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福岡県における融和事業・融和教育の一側面~田中小八郎の事蹟を通して~ [ PDF

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Academic year: 2021

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福岡県における融和事業・融和教育の一側面

~田中小八郎の事蹟を通して~ 単級、部落の子、福岡親善会、融和教育、青年融和 教育システム専攻 竹永 茂美 問題の設定と先行研究 本研究は福岡県・浮羽郡における融和事業・融和教育 のありようを田中小八郎の事蹟を通して解明することに ある。 水平社運動は1922年(T11)3月3日「全国に 散在する我が特殊部落民団結せよ!人の世に熱あれ人間 に光あれ」と宣言して被差別部落民の自主的な解放運動 がスタートした。福岡県の水平社も翌年の1923年5 月1日に全九州水平社を作り委員長に松本治一郎を選出 した。国は全国水平社が結成されると1925年2月1 日に全国融和連盟を創立し、同年9月23日内務省社会 局に中央融和事業協会を創立している。 本稿では、田中小八郎の水分尋常高等小学校在職中、 ならびに福岡県親善会での活動を明らかにすることを第 一の目的とする。つぎに、今まで収集したきた田中小八 郎や田主丸町水分地区に関する聞き取り調査や史資料を 整理・紹介することにより当時の水平運動・解放教育と 融和事業・融和教育の実態・論理を明らかにすることを 第二の目的とする。第三に田中小八郎の歩みが福岡県・ 浮羽郡・水分地区の人々の生活向上と部落解放へ向かう が、天皇制国家という壁の前には実現せず融和事業・融 和教育の枠を乗りきれなかった過程を明らかにしたい。 先行研究として1971年木村京太郎が「水平運動史 の研究」で「水平運動に対抗しておこなわれた支配者階 級の融和政策・融和運動」と述べ、1988年中村福治 が「融和運動史研究」で「融和運動史の分析対象が水平 社創立前後の融和政策・融和運動の成立期に限られてい たし、研究対象になるのか、どれだけ意味があるのか懐 疑的な意見があった。」と述べている。このような中、 教育者として部落の学校に関わった教師を川向秀武が1 973年伊東茂光論研究ノートを1984年森山沾一が 池田残論研究ノートをもとに明らかにしている。199 4年に鹿子島達男が~筑後の部落史に足跡を残す先駆者 や活動家とその事績の記録~で筑後地区の部落解放運動 やについて初めて明らかにしている。しかし、田中小八 郎や浮羽郡における水平社運動や融和事業・融和教育に ついての研究はほとんどなされていない。 (一)福岡県・浮羽郡の部落改善事業・地方改善事業、 部落改善事業は全国水平社結成された年までをさし県 下では企救郡百武吉兵衛、浮羽郡田中小八郎ら各地の篤 志家たちによってなされてきた。国は1920年(T9) 内務省内に社会局を新設すると初めて部落改善費補助と して17府県に予算をつけた。全国水平社が結成された 翌年には事業名を地方改善費と改めた。県の地方改善事 業は1923年(T12)4月の地方改善補助事業に関 する件通牒等が出されて始まっている。浮羽郡の部落改 善事業・地方改善事業は 1916年(T5)5月20日 吉井町広園区の青年・処女会補習教育所建設や1923 年3月の水分村前原地区公会堂建設、同年4月同地区「明 治天皇遙拝所」記念塔建設とわずかながらなされていた。 県の融和事業・融和教育は1923年4月地方改善補助 事業に関する通牒から始まり、1928年に福岡県親善 会が設立されると翌年から予算措置がなされ本格化し た。 (二)小学校教員時代の田中小八郎 田中小八郎は1782年(M5)11月1日浮羽郡水 分村野中に誕生した。1895年(M28)福岡師範学 校本科を卒業し1904年(M37)4月水分尋常高等 小学校に初代校長に就任している。この間水分村にある 部落の子どもたちの教育に当たっている。 小八郎の師範学校時代は融和時報で確認できた。