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ヴェルディ作品の演奏解釈とその歴史性

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ヴェルディ作品の演奏解釈とその歴史性

── 作品、形式、歌唱の歴史的な同時代性と演奏実践の課題 ──

水谷

彰良

初出はヴェルディ没後100周年の2001年に日本ヴェルディ協会『VERDIANA』第3号(2001年12月31日 発行)に寄稿した「ヴェルディ作品の演奏解釈とその歴史性」。これは歴史的に意味のある論考と自負しています ので、論旨に手を加えず、次の変更のみで日本ロッシーニ協会ホームページに掲載します。 主な変更:不要と思われる部分の削除。作品名の現在使用する表記への変更。歌詞の訳の一部変更。ヴェルディ 書簡の出典と誤謬訂正に関する脚注の追加。最後に2013年HP版への付記を追加しました。 はじめに かつて私は「ヴェルディ歌唱の変遷」と題した小論を『レコード芸術』誌上に発表しました(音楽之友社、2001年12 月号。36-43頁)。その中で20世紀の演奏慣習と楽譜解釈を批判的に考察し、ヴェルディ自身の意図や真の原典に立ち 戻ることの重要性を説きましたが、紙数の制限から充分に論を尽くせませんでした。そこで本稿では、この問題をよ り広い見地から詳細に論じてみたいと思います。前記拙論の内容も加筆して取り込んだことをお断りしておきます。 1.ヴェルディ作品の19世紀的形質 オペラ作曲家としてのヴェルディの創作活動は、《サン・ボニファーチョ伯爵オベルト》(1839年)から最後の《フ ァルスタッフ》(1893年)まで55年の長きに及びます。けれども《アイーダ》と《オテッロ》の間にほぼ16年の断 絶のあることから、ヴェルディと同時代オペラ界との継続的関係は《アイーダ》までの33年間、すなわち1839~71 年の出来事と捉えることができます。 ヴェルディが作曲家となるための勉強をした1830年代のイタリア・オペラは、装飾的で技巧的な歌唱に基礎を置 くロッシーニの様式からドラマを重視する歌唱へと転換する過渡期に当たっていました。その先駆的作品がドニゼッ ティ《アンナ・ボレーナ》(1830年)やベッリーニ《ノルマ》(1831年)です。そこではアジリタ唱法から軽快さが影 をひそめ、ドラマティックな感情表出を核とする歌唱や性格表現が重んじられています。1820年代半ばから40年代 初めにかけて流行をみた「狂乱の場」にも、演劇性への強い志向が見てとれます(それ以前のイタリア・オペラで最も軽 んじられてきたのが、歌手の演技や芝居でした)。 けれども、写実的な演技と歌の表現で構成されているかに見える狂乱の場も、音楽的には定型的な楽曲形式の中で 展開されます。シェーナ、カンタービレ、中間部、カバレッタの四部分で構成される拡大アリア形式がそれです1。《清 教徒》と《ランメルモールのルチーア》(共に1835年)の狂乱の場も、この拡大アリア形式が基礎とされています。で すから、ドラマと演劇性の重視が直ちに楽曲の形式性を打破していくのではなく、当時の台本作者と作曲家は楽曲の さまざまな形式を前提にオペラを創作していたのです。 主要なアリアや二重唱を定型的な形式で処理し、オペラ全体を独立した楽曲ナンバーで構成する劇作法は、後期の 2 作を除くヴェルディ作品でも採られています。その点でも《アイーダ》と《オテッロ》の間には様式的な隔絶が認 められます(《アイーダ》に形式性離脱への志向が明確に見られるとしても)。それゆえ私は、ヴェルディの辿った形成と発 展のプロセスを理解した上でなお、《アイーダ》までの諸作品はその劇作法と形式性において、1830年代から70年 頃までの 19世紀イタリア・オペラの枠内で解釈されるべきだと思います。違う言い方をすれば、私たちはすでに過 去のものとなった理念や劇作法による「古典」としてヴェルディ作品を受けとめ、理解しなくてはいけないと思うの です。 最初に私は、ロッシーニをもってオペラ歌唱の一つの様式が終わり、1830年代が異なる様式への過渡期になったと 述べました。ですから、声とその用法の点でロッシーニとヴェルディの間には大きな隔たりがありますが(次項で詳述)、 劇作法と形式面ではロッシーニの中期以降の改革的オペラ・セーリアと、《ナブコドノゾル[ナブッコ]》(1842 年)か ら中期までのヴェルディ作品に、隔絶や断絶は認められません(フランス・グランド様式の影響の有無などを別として)。 今日の観客や聴き手が、ヴェルディのオペラ・アリアの形式や反復部の存在、カバレッタの定型的処理、劇の運びや

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ドラマの内容そのものを「古臭い」「冗漫」「型に嵌まっている」と感じても、それらはヴェルディ自身の採用したも のですから、批判の対象になりません。ベートーヴェンの交響曲がそのままの形式でしか存在しないように、ヴェル ディのオペラもまた、ヴェルディが書いたままの姿でしか存在しえないのです。 他の作曲家の作品と同様、ヴェルディのオペラもそれが創られた歴史的な同時代性から解釈される必要があります。 この観点で言えば、《ナブコドノゾル》はリソルジメント(国家統一運動)の精神を反映した作品ではありません。題 材とその扱い方、劇作法と楽曲形式においてもロッシーニ《エジプトのモゼ》(1818年)と同質の宗教=歴史劇であり、 幕ではなく四つの部(parte)で区分されている点を除けば、伝統的なオペラ・セーリアと何ら変わりがないのです。 旧約聖書に題材を取る《ナブコドノゾル》は、台本作者によってドランマ・リーリコ(Dramma lirico)と称されてい ますが、舞台聖悲劇(アツィオーネ・トラージコ=サークラAzione tragico-sacra)と題された《エジプトのモゼ》と同様、 聖劇(オペラ・サークラOpera sacra)というジャンルに分類すべき作品でもあります。「オペラ・サークラ」とは劇場 で上演するオラトリオの別称で、「オペラ・セーリア」「オペラ・セミセーリア」「オペラ・ブッファ」と共にロッシー ニ時代のイタリア・オペラの四大区分の一つでした2。ですから、この作品の各部[各幕]があたかも独立した情景の ように固定的で、オペラよりもオラトリオ風であるのを捉えて否定的に評価するのもまた間違いなのです。 2.ヴェルディ時代の声と歌唱の歴史的性格 では、声とその用法の点で、ヴェルディ作品はどのような歴史的位置づけをされるのでしょう。少し時代を遡って 考えてみましょう。 多くの評者はロッシーニの声楽様式にベルカントの装飾性だけを認めますが、ドラマティックで力強いアジリタ用 法もロッシーニのナポリ時代のオペラ・セーリアで確立されていました。ソプラノではイザベッラ・コルブラン (Isabella Colbran,1784-1845)の創唱した《イングランド女王エリザベッタ》(1815年)のタイトルロール、テノールで は《オテッロ》(1816年)のタイトルロールにその先駆的様式が見られます。ベッリーニ、ドニゼッティ、中期までの ヴェルディも、ドラマティックなアジリタを歌による劇的表現として採り入れましたが、同時にベルカントの装飾的 な用法も随所に適用しています。ですから彼らの諸作品には新旧の様式と、異なるタイプの声の用法が、さまざまな レヴェルで混在・共存しているのです。 オペラ歌唱の歴史を論じるのは簡単なことではありません。そもそも私たちは、特定の時代の声楽的特色を正確に 言い表す用語すら持たないのです。「ベルカント(belcanto)」の語も音楽書の中で無原則かつ非限定的に使用され続け た結果、学術用語として不適切なものとなっています3。それゆえ私は『プリマ・ドンナの歴史Ⅰ・Ⅱ』(東京書籍、1998 年)を著すに当たり、術語として二つの言葉を造語しました。その一つがロッシーニ時代までのイタリア・オペラの 伝統的な発声歌唱様式を表す「歴史的ベルカント」、もう一つが1840年頃を境に主流となるドラマティックな発声歌 唱様式を指す「ドランマーティコ」です4。この二つを術語として採用し、両者の間に過渡的な様式を認めることで、 私は19 世紀半ばまでの女性歌手と歌唱の変遷を論理的に叙述できたのです。女性歌手の歴史的ベルカントからドラ ンマーティコへの移行については前記書で明らかにしましたので、ここではテノールの変遷について記しておきまし ょう。 カストラートと卓越した女声ソプラノを主役とするオペラ・セーリアでは、テノールが主にメッゾ・カラッテレ (mezzo carattere中間的役柄)を務めました。メッゾ・カラッテレのテノールは主役に匹敵する大アリアや技巧的楽曲 を持たず、イタリアでは高声域のコロラトゥーラよりも優美で落ち着いた性質の歌唱が重視されました。こうしたオ ペラ・セーリアに典型的なテノールは高声域をすべてファルセットで歌いました。18世紀の声楽教師の一人は、「ヴ ォーチェ・ディ・ペット(voce di petto胸声)の声域を高い方に広げようとして声を無理強いさせずに、ファルセット と呼ばれるヴォーチェ・ディ・テスタ(voce di testa頭声)を養え」と記しています(アプリーレ『現代イタリア歌唱法』 1791年)。5 19世紀に入ると、凋落したカストラートの代わりに男装コントラルトが登場します。コントラルトを偏愛したロッ シーニを別にすれば、それはすぐにテノールにとって代わられますが、そのためにはテノールの高声域とコロラトゥ ーラの開発が不可欠でした。彼らに要求されたのは、ファルセットーネを駆使して明るく輝かしい声でアジリタや超 絶技巧を歌うことです(ここでのファルセットーネを、「高声域を胸声域の色や響きに近づけるべく1800年代前半に開発された ファルセット唱法」と定義したいと思います)。高い声域がコントラルトの音域に相当することから、彼らは「テノーレ・ コントラルティーノ(tenore contraltino)」と呼ばれます。それゆえロッシーニ時代のテノールはバリテノーレとコン トラルティーノに大別でき、それぞれの声質と特色にドラマティックな性質が付与されていったのが過渡期、つまり は歴史的ベルカントからドランマーティコへと移行する時代のテノールの声と歌唱法なのです。

