日本民法典論争の
批命目・経済的基礎について
目
きた
︑はしがき
︑日本民法典編纂の維移
一一 一︑ 日本 民法 典論 手の 端初 と︑ その 腕勉 ハ以 上前 続﹀
︑四︑日本民法典論守の社曾・斡済的基礎ハ本披V
五︑ 日本 民法 典論 容の 宏一 駐
•
六︑むすび
国
日本民法典論争の社合・経済的基礎
(ニ)
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澄
われわれは前項で︑日本民法典論守中ど具躍的に展開した﹃法典寅施断行論﹄訳と︑とれに針抗する﹃法典賓施延期
日本民法典論争の批舎・締済的基礎についで
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九
日本
民法
典論
争の
合社
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済的
基礎
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いで
九C 論﹄況の︑それぞれの論旨な上ぴ︑それらの主張︒法的義礎となっている︑法理的根擦について概括的に考察した︒
そして︑明治法制史上に沿ける吉本兵法典論争の︑一位舎的立義を五しく把えるための前提として︑日本日時法典論争混 同品購的に反問された時期に
hp
ける︑世合・経済的基礎白制把握が必要と友る︒なぜた九ば︑日本島法典論争は日本資本 主義護展の一つの法樟的反映をなしており︑日京資本主義護展の過程にたいて生やる諸矛盾の直接的表現であると考・
えられるためであるDだから︑日本民法典論争の展開
L
て行った具瞳的な一控史的事費は︑つねに︑それぞれの階級的基 礎た立つイデオロオローグの活動とじて存在し︑その意味をもつものとして把えられる
oモして︑兵曜的な現象形態
として︑われわれの眠に映中るのは︑
ブ一フンス法事波とイギリス法関学波治よびそれと同盟を結ぶとととなったドイツ 法事訴との法律思想的・事波的封立・抗争としての姿をとって現われている︒
担える限り︑日本民法典論争を車窓る思想的乃至事況的封立・抗争として理解するととと訟るであろう口だが︑日本 馬法典論争そそうした意味で理解ず句ねたらぽ︑日本民法典論争が日本資本主義援日肢の一世舎・経済的基礎と
D結び付き
で生じたん﹂ヤう︑正しい枇舎的意義を見失うものだと考えられる︒そのた治︑日本民法典論争を把える場合には︑ど ろしても日本民法典論争を日本資本主義護展に沿ける︑一極史的過程と
D相互的関聯に沿いて理解し︑把えていか校け
日 本 資 本 主 義 護 畏 の 遣 を 拓 い た
︑ そ れ 以 後 如 何 に じ て
だか
ら︑
現象的にい日本島法典論争を
ればならゑい口
その
ため
︑
明治維新む政治的建卒︑なよび︑
結封主義を︑明治政府が漸進的に確立して行ったかを理解し灸い︒それと同時に︑結盟主義を可能ならしめる士事と たる︑資本の本源的蓄積の過程を如何に経過し︑白木資本主義が産業資本主義にまで殻艮し︑確立して行ったかを︑
日本民法典論争の基礎として眺めたいのである︒
徳川封建制度の下にむいては︑農業生産調係が︑その一蹴曾の基底的危生産様式をたしていた︒じかし︑鵡川封建制
度の末期になると︑農業生産力は溌展し︑自給自足的な封建的自然経済から︑弐第に商品経済へと護展じて行った︒
そして︑国内市場が商業資本のための販路として開拓せられつつあった︒との商品市場の圏内的な開拓ほ︑商品HH貨
幣経済をして︑さらに二居の登民をとげしめたDとろして︑農業生産力の議展段︑徳川封建制度の土蓋となっている
封 建 的 経 済 機 構 白 根 底 左 ほ り く づ す こ と に な っ た の で あ る
︒ 商 品 市 場 の 護 展 は 商 品 流 通 を 盛 ん と な ら し
ず伝
わち
︑
め︑商業資本・高利貸資本の諸活動を活設にした︒そして︑封建諸侯や封建家区間を︑商品
1
貨幣経済へ引入れるととにより︑幕府︑諸俣の財政的窮乏比をもたらした︒そのため‑︑財政的基礎のぼとんどすべてを︑封建的責租に求めて
いた封建諸俣は︑持々望日刊に封ずる牧一誌を羽化じkなければならなかった︒更に︑商業資本・高利貸資本への財政的依
存を飴儀訟くさぜた︒とうして︑商品
i
貨幣経済D設蓮は封廷的支配階級を窮乏佑し︑下級式士階級をして︑事賓上封建的諸特権から遊離せし治︑弐第に無産者佑させ︑封建的支配闘係︒崩壊過程を深め︑促進したのである︒そし
て︑商業資本なよび高利貸資本は︑.農村の自然経済の中花︑商品
1
貨幣経済をゐし進め︑貨幣沿よび商品に・封ずる杢的支問挫をそり乎に沿山ーしめ︑封建的農村経済に判一し破壊的作はを興ムパ︑商品的・貨幣的性格を濃厚にし︑長岡崎居︒分
解過程をまずまず助長しはやめた口
との︑農村へ弐第に侵透した商品HH貨幣経済は︑封建的支配関係の物質的基礎乏なしている封建的貢租の汲みとり
を強化し︑農尽を牧悲し︑農局の生活を耐えるととのでき両ものにした︒
ζ D ζ
とは︑徳川末期に沿いて︑農ほんの反
封建的闘争でるる長崎一撲が︑集中的に護生したことが︑とれを示している︒きた︑それは同時化︑農民に封ずる牧
一却が︑加何には汝はだしかったかを一ポすものである︒とうして︑商品
l
貨幣経済ο
農村への侵入問徳川封建制度︒土日本民法典論争の批含・経済的基礎について
九
九二
裏を︾びやかし︑ほりくやすと共に︑農村にゐける豪農と貧農との階級的分作を明瞭たものとたした︒そして︑窮乏 日本民法典論舎の枇会・経済的基礎について
佑し零落した農民や封建的家臣図は︑決第に都市へ集中し
K Q
とろして︑商業資本治よぴ高利貸資本の会的支配は︑
家内工業沿よび工場制手工業の資生一の経済的基盤を︑北第にかため︑それと共忙︑封建的生産様式を資本主義的生一産
様式へとかえて行った︒
しかしながら︑封建的生産様式を資本主義的生産設式へと輔佑するためには︑先やその前提として︑資本家治よび
資本家的地主の︑封建的支間関係からの解放が必要である︒そして︑解放によって生成せちれたととろのブルジョア
ジーと︑問一万働者・農民治よび農業労働者によるプロレタリアートとり階殺分佑が必要と紅る︒なぜならば)資本主義
枇舎では︑あらゆる生産カの設展は︑資本家のための剰能債柚胞の増殖︑従って︑ブルジョアジーとプロレタリアートと
の問の︑資本関係の揖犬再生産のために佼立つもので怠ければ注らないからである
