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正岡子規の漢詩の小説的結構と「写実性」について

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(1)

  正岡子規︵一八六七〜一九〇二︶について︑各種人名辞典にほと

んど記されぬのは︑子規が漢詩の実作者であったことだ︒子規は

明治十一年︵一八七八︶十二歳の時から三十歳の明治二十九年︵一

八九六︶に至るまで︑漢詩を作り続け︑生涯に作った漢詩は二千

首を超える 1︒俳句や短歌の実作や評論に情熱を傾けるよりも早

く︑子規は漢詩の学習と実作とを始め︑漢詩の最高傑作とされる

﹁岐蘇雑詩三十首﹂は︑幸田露伴︵一八六七〜一九四七︶に小説﹁月

の都﹂の出版を依頼して埒が明かず︑小説家を断念し︑俳句和歌

など短詩型文学を主とする詩人たらんことを決意︑俳句和歌の研

究と実作とに邁進し始めた明治二十五年︵一八九二︶の作に係る

︵和田克司氏﹁正岡子規の岐蘇雑詩三十首

﹂ ︶

一︑子規と漱石︑漢詩文における切磋琢磨

  文学者としての正岡子規に多大な影響を投げかけたのは︑夏目

漱石だ︒明治二十八年︵一八九五︶に日清戦争の従軍記者となっ

ての帰路︑船上で吐血︑危篤状態に陥った子規は︑松山中学校に 教鞭を執る漱石の下宿に転り込んで療養し︑八月末から十月半ばまでを松山に過ごし︑連日︑句会を開き︑明治二十三年頃から指導した俳句趣味を膏肓に入らしめた︒子規と漱石との文学上の交流は︑俳句に限らず︑明治二十二年︵一八八九︶︑寄席通いに端を

発して︑漢詩文においても切磋琢磨し合う︒前年明治二十一年の

大学の夏季休暇を過ごした隅田川畔の向島長命寺境内の桜餅屋月

香楼にての見聞を流麗な漢詩文︑和歌︑俳句︑謡曲等で記した子

規の稿本﹃七草集﹄に︑漱石がこの年五月二十六日になって漢文

と九首の七言絶句の形で批評し︑子規が漱石の漢詩文の造詣を絶

賛したのを受けて︑この年の夏八月の房総旅行の紀行を漱石が漢

詩文で認めた稿本﹃木屑録﹄に︑子規は朱筆で漢文の批評をし︑

併せて﹁独り漱石は長ぜざる所なく達せざる所なし﹂︵﹃筆まかせ﹄

第一編明治二十二年﹁木屑録

﹂ ︶とほめちぎる︒子規漱石の交流の中︑

俳句に関しては先学が究明する所大だが︑漢詩については︑漱石

のものだけが︑吉川幸次郎氏の﹃漱石詩注﹄︵岩波新書がその全

体を論じ︑新版﹃漱石全集﹄第十八巻にそれを補訂する一海知義  

正岡子規の漢詩の小説的結構と﹁写実性﹂について

(2)

先生の校注が添えられた 5︒子規の漢詩に関しては︑右に触れた﹃子

規全集﹄第八巻などの本文校訂解題に渡部勝己氏が独り気を吐

く︒近年︑加藤國安氏が渡部氏を継承︑子規漢詩の全貌に迫る﹃子

規蔵書と﹃漢詩稿﹄研究﹄などの業績 6を挙げる︒しかし︑子規の

文業全体における漢詩文の位置付け︑例えば︑子規の俳句と漢詩

との関係や︑句や歌や文章を貫くその写生理念と漢詩文との関係

などの研究史は依然として僅少である︒

  漱石は英文学研究に意を注ぎ︑漢詩制作には間断︑消長がある︒

二松学舎で学んだ少年期の状況は不分明だが︑子規との競合意識

に発する漢詩制作が初めの山だ︒五高で教鞭を執った時代︑長尾

雨山の添刪を仰ぐ第二のピークがあり︑第三の山は晩年の新聞連

載小説﹃明暗﹄執筆中の大正五年︵一九一六︶夏から亡くなる冬

にかけての七十五首だ︒子規にも間断消長はあるが︑漢詩の制作

を十年も中断する漱石とは異なり︑数え年十二歳の明治十一年

︵一八一七︶から明治二十九年︵一八九六︶の三十歳に至るまでの

毎年の漢詩が国立国会図書館蔵の﹃漢詩稿﹄︵講談社版﹃子規全集﹄

第八巻所収︶に収まる︒三十歳以後没する明治三十五年︵一九〇二︶

まで全く漢詩を廃したのではないが︑病臥の状態での漢詩制作は

断念されたと見られる︒子規は漢詩においては︑押韻・平仄を守

り︑正格たるべきことを期したから︑病臥の肉体では︑漢詩制作

は無理であった︒その分の精力は俳句の実作と新体詩への試行に

注がれた︒ 二︑﹁守旧派﹂の漢詩人正岡子規

  子規の二十年間の漢詩制作期の頂点が︑﹁岐蘇雑詩三十首﹂で

ある︒制作の経緯は︑渡部勝己氏の﹁正岡子規﹁岐蘇雑詩三十首﹂

の初案について﹂︵﹃愛媛大学紀要﹄第十三巻│一九六七︶に詳し

いが︑初案を内藤鳴雪と竹村鍛︵河東碧梧桐の実兄︶に示した後︑

新聞﹁日本﹂に掲載する前には︑国分青厓︵一八五七〜一九四四︶

の刪定を経るなど︑子規が最も意を注いだ︒子規は青厓が半減し

た連作を︑稿本﹃漢詩稿﹄に収め︑青厓刪定前の三十首をも併録

した︒﹁岐蘇雑詩三十首﹂が︑近体詩の三十種類の韻目を用いた

連作であるのもその半分のみを遺すことを躊躇せしめた︒かかる

作詩姿勢からは︑子規は押韻・平仄という規律に厳格で﹁韻を廃

し平仄を廃し而して漢詩の特色として残る所の者は何ぞ﹂

︵ ﹁

﹂ ︶といって︑もし押韻︑平仄を無視するならば︑漢詩はその

存在意義を失うとした︒律詩の対句にも十分に留意し︑﹁余もま

た律ならでは作ること稀なり︑律は対句の具合に意を用ゆれば︑

別に面白くなき普通の句も多少面白く聞ゆるが故也  故に趣向な

くして詩を作らざるべからざる場合抔にも却て律詩の方やさしき

也﹂と述べる︵﹃筆まかせ﹄第一編明治二十二年﹁対句

﹂ ︶

  外祖父に松山藩儒大原観山を有し︑その薫陶を得て日本語に漢

字︑漢語を用いることに積極的意義を子規は認めた︒﹁かな文字

論﹂や﹁言文一致﹂に対して批判的で︑漢字廃止論に対して漢字

表記を擁護︑﹁蓋し仮名の読み難きは︑文字の大きさの同じき事︑

文字の形の皆丸くして圭角少き事︑父音母音の区別無き事等に因

(3)

