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芥川龍之介作品解釈辞典(一)

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(1)Title. 芥川龍之介作品解釈辞典(一). Author(s). 西原, 千博. Citation. 札幌国語研究, 9: 21-34. Issue Date. 2004. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2682. Rights. 本文ファイルはNIIから提供されたものである。. Hokkaido University of Education.

(2) 芥川龍之介作品解釈辞典︵一︶. ︽はじめに︾. 原. ののりはいまいちだけど。︵本稿でも先行研究の紹介はすでに. ある事典などに任せて、必要最小限度とする。︶. 敦全集第一巻から第三巻までを三年間やり、堀辰雄を一年間取. て解釈を試みてきた。さらに、その後同じちくま文庫版の中島. から順に第六巻まで六年間にわたり、代表的な小説を取り上げ. 之介について、ちくま文庫版の全集をテキストとして、第一巻. 曜日・一校時・半期・二単位︶を担当してきた。まず、芥川龍. らず、作者だろうが文化的コードだろうが、何でも参考・引用. る。さらに、近頃問題となっているテクスト論などにもこだわ. 立って分析していく。非理想的な不特定多数の読者の立場であ. たっては基本的には読者の立場、すなわち学生たちの立場に. 解釈が可能かを示すことこそが目的なのである。また分析にあ. 解釈の可能性を追求することを目的としている。いかに多様な. また、主題といっても、正解を導き出すというのではなく、. り上げた。都合一〇年で一サイクルである。その芥川が一昨年. して作品を分析していこうと考えている。作品中心主義とでも. 北海道教育大学札幌校に赴任して以来、教養科目の文学Ⅰ︵木. で二回目が終わった。本稿でほ、その授業を通じて取り上げた. る読みこそが優先されるのである。テクスト論として言えば、. 言っておこう。作品を理解するためならば何でも使う、しかし、. 授業においては先行研究などの情報を紹介するのではなく、. テクストとは厳密には読者の頭の中にしか存在せず、しかも、. 作品について、主題を中心とした作品解釈を辞典風に簡潔にま. できる限り独自の主題を提示することを目標としてきた。今、. 常に生成され続けるものである。如何にそのテクストに近づく. 作品に先立つ何事も認めない。あくまでも、読者の作品に対す. ここでしか聞くことのできない講義を目指してきた。いわば. かというのが問題になるだろう。. とめてみたい。. ロックのライブのようなのりである。オーディエンス ︵学生︶. −21−.

(3) て言及することとする。これは筆者の研究テーマの一つに作中. もう一つ分析の特徴として、作者と作中人物との関係につい. 一回きりものであり、戻さんは他人には生きることのできな. さんの心の中に実体を伴って存在しているのである。人生は. 人には語らぬものの、放蕩三昧の一生は未だにしっかりと戻. ︾. の生き方. ﹁戻さん﹂は、﹁十五の年から茶屋酒の. 味をおぼえて、︵中略︶親ゆずりの玄米問屋の身上をすって﹂し. この作品の主人公の. のように﹁戻さん﹂を見ているかも問題である。. 川氏の指摘にあったように、ではこの作品の作者、語り手はど. をどのように評価するかは意見が分かれるところだ。また、愛. 論、読者個々の価値観の違いがあるので、﹁戻さん﹂. を心の内に秘めているのではないか、とも言えなくはない。無. 対しても肯定的である。ただ、人は皆それぞれに﹁激しい生﹂. と、まず、作者が肯定的なことを述べた上で、その生き方に. ︵﹁老年﹂1﹃芥川龍之介全作品事典﹄︶. 人物論があることによる。この点についてあらかじめお断りし について二疋の長さの. い激しい生を心のうちに秘めている。 ︵作品︶. ておきたい。 なお、辞典などでは、各項目 制限があるが、ここでは、それぞれの作品について、自由に述 べることとする。 本文の引用は授業に使用したちくま文庫版の芥川龍之介全集. 作品解釈. ︵﹁ 新 思 潮 ﹂ 大 三 ・ 五 ︶. ︽. とし、取り上げる作品の順番もこの全集の収録順とする。. ○﹃老年﹄. については、これまで主人公の﹁房さん﹂の生き方. まった人物だが、﹁歌沢の師匠もやれば、俳句の点者もやる﹂. ﹃老年﹄. について、否定的な評価がされてきた。しかし、近年は肯定的. のである。放蕩に. う。この放蕩を欺岡の人生と呼ぶことになる。しかし、﹁楽隠居﹂. 身を持ち崩し身代をすってしまった者のなれの果てと言えよ. きとられて、楽隠居の身の上になっている﹂. たが、それでも幸に、僅な緑つづきから今ではこの料理屋に引. という芸達者で、﹁一しきりは三度のものにも事をかく始末だっ は哀れな欺岡の人生を生きた人間. に捉えるような見方もされてきている。 ﹃ひょっとこ﹄. 例えば、駒尺喜美氏は、 ﹃老年﹄. ﹃芥川龍之介の世界﹄所収︶. の味気なさを、そのまま照らしだして見せているのだろう。 ︵﹁習作について﹂. であることも見逃せない。確かに﹁辻番の老爺のようになっちゃ. あ、戻さんもおしまいだ﹂と言われてもいるが、作者が﹁房さ. と、﹁戻さん﹂ の生き方に否定的である。︵まあ、そもそも欺. 岡ではない人生があるとすればだけれど。︶これに対して、愛川. ん﹂の人生を否定的に捉えているならば、その末路をもっと惨. めに措くはずではないか。﹁楽隠居﹂とはあまりに都合が良す. 弘文民は、 降り積む雪は優しく、房さんを見つめる作者の目は温かい。. ー22−.

