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ロ器開

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(1)

l

ま し

次 が

き ・

一 ︑国語の学習指導

ついで::

j

国 語 科 の 目 椋 国語 科 の学習指導 ・

〈 斗

二 ︑問題とその解説

jj

i

:

:::

j

i‑ ‑

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‑ ‑ :

ニ 一

あ と

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j

i

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一 =

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ζ

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J

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E

・ ‑ : : 一

C

;

J

EE

i‑

: : : : ﹁

一 室

t 柚

函 宍

.T¥ 

(2)

l

i

とこにまとめたものは ︑ 学力と学習指導に関する研究の

一部として︑昭和 亡 一十年から昭和三十四年まで五か年間の

高校進学学

A

検査(国語科)を資料として ︑木県中 学校生 徒の国語学力の現状や欠陥について考察し︑若干の指導上

の意見をつけ加えたものである ︒

その論 述 は ︑ 学刀検査の個々の問題に即して具体的にと れを解説しつつ︑右の諸点をみてゆくという方針をと円 以

た︒問題の解説を中心に筆を進めてある︒

問題の解説に

当 た

て は

︑ 問題の本文をどのように読む

la

oh

きかを主眼に考えた︒受験技術の面から選択肢をどう弁

別するかというような問題にはあまりふれていない︒正し

い読みから正しい答えが得られるという︑きわめてあたり

まえの原理に立って考えたのである︒国語科の本来の姿に 立脚した真の読みのカをつけることが ︑ 最も効果的な受験

指導 になるととを ︑ 本書から理解していただければ幸いで

あ る

このような意味で ︒

︑ 個 々

の問題に 即しな がら︑平案の国

語指導について若干の意見そ述ベた︒それらの意見は筆者

の経験と常識に立つものであって ︑ 読者には異論をもたれ

る方もあるかと思われる︒問題提起として読んでいただけ れば結構である︒もちろんそれも︑経験豊かな教師の方に

は 蛇 足 に 過 ぎ な い こ と か よ も し れ な い ︒

この解説中に述べた個々の意見や ︑ 解説そのものの萱尽

にある考え方を ︑ やや理論的にまとめて最初に掲げた︒と

の﹁国語の学習指導について﹂は ︑

い わ

ζ

の問題解説の 理論的根拠を示すものである︒この論稿に述︑へた考え方の

具体的な展開がこの問題解説であるとみていただいてもよ

い︒しかし実際には ︑ との論稿は︑この学力検査問題の検 討の結果から得た一つの問題意識を理論的にまとめてみた

ものなのである︒その意味では ︑ との論稿に述べた考え方

は︑わたしどもが学力研究の 一 端として取り上げた高校進 学学力検査の検討から得た

︑ 一

つの問題の発見として︑今 後のわたしどもの学力研究の発端になるものといってよい

かもしれないのである︒ 一 そうした意味からも ︑ との書は皆さんからじゅうぶんに 検討批判していただきたいのである ︒それらの 声を聞いて

わたしどもの研究を誤りのないように進めてゆきたいと考

尖るからである︒いまこのような研究を

ζ

のような形で

ζ

とに発表するのは

︑ と

もどもに ︑ 現在の国語教育な豊か怠 問題意識をも っ て反省し︑本県児童生徒の言語生活を翼に

豊かなものに育てたいと念願するからである︒

(3)

つぎに本書の記述上のことについて二三記して置く︒

て こ と に 取

り扱った全問題を ︑ 一覧表に作成して ︑

問題

の解説の松初にかかげた︒分類自体としてはやや便宜的

なものになったが ︑ 索引としての利用を考えたものであ

これを‑題ずつ解 問題は領域ごと種類ごとにまとめ 一 ︑ ︑ る ︒

説した︒ただし中には領域ごと種類ごとに 一 括して解説 し た も の も あ る ︒

昼 ︑

問題は最初に出てくるところにその全文を掲載し ︑他

はそのつど必要に応じて部分 的

に 掲

載 し

た ︒

‑ ︑

問題の次にその問題の正答率を載せた︒これは受検生

中その問題を正解した生徒数の全受検生一数に対する百分

率である︒ただしこれは全受検生から無作為抽出によっ

て得た約三

O

舟の喝の.根本から出されたもので ︑ 不合始 者のものもふくんでいる︒ハ県教委発表の統計による)

一 ︑問題の解 説は ︑ 個々の問題についてできるだけ具体的

に述べた︒その内容は ︑

ぼ ぼ

︑ 問

題 の

︑ ね

ら い

︑困 難点

指導上の留意点等について述べたものである︒

. ︑

問題の性質上種々な解釈が成り 立 ち ︑ その解釈に説の

分かれるものについては︑間以終的にはその項の執筆者の 意見によることと

し た

一 ︑ 各領域の終りにに ︑ その領域全体についての解説を付 した︒ただし省略した領域もある︒ 一︑最後にプまとめ﹂として全領域にわたって ︑ 出題傾向

や生徒の学刈の傾向について ︑補

説 し

た ︒

‑ 2

(4)

マ 胃 :