る者にして︑其解し難きは︑同音の字多き漢語を仮名に直したる

に因るなり︒仮名ばかりを用うるは到底行はるべきにあらず︒文

字改良論者は多く記憶の不便︑書く事の不便を数へて﹁見る事﹂

の便否を言はず 9﹂と述べる︒かく漢詩人子規を知ることは︑スペ

ンサーに学んで只管俳句革新︑短歌革新などの文学革命に邁進し

たと一面的理解しかされぬ子規を見直す契機を与える︒

  一方で︑十代後半の子規は︑時代の風潮に染まって︑一旦は漢

学廃止︑洋学推進を唱えるという迂路に陥る︒が︑すぐに撤回︑

﹁只今日の日本には漢洋共に廃すへからす両立すへしと云ふなり

⁝洋学の五分を学ひ漢学の五分を学ばんより寧ろ各自好む所の洋

或は漢を十分学ふに如かす﹂なぞと竹村鍛宛の書簡 Aに述べた︒﹁兎 角故事を引くは支那の弊にて  日本も之にしみしかば  今の西洋 学者抔ハいたく之をそしれり B﹂と云って︑中国古典の典故主義を

排したこともある︒

  理論と実践との乖離という問題は子規文学の考察につきまと う︒子規晩年の写生文の嚆矢にして典型たる﹁小園の記 C

﹂で

は﹁

の面去年よりは遥にさびまさりて白菊の一もと二もとねぢくれて

咲き乱れたる︑此景に対して静かにきのふを思へば万感そゞろに

胸に塞がり︑からき命を助かりて帰りし身の衰へは只此うれしさ

に勝たれて思はず三逕就荒と口ずさむも涙がちなり﹂と記すが︑

末尾のパセティックなくだりに効果あらしめるために﹁さんけい

こうにつけども﹂と晋の陶淵明の﹁帰去来の辞﹂︵﹃古文真宝後集﹄

の一句を点綴した︒﹁帰去来の辞﹂は明治期の人にとっては﹁故

事﹂ですらなかったかもしれぬ︒しかし︑子規は﹃俳人蕪村﹄の 中で︑蕪村評価の一基軸として︑その積極的な漢語と和漢の故事利用に触れ︑理論的にも単調な革新論者ではない︒  芭蕉の﹁かるみ﹂同様︑子規の写生論は子規が達した一境地で︑

子規の文学的全生涯を﹁写生﹂でくくる論者がいるが︑中村不折

経由で深めた子規の﹁写生﹂を尊しとする絵画観でも︑革新と保

守との二律背反が指摘できる︒

  子規は﹁写生﹂という一文 Dで︑写生﹁は少くとも西洋画をして

日本画の如き陳腐に陥らしめざるの利あり︒況んや写生ならずし

て好画を作すこと極めて難きをや﹂というそばから﹁絵画の能事

は写生を以て終る者に非ること論を俟たずといへども高尚なる理

想も写生によらざれば成功すること難かるべし⁝今の大家に望ま

んには只古式を守るべし︒模型を変ずべからずと望まんのみ﹂と

述べて︑守旧の肝要なるを付言する︒

  南画︑文人画︑水墨画の世界は子規の愛読した頼山陽の漢詩文︵﹁書中の新年﹂︑明治三十四年一月六日﹁日本﹂では︑一体だ︒漢詩

人子規は当然﹁我嘗て南画を愛す︒徒に気韻の高きをいふ︒南画

に非れば則ち画に非ずと為す E﹂とした︒その後中村不折との交流

を通して︑洋画︑彩色画︑写生などにも価値を認めるが︑その後

も︑﹁ある時不折の話に︑一つの草や二つ三つの花などを画いて

絵にするには実物より大きい位に画かなくては引き立たぬ︑とい

ふ事を聞いて嬉しくてたまらなかつた F﹂と述べ︑﹁不折君は余に

向ひて詳に此画の結構布置を説きこれだけの画に統一ありて少し

も抜目無き処さすがに日本一の腕前なりとて説明詳細なりき G﹂と

述べた︒前者は︑写生画でも誇張表現を許容することを知って安

(4)

堵する文で︑後者では文人画の理論である﹁結構布置﹂が絵画一

般の評価基準となることに対する感銘を述べる︒﹁写生して見た

が︑今度は一層骨折つてこまかく書いて見たので︑却て俗になつ

て仕舞ふた H﹂という発言も︑精細に写生しても作品が卑俗に陥る

という文人画や漢詩が評価の基軸とする﹁雅﹂﹁俗﹂の論である︒

精細な描写が卑俗に陥るのは︑子規の絵画の技量が足りないせい

で︑﹁今度は︑自分の左の手に柿を握つて居る処を写生した⁝虚

子は頻りに見て居たが分らぬ様子である︒﹁それは手に柿を握つ

て居るのだ﹂と説明すると︑虚子は始めて合点した顔附で﹁それ

で分つたが︑さつきから馬の肛門のやうだと思ふて見て居たの

だ﹂といふた I﹂という文章は︑その技量未熟の自覚を示す︒

  子規は﹁写生﹂のことを﹁実験﹂と言い︑対概念として﹁理想﹂

﹁空想﹂を措定する︒右の絵画観は文学批評でもあるが︑そこで

も﹁写生﹂一辺倒ではない︒

  ﹁空想に偏すれば陳腐に堕ち易く自然を得難し若し写実に偏す

れば平凡に陥り易く奇闢なり難し空想に偏する者は目前の山河郊

野に無数の好題目あるを忘れて徒らに暗中模索するの傾向あり写

実に偏する者は古代の事物隔地の景色に無二の新意匠あるを忘れ

て目前の小天地に跼蹐するの弊害あり﹂︵﹃俳諧大要

﹄ ︶とか﹁極度

の客観的美は絵画と同じ︒蕪村の句は直ちに以て絵画となし得べ

き者少からず﹂とか﹁文学の実験に依らざるべからざるは猶絵画

の写生に依らざるべからざるが如し︒然れども絵画の写生にのみ

依るべからざるが如く文学も亦実験にのみ依るべからず︒写生に

のみ依らんか絵画は終に微妙の趣味を現す能はざらん︑実験にの み依らんか尋常一様の経歴ある作者の文学は︑到底陳套を脱する能はざるべし﹂

︵ ﹃

﹄ ︶なる文は写生論における進取と尚古

との相克を示す︒

三︑子規漢詩における趣向

  かく子規の写生論は中村不折に触発されて形成されたものなる

が故に︑単純な写実ではないことを確認した今︑子規の漢詩の写

生︑写実という概念はどんな位相の下にあるのかを考察する段階

となった︒漢詩一首は和歌一首や俳句一句に比して情報量が多

く︑風景の写実に終始すれば︑作品を単調に陥らせるので︑描写

方法に種々の趣向を立てなくてはならぬ︒漢詩守旧論者子規は押

韻平仄を遵守するための工夫を凝らし︑自然の描写に人事を織り

まぜ︑古人の詩句を敷衍し︑対句表現の構築に意を凝らし︑全体

の結構布置に留意して短編小説のような構成をとる︒

  十二歳の処女作﹁子規を聞く﹂の﹁啼血聞くに堪えず﹂の﹁啼 血﹂は︑﹃佩文斎詠物詩選 L﹄の﹁杜鵑﹂の項目に拠るとか︑﹃詩韻

含英﹄や﹃幼学詩韻﹄などから取ったとも考えられるが︑やはり

子規自身が﹁書目十種﹂︵﹃筆まかせ﹄第一編明治二十二年︶に愛読書

とする白居易﹁琵琶行﹂に由来する︒

  十四歳の﹁秋暁馬上口占﹂は﹁秋の早朝に馬に跨って出かけた

時の即興の作﹂という題なので︑子規の﹁写生﹂﹁実験﹂という

枠組の中の詩ということになるが︑

板橋霜白聽鳴鶏  板橋霜白くして鳴鶏を聴く 風冷西林落月底  風は冷ややかなり 西林落月の底

(5)