Q
‑そして︑とれらの諸前提は先や
共瞳的汝僚件として︑封建的支配関係の制度的中核となっている︑封建的身分制度の底止︑封建的土地所有植の近代
町的所有権への轄佑︑ブルジョア的所有関係の確立︑全国的役交通の開拓とその尚也︑統一的な府税制度の確立等々︑
つまり︑封建的諸関係を一掃するととが必要である︒そして︑とりととによって︑初めて︑資本主義的搾取を可能たら
しめる基礎でるる猫立の生産者からの︑生産手段
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よび生活資料を汲みとるための過程去︑強行的に費現ずるととが
出来る︒とうして︑商品
1
貨幣経済の喪展過程マ︑ブルジョア的性格を濃厚にじた︑商業資本家︑高利貸資本家沿よび地主は︑封建的諸制度の解盟を求めるが故に農民治よび無産者枯した封建的家臣閣の反封建的勢力花︑直接・間
接に結集し援助を興え︑徳川封建制度の崩壊を一一度促進させた︒
かかる商業資本︑高利貸資本︑地主︑農日前治よび窮之し無孟医者化した封建的家臣闇の︑反酎建的諸勢力の基礎の上
, に︑この反封建的諸勢力を統一し︑結集する佼割を演じたのほ︑下級武士階級であった︒すなわち︑とれらの者は思想 的教誌の持主でるったから︑反封建的思担を一つに結集する
ζ
とができたのである︒しかし︑とのととは︑明治維新 いわゆるこれらの下級武七階級でるったととを︑直ちに意味す るものではない︒たしかに︑これらの下級武士階級は︑幕府︑諸侯たよび上級士族と釘抗闘係にるった︒そして︑と
の封抗関係とそは︑かれらが商品
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貰幣経済の護畏によって︑日々無産者佑し︑わづかにし陶工人的な内職によって生
請を維持じ得たζ
とから導き出された︒しかし︑徳川封建制度の下にたける身分的階居からすれば︑農・ヱ・商の上
の政治的時現革の主躍となり︑それを指導したものが︑
"位に位いし︑封建的支配幣級として白地位を保っていた︒だから︑とれらの下故武士階級はこの二つの性格左もっと
共に︑現費的生活D
基礎の上守︑反封建的諸勢力を一つに結集するという役割を殺したと考うべきではなかろろか︒
だから︑反対建的勢力の基底をなしている︑農局の力が弐第に増大すると共に︑下級武士階級は官僚枯し︑明治維新
そのもD
が安協的な建革となに絶封主義への
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一切り開いたのぜあるD品曜かかる封建制度︒内部に胎生じつつあった詩矛盾は︑たしかにそれ自盟︑封建制度左撃破し︑新らしい政治制度を 導︿︑世舎・山山内消的保件をなしている︒しかし︑それらの諸矛盾の設展は︑まだ︑それだけでは濁闘の政治的樺力を
︑ ︑
獲得する交でには護展し得なかった︒とれらの基礎的た問内的諸傍件︑ど絡みあって︑今一つの︑附随的た僚件である 嗣際的情勢が︑外的篠件を構成し︑とれらの二つの傍件が結び合わされて︑日本資本主義賞展の端緒としての︑劃期 的意義をもっところの︑川治維却を迎えるととができたのである︒
徳川末期にたいては︑イギリス・フランスを始必とする︑先進資本主義諸園たよる凶際資本が︑日本の閥内資本に
封して強躍を加えていた口ζ
うじた諸情勢に置かれていた臼木は︑それら諸国
D植民地?となる危機に立っていた︒つ
日本
民法
典論
争の
枇合
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基礎
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九
日本民法典論争の一位舎・経済的基礎についで
九四
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売進資本主義諸閣の東洋市場開拓の要求であった︒
一八
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から
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天保
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にかけて︑中国に沿いては阿片鞍争がたと伝われ︑イギリス・・フランスを主軸とする中園進出が開拓せられた︒そし
て︑残る員本市場にたいしては︑一八五三年八茶︑試六年)アメリカの提督ベリーが浦賀にきて︑
強要した︒一徳川幕府は︑ついに一八五八年円安政五年)には通商僚約を締結し︑翌年には開港となった︒開港による海
外貿易の開始は︑封建一位舎のたかに苧ぽ眠
D
つどけていた日本経済に︑たどろくべき急激の鑓佑をもたらした︒とろ して封建制度に胎生した矛盾という︑社舎・経諦的歌態が圏内的保件とたり︑外的保件としての閤際情勢と結び合っ 母︑それが臆奥的客離的保件となり︑封建的支配関係の︑封建制度の打倒という政治的表現をもつようになった︒と ろして︑明治維新が導き出され︑盛典の上に登場せしめられたのでるる︒
貴力をもって開園を
︹ 註
1) ︺
持西光迩日本における産業資本の形成
四頁門お茶の水書房
九四 九年 w 月
2)
持西・犬西・加藤・大内共著日本における産業資本の談窓上巻
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)f!̲三 大
頁 協〔 炉j
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枇 防 法 政 摩 郡
一九
五一
年一
月
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岡本清
第五
巻︺
4)
日本における絶叫剖王制の成立と明治維新首時の合議制についで
揖西・大島・加藤・大内共著日本における産業資本の愛護上巻
一七
側支
︹一
批人
四日
科率
講座
産業革命
紛一野呂築太郎会集
第一
巻
五回頁︹岩波書底
明治維新に︐おける制度上の援車問瓦︹日本資本主義援建史講座ハ策一一一同U岩波書庖
一頁
一九
一九
一年
一月
︺
一九
四七
年四
月︺
町H弘文堂 5)
堀江英
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八月︺ 潤羽仁五郎・伊豆会夫
