論
近 文
世 日 本 宗 教 史 に お け る 儒 教 の 位 置
︱ ︱ 人 霊 祭 祀 に 焦 点 を 当 て て ︱
︱
井 上 智 勝
緒 言 本稿 は︑ 近世 日本 宗教 史上 への 儒教 の位 置づ けを 試み るも ので ある
︒ 日本 にお いて 儒教 は︑
﹁三 教一 致﹂ 論な ど︑ 仏教
・﹁ 神 道﹂
︵神 祇信 仰︶ と鼎 足を 成す
﹁教
﹂と して 理解 され て いる
︒し かし
︑日 本に おい て儒 教が 仏教
・﹁ 神道
﹂と 同 列に 宗教 とし て処 遇さ れる こと は︑ ほと んど ない
︒そ れ は日 本に おい て儒 教が
︑仏 教や
﹁神 道﹂ と異 なり
︑宗 教 を構 成す る祭 祀や 呪術 的な 要素
︑換 言す れば 超自 然的 な 存在 との 交感 の側 面︵ 以下
﹁宗 教= 祭祀
・呪 術﹂ とす る︶ を欠 くと 見な され てい るこ とに 起因 しよ う︒ 儒教 が
仏教
・﹁ 神道
﹂と 並列 させ られ るの は︑ 宗教 の別 の側 面︑ すな わち 人間 の行 動規 範と して の側 面︵ 以下
﹁宗 教= 道 徳﹂ とす る︶ にお いて であ る︒ 日本 にお いて
︑儒 教が
﹁儒 学﹂ と呼 ばれ る所 以で ある
︒ 宗教 に具 有さ れる この 二つ の面 は︑ それ ぞれ 別の 関心 から 研究 され てき た︒ すな わち
﹁宗 教= 祭祀
・呪 術﹂ の 側面 は宗 教史 研究 で︑
﹁宗 教= 道徳
﹂の 側面 は思 想史 研 究で 多く 扱わ れて きた
︒し たが って
︑こ れま での 日本 に おけ る儒 教研 究は 思想 史研 究の 領域 であ り︑ 日本 宗教 史 研究 は儒 教を 欠い て専 ら仏 教と
﹁神 道﹂ を双 柱と して 展 開さ れて きた
︒近 世に はこ こに キリ スト 教が 参入 する が︑
それ は早 々に 為政 者か ら﹁ 異端
﹂と して 排斥 の対 象と さ れた ため
︑や はり 日本 宗教 史研 究の 議論 の中 心は 仏教 と
﹁神 道﹂ であ った1
︒ 確か に︑ 日本 にお いて 儒教 は︑ 宗教 とし て十 全に 展開 する こと はな かっ た︒ だが 儒教
︑特 に朱 子学 を積 極的 に 導入 した 近世 の日 本で は︑ その 影響 を無 視し て宗 教構 造 を語 るこ とは 妥当 では ない
︒筆 者は これ まで 断片 的に そ う考 え得 る事 例を 報告 して きた2 が︑ 本稿 では それ らを 集 成す ると とも に︑ 従来 指摘 され なが ら宗 教史 の課 題と し て取 り上 げら れる こと の少 なか った 事例 を踏 まえ て︑ 儒 教を 日本 の宗 教構 造を 考え るた めの 要素 に昇 華さ せる こ とを 試み る︒ その ため の素 材と して
︑人 霊祭 祀を 取り 上げ る︒ それ は︑ 儒教 と仏 教・
﹁神 道﹂ の交 点を 観察 する 上で
︑至 適 の素 材で ある から であ る︒ 既に
︑日 本に おけ る仏 教式 の 祖霊 祭祀 が︑ 実は 儒教 の影 響を 受け たも ので ある こと は 指摘 され て久 しい3
︒し かし
︑か かる 論点 が︑ その 後深 め られ るこ とは なか った
︒ま た︑ 人霊 祭祀
︑特 に人 神信 仰 は︑ 仏教 と﹁ 神道
﹂の 狭間 で議 論さ れて きた が︑ そこ に 儒教 祭祀 の影 響を 指摘 する 研究 もあ る4
︒に もか かわ らず
︑
日本 の人 霊祭 祀は
︑未 だに 仏教 か﹁ 神道
﹂か とい う二 元 的な 構図 の中 で把 握さ れて いる5
︒ また
︑歴 史学 の立 場か ら祖 先祭 祀と 人神 研究 の狭 間を 扱っ た研 究と して
︑藩 祖の 神格 化に 対す る検 討が ある6
︒ ただ それ らは
︑仏 式の
﹁ホ トケ
﹂か ら神 道式 の﹁ カミ
﹂ へと いう 議論 の延 長上 にあ り︑ この 理解 を脱 却し うる 素 材を 内包 しな がら も︑ 結局 その 枠の 内部 に止 まっ てし まっ てい る︒ 本稿 では
︑仏 教・
﹁神 道﹂ を双 核と して 展 開し てき た人 霊祭 祀研 究を
︑儒 教と いう 視点 を交 えて 再 検討 する こと で︑ かか る理 解か らの 脱却 をも 意図 して い る︒ なお
︑人 霊祭 祀は
︑祖 霊・ 祖先 祭祀 と人 神祭 祀に 大別 でき る︒ この 両者 の境 界に つい ては
︑祭 祀や 崇拝 が子 孫︑ 特に その 正嫡 に限 定さ れて 行わ れる か否 かと いう 点に そ れを みる 見解7 に︑ さし あた り従 って おく
︒ま た︑ 人霊 祭 祀と 言っ た場 合︑ 生き 霊・ 生き 神に 対す る畏 怖や 慰霊 も 包含 すべ きか もし れな いが
︑本 稿で はこ れら は対 象の 外 に置 き︑ 死霊 に限 定し た検 討を 行う
︒
一 日本 近世 の宗 教構 造
︵一
︶近 世ま で︱ 仏教 の隆 盛と 宗教 界の 席巻
︱ 本稿 は︑ 日本 の宗 教構 造を 考え るに 当た って
︑儒 教が 無視 し得 ない 位置 を占 めて いた とい う立 場を 採る
︒だ が︑ 日本 にお いて 儒教 が単 独で 宗教 とし て機 能す る場 面が 多 くは なか った こと も︑ 厳然 とし た事 実で ある
︒日 本宗 教 史が
︑儒 教を 視野 の外 に置 いて 論じ られ てき たこ とも
︑ ゆえ なし とし ない
︒ま ずは
︑儒 教を 主軸 に日 本の 宗教 史 を概 観し
︑近 世時 点で の日 本の 宗教 構造 を大 まか に把 握 して おき たい
︒ 近世 日本 の儒 教の 在り 方は
︑古 代に おけ る律 令制 導入 時︑ 儒教 祭祀 を採 用す るこ とな く︑ 神祇 信仰 を主 軸に 国 家祭 祀を 構想 した こと
︑仏 教の 存在 感が 儒教 に比 べて 圧 倒的 であ った こと など に規 定を 受け てい る︒ 遅く とも 六世 紀に は日 本に 伝来 した と考 えら れて いる 儒教 は︑ 法規 範の 脊梁 とな る道 徳論 の位 置を 占め るこ と はあ って も︑
﹁宗 教= 祭祀
・呪 術﹂ とし て展 開す るこ と はな かっ た︒
﹁宗 教= 祭祀
・呪 術﹂ の領 域は
︑は じめ 在 来信 仰に よっ て担 保さ れて いた と考 えら れる が︑ 六世 紀 中頃 に伝 来し た仏 教の 定着 と展 開︑ 特に 密教 の登 場に 伴
い︑ それ に包 含さ れる こと とな った
︒古 代か ら中 世に お ける 日本 の宗 教界 は仏 教に よっ て覆 い尽 くさ れた とい っ てよ い︒ 古代 にお ける 仏教 の隆 盛は 東ア ジア に共 通す るが
︑重 要な のは 以下 の点 であ る︒ 大陸 諸国 にお いて は︑ 中華 に おけ る元 から 明︑ 韓半 島に おけ る高 麗か ら朝 鮮︑ 越南 に おけ る陳 朝か ら後 黎朝 とい う日 本中 世後 期に 相当 する 時 期の 王朝 交代 に伴 って