茅店茶烟凝不散  茅店の茶烟 凝 りて散ぜず 馬蹄一路入幽蹊  馬蹄一路幽蹊に入

という二十八文字の中の﹁板橋霜﹂とか﹁茅店﹂という語は︑晩

唐︑温庭筠の﹁商山早行﹂︵﹃三体詩﹄という詩の有名な一聯﹁鶏

聲茅店の月︑人迹板橋の霜﹂から嵌め込んだもの︒この温氏の詩

句は謡曲﹁養老﹂にも摂取︑﹃俳諧大要﹄宗因の﹁里人の渡り候

か橋の霜﹂という発句にすら取られる古人周知の句であった︒同

じ温氏の詩語は子規の﹁早暁﹂﹁暁行﹂にも﹁橋霜﹂﹁板橋﹂とし

て繰り返し用いられた︒これらの詩は子規が﹁写実﹂的課題に

従って︑﹁理想﹂﹁空想﹂で組み立てた﹁趣向﹂の詩であった︒

  十七歳の時の﹁濹堤夜遊  其二﹂も︑この年始めて上京し︑風

雅の土地として名高い隅田川沿岸を散策しての﹁写生﹂という枠

組みの詩である︒

烟波夜白水平々  烟波夜白くして水平々たり 欸乃一聲小艇輕  欸 あいだい一声 小艇軽し 両岸微風涼氣動  両岸の微風 涼気動 とよもし 二州橋畔月三更  二州橋畔 月三更   右の七絶の起句﹁夜白﹂は結句の﹁月﹂に由って夜空が明るい

さまであり︑唐宋の詩文に用例がある︒しかし︑﹁水平々﹂は﹁水

漫々﹂の意味であり︑押韻の関係で﹁平﹂字を使用したのであろ

うが︑﹁水平﹂とは言っても︑﹁水平々﹂は熟さぬ︒承句﹁欸乃一

声﹂は中唐︑柳宗元﹁漁翁﹂︵﹃唐詩選﹄の﹁欸乃一声山水緑なり﹂

という句を踏まえ︑転結句は江戸の服部南郭の﹁夜墨水を下る﹂︵﹃南郭先生文集﹄初編巻之五︶の﹁扁舟住まらず天水の如し︑両岸 の秋風二州を下る﹂という二句を下敷きとする︒  ﹁雨中両国橋即事﹂という七絶でも

驀地狂風氣似秋  驀地の狂風 気 秋に似たり 暗雲斜日未全収  暗雲斜日 未だ全くは収まらず 樓臺両岸澹如畫  楼台両岸 淡きこと画の如し 白雨跳珠度二  白雨 珠 おどを跳らせて二州を度る   結句は北宋︑蘇軾﹁六月二十七日望湖楼にて酔いて五絶を書す

其の一﹂の﹁黒雲墨を翻して未だ山を遮らず︑白雨珠を跳らせて

乱れて船に入る︒地を巻きて風来りて忽ち吹き散じ︑望湖楼下水

天の如し﹂という詩から﹁白雨珠を跳らす﹂という語句を引き︑

服部南郭﹁夜下墨水﹂からは﹁二州﹂を取る︒

  子規の漢詩は十代から盛んに作られ︑二十二歳の明治二十一年

︵一八八八︶夏に向島の長命寺境内に下宿していたため︑隅田川沿

岸の情景を詠じる﹁写生﹂の作が多い︒﹁向嶋竹枝四首  其の四﹂

もその一つで︑

雲籠塔梢波拍塘  雲は塔梢を籠 め 波は塘を拍 つ 晩風驀地送清涼  晩風 驀地に清涼を送る 玉欄干外雨如畫  玉欄干外 雨 画の如し 對鏡佳人學淡粧  対鏡の佳人 淡粧を学ぶ   霧が上空に立ちこめ︑波が土手に打ち寄せ︑涼風が吹き寄せる

という前半は眼前嘱目の﹁写生﹂詩だが︑結句で﹁佳人﹂が﹁淡

粧を学ぶ﹂としたのには︑趣向がある︒北宋︑蘇軾の﹁湖上に飲

す︒初め晴れて後に雨ふる二首﹂其の二︵﹃唐宋聯珠詩格﹄所収︶

の﹁水光瀲䈺として晴れて方 まさに好し︒山色空濛として雨も亦た奇

(6)

なり︒若し西湖を把りて西子に比すれば︑淡粧濃抹総て相ひ宜し﹂

という有名な詩の内容を使用する︒蘇軾は雨に煙る西湖の水景

を︑西施という美女の薄化粧の容貌と讃えたが︑子規はそれを生

かして﹁雨﹂でも﹁奇﹂なる隅田川の情景をまず﹁画の如し﹂と

した後に︑隅田川のほとりの座敷の上の美人はその雨の水景を真

似て﹁淡粧﹂を施したものだと表現した︒子規は同時期の﹃七草

集﹄蘭之巻﹁小景を記す六﹂において﹁晴れて好きを見て︑雨の

奇なるを見ざれば︑則ち濃抹の美を知りて︑淡粧の妙を知らざる

なり︒墨江の記も亦た雨景無かる可からず﹂と蘇軾の詩句を巧み

に利用して隅田川の晴景と雨景を対比している︒

  ﹁漢詩稿﹂中︑目を惹くのは子規に﹁閨怨﹂﹁宮怨﹂と題する作

が多いことだ︒﹁漢詩稿﹂には九首ある︒仲間との詩会での課題

であろうが︑稿本に遺した好みの詩題であった︒

  ﹁閨怨﹂﹁宮怨﹂という詩題は︑女性が疎縁になった男性の非情

を喞つ内容で︑作者は男性だが︑女性に成り代わって詠じる︒子

規は﹁趣向﹂の極致ともいうべき﹁空想﹂﹁理想﹂の艶体詩を詠

じることを好んだ︒例として一首だけを見ておく︒上京後十八歳

の時の作で︑十代前半の作では︑やや内容空疎の感が否めなかっ

たが︑これなどはだいぶ手慣れたもの︒

  宮怨 花落無聲一庭静  花落ちて声無く一庭静なり 粉粧不施髪垂頭  粉粧施さず 髪 頭 こうべに垂る 晩來自起鎖窓櫺  晩来 自から起ちて窓櫺を鎖すは

怯看月明生隻影  月明に隻影を生ずるを看るに怯ゆればなり   男が来てくれないので化粧もしないし︑櫛も通さぬ自堕落な女性の姿を前半で写し︑後半で月尖が女性の孤影を浮き立たせるので雨戸を閉ざすのは︑虚構の枠組みの中の細部の趣向立てで︑一種のリアリズムを獲得する︒十八歳の青年子規が︑孤閨をかこつ女性の胸中を浮き彫りにしようとする点に︑面目躍如たるものがある︒子規は上京後︑病身をかこつ以前は吉原などに遊び︑その方面では漱石を凌ぐ Mが︑耽溺することはなく︑﹁芳原雑詩五首﹂

