3.生活教育論
「生活教育」は陶行知教育思想の理論的体系であり,教育目的と教育方針,
教育内容と教育方法論が含まれている。陶行知の根本的な教育思想である生活 教育論の形成には3っの要素があると見られる。
第1はデューイの教育理論の影響である。「教育即生活」「学校即社会」はア メリカ教育家デューイの教育観である。陶行知はデューイに教わり,教育と生 活との結合,学校と社会との結合という思想を継承して,生活教育論を打ち出 した。ここでは,デューイの教育論にっいて論じられないが,陶行知の生活学 習理論の形成及びその教育実践から見れば単に中国におけるデューイの教育論
の反映とは言えない。陶行知はデューイにっいて学んで,その理論に基づいて
中国で実践しようとしたが,教育目的,社会背景などの違いによって,デュー
イの理論を改造し,中国の現状と結び付けて,独自の教育論を樹立した。陶行
知は,経験主義教育の範疇を越えて,人民大衆の反帝,反封建の教育体系の創 立のために,理論と実践をもって寄与した。陶行知がデューイの説を逆にした
「生活即教育」「社会即学校」は,旧式教育方法の改造だけでなく,広範な民衆 が教育を受けられない現状に応じて,より広範な大衆に教育をうけるチャンス を与え,教育と大衆の実践と結び付けて大衆教育の普及をしようとしたもので
あった。
第2は旧教育反対からの出発である。清朝政府による1901年の教育「改革」
では,科挙制度が廃止され,外国の資本主義教育制度が導入された。しかし,
この「新教育」は,陶行知が指摘していたように,「新学制を行なうこと30年,
依然として湯を換えても薬を換えることない如く,力を尽くしたが,『老八股
(科挙)」を「洋八股』に換えただけだったのである。『老八股」は民衆の生活 と何の関わりもなく,『洋八股』もまた民衆の生活と何の関わりもないのであ る」(6)というものであった。陶行知は旧時代の伝統教育といわゆる「新教育」
を「伝統教育」と位置付け,絶えず批判し,それを改造しようとした。陶行知 はこの教育の欠陥を「伝統教育者は教育をするために教育をするのであり,教 育を生活から離している」と指摘し,教師が「教死書,死教書,教書死」,生 徒も「読死書,死読書,読書死」(7)と鋭く批判している。陶行知の主張では,
このような教育を受けるものは思考も出来ず労働も出来ない「書呆子」(本に ある知識だけ知り,実際に役に立たない人間)になってしまうから,何とかす るべきである。教育と生活との乖離を改良するには教育の生活化が必要である。
これは「生活即教育」ということである。学校と社会との間に存在する「壁」
を崩して社会の力を活かして社会に役立っ人間を養成する。これは「社会即学 校」になる。役に立っ知識を教える教育法としては,教えるのも学ぶのも「倣」
を中心にし,教師は「倣」教え,生徒は「倣」を学ぶ。生徒自身も「小先生」
になって教える。これは「教学倣合一」である。陶行知の生活教育理論は旧教 育に対する改造の中で形成し,発展したのである。
第3は教育実践の中で模索したことである。生活教育理論は社会実際と結び 付けるのを重視するものであるが,それ自身も教育実践の中で成長したのであ
る。陶行知は中国の教育界において初めて農民教育問題を認識した人であり,
初めて農民教育普及運動を実践した人である。理想の実現,教育の実践のため に,彼は大学教授の地位と裕福な生活を放棄し,高等師範学校の校長を辞退し,
背広を脱いで木綿の服にわら草履で南京郊外の農村へ行って暁庄学校の教育実 験に没頭した。そして暁庄学校での実践を通して独特な生活教育理論を確立し たのである。それ以降の20余年の間に,生活教育論は民主革命闘争の情勢及び 国民の生活の発展に応じて発展して行った。暁庄学校のほかに,自然科学園,
山海工学団,育才学校,社会大学など,中国の実際から出発した創造的な教育 実践も,陶行知の生活教育理論の実践と発展の過程であった。
生活教育論は「生活即教育」「社会即学校」「教学倣合一」という3大主張か らなっている。
①「生活即教育」
陶行知は生活教育の定義,生活と教育との関係,効力について次のように言っ ている。