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ところが1837年にテノール界を揺るがす事件が起きました。同年パリ・オペラ座で行なわれた《ギヨーム・テル》 再演において、アルノール役を歌ったジルベール・[ルイ・]デュプレ(Gilbert [-Louis] Duprez,1806-1896)が初めて「胸 声のド(Do di petto)」を使用したのです。これが成功を収めたことから、アドルフ・ヌリ(Adolphe Nourrit,1802-1839) に代表される過渡期の「詩的で優雅なテノール(テノーレ・ディ・グラーツィア・ポエーティコtenore di grazia poetico)」 が人気を失いました。デュプレのタイプは「力強いテノール(テノーレ・ディ・フォルツァtenore di forza)」と呼ばれま す。 現代の音楽執筆者たちは、これ以後すぐに力強いテノールが席巻したと考えているようですが、今日的な意味での ドラマティック・テノール(テノーレ・ドランマーティコtenore drammatico)が主流になるのは19世紀の後半です。デ ュプレが 30代半ばで完全に声を駄目にしてしまったように、当時の「胸声のド」は無理な発声から絞り出されたも のなのです。ロッシーニはデュプレのそれを「喉を切られた雄鶏の声」と評しました。ベルリオーズは1841年3月 14日付の書簡に、「彼はもう高い音も低い声も出せない。デュプレはもういない!」と記しています6。当時《ギヨー ム・テル》で失敗したテノールの入水自殺のあったことから、パリの『ル・メネストレル』紙はこのオペラのために これまで13人のテノールが自殺し、未亡人と遺児の合計が52人にのぼる、と誇張して報じています(1841年7月)7。 「胸声のド」はイタリア以外の国々で試みられ、称賛されましたが、19世紀半ばまでのイタリア人作曲家は胸声の アクートを2点イ音の辺りで留めようとしました。ですから19世紀前半期のイタリア・オペラでテノール・パート に記された 3 点ハ以上の高音は、すべてファルセットもしくはファルセットーネによる歌唱が前提とされたのです。 けれども1850年前後を境に、イタリアでも胸声による高音歌唱の流行が始まります。著名な声楽教師ハインリヒ・ パノフカはそれを、「声楽界の退廃」と厳しく批判しました(『声と歌手』1866/68年)8。日本の声楽教育ではパノフカ の教本が使われていますが、彼がどんな声や歌唱を理想としていたかは教えられていないようです。ヴェルディも歴 史的ベルカントによる高声歌唱を想定した《一日だけの王様》(1840年)を除き、テノールの3点ハは1862年の《運 命の力》まで書いていません(これは初演時のみの特例です。本論第7項参照)。 ヴェルディ作品が装飾的なベルカントにも適応可能な、フレキシブルな発声歌唱を前提にしたことは、強さ、しな やかさ、コロラトゥーラを兼ね備えた中期オペラのヒロインの書式を見れば判ります。現代の評論家たちが《リゴレ ット》のジルダ、《イル・トロヴァトーレ》のレオノーラ、《ラ・トラヴィアータ》のヴィオレッタに対して、ソプラ ノ・ドランマーティコ、ソプラノ・ドランマーティコ・ダジリタ、ソプラノ・リーリコ=スピント、ソプラノ・リー リコといった 19世紀前半期のイタリアで使われなかった声の区分を適用し、矛盾に陥らざるを得ないのはそのため です。歴史的な声楽様式の観点からこの三役を「まったく同じもの」とするアルベルト・ゼッダの見解9を、私は支持 します。 3.20世紀に固有なヴェルディ歌手とその歌唱 前の項目ではヴェルディ時代の声と用法について記しましたが10、今日いわれる「ヴォーチェ・ヴェルディアーナ (voce verdianaヴェルディを歌う声/ヴェルディ歌手)」の概念は、ヴェルディの時代には存在しません。それは「ヴォー チェ・ロッシニアーナ(ロッシーニを歌う声/ロッシーニ歌手)」と同様、20 世紀に作られた言葉なのでしょう。けれど も私は、ロッシーニ歌手に「ロッシーニ作品に固有のコロラトゥーラやアジリタを駆使できる歌手」、ヴェルディ歌手 に「ヴェルディ作品を歌って高い評価を受けた歌手」といったイメージしか持つことができません。とはいえロッシ ーニ歌手のテクニックはバロック・オペラに適用できますし、優れたヴェルディ歌手がヴェリズモ・オペラを立派に 歌えばヴェリズモ歌手と呼ばれます。 ロッシーニ歌手に対して、私は明確な定義を与えることができます。それが前記の「ロッシーニ作品に固有のコロ ラトゥーラやアジリタを駆使できる歌手」です。アジリタがきちんとできない歌手にはロッシーニのアリアが満足に 歌えません。ですから、歴史的ベルカントの技巧を身につけ、ロッシーニ作品で高度な歌唱を聴かせる歌手にこの名 称を捧げても間違いではないと思います。しかし、ヴェルディ歌手を明確に定義できるでしょうか。私には「ヴェル ディ作品を歌って高い評価を受けた歌手」しか思い浮かびません。しばしば「ヴェルディ作品を歌うのにふさわしい 声を持つ歌手」という言い方がされますが、ヴェルディ作品にふさわしい声や歌い方とは何かが具体的に説明されな ければ、有効な定義とは言えません。 ヴェルディ歌手という言葉が日本でいつ頃から言われ始めたのか、はっきりとは判りません。しかし、音楽辞典や オペラ辞典に見ることのできないこの言葉が、日本の音楽書やオペラ雑誌では広く使われています。そこでは「ビロ ードのように滑らかなソプラノ」「輝かしい高音のテノール」「深みのあるバリトン」といった説明をされますが、概 念としては曖昧すぎます。20世紀の名歌手たちの声を思い浮かべれば自明ではないか、と言われるかも知れませんが、