連作のごとく︑花柳界における情緒風情を楽しむだけであった︒

四︑子規漢詩における小説的結構

  かく子規は漢詩においては︑詩題などの枠組みとして嘱目を詠

じる場合でも︑趣向や修辞に意を払った︒詩題などの枠組みが﹁写

生﹂の詩でも︑古人の句に依拠して機智を閃かし︑結構布置を整

えた︒俳句における客観重視︑短歌における主観重視とはまた異

なる位相で子規は漢詩を捉えた︒蕪村再評価も蕪村の句が写生観

に沿うていた為ではなく︑﹁蕪村の理想を尚ぶはその句を見て知

るべし﹂︵﹃俳人蕪村﹄と趣向立ての名手として評価した︒

  漢詩において︑﹁理想﹂﹁空想﹂に評価基準を置く子規は︑虚構

の代名詞たる小説的趣向を漢詩に取り込む︒小川環樹博士が喝破

したように︑子規が少年の頃から愛読していた白居易の﹁長恨歌﹂

﹁琵琶行﹂は詩歌ではあるが︑小説的趣向結構を凝らす︒

  小川博士はこう言う︒﹁白居易の文体の特色は平易さだけでは

ない︒かれの詩は︑特に長編の古詩において︑小説的な構成を有

している︒その最もよい例は有名な﹁長恨歌﹂と﹁琵琶行﹂とで

(7)

ある⁝﹁新楽府﹂のなかにも︑この構成は処々に見出される N

﹂ ︒

この小川博士の卓見を復誦すれば︑右に瞥見した子規の﹁閨怨﹂

﹁宮怨﹂への傾斜という問題も︑その天性の資質に加えて︑子規

の小説家への志望が十代で既に十分に漢詩という世界に投射され

ていたと理解される︒﹁南朝の楽府からうけつがれ﹂︑﹁唐詩﹂に

無数の作例があるという︑﹁一度も帝王の寵愛をうけることなし

に︑宮中の奥ふかい室の中で一生をむなしく送る女官の悲しみを

歌った作﹂の中で︑﹁一つの情景にしぼって歌われた﹂︵小川博士︶

作こそが︑唐の王建の﹁宮詞﹂や李白︑王昌齢の作なのであり︑

十代の子規が盛んに作り試みた﹁宮怨﹂﹁閨怨﹂詩と同趣向の中

国古典詩歌である︒子規は十代の作詩歴の中で︑中国六朝から唐

代までの詩の展開を駆け抜けた︒

  したがって白居易の﹁長恨歌﹂や﹁琵琶行﹂といった長編の古

詩において︑具体的な﹁情景﹂を積み重ねての小説的趣向の展開

が実現されている点は子規が十分自覚していた︒つとに十八歳の

明治十七年の詠﹁少女の行 うた﹂は︑東京生活二年目の少年子規が実

際に田舎から上京して来た娘が繁華な都市の風俗に毒されて堕落

して行く顛末を伝聞に即して詠じた長詩であろう︒子規はこの時

蕪村の﹁春風馬堤曲﹂は知らなかったが︑その淵源をなす畠中銅

脈の﹁婢女行﹂などの近世の狂詩はあるいは脳裏にあったか O︒   少女行 東京有女年破瓜  東京に女 むすめ有り 年破瓜 深閨晝鎖繍簾斜  深閨 昼鎖されて 繍簾斜めなり

蛾眉澹掃又濃抹  蛾眉 淡く掃ひて又た濃く抹す 芳姿裊如二月花  芳姿裊 じょうとして二月の花の如し

去年如花衣楚楚  去年花の如く衣楚楚たり 今年顔色老幾許  今年顔色老いたること幾 いくばくぞ 鶯耶鵑耶春夏遷  鶯や鵑や春夏遷り 玉階秋風聽蟲語  玉階秋風 虫語を聴く 一朝邂逅輕薄児  一朝邂逅す 軽薄児 相遇只恨相見遅  相ひ遇うて只恨む相ひ見ることの遅きを 在天比翼地連理  天に在りては比翼 地には連理 夜夜私語明月知  夜夜の私語は明月のみ知る 薄情人間新聞紙  薄情なり 人間の新聞紙 既記隠事傳城市  既に隠事を記して城市に伝ふ 現世多禍妾心決  現世の多禍 妾が心は決し 一蓮同坐君許否  一蓮同坐するは君許すや否や 吾嬬橋上立三更  吾嬬橋上 三更に立つ 躍入魚腹若爲情  躍りて魚腹に入るは若 んの情ぞ 夜霧濛々燈火細  夜霧濛々として燈火細し 奔流砕月月有聲  奔流月砕けて月に声有り   第三句の﹁淡く掃ひて又た濃く抹す﹂は﹁向嶋竹枝四首  其の

四﹂で触れた蘇軾の﹁西湖﹂︵﹃唐宋聯珠詩格﹄の結句﹁淡粧濃抹

総て相ひ宜し﹂を意識させる措辞で︑第四句の﹁二月花﹂は︑中

唐︑杜牧﹁山行﹂︵﹃三体詩﹄の﹁霜葉は二月の花よりも紅なり﹂

を使う︒また第八句﹁玉階﹂は︑晩唐︑王建﹁宮詞  其の二﹂

︵ ﹃ 体詩﹄の﹁玉階の夜色 涼水の如し﹂に由来する︒中晩唐や宋代

の艶冶な修辞は︑﹁閨怨﹂﹁宮怨﹂の度重なる試作を通して体得さ

(8)

