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(1)

金関丈夫「龍山寺の曹老人」論 : 日本統治期台湾 における探偵小説と台湾民俗保存活動

著者 辻 明寿

雑誌名 日本文藝研究

巻 70

号 2

ページ 27‑45

発行年 2019‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10236/00027591

(2)

金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

│ 日本 統 治 期台 湾 に おけ る 探 偵小 説 と 台湾 民 俗 保存 活 動

││

明 寿

1. は じ め に 第 二次 世界 大戦 の最 中︑ 日本 とア メリ カの 戦い が激 化す る一 九四 三年

︑台 湾に おい て﹁ 曹老 人の 話﹂ とい う探 偵小

説の 連載 が始 まっ た︒ 台湾 本島 人の 街・ 艋䴏 の中 心に 建つ 龍山 寺を 舞台 に素 人探 偵・ 曹老 人が 活躍 する

﹁龍 山寺 の曹 老人 シリ ーズ

﹂は 終戦 後も 発表 され 続け られ

︑台 湾で 一 九 四 七年 ま で に単 行 本 三冊 が 発 刊 され て い る︒

﹁龍 山 寺 の曹 老人 シリ ーズ

﹂著 者の 林熊 生と は金 関丈 夫の 筆名 であ る︒ 金 関丈 夫︵ 一 八 九 七

〜 一 九 八 三

︶ は香 川県 に生 まれ

︑閑 谷黌 岡山 分黌

︑県 立松 江中 学 校で 学 び︑ 在 学中 よ り 雑誌

﹃白 樺﹄

﹃ 文章 世界

﹄を 購読 して いた

︒一 九一 三年 に は 福田 豊 ら と共 に 同 人雑 誌

﹃野 人﹄ を 制 作す る 等︑ 文 学活 動 を はじ めて おり

︑学 校で は﹁ 軟文 学の 不良 少年

﹂と 呼称 され てい たと いう

︒両 親が メソ ジス ト教 会の 信徒 であ った ため 幼児 洗礼 を受 け︑ 岡山 組合 教会 の少 年隊 に入 り︑ 聖公 会松 江基 督教 会で は按 手礼 を受 けて いる

︒第 三高 等学 校入 学後 はト ルス トイ に傾 倒し

︑一 九一 九年 の朝 鮮三 一事 件に 際し て︑ 朝鮮 出身 の同 舎生 の憤 慨に 共感 を覚 えた とい う︒ 一九 二三 年︑ 京都 帝国 大学 医学 部卒 業後

︑同 大学 解剖 教室 助手 とな り︑ 清野 賢次 に師 事し 人類 学を 研究

︑同 大学 助教 授に 就任 金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

二 七

(3)

する

︒一 九三

〇年

︑﹁ 琉 球人 の人 類学 的研 究﹂ で京 都大 学 医 学博 士 を 取得

︑一 九 三 三年 に は 東 亜考 古 学 会の 調 査 のた め︑ 満州 及び 朝鮮 各地 を廻 り︑ 一九 三六 年に 台北 医学 専門 学校 助教 授と して 台湾 に赴 任し た︒ 一 九三 七年 に台 北帝 国大 学医 学部 解剖 学教 室第 二講 座教 授と なり

︑一 九四 一年 に池 田敏 雄︑ 国分 直一

︑立 石鉄 臣等 と共 に﹃ 民俗 台湾

﹄を 創刊

︑台 湾の 民俗 研 究 を 行っ て い る︒

﹁龍 山 寺 の曹 老 人 シ リー ズ

﹂の 他︑ 本 格的 探 偵 小説

﹃船 中の 殺人

﹄や 随筆 集を 発表 する など

︑精 力的 に文 学活 動も 行っ てい た︒ 戦後 は国 立台 湾大 学教 授と して 留用 され

︑台 南で 二・ 二八 事件 の渦 中に 巻き 込ま れて いる

︒一 九四 九年 に帰 国し 九州 大学 や鳥 取大 学︑ 帝塚 山大 学等 の教 授を 歴任 した

︒ 金 関丈 夫﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ に関 する 先行 研究 では 主に 曹老 人の 人物 造形 に焦 点が 当て られ

︑曹 老人 の言 説と 金関 丈夫 の﹁ 人種 意識

﹂及 び﹁ 大日 本帝 国に まつ わる 言説

﹂と の関 わり 等が 考察 され てい る︒ 本稿 では 先行 研究 では まだ 触れ られ てい ない 龍山 寺と いう

﹁場 所﹂ と﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ に描 かれ る宗 教儀 礼を 考察 し︑ 金関 丈夫 が民 俗研 究で はな く︑ 小説 とい う﹁ 文芸

﹂を 通じ て︑ 何を 描こ うと して いた のか を考 察す る︒ 2.

﹃ 龍 山 寺の 曹 老 人﹄ 書 誌 情報 お よ び先 行 研 究

﹁龍 山寺 の曹 老人

﹂シ リー ズの 単行 本は 全三 冊で

︑い ず れ も第 二 次 世界 大 戦 後の 台 湾 で 発行 さ れ た︒ 第一 輯 に 収録 され てい る作 品の 初出 は﹃ 台湾 公論

﹄で ある と判 明し てい るが

︑他 の作 品の 初出 は未 だ判 明し てい ない

① 林熊 生﹃ 探偵 小説 集 龍山 寺の 曹老 人・ 入船 荘事 件﹄ 民 国 三 四

︿ 一 九 四 五

﹀ 年 一 一 月 台 北

・ 東 寧 書 局

﹁ 許夫 人の 金環

初 出: 昭 和 一 八 年 八 月 一 日

﹃ 台 湾 公 論

﹄ 八 月 号

﹁ 曹 老 人 の 話 第 一 話 信 心 深 い 泥 棒 の こ と

﹂︑ 単 行 化 に あ

金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

二 八

(4)

た っ て 改 題

﹁ 光と 闇﹂

︵ 初 出: 昭 和 一 八 年 一

〇 月 一 日

﹃ 台 湾 公 論

﹄ 一

〇 月 号

﹁ 曹 老 人 の 話 第 二 話 光 と 聞

﹂︶

﹁ 入船 荘事 件﹂ 初 出: 昭 和 一 八 年 一 二 月 一 日

﹃ 台 湾 公 論

﹄ 一 二 月 号

﹁ 慰 問 読 物 曹 老 人 の 話 第 三 話 入 船 荘 事 件

﹂︶

② 林熊 生﹃ 探偵 小説 集 龍山 寺の 曹老 人・ 幽霊 屋敷

民 国 三 四

︿ 一 九 四 五

﹀ 年 一 二 月 台 北

・ 東 寧 書 局

﹁ 幽霊 屋敷

﹂初 出不 明︒

﹁ 百貨 店の 曹老 人﹂ 初出 不明

③ 第三 輯の 単行 本︵ 民 国 三 六 年

︿ 一 九 四 七

﹀ 一 月 台 北

・ 大 同 書 局

﹁ 謎の 男﹂ 初出 不明

﹁ 観音 利生 記﹂ 初出 不明

︒ 第三

輯は 未発 見だ が︑ 作品 は法 政大 学出 版局 から 出版 され た金 関丈 夫の

﹃南 の風

││ 創作 集﹄ に収 録さ れて いる

︒ 中 島利 郎は 龍山 寺の 堂の 片隅 の椅 子に 腰を かけ

︑煙 筒で 煙草 をの みな がら

︑参 詣人 をぼ んや りと 眺め てい る曹 老人 が︑ 龍山 寺の 堂の 片隅 の椅 子に 腰か けた まま で︑ その 観察 力と 推理 をも って 数々 の難 事件 を解 決し てい くと いう