(4) とは言えまい。 この﹁房さん﹂ の生き方に対照されるのが、﹁中州の大将﹂ や﹁小川の旦那﹂だろう。こちらは﹁大将﹂とか﹁旦那﹂と呼 ばれているように店も潰さず、いわば欺岡ではない人生を歩ん. ぎる。作者が必ずしも﹁戻さん﹂の人生を否定的に措いている. から優しく包むように雪が降る。﹁雪はやむけしきもない﹂. り、虚構に遊んでいる者の姿に重なるのである。或いは小説を 書いている者の姿に。そして、そのような﹁房さん﹂の姿を外. 姿についても触れておこう。これは、端から見れば哀れに見え. の. るかもしれないが、﹁戻さん﹂自身からすれば、充分満足なの ではないか。これもまた、小説を読みふけっているもの、つま. できたと言える。しかし、読者はこの二人に魅力を感じるだろ. あるのか。或いはそれは老年を描きたかったのか、それともそ. である。作者が雪を降らせて、﹁戻さん﹂の世界を包み込む。 うか 。 特 に 歌 沢に対して、 ﹁小川さん、ないしょで一杯やろうじゃあ、ありませんか。 もう一つ付け加えるならば、これはよく知られているように 芥川の処女作である。最初に老年を描くのはどのような意味が ︵中略︶しらふじゃあ、第一腹がすわりませんぞ﹂. ﹁私も︵中略︶御同様に酒の気がないと意気地がありません. の. ︵﹁新思潮﹂大三・九︶. いて語るが、そこにあるのは理屈であって、具体的な描写・裏. この作品にはAとBという二人の青年が登場し、﹁死﹂につ. ○﹃青年と死﹄. の先の死をこそ目指していたのか。ここでは、どちらにせよそ から﹂ という二人はまさに俗な人物で、たとえ﹁器用貧乏﹂ であっ れは終わりを見ていたということではないかと考えておく。芥 たとしても、﹁戻さん﹂の芸事に対するものとは格段の差がある。川とは常に終わりを見ていた作家なのではないか、ということ の人生は欺岡とい である。これはまた別の項目で触れることにしよう。 この 実 人 生 の 方に目を向ければ、﹁房 さ ん ﹂. うことになるが、歌沢などの芸に目を向けるなら﹁房さん﹂ 方が実りある人生ということになる。︵愛川氏の言う﹁激しい生﹂. といえるのだが、一方で﹁中州の大将﹂たちが﹁激しい生﹂か ら無縁であっとも言い切れない。︶そして、作者の意図であって. もな く て も 、 読者はこの作品において ﹁ 戻 さ ん ﹂. けている点でこの作品は失敗作といわれても仕方ないだろう。. の生き方に魅 付けがない。小説において読者を説得させるのは作品中で語ら れる理屈ではなく、具体的な描写・行動なのである。それが欠. 力を感じるのではないか。ましてや、これは小説である。小説. において美人生こそを肯定することは、小説そのものの存在理. A. それは間違っているだろう。死を予想しない快楽ぐらい、. 由を否定することにもなるのではないか。︵無論、小説に美人. 僕は無意味でも何でも死なんぞを予想する必要はないと. 無意味なものはないじゃあないか。 B. 生を措こうとした無粋な輩はあまたいたけれど。︶. もう一つ、最後の猫を相手に昔の夢を見ている﹁房さん﹂の. −23−.

(5) A. 思うが。 しかしそれでは好んで欺岡に生きているようなものじゃ. し、姿の見えなくなるマントルを着て行くのだから、どれほど. 危険かどうか疑問で、単に酒池肉林の快楽に耽っているとしか. 差は単なる意識の差ということになる。外から見たのでは二人. 思えない。また、二人は同じ行為をしているのだから、二人の. それはそうかもしれない。. の差は解らない。つまり、言葉が具体的な行動として表れてい. ないか。 B それなら何も今のような生活をしなくたってすむぜ。君. というより、そのまま人物化されたと言った方がよりふさわし. この作品で注目するべきは、作品の最後で﹁死﹂が、擬人化、. とえ、時代設定があるとしても、現代には通じないのである。. 後宮に忍び込むという行為が陳腐に見えてしまうのである。た. ないのである。さらに、惜しむらくは現代の学生たちにとって、. A. とにかく今の僕にはまるで思索する気がなくなってし. 、つO. だって欺岡を破るためにこう云う生活をしているのだろ. B. まったのだからね、君が何と云ってもこうしているより外 に仕方がないよ。. いかたちで書かれていることである。この﹁死﹂. の捉え方には. A ︵気の毒そうに︶ それならそれでいいさ。. 芥川の特異性がよく表れている。しかし、この場面も厳密に言 えばよく解らない。. 青年Aは常に﹁死﹂を意識しているが、青年Bの方は﹁死﹂ を忘れている。作者は青年Bのような快楽の捉え方を一般的な. をたすけたのはお前が己を忘れなかったからだ。しかし. 莫迦な事を云うな。よく己の顔をみろ。お前の命. ゼとして書いている。しかし、現代において過激な快楽を求め. 己はすべてのお前の行為を是認してはいない。よく己の. 第三の声. るならば、死と隣り合わせのものほど、より強い快楽をもたら. 顔をみろ。お前の誤りがわかったか。これからも生きら. テーゼとし、それに対して青年Aのような見方をアンチ二T−. すのは常識だろう。また、ゲームなどでは快楽と死とが結びつ. 己にはお前の顔がだんだん若くなってゆくのが見え. れるかどうかはお前の努力次第だ。 Aの声. いていて、それを現実の中に持ち込むものすらいるのである。 ただ、ここでは快楽そのものが死と結びついているか、という. いて死を捉えている。無論、二人が行っている快楽、後宮に忍. の点でゲームで何人も殺して喜ぶような快楽とは別の意味にお. だろうということだけれど、﹁死﹂の顔とはどのような顔なのか。. に顔があるのか。いや人物化しているのだから、顔ぐらいある. ここでいう﹁己の顔﹂というのが、何かが解らない。﹁死﹂. る。. び込むというのは、見つかれば殺されることになるのだから、. しかも、この男は﹁黒い覆面﹂をしていたはずである。どうし. ことよりも死を忘れないかという意識の問題になっている。そ. 死と結びついているし、それなりのスリルもあるだろう。しか. −24一.