れたとおぼしい︒しかし右詩の艶冶な趣の大枠は白居易の﹁長恨

歌﹂に由来する︒

  十一句目は白居易﹁長恨歌﹂の﹁天に在りては比翼の鳥と為ら

んことを願ひ︑地に在りては連理の枝と為らんことを願ふ﹂を約

めたものである︒続く第十二句もまた﹁長恨歌﹂の﹁夜半人無く

して私語する時﹂に由来する︒さらに︑冒頭第一︑二句の﹁東京

に女有り 年破瓜︑深閨 昼鎖されて 繍簾斜めなり﹂というのは︑

﹁長恨歌﹂の第三句︑第四句﹁楊家に女有り 初めて長成し︑養は

れて深閨に在り人未だ識らず﹂を踏まえる︒第三句の﹁蛾眉﹂も

また﹁宛転たる蛾眉馬前に死す﹂として﹁長恨歌﹂の中で︑楊貴

妃を指す語として用いられていた︒子規の小説的構成の漢詩の手

本は白詩であった︒

  ﹁少女行﹂の構成が︑うら若き東京の令嬢が遊蕩少年にたぶら

かされ︑醜聞を巷間に取沙汰され︑羞恥のあまり隅田川に身を投

ずるというものであることは︑通俗であるとの誹りを免れぬ︒し

かしそう誹ることは典範たる白居易の﹁長恨歌﹂﹁琵琶行﹂をも

また通俗と退けることとなる︒﹁少女行﹂を通俗の一語で蔽って︑

その修辞の精緻︑韻文としての規格︑規格の厳しい漢詩という韻

文の枠組みの中で物語的展開を成就するという奇跡的達成につい

て一切顧慮せぬことは︑白居易に通俗詩人とのレッテルを貼っ

て︑その行文の流麗︑抒情性の高さに理解を及ぼせぬことと一般

である︒こうした態度は︑内容空疎な﹁高級﹂観念に囚われて文

学的思考を放棄した︑詩文には縁なき衆生に通有のことだ︒

  子規の白詩愛読の痕跡は︑右の﹁少女行﹂の小説的結構と修辞 とに顕著だが︑七年後の明治二十四年︵一八九一︶には︑﹁花児疾﹂

﹁寄在大磯蹇叔叔﹂﹁天女落﹂﹁櫻花開﹂の四作がある︒いずれも

白氏の新楽府の文体を模したものである︒後の二首には子規自ら

が︑﹁新楽府一﹂﹁新楽府二﹂と題下注を添える︒子規が版本など

を通じて江戸の漢詩に親しんだことは︑加藤氏前掲書が尽すが︑

早く高野蘭亭等の徂徠学派の漢詩人に新楽府を模する試みがあ

り︑子規が愛読した菅茶山等を経て︑明治期になると︑後に子規

が新聞日本を通じて親交を深めた国分青厓やその宿敵森春濤にも

作例を見る P︒   白居易の新楽府五十首は︑冒頭に三字句を一から四句続けて序

となし︑然る後に七字句あるいは五字句を以て本文を形成し︑時

として三字句で結ぶ文体が目立つ︵﹁七徳舞美撥亂陳王業也﹂︑﹁

弦弾悪鄭之奪雅也﹂等︶︒七字句の冒頭に﹁君看﹂というような

呼びかけを冠すると︑九字句となる場合もある︒子規が右の四首

で手本としたのも︑この文体であった︒例として﹁櫻花落﹂と﹁天

女落﹂とを見る︒

  ﹁櫻花落﹂は内容から言って︑子規が明治二十一年に長命寺の

桜餅屋月香楼に一夏を過ごした折のラブロマンスをかすめたもの

のごとくである︒

仙女來        仙女来り 櫻花開        桜花開く 櫻花已飛盡      桜花已に飛び尽し 仙女未得帰      仙女未だ帰り得ず 暫賣櫻花託此生    暫く桜花を売りて此の生を託し

(9)

櫻花如女々如櫻    桜花女の如く女桜の如し 日逝月逝店頭無鞍馬  日逝き月逝き店頭鞍馬無く 嬌喉水涸老盡黄鳥聲  嬌喉水涸れて黄鳥の声を老尽す   既述の通り︑白氏の新楽府には︑三字︑五字︑七字︑九字の句

がすべてあるが︑子規のように︑すべてを二句一聯で規則的に並

べるものはなく︑これは子規が白詩に学んで創意を加えた成果で

あろう︒﹁仙女﹂を妓女の美称として詩文に用いるのは︑﹃遊仙窟﹄

以来邦人にも親しまれ︑異とするに足りぬ︒人は歌行体の詩は︑

平仄を守らず︑律詩のような対句も認められぬとするが︑右の詩

の第一︑二句﹁仙女来り︑桜花開く﹂と第三︑四句﹁桜花已に飛

び尽し︑仙女未だ帰り得ず﹂は見事な対をなす︒この詩では﹁仙

女﹂は花売り娘の美称で︑子規が恋をした桜餅屋の女中ではない︒

  ﹁天女落﹂は詩題に明らかだが︑天の羽衣伝説を結構とする︒

しかし︑﹁桜花落﹂にしろ︑﹁天女落﹂にしろ︑現実世界の美女を︑

天上の仙女が仙界から失墜した者とする発想は︑中国の白話小説

や戯曲に常套的である︵﹃女仙外史﹄︒曲亭馬琴を少年の頃から愛

読した子規は︑馬琴の淵源をなす中国小説戯曲に思いを致すこと

もあったであろう︒

天女落       天女落つ 天女落       天女落つ 落在水閣      落ちて水閣に在り 繊手軟脚      繊手軟脚 失却丹頂鶴     丹頂の鶴を失却し

孤負銀漢鵲     銀漢の鵲に孤負す 畢竟佳人命薄    畢竟佳人命薄く

塵界須臾寄託    塵界須臾に寄託す 赤縄未結三生約   赤縄未だ三生の約を結ばず 花臉涙散珠粲錯   花臉涙散じて珠粲錯す 夜々望天未得仙薬  夜々天を望んで未だ仙薬を得ず 明月皓皓櫻花漠々  明月皓皓櫻花漠々   第三句﹁水閣﹂が隅田川畔の楼閣をイメージするならば︑これ

また向嶋長命寺桜餅屋の少女を暗にかすめた詠とすべきかも知れ

ない︒白詩に学んでの規則的な修辞は︑本詩では更に強調されて︑

三字句︑四字句︑五字句︑六字句︑七字句︑八字句と段階を逐っ

て一文字づつ増加させる︒これも古詩だが︑第五︑六句﹁丹頂の

鶴を失却し︑銀漢の鵲に孤負す﹂は︑﹁丹﹂と﹁銀﹂という字面

の色彩感覚が揺曳する見事な対をなす︒子規の漢詩における規格

への嗜好は︑比較的自由な歌行体においてさらに歴然とする︒い

ずれにせよ︑子規が漢詩において︑その押韻︑平仄︑対句といっ

た規格に拘泥しながら︑物語的展開を実現することを模索してい

たことは︑白詩に学んだ一連の歌行体作品に看取される︒

  漢詩において小説的趣向を事とするならば︑白居易の歌行体の

古詩や新楽府のスタイルを模すのがよいとの認識が子規にあった

とすると︑明治二十五年︵一八九二︶に﹁風流仏﹂のパステイッシュ

たる﹁月の都﹂を呈示した露伴に冷淡な扱いを受け Qて小説家を断

念した子規が︑いつか漢詩においてその無念を晴らすことの可能

性が考えられる︒恐らく漢詩人子規は長編の古詩制作への意欲を

持していた︒しかしながら︑明治二十八年︵一八九五︶︑病を力め

(10)