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その論法でいくと、「ヴェルディ作品を歌うのにふさわしい声を持つ歌手」が「20世紀の価値基準や美学で称揚され た歌手」と同義になってしまいます。それだけではありません。前項に記したヴェルディ時代の発声歌唱と 20世紀 のそれは本質的に異なるのですから、ヴェルディの理想と現代の理想はそもそも同じではないのです。両者の間に決 定的差異をもたらしたのが、19世紀末に興り、その後のオペラ歌唱に多大な影響を及ぼしたヴェリズモ的発声歌唱で す。 ここに言うヴェリズモ的発声歌唱とは、マスカーニ《カヴァッレリーア・ルスティカーナ》(1890年)やレオンカヴ ァッロ《道化師》(1892年)などのヴェリズモ・オペラに顕著な声楽用法と、激しい感情表出のデクラメーションを指 します。ヴェリズモ時代から20 世紀最初の四半世紀に形成・発展させられた歌唱スタイルも、これに含めることが できます。私はそれをポスト・ヴェルディのイタリア・オペラ歌唱の新様式、つまりはベルカントとドランマーティ コに続いて現れた発声歌唱の歴史的な様式と解釈しています。 ヴェリズモ的発声歌唱の原型は1870年以降のドラマティック・テノールに見出せますが、ヴェリズモ歌手の声楽 的問題点は後者の中に早くも顕れていました。ヴェルディがフランチェスコ・タマーニョ(Francesco Tamagno,1850- 1905)について語った言葉を見てみましょう。タマーニョは19世紀後半期を代表するドラマティック・テノールの一 人で、トランペットのように輝かしい高音と力強い中声域の歌唱で一世を風靡しました。彼はヴェルディ《オテッロ》 (1887年)タイトルロールの創唱歌手でもあります(識者の多くは、オテッロ役の声の用法にヴェリズモ的発声歌唱が先取さ れている、という認識で一致しています)。 楽譜を見直して考えたのですが、多くの点でタマーニョは素晴らしく歌えるでしょう。でも、第1幕の二重唱 フィナーレ、さらに多くの、少なくともこのオペラの終わりの部分では上手くやれそうにありません。[中略]真 の役者にとって最高に易しい演技が…[註:ヴェルディは具体的言及を避けています]…にとっては難しいのです。 (アッリーゴ・ボーイト宛、1886年1月21日付)11 無実のデズデーモナが殺されたのを知ると、オテッロはもう息もできません。彼は肉体的にも精神的にも消耗 し、精根尽き果てているのです。そこではもはや、くぐもった、生気のない声でしか歌えないのです……それを できる確かな技術をタマーニョは持っていません。彼は常に声を張り上げてしか歌えないのです。そうしないと 響きが悪くなり、音程も不確かなものになってしまうのです。 (ジューリオ・リコルディ宛、同月22日付)12 他にもヴェルディは、「ゆったりとした長いレガートのフレーズをメッザ・ヴォーチェ[弱声]で歌えない」などの 欠陥を指摘していますが、声を張り上げていないと響きが損なわれ、音程が外れる欠点は、豊かな響きと壮麗な声を 獲得した20世紀のヴェリズモ的発声歌唱の歌手たちにもしばしば見られます。 ヴェリズモ時代を代表するテノール、エンリーコ・カルーゾ(Enrico Caruso,1873-1921)については、高崎保男氏の 文章を引用しておきましょう。 私がレコードで聴くカルーゾーは、どんな曲を歌っても常にその巨大な力にみちあふれた豊麗な声が、SP レ コードの狭いレンジの空間をいっぱいに埋めつくし、ごくわずかにフォルテとピアノのコントラストが示される だけの、いわば何とも平面的な歌唱にきこえてしまう。ドラマの内容や変化に応じて声がさまざまな表現をみせ るということがほとんどなく、わずかな音量の変化はあっても、そこに示される音楽の質量はいつもほとんど変 わりないのである。[中略]それは初期の歌唱だけに限った特徴ではなく、三十代以後のものになっても本質的に はあまり変わらなかったように思われるのだ。 (高崎保男『オペラの歓び(下)』)13 この文章から、声の充実を追及したヴェリズモ時代の歌手の長所と短所を読み取ることができます。 けれどもこうした声の美学が一つの時代の理想であったとしても、それが過去のすべてのオペラ作品に適用されれ ば問題を生じます。ヴェリズモ時代の歌手たちの中声域に比重を置く発声法、豊麗な響きと官能的声質は、彼らと同 時代の作品にのみふさわしい声の用法だからです。20世紀前半期のヴェリズモ的発声による歌唱一般から抽出できる、 否定的側面を列挙してみましょう。それは、押しの強い歌い方、叫び声(もしくはそれに近い大声)、アクセントを極端 に強調したディクション、衝動的なテンポの揺らぎ、ブレス多用による旋律線の切断、様式感の欠如などです。そう した歌い方がヘンデルやモーツァルトなどの古典作品にも適用されたことから、近代オペラ歌唱は過去の様式への無 関心と独善的解釈に陥ってしまったのです。 20世紀半ばのオペラ黄金時代も、全般的にはヴェリズモ的な表現の影響下にありました。ですから私は、そこで称 揚されたヴェルディ歌唱のスタイルを、あくまで 20世紀に固有なものと理解するのです。これは過去の大歌手の演

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唱を基準にヴォーチェ・ヴェルディアーナを導き出すのとは正反対の考え方であり、この言葉を「声楽コンクールの 主催者たちによってでっち上げられた伝説」と一蹴したレシーニョ14も、私と同じ視点に立っているのではないかと 思います。 次に、20世紀のヴェルディ演唱に固有のスタイルが存在することを、演奏慣習の分析を通じて例証してみましょう。 4.ヴェルディの意図に反する演奏慣習 私たちが慣れ親しんでいるヴェルディの音楽は、ヴェルディ自身の監督した初演や再演で聴かれた音楽と同じでは ありません。その違いを決定的にしているのが、20世紀の演奏実践で聴かれる「演奏上の慣習」や「伝統的解釈」の 存在です(以下、これを演奏慣習と称して話を進めます)。 演奏慣習とは、作品が作曲者の手を離れた後に演奏実践の場で生み出され、歴代の演奏家(とりわけ指揮者やオペラ の主演歌手)に受け継がれた演奏や歌唱のスタイルです。それはほとんどの場合、作曲家が楽譜として定着させた音楽 とその諸形式からの逸脱によって形成されました。今日なお存続する演奏慣習とその問題点を、《リゴレット》《イル・ トロヴァトーレ》《ラ・トラヴィアータ》のアリアやカンツォーネから明らかにしてみましょう。 ◎例1 《イル・トロヴァトーレ》 マンリーコのアリア 最初に、《イル・トロヴァトーレ》(1853年)第3幕[第3部]の幕切れで歌われる、有名なカバレッタ〈見よ、恐ろ しき炎を[あの恐ろしい炎は](Di quella pira)〉を含むマンリーコのアリア(第11曲)を取り上げましょう。この楽曲は、 次の四部分から成る拡大アリア形式で作曲されています。 (1) シェーナ[4/4拍子、アレグロ・アッサイ・ヴィーヴォ~アレグロ~アダージョ](レオノーラとマンリーコのレチタティ ーヴォ〈Quale d’armi fragor〉)

(2) プリモ・テンポ(アリアのカンタービレ部)[3/4拍子、アダージョ](マンリーコ〈Ah! sì, ben mio〉)

(3) テンポ・ディ・メッゾ(経過部)[4/4拍子、アレグロ~ピウ・ヴィーヴォ](レオノーラ、マンリーコ、ルイス〈L’onda de’ suoni mistici〉)

(4) セコンド・テンポ(カバレッタと終結部)[3/4拍子、アレグロ~ピウ・ヴィーヴォ~アレグロ~ピウ・ヴィーヴォ~ポコ・ ピウ・モッソ](マンリーコ、レオノーラ、ルイス、合唱〈Di quella pira〉)

このアリアのカンタービレ部15〈ああ、そうだ、愛しい人〉(2)はヘ短調で始まり、その主題を反復させずに途中 から変ニ長調に転じ、マンリーコの熱い思いが吐露されます。このカンタービレ後半部は一つの旋律を二回歌ってカ デンツァ付きの終結部に至るのですが、ヴェルディは同じテキストで歌われる二回目の開始部分「いまわの苦しみの 中で(fra quegli estremi aneliti)」のところで旋律のアクセントと音型を少し変え、マンリーコが高揚した気分で新たに 歌い始めることを示唆しています[譜例1]。ヴェルディは単純な反復に満足せず、人物の気持ちの変化を音楽で細や かに表現したのです。ついでながら通常のリコルディ版ピアノ伴奏譜では、この部分のアクセントが変更されていま せん。それは現行譜がヴェルディのオリジナルを反映していないことの証明でもありますが、上演楽譜やリコルディ 現行版の真正性の問題については第9項で論じたいと思います。 譜例1: 開始部(上)と二度目の開始部(下)[批判校訂版総譜N.11.,61-64 / 69-72小節より] カバレッタ〈見よ、恐ろしき炎を〉(4)は、中間にレオノーラの歌唱を含む10小節と休止の1小節を挟んで同じ テキストで反復されますが、歴代の演奏では中間部と反復部をそっくりカットして終結部に飛び、最後の「戦いだ!