︑仏 教か ら儒 教︵ 朱子 学︶ へと 宗 教イ デオ ロギ ーが 変更 され た︒ だが
︑日 本に おい ては そ のよ うな 展開 はみ られ なか った
︒建 武新 政に おい て後 醍 醐天 皇が 朱子 学を 重要 視し たこ とは
︑大 陸諸 国と 同時 期 に︑ 日本 にも 宗教 イデ オロ ギー 転換 の胎 動が あっ た証 左 とみ るこ とも でき るが
︑結 局達 成さ れな かっ た︒ 古代 律令 制下 の大 学・ 国学 にお いて 釈奠 が採 用さ れた こと が︑ 数少 ない 儒教 祭祀 の公 式な 受容 であ った
︒だ が 総じ て︑ 神祇 信仰 によ る国 家祭 祀の 編成 と︑ 仏教 の圧 倒 的な 存在 感の 前に
︑儒 教は
﹁宗 教= 祭祀
・呪 術﹂ とし て 展開 する 余地 を与 えら れな かっ た︒ ただ
︑釈 奠は 中世 に おい ても 足利 学校 など にお いて 執行 され
︑近 世に は湯 島 聖堂 をは じめ
︑各 藩の 藩校
︑諸 侯が 設け た聖 廟な どで 催
行さ れた8
︒
︵二
︶近 世︱ 仏教 の凋 落と
﹁神 道﹂ の自 立︱ 中世 まで の日 本の 宗教 界を 覆い 尽く し︑ 政治 にも 大き な影 響力 を保 持し た仏 教勢 力は
︑近 世社 会を 切り 拓い た 武家 によ って 樹立 され た統 一政 権の 足下 に屈 した
︒王 法 仏法 相依 の政 治構 造は
︑仏 法が 王法 に屈 する 形で 崩れ 去っ た︒ この 過程 で﹁ 神道
﹂が
︑結 集軸 を欠 いた まま 仏 教か ら自 立し てく る︒ 近世 にお いて
﹁神 道﹂ は︑ 神祇 信 仰を 基軸 に︑ それ に関 連す るも の全 てを 包括 しう る︑ 宗 教の 補集 合の ごと き様 相を 呈す るこ とに なる
︒神 祇信 仰 を奉 じる 神道 家は もと より
︑仏 僧︑ 儒学 者︑ 陰陽 師︑ 果 ては 縁起 物の 札を 配る 芸能 者ま でが
﹁神 道﹂ を媒 介に 一 括し うる
︑そ れが 近世 の﹁ 神道
﹂の 実態 であ った
︒ 一方
︑近 世の 儒教 に目 を遣 れば
︑江 戸幕 府は 明・ 朝鮮 との 関係 修復 や︑ 明清 交代 とい う国 際情 勢の 激変 に即 応 して
︑儒 教︑ 就中 朱子 学の 振興 を図 って いる
︒江 戸幕 府 によ る儒 教の 積極 的導 入は
︑日 本に おい ても 儒教 の﹁ 宗 教= 祭祀
・呪 術﹂ の側 面を 覚醒 させ た︒ 徳川 家康 の九 男 で初 代尾 張名 古屋 藩主 であ る徳 川義 直を はじ め︑ 諸侯 や
儒学 者の 中に 儒式 葬祭 を望 む者 が現 れて くる ので ある
︒ 諸侯 とし ては
︑ほ かに 常陸 水戸 藩主 徳川 光圀
︑備 前岡 山 藩主 池田 光政 らが
︑儒 学者 とし ては 中江 藤樹 が著 名で あ る︒ 仏教 が後 退し た間 隙に
︑儒 教が 割っ て入 る余 地が 開 かれ たか にみ えた
︒ しか し︑ 南北 朝期 に続 き︑ 日本 はま たも や仏 教か ら朱 子学 への 宗教 イデ オロ ギー 転換 の機 会を 流産 させ るこ と にな る︒ 江戸 幕府 は︑ 中世 社会 の終 焉と とも に姿 を現 し たキ リス ト教 を排 斥す るた めに
︑日 本の 宗教 界に 比類 な き力 を有 した 仏教 勢力 を恃 まね ばな らな かっ た︒ キリ ス ト教 対策 とし て開 始さ れた 宗門 改制 度・ 寺請 制度 によ っ て︑ 公権 力は 諸人 の祖 先祭 祀は 仏教 式た るこ とを 強制 す る︒ 中世 が近 世に 脱皮 する 過程 で武 家勢 力と 厳し く対 峙 し︑ これ に屈 した 仏教 は︑ 皮肉 にも 武家 勢力 によ って 存 在と 安定 を約 束さ れる に至 った
︒ 仏教 を基 軸に キリ スト 教の 防禦 を試 みる 江戸 幕府 は︑ たと えそ れが 創業 者の 子で あっ ても
︑い や創 業者 の子 で ある から こそ
︑領 民の 模範 とな るべ き諸 侯の 儒教 葬祭 を 全面 的に 認め るこ とを しな かっ た︒ 徳川 義直 とそ れに 殉 じた 重臣 の墓 所は
︑明 末清 初期 に明 から 渡来 した 陳元 贇
の設 計を 伝え る儒 教式 の墓 所で ある
︒し かし
︑こ れを 管 理し
︑彼 らの 菩提 を弔 うの は臨 済宗 定光 寺で あり
︑そ こ に奉 仕す る僧 侶で あっ た︒ この よう に近 世日 本に おい ては
︑儒 教の
﹁宗 教= 祭 祀・ 呪術
﹂の 側面 は︑ 仏教
︑殊 に禅 僧が 実質 を担 うこ と があ った
︒釈 奠を 行う 足利 学校 が︑ 臨済 宗の 宗門 組織 の 一環 を成 し︑ 僧侶 によ って 運営 され てい るこ とも 想起 さ れて よい
︒仏 教と 儒教 は﹁ 宗教
=祭 祀・ 呪術
﹂の 側面 に おい て親 和性 を有 して いた ので ある
︒ 近世 には
︑儒 学者 らに よっ て儒 葬の 受容 と実 践の 試み がな され るこ とは あっ たが
︑そ れら は概 ね彼 らの 研究 と 実験 の枠 組み の中 に止 まっ た︒ また 儒家 神道 と呼 ばれ る
﹁神 道﹂ も認 知さ れる
︒だ がそ れは
︑儒 教の 世界 観や 論 理を その 理論 構築 の脊 梁と する もの であ って も︑
﹁宗 教
=祭 祀・ 呪術
﹂と して の展 開は 希薄 であ る︒ した がっ て 儒教 は︑ これ が最 も高 揚し た近 世に おい ても
︑専 ら道 徳 論︵
﹁宗 教= 道徳
﹂︶ とし て展 開し
︑﹁ 宗教
=祭 祀・ 呪 術﹂ とし て展 開す るこ とは
︑ほ とん どな かっ た︒ 人間 の 認知 の及 ばな い超 自然 的な 世界 との 回路 は儒 教に はほ と んど 認め られ ず︑ かか る世 界と の交 感は
︑も っぱ ら仏 教
に︑ さも なく ば﹁ 神道
﹂に 委ね られ た︒ 結局
︑南 北朝 期︑ さら には 仏教 勢力 を跪 かせ た近 世成 立期 とい う政 権交 代期 です らも
︑仏 教を 排除 し得 なか っ た日 本に おい ては
︑大 陸諸 国が 仏教 に代 えて 採用 した 朱 子学 を宗 教イ デオ ロギ ーの 中心 に置 くこ とを なし 得ず
︑ 相変 わら ず仏 教を その 中心 に置 く体 制が 継続 され た︒ そ れは
︑近 世・ 近代 にお ける 東ア ジア の大 陸諸 国に 対す る 日本 の個 性を
︑宗 教的 な場 面に 限ら ず︑ 培う 土壌 とな っ た︒ この よう に儒 教は
︑﹁ 三教
﹂の 一角 を成 しな がら
︑﹁ 宗 教= 祭祀
・呪 術﹂ の側 面に おい ては
︑仏 教と
︑そ の掣 肘 から 解き 放た れた
﹁神 道﹂ に︑ 遠く 及ば ない 位置 にあ っ た︒ にも かか わら ず︑ 本稿 では 近世 日本 にお ける その 宗 教構 造上 の位 置を 重く 見る