ての日清戦争従軍後︑吐血大病︑病臥の後には︑すでに自在たら

んとしていた押韻︑平仄︑対句を組み立てる根気が磨滅する︒明

治二十九年に﹁論俳句八首﹂を発表した後︑子規は長編の古詩は

おろか︑二十八字の絶句すら︑ほとんど作らない︒自筆稿本﹃漢

詩稿﹄には明治三十年以降の作はない︒﹁韻を廃し平仄を廃し而

して漢詩の特色として残る所の者は何ぞ︒趣向ばかりならば邦文

にても言ひ得べし﹂︵﹁文學﹂などといった漢詩の規格を厳守する

立場を保持する限り︑小説的結構を有する長詩はなしえない︒

  長編の古詩の内容を︑押韻平仄を無視して行えば︑新体詩とな

るという理論は子規自身が﹁故に韻と平仄とを廃し︑しかも翻訳

して読むべき漢詩を作らんには︑寧ろ其漢詩を直訳したる新体詩

様の邦文と為すに如かず︒ある人の平仄を廃して猶漢詩を作らし

めんとするが如きいはれなきの甚だしき者なり︒平仄を廃する程

ならば何故に韻を廃せざる︒平仄と韻とを廃するほどならば何故

に仮名交りには書かざる﹂︵﹁同上﹂と既に備えていた︒そのため

に明治二十九年以降の子規は︑漢詩に替って︑新体詩で韻文によ

る小説的趣向の構築を行う仕儀となり︑右にその漢詩規格遵守論

を摘んだ﹁文學﹂というエッセイと雁行して雑誌﹃日本人﹄で︑

陸続と新体詩を試みる︒就中︑十一月号登載の︑とてつもなく長

い新体詩﹁洪水﹂は漢詩ならば長編となるはずの叙事詩への志向

を如実に具現化する試みとして注目さるべきものだ︒しかし︑子

規の新体詩﹁洪水﹂の漢詩的構造については︑他に論者あること

を思い︑これ以上深入りはせぬ︒明治二十五年に︑露伴の前でし

ぼんだ小説家たるべき夢は滅却したのではない︒明治二十七年 ︵一八九四︶には︑﹁月の都﹂に改稿を加えて﹃小日本﹄の創刊号

から十三号に連載︑翌明治三十年の二月には小説﹁花枕﹂を脱稿︑

これを﹃新小説﹄四月号に発表する︒﹁月の都﹂の改変は︑露伴

の批評を反映させたと推察されるが︑露伴は初稿にのみある俳句

をほめたので︑子規は露伴の批評をうのみにしたのではない︒﹁月

の都﹂は改稿後も種々の点で露伴の﹁風流仏﹂の影響を拭いがた

く︑高木直人と水口浪子との悲恋の終局は︑﹁風流仏﹂同様︑現

実と空想とが交錯する幻想小説の趣を呈し︑死した浪子は月の都

に昇天したとする︒初稿で浪子は﹁世外に超然たる妙想を抱く此

一個の仙女﹂と形容される︒また﹁花枕﹂は全編神の子﹁光﹂と

﹁匂﹂とが主人公の幻想小説で︑神の子たちは継母の虐待に苦し

む少女を救済せんと天上界から地上に堕ちて来た︒﹁花枕﹂のプ

ロットを凝縮したものが︑先に見た子規の新楽府﹁櫻花落﹂﹁天

女落﹂であることに気づく︒﹁天女落﹂の﹁命薄き佳人﹂は﹁月

の都﹂の浪子であり︑﹁櫻花落﹂の﹁仙女﹂は﹁花枕﹂の少女で

ある︒ここにもまた子規における白居易受容が︑その抜きがたい

小説創作への志向を強固なものとしていた消息が窺える︒

五︑子規漢詩の﹁写実性﹂

  明治二十五年︵一八九二︶の小説家断念の後の詠草で遺されて いる長編の古詩は﹁囲棋の行 うた﹂と﹁正岡の行﹂とのみである︒後

者はさほど長くはないが︑短編の私小説のプロットを示すような

作品として一見に値する︒曰く︑

阿嬢在堂年五十  阿嬢堂に在り 年五十

(11)

鮮魚不薦帛不襲  鮮魚薦 すすめず 帛襲はず 妹年廿六嫁見去  妹年廿六 嫁して去らる 裁衣煮菜家事助  衣を裁ち菜を煮て家事を助く 吾素多病與世乖  吾素と多病にして世と乖 そむき 碌々三十未迎妻  碌々たる三十 未だ妻を迎へず 阿嬢爲児憫孤寒  阿嬢児の為に孤寒を憫れみ 児爲阿嬢悲無孫  児は阿嬢の為に孫無きを悲しむ 生不興家絶系譜  生まれて家を興さずして系譜を絶つ 死何面目見父祖  死して何の面目あつてか父祖に見えん 一任世人呼吾爲狷狂   一任す 世人の吾を呼んで狷狂と為す

只期青史長記姓正岡   只だ期す青史長 とこしへに姓正岡を記さんこ

とを

  明治二十八年八月七日は満州から帰国の途上に喀血︑危篤状態

後の回復した状態での詠︒﹁阿嬢﹂の﹁嬢﹂は﹁娘﹂と同じで︑

中国白話では母親を指して︑現代日本での用法とは異なる︒早く

に父を喪い︑正岡家の存亡を双肩に担いながら︑病魔のためにそ

れも果たせぬ無念が基調低音の本作は︑過半は自らの病身故の不

幸に巻き込まれた母親と妹への同情の言辞だ︒明治二十五年︵一

八九二︶二月からの東京下谷根岸での生活は︑その年の十一月に

は母と妹とを伴っており︑本作の為された明治二十八年の従軍吐

血入院で中断されたが︑子規庵での三人での生活を反省する︒本

詩について加藤國安氏の訳注︵﹃子規蔵書と﹃漢詩稿﹄研究﹄は︑宋︑

文天祥﹁六歌﹂を意識する作とする︒法政大学正岡子規文庫に﹃詩 法度鍼﹄があり︑その巻三十に︑文天祥﹁六歌﹂が見え︑全編に子規の朱点が施されているという︒﹁六歌﹂は八字句などもまじ

えるが︑基調は七言句で︑詩体は七言古詩︒第一首は十一句︑第

二首は十一句︑第三首は九句︑第四首は十句︑第五首は十一句︑

第六首は十二句︒子規は第六首の十二句を踏襲した︒第六首は第

十句までがすべて七言句で︑末から二句目のみが八字句︒加藤氏

は第一首の﹁妻有り妻有り糟糠より出で︑少きより結髪して堂よ

り下りず﹂なる一聯︑第二首の﹁妹有り妹有り家流離し︑良人去

りし後諸児を携ふ﹂なる一聯︑第三首の﹁嗚呼三歌すれば︑歌愈々

傷む︒児女の為に涙淋浪たるに非ず﹂なる部分もまた﹁正岡行﹂

に投影するとする︒追認すべき指摘だが︑煩を厭うて十二という

句数の一致する第六首のみを和刻本﹃文文山詩選﹄︵上下二巻︑明

治三年東京萬笈閣椀屋喜兵衛刊︶下巻末尾のテキストから全文を引

用して私訓を施す︒

我生我生何不辰  我が生我が生何ぞ辰 ときならざる 孤根不識桃李春  孤根は識らず 桃李の春 天寒日短重愁人  天寒く日短くして重ねて人を愁へしむ 北風隨我鐡馬塵  北風我に随はしむ 鉄馬の塵 初憐骨肉鍾奇禍  初めて憐れむ 骨肉に奇禍の鍾 あつまるを 而今骨肉相憐我  而今骨肉 我を相ひ憐れむ 汝在北兮嬰我懐  汝北に在れば我が懐ひに嬰 かかり 我死誰當収我骸  我死すれば誰か当に我が骸を収むべき 人生百年何醜好  人生百年何ぞ醜好なる 黄梁得喪倶草草  黄梁得喪 倶に草草