国語の学習指導について

付 国語科の目標

木県児童生徒の国語学力を向

L

にすべく︑学習指導をどの

ように改善したらよいか︑というのが︑いまわたしどもが

取りあげている研究諜題である︒この学力向上のための学

習指導という研究課題に直面して︑最初

K

問題になるの

は ︑ その向上さるべき ︑ 伸ばさるべき学力とは ︑ どのよう

な内務のものなのかという問題である︒いま︑学力そのも

のの定義や本質論はしばらくおくとして︑問題を国語山学力

に限って考えると ︑ どのような国語の学力をつけたらよい

のかという問題なのである︒国語科の目標は何かという問

題に置きかえてもよいであろう︒学習指導要領にも最初に

国語科め

目標

L

と し

て ︑

ζ

の問題が説かれている ︒

しかし

ζ

の問題は ︑ 簡単にはかたづけられない問題であ

る︒歴史 ︑ 的にみても ︑ いわゆる読み書きといった文字言語

の習得を 中 心とした実用性が強調された時代もあり ︑ あ ︐ る

い は

︑ 特に文学教育が強調された 一 り ︑ また人間形成が考え

‑ 3‑

られたりした時代もあった︒戦後は︑民主社会の成 立

に 対

応して︑話しととばが重視され ' ︑ 社会生活におけ ︐ る言語使 用というととが中心に考えられてきた︒この考えは ︑ 戦時

中の精神主義的な言語観からの解放として︑一 τ p語そもっぱ

﹁ て ︑ ︑

ユ ニ

l ショシの道具と考え︑言語の伝達的機能の みがことさらにグロ

ー ズ

アてフされた傾きがあった︒そう

してこのような 言語使用の技能に経験的に習熟するととに

国語科の目標が置かれたようにみ

4

られた︒ところが︑この

ような傾向に対して︑言語のもつ思惟性や思考性が注目さ

れ ︑ さらに意志や感情の表現

γ

としての表現性が考えられ︑

いわばとうした言語の心理的な閣が今日では関心そ呼がつ

つあるように思われる︒そしてまた︑それが民族の思想や

心情のあらわれであるという点から︑国語を尊重すること

を強調する考えも生まれてきている︒昭和一一一十七年から実

施される

'

新指導要領にはこうじた傾向が加味されて出てき

ているようにみられる ︒

このように国語科の目標は︑時代とともにうつり裟わっ

てゆく

c

﹂の変遷の原理は 児童生徒に対して時代が要請

γ

する人間像の変

化 と

時代の言語観によるものであろう︒

さらにいうならば︑それらをうちに探く受け入れつつ ︑ 過 去のゆがみを修正し ︑ 止揚してゆく国語教育自身の内在的

な自己発展によるものといえよう︒とにかく︑戦後十五年

(5)

を経て ︑ 戦後の経験 主 義的国語 教育観 は ︑

角にさしかかっているように思われる︒

ここに取りあげている研究主題は ︑ 本県の児童生徒とい う ︑ 特殊の限定をもっているのであるが ︑ これを本県児童 生徒の学力の欠陥を救う学習指部の改普という ︑

単なる抱 導技術の問題として取りあげたのでは ︑ 主題の本当の解決

にはならないであろう︒特殊の 中

にある普遍を見失って は ︑ 問題を本質的に解決することはできないからである︒ そこでいま ︑ 普遍的な立場に立って ︑

一 般

的 にいって ︑ 国

語科で指導さるべき国語学力はどのようなものでなければ

ならないかについ

て ︑ 少し︿考 えて み た

い と

う ︒

いま一つの 曲 り

現行指導要領には ︑ 国語学習 掲 導の一般目標として﹁こ とばを効果的に使用する習慣と態 度 を韮い ︑ 技術と能力を みがく

L

ことをあげ ︑ 具 体的 な凶語学習指導の目標として は ︑ 一国民として日常生活に必要な言語ル一理解し ︑ 使用す る能力ができて ︑ 市い言語文 化 を享受する基礎ができなけ

・ れ ば な ら な い ︒ ﹂ と し て ︑ 二十三項闘をかかげている︒こ

れを一口にいえば ︑ 性活に必要な言語能力の習得というこ と に な ろ う

新指導要領には ︑ 目標の第一に次のようにかかげてある︒ 生活に必 要な国 語の能力を高め ︑ 思考 力 を 伸 ばし ︑心 情を豊かにして

︑ 一

一 言

語 生

活 の

上 を

図 る

︒ 指導主によれば ︑ ﹁凶諾の能力という語句は ︑ 習慣や態度

や技能や知識その 他 そ含む全体的な国語の力という意味に

用 い て あ る ︒

L

と説 明 してあるから ︑ この一句は現行指導要 領と変わるところはない︒しかしてここには思考力と 心 情 にもふれてはいるが ︑ 新指導要領全体を読行と ︑

こ の

一 聞

は かなり 稀 薄であって ︑ また目標

4

に示している﹁国語生尊 重する態度や習慣﹂というのも ︑ 特別それが強調されてい るというわけのもので も なく ︑ けっきょく ︑ 新指導要領の 考え方も ︑ 現 行 指

導 要 領 をひきついで ﹁生活に必要な国 ︑

語の能力を高め

る ﹂

点に抱導の中心が置かれていると解し てよいように忠 われ

る ︒ 言語は人聞 社 会におけるおたがいの意志の通じ合いの手 段であるから ︑ このような言語の伝達の機能に習熟すると

とが言語教育の

巾 ・ 心

でなければならないことはいうまでも ないであろう︒指導要領の考え方が ︑

生 活

に 必

要 な

一 言

語 能

力を町める点にあることは ︑ 右のような言語の本質からみ て当然のことではあるが

︑ さらに国民教育の立場からい

っ て

︑ 現代の民主社会をよりよく育ててゆくために ︑

こ の

国語科目標の考え点は将来もゆがめられではならないもの

と考えられるのである︒

4

(6)