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(all’armi!)」でマンリーコが楽譜に書かれていない3点ハのアクートを輝かしく聴かせて終わります。こうしたカバ レッタ後半部のカットや末尾のアクート適用は、1920年代以降、完全に慣習化しました。

この部分の演奏慣習の是非を考えるために、前段(3)に遡って楽曲の流れを説明してみましょう。

この3でマンリーコとレオノーラの心が一つになります(「神殿の扉が開き、清らかな愛の喜びが待っている」の〈il tempio

gioie di casto amor〉の三度平行で両者の合一が表されます)。そこにルイスがジプシー女の火炙りを知らせに来て、マンリ

ーコは自分が彼女の息子であると告白します。レオノーラは驚きのあまり「ああ!」と叫び声をあげ、怒りの爆発し たマンリーコのカバレッタ(4、ハ長調)が始まります。そのカバレッタ末尾で彼は、「せめてあなた[母]と一緒に死 ぬためにも行こう!(o teco almen corro a morir!)」と繰り返します。続くレオノーラの歌唱部分(通例カットされる経過 部)は、マンリーコの死の覚悟を耳にして「恐ろしい衝撃に耐えられない……ああ、いっそ死ねたらどれほどいいか! (Non reggo a colpi tanto funesti…Oh quanto meglio saria morir!)」と短調で歌われますので、これを削ると「長調~短調 ~長調」の構成が損なわれてしまいます。 続いてヴェルディは、カバレッタの反復に先立って丸ごと1小節のフェルマータ付き完全休止を置いています[譜 例2]。ここでの管弦楽も含めた沈黙が劇的緊張感を高める意味で非常に重要なのですが、反復部のカットにより、そ れも失われてしまいます。マンリーコはレオノーラの言葉を受けて激情を高め、新たにカバレッタを歌い出すのです から、歌詞が同一でも歌手に求められる表現は同じではありません。末尾のアクート適用の是非については第7項で 論じますが、テキスト、ドラマトゥルギー、音楽のいずれの点からも、私はこのカバレッタにおける経過部と反復部 のカットを容認できません。それはまさしくヴェルディ作品の歪曲なのです。 譜例2:カバレッタ反復に先立つ1小節のフェルマータ付き完全休止(↑) [リコルディ旧版ピアノ伴奏譜、178頁最上段] ↑ ◎例2 《リゴレット》 マントヴァ公爵のカンツォーネ 《リゴレット》(1851年)からは、第3幕でマントヴァ公爵の歌う有名なカンツォーネ〈風の中の羽根のように(La donna è mobile)〉(第11曲。通称〈女心の歌〉)を見てみましょう。周知のようにそこでは楽譜に書かれていないカデン ツァとアクートが演奏慣習として歌われますが、このカデンツァは本来挿入すべきでない箇所に挟まれています。な ぜならヴェルディはここで一つの音をクレシェンドしながら引き伸ばし、その極点から「con forza(力を込めて)」ひ と息に歌い切るフレーズを書いているからです[譜例 3]。ところが作曲者の意図と求められている表現が明瞭である にもかかわらず、誰が作ったか判らない、お世辞にも出来が良いとはいえないカデンツァとアクートが無理やり挿入 されてしまうのです。 譜例3: 批判校訂版ピアノ伴奏譜。278頁2~3段より(↑ 部分にカデンツァが挿入される) ↑ それがあるから公爵の好色で能天気な性格が表せる、という言い訳を受け入れるわけにはいきません。同じカンツ ォーネがその後二つのシェーナで回帰する際の書法を見れば、ヴェルディがドラマトゥルギーを熟慮して作曲したの が明白だからです。第13曲ではスパラフチーレの家の二階で公爵が鼻歌のように歌い、「allargando e morendo(テ ンポを弛めながら、消え入るように)」進み、最後に「pensier」の「pen…」で中断、眠りにつきます[譜例4]。第14曲

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では最後の6小節で「perdendosi a poco a poco in lontano(少しずつ遠くに声を弱めつつ)」アクートに立ち上げます。 ヴェルディはここで伴奏部を待機させ、最高音2点ロ音を思う存分延ばさせます[譜例5](伴奏部はフェルマータ付きで 待機)。リゴレットはそれを耳にして初めて公爵の生存を確信し、「ならば死体袋には誰が入っているのか?」と愕然 とするのです。 一連の処理を見れば、ヴェルディが一つの音楽をドラマの展開に沿って周到に変化させ、「誤った箇所に放り込まれ た四つの下品な高音にいたっては、内面性を掘り下げる役割などはさらさらもってない」(アルベルト・ゼッダ)16とい うことが理解されるでしょう。 譜例4: 批判校訂版ピアノ伴奏譜。309頁最下段より 譜例5: 批判校訂版ピアノ伴奏譜。345頁最下段より ◎例3 《ラ・トラヴィアータ》 ヴィオレッタのアリア 次に《ラ・トラヴィアータ》(1853年)から第1幕ヴィオレッタのアリア〈ああ、たぶん彼(の姿)だったのよ(Ah forse lui)17〉(第3曲18。通称〈ああ、そはかの人か〉)の第2節〈娘の私に(A me fanciulla)〉に加えられる慣習的カット の是非を考えてみましょう。

このアリアは、(1) レチタティーヴォ〈È strano!〉 (2) 二つの節から成るプリモ・テンポ(アンダンティーノ)〈Ah forse lui〉(3) テンポ・ディ・メッゾ〈Follie!..follie!…〉(4) セコンド・テンポ〈Sempre libera〉の四部から成る拡大アリ ア形式で書かれています。この曲にはさまざまな問題がありますが、ここではプリモ・テンポ第2節のカットの是非 に話を絞ります。その第1節と第2節のテキストは次のとおりです(坂本鉄男訳)19。 (第1節) (第2節) ああ、たぶん彼(の姿)だったのよ、 娘の私に、 苦悩の中で孤立している私の魂が 汚れなくしかも不安が混じる(私の)願望を、 自分の不思議な絵の具で 描いて見せてくださいましたのよ 描写するのをよく楽しんでいたのは! この方、非常に優しい未来の主人になる方は、 彼なのよ、謙虚な態度で注意深く この方の美しさが放つ光を 病床に臥せた私の家の入り口まで上がってきて、 天に見たとき、 新しい熱を掻き立てて、 私の全身はあの崇高な間違い(である愛)で、 私を愛に目覚めさせたのは。 満たされておりました。 全宇宙の鼓動であり、 私は感じておりりました、 神秘的で、誇りに溢れ、 愛が全宇宙の鼓動であり、 心にとっては苦しみであり 神秘的で、誇りに溢れ、 同時に喜びであるような愛に。 心にとっては苦しみであり、同時に喜びであることを! 御覧のように各節は二つの段落から成り、それぞれの後段は一行目を除いてほぼ同じ内容を、異なる表現で表して います。ですから、それは一種のリフレインと見なせます。こうした場合、台本詩人は第2節の主部テキストに第1 節のそれと同じ詩節や韻律構造を適用しながら感情や情緒の変化を盛り込みます。この曲も、第1節ではヴィオレッ タの気持ちがアルフレードに向けられています。やがて彼女は、初めて経験した恋のときめきを「全世界の鼓動」の ように感じます。ヴェルディはここでヘ短調からヘ長調に転じ、伸びやかな旋律でヴィオレッタの心の高まりを表し ます。 第2節をカットせずに再び短調の前奏が始まると、聴き手はハッとします。それは明から暗への急落でもあるから