(12)

嗚呼六歌兮勿復道  嗚呼六歌復た道ふ勿れ 出門一笑天地老  門を出て一笑すれば天地老ゆ   子規は文天祥の﹁六歌﹂第六首を結構修辞上模しただけでなく︑

六首全体を見渡して︑﹁妻有﹂る文天祥が﹁妻﹂を詠じた第一首

の内容を﹁妻﹂に替えるに母﹁阿嬢﹂を以てし︑文天祥の離縁さ

れた﹁妹﹂は︑そのまま正岡家のこととして採用するなど︑発想

や枠組みを借りつつ︑﹁六歌﹂を総合した後に一旦これを解体し︑

さらに六首を一首に凝縮して﹁写実性﹂を獲得した︒その手腕に

漢詩人子規の面目は施されている︒﹁正岡の行﹂で最も注目すべ

き点は末尾の一聯が﹁一任す 世人の吾を呼んで狷狂と為すを︑

只だ期す青史長へに姓正岡を記さんことを﹂となっている点だ︒

  漢詩は︑老荘思想に基づく隠逸志向を是認し︑地位財産名誉と

いった世俗的価値観を斥ける︒その点で﹁正岡の行﹂の末尾が﹁歴

史の上に永遠に自らの姓正岡を刻み付けたい﹂とあるのは異例で

ある︒明治二十一年の初めての吐血の前に作られた自画像詠﹁小

照自題﹂では︑依然として漢詩詠法の常道たる位階勲等への執着

や名声欲を一切放棄するスタンスは崩さぬ︒

一幅寫眞鏡影同  一幅の写真 鏡影に同じ 如嗔如笑又如聾  嗔 いかるが如く笑ふが如く又た聾なるが如し 䍎頭鼠目野人相  䍎頭鼠目 野人の相 垢面塵衣乞丐風  垢面塵衣 乞 きつかい丐の風 廉潔自呼小靖節  廉潔自から呼ぶ 小靖節と 榮官高位非吾願栄官高位は吾が願ひに非ず

不用留名麟閣中用ゐず名を麟閣の中に留むるを   右の尾聯では﹁高位高官や名前を遺すことなど考えてもいな

い﹂と詠じる︒漢詩特有の無欲恬淡たる隠逸の境地を常套的に詠

ずる︒これは第五句の﹁靖節﹂が東晋の陶潜を指すことと契合す

る︒陶潜は中国を代表する隠逸の高士で︑﹁帰去来之辞﹂︵﹃古文真

宝後集﹄では﹁栄官高位﹂を放擲し︑隠者たらんとして帰郷した︒

﹁小靖節﹂たらんというのは︑まだ健康に自信のあった子規の本

心でもあったが︑中国古典詩歌の常套的趣向でもあった︒

  試みに見よ︑夏目漱石がその晩年の大正五年︵一九一六︶八月

十九日に詠じた﹁無題﹂詩を︒

老去歸來臥故丘  老去つて帰来し 故丘に臥 す 蕭然環堵意悠悠  蕭然環堵 意悠悠 透過藻色魚眠穏  藻色を透過して 魚眠穏やかに 落盡梅花鳥語愁  梅花を落とし尽くして 鳥語愁ふ 空翠山遙蔵古寺  空翠 山遙かにして 古寺を蔵し 平蕪路遠没春流  平蕪 路遠くして 春流没す 林塘日日教吾樂  林塘日々 吾をして楽しましむ 富貴巧名曷肯留   富貴巧名曷肯留  富貴巧名曷んぞ肯て留め

  第一句の﹁帰来﹂は﹁帰去来﹂と同義で︑第二句の﹁蕭然環堵﹂

は陶潜の﹁五柳先生伝﹂︵﹃古文真宝後集﹄の﹁環堵蕭然として風

日を蔽はず﹂に由来する︒この漱石詩もまた陶淵明の隠逸の境涯

への憧憬を枠組みとする一首であった︒漱石の第八句﹁富貴巧名

曷んぞ肯て留めん﹂という高位高官や財産名誉を放擲する姿勢

は︑晩年の漱石も自分を﹁小靖節﹂に擬して中国古典詩歌の常道

(13)

に従っていたことを意味する︒

  子規没後の漱石の作品を示すまでもなく︑子規が熟読した祖父

大原観山の詩も漢詩の常套としての名利を放棄する態度を堅持し

ていた︒﹁世味老来一掃して空し︑功名富貴胸に縈 かからず﹂︵﹁浦屋雲

林笋を恵む︒戯れに賦して介に附す﹂や﹁決然として迹を斂 おさめて清

寒を守り︑脱し得たり 名纏利縛の患 うれひを﹂︵﹁愛山高岡の移居の作 に和す﹂といった詩句 Rにそのことが確認できる︒

  ﹁正岡の行﹂で子規は︑そうした常道から逸脱して﹁世間でわ

たしを気違いと呼ぶなら呼べ︑只だ歴史に正岡の名を刻み残すこ

とだけを願う﹂とする点が貴重される︒その意味で子規は漢詩に

おいては︑常道規格を十分に尊重する立場を持しながらも︑病魔

と闘う中で︑そうした規格を敢えて破砕して﹁写実﹂を達成して

いたと評しうる︒晩年病臥した後の子規は三大随筆などさまざま

な文章で︑せめて名前だけは残したいと繰り返し︑新聞日本に自

らの記事が載らぬと痛哭したことが知られる︒﹁正岡の行﹂は写

実性に富んだ子規晩年の随筆と揆を一にして︑本音を開陳した子

規の私小説であった︒

︵1︶ ﹃子規全集﹄第八巻︑渡部勝己氏解題︵一九七六年講談社︶

︵2︶ ﹃語文﹄︵大阪大学︶四十三号︑一九八四年六月︒︵3︶ 新日本古典文学大系明治編第二十七巻﹃正岡子規集﹄︵二〇〇三年岩波書店︶︑一三五〜七頁︒﹃子規全集﹄第十巻︑一九七五︑講談社︒一二〇頁︒︵4︶ 一九六七年︒二〇〇二年岩波文庫補訂再録︒︵5︶ 一九九五年岩波書店︒ ︵6︶ 二〇一四年研文出版︒﹃漢詩人子規│俳句開眼の土壌│﹄二〇一〇年研文出版︒

︵7︶ 明治二十九年十月五日﹁日本人﹂第二十八号︒﹃子規全集﹄第十四巻︑一九七六年講談社︑一六〇頁︒︵8︶ 注︵︶に同じ︒二〇〇頁︒︵9︶ 明治三十二年四月二十四日﹃日本附録週報﹄﹁病牀譫語