﹁龍 山寺 の曹 老人

﹂シ リー ズを 金関 丈夫 が﹁ 曹老 人﹂ とい う﹁ 台湾 版の シャ ーロ ック

・ホ ーム ズを 意図 的に 確立 しよ うと し た作 品

と 指 摘 して い る

︒観 察 眼の 鋭 い 曹老 人 は 確 かに シ ャ ーロ ッ ク・ ホ ーム ズ 的 で あり

︑堂 守 の 范さ ん は ワト ソン

︑陳 警官 はレ スト レー ド警 部に 対応 して いる と言 える だろ う︒ 金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

二 九

(5)

ま た﹁ 龍山 寺の 曹老 人﹂ シリ ーズ の登 場人 物の ほと んど が台 湾人 であ り︑ 作者 が林 熊生 とい う台 湾人 とま がう 筆名 を用 いた のも

︑台 湾人 読者 を意 識し たた めで あり

︑金 関丈 夫は 台湾 の読 者︑ それ は産 業戦 士を も含 む読 者に 健全 な娯 楽を 提供 しよ うと 考え

︑台 湾人 に身 近な 設定 にし て︑ 台湾 人読 者に も探 偵小 説の 面白 さを 知ら せ︑ それ を時 局に 対す る﹃ 慰 安﹄ とし た 作 品 であ る と 論じ て い る

︒ 太平 洋 戦 争 の 最 中 で あ る 一 九 四 三 年 に 発 表 さ れ た 第 一 輯 収 録 の 作 品 は︑ 産業 戦士 や疲 弊し た労 働者 に一 時的 にで も作 品世 界を 楽し んで もら い︑ いた わる 意図 があ った とい うの は的 確な 指摘 であ ろう

︒し かし

︑一 九四 七年 とい う終 戦後 かな り時 間が 経っ てか ら出 版さ れた 第三 輯は 産業 戦士 や労 働者 への

﹁ 慰安

﹂と いう 解釈 だけ では とら えき れな い要 素が ある と考 えら れる

︒ 浦 谷一 弘は

﹁龍 山寺 の曹 老人 シリ ーズ

﹂の 曹 老 人 が﹁

﹃個 人 主 義的 で

︿道 徳﹀ と は多 少 の 距 離を 置 い てい た シ ャー ロッ ク・ ホー ムズ やヴ ァン

・ダ イン

︑明 智小 五郎 とは 違い

︑︿ 道 徳﹀ 的な 探偵 であ り︑ 観音 様 を表 に 出 しな が ら︑

曹 老 人 は

︶ は っき り大 日本 帝国

/台 湾総 督府 の手 先と し て の説 教 を︿ 許 夫人

﹀に 対 し て 行い

︑帝 国 主 義と 密 接 な︑ 極め て 直接 的 な 説 教﹄ をす る

こ と か ら︑ 金関 丈 夫 が﹁ 探 偵小 説 の 秩序 回 復 の物 語 と し ての 側 面 と︑ 探偵 小 説 の言 語 遊 戯 とし て の 側 面を 巧 み に利 用 し︑ ま さに

︿教 育

﹀す る 探 偵小 説 を 書い た

と 指 摘 す る︒ 確か に 第 一輯 に 収 録さ れ た 作品 にお いて は帝 国主 義に 即し た説 教を する 曹老 人で ある が︑ 浦谷 一弘 も﹁ 当初

︑帝 国主 義の 文脈 で︿ 教育

﹀し てい た 曹 老 人 が い つ の ま に か

︑︿ 台 湾

﹀の

︿漢 民 族﹀ の 文 脈 で︿ 教 育

﹀す る よ う に 変 わ っ た﹂

と 言 及 し て い る よ う に︑

﹁ 観音 利生 記﹂ は帝 国主 義と は異 なる 角度 から の考 察が 必要 であ ろう

︒ 横 路啓 子は

﹁曹 老人 が明 らか に帝 国よ りの 正義 を振 りか ざす 作品 のい ずれ もが

︑第 一輯 に収 録さ れた 作品 であ るこ と︑ つま り初 出が 雑誌

﹃台 湾公 論﹄

であ るこ とに 着目 する

︒﹃ 台 湾公 論

﹄は

﹁﹃ 台 湾が 帝 国 南 方の 生 命 線た る 重 要性 を 認 識 し 文 化 並 に 産 業 経 済 の 進 展 と 国 防 思 想 の 普 及 徹 底 を 期﹄ す こ と を 目 的 と し て い た︑ ま さ に 時 局 に 合 っ た 雑

金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

(6)

誌﹂ で あ っ たた め

︑曹 老 人が 日 本 帝国 の 言 説 に 寄 り 添 っ た 説 教 を す る の は

︑﹁ 教 育﹂ 的 な 意 味 合 い で あ る と い う よ り︑ 作者 であ る金 関丈 夫が 発表 媒体 であ る﹃ 台湾 公論

﹄の テイ スト を意 識し

︑帝 国の 言説 をさ しは さん だと 考え るべ きで ある と論 じて い る

︒ ま た横 路 は 金関 丈 夫 に は﹁ 帝国 に 対 する 批 判 とい っ た も ので は な﹂

︑﹁ た だ単 に 戦 争に 対し て協 力的

/非 協力 的と いっ た︑ 直線 的な もの では ない

︒時 局を 利用 しつ つ︑ 自ら の知 的欲 望を 満た して いこ うと す る︑ した た か で あり な が らも

︑ど こ か 天真 爛 漫 な 態度 が 見 い出 せ る﹂

︒ と考 察 し て いる

︒横 路 啓 子の 指 摘 する よ うに

︑金 関丈 夫は 時局 とは 距離 を置 いた 立場 で

︑好 奇 心 の向 く ま ま研 究 を 続け て い た とい え る が︑ 雑誌

﹃民 俗 台 湾﹄ での

﹁文 芸﹂ に関 する 言説 を鑑 みる と︑ 単に 知的 欲望 を満 たす ため だけ だっ たと 言い 切る こと はで きな いと 考え られ る︒ 河 尻和 也は 雑誌

﹃民 俗台 湾﹄ と﹁ 龍山 寺の 曹 老 人 シリ ー ズ﹂ の 関連 を 考 察し て い る︒

﹃ 民俗 台 湾﹄ は 台湾 の 民 俗や 習慣 等の 紹介 と研 究を 目的 とし た月 刊誌 であ り︑ 一九 四一 年七 月号 から 一九 四五 年一 月号 まで 計四 三号 が発 行さ れて いる

︒﹃ 民 俗台 湾﹄ の実 質的 な編 集者 は池 田敏 雄で あっ たが

︑主 宰者 の名 義は 台北 帝国 大学 教授 の金 関丈 夫で あっ た︒ 日 本統 治 期 台 湾に お い て台 北 帝 国大 学 土 俗 人 種 学 研 究 室 か ら 移 川 子 之 蔵 が 中 心 と な っ て