「定義から言えば:生活教育は生活に教育を施すもので,生活を以て教育を し,生活の前進と向上の需要のために教育をするのである。生活と教育との 関係から言えば:生活が教育を決定するのである。効力から言えば:教育は 生活を通してこそ力量になり真の教育になれるのである。」(8)
「生活即教育」は生活教育論の核心である。陶行知は「生活教育はもともと 生活に存在し,生活がみずから営み,生活に必須の教育である。教育の根本的
な意義は生活の変化にある。生活は終始変化しているから,終始教育的意義を もつのである」(9)と指摘している。陶行知の考えでは,生活教育が人類社会に もともとあるから,生活はすなわち教育になる。それに,どんな教育を受ける かは,生活実際によって決定されるのである。陶行知は教育,学校,書籍のい ずれも生活を中心にすべきだと主張し,「生活を中心としない教育は死んだ教 育であり,生活を中心としない学校は死んだ学校であり,生活を中心としない 書籍は死んだ書籍である」(1°)と指摘している。陶行知は民衆の実際からはなれ
る「老八股」(科挙)に反対し,「中国の教育が行き詰まってしまったのは,み んな文字と本を唯一の工具にし,それに文字,本といった工具を正しく使って
いないからである」( 1)と批判した。同時に陶行知は「洋八股」(外国教育の模
倣)にも反対し,「また民衆の生活と何の関わりもない」と指摘している。
生活教育は生活を中心とする教育を強調し,本を中心とする伝統教育に反対 する教育であり,広範な労働人民のための教育である。生活を中心とする教育 を強調するのはその独特な着目によるものである。それは陶行知が言うように
「坊ちゃんとお嬢さんはお金がいくらでもあるから読書のために読書すること ができる。これは小衆教育という。大衆は生活の中でしか教育を見付けなく,
生活のために教育を営むのである」(12)。そこで,陶行知は,健康生活,労働生 活,科学生活,芸術生活,社会生活の5大種類,70項目の生活教育内容を制定
した。これらの教育内容は生活実際から素材を発掘されたもので,生活能力の 養成を目的に設定されたものである。
②「社会即学校」
「社会即学校」は生活教育論のもう一っの柱である。中心内容は伝統教育の 学校を改造し,学校と社会とを結び付け,社会生活,人民大衆のために役立っ 教育を行ない,教育をより普及しようとするものである。
陶行知が「社会即学校」を主張したのは,教育の対象を拡大し,広範な労働 民衆がみんな教育を受けられるようにするためである。留学から帰国してから 10何年の教育実践の中で,平民教育,農村教育などを提唱してきたが,「実は,
心の中には一っの中心問題しかなかった。この問題は,っまり,いかにして教 育を普及し,いかにして教育を受ける機会に恵まれない人に必要な教育を与え
ることができるかということであった」( 3)。教育を普及するためには,伝統学
校を改造し,「工場学校,社会が完全一体となる」(14)新式学校を作らなけれ ばならないと陶行知は考えていた。
陶行知は伝統教育の弊害として「組織の面では,学校のために学校を経営し,
学校と社会の間に一っの高い塀を建てている」(15)と指摘し,このような学校を
「鳥篭」に喩えている。陶行知は社会の需要に応じて教育を行ない,社会の力
を借りて教育を行なうことを重視している。伝統の教育は学校という建て物に
閉じ篭り,教育の範囲も狭いし,社会から隔てられていた。「社会即学校」は
っまり学校と社会の間の塀を取り崩し,子供達を鳥篭式の学校から解放し,全
社会を学校にしようとするのである。陶行知は言う:「社会という偉大な学校
の中で,人々は皆我々の先生になり,人々は皆我々の同窓生になり,人々は皆 我々の学生になれる。手当り次第にっかんだ物は皆生き生きとした本になり,
学問になり,腕前になる」㈹。「社会即学校」の主張は,学校の教育範囲を拡大 し,社会生活を学校教育の中心内容にするものである。社会生活から乖離した 生命力のない学校に反対するのであって,学校を全面否定しようとしていない。
もちろん,「社会即学校」という表現は誤解を起こしやすいし,社会イコール 学校にしてしまえば,学校と社会との区別を曖昧にし,教育自身の客観規則性