「当 時の附属小学校には『単級』といふ一学級が置かれて特 別授業の研究所があつた。一種の侮辱的名称となつてい たからである。どうも厭な気持ちであったが、しかし長 く単級を担当させられた。従って受け持ち児童が可愛く てならない。真に可愛かつた。之は侮辱に対する一種の 反感であらう。其後融和問題で一生を終ることを決心し たことから見ると、私はどうも一の運命を有したゐるの だ。」(第45号以下融和時報の号数)と融和教育に関 わる決意の一端を述べている。 水分尋常高等小学校時代も時報や融和事業功労者事蹟 で確認できた。「処が児童間の喧嘩が絶えない。未だ其 頃までは侮辱とか失言とか部落の起源などの言葉さへな い寧ろ当然なことと思った時代であった。然しこの侮辱 を受くる身になれば怒るのも当然であるから、父兄は学 校に怒鳴り込んで来る。」(第45号)そこで、怖い嫌

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- 2 - な気持ちではあったが学校からただ一人、役場から一人 臨席してもらい部落に行って保護者会を開いた。この会 で「我が子に対する愛の至情は結婚の如何に関するもの ではない。」と子どもへの愛情は生まれによって差別さ れるのはおかしいと気づきはじめている。退職後も数年 間は地元に残り、環境改善や部落の人に対する教育にも 取り組むようになる。それだけでなく、差別する側の職 員や村民の意識や行動を変えようと各区の懇談会で因習 打破の講演にも取り組んでいるが、学校職員の協力は得 られないままに終わり、この時期の経験が後の親善会で の活動の下地になったと考えられる。 (三)福岡縣親善会における田中小八郎 1929年8月31日親善会の主事になった田中小八 郎は一ヶ月間東京小石川隣保館にて開催された中央融和 事業協会主催の融和事業指導者講習会に参加している。 「広汎なる知識と適切なる指導及び燃えるが如き熱とを 与へられ深く感謝する所にして、当該事業が、いかに重 要性を有するかを雄弁に物語るものである。」(第36 号)と感謝の言葉と融和事業の重要性を載せていること から、融和事業に対する情熱と必要性と緊急性も大事で あると考えたことが分かる。それとともに水平社運動か ら融和運動に転向した事例に今後の方向性を見つけ出そ うとしていた。以上のことから融和事業指導者講習会が、 小八郎の融和事業・融和教育に対する思想が確立したと 考えられる。 小八郎は主事に就任前から教育現場の指導者育成が必 要と考えていた。しかも、講演先で「田中主事が居られ て相当努力してゐるが斯る事業は一人より二人、十人よ りは百人と一人でも多数の理解ある熱心家のあることが 融和を促進するのであると思ふ。」(第52号)と言わ れ必要性を痛感していた。親善会も結成後、数多くの教 育者懇談会や指導者講習会に取り組んできた。しかし、 指導者育成だけに力を注いでいても、部落の子どもたち が毎日差別を受けても当然という教育を受けていると考 え、工業学校生や女学校生徒たちだけでなく最後には小 学生まで講演会をするなど直接働きかけている。193 2年10月文部次官依命通牒「国民融和ニ関スル件」で 小学校に対する融和教育の方針が出される前であり先駆 的な取り組みであった。 融和教育は1926年の全国融和事業大会で「小学校 教育者に対し融和観念を助長せしむる様当局に請願する こと」からスタートし、1930年の第二回全国融和団 体連合大会で「教科書を通じて児童及生徒に対し融和観 念を涵養し之が徹底を期する。」とようやく教師が教科 書等を使って指導するまで進んだ。1933年12月7 日中央融和事業協会に融和教育機関が設置され翌年「融 和運動に関する教育的方策要頄」がまとめられているが 県では具体的な動きが見られなかった。小八郎は「差別 糾弾事件を見るに、農村に尤も多い、迷妄者の那辺に多 きかを知るに足る。」(第38号)や「私の経験を以て すれば、部落研究をしたるが為に非常に理解を強め根本 は何でもない話だ。」(第44号)や「差別事象の根絶 は実に初等教育に待つべきものと思ふ。」(第54号) と考えて最重要課題として取り組んだ。