(6) 原典からすると仏や菩薩の顔ということになるのだろうか。し. える。﹂とある。やはり覆面をしたままなのである。この顔は、. 後﹁黎明の光の中に黒い覆面をした男とAとが出て行くのが見. て顔が解るのか。覆面をこの場面で脱いだのか。しかし、この. に美しいとは思わなかった﹂とあって、この点では自分の﹁老. ンゲルはここにいたのではないか。ただ、﹁己はお前がそんな. こにいるのは青年Aだけなのだから。︶すでに芥川のドッベルゲ. らば当然青年Bの方は死んでしまわなければならなくなる。そ. ろう。とすれば、これもまた一つの. ﹁老年﹂なのである。︵な. かし、この場面からではそれが仏なのかはっきりとしない。. 能性を呈示するに止めよう。 この後、二人は﹁黎明の光﹂ の中に消えていく。むしろ、こ ちらの方が死の世界への旅立ちに見える。欺岡ではない生き. 年﹂と解釈することは難しいかもしれない。ここでは解釈の可. いや時間を止めてしまうものである。死に年齢なんかあるはず. 方・努力を求めながら、非現実的な世界に旅立つのはどうも意. さらに、この﹁死﹂は若くなっていくのである。﹁死﹂とい. がない。︶しかも、どうやら青年Aはこの顔を見れば解るらしい。. 味がわからない。仏教的な意味︵出家や解脱︶. う者をいくら人物化したとはいえ、そこに年齢を見るというの. 仏の顔ならば解るのだろうか。それとも単に若くなるというこ. のかもしれないが、少なくとも作品にはそのような思想は明瞭. はかなり特異な﹁死﹂の捉え方だろう。︵﹁死﹂は時間を超えて、. とは、﹁死﹂と生とが、実は同じ事を意味しているというメッセー. に語られてはいない。読者にそのような理解を期待することは. を示唆している. ジを伝えようということなのか。それならばここでの若くなる. いう解釈をしてみたい。ここでいう﹁死﹂とは年をとった後の. 年Aが﹁死﹂を見て解るのは、それが青年A自身だからだ、と. これについて、さらなる解釈の可能性を追求してみよう。青. 要だが、それを当然のようにすることによって作品そのものの. といわなけれならないだろう。テキストの空自を埋めるのは必. 介もするけれど、作品としての自立という点からすれば不十分. できない。無論、研究者は調べるだろうし、授業では原典の紹. 青年Aだったのではないか。だから最初解らなくて、だんだん. 姿を見失うことにもなりかねない。それはまた作者の姿を見失 うことにもなるだろう。あくまでも作品が不十分だから注釈を. はかなり年齢的には低くなることになる。. 若くなって来るにしたがってそれが自分だと解ってきたとは考. するということを確認しておこう。. を措くことの意味は何か。それがこの作品の主題である。. 本当とは何か、嘘とは何か。嘘の世界である小説において嘘. ○﹃ひょっとこ﹄ ︵﹁帝国文学﹂大四・四︶. えられないか。︵年取った自分ならばすぐに気がつくのではな いかととも考えられるが、しかし、それを確かめることはタイ ムマシーンでもなければ誰も出来まい。︶この場合、先の解釈と の違いは﹁若い﹂という言葉から想定される年齢が、前者はか なり若いことになるがこちらはそれほどでもないことになるだ. 一25一.