﹂ ︒︵ ﹃

全集﹄第十二巻︑一九七五︑講談社︑二八七〜二八八頁︶

七七年講談社︑六一〜六二頁︒原文はカタカナ漢字表記︒ 10︶ 明治十七年七月四日竹村鍛宛書簡︵﹃子規全集﹄第十八巻︑一九

第十巻︑五〇二頁︶ 11︶ ﹃筆まかせ﹄第三編明治二十三年﹁詩文可否の標準﹂︵﹃子規全集﹄

〇一六年︶所収︒﹃子規全集﹄第十二巻︑二三五頁︒ 12︶ 宗像和重編・解説﹃日本近代随筆選大地の声﹄︵岩波文庫二

十一巻︑一九七五︑講談社︑六一頁︶再録︒ 13︶ 明治二十九年九月十一日新聞日本︑﹃松蘿玉液﹄︵﹃子規全集﹄第

集﹄第十二巻︑二八〇頁︶ 14︶ 明治三十二年三月二十日︑﹃日本附録週報﹄﹁病牀譫語﹂︵﹃子規全

一巻︑一七六頁︶再録︒ 15︶ 明治三十四年五月一日新聞日本︑﹃墨汁一滴﹄︵﹃子規全集﹄第十

16︶ 明治三十四年六月二十六日新聞日本︑﹃墨汁一滴﹄︵﹃子規全集﹄

第十一巻︑二二〇頁︶再録︒

規全集﹄第十二巻︑五五一頁︶ 17︶ 明治三十五年五月二十日﹃ホトトギス﹄五巻八号﹁病牀苦語﹂︵﹃

第十二巻︑四三七頁︶ 18︶ 明治三十三年三月十日﹃ホトトギス﹄三巻五号﹁畫﹂︵﹃子規全集﹄

四巻︑三九五頁︶再録︒ 19︶ 明治二十八年十二月八日新聞日本︑﹃俳諧大要﹄︵﹃子規全集﹄第

的美﹂︵﹃子規全集﹄第四巻︑六四〇頁︶ 20︶ 明治三十年八月三十日︑新聞﹃日本附録週報﹄﹃俳人蕪村﹄﹁理想

21︶ 注︵︶﹃子規蔵書と﹃漢詩稿﹄研究﹄に子規と﹃佩文斎詠物詩選﹄

(14)

との関係について考証あり︒

22︶ ﹃仰臥漫録﹄九月二十九日には﹁あるとき一念に伴はれて角海老

に遊んだ次の朝⁝吉原で清い美しい感じが起つたのは此時ばかりだ﹂とある︒

二︑朝日新聞社再録︶ ﹃中国詩人選集﹄第十三巻︑一九五八︑岩波書店︑﹃風と雲﹄一九七 23︶ ﹁長篇詩の物語的構成│﹁白居易﹂︵高木正一氏注︶への跋│﹂

二十代後半になってからである︒ 行﹂は﹃太平楽府﹄︵明和六年刊︶所収︒子規の蕪村との出会いは 24︶ 蕪村﹁春風馬堤曲﹂は﹃夜半楽﹄︵安永六年刊︶︑畠中銅脈﹁婢女

25︶ ﹃蘭亭先生詩集﹄巻之二﹁春日行﹂に﹁満宮斉發新樂府﹂とある︒

﹃黄葉夕陽村舎詩﹄巻一には﹁附録﹂として﹁新楽府七首﹂が見える︒﹃春濤詩鈔﹄巻十四﹁秋興﹂には﹁金縷柳枝新楽府﹂とある︒﹃青厓詩存﹄巻十四﹁山陽先生百年祭感而有作﹂に﹁詠古何唯新楽府︑一篇外史是君詩﹂の一聯有り︒﹃詩董狐﹄冒頭の三十六則には﹁香山新樂府︑頌美刺悪︒語婉意深︑大合風人之旨︒其眞摯悃誠︑箴時之 病︑補政之缺︒良足以鑒戒百代後之詩人︒以其平易斥而不取此︑豈足共談詩哉︵香山の新楽府︑美を頌へ︑悪を刺る︒語婉にして意深し︒大いに風人の旨に合す︒其の眞摯悃誠︑時の病を箴め︑政の缺を補ふ︒良に以て百代後の詩人を鑑戒するに足る︒其の平易なるを以て︑斥けて此れを取らざるは︑豈に共に詩を談ずるに足らんや︶として国分青厓が白居易の新楽府を高く評価して自らの時事諷刺の詩の手本としていたことが示されている︒子規の青厓への高い評価は明治二十九年﹁文學﹂や明治三十年﹁詩骨狐を讀む﹂に見られる︵﹃子規全集﹄第十四巻︑一九七六講談社︶

十三巻﹁参考資料﹂︑一九七六講談社︶﹁子規に關し露伴翁に聽く﹂ 26︶ ﹃俳句研究﹄第二巻第一号︵昭和十年一月︶所載︵﹃子規全集﹄第

では︑露伴は子規の﹁月の都﹂草稿を見せられて出版の斡旋を頼まれ︑春陽堂などに持ち込んだが頓挫したことを語っていて︑子規の小説を否定していたわけではないとしている︒

27︶ 加藤恒忠編﹃蕉鹿窩遺稿﹄︵大正十二年刊︶︒原漢文︒

新 刊 紹 介

井出幸男著

﹃宮本常一と土佐源氏の真実﹄

  民俗学者の宮本常一は﹃忘れられた日本

人﹄という傑出した作品を残した︒その中

でも︑特に異彩を放つ﹁土佐源氏﹂は︑以

前から宮本の創作ではないかとの噂が絶え

なかった︒   本書で井出氏は︑元々︑作者不詳の地下出版物として出されていた宮本による﹁土佐乞食のいろざんげ﹂を発見し

︑それが

﹁土佐源氏﹂のベースとなっていたことを

突き止めた︒また︑宮本の日記や︑そこで

使われている方言︑事実関係を丹念に掘り

起こし︑それが︑実話をベースにしたもの

ではありつつも︑宮本の﹁創作﹂が多分に

含まれていることを指摘した︒  それぞれ の資料読解や分析が丹念になされること

で︑宮本の﹁民俗学性﹂と﹁文学性﹂がせ

めぎ合うその狭間が立体的に現れてくる︒

  また︑資料として︑﹁土佐乞食のいろざ

んげ﹂が収録されることで︑本来この作品

が持っていた性文学としての側面も詳らか

になる︒宮本の新たな側面を照らしだす一

冊だ︒

︵二〇一六年三月  梟社  B6判 三四四

頁 本体二五〇〇円︶

 ︹大島潤平︺

参照

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今日は13病等の短期入院の学生一名も加わり和やかな雰囲気のなかで

そこで生物季節観測のうち,植物季節について,冬から春への移行に関係するウメ開花,ソメ

26‑1 ・ 2‑162 (香法 2 0 0

・分速 13km で飛ぶ飛行機について、飛んだ時間を x 分、飛んだ道のりを ykm として、道のりを求め