を否定しかねない。しかし,暁庄学校,山海工学団,育才学校,社会大学など における教育実践で分かるように,陶行知の「社会即学校」の本意は,学校の 消滅を主張しているのではなく,新式学校で伝統学校を取り替えようとするの である。学校と社会との結合という教育的発想及び実験は,中国の教育に対す
る陶行知の貢献である。
③「教学倣合一」
陶行知による旧教学法改革の試みは,留学帰国後,南京高等師範学校で教授 をしている時から始まった。彼は「教学合一」の文章を発表して「教育方法は 学ぶ方法に基づかなければならない」( 7)と述べ,旧教学方法の改革として,知 識を教える中心の「教授法」を学び方に対応する「教学法」に変えるように主 張した。1926年12月,陶行知は,「中国師範教育建設論」と「試験郷村師範学 校答客問」という2篇の文章の中で「教学倣合一」という生活教育論の教育方 法論を打ち出した。その意味について陶行知は「試験郷村師範学校答客間」の 中で次のように説明している。
「教学倣合一とは?教える方法は学ぶ方法に基づかなければならず,学ぶ方 法は倣す方法に基づかなければならない。事をいかに倣すかとは,即ちいか に学ぶかということであり,いかに学ぶかとは,即ちいかに教えるかという ことである。例えば野良仕事は畑でするから,畑のなかで学ばなければなら ないし,畑のなかで教えなければならない。教・学・倣には共通した中心が ある。この中心は『事』であり,即ち実際生活である。教・学・倣は皆『必 ず事があり』に力を入れなければならない。」(18)
更に,翌年に「教学倣合一」を題にした文章でその理論を釈明した。この文
章の中では教・学・倣の関係にっいて次のように論じられている。
「教学倣は一っのことであり,三っのことではない。我々は倣の上で教え,
倣の上で学ばなければならない。倣の上で教えるのは先生で,倣の上で学ぶ のは学生である。先生の立場から学生との関係を言えば,倣は即ち教であり,
学生の立場から先生との関係を言えば,倣は即ち学である。先生が倣を以て 教えれば,本当の教になり,学生が倣を以て学べば,実学になるのである。
倣に力を入れないと教は教にならず,学も学にならない。」(19)
陶行知の「教学倣合一」の理論は伝統教育の形式主義反対から出発し,教え るだけで,どう学ぶかを問わずという伝統教育の弊害,つまり本に基づいて教 えるだけで,人間を育てようとしないで,社会の実際から乖離する弊害を批判 し,書物本位,文化中心といった中国伝統的な教育方法を,実践行動中心,実 際生活中心に改造しようとするのである。陶行知が主張しているのは,教師の 責任は本を教えることではなく,学生に学ぶのを教えることにある。教師とし ては独立思考能力と実際問題解決力を持ち,手と脳を併用できる人間を養成す るのであり,生徒を「書呆子」に仕立ててはいけない。学ぶ側としては,実践 の中で学習し,実践を経験する中で,役に立っ知識を学び,社会生活と生産実 践の能力と創造力を身にっけなければならない。そして,教師のほうも,「教
えながら,学び」,「生徒を指導しながら,学問を研究し」(2°)なければならない。
陶行知の「教学倣合一」の理論は,注入式の「教授法」に矛先を向けている。
伝統的な教授法は,教師の「教」を中心とし,学生の「学」を軽視している。
陶行知は,教育方法を「教授法」から「教学法」へ,「教学合一」から「教学 倣合一」へと実践し改革していた。
ll 陶行知と柳田国男
1.教育的歩み
柳田国男(1875〜1962)と陶行知(1891〜1946)は共に近代から現代にかけ
て,それぞれの国の一教育思潮の代表人物である。陶行知は柳田国男より,16
年遅く誕生し,16年早く逝去したが,教育との関わりから見れば,二人はほぼ
同時代の者であったと言えよう。当時の世界の教育の流れから言えば,二人は 同じ教育的背景にいるが,それに対して,両国国内の具体的社会状況と教育状 況から見れば,二人はまた違った社会背景において教育的活動をしていた。し かし,近代・現代歴史における中日両国の社会発展,すなわち近代から現代へ の移行,近代教育から現代教育への脱皮という視点から見れば,二人はまた同