ただし︑言語は︑伝達の機能の他に︑見方をかえれば︑

思想や意志 ・ 感情を表わす表現の機能をもつものであり︑

また思惟や思考とかかわる前が深く ︑ さらにまた文化の獲

創造に関すると ころも大きいので ある︒そ

こ で

こ れ

らの点を考慮に置きつつ ︑伝 達の機能を中心に ︑ 生活に必

要な国語の能刈を

す 川

め る

こ と

在︑国語科の目標と︑一応考

えてよいであろう︒

ところで ︑ 国語学習指導の目標を右のように考えるとし

て︑寸この生活に必要な国語の能力﹂をどのような方法で

高めるかが次に問題である︒現行指導要領に

一 ホ す

ように ︑

できるだけ多くの経験の場を与えて︑言語生活の多様な形

態に一々習熟させるという方法は︑いたずらに国語教育の

間口を拡げ︑国語教育の中核をぼやけさせてしまい︑基本

的な言語能力を必ずしも・尚める結果にはならなかったので ないかと思われる︒新指導要領が ︑ この点の

‑ h

省 か

ら ︑

語経験を尊重しながらも ︑特に ことばに関する指導を大き

く取り上げて︑言語能力の基礎 的 本質的な指導を指示して

いるのは注同される︒

生活に必妥な国語の能力というものを考える時︑その中

心は言語の伝達活動であろう︒これを国語教育上の問題と して考える時に ︑ 実際にとの伝達活動の諸形態そあれ

ζ

と経験し︑これに習熟するということよりも︑むしろ自分

の思うことを正しく表現し

︑人

の言うことを正しく理解す

るという伝達活動そのものの基本を育てることがたいせつ

なのではないであろうか︒つまり伝達の具 体的な諸形態に

共通してその基礎になる ︑ 基本的な ︑ 表現し理解する力を

つちかうことが ︑国 語教育としては先決の ︑ また基本的な

問題ではないかと思うのである︒この基礎がじ?っ︑ぶん養

われていなければ ︑いか に伝達の具体的な場を経験的に学

ばせても︑それは表面的な形式的な学習に終って しまうに 過ぎないのではないであろうか︒特にまた︑一言語は表現の

機能をもち ︑ 思惟や思考と添い関係のあることを考えると︑

単に経験主義的な立場で伝達の諸様式に習熟し ︑ あるいは

言語生活のいろいろな場を経験するというゆき方では ︑ 言

語のこうした面が掘り下げられずにしまうのでないかと思

われる︒実は言語のこのような面は︑一言語の効用から見れ

ば第二義的なものであるかもしれないが ︑ 言語習得の途上

にある中学校生徒の 心理的 年令を考えると ︑ 言語のこ

の よ

うな 面は︑国語教育上じゅうぶん考慮されなければならな

いところであると思う︒彼らの人間形成や知識的な成長は ︑

言語の結果的な使用の拡大に伴うのみならず︑言語習得

の過程そのものの中にもつちかわれてゆくのである︒その

‑ 5

(7)

情味

J

巾 か

J

九 ︑ 叫

︑ ︑

一 守

悟 惜

動 を

具 体

的 に

︑ ﹄

偽 札

官 ん

い 砂

わ か

ゆ か

表現し理解するはたらきとして亡れをとらえ ︑ ここに指導 の中心を置く時に

言語はその本質において ︑ 総合的にア 藁に具体的に

ありのままの姿として拒握されるのでない かと思ラのである︒

右のように考えてくると︑国語科において高めらるべき

国 語

学 力

は ︑

一 口にいえば︑ー生活に必要な国語の能力﹂ というととになるが︑その学習指導の目擦を ︑ もう一段下 がった所で具体的にいうならば︑言語活動における表現と

現解のはたらきを正しく指導する点にあるといっていいの

でないかと思うのである︒

なお ︑ この国語学習指導の目標を︑現在という時点に立

っ て

み る

時 に

二 三考慮して置︿ベき問題︑がある︒その 一 つは現在の社会における言語の状態であり ︑

い ま

一 つは現 在の国語教育にみられる傾向である ︒

ここ十数年の問 ︑ 国語教育においては︑生活言語を い う

点 で

︑ 音声言語門話しととば﹀に対して相当の関心がもた れてきたのであるが ︑ 一 言 語 の 基 礎 能 力 の 不 振 か ら ︑最近ぞ は文宇言語への関心が 一 段と高まりつつあるように思われ る ︒ このこと自身としては特別問題とすベきととでもない が ︑ もしそれと関連して音声言語の指導が軽視されるよう なことがあれば ︑ これは大いに侍童しなけ'ればならない問 題である

@ ζ

と数年来のラジオ・テレ

映同等の発達普 及は︑言語生活において音声言語の占める比重をますます 大ならしめる傾向にある︒とれまでもっぱら女字言語が独

占していた女化の伝達創造の面在 ︑ 音声言語が次第に浸蝕 し ︑ とれにとってかわろうとする勢いを示している︒今日

の時代は︑これまでの女字言語による活字文化時代から音

声言語による視聴覚的文化時代へと大きく移りつつある と いってもいいのではないであろうか ︒ (前者はその享受の 仕方が個人的で

'

かつ女字の教養を必要とした胡識的要素を 多分に含むものであるが ︑

後者はその享受が集団的であ

り ︑ 大衆的

庶民的性格が強い﹀わたしどもは今日︑一言語

生活においても︑歴史の大きな曲り角にさしかかっている

のではないかと思われるのである︒してみると ︑ 言語生活

に お

け る

苫 士

の話しととばと 語への関心は︑これまでの単なる日常会話 戸 言

い う

だけでな く ︑ も っ と広い意味にお い て 今日いく ら こ れ を高めても高めすぎるということはないの である︒現に子供たちが漫画本に読みふけ っ

て ︑

本 格

的 な

読書を し な い

と か

ラジオ ︑ ・

.

テ レ

スライド・映画から

の視聴覚的理解の方が読書による理解よりも受け入れやす いとか予文字 一 一 一 日語よりも音声言語にたよろうとするいろい

(8)