︒以 下︑ いく つか の事 例を 参 観し なが ら︑ この 理由 を説 いて ゆく こと にす る︒ 二
﹁
ホト ケ﹂ から
﹁神
﹂へ
︱近 世日 本の 武家 霊廟 点描
︵一
︶﹁ ホト ケ﹂ から
﹁神
﹂・
﹁神
﹂か ら﹁ カミ
﹂へ 本節 では
︑近 世日 本の 武家 霊廟 に即 して
︑儒 教の 宗教 とし ての 位置 づけ を検 討し てゆ く︒ まず
︑仏 教に よる 祖
先祭 祀で あり なが ら︑ そこ に儒 教祭 祀的 な要 素が 認め ら れる 事例 をい くつ か掲 げて みよ う︒ 出羽 新庄 藩主 戸沢 政誠 の嫡 男︑ 戸沢 政武 は貞 享二 年
︵一 六八 五︶ 夭逝 した
︒そ の菩 提は 新庄 城下 郊外 に桂 嶽 寺を 建立 して 弔わ れ︑ 政武 は﹁ 桂嶽 寺殿 天質 慈香 大禅 定 門﹂ と戒 名を 授け られ て仏 教式 の﹁ ホト ケ﹂ とな った
︒ その 墓碑 は現 存し
︑正 面に 戒名 が記 され てい る︒ ただ
︑ 戒名 の下 に﹁ 神位
﹂の 文字 が刻 まれ てい るこ とに は留 意 され るべ きで ある
︒﹁ 神位
﹂は 日本 では 正一 位な ど神 祇 に贈 る位 階を 指す 場合 もあ るが
︑こ の場 合は その よう な 意味 には 解し 得な い︒ 漢語 にお ける
﹁神 位﹂ が神 霊の 依 り代 すな わち 位牌 を指 すこ とと
︑本 例が 墓標 であ るこ と に鑑 みれ ば︑ この 場合 は位 牌の 意味 での
﹁神 位﹂ と理 解 すべ きで ある
︒儒 式の 位牌 では
︑正 面に 諡号 に続 けて
﹁神 位﹂ の二 文字 が記 され るこ とも 多い
︒漢 語の
﹁神
﹂ には 人霊 の意 味が あり
︑死 人の 魂魄 を﹁ 鬼神
﹂と 表現 す るこ とも 想起 され よう
︒戸 沢政 武は
︑仏 式の 追善 祭祀 を 受け て﹁ ホト ケ﹂ とな りな がら
︑そ の墓 標は 儒教 祭祀 の 位牌 を踏 まえ た形 で記 載さ れて いる
︒政 武は
﹁ホ トケ
﹂ であ り︑ かつ
﹁神
﹂で あっ た︒
仏教 式で 追善 供養 を受 ける にも 拘わ らず
︑そ の魂 魄を
﹁神
﹂と みる 事例 をも う一 つ示 そう
︒天 保八 年︵ 一八 三 七︶
︑上 野七 日市 藩初 代藩 主前 田利 孝の 二百 回忌 の法 要 が執 行さ れた9
︒利 孝は 没後
﹁慈 雲院 殿真 翁宗 智大 居士
﹂ の戒 名を 得︑ 仏式 で追 善祭 祀を 受け てき た︒ 二百 回忌 に 当た って は︑
﹁御 宝塔
﹂と 称さ れる 石製 宝篋 印塔 が制 作 され た︒ この 仏式 石塔 の正 面に は﹁ 慈雲 院殿
﹂﹁ 真翁 宗 智大 居士
﹂の 戒名 が記 され てお り︑ 利孝 が仏 教式 の﹁ ホ トケ
﹂に 転じ てい たこ とは 明ら かで ある
︒だ が︑ 時の 当 主利 和は
︑次 のよ うな 文を 撰ん で︑ この 塔の 建立 の意 図 を示 して いる
︒ 今玆 天保 八年 丁酉 六月 四日
︑是 為二 百年 之忌 辰︑ 爰 告其 神取 兆上 土一 塊︑ 卜地 而瘞 之︑ 建碑 其上
︑以 為 子孫 胆仰 之所 焉︑ 冀神 徳日 新以 福後 嗣︑ 庇民 人矣
︑ 謹書 其事 以告 仍雲 云10
︵傍 線井 上︶ 利和 は︑ 利孝 の魂 魄を
﹁神
﹂と 表現 して いる ので ある
︒
﹁慈 雲院 殿真 翁宗 智大 居士
﹂の 仏式 諡号 を有 する
﹁ホ ト ケ﹂ 前田 利孝 もま た﹁ 神﹂ であ った
︒ 同様 の例 は︑ 長門 萩藩 の藩 祖と して 崇め られ る毛 利元 就の 事例 にも 認め られ る︒ 元就 は︑ 洞春 寺殿 日頼 洞春 大
居士 の仏 式諡 号を 受け
︑そ の菩 提を 弔う ため 臨済 宗洞 春 寺が 置か れた
︒宝 暦九 年︵ 一七 五九
︶萩 城内 の洞 春寺 に 参詣 した 萩藩 主毛 利重 就の 行動 は︑ 明治 期に 編ま れた 毛 利家 史に 次の よう に記 され てい る︒ 宝暦 己卯 三月 五日
︑侯
︵毛 利重 就︑ 井上 註︶ 斎宿
︑ 親詣 大祖 洞春 公廟
︑敢 竭丹 誠︑ 以祈 焉︑ 召臣 僧碩 孝︑ 諭其 意︑ 翌日 東覲 発軫
︑抵 東都 邸︑ 而後 侯自 書 告文 輸諸 国︑ 七月 十四 日国 相毛 利廣 定齎 来大 祖廟 前︑ 与参 政老 臣毛 利廣 圓・ 益田 廣堯
・宍 道廣 慶︑ 及臣 僧 碩孝 開緘 拝讀
︑以 告神 位︑ 厥後 復有 命︑ 八月 十一 日 誦大 般若
︑以 祈祷 焉11 ここ で洞 春寺 は﹁ 大祖 洞春 公廟
﹂﹁ 大祖 廟﹂ と表 現さ れ︑ 元就 が﹁ 大祖
﹂と 認識 され てい る︒
﹁大 祖﹂ とは
﹁太 祖﹂ とも 記し
︑家 の創 業者 の謂 で︑ 儒教 祭祀 の文 脈 で多 用さ れる12
︒ま た﹁ 大祖 廟︵ 太祖 廟︶
﹂と は︑ 儒教 式 で祖 先を 祀る 宗廟 のう ち家 の創 業者 を祀 る建 物を いう
︒ 元就 とそ の菩 提寺 は︑ 儒教 式の 文辞 を以 て呼 称さ れて い ると 考え られ る︒ しか し︑ 重就 参府 の後
︑祈 念を 込め る のは 碩孝 とい う臨 済僧 で︑ 江戸 の重 就か ら届 いた 告文 を 開封 し︑ 大般 若経 を読 誦し てい る︒
﹁大 祖﹂ 元就 は明 ら
かに 仏教 式の 祭祀 を受 けて いる
︒ この 史料 は後 世の 編纂 物で あり
︑必 ずし も当 時の 表現 がと られ てい ない との 見方 もで きよ う︒ だが
︑こ の時 に 重就 が納 めた 願文 は︑ 次の よう なも ので あっ た︒ 維宝 暦九 年歳 次己 卯三 月壬 午朔
︑越 五日 丙戌
︑嗣 曾 孫周 長国 主従 四品 下拾 遺補 欠大 江朝 臣重 就︑ 敢昭 告 太祖 洞春 公神 位13 確か に︑ 重就 は﹁ 太祖
﹂元 就の
﹁神 位﹂ の前 に願 文を 奉っ てい るの であ る︒ 重就 が︑ あえ て唐 風の 位階
・官 職 名を 用い てい る点 にも
︑留 意し てお こう
︒
﹁ホ トケ
﹂と なっ た祖 先の 霊を
﹁大 祖﹂
﹁神
﹂︑ その 祭 場を
﹁大 祖廟
﹂と 表現 し︑ 仏僧 が祀 る︒ もち ろん
﹁大 祖﹂ や﹁ 神位
﹂と いう 語は 単な る修 辞で あり
︑特 に仏 教 各派 の中 でも 儒典 に通 じて いる 禅僧 であ れば
︑こ のよ う な語 を用 いる こと に抵 抗は なか った
︑と の見 方も 可能 で ある
︒だ が︑ それ でも 儒教 的修 辞を 使用 する こと と︑ 使 用し たこ とに よる 影響 の意 味は 問わ れな けれ ばな らな い︒ 元就 菩提 寺が
﹁大 祖廟
﹂と 呼ば れ︑ 位牌 が﹁ 神位
﹂と 表 現さ れて いる こと は︑ これ らの 語を あえ て使 用す るこ と で藩 祖の 追善 を行 う仏 式の 施設 を︑ 儒教 祭祀 の宗 廟に 擬
える 意思 を示 すも のと 理解 され る︒ 実際
︑幕 末期 では あ るが
︑萩 藩で は藩 主の 菩提 所を 儒教 祭祀 の﹁ 宗廟