じ時代背景に教育の進歩のために活動したと考えられる。
教育との関わり方に関して,二人には違いがあった。陶行知は教育を専門に し,一生を通して教育に尽くした。それに対して,柳田国男は農政官僚を経て 民俗学の道に入り,その学問をしている内に,終始学問と教育とを結び付けて 考え,教育に関心を寄せていた。戦前は,教育に対する膨大な発言をもって教 育に寄与し,戦後において身をもって教育実践に携わった。陶行知はアメリカ 留学を終えて,1917年に帰国してから教育活動を始め,20年代から40年代にか けて教育実践をする傍ら,教育論著を多く残した。柳田国男は1901年から現在 の早稲田大学,専修大学などで講義をはじめ,農政教育に関わりはじめたが,
学校教育改革,教育法改革などに関する教育論を20年代から書きだし,30年代 から40年代にかけて大量に書いた。こうして見れば,両者が教育という仕事を 本格的に取り組んだのはほぼ同時期であるといえる。しかし,臨んでいる課題 は全部同じであるというわけではなかった。時代背景,社会背景,教育との関 わり方などの異同により,両者の教育主張そして教育実践にも,異同点があっ
た。
2.暁庄学校教育実験と社会科教育実践
二人とも教育行政に対して批判的な面があるが,柳田国男は長年教育論を発 表し,自分の教育思想を主張し,教育の改造を促進しっっ,終戦後の教育改革 においては,教育行政と関わり,教育改革を促進しながら,教育研究と実際に
も関わった。陶行知はあくまで「人民教育家」という姿勢で教育活動をし,大 学から農村へ行き,民衆教育を普及し,それを通して民族解放運動に寄与した。
しかし,両方とも終始民衆の立場に立ち,生活に関する教育を重視し,農村教
育に関する関心が高かった。これは二氏の教育実践である暁庄学校実験と柳田
社会科によって伺われる。
平民教育運動挫折後,陶行知は農民教育の重要性と必要性を認識し,1926年 から農村教育運動に投身し,暁庄学校における「生活教育」の教育実験をはじ めた。この教育実験は「老八股」と「洋八股」のような,民衆の需要から離れ る教育の改造を旗印に,農村生活を中心に教師養成カリキュラムを構成し,国 語,算数のような文化知識のほかに,多くの生活実際,生活能力に関する科目 を設置した。教育実験は中心学校を中心に,付属小学校及び施設を通して展開 されていた。教育目標は農村教師としての「農夫の腕前,科学の頭脳,社会改 進の精神」(2 )としている。暁庄学校は農村教師の養成を中心とする実践である が,農村建設の担い手を育てる農村教師を養成することによって民衆教育を普 及しようとするのである。
柳田社会科は外国の社会科のまねをする風潮の中で作られたものである。そ の特徴は民俗学の視点から社会科を捉え,民俗学の研究成果を用いて社会科の 構築に支援し,教育方針,教育内容,教育方法を一貫した。柳田社会科は正し
く生活する態度と能力の養成に重点を置き,子供に「世間教育1を施そうとす るものである。そして戦後の民主主義改革に応じて,教育目標を「正しく賢い 選挙民」の養成にした。陶行知は暁庄学校で養成された農村教師によって生活 教育,人民大衆のための教育を普及しようとしたが,それに対して柳田の狙い は民俗学をベースにした柳田社会科をもって,戦後の社会科教育に一っの方向 性を示し,教育の「鋳型」を作ろうとしたのである。
両者の教育実践はそれなりの特徴があるが,共通点があった。っまり両方と も身をもって実践して自分の教育主張を開花させたのである。そこで,柳田国 男は教科教育の構築の試みを,陶行知は学校運営を試みた。両方とも生活教育 を重視した。陶行知は農村地域に根ざして,農村生活に基づいて,生活の中で 教育を行なった。それに対して,柳田は民俗学研究の成果をもって社会科教育
に支援し,民衆の生活文化,郷土文化を多く取り入れ,民俗学的手法で独特な 柳田社会科を作りだした。
特定の歴史状況の中で展開された二っの教育実践は,歴史的意義を持ち,両
国の重要な教育遺産になる。柳田社会科は,再び脚光浴び,見直されっっ,そ