︑﹁ 高 砂 族

﹂中 心 の 研 究 誌

﹃ 南方 土俗

﹄が 出て いた のに 対し て︑

﹃民 俗台 湾﹄ は台 湾に おけ る漢 民族 の 風 俗や 慣 習 の 研究 を 中 心と し て いる

︒河 尻和 也は

﹁植 民者 の側 に属 する 学者 とし ての 金関 の旧 慣に 対す る﹃ 保存

・記 録﹄ とい った 冷徹 な目

││ 統治 者と して の 被統 治 者 へ のオ リ エ ンタ リ ズ ム︑ が存 在 し て いた

と指 摘 す る︒ 確か に 日 本 統治 下 の 台湾 で

﹃台 湾 公論

﹄に 発 表 さ れた 作 品 に つい て は︑

﹁ 統治 者

・被 統 治者

﹂と い う 枠 組み で と らえ る こ とは 可 能 で ある

︒た だ し 金 関 丈 夫 が 戦 後︑ 留用 され てい た時 期に 発刊 され た第 三輯 では 金関 丈夫 の立 場は

﹁敗 戦国 の人 間﹂ とな り︑ 台湾 本島 人と の立 場は 逆転 して いる と言 え︑

﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ 全 体 を考 え る と﹁ 統治 者

・被 統 治者

﹂と い う 枠 組み だ け では と ら えき 金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

三 一

(7)

れな い要 素が 残る であ ろう

︒河 尻和 也は さら に戦 後初 期に おけ る台 湾の 政治 や社 会的 な不 安を 目の 当た りに した 金関 丈夫 が﹁ 戦後 に発 表し た﹃ 龍山 寺の 曹老 人﹄ シリ ーズ とは

︑読 み物 に飢 えた 読者 への

﹃娯 楽﹄ であ った 一方 で︑ 結果 的 にす で に﹃ 過 去﹄ とな っ た 日 本統 治 時 代へ の ノ スタ ル ジ ー を描 い た 作品 で あ ると も 言 え る﹂

と 論じ て い る︒ 米軍 機の 爆撃 によ って 灰燼 に帰 した 龍山 寺と 空襲 によ る延 焼を 防ぐ ため に破 壊さ れた 艋䴏 の街 並み を描 くこ とな く︑ 昔日 の龍 山寺 境内 の賑 わい を描 いた

﹁観 音利 生記

﹂等 の 作 品 は︑ ノス タ ル ジー と と らえ る こ と も可 能 で あろ う

︒し か し︑ 龍山 寺に おい て人 々が 行う 宗教 的な 儀礼 や︑ 金関 丈夫 が境 内の 人々 の信 仰の 有り 様を 見つ める 眼差 しは ノス タル ジー だけ には 還元 でき ない ので はな いだ ろう か︒ 本 稿は 以上 の先 行研 究と その 問題 点を 踏ま え︑ 第二 次世 界大 戦の 終戦 前と 終戦 後に また がっ て発 表さ れた

﹁龍 山寺 の曹 老人 シリ ーズ

﹂が

︑龍 山寺 とい う﹁ 場所

﹂と そこ で行 われ てい た宗 教的 要素 をど のよ うに 描い てき たの かを 考察 する

︒先 行研 究は 主に 曹老 人の 言説 や金 関丈 夫の 意 図 に つい て 考 察し た も ので あ り︑

﹁ 龍 山寺

﹂と い う 作品 の 舞 台か ら考 察し たも のは まだ ない

︒金 関丈 夫は 小説 を刊 行す る際

︑タ イト ルに あえ て﹁ 龍山 寺﹂ とい う場 所の 名前 を挿 入し てお り︑ 強い こだ わり があ った と考 えら れる

︒さ らに

︑金 関丈 夫が

﹃民 俗台 湾﹄ で言 及し てい た﹁ 文芸

﹂の 役割 も併 せて 考察 する こと で﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ のテ クス トを 考察 して いき たい

︒ 3. 日 本 統治 期 の 龍山 寺 に つい て 一 九三 一年 に発 行さ れた

﹃台 北市 史﹄ にお いて

︑龍 山寺 は 艋

䴏 龍 山 寺 町 に 在 り

︑ 約 百 九 十 余 年 前 乾 隆 三 年 の 開 基 建 立 に 係 る 台 北 最 初 の 巨 刹 で 観 音 仏 祖 を 祀 り

︑ 最 近 台 湾 が 生 ん だ 彫 刻 家

金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

三 二

(8)

黃 土 水 氏 の 彫 刻 し た 釈 迦 尊 像 が 配 祀 さ れ

︑ 遠 近 か ら 善 男 善 女 の 日 々 に 参 拝 夥 し く

︑ 現 在 の 廟 宇 は 昭 和 三 年 十 二 月 落 慶 式 を 挙 げ た も の で

︑そ の 結 構 荘 厳 木 石 彫 刻 の 巧 妙 と 華 麗 な の は 人 目 を 眩 ず る ば か り

︑実 に 台 湾 寺 廟 中 の 白 眉 と し て 全 島 に 冠 絶 し て 居 る

と紹 介さ れて おり

︑日 本統 治時 代に おい ても 台湾 本島 人の 篤い 信仰 の場 とな って いた こと が分 かる

︒ 清 朝統 治期 に創 建さ れた 龍山 寺で ある が︑ 日本 仏教 界は 領台 直後 から 日本 仏教 布教 の端 緒と して

︑龍 山寺 に注 目し てい た︒ 曹洞 宗の 僧侶 であ る佐 々木 珍龍 は台 湾の 在 来 寺 院・ 寺廟 の 僧 侶と の 接 触を 重 ね︑

﹁ 台 北の 名 刹 艋䴏 龍 山 寺を 布教 拠点 と定 めて 着手

し︑

﹁曹 洞宗 は一 八九 五年 一〇 月に 名刹 艋䴏 龍山 寺を 実 質 的に 末 寺 化 して 同 時 に台 北 布 教の 拠点 を置 いた のを 手は じめ に︑ 各地 の寺 廟を 次々 に末 寺化

し﹁ 台北 艋䴏 街龍 山寺 の住 職 も兼 ね

︑﹁ 艋䴏 に 国 語学 校を 設立

した

︒ 一 九一 五年

︑台 南庁 䬾吧 哖

︵ タ バ ニ ー

︶ の 民間 信 仰 の寺 廟 で あ る西 来 庵 を拠 点 に 発生 し た 漢 民族 最 後 の大 規 模 な抗 日武 装蜂 起事 件が 勃発 し︑ 台湾 漢族 の民 間信 仰に 弾圧 が加 えら れる よう にな ると

︑曹 洞宗 は台 湾土 着僧 俗と 接近 融和 をす すめ

︑台 北の 龍山 寺は その 拠点 とさ れる

︒ 一 九三 六年 から 台湾 地方 庁の 主導 で︑ 各家 庭の 正庁 に祀 られ てい た中 国式 の先 祖位 牌や 神仏 像を 撤去

・焼 却し て神 棚を 安置 する

﹁正 庁改 善﹂ 運動 がは じま り︑ 一九 三七 年五 月か らは

﹁寺 廟整 理﹂ が議 論さ れ︑ 台湾 にお いて も国 家神 道を 強要 する 機運 が高 まっ てく る︒ 寺廟 整理 運動 では 総督 府に より 神社 神道 が強 要さ れ︑ キリ スト 教や 仏教 も排 除の 対象 とな り︑

﹁ 日本 仏教 各宗 派は 存続 を願 う寺 廟関 係者 側の 受け 皿﹂ と な った

︒そ し て﹁ 皇 民 化運 動 の 推進 下 に あっ て︑ 日 本 仏 教 各 宗 派 は 現 地 寺 廟 を 次 々 に 末 寺 化 し て 傘 下 に 収 め︑ 教 育 事 業 を 通 じ て 台 湾 民 衆 の 皇 民 化 に 向 け て 邁 進﹂ す るこ とと なっ たの であ る︒ 一九 三七 年七 月︑