ろな問題が︑間布教育のヒでも起こっているのである︒

音声言一訪は女字言語に比べてその表現理解が︑その話の

場に支配されるこ

k

が強く︑女字言語におけるような客観

性に乏しく ︑ 主観にたよりがちである︒したがって ︑

断片

的であったり︑首尾のととのわない表現 ︑ 文法的にみてお

かしな表現がきわめて多いのである︒とれが日常会話にと

どまって ︑ 文字衣現が怖の正しい表現として一方に厳存し

ている時には ︑ 言語の正しきは保たれるのであるが ︑ 今日

は︑この口常会話的な︑いわばくずれた表現が︑マスメア

ィアによって言語生活の半ばを支配し ︑

文字による表現

も ︑ 討論や談話の暗記(それもテープレコーダーやタイプ

等の器械により ︑ 音声言語がかなり忠実にそのまま文字化

される﹀等 ︑ 音声言語そのままの女字化が多く ︑ 文字言語

としての特色が薄れて ︑

音声言語化しつつある状態であ る︒したがって今日子供たちを取り巻いている言語社会

は ︑

言 語

一 一

聞 が

そ の

格 の

正 し

さ を

失 い

︑ 乱れつつある ︑ あるい

は変化しつつあるのである︒したがって国語教育としては

との点に情意して ︑ 文字一言語と音声言語の特質念それぞれ

じゅうぶんに意識して︑

ζ

れを生かすとともに︑これらに

共通する言語としての本質をはっきりとらえ ︑ 言語におけ

る表現の正しさをもたらすよウな指導がなされなければな

らないと思う︒これが今日の国語教育としてはもっともた いせつな ︑ かっ緊急な問題ではないかと思うのである︒ ラ

つぎに今日の国語教育にみられる傾向であるが ︑ これは

前にもふれたように ︑ 指導要領が︑聞く ・ 話す

読む ・ 書く

の言語生活の四領域にわたって ︑ 豊かな言語経験を与えよ

うとし︑しかもこの四相が相倒的に︑総合的に展開するよ

うな学習指導法た指示しているために ︑ その中核になる言

語の基木的なものがじ?っぶん育てられず︑一方 間

口 ば

り広くなって︑その負担に堪えなくなるような結果そもた

らした︒そのため一時戚んに行なわれた話しことばの指埠

も ︑ その効果的な指導法や評価の困難さから中絶し︑作文

の学習も不振におわり ︑

読 解

︑ が

凶 .

語 学

習 の

巾 心

と な

っ て

それも次第に女意の分析的解釈に陥り ︑ 細密化して ︑ 読解

のための読解というような︑特殊な言語指導が行なわれて

いるように思われる︒そしてこの傾向は高校進学の受験指

導によって.段と助長せられてきたもののように思われる

のである︒このようにして理想的な言語生活の育成を目指

した括導要領の綿はおのずからくずれてしまったといわね

ばならない︒ロ常生活に必要な言語慌力の養成とは程遠い

国語教育が行なわれているのである︒

(9)

以 上のように ︑ 今日の社会における一言語の状態や ︑ 国語 教育の現状を考慮に置くと ︑ さきに述べた国語学習指導の 同根は ︑ さらにいくつかの意味を含めて指導されなければ ならないであろう︒すなわち ︑ それはいわゆる受験指導的 な 国 語指導から絶縁

し ︑

国語科の目標 を 真に達しうるよう な ︑ かたよらない ︑ しかも言語の本質に根ざした ︑ 特に表 現の止しさをもたらすような

︑統

一 的

能 率的 な指導がな されなければならないということになろう︒ ︒ 国語科の学習指導

右に地べた困語学習指導の目標を達成するために ︑ どの よ うな学 習 指導がなされなければないないか︒国語学習指

導における指導の要点はどういうところにあるのか ︑

こ れ

らの点について ︑ いささかその溜論的線拠を明らかにしつ つ説明し て ゆ き た い と 思 う ︒

言語における表現と理解

言語活動を 人聞 の意志の 通

じ 合

ことばの伝 達 という 面からみると ︑ それはことばを送る者と ︑ これを受け取る 者と ︑ 二符の聞に行なわれる︒このことばの送受は ︑ 音声 言語の場合には ︑ ほぽ同時に行なわれるが ︑文字 言語の場 合には ︑ いったん文字化して保存し ︑ ある時間をおいて後 から受け取られる︒しかしこの場合も ︑ 受け取る者は ︑ そ の女字を音声に還元して受け取るのであって ︑ いわばその 女字を読ちまでは受け阪る者にとってその伝達の送付はな かったも同然で ︑ その伝達の接受は︑その文字を読んだ時 に行なわれたと見なすことができる︒すなわちとの場合 ︑

読むはたらきは 聞 くはたらきに相当し ︑ 読みながら受け取 るのは ︑ その場而や条件の遭いはあるものの ︑ こと ばの内 容の送受という 点 から い えば ︑ 聞きながら受け取るのと同 様︑ほぽ同時的にそれが行なわれると解してさしっかえな

いであろう︒(文字言語におけることばの送 付 と受け取り との時間的なずれは︑音 声 言語を テ l プにとって後から聞 くのと同じことである︒)

こうして読むというはたらき宏通して文字言語は音声言 語に逝元されてゆくから ︑

︿ も

ち ろ

︑読

むには黙読と音 読があり ︑黙

読 は

音 声

一 言

語 に

還 元

し た

とはいえないが ︑ 意 識の 中ママ明

日 か

符 な

わ れ

て い

る わ

け で

︑ 要するに音 声 言語 と向じことばに還元される意味である︒)読み手が文章を理 解するしかたは ︑ 聞 き手 が 話を理解するし

か た

と ほぼ同じ

8‑

(10)

~司

ものがあるといってさしっかえないであろう︒もちろんこ の両者の間にはいくらかの違いが認められる︒音声一‑言語の

場合には︑話の場の支配が強く︑その理解のしかたも多分

に主観 的要素 を含むが ︑ 交字言語の場合には場による影響

が少なく ︑ その理解もより客観 的 で安定しているといえよ

円 ノ

以上のことは︑ことばを送る面︑すなわち話をしたり︑

文章を書いたりする表現のしかたについても ︑ 同級のこと

がいえるので ︑ これも音声言語と文字言語に付随するそれ

ぞれの特質はあるものの︑本質的にはほぼ等しいものであ

るといえようかと忠う︒つまりそれは一

n

に い

・ っ

と 自分 ︑

の忠っていることをことばに置きかえるはたらきで ︑ それ

をすぐ音声に出していうか︑いったん文{子に写し取るかの

違いに過ぎないのである︒もっともこの違いはかなり大き

なものがあり ︑ 文字 化

する際には思惟のは

ω

る余地が多

く ︑ 文章としてことばがよりよく整理される ︒ この点で表

現のはたらきは音声言語におけるよりも文字言語の方がよ

り整っているのが普通である︒しかしそれも程度の問題な

の で

あ る

言語活動をことばの送受という点からみるならば︑音声

言語と女字言語は右に見てきたように ︑両者 に共通するも

のが認められるのであって ︑ いわばそれは表現と理解のは たらきであるといっていいであろう ︒ 言語生活における四

相はおのずからこの二つのはたらきに包摂される︒すなわ

ち ︑ 話すとと ・ 書くことは表現の活動であり ︑聞 くこと ︑

読むことは理解の活動である︒(ただし ︑ 書くことの中に

は ︑ 必ずしも表現とはいえない単なる嘗写があり︑ ・ 読むこ

とにも ︑ むしろ表現と見なさるべき朗読があるが ︑前 者は

文字とことばの閣に生ずる関係で ︑ やや次元を異にする問

題であり ︑ 後者はむし引っ話すに含まるべき問題で ︑指 導要

領にも話すことの中に入れられているJ

このように表現と理解は︑音声言語 ・ 文字言語の両者に

共通し︑しかも言語の四相をそれぞれに二分するはたらき

であるといえる︒それではこの言語活動における表現と理

解とは ︑ 本質的にどのようなはたらきなのであろうか︒ま

たそれはおたがいにどのような関係に立つのであろうか︒

言語表現というものは ︑心に 思っていること︑すなわち

意識内容がさきにあって︑とれ・そことばにいい表わすので

ある︒ことばに表現する場

A q

この意識内容とことばの結

びつきは ︑反射的に行 なわれる場合もあるが ︑多くは思 っ

ていることをことばに整理する時聞があって ︑ ただその時 聞が日常の会話ではほとんど瞬間的で容秒に近いものと解

(11)