の中に蓄えられている柳田の教育的知恵も発掘されっっある。暁庄学校も2度 の中止(1回目は1930年に国民党政府による中止,2回目はプロ文革中)を経 て,陶行知の「名誉回復」後,更に発展し,教員養成の師範学校として農村地 域の建設と教育の発展のために小学校教師を養成している。また,この由緒の
ある学校では陶行知の研究も先立って進められている。
3.近代教育批判と伝統教育批判
柳田国男と陶行知は共に現行教育に対する批判及びその改革を求める中で自 分の教育論を主張していた。しかし,両者の着目と批判の目標が違っていた。
1872年,日本においては,「学制」の頒布に伴い,近代学校教育体制が確立 した。柳田国男はこれを「全国一率の国家教育」「学校教育」などのように捉 えていた。同時に柳田は近代教育が確立する前に,民間には民衆による教育が 行なわれてきたことに着目し,それを「前代教育」などと位置付けていた。そ して,柳田は常にこの二っの教育を比較しながら教育を考えていた。前代教育 は民間で自然に行なわれ,民衆の生活実際に根ざし,生活に役立ち,文化の発 展と継承,人間形成に大いに役立った。近代教育は学校教育を中心にし,前代 教育を顧みようとしなかった。柳田はこれに対して常に厳しく批判し,民衆教 育及び民衆文化を掘り起こそうとしたのである。
柳田は近代教育の弊害として,画一主義による学校教育は子供を生活実際か ら引き離し,文字中心の国語,符号同然の実用性の薄い地理や歴史の学習をさ せ,一人前に成長することを妨げたと批判した。したがって,教育改造の一っ
の方法として前代教育の継承を主張し,民俗学の視点と手法で教育を構築し,
「物言ひ」教育,「世間教育」「史心」教育,「一人前」教育,疑問を大切にする 教育などを主張した。
しかし,柳田は前代教育をすべて肯定しようとはしない。その「雷同附合性」
などの弱点を否定した上で前代教育の優れるところの継承を主張するのである。
また,学校教育も全面否定しようとはしない。前代教育と一線を画し,子供に 不幸をもたらした近代教育を批判し,学校教育の改革を力説していたのである。
陶行知の教育に対する批判は「八股」に集中していた。階朝606年に確立し
た「科挙」制度は,試験を通して人材を選抜する制度であった。明朝になって から,書式を重んずる「八股文」の試験方法が科挙と一体になり,学校は空疎 な八股文一筋で,実用な知識を教えなかった。封建鎖国時代の終焉にっれて,
中国の教育に1300年も君臨していた科挙は,1901年に廃止され,それに代わっ て諸外国の教育制度が伝来し,新教育運動が押し進められた。新教育運動の特 徴は外国の教育制度の移植であった。それは教育の近代化に大きく役立ったが,
文化,社会の違いにより,弊害が日増しに問題になっている。教育を受ける人 は少数のものだけで,習った内容も民衆の必要な知識ではなかったから,「洋 八股」といわれていた。陶行知は伝統の「老八股」及び伝来の「洋八股」に対 する批判と改造の中で,文字と書籍だけを教育の手段にした八股式教育の急所 をっかみ,それに真っ向から反対する生活教育論を打ちだし実践した。生活教 育論は教育方法論中心であるが,骨子は民衆の実際生活と結び付ける「大衆の 教育」であるから,教育の民衆への回帰という意味を持っ。柳田は伝統的な教 育法の継承を通じて学制確立以来の学校教育を改善しようとし,戦前戦後をと おして日本式の教育を樹立しようとした。陶は伝統教育を批判し,伝来の教育 を改造して「洋為中用」(外国のものを中国で使う)し,教育の普及に尽くし た。歴史と社会の背景により両者の伝統教育と近代教育に対する捉え方が違う が,民衆教育の健全なる成長という目的が同じであった。
柳田国男と陶行知の着目は違うが,以上の比較で分かるように,両者は共に 教育の民衆の実際からの乖離学校のための学校,教育のための教育,本ある
いは文字中心教育に反対し,教育と生活との結合,被教育者のために役に立っ 教育を築くために努力していた。柳田と陶行知の教育論の根底には批判と改革 の意識が強かった。教育の弊害を改善するために,柳田は教育と民俗学との結 合,陶行知は教育と生活との結合というように考案し,実践した。今,我々は この民俗学的教育と生活教育を更に結び付けて,当面の教育問題について考え て見れば,ヒントと示唆が得られる。現在の教育はこのままではよいか。これ は教育関係者がよく考えている問題であろう。すくなくても,両氏がかつて批 判していた教育的弊害は現在相変らず存在している。例として何よりも先ず取
