印度學佛敎學硏究第67巻第2号 平成31年3月 (228) ― 815 ―
戦後のフィクサーたちの参禅
栗 本 眞 好
序論 ここ10数年,近隣諸国との関係を,国民が自問自答せざるを得ない状況 の中で,我が国におけるナショナリズムの歴史,とりわけ「右翼」と呼ばれる 人々の足跡や思想に注目が高まってきている.伊藤隆編『笹川良一と東京裁判』 (中央公論新社,2008)をはじめ,大下英治『黒幕,昭和闇の支配者』(大和書房, 2006)や,有馬哲夫『児玉誉士夫,巨魁の昭和史』(文芸春秋社,2013)など,「右翼」 と呼ばれる人々の中でも,笹川良一,児玉誉士夫といった「フィクサー」の役割 を果たした人々の人物像に迫った著作が多数出版されている. 筆者は,「右翼」と呼ばれる人々が,玄洋社を創設した頭山満,黒龍会を創設 した内田良平を源流に,血脈を重視している点1)が,祖師以来の嫡々相承を尊ぶ 禅宗と類似している事を単なる偶然とは思えず,詳細を調べてみたところ,異色 の経歴でありながら,臨済宗妙心寺派の管長の地位に登りつめた山本玄峰に師事 し,前述の笹川,児玉の宿命のライバルであった田中清玄,四元義隆の2人の右 翼のフィクサーの存在を知るに至った.2人の足跡を って,禅宗が昭和ナショ ナリズムの形成にいかなる影響を与えたかを考察したい. 第1章 田中清玄 明治39年に北海道七飯村で生まれた田中清玄は,旧制函館 中学,弘前高校を経て,昭和2年に,東京帝国大学に入学するも,日本共産党に 入り,革命家を目指す為に,中退した. 清玄はテロ活動を何度も計画した結果,昭和5年,治安維持法違反の罪で逮捕 される.その結果,共産主義に懐疑的だった母が自殺し,昭和9年に,清玄は, 転向を決意し,昭和16年に出獄した際には,見事に勤王の志士となっていた. これは,一見すると特殊な事に見えるが,赤尾敏や津久井龍雄など,左翼から 右翼に転向した活動家は,意外にも少なくはない. 出獄後は,小菅刑務所に収監されていた時分に,四元義隆に紹介された山本玄 峰のいた龍沢寺で参禅する.玄峰は,清玄に,「あんたは奇特な方や.おっかさ んが腹を切りなさって,あんたは刑務所へ入り,もう10年も務めている.そう(229) ― 814 ― 戦後のフィクサーたちの参禅(栗 本) して尚,自分のいく道を考え,世の中の事を考えている.まあ,あなたは自分が 何であるか,外道であるか仏であるか,これでも読んでよく見極めなさい」1)と 言って,『白隠禅師全集』を手渡した. 龍沢寺では,禅寺で,炊事を担当する「典座」を任されるも,不慣れな清玄は しばしば,米を焦がしてしまい,玄峰から,ある時は,「あんたは殺生しとるな」 とたしなめられ,ある時は,何の為に参禅しているかを尋ねられ,「世の為,人 の為」と答え,「わしは世の為,人の為にと念じて修行した事は1度もない.み んな自分の為にやっているんじゃ」2)と一喝されるような日々を送る. こうしているうちに,いよいよ真珠湾攻撃によって,日米開戦となるが,玄峰 は開戦に際して,「軍は気違いじゃ.気違いが走る時は,普通人も走る.日本の 軍という気違いが,刃物をもって振り回している.今,歯向かっていったら殺さ れるぞ.そのうちに気違いは疲れて刀を投げ出す.それを奪い取ればいい.お前 は時局に関して,一切何も言っちゃいかん.修行専門だぞ」(ママ)3)と,清玄に 語っている.清玄はこうした中で,頭山満を訪ねる機会を得たのだが,満から, 「日本は小にして大.