﹁盧 溝橋 事件 を契 機に 日 中 が全 面 戦 争 に突 入 す ると

︑敵 対 関 係に 金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

三 三

(9)

ある 中国 の精 神や 伝統 に依 拠す る旧 慣宗 教は 激し い排 除の 対象

﹂ とな った

︒ 金 関丈 夫が 台湾 で﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ を書 き始 めた 時代 はこ のよ うに

︑台 湾の 伝統 的な 宗教 儀礼 が弾 圧さ れ︑

﹁ 皇民 化運 動﹂ によ って 日本 文化 や日 本神 道強 制の 機運 が高 まる 状況 下に あっ た︒ しか し︑

﹁龍 山寺 の曹 老人 シリ ーズ

﹂の テク スト には 帝国 の宗 教政 策に 沿っ た言 説や

︑日 本仏 教側 の思 惑︑ 日本 語教 育に 関す るこ とは 描か れて はい ない

︒先 行研 究が 指摘 する よう に︑ 曹老 人が 帝国 の言 説に 沿っ た言 説を し︑ 教育 する 意図 があ った なら ば︑ 日本 の皇 民化 運動 に沿 った 日本 仏教 側の 動向 や教 説が テク スト に描 かれ てい たで あろ う︒ しか し︑

﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ のテ クス トに はそ のよ うな 日本 仏教 の影 響や 日本 語教 育施 設の こと が触 れら れて いる 箇所 は見 られ ない ので ある

︒ 当 時の 台湾 仏教 は仏 教・ 儒教

・道 教が 混淆 し︑ 渾然 一 体 化 した も の だっ た が︑ 龍 山寺 も そ の 代表 的 な 寺廟 で あ り︑ 道教 的な 要素 が数 多く 見ら れる

︒一 九四 二年 発行

﹃台 湾鉄 道旅 行案 内﹄ にお ける

﹁龍 山寺

﹂の 項目 では 本

殿 の 中 央 に は 観 音 菩 薩

︑ 両 側 に は 文 殊

︑ 普 賢 の 両 菩 薩

︑ 左 右 両 側 に は 四 海 龍 王

︑ 十 八 羅 漢

︑ 山 神 土 地 の 神 を

︑ 中 央 に は 媽 祖

︑ 左 右 両 屋 に は 城 隍 爺

︑ 水 仙 尊 王

︑ 後 殿 に は 文 昌 夫 子

︑ 関 帝

︑ 註 生 娘 々 等 を 安 置 し

︑ 信 徒 数 万

︑ 香 煙 の 絶 え る こ と が な い

︒ と紹

介さ れて いる

︒﹁ 龍 山寺 の曹 老人 シリ ーズ

﹂が 描か れ た 時代 に も 龍山 寺 に は媽 祖

︑城 隍 爺 を始 め と する 数 多 くの 道教 の神 々が 祀ら れて おり

︑龍 山寺 は道 教色 の濃 い寺 廟で あっ たこ とが 分か る︒ 台 湾総 督府 は台 湾の 宗教 の根 底に は道 教が 大き な勢 力を 持っ てお り︑ 道教 の中 心を 成す もの は現 世利 益で あり

︑迷 信的 であ ると 見な して いた

︒さ らに は道 教が 反社 会的 な思 想と も結 びつ き か ねな い 危 険 な信 仰 と し︑ そう し た 危険 性を 未然 に防 ぐた めに は︑ 日本 仏教 によ り善 導し て行 く方 策が 有効 であ ると 考え てい たの であ る

金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

三 四

(10)

以 下︑

﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ の﹁ 許夫 人の 金環

﹂お よび

﹁観 音利 生記

﹂を あげ て考 察し てい くが

︑﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ は舞 台が 道教 色の 強い 寺廟 であ るだ けで なく

︑道 教の 儀式 や風 習も 随所 に描 かれ てい る︒ 台湾 総督 府が 道教 を危 険な 信仰 と見 なし てい る中

︑な ぜ金 関丈 夫は 小説 内に 道教 や台 湾仏 教に 関す るモ チー フを 描き 込ん だの であ ろう か︒

4.

﹁ 許 夫 人の 金 環

﹂考 察 艋 䴏の 生き 辞引 とも 言わ れる 曹老 人は 龍山 寺の 堂守 りで ある 范さ んと は長 い間 の友 達で あり

︑范 さん がい ない とき

には

︑﹁ 曹 老人 が︑ 神籤 を卜 なつ たり

︑線 香を 売つ たり する

﹂ こ とも あ っ た︒ 曹老 人 は 字 も読 め る し︑ 籤詩 の 意 味も わか り︑ 時々 迷信 深い 人々 が自 分や 身内 のも のの 病気 の手 当法 を神 籤の お告 げで 知り たい とい うと き︑ 范さ んの 処方 より は︑ 曹さ んの 処方 の方 がよ くき くと いう

︒龍 山 寺 の 境内 に 許 夫人 が 慌 てた 様 子 で 参詣 し

︑急 い で用 意 し た︑

﹁五 牲の 代り に簡 単な 供物 を籃 の中 から とり 出し て仏 前に 供え

︑線 香に 火を 点じ て香 炉に さし

︑や がて 口の 中で 訴え ごと

をつ ぶや きな がら

︑熱 心に 擲筶

をや り始 め﹂ る︒ 許夫 人は 曹老 人を 堂守 り だ と勘 違 い し︑ 神 籤の 結 果 を聞 き に 来る と曹 老人 は許 夫人 の家 に泥 棒が 入っ たこ と︑ 盗ま れた 物の 詳細 や場 所︑ 盗み の手 法ま で言 い当 てて しま った

︒許 夫人 は曹 老人 が犯 人で ある と決 めつ け︑ 警官 を連 れて くる

︒曹 老人 と旧 知の 陳警 官が 来る と︑ 曹老 人は 真犯 人が じき に龍 山寺 に現 れる とい う︒ 曹老 人は お

く さ ん

︑ い ま は 金 を 死 蔵 し て は い け な い と き だ の に

︑ ど う し て 政 府 に 売 ら な か つ た の だ ね

? 若 し あ ん た が

︑ き つ と 売 る と

︑ 観 音 様 に 誓 約 し た ら

︑ わ し は 泥 棒 を つ か ま へ て

︑ 金 環 を と り 戻 し て あ げ や う

︒ そ し て 売 つ た お 金 で 事 変 の 公 債 を 買 ひ な さ 金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

三 五

(11)

︒ さ あ そ の こ と を 観 音 様 に 誓 ひ な さ い

︒ と命 令し

︑許 夫人 に公 債を 買う こと を誓 わせ た︒ 二人 の婦 人参 詣人 が来 て︑ 香爐 で礼 拝し

︑帰 ろう とす ると 曹老 人は 湯飲 みを 投げ て二 人を 捕ま える よう に警 官に 言う

︒こ の二 人は 女装 した 泥棒 で︑ 香爐 のな かに 許夫 人か ら盗 み出 した 金環 を隠 して いた のだ った

︒曹 老人 はこ の二 人の 泥棒 が昨 夜︑ 擲筶 をし て盗 みが 成功 する かど うか 声を 出し て占 って いる のを 聞い てい たた め︑ 二人 が許 夫人 の家 に盗 みに 入っ たこ とを 知っ てい たの だっ た︒ 曹老 人は 泥棒 が香 爐の 中に 盗ん だ金 環を 隠し てい ると ころ も見 てい たた め︑ 許夫 人が 警官 を連 れて くる のを 待っ て︑ 犯人 を逮 捕す る計 画を 立て てい たの だ︒ 浦 谷一 弘の 先行 研究 が指 摘す るよ うに