一九
一一
三年
とろして︑徳川封建制度の中に胎生しやがてはそれが明治維新を導くととろの囲内的傍件となった駐舎・経済的
基盤の土に︑ブルジョア自由主義思想が次第に形成されていったむそしてvブルジョア自由主義思想の基底と怠る自
仙川
一法
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Dは︑徳川幕府D蕃書調前の穀投手偉並の職にるhy︑すでに蘭壊についてD教養の持主であった︑津町
翼}郎(異道)︑西周助︿周一)が︑オランダに官製生として訳語されたととに始まる︒すなわち]八六五年(慶藤元年﹀
粧等が卸朝ずるまでの約二年間︑レイデン大墜教授シモン・ブィセリング
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に開成層から﹃泰西国法論﹄を︑また︑西周は]八六八年(明治元年Uに﹃寓国公法﹄を︑それぞれ刊行することに
フランス法事の基底となっている自然法設を蹟く紹介するとととなった︒そし℃︑自然法に基歩ノミブルジョ
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︑ 一 八 六 六 年 ( 慶 巌 ニ さ
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ア自由主義思想炉︑設時の急進的人士の心を深く把えたととは営然である︒このととは︑たとえば︑その後大井憲太
郎・中江兆島等のフランス法事者が続々とフランス訟を紹介・翻詳したことでも解るであろうQそじて︑それはやが
宅その後に生じた自由民樺運動の思想的基礎となり︑法律墜としては︑いわゆる自由民構法事波の形成となったので
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そして︑先示︑幕府底結直後の鹿置として︑﹃王政復古園戚描同之御基被ν鴛ν立度問自今揖開幕府接結部今光
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者でるる下級武士階級・公卿の革新的政治要綱ともいいうる︑﹃政館主日﹄が護衛せられた︒
カ輸相一ア之ヲ太政官ニ師ス)則政令二逢=出ルノ患ナカラシム︒太政官ノ植力ヲ分ヶ︑立法・行政・司法ノ一一一樺ト
ス︒則偏重ナカラシムナリ9二︑立法古ハ行政官ヲ攻ヌルヲ得ス︒行政宵ハ立訟官ヲ集ヌルヲ得スQ但シ臨時都府巡
仰木立法官之ヲ管スルコトヲ得
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この﹃政謹書﹄の起卒者は土佐の一隅同孝悌と肥前
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こ︑とができなかった︑樺力分立制にもと歩く政府の構成︑木政官制にむける上下二院制を修正した曾議制︑さらに官
吏公選を定め︑形式的には近代民主政治を構想じたのでるる︒しかし︑明治政府が中央集植を確立するためには︑な
お教共一にわたる︑封建的建存勢力に針する武力的破昨︑版籍奉還︑秩藤底分たよび統一的諸制度の確立を経なければ
ならな今︑った︒その'た治︑↓八六九年(明治二年)六月十七日には︑﹃版籍奉還﹄がなされ︑一八七二年内明治四年)七
月十四日の円駿藩置路﹄までD︑暫定的措置とし抗鷲藩主二六ニ人を︑知藩事に任命じた︒ζうしてγいままでの
ように︑徳川幕府の下に藩を置き︑それぞれの藩ぼ︑葎主による領主的制約がなされ︑同時にそれぞれの藩は宇濁立
いままでの藩をして︑地方自治瞳に轄他し︑それをして中央
政府の下に統一するという法的形式を採用し︑ブルジョア的中央集権困家が費現した︒とのプルジョア的中先集樺閥
.家としての法形式の貫現によって︑資本v主義的国家形態となり︑その岡家権力によって︑人々のあらゆる生活関係を
じて︑資本と労働との酎立関係として把え︑それを資本主義的秩序に合致せしめるととが可能となった口かくして︑
・枇舎闘係のずペてを資本主義的生産関係に適合せしめ︑社曾秩序の名の下に︑会賊労働者抑曜のための公的構カをもっ という性格をもっととろの︑封建的同家形態を解消し︑
に至つわo
とに角︑明治政府は︑﹃巌藩置賜﹄によって︑近代的統一国家として白法形式をととのえることができた︒
︹設
11) 10) 9) ︺
尾佐竹猛
岡本 清一
太政官制と内閣制一五頁︹昭和刊行合
一〆 三七 頁︹ 日本 評論 枇
日本憲政史大綱
一九
四四
年五
月︺
一九
一一
一八
一年
一月
︺
一一三頁︹同志枇法皐第五巻︺
8)
鈴木安嬢マ
ルグ ス
日本にh引ける絶釣王制の成立と明治維新営時の議合制について
ブラシスにおける内観︹マル・エン建築パ大月書底版V
一一 巻 三 五 頁
l
一一
三六
頁︺
一まや制度の上で郡嬬制度が確立し︑封建的支配機構は底止され︑近 代的統一国家が形成された︒しかし︑その貴質に沿いては︑封建的政治組織を︑な訟その内に有し︑薩摩・長州・土
一八
七三
千円
明治
四年
)の
廃藩
置鯨
によ
って
︑ 佐・尾張・越前・安審の諸雄藩による︑連合的藩閥政府として成長して行った︒従って︑その法形式に沿い℃はとに
角として︑貴質的内容に於いて︑ブルジョア的政府として明治政府が成立したかったのは︑明治維新を導き出した︑歴 史的・客観的諸傍件のたあである︒とれらの歴史的諸傍件から明治政府が︑封建的生産様式を覆へし︑資本主義的生 産様式への移行によって︑近代園家としての賞を備えようとする場合︑そ白物質的基礎を今封建的小作閲係に置き︑
その上に資本白原始的蓄積むため︑いままでD
小作料を地租へ轄佑し︑租税牧入を開明的殖産興業政策へ日記入し︑資 本主義的生産様式の強行的移殖を必要とした︒だから︑明治政府によって︑地主的勢力の物質的基礎でるるととろの 封建的諸闘係が︑新らしい翻鮪から保護育成されて行った︒そ白ため︑明治維新によって︑封建的諸関係のすぺてが
鹿止されたと見るととはできないU
︑明治政府をブルジョア的園家'形成の捨い乎として把えるとともできない︒従っ て明治政府がブルジョア法制度を移入しようとした
Dは︑徳川以来の不平等傍約を改正し︑調立一因家としての形態を
日本民法典論争の祉舎・経済的基礎にづいで
九
Fじ
日本民法典論争の社合・経済的基礎について
九
l¥.