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です。ヴィオレッタが全世界の鼓動のように感じたときめきが、心を引き裂く切れ切れの伴奏に変わり、彼女は自省 に転じます。「娘の私に、汚れなくしかも不安が混じる(私の)願望を」と歌うとき、彼女はこの恋が束の間の夢なの ではないか、と不安にかられるのです。少女時代に抱いた「未来の主人になる方」への憧れが今の私を誤らせている のではないか……と。やがてヴィオレッタは心に芽生えたうぶな恋心と不安を払拭し、快楽のおもむくまま自由を楽 しめばいいのよ、と心境一転してカバレッタに突入します。 ヴェルディが前記の第2節を不要と思えば、台本詩人に削除させることもできました。でも、それをしていません。 彼はこの第 2 節が存在しなければいけない、と考えたのです。《ラ・トラヴィアータ》を作曲したとき、ヴェルディ はオペラの絶対的創造者としての立場から、自分の望む内容に台本を変更させられる立場にあったことを記しておき ましょう。彼はこの作品よりもずっと前から新作の台本作者と題材を指定し、台本の報酬も自分の作曲報酬から支払 っていました。台本作者を自分で雇っているのですから、与えられた台本に不本意ながら作曲した過去のオペラ作曲 家とは根本的にあり方が違うのです──「研究の結果、少なくとも《エルナーニ》以降のオペラの真の台本作者は、 これまで以上にヴェルディ自身であると思われるに至った」(マルチェッロ・コナーティ)20 ヴェルディはもちろん、聴衆にとっても先の第2節は必要です。そこに表現上の確固たる必然性があり、聴き手に とって冗長でないことも、リッカルド・ムーティ指揮の録音や上演が証明しています。 同じことは、第3幕冒頭シェーナ(台本では第4景)でヴィオレッタの歌う〈さようなら、過ぎし日々の美しく楽し い夢よ(Addio del passato bei sogni ridenti)〉(第8曲)についても言えます。そこでも第2節〈楽しみも苦しみも、もう じき終わりを迎えます(Le gioie, i dolori tra poco avran fine)〉が慣習的にカットされますが、前記と同じ理由で私は許 容できません。その後のヴィオレッタとアルフレードの二重唱(第10曲)では、主部に22小節、末尾で38小節に及 ぶ慣習的カットが施され、原曲のあり方を大きく損ねています。私には、このオペラに加えられた一連の削除と改変 を正当化する根拠をなに一つ見つけることができません。 5.正当な論拠を欠く演奏慣習への追随 他にも演奏慣習の名の下にさまざまなカットや改変を施されますが、具体的事例としては先の三つで充分でしょう。 そうした行為を「劇的緊張感を凝縮するため」と言って正当化しようとする指揮者や評論家がいるようですが、それ ではドラマティストとしてのヴェルディを否定することになります。なぜならそれは、「原曲のままでは劇的緊張感が 持続できない」と主張しているに等しいからです。 現実には、多くのカットや改変は明確な理由なしに行なわれます。最初にそれを行なった演奏者はともかく、過去 の演奏慣習をそのまま踏襲する上演と全曲録音には充分な理由づけが存在しません21。多くの指揮者や歌手はみずか らの創意として原曲にカットや改変を施すのではなく、演奏上の慣習としてこれを受け入れているだけです。それゆ え逆説的になりますが、目の前の楽譜どおりに演奏しようとする指揮者や歌手だけが正当な論拠を有するのです。 楽譜の尊重が「原典主義」と呼ばれて毀誉褒貶あることが、私には不思議でなりません。ベートーヴェンの交響曲 が勝手にカットされて演奏されるなど、今日では考えられないからです。19世紀にはそうした演奏も広く行なわれま したが、これを演奏慣習として模倣する現代の指揮者はいないでしょう。それでも、こうした主張をスキャンダラス なことと受けとめる人もいます。私としては逆に、「なぜヴェルディの楽譜を尊重するとスキャンダルになるのか?」 と、お尋ねしたいと思います。この設問に私も答えを持っていますが、作品や作曲者の視点から導き出せる答えでは ありません。 私はここまでの論述で、20世紀の上演と録音に痕跡を残すヴェルディ作品の演奏慣習が、テキストの上でも、劇作 と音楽の上でも、さらには理論的な側面からも、真の根拠や正当性を欠くことを立証したつもりです。それは原曲と 作曲者のコンセプトの逸脱ですから、ヴェルディに異論のあるはずがありません。ですから仮に20 世紀の演奏慣習 を擁護する者がいても、結果的に芸術の創造者としてのヴェルディを貶めるか、テキスト、劇作、音楽、理論とは別 な基準を持ち出して反駁するほかないのです。 6.ヴェルディ作品における自律性の獲得と、改変拒否の一貫性 19世紀の指揮者や歌手たちは、作品に対して自由にアプローチする権利があると信じていました。しかし、自分の 作品を歪められる作曲家にとって、そうした行為は侮辱以外のなにものでもありません。「自作が演奏されるおりに、 自分の考えたとおりのテンポがあまりにもしばしば理解されないことを残念がっていた」ベートーヴェンは、メトロ

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ノームを「テンポがあらゆる部分で確実に守られるようになる、歓迎すべき手段」と認めました(『ウィーン祖国新聞』 1813年10月13日付)22。ベートーヴェン自身が指定したメトロノーム速度については今日さまざまな論議があります が、ここで重要なのは、19世紀の作曲家たちが自作の速度を同時代の演奏家から正しく理解されていないと感じ、自 分の意図するテンポを正確に伝達する目的でメトロノーム速度表示を採用した点です。これはロッシーニ後の多くの イタリア・オペラ作曲家も同じで23、ヴェルディも《アッティラ》以後のほとんどの作品にみずからメトロノーム速 度表示を与えています(《ファルスタッフ》の上演に列席したヴェルディが、第1幕の演奏時間が自分の想定より「2分長くかか った」といって舌打ちした逸話も残されています24)。 ベルリオーズは、ヴェーバーの《魔弾の射手》をカスティル=ブラーズが翻案改作した《森のロバン》(1824年)を、 「原作の美しさは微塵もなく、編曲者によってずたずたに切断され、通俗化され、歪曲され、ひどい侮辱を加えた」 と批判しています(『回想録』第16 章)。ロッシーニの時代にはオペラの著作権が確立されていなかったため、第三者 の改作や改竄が横行していたのです。けれども1840年にサルデーニア=オーストリア協定が締結され、作品に対する 著作権が法的に認められたことから、ヴェルディは自作の保護と尊重を強く主張するようになります。ですからイタ リア・オペラの自律性の獲得、完成品としての固定化はヴェルディをもって始まる、と言っても良いのです。25 1844年の《エルナーニ》ケルントナートーア劇場上演に際して、ヴェルディは恣意的カットや改変を禁じる書簡を 関係者に送りました──「どうかカットを許さぬように。なに一つ取り去るべきものはなく、どれほど小さなフレー ズであっても全体を損なわずに除くことができないのですから」(レオーネ・ヘルツ[エルツ]宛、1844年4月18日付)26。 それでも、作曲者の目の届かないところでカットや改変をしようとする者がでてきます。《第一次十字軍のロンバルデ ィーア人》のフランス語改作《イェルサレム》をイタリア語版《ジェルザレンメ》として出版しようとしたリコルデ ィに対し、ヴェルディは、「劇場が作品に加える変更を阻止するために、楽譜にはいかなる追加も、変更も(バレエ部 分を削除できることを別にして)禁じたままにしておいてもらいたい。そのために、劇場が楽譜を変更する度ごとに1000 フランの罰金を課すよう私は要求したい」と書いています(ジョヴァンニ・リコルディ宛、1847年10月15日付)27。さら に、スカラ座がこの作品から勝手に二重唱と〈アヴェ・マリア〉を削除したのを知ると、「それらの音楽が不適当と思 われるなら、上演されない方がましです」と言い切りました(同前宛、1851年1月5日付)28。 ヴェルディは新作の初演劇場に対して、作品のカット、改竄、調性の変更をせぬよう要求し、再演する劇場には上 演楽譜を貸与するリコルディ社を通じてこれを徹底させようとしました。リコルディ社はあらかじめ新作の権利形態 を官報で告知し、さらに『ミラーノ音楽新聞』紙上で諸劇場の興行主に向け、権利者の同意なしに全曲の上演、個々 の楽曲演奏、改作、編曲、翻訳、印刷、出版が禁じられている旨を勧告しています(例:1853年3月6日付『ミラーノ 音楽新聞』における《ラ・トラヴィアータ》の権利公示)。 ヴェルディの姿勢は晩年まで一貫していました。《アイーダ》の再演でやむをえぬ事情で一つの幕がカットされたの を知ると、彼は直ちに興行主に抗議するよう求める電報を打ち、さらに次の抗議文をリコルディ社に送っています。 ナポリの興行主に対し、私たちの契約の定めに従って損害と利益損失の抗議がなされるよう私は公式に求める。 この利益損失は作曲者に取り戻されなければいけないのだ。作品の所有者は、賃貸料をきちんと貰っているのだ から損害はない。侮辱されたのは芸術の方なのだ。だから、私には自分でそれを取り戻す義務がある。 この件に関して、一切の譲歩も、妥協もない。リコルディ社の代表者がこのように醜悪な行為を許したことに、 私がいまもって呆れ果てている、と繰り返し述べて筆を置く。急いで[対処せよ]。 (ティート・リコルディ宛、1874年3月1日付)29 20年後、パリの《ファルスタッフ》再演で歌手が勝手に音楽を歪めたのを知ったヴェルディは、あらためてリコル ディに対して厳重抗議しています。 第一、私には諸作品が契約に従って私の書いたとおり演奏される権利がある。 第二、出版社はこの権利を維持しなければならず、貴方が言うように貴方にフランスでの充分な権限がないな ら、作曲者の私が後任として、《ファルスタッフ》は私が着想したとおりに演奏されるべく要求しよう。 (中略)留意されたいのは、《ファルスタッフ》は全面的に演奏されねばならない。さもなくば上演を中止せよ、 ということだ。 (ジューリオ・リコルディ宛、1894年6月9日付)30 「自作が楽譜に書かれたとおり演奏されるよう要求した、19世紀最初のオペラ作曲家」(オーベルドルフェル)31…… それがヴェルディなのです。