(7) この作品の主人公﹁平吉﹂は花見の船の中で﹁ひょつとこ﹂. lan亡Sの云う神様には、首が二つある。どっちがほんとう. ぱらっている時の人格︶というのが一つの仮面として捉えられ. ぱらうと﹁別人﹂のようになるので、この酒・酔い︵厳密には酔っ. うことになる。というのも、﹁平吉﹂は酒ばかり飲んでいて、酔っ. て、この面をとった﹁平吉﹂. でもなくどちらも本当ではない。本当の顔は仮面を取った時に. いとどちらが本当なのか、ということになってしまう。言うま. ある。﹁平吉﹂はふだんは嘘をついているのであって、嘘と酔. 者に思わせるが、実はこの神様と﹁平吉﹂とは設定が違うので. 酔い、と二つ顔があって、そのどちらかが本当の顔のように読. の首だか知っている者は誰もいない。平吉もその通りである。. る。しかし、﹁ふだんの平吉と酔っている時の平吉とはちがう. 初めて見られるものである。つまり、外からは見えないものが. の面を付けて踊っているうちに頓死してしまう。そして、面を. と云った。そのふだんの平吉ほど、嘘をつく人間は少ないかも. 本当の顔ということになる。それを逆にこの神様に当てはめる. この文はあたかも﹁平吉﹂もまたこの神様のようにふだんと. しれない。﹂ともあり、この﹁嘘﹂もまた﹁平吉﹂の仮面である。. なら、この神様のどちらかの顔が本当の顔ではなくて、顔と顔. とった﹁平吉﹂の顔は﹁ふだんの平吉の顔ではなかった﹂とあっ. つまり、酔いか嘘かどのみち﹁平吉﹂はいつも人前では仮面を. の繋がっている裏側にこそ本当の顔があるような図式になる。. これは外から見た﹁平吉﹂とその内側との相違としても捉え. 本当の顔なのだろうか。誰も知らなければ、それはどちらも本. いや、この神様にしたところで、はたして本当にどちらかが. の本当の顔とい. かぶっていたということである。そして、死んで初めてその素. ﹁平吉もその通り﹂なのではない。読者は語り手にだまされて. の顔こそ﹁平吉﹂. 顔が晒され、だからこそ、他の人が見て﹁ふだんの顔ではなかっ. られる。この作品の構成もその外と内の対照を強調するような. 当ということではないのか。そして、どちらも本当とはどちら. はいけない。. ものとなっている。橋から眺めた船とその船の中、新聞記事と. も嘘と言うことになる。本当とは一つだけのはずだから。いや、. た﹂ということになったのである。. いう外から措くものと小説というその内面を措くものとの対. それは神様自身が知っているはずだ。確かにそうであっても、. の内面とが対照されている. 照。新聞や世間という外と﹁平吉﹂. これらの嘘を除いたら、あとには何も残らないのに相違ない。. これが皆、嘘である。平吉の一生︵人の知っている︶から、. の人生が語られた後で、. これは﹁平吉﹂の嘘をめぐることについても言える。﹁平吉﹂. 誰も本当と解らなければ、どうしてそれが本当と解るのか。 の内面は隠されており、本当の顔が解ら. のであり、その境にあるのが酔いや嘘という仮面なのである。 仮面によって﹁平吉﹂. ないのである。作者は人の内面・本当というのは外からは解ら ないと言いたいのだろう。 しかし、本当とは何か、嘘とは何か。. −26−.

(8) はないのか。しかもここにいみじくも﹁人の知っている﹂とあ. とある。しかし、それが嘘だと誰も知らなければそれは本当で. でなくて、どうして小説などというものが書けるだろうか。. い。嘘こそ変わらないのである。小説こそが残っていく。そう. とすれば、あの﹁ひょっとこ﹂. の面とは小説のことに他ならな. る。これは逆に人の知らない一生、﹁平吉﹂しか知らない一生 があって、それが本当ということになる。あたかも先の神様の ○﹃羅生門﹄. ることだ。 人目にかかる倶のない、一晩楽に寝られそうな所があれば. 人﹂は弱いから﹁次皿人﹂になる﹁勇気﹂が出ないのである。そ もそも、なぜ﹁下人﹂がこの﹁羅生門﹂に来たかを考えれば解. という、﹁勇気﹂である。しかし、その理由は簡単である。﹁下. に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。. のか、ということである。 ﹁盗人になるよりほかに仕方がない﹂と云う事を、積極的. ﹃羅生門﹄ で一番問題とされてきたのは、なぜ勇気がでない. ︵﹁帝国文学﹂大四・十一︶. ように。しかし、その﹁平吉﹂しか知らない一生が結局誰にも 知られなければ、﹁平吉﹂が語ったことこそが本当になるので はないか。無論、何人かの人が集まって検証すればおかしいこ とに気づくだろうけれど、そのようなことは希有のことだ。我々 の人生において人の知らない一生などあるのだろうか。一生と いうのは、人の知っているものだけが残るのではないか。これ は知るとは何かということにもなるし、先にも述べたように作 者としては外から見たものと、内から見たものとは違うといい たいのだろう。また自分しか知らない自分こそ、本当の自分な のだと言いたいのかもしれない。けれども、そんな内面・本当. あるのは誤解だけなのだ。けれども、忘れてならないのは、こ. れが小説という嘘を措くものだということである。嘘︵虚構︶こ そ本当︵真実︶だということが小説の基本なのではなかったか。. 人﹂なのである。つまり、﹁盗人﹂とは、盗むという行為によっ てのみ成立するものである。つまり、盗むか飢えるかという、. さらに、﹁盗人﹂になるという発想自体も行動を阻害して﹁勇 それを皮肉として書いたのかもしれない。人の本当は内面にあ るのに、結局それは誰にも知られることなく、外に現れたもの、 気﹂をもたらさない。言うまでもなく、人は﹁盗人﹂になると 仮面しか他人は知らないのであり、それを本当と思うのである。 思ったとしても、﹁盗人﹂にはなれない。むしろ、﹁盗人﹂にな ろう思わなくても、空腹のためにとっさに食べ物を盗めば﹁次皿. と、考えてこの﹁羅生門﹂に来たのである。そんな弱い﹁下 は死 に よ っ て 喪失していくだけではな い か 。 人﹂が﹁盗人﹂になる﹁勇気﹂が出ないのは当たり前ではない ﹁ただ変わらないのは、︵中略︶ さっきのひょつとこの面ば かり﹂なのである。仮面だけが嘘だけが変わらずに残っていく。 か。﹃倫次皿﹄ のように、盗みの準備で﹁羅生門﹂に来ているの ではないのである。 人の内面は失われ、その外にある嘘のみが残っていく、作者は. 一27−.