ととのえ︑封外的関係に沿いて封等関係をつくりだすた治であると共如︑そDための前提として︑いままでの封建的
生産様式&資本主義的生産様式に︑強行的に轄他し往ければたらなかったから︑その轄佑が自生的になされ︑資本主
義的生産関係白土墓の上に築かれ︑それに照膝ずるものとしてのブルジョア法制度を移入し︑先進資本主義諸国のプ
'ルジョア法制度︒耀受によって︑日本資本主義護展を助長し︑資本主義的生産を可能ゑらしめるため︑すべての枇舎
関係を資本主義的秩序に誼合さぜ︑規律するた必であっ加︒だから一八七
O
年ハ
明治
コ手
U江藤新一ゃによって注された
局法典の編纂事業は︑資本主義的生産様式の土蓋の上に築かれ︑それに照躍するととろの︑市民的社合関係の基礎的
規律とたる昆法典を編纂するというととを企園していたととは明らかでるる︒とろして明治政府のブルジョア法制度
の移入によって世舎関係は資本主義的秩序に順隠し︑ブルジョア法制度そのものによって︑資本主義的諸関係が護展
し︑強行的に移殖された資本主義的生産様式による経済的土肇との相互作用によって︑日本資本主義が護展するとと
となった0とうして︑明治政府が企国した民法典編纂は︑そり主観的企闘にもかかわら示︑日本資本主義護展の障碍
とたっている封建的諸闘保をとりのぞき資本主義的生産を基礎とする︑市民世舎の基礎法を確立するとととたった︒
そして︑日本民法典の内容一は︑資本の原始的蓄積の時期を通じて︑弐第に高まり確立した︑産業資本主義の客観的諸
俸件によって︑具躍的に決定されるととになったのである︒
1¥
15) 14) 13) 12)
き
内問
穣士
日
卒野義太郎
内問
穣士
日
服部之総
日本資本主義論争史上谷八五頁︹新興出版枇 日本資本主義社舎の機構ニ五頁︹岩波書底 日 本 資 本 主 義 論 争 史 上 巻 八 六 頁 近 代 日 本 外 交 史 七 八 瓦i七九頁︹世界書院
一九
四九
年二
月︺
一九
三四
年四
月︺
一九
四六
年一
一一
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16) 平野議太郎日本資本主義の機構と法律t
︑
A守もJE
先進資本主義諸固からの強墜に封抗し︑後遺牲をとりもどすため︑明治政府は封建的生産様式左資本主義的生産様
式にとって代えるとと左必要とした口そのた的︑資本主義的生産様式を強行的に移入し︑温室的に保護育成する諸政 策を採用した︒そして︑それらの企国沿よび諸政策の法的外被として︑制度佑されたブルジョア法制度は︑法制度そ のものの進歩的形式の故に︑日本にたける午封建的瞳制の除去を提求しつつあった農民・下扱士族・商業資木家・地 主の諸要求と一致していた口しかし︑明治政府の殺した諸政策!!1租税制度︑国境制度︑植民政策︑インフレーショ
ン政策︑殖産興業の保護育成政策等々
It
‑‑
こそ︑査本の原始的蓄積の過誤に於て︑絶艶主義を確立するために意識的
に注されたO
であ
ho
とのとと段︑それらの諸政策によって︑絶劃主誌の基礎をゐびやかす︑ブルジョア革命への一
切の運動を抑麗し︑総釘主義に封して直接に封抗するに京った︑貧農沿よぴ都市の勤法大衆による︑自由民権運動︒
護展を弾監したととでも現解するととができh口だから︑明治政府の開明的諸政策たよびブルジョア法制度の移入は
封建的性格と近代的性格の︑二霊の性格を河沿った諸政策として理解するととはできない︒それはつねに︑明治絶釘主
義の温棋での︑それぞれの護展段階に託ける︑絶封主義をつつむ外被をたしていたのであ
hQ
それ故に︑結封主義が
確立すると共に︑とれらの外被をわけもたくぬぎすて︑半封建的・学隷農的農民としての費農を土査とし︑その上に 強行的に︑資本主義一的生産様式への移行を︑目的意識的に行ったのである︒
明治政府のたどった遣は︑結釘主義白謹であった︒だから︑明治政府が︑ブルジョア法制度とし℃採用した︑近代
的法制度は絶劉主義乏助長するためのものであった︒もちろん︑日本民法典もそちしたブルジョア法制度の一環を形
成する・ものでるるから︑それらの諸制度一般が︑従って日本民法が奉仕した結的主義の枇舎的支柱とたった階層表明
日本民法典論宇の社会・経済的基礎にづいで
九九
日本
民法
典論
争の
社会
・経
済的
基礎
につ
いで
一
00らかにした
ho
ごく大まかに言えば︑
第一
に︑
明治政府の下で官僚の母瞳と伝った︑封建的下級士族でるる︒第
花︑明治政府の開明的殖産興業によって成立した産業資本家・殊に官僚と結びついて行︿政肉︑そして︑第一一一に︑明治
維新の政治的援革にLよって︑封建的土地所有関係が近代的土地所有関係D法形式によって置きかえられたため︑形成
された地主であった︒だから明治政府の採用したブルジョア法制度の︑従って日本局法典はこれらの諸階居の利盆の
ために奉仕するた必のものでなければならなかった︒だから
日本民法典の内容ななすものは︑資本主義的生産様式への強行的移行の前提とたる資本主義的秩序関係を︑人々の位 一般人民太衆むもので'はたかったのである9
つま
り︑
舎一関係︒中に持込み︑明治政府の貫現しようとしている諸政策の諸僚件を︑打出して行くという役割を果すととであ
った
一八六九年︹明治二年)六月一七日の太政官撞に土って︑明治政府は公卿・諸俣の稽をるらため︑華族という時揺に ︒
統一した0とうして封建的身分制度︒底止の第一歩がふみだされた口そして︑同年一二月の布告に上って︑犬夫・士
すべて士族たよび卒とし︑従来の農・エ・商をすべて一や目的と稿した︒さらに︑一八七一年ハ明治以下の稿を廃止し︑
間半リ八月二八日の布告では︑機多・非人の栴を慶し︑
﹃自
今身
分職
業共
平日
刊と
同様
とす
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とと
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めた
︒
つづ
い て ︑
一八
七二
年(
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五年
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士族
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﹃卒
馬首
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許﹄
ハ明
治一
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月一
九日
布告
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﹃華
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ハ明