す る

J

N

か正しいであろう︒ただこれもその表現すべ きこと ‑

がらが乙み入ってくると ︑

ζ

れをことばに整理するために

ある程度時聞を要するのが普通である︒いま国語指導

上 ︑

国語に習熟するという点で特に問題になるのは ︑ 反射的に

でてくることばについてではなく ︑ あるまとまった考えを

どのようにととばに整理して表現するか ︑

ま た

そ 品

仰 を

ど の

ように理解してゆくか︑そういったかなりとみ入った内容

の表現理解におけるメカニズムである︒

ととばは心 に 思っている とと をあたかも写買が外界を写

し と

る よ

う に

一 瞬にしてすべてをそのまま写しとるもの ではない︒いま ︑ ﹁犬が歩いている し という表現を倒にと

ってみよう︒との話し手の月には︑その道路も背景の町並

も ︑ そとにあるゴミ箱も ︑ すベて同時に映っているに違い ない︒しかしとの表現に関する限り︑話し手の関心はそこ を歩いている一匹の犬なのである︒そしてこの犬という動 物が四足で移動している状況在﹁犬﹂と寸歩ぐ ﹂ という語

を中核として ︑

ζ

れに助詞 ・ 助動詞(補助動詞

U

を加えて言

い表わしたのである︒ここには犬の姿が浮き彫りにされ他

の一切は消えている︒このように言語による表現は︑ある ものを強調し︑同時に他のすべてを切り捨てるのである︒

しかも

ζ

のととばが長い話の中にあったとする主︑聞き手 はそとに具体的な犬の姿を思い罪かべる ︐ であろう︒話し手 ももちろん具体的な犬の状況を語っているのである︒しか もそれが﹁犬﹂とか っ 歩く ﹂

と か

︑ きわめて一般的な諸に

よって表わされている︒このような捨象された数個の語を 点慨するととによって ︑ それらの語のつづきのよに全体め

具体的な意味を伝えようとしているのである︒つまり断片

的な︑抽象的な ︑ 客観的な語を次々と一つづきの主自の流れ

の 中

に 連

い ね

る と

と に

よ っ

︑ そこに具体的な情景や意識を

表わし︑しかも表現者の述べようとするところを伝えよう

とするのが百語的な表現である︒理解者はこの断片的 ・ 抽

象的・客観的な語が ︑ つぎつぎとひとつづきの音として流

れるのを ︑ 語 ・ 句

J

女というふうに︑まとまった意味単位

として区切りつつ受けとめて︑そとに具体的な情景や︑そ

の意味する具体的事実を読みとり︑表現者の述べようとす

るととろを明確に 了 解する

u

これが言説的理解である︒

ζ

のととばそ通して︑具体的な情景や事実 ︑ を言い表わ し︑あるいはとれを心に思い浮かべる作用が ︑ 表現と理解

の根本であるように思われるが ︑ あるいはむしろ ︑ その根

底にあって言語表現というものを則能ならしめている先天 的能力であるかも知れない︒とにかくこの力は幼い時から

育ててゆかねば芯らず︑国語指導に当たっては常にこの根 底をつちかう乙とを忘れてはならないと思う ︒

さらにまた︑ことばの中に表現者の述べようとする 意 図

1

(12)

が正確に述べられているかどうか ︑ つまり表現者の意

11

表現されたことばの聞にずれが ないかどうかという問題

は︑衣現理解が正しく行なわれるかどうかの章一要なカギに

なる︒右の例についていうと ︑ その歩いて

い る

犬は︑白犬

か 亦 犬 か 閉 品 川 火 で あ っ た に 迎 い な い ︒ あ る い は そ れ は

J L

7lF

か︑スピッツか︑獄図犬か ︑ 具体的な犬の種類もわ

かっていたかもしれない

c

しかしそれをいわないで︑単に

﹁犬が﹂といっているのは ︑ 話し手はそこに歩いげいいるの がよであることを述べているのである︒それが猫でもな

く ︑ 子供でもなく ︑ 犬であることを述べたのである︒もし

これを﹁赤

卜 八

が ﹂

と い

ったならば ︑ 話し手の関心はその毛

色にあったといえよう︒このようにことばによる表現は ︑

写真のよう に あるがままに写しとるものでなく ︑ 常にそこ

に表現者によって選択が行なわれ︑︺そのことによって表現 者の判断や恵志や感情が表わされるのである︒したがって

聞き手は ︑ その表現在通して常に話し手の述べようとする

芯図を理解してゆかねばならない︒ところが宗際には︑話

し手も ︑ そ

れ が

単に﹁犬﹂であることを 述 べたいにかかわ

らず ︑

﹁ 赤

犬 が

L

といったり︑その毛色を述べたいにかか

わらず︑市町仙川ゆたいな犬が﹂といったりする︒こうしたこ

とが表現を不明確なものにしている場令がきわめて多いの

である︒とのことは理解の側にあっても︑そこに表現され ている表現者の意図を正確に受けとらないで︑そのことば 以外のものをつけ加えて受けとったり ︑ そのことばの意味