(9) 択であることに問題がある。この名詞にこだわるところに、倫. 動詞による選択ではなく、飢え死か次皿人かという名詞による選. た。残念ながら髪については触れられていない。. ように、死人から良いところを取り集めて作られたものであっ. りよかりし所どもをとりあつめて、人につくりなして﹂という. の関連について述べている。している。. また、この物語について黒田日出男氏は﹁門﹂という場所と. 理などの読みを誘発する可能性がある。盗むという行為に対す る抵抗ではなく、盗人という概念に対しての抵抗が﹁下人﹂に あると読まれるのであり、その原因として倫理のような観念的. ある門・橋・野などは、鬼が棲み、出現し、かつ人を食う境. 第三に場所である。こうした死骸や人骨の遺棄される場で. の問で捉えること自体が、﹁勇気﹂が出ない理由なのである。﹁勇. 界的な空間でもあった。多くの死体や人骨がころがる境界的. な答えが用意されるのである。しかし、むしろ、そのような形 気﹂は観念ではなく、行為と結びついているのである。. な場所を棲処にする鬼こそは、死体の肉片を繋ぎ合わせたり、. 人骨を編み合わせたりして、﹁人﹂を造る技を持っている存. では、その﹁下人﹂がなぜ﹁引剥﹂ができたのか。それは自 分より弱い存在である﹁老婆﹂に出会ったからに他ならない。. 在にふさわしい。︵中略︶鬼が棲むとされていた未雀門こそが、. の物語の生成を促したトポスなのである。. ︵﹃歴史としての御伽草子﹄︶. 的な空間であり、そこには死骸が多く捨てられていた。鬼が棲. 言うまでもなく、﹁羅生門﹂も﹁宋雀門﹂と同じような境界. ﹃長谷雄草子﹄. 自分より弱いものからなら次皿むことができるのである。﹁下人﹂ は、﹁羅生門﹂に来て、自分より弱いやつを捜して盗めばよい、 という一番単純な次皿みの原理を手に入れたのである。だから﹁羅 生門﹂から出て行けるのである。 でもう一つ解らないことは、﹁老婆﹂が死人から. むにふさわしい場所であるし、﹁人﹂を造るにふさわしい場所. ﹃羅生門﹄. 髪を抜くのを見て、何をすると問うて﹁老婆﹂が蔓にすると答. かどうかは不明である。ただ、紀長谷雄は. 巻二十. を読んでいた. ﹃今昔物語﹄. ないだろうか。ただし、芥川が、﹃長谷雄草子﹄. このような﹁人﹂を造る話がこの場面の背景にあったのでは. だと言えるだろう。. ﹁下人﹂は蔓以外にどのような答えを想. えたときに﹁老婆の答えが存外、平凡なのに失望した﹂とある ことである。いったい. ではないような答え. 定していたのだろうか。或いは輩以外にどのような答えがあり 得るのか。ここで一つの可能性・﹁平凡﹂. もその名前は知っていたと考えられる。︵テクスト論的に言え. 四の﹁北遠大臣、長谷雄中納言語第一﹂に登場している。芥川 という紀長谷雄を主人公にした草子がある。. の中にはあったといえる。そうでなくては、﹁平凡﹂だと失望. の頭. ば、作者の頭の中にはなくとも、作中の﹁平安朝の下人﹂ ﹁女といふは、もろもろの死人よ. の鬼と双六をして鬼に勝ち、﹁賭物﹂とし. の可能性を追究してみたい。 ﹃長谷雄草子﹄ 長谷雄は﹁朱雀門﹂. て美女をもらう。その美女は. ー28−.

(10) ︵﹁新思 潮 ﹂ 大 五 二 一 ︶. したりはしない。 ︶. ○﹃鼻﹄. の最後の場面、特に鼻が元のようになったことで、. こうなれば、もう誰も晒うものはないにちがいない。. ﹃鼻﹄ −. という文について、否定的な読みが多くなされている。その 代表 は 三 好 行 雄氏の有名な次の論であ る 。 明らかに錯覚である。今日からまた、長くなった鼻を内具 は 笑 わ れ な ければならぬ筈である。 ︵﹁無明の間 ﹃羅生門﹄の世界﹂1﹃芥川龍之介論﹄所収︶. れば、何故その直前で、こういう異質な色合いが出されてい. るのか。おそらく事情は逆なのである。 ︵中略︶. ﹁かうなれば﹂とは、内具自身の、己れの本然の姿に忠実. に生きようとする覚悟の意味である。 ︵中略︶. の変化は、間違っても負. 内具自身の﹁心もち﹂の変化は、前後の類似の言葉の対照. によって際立っている。﹁心もち﹂. の変化であった。. の変化ではない。︵中略︶厄介な問題とまずしっかり向き合う. ことの大事を覚悟した﹁心﹂. ︵﹁﹃羅生門﹄の文脈−播蜂の行方‡﹂−﹃芥川龍之介の言語空間﹄ 所収︶. つのか。それは内具に関わるものではなく、作者の﹁人間の心. いう経験は内具に何ももたらさなかったということになる。で は、あの鼻を短くしたという経験はこの作品でどんな意味を持. は﹁誰も晒うものはない﹂と言っているのであり、かなり安易. としっかり向き合おうとしているのだろうか。けれども、内具. とき内具はどうするのか。山崎氏の指摘するように内具は問題. 確かに錯覚であり、内具は笑われるだろう。しかし、それで は単に元に戻ったと言うだけのことだろうか。鼻を短くしたと. には互いに矛盾した二つの感情がある。﹂という理屈を示すた. に思いこんでいるかに見える。他人を意識しなくなったり、笑. 三好氏の指摘にあるように内具はまた笑われるだろう。その. めの 例 に す ぎ なかったということだろ う か 。. われてもかまわないという風にはなっていない。. しかし、短くしても笑われるだけである。最初に長かった時は. では、またぞろ長くなった鼻をもう一度短くするだろうか。. この三好氏の論に対して、山崎甲一氏はこの文の前にある朝 の庭の描写に注目してその描写と内具の心情とを繋げて次のよ うに 述 べ て い る。. 長いから笑われるのであって、短ければ大丈夫と思っていたは. ずである。けれども、短くても笑われるとなれば、さらに、元. この風景描写は大変すがすがしく、さわやかである。︵中略︶. そして、この作品を論ずる諸氏が、何故ここの描写を問題に. に戻っても笑われるとなれば、内具はどうするだろうか。﹃鼻﹄. の、いや、内具の本当のドラマはここから始まるのである。︵山. し な い の か を不思議に思う。 末尾に、悲哀や諦念というような陰影を必要とするのであ. ー29−.