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7.慣習的アクートの濫用とその問題点 一連のヴェルディの言葉を受け、私は一つのタブーに挑戦してみたいと思います。それは20世紀の聴衆が支持す る、楽曲末尾でのアクート適用への批判です。これはヴェルディの意図に反する演奏慣習の一つですから、本論の分 析ですでに結論が出ているはずですが、承服できない方もおられるでしょう。既存のオペラ書には、ヴェルディ自身 が歌手のアクート適用を認容したとする文章が複数見られるからです。そうした記述には、主に次の二つの主張が見 られます32。 (1) 1853年1月19日ローマのアポッロ劇場における《イル・トロヴァトーレ》初演の際、マンリーコを歌ったテノ ールのカルロ・バウカルデが勝手にハイCに変えて歌った。 (2) バウカルデやエンリーコ・タンベルリックの付加したハイCを、ヴェルディ自身もオーソライズしていた(オー ソライズの意味は、認容する/正当と認める)。 けれども、私の調べたヴェルディ伝や研究書には、カルロ・バウカルデ[ボーカルデ]33(Carlo Baucardé,1825-83) が初演時にハイCを歌ったという記述は一つもなく、またヴェルディの自筆楽譜や現存する上演楽譜、上演批評や書 簡などの文書史料にもそうした痕跡が見当たりません(初演に関するドキュメントは批判校訂版の作成時に組織的に調査され ますが、《イル・トロヴァトーレ》批判校訂版の序文と校註にもこれに類する記述はありません)。けれどもヴェルディの列席し ないローマ以外の再演でバウカルデがハイCを歌ったという記述は、複数の書に見出せます(それを1855年フィレン ツェ、あるいはナポリとローマの再演とする者もいますが、根拠は定かでありません34)。『ヴェルディ辞典』の著者レシーニョ は、フィレンツェ再演でバウカルデがハイCを歌ったとし、続けてこう記しています──「ヴェルディはもちろんそ れを喜ばなかった。そして、《アロルド》初演のミーナ役を選ばなければならなかったとき、[台本作者]ピアーヴェが バウカルデの妻アウグスタ・アルベルティーニを提案すると、ヴェルディは答えた──「ともあれ君にアルベルティ ーニは駄目だと言っておこう。彼女の夫[バウカルデ]を使っただけでうんざりだ。あんな狂った奴らと係わるのは御 免だ」([フランチェスコ・マリーア・ピアーヴェ宛]1856年11月3日付)35。 その後バウカルデはアメリカに渡りましたが、成功を収めることができずに38歳の若さで引退しています。 次に(2)の、タンベルリックの付け加えたハイCをヴェルディ自身もオーソライズしていたとされる点を考えてみま しょう。私の持っている複数のヴェルディ文献にも、エンリーコ・タンベルリック(Enrico Tamberlick,1820-89)が、 「地方の劇場でハイCを歌いましたが、聴衆は大喜びしました」と言ったら、ヴェルディが「聴衆の欲するものを拒 絶しないように。あなたに良い声で歌えるのなら、ハイCを歌いなさい」と答えたとする話が書かれています36。私 はこの話の出典を調べようと努力しましたが、典拠を示した書き手が見つかりません。いつ、どこで両者の間にそん なやりとりがあり、誰が最初に文章にしたかさえ不明なのです。私はそれを 20世紀の作り話ではないかと睨んでい ますが、ヴェルディの思想や信条を知る研究者はもちろん、ここまでお読みいただいた読者にとっても、これがきわ めて反ヴェルディ的な言説であるのが理解されるでしょう。 タンベルリックは《運命の力》(1862年)ドン・アルヴァーロ役の創唱歌手ですが、1850年以後イタリア以外の地 で活動したので、ヴェルディとの接点は1862年の《運命の力》サンクト・ペテルブルク初演しかないようです(同年 ヴェルディはタンベルリックを想定して《諸国民の讃歌》を作曲しましたが、ソプラノ用に改訂して初演されました)。そして《運 命の力》初演版の第3幕ドン・アルヴァーロのアリアに、3点ハ音が記譜されています。しかし、ヴェルディはその 後の再演でテノールがハイCを出さずに済むよう楽譜を変更した旨をリコルディに書き送っています──「デ・バッ シーニが君に届ける巻き筒には、第 3幕のテノール用アリアのカバレッタが入っている。この曲を一音低く移調し、 新たに管弦楽化したものだが、それを行なったのはタンベルリックのために書いた曲が他の誰にも歌えそうにないか らだ。君には貸し譜のすべてをこれと置き換えるよう、お願いしておく」(ティート・リコルディ宛、1863年4月付)37。 この低く移調されたアリアが、ヴェルディにとっての決定稿です。1869年にヴェルディ自身の行なった大幅な改作 (今日上演に使われる改訂版)では、第3幕末尾のアリアがそっくり削除されました。それゆえヴェルディは初演時の特 例としてタンベルリックにハイCを与え、それが前例とされぬよう貸し譜を変更させ、ほどなく楽曲そのものをみず から取り除いたのでした。そしてこれが事実のすべてであり、私の探求では歌手たちが付け加えたハイCをヴェルデ ィがオーソライズした[認容した/正当と認めた]という確証を得ることができませんでした。ヴェルディが歌手の付 加したハイCを容認したか否かという問題は、ヴェルディの思想信条と直接係わるだけなく、20世紀の演奏慣習の 是非を論じる上での要にもなるのですから、研究的視点で語ることができなければ意味をなさないと私は思います。 そもそも私たちは、なぜアリアや重唱曲の最後に同じスタイルの終わり方だけを聴かされなければならないのでし