する中から勝手に落として受けとったりして︑表現者の意 図とは異なった理解のしかたをする︒こうした問題は文法

(広い意味の﹀以前の問姐で国語指導では見落とされがち

なものであるが ︑ 実は語いの選択から語の並べ方︑さらに

文 の 桝成にも及ぶ︑話や女本金膏にわたゐ刊題で︑表現や

理解の杭も重要な問題であると忠われる

c

会話や作文や読

解の指導の際に ︑ こ の点をじゅうぶん指導することがたい

せ っ

か と

削 心

︑ っ

︒ 表 現 理

活 動

話し手もしくは書 き 手が思っていることをことばで述べ

る時には ︑ 乙れに必要と思われる 数個の語いを選び︑それ

を続けて一つの文にまとめるわけであるが ︑ この語の続け

μ

が次に問題である ︒こ れは言語 の 積類によ っ て異なるも

ので︑日本語は日本語の文法に従わねばならない︒したが

ってこの女法を 早く身につけることが言語表現に熟達する

基本である︒この文法は社会的慣習として 一 応身について

いるものではあるが ︑ 複雑な内容を述べようとする時にな

(13)

ると︑その駆使がじゅうぶんできなくなる ︒ 主語

修飾語 ・ 述語というような語と 一 語のつながり具合︑特にそれが文末

の述語に至ってすべてが集束される国語の特色は︑じ ? っ

ぷんに指導されなければならないと思う ︒ 女末に至って始 めてその文(センテンス)の意味がまとまるのである︒と

の語と語のつながりという点で ︑ 活

w m

語尾や助詞

・ 助動詞 は文法において持に重要な意味をもっていると思われる︒

話し手もしくは書き手は︑右に述べたように文法に従っ

て一つの文を構成する︒一つの文を終える ・

と 次 の 文 て さ

らにまた次の文へと表現を進めてゆく ︒ それは時間の流れ

に泊って進んでゆく︒こうして長い話なり文章なりは ︑

ζ

とばとしては時間の流れに乗って次々と進んでゆくのでは あるが︑とれを表現理解の心理的なはたらきの聞から見る

と︑その進行は︑実はただ時間の流れのままに 一 本調子に

継続してゆくのではなく︑時間の流れに逆行するはたらき 佐内包しつつ︑いわば簡を作りつつ進%でゆくもののよう

に思われる ︒ すなわち冒頭の語から一語一語その関係を下 へ続けながら こ とばは時間の流れに治うてゆくが︑文末の

述語に至 っ てその目頭から文末までがふりかえられ(すな

わち意識は時間の流れから離れる﹀それが一つのまとまっ

た意味内容として集約され︑心の中に置かれる ︒ 乙とばの 流れはとこで時間的にちょっと休止し︑また次の文へと進

む の

で あ

る ︒

この第二の文(センテンス)は第 一 文と同様︑新たに心

に浮かんできた想をことばに整理して表現するわけである

が ︑ 少しく説明をつけ加えなければならな い ︒心にうつり

ゆくことがらをただ次々とととばに 写 しとるというような

形で︑第二文︑第三支が続けられてゆくのではないのであ

る︒第 一 文が文末で集束され 一 つの意味内容として心の中

に置かれると ︑ その上に立 っ て︑つまり第一文の発展と し

て第二女が述べられるのであって︑そ こ に話もしくは文章

自身の発展がみられるのである ︒ わたしどもが話をした

り︑文ま‑訟 聞 いたりしていると ︑ 話をしてゆくにつれ︑ぁ ︑ ト

るいは書いてゆくにつれ︑次第に想が展開してゆく

ζ

と は 一

(そして時には始め考えていたこととはまるで違 っ た方向

に進むこ之さえある)だれしも経験するととろであろう︒ とれは︑心に思 っ ている と

と を

一 つの文 に 表現すると︑前 にも述べたように ︑ それは単なるばく然とした意識内容そ

のままの言語的置きかえではなく︑そ

と に

強調や切捨てが

行なわれるので︑そのばく然とした意識は︑次第に整理さ

れて︑意志なり感情なり判断なりとして明哲純粋なものに

なり ︑ 決定づけられる の そしてそれがそれからさきのおも

うとと自身を限定し ︑ 想の展開を方向づけてしまうからで

あ る

こ の文の表現による想の方向づけというととは ︑ 話

(14)