︑物 語の 中で

︑た し か に 曹老 人 は 許夫 人 に 対し て 公 債 を買 う よ うに 命 令 し︑ 日本 帝国 の政 策に 沿っ た発 言を して いる

︒し かし 台湾 総督 府 が 危 険視 し て いた 道 教 的な 要 素 を 迷信 で あ ると 批 難 し︑

排除 する 言説 は見 られ ない

︒作 中で 描か れる

﹁神 籤﹂ とは 漢文 で書 かれ た台 湾民 間宗 教独 自の もの であ るが

︑曹 老人

は その

﹁神 籤

﹂の 結 果 を聞 き に 来る

﹁迷 信 深 い人 々

﹂の 信 仰 を 否 定 し て は い な い

︒ま た

︑道 教 の

﹁擲 筶

﹂の 場 面 で も︑ 曹老 人は その 占い の行 為を 非難 する 言葉 をか ける こと もな いの であ る︒ 龍 山寺 は日 本統 治下 の時 代︑ 日本 の曹 洞宗 の影 響が 色濃 く︑ 日本 語教 育も 行わ れて いた が︑ その 事例 もテ クス トに 描か れて はい ない

︒も し︑ 金関 丈夫 が帝 国の 政策 に沿 った 小説 を書 くと いう 意図 があ った なら ば︑ 龍山 寺や 艋䴏 で日 本仏 教の 布教 や日 本語 教育 に従 事す る日 本人 の動 向も 描い てい たの では ない だろ うか

︒ た だ﹁ 許夫 人の 金環

﹂の テク スト にお ける

﹁擲 筶

﹂ は曹 老人 が犯 罪を 発見 し︑ 解決 する ため の鍵 とな って いる ので あっ て︑

﹁ 擲筶

﹂と いう 道教 儀式 に積 極的 な意 義を 認め

︑記 録 保 存し よ う とし て い ると ま で は 言い 切 る こと は で きな

金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

三 六

(12)

い︒

﹁ 許夫 人の 金環

﹂は 一九 四一 年と いう 皇民 化運 動が 推 進 され て い た時 期 に 発表 さ れ た ため

︑当 時 戦 火を 交 え てい た中 国に 由来 する 道教 の占 いを 記録 保存 すべ きも のと まで は踏 み込 めな かっ たの では ない だろ うか

︒次 に取 り上 げる

﹁ 観音 利生 記﹂ は﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ 最後 の作 品で あり

︑一 九四 七年 に単 行本 とし てま とめ られ てい る︒

﹁観 音利 生記

﹂を 発表 した 時期 は台 湾総 督府 によ る検 閲や 圧力 を懸 念す る必 要が なか った と推 察さ れ︑ 道教 と龍 山寺 の観 音信 仰に つい て︑ さら に詳 しい 描写 が書 き込 まれ てい る︒ 5.

﹁ 観 音 利生 記

﹂ 考察

李 氏銀 は当 時の 漢民 族の 婚姻 にま つわ る慣 習﹁ 媳婦 仔﹂ で︑ 息子 の嫁 とす るた めの 養女

・玉 児を 幼い 頃か ら引 き取 り︑ 息子 の伯 梁と とも に育 てて きた

︒し かし 息子 は病 死し

︑銀 は玉 児に

﹁お 前が 死ね ばよ かっ たの だ﹂ とつ らく あた るよ うに なっ た︒ 銀は 玉児 を娼 妓と して 売る 取引 をし た が︑ そ れ を知 っ た 玉児 が 榕 樹で 首 を 吊 って 自 殺 して し ま う︒ 銀が その 知ら せを 聞い て駆 けつ けた 時に は︑ 玉児 の死 体は 消失 して おり

︑代 わり に二 行の 謎句

﹁観 音境 地尋 美玉

/龍 山窟 中遭 神仙

﹂と 書き 付け た紙 が残 され てい た︒ 銀が 風水 師の 林秀 煌に 相談 する と︑ こ り ゃ こ う い う こ と だ よ

︒ 銀 は こ れ か ら 龍 山 寺 へ ゆ き な さ い

︒ そ し て 観 音 様 に お 伺 い す る の だ

︒ 美 玉 を 尋 ね よ

︑ と い う 字 に は 玉 児 の 名 が は い っ て い る

︒ す る と 一 人 の 神 仙 が 現 わ れ て 屍 体 の あ り か を 教 え て く れ る だ ろ う

︒ そ の 神 仙 の 名 も こ の 文 句 の 中 に 出 て い る

︒ そ の 名 は 曹 神 仙 と い う の だ

︒ と言 う︒ 死体 消失 の真 相は

︑自 殺の 現場 に通 り掛 かっ た曹 老人 が玉 児を 助け

︑書 き置 きを 残し てい たの だっ た︒ 曹老 人は 相談 にや って きた 銀に

︑ 金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

三 七

(13)

こ れ を 御 覧

︒ こ の お 告 げ に は 観 音 境 地 に 美 玉 を 尋 ね よ

︑ と あ る じ ゃ ろ

︒ 先 ず 観 音 様 に お 尋 ね し な け れ ば な ら ん と こ ろ を

︑ お 前 は す ぐ 神 仙 を 捜 そ う と す る

︒ そ れ で は ほ ん と の 神 仙 は 出 て 来 な い よ

︒ と 娘へ の 愛 情 の無 さ を 叱り

︑観 音 様 に対 す る 信 仰心 の 無 さを 諭 す の であ る

︒李 氏 は悔 悟 の 涙を 流 し

︑自 身 の 非 を 認 め︑ 玉児 の屍 体が 出て 来た ら︑ 葬式 を出 して

︑丁 寧に 葬る こと を約 束す る︒ さら に自 分の 息子 が死 んだ のも

︑玉 児が 死 んだ の も

︑観 音 の罰 で あ った と 悔 いる の で あ る︒ 李氏 は 改 心し

﹁曹 神 仙︑ ど う ぞ屍 体 を 捜し 出 し てく だ さ い

﹂ と 曹老 人に 希う

︒曹 老人 は銀 が改 心し たの を見 届け て

︑防 犯 協 力で 得 た 賞金 を 玉 児に 持 た せ たう え

︑仕 事 の世 話 も し︑ 銀の もと に帰 した ので あっ た︒ こ の作 品で は﹁ 許夫 人の 金環

﹂に おい て見 られ た道 教的 要素 はよ り色 濃く なり

︑登 場人 物に は風 水師 がお り︑ 曹老 人が 自ら

﹁神 仙﹂ の役 割を 果た して いる

︒河 尻哲 也が

﹁ 観 音 利 生 記

﹂ は

﹃ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹄ の 中 で も 最 も 遅 い 一 九 四 七 年 一 月 に

﹃ 龍 山 寺 の 曹 老 人 第 三 輯

﹄ 中 の 一 篇 と し て 発 表 さ れ た

︒ ち な み に 当 作 品 が 発 表 さ れ た 翌 月

︑ 台 湾 で は 二 二 八 事 件 が 発 生 し て い る

︒ 当 物 語 は

︑ 他 の 曹 老 人 の 物 語 と 違 い

︑ 所 謂

︑ 探 偵 小 説 と は 異 な る 形 式

・ 内 容 を 持 っ て い る

︒ と︑ 指摘 して いる よう に︑

﹁ 観音 利生 記﹂ とい うタ イト ルか ら 見 ても 探 偵 小説 と い うよ り も 説 話的 な 物 語と も と らえ るこ とが でき る︒

﹁観 音利 生記

﹂に は﹁ 許夫 人の 金環

﹂で 見ら れた 帝国 の政 策に 沿っ た言 説は 全く 見ら れな い︒ また

︑﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ の他 の作 品に は見 られ ない 龍山 寺の 境内 や人 々の 様子 を描 いた 語り 手の 主観 が色 濃い