り上げられるのは受験勉強のための教育という傾斜ではないか。
4.疑問喚起,問題発見・解決と教学傲合一
柳田国男は従来詰め込み式,暗記式の教育法と対立していた。それは前代教 育の継承,国語教育論,歴史教育論などの主張と教育論で繰り返し論じられて いたが,ここでは,柳田社会科における教育指導方法論をめぐって陶行知の生 活教育論における教育方法論と比較してみたい。
柳田は社会科をその学習内容と性質の面から「世間教育」と位置付け,教育 指導の面で「問題解決学習」というように位置付けていた。柳田社会科学習の 指導の過程は,疑問の喚起,問題の発見,問題の解決となっている。教育にあ たっては,子供の疑問を大切にしようと柳田は一貫して主張していた。問題解 決学習の前提は子供が持つ疑問が豊富になることと,子供がみずから疑問を提 出することである。そこで「何らの先入感なしに,子供たちの疑問や関心に十 分の注意を払ってやる必要がある⊥褒めてやることによって,「子供たちは,
どんな疑問を提出することが大事であるかを理解していく」(22)。これは疑問の 喚起である。疑問が適当にくくられると社会科学習にあたっての問題へと発展 していく。これも子供にやらせる。最後の段階は問題の解決であるが,やはり 教師の導きによって子供が主体的に正しい解決方法を見付けることができるよ
うに工夫する。そして「そうした問題解決を通じて,子供たちの行動に,ある 変化が生じたことを見出し得るならば,それが社会科教育の大きな効果といえ
るのである」(23)。柳田社会科の教育指導方法は子供の主体性による問題発見,
問題解決能力の養成法である。
前述したように,陶行知の教育指導方法論は「教学倣合一」である。これは 暗記,詰め込みの「八股」式教育法に対する反発から考案されたのである。伝 統的な教育法は教師が一方的に教える「教授法」で,陶行知はそれを「教学法」
(学び方を教える方法)に改革したが,教育実践の中で,それを更に「教学倣
合一」に発展させた。これは教育,学習,実践を結び付けて実践を中心とする
教育法である。この教育法は本にある知識を中心に教えるのではなく,実際の
中で教え,人間養成をするのである。「教学倣合一」というのは学生の行動力
の養成の上で,その独立思考力,独立で問題分析,問題解決をする能力を養成
する指導法である。暁庄学校の教育実験の中で,陶行知は教員という名称を指 導員に改め,学生の自主的学習を強調した。陶行知はその教育指導方法論をめ
ぐって主張していた「在労力上労心」(力を労する上で心を労す
る)(24),「行是知之始」(行動は学習の始まり)(25)という見解は教育の伝統的な
概念を一新した。
陶行知の教育指導方法論で,もう一っ注目すべきなのは子供が互いに教える という主張である。陶行知は「即知即伝人」(学んだものを他人に教える)(26)
を唱え,子供が子供を教える「児童自動学校」に支援し,その独特な教育的な 発想で「小先生」(27)制を考案した。子供が「学」をしてから,「教」という
「倣」の中で実践し,また「学」をすることができる。小先生制はもともと知 識私有化・商品化の打破,教育普及のために考案されたが,子供の主体的学習 の向上,実践能力の養成でも重要な意義を持っのである。
柳田の社会科指導法と陶行知の生活教育論における指導法はその発想および 方法から見れば,違う点があるが,実質的には共通点があると思われる。それ は共に知識の詰め込み式教育法を廃止し,学習者の自主的行動と思考によって
「教育と学習」という「問題」を解決させようとするのである。前者は「疑問」
を大切にして「疑問の喚起,問題の発見」といった過程を通じて「問題解決」
に導くのに対して,後者は「倣」を重視して「行動,観察,読書,討論,思考」(28)
「即知即伝」といった過程を通じて真の「教育と学習」を追求させようとする のである。
おわりに