ウ烹司

の展開や文章の流れを決定してゆく重要な契機である︒だ

からわたしどもが話や文章をある程度聞いたり読んだりす

ると︑その話の展闘 や文章の 流れに自分を のせることがで

きるようにな り ︑ 話し手や書き手のいうところがきわめて

容易に理解できるようになるのである︒それは ︑ 表現有の

想の 発展が話や文章の展開に制 約 され支配されて ︑ そこに

話自身としての展胸︑女意自身としての展開が行なわれて

ゆ く か ら で あ る ︒

右に述べたごとく ︑ 話し手なり書き手なりが一つの文と

し て

表 現 した時には ︑ それは一つの言語表現としていまま

で単なる意識内容であ

っ た

も の

が客 観的な 存私 となり ︑ 表

現者自身 にとっても ︑ それが客 観的 言語表現として理解の

対 象となるのであって ︑ これを表現者自身理解し確かめる

ことによって ︑ そこに次の文への基縫が置かれるわけなの

である ︒つまり 表 現有自身が自らの文に対して このよ うな

理解活動 そ行な

い つ

次の支の

表 現

と進むので ある

︒ 一

方これを理解してゆく聞き手 ・ 読み手の側にすって考える

と ︑ とれも ︑ 話を聞き文章を読むその時点において ︑ その

文の意味を解しつつ︑これを集約して心の中へ送り込むと

い う

︑ 表現者と全く同じ仕事が行なわれているのである︒

1

そしてこのことによって︑聞き手 ・ 読み手にも

︑話

し 手

裂き手が次に述︒へょうとするそのさきがある程度予怨され てくるのである︒こうした次の文への受け入れ態勢がある

程度整

っ て

き て

い る

ら ︑ 話し 手 ( 書き 手) の

ζ

とばが発

V

目 さ

れ る

と ほ

と ん

ど同 時に ︑すぐそ のあとにつきながらこ

れを理解してゆくことができるの中たろうと思われる︒すな

わち話を聞きながら︑あるいは文章を読みながら︑その意

味がわ かるのだろうと思われる︒このように見てくると ︑

ことばを送る 者 と ︑ ととばを受 けとる者

と は

ζ

と ばの接

受という一点を 中心 として共通の場をもち ︑ ほとんど同じ

言語活動をなしつつ ︑ 話もしくは文章とともに進んでゆく

と い え る の で あ る ︒

しかしながら ︑さ らに詳しく考察するならば ︑いま 時間

の流れを切断して ︑ ある時点における表現者と理 解者 の言

語活動を考察すると︑前者は意識内容(事実)をことばに

置きかえるはたらきをなしつつあり ︑ 後者はことばを事笑

に還元しつつあり ︑ 全く逆の方

向 へ

分裂してい る ようにみ

られる︒しかしながら言語活動の実際の場に即して ︑ 言語

表現と

ω

う時 間の流 れの上にお い て

ζ

れ佐観察すれば ︑ こ

の表現と理解の二つのはたらきは ︑ 永遠に背を 向け

て 逆

点向へ向かうのでなく︑通のぶ向を内包しながら一つの統

一 した言 語活

動 を

志 向

し ︑

ことば の接受 という 時点

に お

(15)

て共通の心理的場の

拡がりを形づくりつつ︑一詰︿文章﹀と ともに時間的流れに沿うてその活動国を移動させてゆくも のとみられるのである︒それゆえ︑

!

このような言語活動の

実擦に即した動的な立場に立ってみるならば︑表現活動と

理解活動とは全然異なった別々のものではなく︑ともに分 裂しつつ統一し融合してゆとうとする︑ある

'

生き生きとし た一つの表現理解活動ともいうべきものであろうと思うの である ︒

以上見てきたような表現理解活動を伴 ド ながら︑話もし

くほ文章は時間の流れにしたがって進行してゆく︒それは

ひとつづきのことばとして︑その係りをたどりつつ︑文末 にきてひとまとまりに集約され︑それが心の巾に置かれそ

の上に次の交が始まる︒これも文末にき

てひとまとまりの 意味を構成し︑心の中に積み重ねられ︑その確かめの上に さらに次の女が進められてゆく︒と う して一つのまとまっ た段落が成立し︑とれがまた 一 つの意味として把握され確 かめられて︑次の段落へうつるのである︒

との点︑宮今少しく詳しくみると︑それは次のように考え られる︒すなわち ︑ 一つの支が一つのまとまるた意味 単位 として把握されると︑それはいつでも次の意味単位と結び つ

ζ

うと心の中に身構必待機するのである︒そこへ次の意

味単位が送りこまれあと︑それとの関係を規定しつつ直ぐ

これと結びつき ︑ 新しい意味を構成する ︒ こうしていくつ

かの文はまとまって段落に成長し︑段落がいくつか結びつ

いてさらに大きな文章︿もしくは一つの話﹀に成長す

d

る の

である︒しかしこうしたことは文や段落の関係のみなら ず︑実は文よりももっと小さな単位にも共通して見られる

もので ︑ 冒頭の単語から句 ・ 文 ・ 段落・文章と進んでゆく

ことばの過穂全体に見られる性質なのである︒つまり ︑ こ

れらの次元を異にするそれぞれの意味単位は ︑大きなもの

が小さなものを包摂

L

つつ︑常に一つのまとまった意味を

形成してゆくのである︒いいかえれば︑ことばにおける個

々の意味単位は︑常にその中に自らを位置づけつつ︑より

大きな意味単位の巾に解消してゆくのである︒かくのごと くであるから︑話なり文章なりの進行は冒頭の単語から始

まって︑いくつかの単語がまどまって一つの文となり ︑ さら に第二文

︑ 第

三 文

之 ︑

っ .

き つ

ぎ に

志 と

ま っ

た 意

を構成し てゆくが︑それらがただつぎ勺ぎに心の中区積み重ねられ

てゆくのではなく︑いろいろな関係で結びつきつつ︑常に 一 つのまとまった意味として成長してゆくのである︒との

ようにして︑いつも述べられたととろまでがひとつづき . の まとまった意味として把握され︑その内怖かめの上に︑その

.14

(16)

マ ち 写 」

t'.4

さきの話や文章は続けられるのである︒

ま た

ζ

のことばの進行の過程において ︑ 個々のことば

は ︑ いったん意味として吸収されると ︑ ことばの 他 の分節

耐(音声や文字﹀は 一 切消え失せてしまうもののようであ る︒そしてそのとどま った意

味も︑さきに見てきたごと く

より大きな意味単位を形成しつつ︑それまで述べられ たところが一つの要約された惹味としてとどまるので ︑ 個 々のことばや個々の意味単位は ︑ その音声面や支字 而

と と

もに吋て

b

記憶の底に沈んでしまうように思われる︒たゆた

し ︑ それらは ︑ 呼ばれればいつでも記憶の表面に取り出せ

る状態にあるといえよう︒

このように︑話の進行にみられる表現理解活動の過程の

に は

吋 個々の意味単位をまとめてゆくはたらきや

さら

'

にこれを大きな意味単位にまとめてゆくはたらきや ︑ それ

ぬ恨のまとまりをひとつの意味として要約し 把 握するはたら

きや︑ととばの記憶を再生させるはたらきなどが常にくり

返し行なわれているととに気づくのである︒話や文章が長

くなる時には

その中間にそれまでのととろをまとめたこ とばを入れたり

あるいは前に使ったととばをくり返して 記憶を 喚起 したり

もしくは指示語によって前女を想起さ

せるというような 方 法を用いて︑それまで述べてきたとと

ろを確かめつつその話(文章﹀を進めるのは ︑ 右に 述

ベ て

‑ 15

きたような表現理解活 動 の原理をたくみに 別 用した修

一昨法

だといえるであろう︒

ζ

のようにして話あるいは文章は︑最後の文の文末に至

っ て

︑ 第一女の官頭から最終の文の文末までが一つのまと

まった意味内容として抱擁されるのである︒表現者はここ

でその表現活動を終熔し ︑ 理解者はこれと同時に全文の意

味を了解し︑その理解活動を終結するのである︒

治に見てきたどとく︑話なり文章なりは ︑ 時間の流れに

7

て冒頭から末尾までひとつづきの ことばと じてひとす

じに流れ下るものである︒しかしこれ党表現盟解活動とし

てとらえるならば︑それは単にひとすじの滑らかな進行を

一ぷすものではない︒それ自身進んではもどり︑もどっては

進み ︑ いくたびか途中自ら宏確かめつつ︑末尾における全

体的な意味の完成を目指 し て ︑ 常に模索しつつ成長を統け てゆくものなのである︒表現理解活動は ︑

こ の

話なり文革

なりに 即 しつつ行なわれる︑複雑な揺れの大きい心理活動

であると考えられる︒

読 解 に

L

‑ u

(17)