これにもかかわ らず県下各地の融和教育や教育者側からの組織だった団 体は出来なかった。教育界は融和教育を本来なら親善会 という融和事業団体ではなく自分たちが率先して解決す る課題であるという認識になかった。 国は融和教育を集中的に研究検証し融和教育を推進す るため、部落のある学校を中心に融和指定校を設けてき た。県での取り組みは、1941年田川郡伊方国民学校 が指定校を受けて「融和教育研究発表会開催、其会況の 一端報告すればと行事項序、本校融和教育の特徴、教授 案(融和教育に立脚せる修身教授尋一)」を載せて、初 めての融和教育発表会が成功し、県下に範を示す事が出 来たと報じている。また、第176号で伊方国民学校創 作の同和劇「春の園(気味の悪い毛虫が翌日きれいな蝶 になる話)」の脚本を、177号で同和劇「三本の柱(次 郎と三郎は太郎をいじめていたが主征する紙芝居小父さ んに日満支のように共力を誓う」の脚本を載せている。 親善会は1938年4月に「小学校における低学年用 国民融和日参考訓話資料(池のほとりで小さな子供が水 に浮かんでいる蛙を見つけて石を投げました。)」を発 刊し生きている物にとって命が一番大事だ融和促進の大 切さを訴えたり、1939年田川郡教育会に「融和教育 修身細目」の編纂を依頼して翌年に完成した18ページ の細目を県下各小学校に一部ずつ寄贈したりしてきた。 国は全国の師範学校に対して1925年頃から留岡孝 助派遣を契機に重点課題として取り組んできた。小八郎 は「特に師範学校の生徒は将来長く教育家となるのであ るから、重要学科の一として卒業前に充分なる知識と理 想とを得て頂きたい。」(第54号)と1931年5月 に最初の記事を同年7月にも「男女師範学校生徒はやが て教育家となって国民教育に従事する人であるから、本 事業上実に重を置いている。融和教授細目に依り、更に 深き理解と信念を持つて地方の実際に□掌してもらいた い。」(第56号)と連載し重要性と必要性を述べてい る。1933年5月第62号には小栗知事臨席の融和座 談会とあり、知事の参加で県下に融和教育が広まると大 きな期待をよせたが、学校現場に出た彼等の融和教育実

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- 3 - 践、学校現場での差別事件への対応、融和教育機関設立 や融和教育指定校指定に関わったのか確認できていな い。 (四)田中小八郎と社会教化施設 功労者表彰は一つの融和事業の指導者のモデルとして 融和事業推進の宣伝・推進に役立たせてきた。小八郎は 「老母が養老の天杯頂いた。実に無上の光栄と感じ荊妻 と合議して、融和事業を以てこの洪大なる皇恩に報ゆる 一つとして心得」という表彰経験から表彰者たちの高恩 に報ゆる取り組みを期待したが確認できていない。 田中小八郎は出身地だけでなく近隣の市町村、全国的 な講習会などで差別事件や差別体験を聞いた。そのこと を「侮辱事件を赤裸々に、案を□きて述べしは予が胸を 痛く撃ちて大いなる刺激を受けた(時報37号)」や「悲 観憤慨の結果一身を棄てたるものが数知れぬ(時報42 号)」や「斯くして長い間には直接に共に侮辱を受けた ことも度々あり、又再ゝ実際問題を聞かされたことがあ る。之が私をして止むに止まれず次第に問題解決の為め に深入りして来た理由の一つである。」と差別事件が融 和事業・融和教育にかかわる理由と述べている。しかし、 水平社の糺弾闘争には否定的で糺弾闘争では差別を内側 に向かわせ表に出てこなくなると考えていたからであ る。糺弾が差別した側の意識や態度を変革させるだけで なく糺弾する側も意識を高めるという考えには至らなか ったと考えられる。 小八郎の地元の聞き取り調査の中に「小八郎校長先生 に授業料を払えなかった部落の子どもたちに立て替え た。」とあった。部落の子どもたちに教育の必要性・重 要性を考えていたことから、すでに始まっていた教育奨 励施設の奨学金制度の活用に取り組んだり、教育奨励施 設として図書館や隣保館、公会堂や集会所の建設に取り 組んだ。親善会でも身近な施設から公会堂・隣保館や託 児所といった教育施設の整備に取り組んだ。