﹁地 の文

﹂が 挿入

金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

三 八

(14)

され てい る︒ その 地の 文で はま ず龍 山寺 の情 景が 描写 され

︑金 関丈 夫の 美醜 に関 する 価値 判断 が書 かれ てい る︒ 十 二 月 か ら 一 月 の は じ め に か け て の

︑ 台 北 の 人 の 心 を の び の び と さ せ る あ の 気 持 ち の い い 日 和 が

︑ 今 日 も 龍 山 寺 の 石 階 や 廻 廊 の 甃 石 に

︑ 眼 に 見 え な い 陽 炎 を 立 た せ て い る

︒ 押 し 詰 っ た 年 の 暮 れ の

︑ 遽 し い 世 間 の 動 き は 門 前 の 人 足 の 繁 さ

︑ 売 薬 う り の 講 釈 の 活 気 立 っ た 声

︑ 蜜 柑 売 り の 小 僧 の 元 気 な 叫 び に

︑ 曹 老 人 の い る あ た り か ら も そ れ と 察 せ ら れ る が

︑ 境 内 に は さ す が 一 種 の 静 謐 が 漂 っ て い る

︒ 見 る も の か ら 見 る と

︑ 龍 山 寺 の 建 物 は 俗 悪 醜 態 極 ま る も の だ と い う が

︑ し か し 俗 中 に も 一 の 仙 味 が あ り と す れ ば

︑ そ れ は か の 門 外 の 雑 踏 を 持 ち 込 も う と し な い 民 衆 の 敬 虔 な 心 の う ち に

︑ そ の 根 源 が あ る の で あ ろ う

︒ そ れ に 比 べ る と

︑ 龍 山 寺 は 俗 悪 だ な ど と 言 い な が ら

︑ 帽 子 も と ら ず に

︑ 御 本 尊 に 写 真 機 を 向 け よ う と い う よ う な 先 生 方 こ そ

︑ 俗 中 の 俗 だ と い わ な く て は な る ま い

︒ な ぜ︑ 金関 丈夫 は﹁ 観音 利生 記﹂ にの み特 別に この よ う に 主観 を 交 えた 一 節 を書 き 入 れ たの で あ ろう か

︒そ れ は︑ 一九 四五 年に 停刊 した 雑誌

﹃民 俗台 湾﹄ で果 たせ なか った 金関 丈夫 の台 湾民 衆の 民俗 を描 くと いう 目的 を﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ が受 け継 いで いる から であ ると 考え られ る︒ 柳 宗悦 は﹃ 民俗 台湾

﹄で 龍山 寺に つい て﹁ 船の 中で 先ず 龍山 寺を ご覧 なさ い︑ 台湾 一で す︑ と云 ふ話 を聴 いた

︒と ころ が実 際 を見 る と あん な 酷 い のは な ゐ ね﹂ と 否定 的 に 言 及し て お り︑ 金関 丈 夫 の龍 山 寺 の 境内 を 描 写し た テ クス トは 柳宗 悦の よう に短 期間 だけ 台湾 を訪 れ︑ 台湾 人特 有の 美的 価値 観に つい て深 く考 察す るこ とが でき なか った 日本 人の 龍山 寺に 対す る印 象に 対応 して いる と考 えら れる

︒ 龍 山寺 と日 本仏 教の 関係 で考 察し たよ うに

︑当 時の 仏教 寺院 には 日本 の影 響が かな り色 濃く 入り 込ん でい た︒ あえ て金 関丈 夫が 日本 の影 響を 描か なか った のは

︑阿 部純 一郎 が金 関丈 夫が 推進 して いた 台湾 の﹁ 民藝 保存 活動

﹂を 例に 金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

三 九

(15)

挙げ て︑

﹃ 民 俗 台 湾

﹄ の 台 湾 民 藝 保 存 活 動 は

︑ 伝 統 文 化 の

﹁ 湮 滅

﹂ に 対 抗 し て

﹁ 保 存

﹂ を 主 張 す る と い う 単 純 な も の で は な く

︑ い か な る 形 で 保 存 す べ き か

︑ 保 存 す べ き 文 化 と は 何 か と い う 問 題 提 起 を 含 ん だ も の で あ っ た

︒ と指 摘す るよ うに

︑金 関丈 夫は 小説 に用 いる 文化 も取 捨選 択し てい て描 いて いた のだ と考 えら れる

︒金 関丈 夫は

﹃民 俗台 湾 第1 号﹄ で 滅 び ゆ く 一 木 一 草 は

︑ 政 府 や 学 者 の 手 に よ っ て 万 全 の 保 護 策 が と ら れ て ゐ る が

︑ そ れ よ り も も つ と も つ と 大 切 な 人 間 の 気 風 の 良 さ な ど と 云 ふ も の が

︑ 自 然 の 滅 亡 に 任 さ れ て ゐ る の は

︑ 大 変 不 合 理 な 気 が す る

︒ さ て

︑ せ め て こ れ を 文 献 に で も 残 さ う と な る と

︑ こ れ が 気 分 の 問 題 で あ る だ け に

︑ 文 芸 以 外 に こ れ を 伝 へ る も の は な い の か も 知 れ な い

︒ と︑ 学者 の保 護策 から は漏 れて しま うよ うな 人間 の気 風を 保存 する には

﹁文 芸﹂ とい う形 式を 用い るべ きだ と考 えて いた こと が分 かる

︒台 湾に おけ る寺 廟の 祭祀 や行 事は

﹁台 湾民 衆の 生活 と一 体化 して

︑深 く台 湾民 衆に 根を おろ して おり

︑台 湾民 衆の 生活 リズ ムが 寺廟 を中 心に 展開 され る点 で︑

﹃ 生活 の 宗教

﹄と い う こと が で き る﹂ と 指摘 さ れ てお り︑ 金関 丈夫 は学 者と して では なく 生活 者と して 台湾 民衆 の生 活を 記す ため に金 関丈 夫は 台湾 本島 人が 数多 く住 む艋 䴏の 龍山 寺と いう 寺廟 を舞 台に 選ん だと 考え られ る︒ そし て︑ 民藝 とい う﹁ 物﹂ を記 録す るだ けで はと らえ られ ない

﹁ 人々 の気 風﹂ を文 芸と して 残そ うと し た ので あ ろ う︒ 金関 丈 夫 は﹁ 人々 の 気 風﹂ を 保存 す る﹁ 文 芸﹂ の必 要 性 をう った えた あと

金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

(16)

誰 か 芥 川 龍 之 介 の

﹁ 芋 粥

﹂ の 材 料 に な つ た

︑ あ の 今 昔 物 語 の 地 方 官 の や う な

︑ と て つ も な い 大 ま か な 裕 か な 気 分 を 台 湾 の 材 料 で 描 く 文 芸 家 は 居 な い だ ら う か

︒ ヒ ス テ リ ー の や う な 現 代 人 に は

︑ 実 は も う わ れ わ れ は 実 生 活 で 食 傷 し て ゐ る の だ

︒ と︑ 芥川 龍之 介が

﹃今 昔物 語集

﹄を 原案 とし て描 いた よう な作 品を 描く 作者 を熱 望し てい た︒ 芥 川 龍 之 介は 大 正 六年 一 月 に﹁ 観音 霊 験 譚 を集 成 し︑ 観 音の 衆 生 済度 の 諸 相 を記