﹂に 比 定す る者 があ った14
︒こ のよ うな
︑仏 教祭 祀の 儒教 への 擦 り寄 りは
︑儒 教︑ 就中 朱子 学が 支配 イデ オロ ギー に合 致 し︑ 儒教 が振 興さ れた 近世 日本 の状 況を 反映 した もの と 見る べき であ る︒ 日本 にお ける 仏教 と儒 教の 親和 性を 示す 事例 を︑ やや 視点 を変 えて
︑今 一つ 示そ う︒ 儒教 の宗 廟祭 祀で は︑ 大 祖を 中央 に︑ 奇数 代の 当主 を向 かっ て左 に︑ 偶数 代の 当 主を 向か って 右に 振り 分け て配 列す る︒ この よう な配 列 方法 を昭 穆秩 序と いう が︑
﹁御 廟所
﹂と 呼ば れた 出羽 米 沢藩 主上 杉家 の墓 所に おけ る霊 屋の 配列 は︑ これ に準 拠 した もの と理 解さ れる
︒す なわ ち近 世に は︑ 始封 の君 景 勝を 中心 とし て奇 数代 の藩 主の 霊屋 が向 かっ て左 に︑ 定 勝以 下偶 数代 の藩 主が 右に
︑振 り分 けて 配列 され てい た ので ある
︒明 治九 年︵ 一八 七六
︶に
︑そ れま で城 内に 奉 斎さ れて いた 謙信 を遷 して 中心 に据 えた15 ため
︑現 在で は 昭穆 の秩 序が 逆に 見え るが
︑こ の措 置も また 景勝 では な く謙 信を 大祖 と見 立て 中央 に配 した 点で
︑儒 教的 宗廟 の 配列 を多 分に 意識 した もの とい えよ う︒ 隣接 する 菩提 寺
法音 寺の 堂内 の位 牌も
︑同 様の 振り 分け で配 置さ れて い る︒ 仏教 と儒 教は
︑﹁ 宗教
=祭 祀・ 呪術
﹂の 側面 にお い て︑ 確か に親 和性 を有 して いた
︒
︵二
︶﹁ 神﹂ から
﹁カ ミ﹂ へ これ まで 仏教 式で 追善 祭祀 を受 ける
﹁ホ トケ
﹂が
︑儒 教的 修辞 の中 で﹁ 神﹂ と表 現さ れる 事例 を提 示し
︑仏 教 と儒 教の 親和 性に つい て述 べた
︒し かし
︑こ の﹁ 神﹂ は 儒教 式の
﹁神
﹂で はな く﹁ 神道
﹂式 の﹁ カミ
﹂で はな い か︑ とい う疑 問は 残る かも しれ ない
︒た だ︑ 毛利 元就 が 上述 の事 例に 後れ る宝 暦十 二年
︵一 七六 二︶
︑仰 徳明 神 の神 号を 得て いる16 こと を見 ると
︑宝 暦九 年の 段階 では 元 就は 未だ
﹁神 道﹂ 式の
﹁カ ミ﹂ に転 じて いな いこ とが 理 解さ れる
︒﹁ 大祖 廟﹂ など 儒教 式の 御霊 屋を 意識 した 文 辞や 唐風 の官 位名 から も︑ 如上 の事 例に 現れ る﹁ 神﹂ は︑ 儒教 的文 脈の 中で の﹁ 神﹂ と見 なす こと が妥 当で ある
︒ なお
︑本 項以 下︑ 儒教 的文 脈の
﹁神
﹂と
﹁神 道﹂ 式の
﹁神
﹂を 弁別 する ため に︑ 前者 を﹁ 神﹂
︑後 者を
﹁カ ミ﹂ と表 記す るこ とに する
︒
﹁神 道﹂ と儒 教の 可換 性を 示す 事例 をい ま一 つ挙 げて
おく
︒備 前岡 山藩 主池 田光 政が
︑そ れま での 仏教 式に よ る祖 先の 追善 祭祀 を廃 し︑ 儒教 式に 改め たこ とは よく 知 られ てい る︒ これ は明 暦元 年︵ 一六 五五
︶の こと で︑ 万 治二 年︵ 一六 五九
︶に は岡 山城 内に 祖廟 を設 置し た︒ 和 意谷 にあ る池 田家 の墓 所に は︑ 土を 盛っ た儒 教式 の墳 墓 が点 在す る︒ 光政 没後 にも この 方式 は維 持さ れ︑ 封を 嗣 いだ 綱政 は貞 享二 年︵ 一六 八五
︶家 廟を
﹁宗 廟﹂ と︑ さ らに 儒教 祭祀 に適 う名 称に 改め た︒ しか し︑ 当時 の日 本 にお いて
︑純 然た る儒 教式 の祖 先追 善を 行う には 限界 が あっ た︒ 儒学 者に よっ て﹃ 朱子 家礼
﹄の 研究 など はな さ れて いた もの の︑ 儒教 式の 正統 な祭 祀の 形態 は確 立し て いた とは 言い 難い
︒ 貞享 元年
︵一 六八 四︶ 徳川 綱吉 によ って 服忌 令が 制定 され
︑服 喪が 制度 化さ れる と︑ 綱政 は儒 教式 の祖 先祭 祀 への 服忌 令の 適用 に困 惑す ると ころ があ った
︒元 禄六 年
︵一 六九 三︶ 八月
︑綱 政の 行動 を示 す史 料を 掲げ る︒ 御廟 参被 遊候 節︑ 於御 休息 御意 被遊 候︑ 兼而 被思 召 候者 異朝 之古 礼者 御存 知不 被為 在候 得共
︑本 朝之 神 式ニ 而御 考被 遊︑ 伊勢
・加 茂・ 春日 社等 之大 社者 軽 服之 者社 頭へ 不入 候得 共︑ 八幡 等之 小社 ハ重 服之 者
者不 相成 候得 共︑ 軽服 之者 ハ不 苦︑
︵略
︶勧 請之 神 社と 御同 様ニ ハ無 之候 御宗 廟之 義ニ 御座 候得 者︑ 軽 服之 者ハ 御改 ニも 不及 候様 被思 召候17 綱政 は︑
﹁宗 廟﹂ への 軽服 者の 参仕 につ いて
︑伊 勢・ 賀 茂・ 春日
・八 幡な ど神 社の 例を 参考 にし てい る︒ 儒教 式 での 祖先 祭祀 にお いて も︑
﹁異 朝之 古礼
﹂に 通暁 しな い 場合
︑﹁ 本朝 之神 式﹂ を準 用せ ざる を得 なか った ので あ る︒ かか る事 例を 踏ま えれ ば︑ 毛利 元就 の仰 徳明 神化
︑す なわ ち﹁ カミ
﹂化 も︑ 儒教 と﹁ 神道
﹂の 可換 性の 文脈 か ら理 解さ れる
︒す なわ ち︑ はじ めに 元就 を儒 教的 な
﹁神
﹂と して 理解 する こと で︑ 元就 は﹁ ホト ケ﹂ であ り なが ら﹁ 神﹂ とな り︑ その
﹁神
﹂と して の性 格が
﹁カ ミ﹂ とし ての 属性 を喚 起し たと 理解 し得 るの であ る︒ 毛 利元 就の 魂魄 は︑ 洞春 寺殿 日頼 洞春 大居 士と して
﹁ホ ト ケ﹂ とな り︑ 近世 には 儒教 的文 脈の
﹁神
﹂と 呼ば れ︑ そ の後 仰徳 明神 とし て﹁ 神道
﹂の
﹁カ ミ﹂ に転 じて いっ た︒ 人霊 の追 善と いう 局面 にお いて 仏教 は儒 教と 可換 性を 有 し︑ また 同じ 局面 で儒 教は
﹁神 道﹂ と可 換性 を有 して い たこ とに なる
︒
成程
︑﹁ ホト ケ﹂ に対 する
﹁神
﹂と いう 表現 は︑ 単な る禅 僧の 修辞 であ った かも しれ ない
︒だ が︑ 儒教 が﹁ 宗 教= 祭祀
・呪 術﹂ とし て展 開す る歴 史を ほと んど 有さ な かっ た日 本に おい て︑
﹁神
﹂の 語が 儒教 的な
﹁鬼 神﹂ を 連想 させ るこ とは
︑儒 学者 など 一部 の人 々を 除い て︑ な かっ た︒ 日本 にお いて
﹁神
﹂の 文字 は︑ ほと んど の場 合 儒教 的﹁ 神﹂ の意 に解 され るこ とは なく
︑﹁ 神道
﹂の
﹁カ ミ﹂ を連 想さ せる はず であ る︒ ここ に仏 教的
﹁ホ ト ケ﹂
↓儒 教的
﹁神
﹂↓
﹁神 道﹂ 的﹁ カミ