(11) 崎氏の指摘はそのドラマを先読みしていると言えなくもない。︶. 生に対する路傍の人に過ぎない。﹂ ︵﹃芋粥﹄︶のである。. れはこの. うものがあるのだろう。この作品で一番解らないのはこの点で. うことになっているが、では、どうして鼻を短くする方法とい. ところで、この作品では鼻の長い者は世界でも内具一人とい. いからである。あくまでも﹁人間の心には互いに矛盾したl一つ. ある。しかも、その方法はかなり具体的で、かつて実際に行わ. しかし、作者はそのようなことは書かない。それは何故か。そ. の感情がある。﹂という作者の理屈を書こうとしているからで. れたことがあるとさえ思わせるものである。しかし、内具以外. ﹃鼻﹄という小説が内具のドラマを書こうとしていな. ある。けわば内具はそのための道具にすぎず人間として措かれ. に居ないのならそんな方法など最初からあり得ないし、試しょ. を書くために内具を自由に動かそうとして、物語世界をきちん. うなのに、当然ながらそれもない。これは、作者が先の賢しら. うもないだろう。また内具自身がこのことに気づいても良さそ. ていないのである。 しかし、実は内具は別の意味で救われているのではないか。 それは彼が愚かだからである。 そうではなくて、単に元の鼻に帰ってきたことだけで、﹁も. と作っていないということだろう。内具が駒に過ぎないという. 作者は自分の理屈・賢しらを述べるためにこの小説を書い. う誰も晒うものはないにちがひない﹂と内具が思うのだとし 歳を越え﹂るまで﹁苦に病んで来た﹂ことを、コロリと忘れ. た。﹁内具﹂はそのための駒に過ぎなかった。しかし、内具の. ことと同じである。. ることが出来る位なら、彼は元々﹁傷つけられる自尊心﹂な. 愚かさはむしろ、作者の意図を超え読者に訴えかけてくる。ま. たら、内具は余程の阿保である。数日前の、しかも、﹁五十. ど持ち合わせていないと考えなくてはならないだろう。︵中. た、﹁内具﹂自身がその愚かさに救われる。彼はまた笑われる. のを苦にするだろうけれど、またごくたわいないことで滴足し. 略︶そういう人物は、この小説の主人公ではない。 ︵山崎甲一、前出︶. ていくのかもしれない。︵ただし、先に述べたようにそれを書. くことこそが本当のドラマである。︶内具はその愚かさ故に救わ. いや、やはり内具は﹁阿保﹂なのではないか。そして、だか らこそこの小説の主人公なのではないのか。そして、この愚か. れるのである。そして、この作中人物が作者の意図を超えたと. の最後は次の通りである。. ︵﹁新思潮﹂大五・五︶. さが作者の賢しらを超えているのである。内具は愚かだからこ. ﹃父﹄. ﹃父﹄. ころにこの作品の魅力がある。 ○. そ、あの一時の錯覚の中で満足していられるのである。我々︵読 者︶もまた、日々その㌻つな愚かな満足の中で生活しているの ではないか。この愚かな満足すらなければそれは殺伐とした人 生だろう。それを愚かと皮肉を込めてみるのは所詮﹁畢寛、人. −30−.