小が大に勝つこともある」4)とどっちつかずの事を言われ, 失望したと語っている. やがて,戦火が激しくなってくると,鈴木貫太郎をはじめ,岡田啓介,迫水久 常,安倍能成といった昭和史の大立者たちが,玄峰のもとを訪ねてくるようにな る.昭和19年には,迫水を通して,東条英機が面会を求めてくる.日頃は,「わし の部屋は乗り合い舟じゃ.村の婆さんも来れば乞食も来る.大臣も来れば共産党 もやって来る」(ママ)5)と語っていた玄峰だったが,「我慢や我見に囚われたまま わしに会っても,とてもわしの言う事は分からんじゃろう.せめて幼稚園の子供 のような心境になって,全てを捨て切った東条さんなら,わしの言う事も多少は 分かるじゃろうが,今のままでは会っても無駄じゃ」6)と言って,固辞している. 後年,清玄は,玄峰が,5・15事件の裁判で,井上日召の特別弁護人を務めた 経緯から,「老師は右翼的だったのか」と尋ねられ,「老師は右翼とか左翼とかい う事は,はるかに超越しておられた.…(中略)…しかし,そういう者に対しても, 玄峰老師は何も返事をしなかったり,とんでもない事を言ったり,本当の事を 言ったり,時に応じて変幻自在な応答をしてこられました.ところがどれが本当 の老師の姿か,見抜くだけの眼力のない人にとっては表面だけ見てとんでもない 玄峰老師像が出来上がってしまう」7)と述懐している. 昭和20年1月15日の蠟八接心の際,玄峰は,「日本は大関じゃから,勝つもき
(230) ― 813 ― 戦後のフィクサーたちの参禅(栗 本) れい,負けるもきれい.日本はきれいに,無条件に負ける事じゃ.これは命を懸 けた人間が5人いれば出来る.今,本土決戦じゃ,聖戦完遂じゃと言って騒いで おるが,そんな我慢や我執にとらわれておったら,国体を損ない,国民は流浪の 民になる」8)と語った.同年3月25日,玄峰は,大命降下を受けるべきか否か, 武人政治に反対する立場から迷っていた鈴木貫太郎と赤坂で会い,「力で立つ者 は力で滅びる.金で立つ者は金で滅びる.徳をもって立つ者は永遠です.貴方は 日常の政治家ではないし,総理になる人でもない.総理になる者は,世の中の悪 い事も,いい事もよく知っていて,いい事に尽くす事のできる人間です.貴方は 純粋すぎる.しかし,今はそういう人が必要だ.名誉も地位もいらん.国になり きった人が必要だ.貴方は2・26で,1度あの世に行っている方だ.生死は乗り 越えていらっしゃる.お引き受けなさい.ただし戦争を止めさせる為ですよ」9) と助言し,8月15日の終戦を迎える. 終戦から4か月ほど後の12月21日,清玄は,昭和天皇に拝謁し,「陛下は絶対 にご退位なさってはいけません.軍は陛下にお望みでない戦争を押しつけて参り ました.国民はそれを陛下のご意志のように曲解しております.陛下の平和を愛 し,人類を愛し,アジアを愛するお心とお姿を,国民に告げたいと思います.摂 政の宮を置かれるのもいけません」10)と伝えた. その後,清玄は,ハイエクと親交を持ち,中曽根康弘首相の靖国参拝に苦言を 呈したり,今上陛下のご訪中を水面下で調整することとなるが,玄峰のもとでの 参禅が,その後の清玄の活動の精神的支柱となっていた事は,想像に難くない. 第2章 四元義隆 四元義隆は,明治41年に鹿児島で生まれ,旧制鹿児島第7 高等学校から,東京帝国大学に進学し,「天皇は絶対無限」と唱えた上杉慎吉に 師事するも,昭和4年に,上杉と実母が立て続けに鬼籍に入ったことを受け,安 岡正篤の金鶏学院に入る.安岡は,北一輝や大川周明ら,国家主義者たちに幅広 い人脈を持ち,やがて,義隆は,「血盟団」の井上日召とも出会い,昭和7年に, 牧野伸顕内大臣の暗殺を計画した疑いによって,懲役15年の実刑判決を受け, 小菅刑務所に収監される. 