﹂の 転換 過程 が 想定 され てく る︒ 前田 利孝 の二 百回 忌法 要に 当た って は︑ 国許 の藩 侯邸 の書 院の 床の 間に 利孝 着用 と伝 える 鯰尾 の兜 と白 糸縅 の 具足 二領 が飾 られ
︑﹁ 御神 酒﹂
・御 供・ 御肴 など が供 えら れた18
︒微 細な こと だが
︑﹁ 慈雲 院殿 真翁 宗智 大居 士﹂ に
﹁御 神酒
﹂が 供え られ てい るこ とに 注目 して おき たい
︒ 三 神に なっ た俳 聖と 歌聖 前節 では
︑近 世日 本の 武家 の祖 先祭 祀の 文脈 から
︑人 霊祭 祀に おけ る儒 教の 宗教 的位 置を 検討 した
︒本 節で は︑ 俳聖 と呼 ばれ た松 尾芭 蕉と
︑歌 聖と 呼ば れた 柿本 人麻 呂
を題 材に
︑人 神祭 祀に 即し た検 討を 行う
︒ 日本 の人 神祭 祀は
︑御 霊か ら和 霊へ
︑と いう 文脈 で理 解さ れて いる19
︒御 霊す なわ ち怨 霊を 神に 祝う こと によ る 人神 の誕 生か ら︑ 祟ら ずし て神 にな り得 る論 理の 創出 と その 論理 に基 づく 人神 の誕 生︑ さら には 御霊 の和 霊へ の 転換
︑と いう 文脈 であ る︒ 御霊 を神 に祝 う形 での 人神 は古 代以 来︑ 有名
・無 名併 せて 夥し く誕 生し た︒ 代表 的な 人物 とし ては
︑菅 原道 真 や平 将門 が挙 げら れる
︒だ が︑ 室町 後期 から 近世 にか け て︑ 別の 形で の人 神が 誕生 する
︒神 祇管 領長 上吉 田家 が
﹁心 ト者 神ナ リ20
﹂と いう 論理 によ って 人を 神に 祝う こと を始 めて 以来
︑﹁ 神道
﹂の 奥秘 を究 めた り︑ この 世に 顕 著な 事蹟 を残 した 者が
︑祟 らず して
﹁カ ミ﹂ に転 じる 道 が開 かれ たの であ る︒ かか る方 法で
﹁カ ミ﹂ とな った 代 表的 人物 とし ては
︑豊 臣秀 吉や 保科 正之 が挙 げら れる が︑ 近世 には 諸侯 や神 道学 者も その 列に 加わ った
︒人 が祟 ら ずと も﹁ カミ
﹂に なり 得る とす る考 え方 が普 及し てゆ く と︑ 本来 の御 霊も 反対 にそ の強 烈な 霊威 をも って 信仰 者 を加 護す る和 霊に 転じ る︑ と考 えら れた
︒こ れが
︑御 霊 の和 霊へ の転 換と して 説明 され る︑ 日本 の神 霊観 の転 換
過程 であ る︒ かか る文 脈は
︑概 ね正 しい と認 めて よい
︒確 かに
︑近 世に おい て御 霊信 仰は 後退 し︑ 生前 の事 蹟を 顕彰 する た めに
﹁カ ミ﹂ に祝 われ た人 神は 増加 して いっ た︒ かか る 方向 が行 き着 く果 てに
︑同 好の 士が 集っ て︑ 芸道 の開 祖 を﹁ カミ
﹂に 崇め る行 為す ら見 られ た︒ 俳聖 芭蕉 は︑ そ のよ うに して
﹁カ ミ﹂ にな った
︒ 松尾 芭蕉 は寛 政三 年︵ 一七 九一
︶︑ 筑後 国久 留米 の俳 諧愛 好者 によ って 神に 祝わ れた
︒彼 らは 神祇 伯白 川家 に 乞う て芭 蕉の 霊に
﹁桃 青霊 神﹂ の神 号を 許さ れ︑ 一宮 が 鎮座 する 高良 山の 内に 石祠 を設 けた
︒そ れは
﹁俳 諧の 太 祖は せを の翁 ハあ まね く世 の人 しる 処な り︑ その 葉隠 に 遊へ る好 士の すさ ひと して21
﹂な され たも ので あっ た︒ 芭 蕉の 神格 化は 生前 の事 蹟顕 彰の 典型 であ るが
︑そ れが
﹁す さひ
﹂と して 行わ れる とこ ろに
︑近 世日 本の 神霊 観 の一 つの 到達 点を 看て 取る こと がで きる
︒ 次に
︑歌 聖人 麻呂 につ いて 見て みよ う︒ 飛鳥
・奈 良時 代に 活躍 した 宮廷 歌人 柿本 人麻 呂は 和歌 三神 の一
︑す な わち 住吉
・玉 津島
︵衣 通姫
︶と 並ぶ 歌の 神と して
︑平 安 時代 以来 広く 認知 され てい た︒ 人麻 呂は 早く から
﹁カ
ミ﹂ であ った
︒ 御霊 から 和霊 へ︑ とい う文 脈に 則れ ば︑ 日本 にお いて 人が
﹁カ ミ﹂ にな り得 る方 途は
︑室 町後 期ま では 非業 の 死を 遂げ て︑ 怨霊 とな るほ かに なか った
︑人 麻呂 もま た︑ 御霊 とし ての 性格 を有 し︑ 御霊 信仰 の文 脈で
﹁カ ミ﹂ と なっ た︑ とす る見 解22 もあ る︒ 各地 の人 麻呂 を祭 神と する 神社 の中 には
︑そ のよ うな 由来 を持 つも のも あろ う︒ だ が︑ 和歌 三神 の一 とし ての 人麻 呂に つい ては
︑こ の文 脈 から 理解 する こと は妥 当で はな い︒ むし ろそ れは
︑儒 教 祭祀 が﹁ 宗教
=祭 祀・ 呪術
﹂と して 展開 した 例と して 位 置付 けら れる
︒ 人麻 呂は 平安 末期 には 人麻 呂影 供に おい て画 像の 前に 供物 を供 えら れ︑ 崇拝 の対 象と なっ てい た︒ 人麻 呂影 供 とは
︑歌 人た ちが 人麻 呂の 画像 を掛 け︑ 神供 を捧 げ︑ 人 麻呂 を敬 仰す る儀 式を 行い
︑歌 を詠 み合 う会 で︑ 元永 元 年︵ 一一 一八
︶が 初見 であ る︒ かか る人 麻呂 の﹁ カミ
﹂ とし ての 待遇 に︑ 御霊 から 和霊 へと いう 論理 を適 用す る こと は難 しい
︒実 は如 上の 人麻 呂影 供の 次第 は釈 奠と き わめ て近 似し てお り︑
﹁カ ミ﹂ とし ての 柿本 人麻 呂は 釈 奠か ら派 生し たこ とが 指摘 され てい るの であ る23
︒
釈奠 では
︑孔 子や 高弟 の画 像が 掛け られ
︑こ れに 神供 を具 えて 礼拝 がな され る︒ 人麻 呂も また
︑孔 子や その 高 弟の よう に画 像を 掛け て礼 拝さ れる こと で︑ いつ しか た だの 故人 から
︑崇 拝対 象へ と転 化し たの であ る︒ 従来 強調 され なか った が︑ 人が 神に 転化 する 契機 とし て釈 奠と
︑そ こか ら派 生し た影 供は 念頭 に置 かれ なけ れ ばな らな い︒ 釈奠 の準 用に よっ て︑ 人麻 呂は 祟ら ずし て
﹁カ ミ﹂ に転 化し 得た
︒古 代に おい て︑ 人が 神に 転ず る 回路 は︑ 御霊 信仰 だけ では なか った ので ある
︒ 近世 に至 ると
︑人 麻呂 の神 格が 上昇 させ られ てゆ く︒ 享保 八年
︵一 七二 三︶
︑人 麻呂 を祭 る石 見国 美濃 郡高 津 村の 柿本 神社 に︑ 中御 門天 皇か ら正 一位 の神 階が 授与 さ れた
︒こ の年 が人 麻呂 千年 忌の 年と 考え られ てい たこ と︑ 人麻 呂が 和歌 の道 を開 き極 めた 人物 であ るに も拘 わら ず 位階 が低 いこ とが 理由 であ った
︒次 に示 すの は︑ その と きの 天皇 の宣 命の 一部 であ る︒ 天皇 詔我
旨止
柿本 神乃
広前 申尓
賜倍
申止
︑久
時波
千載