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一
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一七
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︑
年同
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日布
品向
U︑
﹃半
士族
平岡
崎互
=婚
姻主
詐﹄
(明
治四
年八
月一
一一
一一
日布
告
Y﹃華士族分家者千烏籍編入﹄(明治七年七月一O
R布告第七=一競)たどの一蓮の身分法法相喝を制定し︑封建的身分制度主慶止すると共に︑住居移轄の向由たよび職業謹
揖の諸制限を撤援し︑資本主義的生産乞可能ならしめる︑近代市民法的﹃法の前に沿ける人格の一自由﹄が法形式にた 之輩隠居及び養子同腐方﹄
﹃士
族之
輩隠
居及
び養
子出
願方
﹄︹
同上
﹀︑
﹃戸
籍法
﹄ハ
明治
問
いて賓現したDまた︑特樺的組合制度によって︑自由を制限されていた日営業の自由︑
一八
六八
年(
明治
元年
U五月には
一ω商法大意﹄左布詰し︑従来の問屋株︑その他の封建的特権組合制底を廃止すると共に︑一八七二年(明治五年U
八月
には︑農ほ刊の商業を営むととを詳し︑一八七二年ハ明治五年)一二月には︑在ん日者以外の宰士族が農・工・商陪従事す
るととを許し︑管業の自由を認めた︒とれらの]連の制度的援草によって︑農民を自由なる勢働力白供給者に轄他す
ると共に︑明治政府は封建制度に基礎を置く︑掠制改革を通じて︑封建的安回開を解樺させ︑資本主義的生産へ参加
させたのであるD
すな
わち
︑
一八七六年(明治九年)八月五日﹃金格公債謹書護行保令﹄託公布し︑秩称︒奉還を命
じ︑秩絡の虚分を完了した︒J公債底分によって生活の資としたた
あ︑弐第に無産者
ι
の道をたどったりである︒そして一八七七年(明治↑O年)以後︑明治政府の行ったインフレlシ との家格制の暦止によって︑多くの下級士族は︑ョン政策に土る貨幣慣値の下落は︑無産者他を決定的存ものとした︒
封建的土地所有闘係を打破り︑近代的土地所有関係に轄犯さぜるととは︑資本主義的生産を可能‑たらしめる前提で
ある
Dだから︑近代的土地所有期間係の法制度花が︑明治政府のたさたければならぬ緊念事であった︒
すた
わち
︑
﹃ 同
削永代費ヲ禁止﹄する奮制を底止し︑その禁制を解除し︑土地の自由な取引そなすととである︒とのととは同時比寸謀
ヲ陸
一止
シ鯨
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官候
事﹄
(明
治問
年七
月一
何日
太政
官布
告
Uによって︑訟形式陀沿いて︑中央集維を費現した明治政府の
近代的租税制度の確立という緊念の必要とも合致していた︒そむため︑一八七二年ハ明治五年)二月一五日太政官布告
第五
O
競を
以て
︑
﹃地所永代資山貝ノ儀従来禁制ノ鹿内今国民共買買致所持候憐被差許候事﹁?とし︑同年二月二四日大
煎省建第二五蹴は﹃今般地所永代費買被差許伎一一付今後売買並譲渡ノ分地器波方等別紙ノ誼可相心得事﹄とし︑別新
の﹃地券波方規則﹄を謎布した︒とうして︑近代的土地所有関係を法制度佑した︒もちろん︑法制底的に︑近代的土
日木
民法
典論
争の
社会
・経
済的
基礎
にづ
いで
。
日本民法典論争の一組合・経融問的基礎についで
。
::‑ヨ峰
2認A
地所有闘係が樹立されても︑貴質的内容に沿いて段︑九な治従来の封建的土地所存関係ぼ根強く残存し︑除去されおこ
とがたかった︒新らしく土地所有様者とたった地主は︑依然として︑ヤままで題りの封建的領主の汲取っていた全剰
飴慣値を︑小作料といろ形式で︑封建的経済外的強制に代うるに︑契約の自由占いう法的外被をもって︑汲取った︒
とうした意味での︑近代的土地所有樺の上に却治政府は租税制度を確立したのである︒
一八七二年(明治五年)一一月二四日の﹃地恭一波方規則﹄による︑地歩の交付に
t c たっては︑い交までの土地に封ずる
外形的諸関係を法的に承認した︒それは明治政府にとって段︑担税制度を賀行ずるため︑まボ第一に︑納税義務者を
確足ずることが必要であった口だから︑土地からの作徳を牧納した者に劃して︑土地所有権を山崎えたのでるる︒とう
して︑現賓の土地閥係に関係たく︑一J率的な標準によって︑土地所存関係を規則したととは︑耕作農民D分割所有権
乃至二重所有権な慶絶じ印︒とのととは︑開墾舟小作関係についての一八七五年(明治会ヤ﹀四月の内務省指令によっ て明陪に解るのである︒すたあち︑﹃小作人ノ儀ハ︑作株ヲ地主=買取一アスカ︑又ハ地株ヲ小作人へ譲渡サスルトモ︑
一地雨主ノ姿‑一不成桜島分スベシ︒高一︑熟読ユ不至向ハ申立ノ遇︑原主ヘ器献ヲ渡シ︑原主小作人ノ間五 一一説書取持サセ︑後日ノ紛乱ナキ様.注意スベれ﹄と丸山るように︑地主が永小作権を買取るか︑または永小作人が所有 権を買取るかのいづれかにし︑もし︑地主と永小作トへとの間で︑協議が調わ扱いときには︑外形上の地主犯封じて所
有植を認め︑地家を交付した︒また︑ずべでの山林を官有か私有かのいづれかに匡分したqそのため︑農局が︑いき
可成 丈︑
交でに保有していた︑
一村または敦村の入命日闘係に置かれていた︑山林の多︿が官有林野に編入され︑総有的権利で
ある入倉樫を喪失した︒また︑
一一地方の慣習法と捻っていた同地割替制度も陸止された︒との︑官有林野に不常に編
入された面積が如何に多かったかは︑
一八
詐九
O
年内明治二一一一年)に至り︑農務省訓令で﹃官有林原野引艮﹄の申請を可し︑訴願法治よび訴願法により違法底分に封する救済の迭を拓いたとと︑たよび︑それにもとやく再審査の出闘が
多かったととでも理解しう
ho
との様に︑封建的土地所有闘係を除去する際に︑現質的諸闘係によって︑‑資本主義的‑
土地所有権を確立したかったととは︑明治政府の政治的樺力の経済的基礎とたる︑農業関係堂︑非資本家的小規模生 産様式にたいて温存しようとする企固による︒そのため︑小作農・貧農と地主の利害関係が銑く封立するに至ったの
であ
る︒
一八
七二
年内
明治
五年
U九月の﹃地債取調規則﹄によって地租改正の第一歩がふみ出された︒
そし
て一
八七
一一
一年
ハ明
四月には︑地方官舎議を開き︑地租改正の方針についての討議がなされ︑そ
D中から小委員舎吃選出し︑改
正法案を作成せしめた︒との草案によって︑一八七三年ハ明治六年)七月二八日太政官布告第二百七十二競を以て﹃今
般地租改正ニ付︑奮来町畑貢納ノ法ハ悉皆相一般し︑克ニ一地器調査相済次第土地ノ代償一一騎ヒ百分ノ一一一ヲ以テ地租ト
可こ
相定
一甘
被一
一仰
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候﹄
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布し