(12) 帽をかぶった能勢の写真の前で悼辞を読んだのは、自分であ. て、物故した。その追悼式を、中学の図書室で挙げた時、制. 能勢五十雄は、中学を卒業すると間もなく、肺結核に罷っ. は危く﹁あれは能勢の父だぜ。﹂と云おうとした。. 年生には、その時の能勢の心もちを推測する明がない。自分. 意しながら、面白そうに能勢の顔をながめていた。中学の四. を、適当に形容する語を聞こうとして、聞いた後の笑いを用. するとその時、. る。﹁君、父母に孝に、﹂ − 自分はその悼辞の中に、こう云. う旬を入れた。. ﹁あいつかい。あいつはロンドン乞食さ。﹂. こう云う能勢の声がした。皆が一時にふき出したのは、云う. この﹁君、父母に孝に﹂という言葉をどのように解釈したら よいのか。これがこの作品を考える鍵となる。というのも、こ. までもない。︵中略︶自分は、思わず下を向いた。その時の能. の父こそ. の言葉は﹁能勢﹂に対しての言葉ではなく、﹁能勢﹂. 自分の父親を同級生の前で﹁ロンドン乞食﹂と呼ぶ﹁能勢﹂. 勢の顔を見るだけの勇気が、自分には欠けていたからである。. の父は出. に対しての言葉なのではないかと考えるからである。無論、こ の場面には父への言及はない。﹁能勢﹂. は、﹁私﹂が同情するほどの辛さがあったのだろうか。﹁私﹂が. の﹁追悼式﹂. 席していたのかどうかも解らないし、このような追悼式には父. ﹁能勢﹂に同情的すぎるように見える。単に青年期に見られる. けれども、さらにこの後視点は﹁能勢﹂から父へと移ってい. 肉としてさえ読まれうるものである。. 果として、あの﹁君、父母に孝に、﹂という言葉は読者には皮. 父親に対する反撥の現れとしても捉えられるのではないか。結. 母は出席しないものなのかもしれない。けれども、父へのはな むけの言葉としても読めるのではないかと考えるのである。 の態度が善か. この﹁追悼式﹂の前には、修学旅行を見送りに来た父に対す る、とても﹁孝﹂とは言えないような、﹁能勢﹂ れている。. になりながら、チョッキのポケットから、紫の打紐のついた. そこで、自分たちは、皆その妙な男を見た。男は少し反り身. すると、いつの間にか、うす日がさし始めたと見えて、幅. うす暗い中で、そっとそのロンドン乞食の方をすかして見た。. 曇天の停車場は、日の暮のようにうす暗い。自分は、その. く○. 大きなニッケルの懐中時計を出して、丹念にそれと時間表の. の狭い光の帯が高い天井の明り取りから、茫と斜めにさして. ﹁おい、あいつはどうだい。﹂とこう云った。. 数字とを見くらべている。横顔だけ見て、自分はすぐに、そ. 周囲. いる。能勢の父親は、丁度その光の帯の中にいた。. ない所でも動いている。そうしてまたその運動が、声とも音. では、すべての物が動いている。眼のとどく所でも、とどか. −. れが能勢の父親だと云う事を知った。 しかし、そこにいた自分たちの連中には、一人もそれを知っ ている者がない。だから皆、能勢の口から、この滑稽な人物. ー31−.

(13) に蔽っている。しかし能勢の父親だけは動かない。. ともつかないものになって、この大きな建物の中を霧のよう. の日その日を送っているのである﹂ということになってしまう. た。劉自身も、余儀なく、馴れない手に鋤を執って、化しいそ. うような事になったのである。. 々、暗愚の蛮僧に遇ったために、好んで、この天与の福を失. 第一の答。酒虫は、劉の福であって、劉の病ではない。偶. 問について三つの答えが書かれている。. 何故、劉の健康が衰へたか。何故、家産が傾いたか﹂という疑. ﹁酒虫を吐いて以来、. 物語である。そして、作品の最後にこの. の父について、次のよう. この光の帯の中に立つ父の描写には、この父親を時代遅れの 人物としての批判的なものはない。 さらに、最後でこのときの﹁能勢﹂ に述べられている。 あとで、それとなく聞くと、その頃大学の薬局に通ってい た能勢の父親は、能勢が自分たちと一しょに修学旅行に行く. 子ども思いの優しい父親として措いているのである。この父. ずに、わざわざ停車場へ来たのだそうである。. たなら、劉は必久しからずして、死んだのに相違ない。して. 考えられない所だからである。そこで、もし酒虫を除かなかっ. 故と云えば、一飲一嚢を尽すなどと云う事は、到底、常人の. 第二の答。酒虫は、劉の病であって、劉の福ではない。何. に対する視点の延長線上で最初にあげた言葉を捉える時、その. 見ると、貧病、迭に至るのも、寧劉にとっては、幸福と云う. 所を、出勤の途すがら見ようと思って、自分の子には知らせ. 言葉は﹁能勢﹂自身に対してというよりも、その父に対してこ. べきである。. 第三の答。酒虫は、劉の病でもなければ、劉の福でもない。. そ述べられたものではないかと考えるのである。父にとって孝 行な息子を持ったことは誇りであり、息子に対して﹁君、父母. 劉は、昔から酒ばかり飲んでいた。劉の一生から酒を除けば、. にして、劉ではない。劉白身が既になくなつていたとしたら、. も同前である。つまり、酒が飲めなくなった日から、劉は劉. 劉である。だから、劉が酒虫を去ったのは自ら己を殺したの. 後には、何も残らない。して見ると、劉は即酒虫、酒虫は即. に孝に﹂ということは、あの修学旅行を見送りに来るような父 の思いやりなのではないかと考えるの. ︵﹁ 新 思 潮 ﹂ 大 5 ・ 6 ︶. の優しさに対する﹁私﹂ である。 ○﹃酒虫﹄. な話であろう。. 昔日の劉の健康なり家産なりが、実はれたのも、至極、当然. 虫を吐くことによって、﹁しかし、それ以来、衰えたのは、劉. この答えについて考えるうえで、一つ確認しておきたいこと. は資産家であった劉が蛮僧の治療によって腹中の酒. の健康ばかりではない。劉の家産も亦とんとん拍子に傾いて、. がある。それは、何が幸福なのかということである。すなわち、. ﹃酒虫﹄. 今では、三百畝を以て数えた負郭の田も、多くは人の手に渡っ. −32−.