乎
歴多 礼止
道毛
百波
世尓
宗止 之天
公私 敬尓
座礼
︑須
霊徳 弥高 神久
位猶 卑尓
依利 天奈
︑毛
殊尓
有所 念行 正天
一位 御乃
冠尓
上奉
利
崇奉
流24
この 神階 授与 の背 景に は︑ 実は 霊元 上皇 の強 い意 向が あっ た︒ 霊元 上皇
︵天 皇︶ は︑ 歌道 に熱 心で
︑こ の道 を 守護 し︑ 技能 の上 達を 助け ると 信じ られ た神 々へ の信 仰 が篤 かっ た︒ 上皇 は︑ 人麻 呂以 外に も︑ 著名 な歌 仙た ち をも 信仰 の対 象と して いた
︒元 禄六 年︵ 一六 九三
︶以 降︑ 宝永 六年
︵一 七〇 九︶ を除 いて 毎年 元日 には
︑人 麻呂 の ほか 藤原 定家 の画 像を 掲げ
︑そ の前 で志 を籠 めた 歌を 詠 み︑ 享保 九年
︵一 七二 四︶ 以降 は古 今伝 授の 継承 に重 要 な役 割を 果た した 三条 西実 隆の 画像 もそ の列 に加 えて い る25
︒人 麻呂 影供 の盛 行は 他の 歌聖 の神 格化 をも 促し たと いう26 が︑ 上皇 の行 動は その 好例 で︑ 淵源 を釈 奠に 求め る こと がで きる 人神 祭祀 の例 であ る︒ 天保 十年
︵一 八三 九︶ 国学 者賀 茂真 淵を 神に 祝っ た県 居霊 社の 成立 もま た︑ 人麻 呂を 先蹤 とす るも ので あっ た27
︒ 儒教 が振 興さ れ︑ それ を基 盤に した 文化 が広 く社 会に 共有 され る近 世日 本28 にお いて は︑ 人神 祭祀 もな おの こと 儒教 祭祀 との 関連 を視 野に 検討 され る必 要が ある
︒例 え ば︑ 丹波 柏原 藩で 宝永 元年
︵一 七〇 四︶ 以降
︑藩 祖織 田 信長 の忌 日に 菩提 寺で 信長 の肖 像が 掛け られ
︑給 人以 上 の家 臣に 拝礼 が義 務づ けら れる こと29 も︑ 如上 の文 脈で 理
解で きる 可能 性が ある
︒ま た︑ 近世 日本 では
︑民 に善 政 を施 した 諸侯 や吏 僚が 神と 崇め られ る現 象が 多く 現れ る が︑ 筆者 はこ の事 象も 儒教 祭祀 の影 響を 多分 に受 けた も のと 考え てい る︒ 四 功臣 祭祀 の捉 え方
︵一
︶ 日本 にお ける 功臣 祭祀 の嚆 矢
︱正 一位 護王 大明 神の 誕生
︱ 柿本 人麻 呂を 先蹤 とし て︑ 神階 昇叙
・神 号授 与に 与っ た人 物に 和気 清麻 呂が ある
︒和 気清 麻呂 は︑ 孝謙
︵称 徳︶ 天皇 の寵 臣道 鏡が 皇位 に登 ろう とし た際
︑宇 佐八 幡 宮の 託宣 を奉 じて これ を阻 止し た人 物で ある
︒そ の墓 は︑ 清麻 呂所 縁の 洛北 高雄 神護 寺に あり
︑近 世に は﹁ 護法 善 神﹂ とし て崇 めら れて いた30
︒清 麻呂 は︑ 既に 神格 化さ れ てい た︒ だが 清麻 呂が
﹁カ ミ﹂ とし て大 々的 に顕 彰さ れる のは
︑ 嘉永 四年
︵一 八五 一︶ であ った
︒こ の年 の三 月十 五日
︑ 清麻 呂は 孝明 天皇 から 正一 位の 神階 と﹁ 護王 大明 神﹂ の 神号 を授 与さ れる
︒こ れは
︑幕 府に 対す る綿 密な 遣り 取 りを 経て 行わ れ︑ 折々 に柿 本人 麻呂 への 神階 奉授 の先 例
が参 照さ れて いた31
︒孝 明天 皇の 宣命 に 身乃 危乎
不顧
︑雄 雄志
烈久
誠岐
心乃
尽乎 世留
古者
人乃
云乃
︵中 略︶ 至忠 至尓
正志
能氐
道乎
以氐
君乎
済止
云留
汝者 乃
事奈 良牟
︑然
留尓
世尓
顕留
事乃
不足
古止
歎乎
給比
愍美
給比32
とあ るこ とか らは
︑和 気清 麻呂 の神 格上 昇が
︑生 前の 功 績に 照ら して 位階 が卑 しい こと を理 由に 神階 昇叙 に与 っ た柿 本人 麻呂 と近 似し た論 理か らな され てい るこ とが 確 認さ れよ う︒ だが
︑和 気清 麻呂 への 神階
・神 号奉 授は
︑柿 本人 麻呂 への 神階 奉授 とは
︑い くつ かの 点で 異な って いた
︒ま ず 清麻 呂に 対す る神 階・ 神号 の授 与は
︑日 本に おけ る功 臣 祭祀 の嚆 矢で あっ た︒ 清麻 呂に 対す る神 階奉 授の 理由 は︑ 単に 生前 の功 績に 比し て顕 彰が 不十 分で ある とい うだ け では なか った
︒そ れは あく まで 表向 きの 理由 であ り︑ 実 際に は別 のと ころ にそ の理 由が あっ た︒ 清麻 呂へ の神 階・ 神号 奉授 に先 立つ 嘉永 二年 十月 の末
︑ 坊城 俊明 は関 白鷹 司政 通か ら柿 本人 麻呂 と源 経基 への 神 階授 与の 先例33 の調 査を 命じ られ た︒ それ は関 白の 和気 清麻 呂社 高雄 ニ有 之候 由︑ 上古 之忠 臣︑ 格別 之 人柄 候︑ 京都 ニテ ハ不 存候 歟︑ 関東 其外 遠州 ヨリ ハ
折々 参詣 モ有 之候 由︑ 古賢 之儀
︑以 折神 階被 授之 候 ハヽ 可宜 思給 候間
︑上 ヘモ 被仰 上置 候ハ ン34 とい う意 図に 基づ いて いた
︒ 関白 の認 識は
︑清 麻呂 は﹁ 上古 之忠 臣︑ 格別 之人 柄﹂ の﹁ 古賢
﹂で あり
︑関 東・ 遠国 から は清 麻呂 を慕 って 態々 洛北 高雄 にあ る廟 祠に 参詣 する 者が ある のに 対し
︑ 至近 の京 都で は清 麻呂 の功 績が 知ら れて いな い︑ とい う もの であ った
︒さ らに 清麻 呂は
︑孝 明天 皇の 宣命 で
﹁身 危乃
不乎
顧︑ 雄雄
志久
烈岐
誠乃
心乎
尽﹂ した こと
︑﹁ 至 忠﹂
﹁至 正﹂
﹁能 道乎
以氐
君乎
済﹂ った こと を賞 され て神 階・ 神号 を授 与さ れて いる
︒天 皇の
﹁仰 詞﹂ でも
﹁和 気 朝臣 清麿 為人 義烈
︑仕 朝忠 誠忘 身直 言全 皇緒 之功
﹂と
﹁義
﹂に 篤い 性質 と︑ それ ゆえ に身 を顧 みな い﹁ 忠誠
﹂ によ って 皇統 を守 った と︑ その 功績 を讃 えら れて いる
︒ 位記 にお いて も﹁ 能掃 祅凶 固守 臣節 計議
︑並 深忠 懇咸 到﹂ こと が︑ 神階 奉授 の理 由と され てい る35
︒清 麻呂 は忠 義の 臣す なわ ち﹁ 忠臣
﹂と して 顕彰 され てい るこ とが 諒 解さ れる
︒ さら に清 麻呂 に授 与さ れた 神号
﹁護 王大 明神
﹂は
︑
﹁王
﹂す なわ ち天 皇の 守護 とい う意 味を 強く 帯び てい る︒
これ は︑ 神護 寺の 墓所 に眠 る清 麻呂 が﹁ 護法 善神
﹂と 呼 ばれ てい たこ とを 踏ま えて の措 置と もい える が︑
﹁全 皇 緒之 功﹂ を公 的に 讃え たも ので あっ た︒ 和気 清麻 呂は
︑
﹁護 王﹂ の﹁ 忠臣
﹂と して 顕彰 され たの であ る︒
﹁護 王﹂ の﹁ 忠臣
﹂和 気清 麻呂 が︑ 殊更 に嘉 永四 年に 顕彰 され たこ とに も理 由が ある
︒先 に関 白は