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ょう。ヴェルディはロッシーニ時代のオペラ作曲家とは異なり、重要ナンバーの定型的終止を潔しとせず、楽曲ごと にさまざまな形を採用しました。前述ヴィオレッタの〈さようなら、過ぎし日々の美しく楽しい夢よ〉では、各節の 最後(つまりは歌い終わりの部分)のテキスト「今やすべては終わってしまったのだ(Ora tutto finì)」の末尾「-nì」を消 え行く長い2点イ音で終わらせました。《リゴレット》ジルダのアリア〈グアルティエール、マルデ!〉では2点ホ 音を長く伸ばしたトリルで歌い終える、前例のない形を使っています。ドラマティックなアリアや重唱曲には定型的 終止も使われますが、その場合は最も音楽的に盛り上がる部分に、楽曲における文字どおりのアクート(鋭い、激しい 高音)を適用しています。私たちはこうした点にヴェルディの音楽語法を認めなくてはいけないのであり、力点を勝 手に末尾へ移動し、そこで役の声域に含まれない高音をむやみに聴かせるのは作品の歪曲でしかありません。なぜな ら、歌手たちはベッリーニやドニゼッティだけでなくロッシーニ作品にさえ同じようなアクートを適用するので、作 曲家や時代ごとに異なるはずの音楽が、その部分だけ同質のものになってしまうからです。 それにもかかわらず、現代の聴衆の多くはヴェルディの意図を無視したカバレッタ末尾のアクートを重視していま す。まるで、音楽と歌の真価やカタルシスがその部分に集約されているかのように。そしてアクートの出来しだいで、 歌手としての資質まで問われてしまうのです……3点変ホ音のアクートをきちんと歌えないソプラノは、「そもそもヴ ィオレッタを歌うべきではないのだ」などと。 聴衆が過剰に期待を寄せる慣習的アクートへの不安から、幾つかのレパートリーを外している歌手がいることを私 は知っています。それ以上に私たちは、遥かに多くの歌手が無謀なアクートを出して破綻するのを耳にしています。 彼らはアクートを歌わないで聴衆を失望させたり、高音を出せないと思われるのが怖いのです。叫び声や金切り声に なっても、長く延ばせなくても、音程が低かろうと破綻しようと、「とにかくそれを歌いました」「今日の出来はいま 一つでしたが、普段はもっと立派に歌えるのです」と表明する必要があるのです。それは一種の強迫観念となって、 歌手たちに憑りついています。不幸なことに、ドラマティックな表現に秀でた歌手が高音で失敗するのをサディステ ィックに期待し、最後の瞬間の致命的失敗に快感を覚える聴衆すらいるのです。そうした倒錯はうんざりだ、と言い ましょう。慣用的アクートの適用が、歌手、歌唱、表現の選択肢を狭め、結果的にヴェルディの意図に反するタイプ の声と歌唱が称揚されるなら、それは過誤以外のなにものでもないのです。 晩年のヴェルディはこう述べています──「確信を持って現在の諸傾向に反対の旨を述べたので、あえて言わせて いただきます。総ての時代にはそれぞれの[時代に固有な]痕跡が刻まれているのです。ずっと後になって歴史が、ど の時代が良きものあり、どの時代が悪しきものであったかを語るでしょう」(オップランディーノ・アッリヴァベーネ宛、 1884年6月10日付)38。20世紀前半期に形成・定着した固有の演奏スタイルも、その時代ならではのエトスやパトス の所産であるとは言えないでしょうか。 8.オーセンティシティと原典をどこに求めるべきか 作曲者の予想もしない演奏スタイルが蔓延しているにもかかわらず、その中にオーセンティシティ(真正性)を求め ようとする人たちもいます。けれども、誰彼の指揮するヴェルディのオペラを「オーセンティックな演奏ではない」 とする批評はあっても、オーセンティックな演奏とは何かをきちんと説明する人はいません。もしもヴェルディ演奏 のオーセンティシティなるものがあるなら、それは既存の演奏例ではなく、作曲者の意図と原譜の中にしか見出せな いからです。ヴェルディは作品に(つまりは楽譜に)忠実であれ、と求めました。それが作曲者の理想へ近づく唯一の 道であり、規範なのだ、と──「私は歌手たちが楽譜に書かれたとおりを、ただ単に正確に演奏してくれればそれで 満足なのです。いけないのは、書いてあることを実行しないことです。[中略]私は創造するという権限を歌手たちに も指揮者たちにも認めません。それは奈落へと転落する始まりなのです」(ジューリオ・リコルディ宛、1871年4月11日 付)39 こうした考えを創作者の傲慢だ、独善だ、と批判するのは簡単です。けれどもヴェルディを愛する演奏家なら、彼 の言葉をもっと真摯に受けとめるべきではないでしょうか。例えば次の言葉を──「私は最善を尽くしてオペラを作 曲しています。僅かな部分でさえ、聴衆の意見にけっして惑わされずにこれを作り、彼らのもとに送り出してきたの です」(ヴィンチェンツォ・フラウト宛、1848年11月23日付)40。「このオペラ(《ドン・カルロ》)は長大です。確かにそう です。でも、こう考えなければいけません。この作品は声を誇示するためのものでも、一人のバレリーナの足を見さ せるものでもないのだ、と。あなたたちの観客がそうしたものを求めるなら、なぜそんなタイプのオペラを上演しな いのですか?」(チェーザレ・デ・サンクティス宛、1871年1月13日付)41。「私は私が欲するとおりに、さまざまな役が 歌われることを求めています」(ジューリオ・リコルディ宛、1871年7月10日付)42。「芸術的侮辱というべき演奏を、私 はけっして容認できないのです」(同前宛、1894年6月9日付)43……

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20 世紀の演奏慣習がトラディショナリズム(伝統主義)として根を下ろした理由の一つに、録音やディスクの存在 が挙げられます。収録時間の短いSP盤の時代には時間を短縮する目的で、前奏や後奏、歌唱パートにカットが施さ れました。硬質の女声、金属的な高音、男声のヴェリズモ風の歌い方が世界標準となったのも、当時の録音の影響力 を考えれば頷けます。指揮者や歌手が楽譜を軽んじる傾向はそれ以前からありましたが、作品の改変を演奏者自身の 創意としてではなく、大歌手や権威ある指揮者の前例に範を求めるようになったのは、「録音と再生の時代」と云われ る 20 世紀固有の現象と言っても良いでしょう。評価の高い演奏に作曲者の理想を置き換える錯誤も、ここから生ま れました。 歴代の指揮者たちも、書簡や楽譜から読み取れるヴェルディのコンセプトと演奏実践との乖離を自覚していなかっ たわけではありません。けれども、完全に定着したオペラのスタイルを根底から覆す勇気のある者はいません。有名 歌手を中心にキャストが組まれ、聴衆もソプラノの3点変ホ音やテノールのハイCを期待して劇場に足を運ぶのです。 それに、大歌手に対して異なる発声や歌唱を求めることは、よほどのカリスマ指揮者でなければ不可能です。そこで 持ち出されたのが「楽譜=原典」という名の錦の御旗ではないか、と私は思います。 ムーティが《ラ・トラヴィアータ》(1980 年録音)44で行なったのがそれです。慣習的なカットをしりぞけ、アリア の歌い終わりも楽譜どおりでアクートを適用していません。過去そうした演奏例が絶無であれば……すべての録音と 上演に接したわけではないので断言はしませんが……ヴェルディ作品の受容史で画期的な意義を持つと言えましょう。 しかし、こうしたアプローチを「原典主義」や「楽譜尊重主義」と呼ぶのは正しくありません。ムーティは録音に際 して過去の演奏慣習と一線を画しながらも、その後のスカラ座上演ではヴィオレッタ歌手に3点変ホ音の慣習的アク ートを歌わせているからです。これを解釈不一致と見なすこともできますが、そのためにはムーティが自己の信念や 絶対的信条として「楽譜に書かれていないことは絶対に歌わせない」と表明していなければなりません。その上でヴ ィオレッタに3点変ホ音を歌わせたなら、言行不一致になるわけです。 実際にムーティはヴィオレッタに3点変ホ音を歌わせることもあるのですから、原典主義者でも楽譜尊重主義者で もありません。そもそも音楽の解釈は、ヴェルディの意図を充分汲みながらもなお一元的ではありえないので、その 一つを勝手に「○○主義」と命名して(あるいは演奏者自身がそれを標榜して)毀誉褒貶あるのは、現代の評者や演奏家 たちが「ヴェルディの原典とは何か」という基本問題をまったく理解していないことの証ではないかと私は思います。 ともあれこれを境に、楽譜を尊重する立場でのヴェルディ作品解釈に新たな地平が拓かれました。けれどもそこに は、過渡期ならではの矛盾や過誤も見られます。カルロ・マリーア・ジュリーニがヴェルディの自筆楽譜を研究して 録音に臨んだ《イル・トロヴァトーレ》(1984録音)がその例です。作曲者のコンセプトを演奏に反映させる姿勢を打 ち出し、〈見よ、恐ろしき炎を〉のテンポもメトロノーム指示どおり4分音符=100と遅くしながら、フェルマータ付 きの完全休止やアリア末尾の処理など肝心な部分で楽譜を無視しているのです。しかも、最後にプラシド・ドミンゴ が調子の悪い3点ハを出すのを許しています(そのせいで合唱も1小節余分に歌っています)。 信頼性の乏しい上演楽譜だけを解釈の典拠としたり、商業的見地や話題づくりのために歌手と声の選択を誤り、オ リジナル尊重をうたいながら重要な部分で楽譜を逸脱するのが1980年代の新解釈の本質であるなら、それは見せか けの「楽譜=原典主義」でしかありません。指揮者たちが単独に行なう楽譜解釈の限界がそこにあります。ムーティ やジュリーニがヴェルディの自筆楽譜を参照できても、実際に使用するのは貸し譜である指揮者用の総譜、管弦楽パ ート譜、歌手用のピアノ伴奏譜なのです。それらと原譜(ヴェルディの自筆楽譜)との間には数千、あるいは万の単位 にのぼる異同があり、稽古の際に可能な変更や訂正にもおのずと限界があります。それだけではありません。ヴェル ディの真筆と第三者の筆跡の峻別、作曲者自身の書き替えを重層的な書法から把握する作業、現存する自筆総譜と初 演譜や再演譜の間の異同の検証、作品の成立過程で残された膨大な書簡とドキュメントの解析、錯綜する一次資料か ら作曲者の意図を正しく汲み取る作業……それらは専門的な音楽学者にのみ可能な仕事なのです。演奏解釈の原典も、 最先端の研究成果と英知を結集したヴェルディ作品の包括的検証があって初めて存在します。それが次項で明らかに する批判校訂版(Edizione critica[伊]/ Critical Edition[英])なのです。