以上述べてきたととろは ︑ ととばというものを ︑ 話した り聞いたり︑書いたり読んだり ︑ 言語活動として実際に行

なわれつつある姿においてこれをとらえ ︑ そこにみられる

表現理解の様相そ考察したのであるが︑とのような立場に

立ってみた時︑今口国語指導の中心をなしている読解指導 に対して︑いくらか批判的な見解が生まれざるをえないの

で あ

る ︒

今日読解として行なわれている指導をみると ︑ 多くは文

章を表現の過程においてみないで ︑ 表現され ︑ そ

ζ

に固定

化したものとして︑これを静的な立場で観察し︑分析的な

考察を施すというような行合方が多いようである︒たしか

にこれは ︑ 文字言語というものからくる当然の性格であろ

う︒あるいはむしろ ︑ 文字言語というものがこのような液

り扱いを要請しているともいえるかもしれない︒しかしな

がら文章表現のこのような取り扱いが ︑

果 た

し て

・ 件

前 に

要な生きた言語指導になっているであろうか︒

さきにも見てきたように ︑ ととばというものは ︑ 本来時

間的に︑つぎつぎと生まれ︑つぎつぎと消え去ってゆくも のである︒その瞬間々々にこれを理解しつつ︑その話(文

章﹀の終末と同時にその金一体が了得されるべきものなので

ある︒文字言語による表現は後からくり返して読む便宜は あるものの ︑

ζ

れも本来

一 回

の読みにおいて了得されらベ きものであろ

Z

実際生活において︑新聞でも小説でも一

聞の読みで終るのが普通である︒現代の社会生活に必要な

読みというものは︑このような読みである︒乙の点でその

言語活動は話しことばも書きことばも︑その本質において

はかわりないと思うのである︒文字言語の場合に︑ぞれが

意味不明の時には二度三度と読み返すのは普通のととであ

る︒しかしこれも︑話しことばで︑わからない時に何回も

聞き返したり︑表現をかえて言いなおしたりするのと同じ

ことである︒こ乙で一回の読みというのは︑ことばの理解

は読んだ後からふり返って行なわれるべきものでなく︑読

みつつその理解を 遂 げるべきものだという意である

e

こ の

意味で ︑ 国語の読解も ︑ このような一回の読みで理解を完

了する︑そのような読みの指導がなされる

こ と が

︑ 一

言 語

導としてたいせつなのでないかと思うのである︒ 文字に表現された文章を︑表現されたものとして︑静的

に考察する立場は︑いわば文章を記録されたもの︑もしく

は一つの文化遺産と見なし︑これを一つの資料としてそこ

になにものかを読み取ろうとするものであって︑(その対

象は︑文学であるとともあり︑歴史であることもあり︑倫 理道徳であることもあり︑自然科学であることもある)い

わば文献による解釈を学び取ろうとするものである︒文字 言語による文章というものには ︑ 言語というものの本質か

16

(18)

ちい守て ︑ こうした商はきわめて広い領域をもつものであ

って︑むしろ ︑ 人類の文 化 はとのよ玉な文字表現を通して

受け継がれてきたのであり ︑ とれを読みとる

ζ

とによって

教育がなされてゆくといっていい︒したがってこの読みと

りができるかできないかは教育にとって本質的な問題なの

で あ

る ︒

しかしながらこうした文献や記録の読みは︑やはり第一

段階としては︑さきに述べた理解活動により ︑ 前述の一回 の読みにおいて ︑ .応その内容を理解了得すべきである︒

そしてそのよに何を読み取るかは ︑ それぞれその内容によ

って専門的な読み取り方があるわけであって︑数学の文章

には数学的な読み取りがあり︑理科には理科的な読み取り

が あ

る ︒

ζ

れはそれぞれの教科において取り扱われるべき

ものであろう︒したがって国語科で取り扱うこれらの読み

取りの基礎になる読みとしてはさきに述べたように言語と しての理解と

い う

範囲にとどまってよいものと考之るので

ある︒こうして国語科で扱うべき国語科独自の専門的読み

取りとして残るものは文学的な読み取りである︒

との文学的読み取りを国語科でどケ取り扱うかは重要な 問題であるが ︑ 文学的文章の読みは︑何よりもさきに述べ

一 た

一 一回の読み可了得されるよう私︑文章 表現の 流れに乗 っ

た読みがなされなければならない︒それは文末に至って全

体の意味内容の把握を完結するのみならず︑文章表現の流

れに乗ることによって表現者の文学的感動を直接体感する ととができ ︑ 創作活動の追 体 験の基礎を獲得する

こ と

できるからである︒とのような意味でも︑さきに述べたよ

うな読みの活動は︑文学的文章の読みとして最もたいせつ

であり︑義務教育段階の文学的な読みとしては ︑ ここでと どめても ︑ ほぼその目的を達したものといってさしっかえ

ないのでないかと思う︒

読解においては一般にその文章の主題を読み取るという と とが重要な︑最終的 な目標であると見なされているよう であるが ︑主 題とは何かという問題はなかなかむずかしい

問題である︒なにか表現された文章以外に客観的な作者の

意図というようなものがあるように考えるのはどうであろ

うか︒さきに述ペた表現理解活動の説明でもわかるよう

に︑文章表現にそのような作者の意図&も称すべきものが

もしあるとするならば ︑ それは当然文章表現として出てき

ているわけで︑客観的には文章表現以外には何もないので

ある︒したがって ︑ 文末に至って冒頭から広末までの意味 内容を把握した時 ︑ その意図なるものは了得されているわ

けである︒したがって ︑ 文末に室って読者が理解した全文

参照

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