︑清 麻呂 へ の崇 拝が 京都 では なく
︑関 東・ 遠国 にお いて 高揚 して い ると いう 認識 を有 して いた と述 べた が︑ ここ から は当 時︑ 清麻 呂に 対す る期 待が 各地 で高 まっ てき てい たこ とが 読 み取 れる
︒ 関白 は嘉 永二 年︵ 一八 四九
︶に 清麻 呂顕 彰の 意図 を仄 めか して いた が︑ この 年は 丹後 田辺 藩士 嶺田 楓江 の﹃ 海 外新 話﹄ が成 立し た年 でも あっ た︒
﹃海 外新 話﹄ は︑ 鴉 片戦 争に おけ る清 国の
﹁英 夷﹂ への 敗退 とそ の惨 状を 描 いた 通俗 書で ある
︒鴉 片戦 争は
︑い うま でも なく 清の 道 光二 十年
︵天 保十 一年
︑一 八四
〇︶ から 同二 十二 年に か けて の清 英間 の戦 争で
︑近 代的 な武 力に 優れ た英 国が 清 国を 破っ た︒ その 衝撃 は日 本に も伝 わり
︑情 報を いち 早 く入 手し た儒 学者 斎藤 竹堂 が﹃ 鴉片 始末
﹄を 著し てい る︒ 本書 は識 者の 注目 する とこ ろと なり
︑多 くの 写本 が作 ら
れた
︒こ の鴉 片戦 争の 衝撃 をさ らに 多く の庶 民に 伝え た のが
﹃海 外新 話﹄ であ った
︒本 書は その 内容 ゆえ に幕 府 の制 禁を 受け るが
︑続 編や 類書 が刊 行さ れる ほど の人 気 を博 した36
︒﹁ 英夷
﹂の 危機 が迫 る中
︑か つて
﹁祅 凶﹂ か ら天 皇家 を救 った 和気 清麻 呂が
﹁護 王﹂ の﹁ 忠臣
﹂と し て顕 彰さ れる 機運 が高 揚し てき たの であ る︒ 神階
・神 号の 授与 以後
︑清 麻呂 は﹁ 忠臣
﹂の 模範 とし て幕 末の
﹁志 士﹂ らに も影 響を 与え
︑近 代日 本の 国家 に よる 功臣 祭祀 にも 影響 を与 えて ゆく
︒明 治維 新期 以降
︑ 楠木 正成
・豊 臣秀 吉を はじ めと して
︑政 府か ら国 家に 対 し顕 著な 事蹟 を挙 げた と認 定さ れた 人物 が︑ その 功に よ り︑
﹁カ ミ﹂ とし て顕 彰さ れる こと が増 加す るが
︑こ の よう な国 家に よる 功臣 祭祀 は清 麻呂 に始 まる ので ある
︒ かか る功 臣祭 祀は
︑従 来の 日本 には 認め られ なか った 新た な人 神祭 祀の 在り 方で ある
︒清 麻呂 は既 に︑ 神護 寺 境内 の墓 所に おい て﹁ 護法 善神
﹂と して 神格 化さ れて い たか ら︑ 正確 に言 えば 彼へ の神 階・ 神号 授与 は既 に追 善 祭祀 の対 象と なっ てい る人 物の 功臣 とし ての 宗教 的顕 彰 であ る︒ とは いえ
︑そ の魂 魄が 国家 によ って
﹁忠
﹂
﹁義
﹂と いう 基準 から 神格 を高 めら れた 意味 は大 きい
︒
﹁忠
﹂や
﹁義
﹂は
︑儒 教︵
﹁宗 教= 道徳
﹂︶ に由 来す る徳 目で ある から であ る︒ した がっ て清 麻呂 の神 格上 昇も ま た︑ 儒教 との 関連 にお いて 捉え られ る必 要が ある
︒明 治 維新 期の 功臣 祭祀 の創 出が
︑国 学思 想37 のみ なら ず︑ 近世 にお ける 儒教
︵﹁ 宗教
=道 徳﹂
︶の 日本 的展 開の 一つ の帰 結で ある 後期 水戸 学の 強い 影響 下に あっ たこ とも
︑そ の 必要 性を 示唆 しよ う︒
︵二
︶東 アジ アの 功臣 祭祀 とそ の影 響 功臣 祭祀 は︑ 儒教 を国 家支 配の イデ オロ ギー の支 柱と した 中華 帝国 や朝 鮮国
︑大 越国
・大 南国
︵ベ トナ ム︶ な どで は︑ 夙に 国家 祭祀 の一 環を 成し てい た︒ 功あ る者 に 対す る祭 祀は
︑﹁ 有功 烈於 民﹂ る者 を宗 教的 崇拝 の対 象 とす べき であ ると する 儒典 に基 づく38
︒儒 教が 振興 され た 近世 日本 にお いて も︑ 対外 危機 の深 化を 契機 に︑
﹁忠
﹂
﹁義
﹂を 基準 にし た功 臣祭 祀と いう 人神 祭祀 の形 が登 場 した ので ある
︒ 清麻 呂を 嚆矢 とす る功 臣祭 祀も
︑従 来の
﹁ホ トケ
﹂か ら﹁ カミ
﹂へ とい う文 脈に 落と し込 んで 理解 され
︑現 在 でも その よう な理 解を 説く もの があ る︒ しか しそ のよ う
な理 解が
︑短 絡的 なこ とは 言う を俟 たな い︒ 確か に︑ 清 麻呂 は生 前の 功績 を讃 えら れて 神格 を高 めら れた
︒そ の 点に おい て︑ 芸道 の達 人を
﹁す さび
﹂と して 祀る 所に 至っ た近 世日 本の 人神 祭祀 の在 り方 を反 映し たも のと い うこ とは でき る︒ しか し︑ その 功績 の基 準が
﹁忠
﹂
﹁義
﹂で ある とこ ろに
︑儒 教的 規範 が社 会を 覆っ た近 世 日本 の状 況を 考慮 する 必要 があ る︒ 儒教 的規 範が 一定 度 社会 に受 容さ れて いる とい う前 提が なけ れば
︑功 臣祭 祀 は成 立し なか った
︒ また
︑日 本に おけ る功 臣祭 祀が 鴉片 戦争 に刺 激さ れて 登場 した こと は︑ かか る新 しい 形の 祭祀 を︑ 日本 の中 だ けで 自閉 的に 議論 する こと の不 毛さ を示 して いる
︒﹃ 海 外新 話﹄ には
︑英 国軍 と奮 戦の 後︑ 戦死 した 陳化 成︵ 諡 号忠 愍公
︶の 逸話 が掲 載さ れて いる
︒陳 化成 は︑ 福建 省 厦門 の出 身で
︑長 江河 口の 呉淞 での 英軍 との 戦闘 で戦 死 した
︒そ のた め︑ 死後 その 魂魄 は︑ 道光 帝の 詔諭 によ っ て︑ 戦没 地呉 淞と 出身 地厦 門に 祠を 建て て祀 られ るこ と とな った
︒陳 化成 の霊 魂は
︑呉 淞に 近い 上海 の城 隍廟 や 厦門 郊外 の丙 州に ある 陳氏 廟に 奉祀 され てい た︒ さら に それ を悼 む詩 文が 多数 詠ま れ︑
﹃表 忠録
﹄四 巻と して 刊
行さ れた39
︒斎 藤竹 堂は
﹃表 忠録
﹄を 入手 して いた とみ え︑ 竹堂 から これ を借 覧し た松 浦武 四郎 は感 激し
︑竹 堂に 序 文を 依頼 して
﹃表 忠録
﹄の 巻四 に相 当す る﹃ 表忠 崇義 集﹄ を私 財を 投じ て板 行し
︑陳 化成 の忠 義を 広く 顕彰 し よう と図 った40
︒松 浦武 四郎 もま た︑ 後期 水戸 学者 と親 交 を有 して いた
︒ 以降
︑陳 化成 は広 く日 本の 庶民 にま で知 られ る忠 臣の 代表 とな って ゆく
︒例 えば
︑万 延二 年︵ 一八 六一
︶刊
﹃万 国人 物図 絵﹄ 二編 上巻 に﹁ 大清 江南 守提 督陳 化成41
﹂ の図 があ り︑ 明治 八年
︵一 八七 五︶ 文部 省刊
﹃改 正 史 略﹄ 巻二 にも
﹁陳 化成 戦死 の図42
﹂が ある
︒国 難に 殉じ た 忠義 の人 とし て︑ 陳化 成は
﹁英 夷﹂ の危 機迫 る日 本に 紹 介さ れ︑ その 顕彰 が図 られ たの であ る︒