9.批判校訂版が変える21世紀のヴェルディ歌唱と演奏解釈 生前ヴェルディが自作に関する権利を全面的にリコルディ社へ委ねたことから、同社の上演楽譜や出版譜が原典と して信頼されてきましたが、現実にはオリジナルの内容がきちんと反映されていません。自筆総譜の大半がリコルデ ィ社の資料庫に保管され、研究者の閲覧が禁じられたため、そうした問題は長年にわたり隠蔽されてきました。とこ ろが1951年に《ファルスタッフ》の自筆楽譜複製が刊行され、このオペラの原譜と出版譜との間に2万7000もの 異同が音楽学者によって指摘されたことから、リコルディ版の真正性への疑いがいっきに浮上しました。けれども19

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世紀イタリア・オペラに固有の、原譜と諸版との異同や改変の問題が深く認識され始めたのは、ロッシーニ作品の批 判校訂版(1979年開始)がきっかけとなっています45。ロッシーニ歌唱が過去20年間に遂げた驚くべき変貌も、原典 と様式に対する研究が基礎にあります。批判校訂版以前と以後の演奏解釈に断絶ともいうべき違いが存在するのも、 そのためです。 続いてシカゴ大学によるヴェルディの批判校訂版編纂が始まり、1983年から今日までの19年間に《ナブコドノゾ ル》《エルナーニ》《アルツィーラ》《群盗》《海賊》《ルイーザ・ミラー》《リゴレット》《イル・トロヴァトーレ》《ラ・ トラヴィアータ》《レクイエムのためのミサ》の新エディションが成立しています。この批判校訂版によってヴェルデ ィが何を、どう書いたのかが初めて明らかになったと言ったら、読者は驚かれるのではないでしょうか。しかし、そ れは紛れもない事実です。ヴィオレッタのアリアのテキストをヴェルディみずから改作していたり、《レクイエムのた めのミサ》の〈怒りの日〉(第2曲)声楽パートにPからPPPPPPに至る6段階の精緻な弱音区分があること、《イル・ トロヴァトーレ》の管弦楽パートに史上最弱の指示(PPPPPPPPPPPPPPPPPianissimo)があるなど、演奏解釈に不可 欠な事項のすべてが批判校訂版によって公にされたのです。 作品の題名も、批判校訂版ではオリジナルを尊重して《ナブッコ(Nabucco)》が《ナブコドノゾル(Nabucodonosor)》、 《レクイエムのミサ(Messa di Requiem)》が《レクイエムのためのミサ(Messa da Requiem)》に変更されています。 ヴェルディの付した楽曲番号とその区分名称も復活させられました。2001年まで使われていた《ラ・トラヴィアータ》 ピアノ伴奏譜旧版は楽曲番号を適用せずに、第1幕を二つ、第2幕を五つ、第3幕を四つの楽曲に区分していました が、1996年成立の批判校訂版総譜では第1幕が前奏曲も含めて3曲(N.1~3)、第2幕が4曲(N.4~7)、第3幕が4 曲(N.8~11)のナンバーに再編成されました。これがヴェルディの適用した区分なのです。楽曲区分名称も、リコル ディ旧版の「前奏曲、シェーナとアリア」が批判校訂版では「ヴィオレッタのシェーナ」とされています(第3幕冒頭 曲)。《ラ・トラヴィアータ》の批判校訂版ピアノ伴奏譜は 2001 年に初出版されたばかりですから、私たちはまさに ヴェルディ再発見の渦中にあるといって良いのです。 批判校訂版は作曲者のオリジナルなコンセプトと書法を復活させると共に、作曲者の介在しない変更や改竄を徹底 的に退けます。過去何千回と行なわれた演奏慣習も、それがヴェルディに起因しなければ言及すらされません。現行 上演楽譜や 20世紀の出版譜も後代の改竄が夥しいことから、校訂資料に採用されません。こうした厳格な姿勢と方 法論で作られた批判校訂版だけが、私たちに真の意味でのオーセンティシティを開示してくれるのです。 それゆえ没後100周年の2001年は、真のヴェルディ理解の幕開けの年とされなくてはいけません。ヴェルディ歌 唱の再検討も 20世紀の演唱をいったん棚上げし、作曲者自身の意図に立ち戻ることから始められます。身勝手なテ ンポ・ルバートやポルタメント、はなはだしい誇張表現を避け、アジリタのパッセージや装飾音、オリジナルの強弱 法とフレージングをきちんと歌おうと思えば、ヴェリズモ的発声歌唱から歴史的な歌唱法(ベルカントとドランマーティ コのどちらにも適応できた19世紀半ばのフレキシブルな声の用法)への回帰が求められます。技術的な方向性と解釈を根本 から改めないかぎり、ヴェルディの記したメッサ・ディ・ヴォーチェ(長い音符や引き延ばされたフレーズに適用するクレ シェンド~ディミヌエンドの暫時的強弱)やトリルすら満足に歌えないということを、20世紀の演唱は皮肉にも証明して いるのです。 では、ヴェルディのコンセプトや書式を反映させると、演奏はどのように変わるのでしょう。それは、芝居がかっ た押しつけがましい表現から抒情的で端正な表現へ、重い声から軽めの声へ、衝動的な流動性からテンポの整った歌 唱へ、大雑把で恣意的なフレージングから作曲者の望んだ精緻なフレージングへ、ヴェリズモ的な劇解釈から古典的 様式美の復活への移行として成されるでしょう。批判校訂版に基づく新録音が絶無といって良い現状では、そうした 変化はまだ顕在化していませんが、方向性としては間違いないと思います。 先日発売されたニコラウス・アーノンクール指揮の《アイーダ》(2001年録音)を、そうしたアプローチが比較的後 期の作品にも適用可能であると示唆した点で、私は高く評価しています。《アイーダ》の批判校訂版が未成立のため真 の問題の所在が明らかでなく、アーノンクールも現行上演楽譜の再解釈として……当然のことながらすでに成立して いる他の批判校訂版からも学びつつ……これを行なったと思いますが、さまざまな可能性と選択肢を秘めた 21世紀 の演奏実践に扉が開かれているのを実感させてくれます。 20世紀には確かに熱いヴェルディ演唱の時代がありました。けれども、それが一つの時代の痕跡にすぎぬと知って しまった以上、私たちはその延長として新たな世紀を生きることはできません。なぜなら21 世紀を生きる私たちに は、20世紀の理想を私たちの理想に置き換えて進歩に背を向けるか、ヴェルディの原点に立ち帰って新たな未来を再 構築するかの選択が迫られているからです。

参照

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