しかし、県 では多くの予算や人的配置の必要な診療所や図書館の建 設・運営はなされていない。 小八郎の表彰理由に「居村内にある部落が生活程度低 く且つ一般より差別せらるる有様を見て之が向上発展と 一般の差別観念打破に努ることに深く意を用いた。更に、 部落民にして市街地に出て営業を為さんとする希望者に 対しては、住居敷地等の斡旋に努め、之が為め久留米市、 田主丸町等に出て相当なる営業をなす者を出すに至つ た。(事蹟)」とある。このように親善会代表として参 加した会議において、部落産業の復興発展に大きな期待 をする発言をしていた。そのため、部落産業発展の方法 を質問したり県下各地で講習会など開いたりしてきた。 融和教育面での指導者養成施設に対して、融和事業面 は地区内の中堅人物養成施設である。中央融和事業協会 は1936年第一回中堅青年協議会を明治神宮外苑日本 青年会館で開き全国的に中堅人物育成に取り組み始め た。県からは金森仙太郎が、翌年は小川金蔵が第三回は 山下三代松が第四回は山尾六蔵が参加している。中堅人 物養成は小八郎達が期待したように第二回参加者の小川 金蔵は地元の大川市で部落の仕事拡張のための移転に尽 力している。 国は部落の人たちが、狭い土地の小作農や狭い部落内 にたくさん居住している事が差別を受けるのだと考え移 住奨励を明治時代から考えていた。当初は北海道への移 住が実施されていたが中国侵略ととも旧満州へと移住先 を変えてきた。県でも1939年に移住奨励施設として 三つの事業を行った。しかし、小八郎は「尚職業を転機 せう、部落を解散して新都市などに散在さすがよいとか 私の地方には部落がないから結構だなどいふ浅薄な説を 能く地方で聞くが一も徹底した意見でない矢張り因習に 囚はれた迷妄といはねばならない。」(共栄)や「何よ りもこの集団が目障りになると云ふ差別意識を剪除する ことのみに努力すべきである。」(第86号)と差別の 根本的解決にはならないと全面に否定している。このた め移住奨励する記述はわずか三つである。 (五)田中小八郎と青年融和教育 田中小八郎は青年を対象に「轍は熱きうちに打て」の 考えで、融和教育や青年融和教育団体育成に最重要課題 として積極的に取り組んだ。青年融和団体は部落の青年 を中心とにまず育成し、その後周辺の青年も巻き込んだ 青年融和団体を作りあふれるばかりの行動力に期待し、 青年の力で各地融和団体を推進させようと考えた。その ため親善会は青年に対して青年一夜講習会を開催した。 1930年最初の講習会について、町村長の精神尽力の 協力体制があったと、それに応えた青年達が規律的に行 動を共にし、又熱心なる聴講振りと偽りなき感話とをし てくれたことを紹介している。さらに、当時の多くの県 民が誤って認識していた部落の起源を「元を言えば大和 民族で何等変る事はない、それが仏教のために誤って差 別づけられ、封建制度のために階級が限厳になり、ただ 職業上から来たもので民族上には絶対に変りないことを 断言する。」(第42号)と載せ啓発し項調なスタート を強調している。1932年の5回570人まで青年一 夜講習会が開催され、県下では青年一夜講習会は評価さ れたものの青年融和団体の結成には到っていない。小八 郎はこの取り組みで年百数十ケ所を回れると期待したの だが1933年主事から嘱託になると青年講習会に変更

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- 4 - されている。 まとめと今後の課題 第一章では水平社運動に比べて明らかにされていなか った融和事業・融和教育の取り組みが福岡親善会や融和 教育指定校の取り組みなどからいくつか確認できた。こ の中には「池のほとりの蛙の話」や「春の園」「祖先の 数の話」など形を変えながらも現在の「同和」教育に生 きている教材が確認できた。また、県内にも明治期から 全国で始まっていた部落改善運動や地方改善運動が融和 事業・融和教育とともに確認することができ部落の人た ちの解放を願う闘いがあつたことを確認できた。さらに 筑後地区の水平社運動についての様子やこの運動が現在 も脈々と続いていることが確認できた。 