︑﹃
地租
改正
傍例
﹄﹃
地租
改
E
規則﹄並ニ﹃地方官心得﹄を布謹しわ0とろして地租改正は一八七五年ハ明治八年﹀から一八八一年ハ明治一同年﹀にわたって完了したのである︒地租改正
D要賠は︑山︑地
債課税法に改めたとと︑∞︑租額を地債の百分の一一?に定めたとみ﹂︑問︑金納としたととの一一一賠七ある口との様に改正 治
六年
) された地租は︑封建時代の貢租をそのままに︑ただ︑それを金納にしたといろだけのととでるる
ι地方官心得にしめ
された検査例によると︑同一一氏歩白牧穫米一石六斗︑石三固として︑代金四国八
O
銭であるとき︑地租は一固二二銭四厘︑村入費は地租D一二分のつす
J なわち四
O
銭八
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合計
一一
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一一
一銭
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収穫
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D
一一
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︒ とろして地租牧入の占める金蔵入並びに経常歳入に封ずる割合は︑
一八七二年(明治五年)に沿いては四割治よび八割
以上
︑ 一八七三年(明治六年﹀には︑七割台よび八割五分を占めていた︒とのととは農民の負捨が︑その中で支配的地
日本
民法
典一
論争
の枇
合・
経済
的基
礎に
つい
で
。
日本
民法
典論
争の
社会
・経
済的
基礎
につ
いで
一
O四位を占めているととを示している︒とろして︑明治政府は︑徳川封建制の貢租より重い租税負捨を農民に興え︑汲取
った財政牧入を資本主義的生産のためにつぎとみ︑それを工業資本に轄化して︑官営企業を直替し︑資本主義的生産
様式の助長・育成を積極的になした︒
一八七四年(明治七年)大久保利遇は﹃園︒強弱は入国内D費宮に由り︑貢官は物産の多寡によるから︑物産を増大させ
るためには工業を必要とする﹄とし︑近代的工業を奨励したoそして︑﹃政府政官の誘導︑奨織によって達成ナペし﹄
̲‑"
これらの閤営企業の中按と怠っているものは軍需ヱ業・重工業であった︒
ぽ︑幕末奮政府によって創設された関口製詰所を︑一八六八年(明治一万年)官能し︑とれを東京砲兵工廠となしたのを
初めとし︑犬版砲兵工廠・横須賀議時所・長崎遇措尻・兵庫浩結問・石川島謹船所・鹿児島語船所更には鏡山・鍛
造・電信・機械生産のための赤羽工作分局・佑事工業のための深川工作分局・品川硝子製諮問・雷同模範製締ヱ場等め々を創設し的︒明治政府ほ近代工場工業を白から創設し︑模範工場とたずみ﹂共に︑
って︑資本主義生産様式の移入の基礎となる諸傍件を︑
て︑従来の封建的経桔を取除くととそ沿じまなかった︒ 一貫せる諸政策治よび諸制度によ
とし
︑
圏替事業をなとしている︒たとえ
強行的に人魚的手段で貴現した︒
そし
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その限度に沿い
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明治家族法史六支門法律準控系法理論編 永 小 作 纏 論 可 五 二 頁 ' 明 治 家 族 法 典 七 頁
日本地方財政制度の確立二一一良︹岩波書路一九四一年一二月︺
日本官僚政治史均五頁
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日本評論枇
一九
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とれらの明治政府のなした諸政策は︑明治政府が一日も早く費現しようと努力していた資本主義的生産様式の強行
的移入と︑それによって先進資本主義諸園よりの日本の後遺性をとりもどし︑・資本主義の育成と護展をなそうとする
ためであった︒そむために明治政府は︑封建制度を底止しようとする諸政策をとった︒しかも︑と白とと段︑鶴川封
建制を打倒し︑明治維新の政治的欝革を導き出した︑念進的人士である︑下級武士を先頭と一する諸藩の連合︑
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よび
それらと結び付いた産業ブルジョアジーゐよび豪農地主との反幕府的勢力と︑・次第に高まりつつあった貧農たよび都
市黄島の蓮動である百姓一撲や︑打とわしのブルジョア自由主義的思想治よびそれにもとづく諸要求と合致したの'で
ある︒だから︑日本民法の編纂についても︑誰よりもフランス法の輸入を熱心に主張していた︑江藤新平は近代市民
フランス民法典の直誇的移入による日本島法典の編
粧品
胃の
基礎
法と
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︑
フランス法事の自然法に基ゃく思想から︑
纂を強行に主張したのでるる︒そして︑とのととは自然法思想に基く限りに於いて︑たとえフランス民法典を直詩的
に移入しても︑白木の市目的粧舎生活関係を規律するととができると考えるととは︑営然訟ととであり︑また︑営時の
人々にとっては︑とのととを否定する理由治よび必要を少しももたなかったりでるる︒
しかし︑明治政府がそれらの︑いわゆる﹃上からの改革﹄としての諸喰策をとったのは︑明治政府の政治的権力白
基礎が確立するまで︑明治維新を賓現した人々の︑ブルジョア自由主義思想に譲歩したというととであって︑それら
日本民法典論争の枇舎§経済的基礎について
一
O五日本民法典論晶子の祉会・経済的基礎にワいで
一
O六の諸政策を着々と沿し進あるととによって︑肖己の政治的権力の基礎が確立して行くと明治政府は結封主誌の遺へ
a︐ 進んで行った︒そのため︑反封建的・反絶封主誌のための闘争としての長島闘争苧よび自由昆権運動が生じたのであ る︒すなわち︑明治政府の諸政策によって︑弐第に資本主義的生産の基礎がかたまって行くと︑'その反面に於て︑舎一 農・小作人・下級士族との反政府的な反抗を醸成し︑また宇封建的な搾取の︑基礎に立つ︑地主・商業資本家高利貸 資本家あるいわ産業資本家までも︑利議とする範囲内でブルジョア的自由民権運動の︑共通の捨い乎としてまきこん
で行った︒もちろん︑自由民権運動は︑日本資本主義が牛封建的搾取の︑物質的基礎の上に立っているが故に︑農
村にたける貧農・小作人と地主との利害関係一が銑く封立するととにたり︑また明治政府が自己の濁自の政治構力が確 立するまで︑自己が保詰助長しなければならなかった︑産業資本家との安協を飴儀なくされた︒だから︑自由民樺蓮 動が︑その後の諸捺件によって︑本来的た運動にまで議長ずるに杢ると︑反動佑した地主沿よび産業資本家などの股 落を背景とし︑明治政府のはげしい弾墜にさらされる運命にあった︒しかしたがら︑自由民権運動ほとれらの明治政