﹁護 王大 明神
﹂ 和気 清麻 呂へ の贈 位・ 神号 授与 とい う日 本の 功臣 の顕 彰 に併 行し て︑ 清国 の﹁ 忠﹂
﹁義
﹂の 功臣
︑陳 化成 の顕 彰 が日 本に おい て図 られ た意 義は 少な くな い︒ それ は︑
﹁英 夷﹂ とい う脅 威の 出現 が︑ 日清 両国 が儒 教的 徳目 と いう 価値 を共 有す るこ とを 再認 識さ せた こと を意 味し
︑ 日清 の境 を超 えた 協業 の可 能性 をも 示唆 して いた から で ある
︒
功臣 祭祀 は︑ 儒教 の日 本的 展開 の中 で見 いだ され てき たも ので ある
︒し かし それ は︑ 一方 で東 アジ アの 中で 把 握さ れる べき 事象 であ る︒ 日本 にお ける
﹁宗 教= 祭祀
・ 呪術
﹂面 の儒 教の 位置 もま た︑ かか る点 から 理解 され ね ばな らな い︒ 功臣 祭祀 は︑ 決し て日 本と いう 空間 の中 で 自閉 して 展開 して いた ので はな い︒
﹁英 夷﹂ とい う﹁ 祅 凶﹂ を共 通軸 とし て︑ 日本 にお いて も隣 国清 国の
﹁忠 臣﹂ を顕 彰す る行 動を 惹起 して いた ので ある
︒ なお
︑付 言す れば
︑功 臣祭 祀の 延長 上に ある
︑い わゆ る国 事殉 難者 の魂 魄を 国家 が祀 るこ とも
︑大 陸諸 国で は 日本 に先 行し て行 われ てい た43
︒日 本に おい て功 臣や
﹁勤 王忠 義の 士﹂ たち の祭 祀が 立ち 現れ てく る背 景に は︑ 大 陸諸 国の 儒教 祭祀 の影 響を 考慮 すべ きで ある
︒ 結 語 以上
︑近 世日 本に おけ る︑ 宗教 とし ての 儒教 の位 置づ けを
︑人 霊祭 祀を めぐ る三 つの 局面 から 検討 して きた
︒ 以下
︑そ の内 容を 簡単 にま とめ
︑若 干の 補足 をし てお く︒ まず
︑武 家霊 廟に 対す る検 討か らは
︑仏 教式 の﹁ ホト ケ﹂ が儒 教式 の﹁ 神﹂ と読 み替 えら れる こと で︑
﹁神
道﹂ 式の
﹁カ ミ﹂ に転 化し てゆ く過 程が 読み 取れ た︒ 儒 教は
︑日 本の 宗教 史に おい て仏 教と
﹁神 道﹂ を結 節す る 媒介 項と なっ てい たの であ る︒ また
︑菩 提寺 は﹁ 大祖 廟
︵太 祖廟
︶﹂ と呼 ばれ
︑あ るい は﹁ 宗廟
﹂に 擬さ れる 様相 も紹 介し た︒ かか る動 向の 前提 には
︑本 稿で はほ とん ど言 及で きな かっ たが
︑日 本に おけ る中 世以 来の 禅宗 の展 開を 視野 に 入れ なけ れば なら ない
︒禅 僧こ そが
︑中 世日 本の 儒教 の 主た る担 い手 であ った から であ る︒ 禅宗 と儒 教の 密接 な 結合 は︑ 日本 のみ なら ずベ トナ ムで も指 摘さ れる とこ ろ であ り44
︑東 アジ ア規 模で 今後 の研 究の 深化 が期 待さ れる こと を指 摘し てお きた い︒ 次に
︑柿 本人 麻呂 の神 格化 を御 霊信 仰の 文脈 から 説明 する だけ では 不十 分で
︑釈 奠を 模倣 する こと が︑ 御霊 信 仰や
﹁神 道﹂ によ る人 神の 創出 とは 別の 文脈 で人 神を 生 み出 す論 理と なっ てい たこ とを 確認 した
︒人 神祭 祀に は︑ 日本 に採 用さ れた 数少 ない 儒教 祭祀
︑す なわ ち釈 奠と
︑ そこ から 派生 した 影供 とい う回 路も 想定 され なけ れば な らな い︒ さら に述 べる なら ば︑
﹁神 道﹂ によ る人 神の 創 出に つい ても
︑﹁ 心ト 者神 ナリ
﹂と いう 論理 が︑ 朱子 学
の﹁ 理﹂
﹁気
﹂観 念と 親和 性を 有し てい たと いう 指摘45 を 念頭 に︑ 具に 検討 され る必 要も あろ う︒ 少な くと も︑ 日 本の 人神 祭祀 を御 霊信 仰や
﹁神 道﹂ によ って のみ 説明 す るこ とは
︑見 直さ れな けれ ばな らな い︒ 三つ 目に
︑日 本に おけ る功 臣や 国事 殉難 者に 対す る祭 祀の 創出 には
︑﹁ 宗教
=道 徳﹂ とし ての 儒教 や︑ 大陸 諸 国に おけ る功 臣祭 祀の 在り 方の 影響 を考 慮す る必 要が あ るこ とを 述べ た︒ それ は単 に祭 祀や 宗教 とい う位 相に 止 まら ず︑
﹁英 夷﹂ に喚 起さ れた 日清 の共 通性 の再 認識 を 近世 後期 の日 本に 促し たと いう 点で も重 要で ある
︒そ の 経験 がど のよ うに 展開 して ゆく かと いう 点も また
︑祭 祀 や宗 教と いう 位相 に止 まら ない
︑宗 教史 の課 題と なろ う︒ とも あれ
︑近 世日 本に おい て儒 教は ほと んど
﹁宗 教= 道徳
﹂と して 展開 した が︑ 一定 度﹁ 宗教
=祭 祀・ 呪術
﹂ とし て機 能す る面 もあ った ので ある
︒こ れま で仏 教・
﹁神 道﹂ を主 軸に
︑時 に﹁ 異端
﹂を 交え て理 解さ れて き た日 本宗 教史 は︑ 儒教 の存 在を 視野 に入 れて
︑再 構築 さ れて ゆく 必要 があ ると 考え る︒ かか る試 みは
︑単 に日 本 の宗 教に 対す る理 解を 深め るだ けで はな く︑ 東ア ジア 各 国・ 地域 から の相 互乗 り入 れに よる 日本 宗教
・宗 教史 の
研究 を活 性化 させ るこ とに つな がる はず であ る︒
︵
︶1 川崎 庸之
・笠 原一 男﹃ 宗教 史﹄
︵山 川出 版社
︑一 九六 四 年︶
︑笠 原一 男編
﹃日 本宗 教史
﹄Ⅰ
・Ⅱ
︵山 川出 版社
︑ 一九 七七 年︶
︒な お︑ 近年 の末 木文 美士
﹃日 本宗 教史
﹄
︵岩 波書 店︑ 二〇
〇六 年︶ は近 世日 本宗 教史 にお ける 儒 教の 位置 を重 く見 るが
︑思 想史 の枠 を出 るも のに はな っ てい ない
︒
︵
︶2 井上 智勝
﹁前 田家 御寶 塔︱
︱上 野国 七日 市藩 の藩 祖顕 彰 と幕 藩領 主の
﹁大 祖廟
﹂︱
︱﹂ 山本 隆志 編﹃ 日本 中世 政 治文 化論 の射 程﹄ 思文 閣出 版︑ 二〇 一二 年︒ 井上 智勝
﹁近 世日 本武 家霊 廟論 序説
︱︱ 神・ 仏・ 儒の あい だ
︱︱
﹂﹃ 宗教 研究
﹄八 七別 冊︑ 二〇 一四 年︒ 同﹁ 神に なっ た歌 聖と 俳聖
︱︱ 日本 近世 にお ける 人神 祭祀 の展 開
︱︱
﹂﹃ 宗教 研究
﹄八 八別 冊︑ 二〇 一五 年︒
︵
︶3 加地 伸行
﹃沈 黙の 宗教
︱︱ 儒教
﹄筑 摩書 房︑ 一九 九四 年︒
︵
︶4 山田 昭全
﹁柿 本人 麿影 供の 成立 と展 開︱
︱仏 教と 文学 と の接 触に 視点 を置 いて
︱︱
﹂﹃ 大正 大学 研究 紀要 文学 部・ 佛教 学部
﹄五 一︑ 一九 六六 年︒ 片野 達郎
﹁﹁ 人麿 影 供﹂ の変 遷と 和歌 史的 意義
﹂﹃ 東北 大学 教養 部紀 要﹄ 四