(14) くら飲んでも大丈夫なほどのものがあった。無論、それを失う. 健康とはいえ、この酒の飲み方は異常でもある。資産は酒をい. しみはあるのか。何のために酒を飲んでいたのか、解らない。. んでも、これまで酔ったことがなかった。酔わずに酒を飲む楽. 確かに健康を害しているのは不幸であるが、劉は一案の酒を飲. 資産をなくし手に鍬を執ることは不幸なのかということである。. て﹁芋粥﹂とは. べる過程を措くことを目的とした小説である。﹁五位﹂にとっ. とあるように、主人公の﹁五位﹂が﹁芋粥﹂に飽きるまで食. 芋粥の話の目的なのである。. 外容易に事実となって現れた。その始終を書かうと云うのが、. しかし、五位が夢想していた、﹁芋粥に飽かむ﹂事は、存. 後の. を持っている。︵中略︶そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいと. でもない。五位は五六年前から芋粥と云う物に、異常な執着. では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生れて. 正直な暮し﹂なのだろうか。金持ちの方が絶対的によいとは言. 云う辛が、久しい前から、彼の唯一の欲望になっていた。勿. のは不幸である。しかし、日長一日何もせずに酒ばか勺飲んで. い切れないのではないか。たとえ健康を害して資産がなくなっ. 論、彼は、それを誰にも話した辛がない。いや彼自身さえそ. 来た人間で、別に何の希望も持っていないかと云うと、そう. たとしても、というより、なくなったからこそ幸福になれたと. れが、彼の一生を貫いている欲望だとは、明白に意識しなかっ. いるのと、額に汗して働くのと、どちらが幸福なのだろうか。. いう第四の答えもあり得るのではないか。少なくとも、この三. た事であらう。が事実は彼がその為に、生きていると云って. 望が文章中で誇張されていっている感がある。最初﹁五六年前. の言葉を借りれば、どちらがより﹁人間らしい、. つの答えすべてが、金持ちであることが幸福であるという価値. も、差支えない程であった。. が幸福なのか、その根底を疑ってかからなくてはならないので. から∼異常な執着﹂とあり、それが﹁久しい前から、彼の唯一. ﹃杜子春﹄. 観に基づいていることを確認しておかなくてはならない。健康. ある。︵無論、この答えの最初の二つは原典にあったものであ. の欲望﹂となり、さらに﹁彼の一生を貫いている∼その為に、. の欲. というものである。ただし、﹁芋粥﹂. るから、これは原典の価値観でもある。しかし、芥川はそれを. 生きている﹂と誇調されている。﹁五六年前﹂を﹁久しい﹂と言っ. に対する﹁五位﹂. はともかく、資産については必ずしもそうとは言い切れず、何. そのまま受け入れているに過ぎないのである。新しい答えを用. て良いか、﹁一生を貫いて﹂と言って良いのか、疑問が残る。. いた目的が達成されてしまった後﹁五位﹂はどうやって生きて. どうするのか、という疑問があるからである。その為に生きて. というのも、この﹁五位﹂が﹁芋粥﹂に飽きたあと﹁五位﹂は. 意しながら、その答えの根底を疑っていないのである。︶. という作品は. ︵﹁新 小 説 ﹂ 大 5 ・ 9 ︶. ﹃芋粥﹄. ○﹃芋粥﹄. この. −33−.

(15) いくのだろうか。三好行雄氏はまた別の目的を見つけるとして いる。 五位はまた ︵芋粥に飽かむ︶ ことと同様に手軽で、しかし ︵彼の一生を貫く欲望︶ を見つけることだろうし、それもま. の行く末を心配してしまう。読者はそれぞ. 作中人物として存在するのであり、充分魅力を持っている。だ から読者は﹁五位﹂. れに﹁五位﹂ををイメージし、その行く末を想像するだろう。. そのようにしてこの開かれた作品は閉じられていく。そのとき、 多くの読者には作中の﹁青年﹂. の﹁いけぬの. たたやすく破られるにちがいない。そうしたすべてに龍之介. う、お身たちは﹂という声が頭を離れないのではないか。作者. お身は﹂。︶. 作者・芥川に対して言われたものかもしれない。﹁いけぬのう、. はその言葉を忘れたとしても。︵むしろ、﹁五位﹂のこの言葉は. のように﹁五位﹂. は世の中の本来の下等さ︶ を見ていたのである。 ︵﹁負け犬 ﹃芋粥﹄ の構造﹂憂・﹃芥川龍之介論﹄所収︶. 確かに、この欲望は﹁五六年前﹂からのもので、それからす れば、また次の欲望を見つけられると考えられるが、問題は先. に指摘した誇張である。﹁一生を貫いた﹂とか、﹁その為に生き この作品の魅力は﹁その始終﹂にあるのではない。﹁五位﹂ ている﹂というような欲望をもう一度見つけられるだろうかと という作中人物のもつ魅力なのである。しかし、作者にとって. 重要なのだということだろう。それこそが芥川文学の初期作品. いうことである。﹁芋粥﹂は ﹃酒虫﹄ の﹁第三の答え﹂と同じ ﹁五位﹂は駒、もしくは言葉に過ぎず、人物として捉えられて に な っ て い るのである。つまり、 劉にとって酒虫が劉そのもの いないということかもしれない。人物よりも言葉、物語こそが であったように、﹁五位﹂においても﹁芋粥﹂ ︵に飽かむこと︶. ではなく、﹁五位﹂という作中人物の魅力なのである。. ︵つ、づく︶. 超えている。この作品の魅力は、言うまでもなく作者の賢しら. が﹁五位﹂そのものになっているのである。とすれば、その﹁芋 の特徴として捉えられるのであるが、作品は常に作者の意図を 粥﹂を失ったことは、劉と同じようにその存在を揺るがすもの と考えられるのである。手軽に次の欲望を見つけることが出来. るとは思えない。﹃鼻﹄ の﹁内具﹂と同様に、﹁五位﹂をめぐる ドラマはここでは終わっておらず、ここから始まるはずのもの なのである。けれども、作者はここで作品を終わらせる。それ はこれもまた ﹃鼻﹄と同じように作者の書きたいことがここで 終わっているからである。作者は作中人物を書きたいのではな い、﹁その始終を書かう﹂というのが作者の目的であり、﹁五位﹂ はその為の駒となっている。しかし、読者にとって﹁五位﹂は. −34−.

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