﹂ した

﹃今 昔 物 語集

﹄の 巻 十 六 に収 めら れて いる

﹁貧 女仕 清水 観音 得助 語第 三十 三﹂ を元 に短 編 小 説﹁ 運﹂ を書 い て い る

︒ 金関 丈 夫 が芥 川 龍 之介 の﹁ 運﹂ を読 んで この 小説 を意 識し てい たか どう かは 現時 点で は確 証は ない が︑ 芥川 龍之 介の

﹁運

﹂に 登場 する 翁は

﹁ 幸福 を

︑精 神 的︑ 理 想的 な も のと し て︑ 主 体的 な 努 力 に よ っ て 堅 実 に 領 有 し よ う と す る﹂ 人 物 と し て 描 か れ て お り︑ 曹老 人の 価値 観と 共通 点が 見受 けら れる

︒金 関丈 夫は 戦中

・戦 後の 混乱 期の 台湾 で﹁ 裕か な気 分を 台湾 の材 料で 描く 文芸 家﹂ がつ いに あら われ るこ とが なか った ため

︑自 ら芥 川龍 之介 が説 話か ら主 題を 得た よう な手 法で 小説 を描 こう とし たの では ない だろ うか

︒ 日 本統 治期 の台 湾に おい ても

︑龍 山寺 でも 観音 菩薩 の霊 験が 信じ られ てお り︑ 龍山 寺の 公式 サイ トに は 第 2 次 世 界 大 戦 終 戦 直 前 の 民 国 三 四 年

︵ 一 九 四 五 年

︶ に 米 軍 の 空 襲 で 本 殿 が 焼 夷 弾 の 直 撃 を 受 け

︑ 石 柱 ま で も が 全 壊 す る ひ ど い 惨 状 で あ り ま し た が

︑ こ の よ う な 状 況 の な か で

︑ 木 像 の 本 尊

︑ 観 音 菩 薩 像 だ け は

︑ 無 傷 の ま ま 端 然 と 蓮 座 に 端 座 さ れ ご 安 泰 で し た

︒ 当 時

︑ 空 襲 が あ る と 付 近 の 住 民 は 観 音 さ ま の 膝 下 は 絶 対 安 全 だ と 信 じ

︑ 多 数 の 人 々 が 避 難 し て き ま し た が

︑ 激 し い 空 襲 の な か

︑ 不 思 議 な こ と に

︑ 避 難 者 に は 全 く 死 傷 者 が な く

︑ そ の あ ら た か な 霊 験 は

︑ 今 日 で も 人 々 の 間 で 語 り 伝 え ら れ

︑ ご 加 護 を 讃 え て お り ま す

︒ 金

関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

四 一

(17)

とい う観 音霊 験譚 が紹 介さ れて いる

︒ま た︑ 当時 台湾 に暮 らし てい た竹 中信 子も

﹁本 島人 の間 に﹃ 寺廟 は空 襲に やら れ ない

﹄と の 迷 信﹂ が あっ た と 証 言し て い る︒ 観音 信 仰 が 盛ん で あ った 台 湾 にお い て︑ 数 々 の観 音 霊 験譚 が 伝 承さ れて きた であ ろう

︒金 関丈 夫は その よう な観 音霊 験譚 を物 語に 取り 入れ た可 能性 があ るが

︑現 時点 では

︑ど の観 音霊 験譚 であ るか 特定 する こと はで きな かっ た︒ 今後 の課 題と して 調査 を続 けて いき たい

︒ 6. お わ り に 金 関丈 夫は 第二 次世 界大 戦中

︑学 者お よび 文学 者と して

﹁大 日本 帝国

﹂と いう 枠組 みの 中で 思考 し︑ その 枠組 みに 対す る批 判を 主張 して いた わけ では なか った

︒そ のた め先 行研 究が 論ず るよ うに

﹁龍 山寺 の曹 老人 シリ ーズ

﹂の テク スト から

﹁帝 国の 言説

﹂や オリ エン タリ ズム

︑エ キゾ チシ ズム を感 じ取 るこ とは 可能 であ ろう

︒し かし

︑戦 前に 描か れた

﹁許 夫人 の金 環﹂ のテ クス トに おい ても

︑雑 誌﹃ 台湾 公論

﹄の テイ スト に従 い︑ 検閲 を避 ける ため に帝 国の 政策 に沿 った 言説 を取 り入 れな がら も︑ 総督 府か ら危 険視 され てい た台 湾の 民間 宗教 であ る道 教の 儀礼 や習 俗を 書き 記し てい た︒ 終 戦後

︑日 本帝 国の 統治 が終 わり

︑金 関丈 夫が 中華 民 国 に 留用 さ れ てい た 一 九四 七 年 に 発刊 さ れ た﹁ 観音 利 生 記﹂ には 総督 府の 検閲 や圧 力を 考慮 する こと なく

︑支 配や 被支 配と いう 枠組 みか らは 離れ た立 場か ら︑ より 台湾 民間 宗教 であ る道 教の 影響 が色 濃く 表れ た物 語が 描か れて いる

︒ 金 関丈 夫は

﹃民 俗台 湾﹄ で台 湾民 藝保 存運 動を 行っ てい たが

︑政 府や 学者 の保 護政 策か ら漏 れて しま うよ うな

﹁人 間の 気風 の良 さ﹂ を書 き記 すに は文 芸と いう 形式 以外 にな いと 考え てい た︒ 金関 丈夫 はそ のよ うな 文芸 を描 く作 家の 出現 を切 望し てい たが

︑現 れな いう ちに

﹃民 俗台 湾﹄ は停 刊し

︑台 湾の 街並 みや 風俗 は戦 禍に よっ て大 きく 変わ って

金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

四 二

(18)

しま った

︒ 金 関丈 夫が かつ て﹃ 民俗 台湾

﹄で 書き 記そ うと して

︑果 たせ なか った

﹁人 間の 気風 の良 さ﹂ を台 湾民 衆の 生活 と一 体化 して

︑深 く台 湾民 衆に 根を おろ して いた

﹁生 活の 宗教

﹂の 場で ある 龍山 寺を 舞台 とし た文 芸と いう 形で 残し たの が﹁ 龍山 寺の 曹老 人シ リー ズ﹂ であ った と考 えら れる

* 全 て の 引 用 は

︑ 原 則 と し て 新 字 に 改 め

︑ ル ビ は 省 略 し た

︵ 本 稿 は

︑ 二

〇 一 八 年 一 一 月 に 花 園 大 学 に お い て 行 わ れ た 日 本 近 代 文 学 会

・ 関 西 支 部 秋 季 大 会 に お い て 行 な っ た 口 頭 発 表 を 元 に 再 考 し 論 文 と し て ま と め た も の で あ る