府の諸政策D護農の上に展開して行ったのでるる︒だから︑日本民法典論争が︑まった︿終った時期でるる二八九二
年(明治二五年)には︑↑産業資本主義が確立したため︑産業資本主義の査本主義的生産関係を法的に保障する民法典と しては︑沿︿れた護展段階にるる資本主義的生産関係を規律する︑フランス民法典を母訟とするよりも︑より高い饗
展段階にるる資本主義的生産関係を規律するドイツ民法典が︑産業資本家には望まれ︑金た︑絶封主義D法制度とし
ては︑ドイツの法制度がより適切であったたあ︑フランス民法に立脚歩る奮昆法はドイツ民法に立脚する現行局法典
にとって代えられたのである︒
臼木民法典論争の端初は一八八九年︿明治一二一年U五月の法皐士曾の︑﹃法典編纂についての意品書﹄が提出された
時期である︒そして一八八九年ハ明治一一二年)ぼ︑明治政府の千によって︑プロシャ憲法を範とした大日本帝閤憲法の
議布のたされた年であり︑絶封主義が法形式に於ても完成した年でるるつ二
O
年の歳月を費し︑完成したフランス法を基礎とする日本昆法典︒編纂過程には︑つねに︑封鑑的諸関係の廃止左基底的た要求としてし有ずる自由民措運動
が︑背景︑会して存在するからでるる︒そして︑日本民法典論争とそ︑自由局擢運動の町一殺の上に始めて賞現し︑築き
上げられた明治絶封主誌の︑自由民樺運動Dイデオロ1グとの激しい論鞍でるると凪われるのである︒従って自由
民模運動が如何に展開されたか在︑民法典論争D絡み合ひに沿いてるとづけよろ︒
一八
七
O
年(明治一一石﹀江藤新卒によって注された日本民法典編纂事業は︑
省関に確執を生じたたあ︑江藤新平ぽ辞表を呈出し︑同年四月一九日参議に轄出したため︑日本民法成ハの編纂事業は
江藤の念進的なフランス民法典による編纂は改められ︑
一八七三年︹明治六年)一月司法省・大蔵
十分なる準備と慎重深慮に基くことを要すると主張が汝さ
れ︑新たに︑司法卿となった大木喬佳によって︑民法典編纂事業が面白を一新した︒かかる民法典編纂事業の態度こ
そ︑征韓請に敗れ︑連扶辞職した参議︑江藤新平・板垣港助・後藤象二郎・副島種臣等によって︑一八七四年ハ明治
七年
V
一一月提出された︑﹃民撰議院設立建白書﹄
を袈端とする︑自由民権運動に封する︑明治政府の政治的考慮に
よるのでるる︒かくして︑﹁民撰議院設立建白書﹄によろ反政府的抗争として︑
自由民権運動が踏出された︒とれら
の思想そのものの某礎は︑政府内円同局者と同様でるった︒しかし︑営時すでに成長しつつあったが︑新らしい山一世舎秩序 へ白︑会社合的要求をしげきし︑それに一つの具鵠的目標を興え︑明治維新によって獲得し持たかった︑自由︒ため
の運動へと護展ずる契機たり得たD
であ
る︒
一八六九年(明治二年U
から
一八
七七
年︹
明治
一
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ヤ)前後にかけて︑各地に護生した農民暴動は︑反政府的役民衆運
日本
民法
典論
争の
一般
・会
総務
的基
礎に
フい
で
一
O七日本民法典論争の一位舎・経済的基礎にづいで
一
O八動としてむ性格をもっていた︒そして︑武力的反抗の前艇をなしていた︒しかし︑一八七七年(明治一O年Uにたける
西南職役を最後として︑武力的反抗の時期は絡り︑組織的政治的闘争の時期とたった0・各地には弐?と政世が組織さ
れた︒そして︑とれらの政枇の全園的統一のために活動したのは立志社である︒一八七八年(明治一一年U九月には大
阪で︑愛圏一世が再興された︒そして園舎開設の蓮動は︑紙幣債値の下落による物債騰貴1園家財政の閤民的不満を
背景として︑燃えひろがったのであるD
一九
八
O
年(
明治
一三
年)
一一
一月
一七
日︑
愛国
一駐
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舎期
成同
盟と
護展
した
︒
明治政府は園舎開設請願運動の弾墜にむり出し︑一八七八年(明治二年)七月一五日太政官布告第二九践を以て︑
﹃近来地方‑一於テ岡事政瞳ヲ談論スルノ目的ヲ以テ何某祉ト稽シ或ハ演説舎ヲ開キ多衆来合スル︑モノ有之様相聞右警
察官‑一於テ観察ヲ加へ高一共畢動民心ヲ煽動シ園安ヲ坊害スル=渉担候者ト者認候節ハ東京府下ハ警視長官各地方ハ
其ノ長官
3
同禁︐止︑共事情ヲ具ヘ内務卿へ可届出此旨相建候事﹄と布建したしかし︑全闘的に展開した運動の前9D
︐には如何ともなし停でついに一八八
O
年ハ明治一一一三年)四月︑集舎傍令を公布した︒とうした明治政府の巌重注取締法令の賃施によって︑園舎開設請願運動は一時抑制されたが]八八一年ハ明治一四年)の開拓使官有物梯下問題を契
機として︑一八八三也T
一ハ
明治
一四
‑ 5
には政饗が起った0とうして︑一八八一年(明治一四年U一
O
月一
一一
自に
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八九
O
年(加治ニ三年)を期して園舎を開設するという閤舎詔書が褒せられたのであるo一八
八一
年(
明治
一四
年
Uの
政饗
で
大隈のイギ9ス型立憲主義の主張が敗れ去ると共に︑官僚軍閥の勢力を背景に︑制度的には天皇の大樺を強佑し︑議
舎の樺限を極度に制限した︑プロシャ型擬似立憲主義の憲法制度が︑園是として確立した︒伊藤博文はプロシャで憲
一八八五年(明治一八年)には︑太政官制度を改めて内閣制を設け︑績いて官法取調をたしたのち蹄朝した︒そして︑
吏試験任用制白基本方針を定め︑絶封主義の支住となる新官僚群の養成を目的として︑
一八
八六
年(
明治
一九
年)
帝圏
大挙令を公布した︒そして︑帝国大島一たないては︑そD
ために︑明治結封主義に役立つ法墜教育がほどとされた︒そ の場合︑明治政府ほそろした法事教育としてイギリス法墜を︑後にはドイツ法事を中心とする法事教育右左したので
ある
D
たとえば︑東京大事の起源どたる東京開成事校で︑ボァソナ
Iドが司法省畢校で︑一初めて自然法の講義をなし
た一八七四年(明治七年)に︑英語によるイギリス法の講義がなされていたとと︑弘和上び︑そとでなされたイギリス法
曲学の講義が︑オースチンの法律晶一訟に基礎を置くことでも解るのである口たぜ反らぽ︑オースチンO法律事読は︑歴
史法島一説と共通した基盤に立脚し︑絶封玉制を基礎づけるものであり︑資本主義社舎を導きだした︑フランスの自然 法思想とは︑封立する法律事設であった︒であるから︑明治政府が絶封主義の道にたいて必要な︑いままでの封建的
た諸慣習を︑絶封主義D
基礎として採用し︑そのための法律の制定を慣習法として︑理論的犯基礎づけるというとと がこの磨氏法事設に基礎づけられる︑今封建的自由主義的イギリス法墜によって︑可能とたった