以上の考察及び比較で,陶行知と柳田国男の教育思想と教育実践の異同点が いくっか明らかになった。比較から得たいくっかの示唆を示して本稿の結びと
したい。
かって両国の教育に民衆の生活実際を重視する教育思潮があった。80年代末
期から,両国とも生活学習を重視する傾向がある。中国は小学校において伝統
の「歴史」と「地理」を廃止し,生活学習的内容が取り入れられた「社会」を
設置した。日本は小学校低学年において社会科を廃止し「生活科」を設置した。
これを陶行知と柳田国男の教育実践と対照して見るのは,これらの教科の構築 に役立っであろう。
よく教育改革といわれるが,それは一体何を意味するかを両者の教育思想と 結び付けて考えると示唆を得る。教育改革の動力となるのは無論いろんな要素 があるが,少なくとも両者のような強い批判精神が大切ではないか。柳田は近 代学校の弊害の是正を旗印に教育論を展開した。陶行知は「老八股」と「洋八 股」をターゲットに教育の改造に志し,教育実験の中で生活教育論を確立した。
これと関連して,当面の教育に存在する問題をより深刻に認識する必要がある と思われる。「受験勉強の過熱」という問題がクローズアップされているが,
この問題をどう解決するかは,教育改革における重要な課題であると思われる。
柳田国男は,近代学制成立以前に民衆による前代教育及び自然教育法が存在 したと力説し,それを批判的に継承することを主張した。陶行知は「洋八股」
を批判すると同時に,外国の教育経験を中国の実際に応じてこれを改造した。
国際化社会進行中において,一国の教育と世界の教育との結合が重視され始め ているが,「洋為中用」(外国のものを中国に活かす)のほかに,古来の教育に
ある優れるものを掘り起こして「古為今用」(古代のものを現代に活かす)も 大事ではないか。
社会科教育に焦点を絞って生活学習を考えてみると,教育内容と教育方法
(教育手法)の課題がある。前者より後者のほうがより難しいと思われる。中 国の近代教育史に陶行知の「教学倣合一」という教育指導法があり,新中国成 立後も教育と実際との結合が重視されていたことがある。柳田教育実践の民俗 学的手法,疑問喚起・問題発見・問題解決という指導法を中国の社会科教育の 参考にする場合,より中国の教育事情に適応する為に,それを陶の生活教育の
「教学倣合一」論とを結び付けて考えるべきであろう。
注:
(1)長浜功『常民教育論』新泉社 1982P.5
長浜功はこの現象を「日本教育学の傲り」と指摘している。
(2) 「平民教育概論」「陶行知教育文選」科学教育出版社 1981年 P.28
「中華教育改進社全国農村教育改造宣言書」 前掲書 P.33
「民主教育」「陶行知教育文選』科学教育出版社 1981年 P.326
武訓,清末の人で,物乞いをして教育を経営した。陶行知は彼を肯定していた。
「生活工具之教育」「陶行知教育文選』科学教育出版社 1981年 P.59
「教育の新生」「陶行知文集」江蘇人民出版社 1981年 P.407〜408
「生活教育について」『陶行知教育文選」教育科学出版社 1981年3月P.267
「生活教育」「陶行知全集』第2巻湖南教育出版社 1985年 P.634
「生活即教育」「陶行知全集」第2巻 P.184〜185
「生活工具主義教育」「陶行知教育文選」 P.59
「生活教育之特質」『陶行知教育文選」 P.250
「普及教育運動小史」「陶行知教育文選」 P.150
「普及現代教育之出路」『陶行知教育文選」 P.175
「教育の新生」「陶行知教育文選」 P.146
「普及現代生活教育之路」「陶行知教育文選」 P.165
「教学合一」「陶行知教育文選」 P,5
「試験郷村師範学校答客間」「陶行知教育文選」 P.53
「教学倣合一」「陶行知教育文選』 P.77
「教学合一」「陶行知教育文選」 P. 5〜6
「中国郷村教育之根本改造」「陶行知教育文選」 P.57
柳田国男・和歌森太郎「社会科教育法』 P.64
前掲書 P.69
「在労力上労心」「陶行知教育文選」 P.79
「行是知之始」「陶行知教育文選』 P.74
「中国普及教育方案商討」「陶行知教育文選」 P.151
「急様倣小先生」『陶行知教育文選」 P.188
「育才二周歳之前夜」「陶行知教育文選」 P.274