義隆は,昭和8年3月8日付で,「私の坐禅は革命の為の坐禅であり,私の読書 は革命の為の読書であったのであります.全く私は革命の雲水であったのであり ます(中略).真面目に坐禅すればする程,自己への欲求は益々万事を放擲して本 来の自己何物にも拘はれざる自己本来無一物なる自己の面目を見んことを決し て,只管此に精進したのであります」11)という上申書を,東京地裁の中里龍に宛
(231) ― 812 ― 戦後のフィクサーたちの参禅(栗 本) てている.そして,昭和9年9月15日の公判で,龍沢寺と名古屋の日暹寺の住職 を兼務していた山本玄峰が,特別弁護人を務めた.玄峰は,日召に関し,「永年 精神修養をしているが,その中で最も宗教中の本体とする本来の面目,仏教で言 う大円鏡智を端的に悟道している(中略),法は大海の如く,ようやく入ればいよ いよ深い,日召が真の仕事をするのはこれからと思う,万一死刑となって死し, 虚空は尽きてもその願は尽きぬ,日本全体有色人を生かすも殺すも日本精神1つ である」12)と弁護した結果,日召は,死刑を免れて,無期懲役となる.玄峰はし ばしば小菅を訪れ,ある時,義隆に,体を大切にするように言い,義隆が,「生 きるとか死ぬとかそんな事は問題ではありません.日本の為,国民の為に全てを 捧げる覚悟です」13)と反論したところ,「そういうのを薬缶道心と言うんだ」14)と 一喝した. こうした日々を送っているうちに,昭和15年9月13日に,義隆は,仮釈放と なる.昭和20年4月7日,田中清玄の章で紹介した通り,玄峰の助言によって, 鈴木貫太郎内閣が発足するが,義隆は,内閣嘱託として首相秘書役に就き,終戦 に尽力する. 後に,義隆は,吉田茂,中曽根康弘,細川護熙といった歴代首相の指南役を務 める事になるが,昭和36年に玄峰が96歳で遷化した際,円覚寺の朝比奈宗源か ら,「僧俗を問わず,1番悲しいのは君だろうな」15)と言われ,義隆自身,「老師 は自分にとって親以上の存在と云える.傍についているだけで自分の人格が良く なるような人物だった」16)と玄峰を偲んでいるように3),彼の人生観の支柱は, 愛国心と同時に,禅から得た部分も多かったと指摘できる. 1)高木蒼悟編『玄峰老師』大法輪閣,2009(pp. 180–184). 2)玉置辨吉編『回想 山本玄峰』春秋社,1970(pp. 154–162). 3)田中清玄・大須賀瑞夫『田中清玄自伝』 筑摩書房,2008(p. 162). 4)前掲『田中清玄自伝』(p. 115). 5)前掲『田中 清玄自伝』(p. 118). 6)前掲『田中清玄自伝』(pp. 118–119). 7)前掲『田中 清玄自伝』(p. 123). 8)前掲『田中清玄自伝』(p. 130). 9)前掲『田中清玄 自伝』(pp. 132–133). 10)前掲『田中清玄自伝』(p. 139). 11)金子淳一『昭 和激流 四元義隆の生涯』新潮社,2009(p. 128). 12)前掲『昭和激流 四元義隆 の生涯』(p. 136). 13)前掲『昭和激流 四元義隆の生涯』(p. 143). 14)前 掲『昭和激流 四元義隆の生涯』(p. 143). 15)前掲『昭和激流 四元義隆の生涯』 (p. 49). 16)前掲『昭和激流 四元義隆の生涯』(p. 184). 〈キーワード〉 右翼,フィクサー,田中清玄,四元義隆,山本玄峰,龍沢寺 (花園大学大学院博士課程満期退学)