第二章では田中小八郎の生い立ちや師範学校・水分尋 常小学校校長時代・退職後の活動を確認し、融和事業・ 融和教育の関わる思想のきっかけを明らかにすることが できた。差別が当然で、部落の歴史さえ分からなかった 小八郎も起源を学習することで自信を持って取り組むよ うになり、環境改善や青壮年や婦女子に教えるという関 わりや部落外への話し合いへの出席を求め、部落の人た ちからは歓されるのだが、周りからは「売名的だ、水平 社の大将だ。」との中傷を浴びせられる。しかし「あそ この人たちも同じ人間だ、差別してはならない。」と考 え、真摯に取り組んできたことを確認できた。 第三章では小八郎が親善会の主事に就任し、中融協の 融和事業指導者講習会で融和事業・融和教育に対する思 想の確立がなされたことがわかり、それ以降精力的に県 下各地を飛び回り取り組んできた事が確認できた。彼の 活動は、青年一夜講習会を県内各地で開き青年達と寝食 を共にしたりする元教師であったことや、差別事件に対 して「部落の方々から自ら遭遇した侮辱事件を赤裸々に、 案を叩きて述べしは予が胸を痛く撃ちて火なる刺激を受 けたり。(第36号)」「年明治初年戸籍編纂の際戸籍 吏か誤て、平民と記すへき箇所に賎称を記載せるものを、 今日尚、抹消又は張紙の健保在せるもの往々有之為に一 身上多大の打撃を被る場合も尐からす。」(第72号) と一貫して差別される側の苦しみに思いを寄せながら積 極的に取り組んでいることである。その一方で、「最高 至大の皇恩に酬るんかは寸時も忘るヽことはなかった、 感恩報謝の念こそ之現代の危機を救済する妙薬たらずん ばあらざる。」(第35号)「陛下の大御心を悩み給ふ ことを拝察するとき、誓旨の存する所によりて説き起て 世の誤解を説破し起源を説明し。」(第44号)「田中 主事は前回同様建国の精神と融和問題について朝の行事 として説いた。」(第63号)と「解放令」を出した明 治天皇の五箇条御誓文にある「旧来の陋習を破り天地の 公道に基づくべし」の考えも違和感なく両方持ち合わせ ていた。 小八郎は県の教育界に期待するのだが、融和教育研究 機関や融和教育研究指定校作りなどほとんど前進してい ない。そこで親善会として国民融和日資料や融和教育細 目を作り融和教育を推進したことが融和時報や部落問題 ・水平運動資集成や福岡県教育会会報誌等から明らかに する事が出来た。親善会の活動も青年対象、婦人対象、 師範学校対象と重要と考えた対象には単なる経過報告で はなく、自らの考えを記事として述べ啓発し、小八郎の 動きが親善会の動きを作ったと言ってよい。 今後の課題は田中小八郎が取り組んだ融和事業・融和 教育が県内各地やそれぞれの学校でどう実施・実践され 成果や課題は何であったのかを明らかにしていきたい。 また、地元に呼ばれていないだけでなく部落からも呼ば れていない。部落の困窮化が進んだためかそれとも明治 天皇遙拝所建設に金四円を寄附したり、松本源太郎に追 悼の言葉を送った水分村出身の森下五月の存在が関係し たのか明らかでない。地元にも当時の資史料が残ってい ることが予想されることから史資料の収集分析も今後の 課題である。 主要参考文献及び引用文献 木村京太郎「水平運動史の研究」部落問題研究所197 3年 中村福治「融和運動史研究」部落問題研究所1988年 渡辺徹・秋定嘉和「部落問題・水平運動史資料集成」1 973年三一書房 川向秀武「福岡県における融和事業と融和教育-福岡県 親善会の活動を中心に-部落解放史ふくおか第27号 鈴木洋蔵・中村拡三「部落解放教育資料集成」明治図書 1979年 森山沾一「部落解放教育の地域的形成-自己教育の生成 と展開-」明石書店1984年 「全筑後」水平社記念誌・第二次草稿・鹿子島達男19 94年 全九州水平社機関誌「水平月報」福岡県部落史研究会復 刻1985年 原田伴彦「融和時報」中央融和事業協会・三一書房復刻 1982年 中央融和事業協会「融和事業年鑑」部落解放研究所復刻 1970年 中央融和事業協会「融和事業功労者事蹟」1932年

参照

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