D明治政府は︑との
イギリス法事によって︑
フランス法撃のブルジョア自由主義に封立するととができると考えたのである
Dイギリス法
についての紹介・醜詳は︑
すでにイギリス法等況の人々の手によってなされていた
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えば
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一八七七年ハ明治
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は︑中江佑介諜﹁英団財産相績法﹂が}八八三年(明治一六年)には︑K
八四年ハ明治一七年)には︑相馬︑水胤諜﹁英米寛賞法﹂︑闘直彦課﹁オースチン氏法理事﹂が︑ 日賀同種太郎諜﹁私訴犯法﹂が1
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一八八六年(明治一九年)
には︑高橋許六著﹁英米身分法﹂等々がある︒とうして︑イギリス法事についての講義がなされでいた︑東京開成畢 校は帝園大事令に上って︑東京大事となったのである︒そレて︑帝国大事が新
僚詳の養成機関としての目的をもっh p
‑八
八七
年(
明治
二
O年)の文官試験試補沿よび見習規則に上って︑法科大島一二文科大畠忌よび嘗東京
大問晶子法問晶子部・文製部の卒業生には︑高等試験を要せ示して︑試補に任守る特権を興えているととでも解るであろ
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︑ 日本民法典論争の社会・経済的基礎にづいて
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民法
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O このととによって︑従来の封建的士践が︑容易に官僚と友り得る道を開き︑同時陀︑それらの者が︑結封主義的官僚 に轄佑するととを可能にした︒明治政府は︑とろした自由民擢建勤の展開に封抗するため︑その政治的櫨カを確立す るととを可能にし︑それを推進せしめ得る法制度の確立をなに工りも痛感じていたのである︒
しかし︑明治政府が自白馬権運動を匪殺するためには︑先歩︑その政治的擢力の法制度的表現のための法律の制定 えそれらの法律の金一時系の基礎となる︑岡家基本法である憲法の編纂が︑伊藤博文の外避によって︑急速に百円瞳佑 された︒そして︑自由民構法間中者のフランス的︑イギリスゐよびアメリカ的憲法理論と具る︑プ口シャ罷誌に基ゃく
大日本帝詞憲法炉設布された︒
一八
八九
年(
明治
二二
年)
まで
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フラン久民法に立脚する日本民法典の編纂事業は︑営
初の合激な移入にとって代って︑弐第に慎重が期待されて行った︒
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フランス民訟の紹介・鶴語は︑
フ 由
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ス法事況に属する人々D乎によって︑た治精力的に行たわれていた︒たとえば︑
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同氏詳コアルソン氏俳園昆法解緯第三編之部﹂(五巷四時)︑
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1ルロン氏伸蘭西局法覆義﹂第一巻が︑
ン氏悌蘭四民法覆義﹂銘ニ巻︑井上操︼諒﹁ボヲソナ1ド氏性法講義﹂(第一同講義﹀︑加太邦憲諜(梯困民法程一委﹂
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・氏伸園民法期満得昆編講義兄ボワソナlド起稿
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加太邦憲他語﹁民法草案財産編講義﹂(二時)が︑
問講義)(明治ご年刊一八八二年(明治一五年U
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光明寺三郎課﹁伊悌民法比較評論﹂︑悌ジョセフ
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1著加太邦憲語﹁俳蘭西民
一八八九年ハ明治ニ二年)には︑綿マルカJア1摂一一瀬勇三郎謹﹁伸圏民法時数解設大金﹂が紹介・概誇注れ
ているのでるって︑とれらフランス島訟は︑フランス法的自然蕗思想に立ち︑ブルジョア自由主義思想の基礎をたし
ていた︒とうして︑とれらのフランス昆訟にたいする理解によって︑近代市民枇舎の基礎法としての日本民法典の編
纂は︑日本資本主義麓展の其躍的訟歴史的過程に於てフランス法串波の手で行われていたのであるoそして︑明治
政府も︑とれらのブルジョア自由主義的一要求としての︑フランス民法典に基歩く日本民法典編纂の績行を︑絶封主義
が確立するまでの過程にないては︑飴儀泣くされていた︒
きて︑園舎開設の運動に始まる自由民権運動D護展は︑人々に政治的意識を典え︑政治的自由と自己の主張をつら‑
ぬき貴現するためには︑白からのカで戦いとるべきととを自費させるととになった︒しかし︑自由民樺運動は種々の
階級から構成されている︒すためち︑貧農︑自作農民︑新興地主︑都市小市民︑マ=ュファクチュア資本家治よび明
治政府に参加するととのでき‑なかった段落士族の︑雑多たグループであっ加︒だから︑自由民権運動に︑それらの雑
多なグループを統一したりは︑反政府的イデオロギーであり︑結封主義の確立を令薗し︑貴現しつつあった明治政府
に封抗する民主主義的政府む樹立︑封建的責租にすぎない地租からの解放︑近代的資本のたかの自由︒確立という要
求を運動の過程に成長させ︑政治的表現の貴現にまで高めたのでる
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しかし︑とれらの諸要求は貧農︑小作人治よ
び都市小市民の本来的要求を一示すものでるるが)自由民纏運動に地主治よぴマ昌子ブァクチzア資本家が参加してい
たととにより︑改良主義的思想をもちとむとととなり︑下からのブルジョア民主主義革命として︑激議するととがで
きたかった︒たぜなればそれらの者は︑封建的危ものの土華の上に自己の地位を維持するととができたからでる制︒
そのため進歩的とたり得たかったととは営然でるった︒それらの地主治よびマ=ュファクチュア資本家ほ封建的身
•
分制度の棋底をくつがえし︑自己が政治的樺カを占めるととを可能にするためには︑華族︑藩閥的官僚︑軍閥たよび
日本民法典論舎の一位舎・経済的基礎について