︒ 貴 重 な ご 意 見 お よ び 情 報 を 寄 せ て く だ さ っ た 方 々 に 深 く 謝 意 を 表 す る

︒︶ 注

⑴ 金 関 丈 夫 の 経 歴 に つ い て は 中 島 利 郎 編

︵ 二

〇 五

︶﹃ 日 本 統 治 期 台 湾 文 学 小 事 典

﹄ 緑 蔭 書 房 一 二

│ 一 三 頁 お よ び

︑ 金 関 丈 夫

︵ 二

〇 八

︶﹃ お 月 さ ま い く つ

︵ 新 装 版

︶﹄ 法 政 大 学 出 版 社 三 九 九

│ 四

〇 六 頁 に 収 録 さ れ て い る 年 表 を 参 照 し た

⑵ 本 稿 に お け る

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人 シ リ ー ズ

﹂ の テ ク ス ト は

︑﹁ 許 夫 人 の 金 環

﹂ は 林 熊 生

︵ 二

〇 一

︶﹃ 船 中 の 殺 人 龍 山 寺 の 曹 老 人 第 一 輯

/ 第 二 輯

﹄ ゆ ま に 書 房

︑﹁ 観 音 利 生 記

﹂ は 金 関 丈 夫

︵ 一 九 八

︶﹃ 南 の 風 創 作 集

﹄ 法 政 大 学 出 版 局 を 引 用 す る

⑶ 中 島 利 郎

︵ 二

〇 二

︶﹁ 日 本 統 治 期 台 湾 探 偵 小 説 史 稿

﹂﹃ 日 本 統 治 期 台 湾 文 学 集 成 9 台 湾 探 偵 小 説 集

﹄ 緑 陰 書 房 三 八 六 頁

⑷ 同 註

⑶ 三 九 二 頁

⑸ 浦 谷 一 弘

︵ 二

〇 四

︶﹁ 植 民 地 統 治 期

︿ 台 湾

﹀ の 探 偵 小 説

│ 林 熊 生

﹃ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹄│

﹂﹃ 花 園 大 学 国 文 学 論 究 儭

﹄ 花 園 大 学 国 文 学 会 六 九 頁

⑹ 同 註

⑸ 七 九 頁

⑺ 同 註

⑸ 七 一 頁 金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

四 三

(19)

⑻ 横 路 啓 子

︵ 二

〇 一 五

︶﹁ 植 民 地 台 湾 的 探 偵 小 説 か ら の 逸 脱

│ 金 関 丈 夫

﹃ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹄ シ リ ー ズ を 中 心 に

﹂ 東 ア ジ ア と 同 時 代 日 本 語 文 学 フ ォ ー ラ ム

× 高 麗 大 学 校

GLOBAL

日 本 研 究 院 編

﹃ 跨 境 第 2 号

﹄ 笠 間 書 院 五 二 頁

⑼ 同 註

⑻ 五 二 頁

⑽ 同 註

⑻ 五 三 頁

⑾ 同 註

⑻ 五 七 頁

⑿ 同 註

⑻ 五 八 頁

﹁ 民 俗 台 湾

﹂ 中 島 利 郎 編

︵ 二

〇 五

︶﹃ 日 本 統 治 期 台 湾 文 学 小 事 典

﹄ 緑 蔭 書 房 九 八

│ 九 九 頁

⒁ 河 尻 和 也

︵ 二

〇 一 六

︶﹁ 都 市

︑ 旧 慣

︑ 犯 罪

﹃ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹄ シ リ ー ズ 戦 後 の 三 作 品 を 中 心 に

﹂﹃ 台 大 日 本 語 文 研 究

﹄ 台 湾 大 学 日 本 語 文 学 系 一 八 頁

⒂ 同 註

⒁ 二 六 頁

⒃ 栗 原 純

・ 鐘 淑 敏 監 修

︵ 一 九 三 一

︶﹃ 近 代 台 湾 都 市 案 内 集 成 第 17 巻 台 北 市 史

﹄ 台 湾 通 信 社 五 六 三 頁

⒄ 中 西 直 樹

︵ 二

〇 一 六

︶﹃ 龍 谷 叢 書 儳 植 民 地 台 湾 と 日 本 仏 教

﹄ 三 人 社 四 四 頁

⒅ 同 註

⒄ 六 六 頁

⒆ 同 註

⒄ 四 五 頁

⒇ 同 註

⒄ 六 七 頁 同 註

⒄ 二 三 一 頁 同 註

⒄ 二 九

〇 頁 同 註

⒄ 二 九 六 頁 同 註

⒄ 二 六 三 頁 台 湾 総 督 府 交 通 局 鉄 道 部 編 纂

︵ 一 九 四 二

︶﹃ 近 代 台 湾 都 市 案 内 集 成 第 6 巻 台 湾 鉄 道 旅 行 案 内 一 九 四 二 年

﹄ 東 亜 旅 行 社 台 湾 支 部 六 九 頁 同 註

⒄ 二 二 六 頁 同 註

⒄ 二 二 八 頁

金 関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

四 四

(20)

林 熊 生

︵ 一 九 四 五

︶﹁ 許 夫 人 の 金 環

﹂﹃ 龍 山 寺 の 曹 老 人

・ 第 一 輯

﹄ 東 寧 書 房

⑸ 頁 擲筶 と は 三 日 月 状 の 道 具 を 使 用 す る 道 教 の

﹁ ポ エ 占 い

﹂ の こ と で あ る

︒ 同 註

一 二 頁 金 関 丈 夫

︵ 一 九 八

︶﹁ 観 音 利 生 記

﹂﹃ 南 の 風

│ 創 作 集

﹄ 法 政 大 学 出 版 局 二 三 三 頁 同 註

二 三 七

│ 二 三 八 頁 同 註

⒁ 一 九 頁 同 註

二 三 三

│ 二 三 四 頁 柳 宗 悦

︵ 一 九 四 三

︶﹁

﹃ 台 湾

﹄ の 民 藝 に 就 い て

︵ 下

︶﹂

﹃ 民 俗 台 湾 第 儥 号

︵ 一 九 四 三 年

・ 六 月 号

︶﹄ 一 二 頁 阿 部 純 一 郎

︵ 二

〇 一 四

︶﹃

︿ 移 動

﹀ と

︿ 比 較

﹀ の 日 本 帝 国 史 統 治 技 術 と し て の 観 光

・ 博 覧 会

・ フ ィ ー ル ド ワ ー ク

﹄ 新 曜 社 二 八 四 頁 金 関 丈 夫

︵ 一 九 四 一

︶﹁ 乱 弾

﹂﹃ 民 俗 台 湾 第 1 号

︵ 一 九 四 一 年

・ 七 月 号

︶﹄ 東 都 書 籍 三 二 頁 同 註

⒄ 一 六 頁 同 註

三 二 頁 馬 淵 和 夫

︑ 稲 垣 泰 一

︑ 国 東 文 麿 校 注

・ 訳

︵ 二

︶﹃ 新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 儱 今 昔 物 語 集

﹄ 小 学 館 一 五

〇 頁 同 註

二 七 六 頁 菊 田 茂 男

︵ 一 九 七 一

︶﹁ 芥 川 龍 之 介 の 歴 史 小 説 の 方 法

︵ 上

︶│

│﹃ 運

﹄ の 成 立 を 中 心 と し て

﹂﹃ 比 較 文 学 儛 巻

﹄ 日 本 比 較 文 学 会 二 六 頁

﹁ 竜 山 寺 の ご 案 內

﹂﹃ 艋 䴏 龍 山 寺

﹄︹http://www.lungshan.org.tw/jp/index.php

︺︵ 最 終 閲 覧 日: 二

〇 一 九 年 一 月 二 六 日

︶ 竹 中 信 子

︵ 二

〇 一

︶﹃ 植 民 地 台 湾 の 日 本 女 性 生 活 史 昭 和 篇

︹ 下

︺﹄ 田 畑 書 店 三 二 二 頁

︵ つ じ あ き と し

・ 関 西 学 院 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 博 士 課 程 後 期 課 程

︶ 金

関 丈 夫

﹁ 龍 山 寺 の 曹 老 人

﹂ 論

四 五

参照

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