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密教文化 Vol. 1955 No. 29-30 008山本 智教「ナーシクとジュナル附近の仏教窟堂群 PL87-L84」

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Academic year: 2021

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ナ ー シ ク と ジ ュ ナ ル 附 近

の 佛 教

窟 堂 群

山 本 智 教 英 文 の拙 稿 を 約 六 分 の一 の 分量 に 要 約 し ます。 だ か ら詳 し くは 述 べ られ ませ ん が。 は じめ に 大 体 ク シャ ー ナ時 代(西 紀 一 世 紀 か ら三 世 紀 まで)に 西 印度 及 び南 印 度 を 支 配 して い た ア ン ドラ王 朝 と これ に 対 抗 した 外 来 の 塞 族 が 西 印度 ナー シ クに 残 した 記 念 物 に あ る年 代 銘 など を 中 心 と して、 彼 らの 活 動 の 輪 廓 を の べ る。 即 ち 南 印 の ア ン ドラ帝 国 が 勢 力 を西 北 に伸 張 し、一 方 西 方 か ら侵 入 した 塞 族 が カ テ ィ ア ー ヴー ドに定 住 し、 ア ン ドラ領 を 蚕食 す る。 ナハ パ ー ナは 二 世 紀 の初 め頃 ナ ー シ ク まで 入 り込 む。 ア ン ドラの ゴー タ ミー プ トラ は外 蕃 を破 り、 同 じ くナ ー ゾ クに 窟 堂 を 寄 進 す る。 大 ク シ ャ ー一ナ王 朝 と親 縁 関 係 に あ つ た チ ャ シ ュ タ ナの 王 朝 が ウ ッ ジ ャ イ ンに あつ た。 南 印 ア マ ラー ブテ ィ ー の彫 刻 の 銘 文 に あ る三 名 の ア ン ドラ王 は130年 頃 か ら195年 頃 まで に在 位 した と考 え られ る。 そ の 中 の一 人 シ ュ リー ・ヤ ジ ュ ニ ャ は また ナー シ クへ も窟 堂 を 寄 進 した。 第 一 章 は ナ ー ン ク附 近 に あ る仏 教 に 属 す る窟 堂 全 部 を記 述 し、そ の 年 代 を 考 証 し、 印度 の窟 堂 建 築史 上 に お け る これ ら窟 堂 群 の地 位 を 明 らか に す るつ も り で あ る。 ナ ー シ クに24窟 が 現 存 す る 中で、 チ ャ イ トヤ窟(第18窟)と そ の 附 属 の ギ ハ 一 ラが 一 番 先 に つ く られ た。 そ れ は ベ ドゥ ナ ー の窟 堂 と同 時代(西 紀 前 一 世 紀 の前 半)と 考 え られ る。 そ の後 クシ ャ ー ナ時 代 に 重 要 な ギ ハ ー ラ窟 が 多 数 開掘 せ られ た。 ア ジ ャ ンタ で は 最 古 の 諸 窟 と六 世 紀 の ギ ハ ー ラ窟 の 中間 に造 営 せ ら れ た 窟 が な い。 ナー シ ク の殆 ん ど全 部 は ア ジ ャ ンタ の 間 隙 を み た す も の で、 第 二 章 に の べ る ジュ ナル の諸 窟 と共 に 印度 の ギ ハ ー ラ建 築 史 並 び に そ れ に 附 属 す る彫 刻 史 の 重 要 な 資料 を 提 供 す る。 ナ ー シ ク の ギ ハ ー ラで 最 も重 要 な 三 窟 だ け を略 述 し得 るに す ぎな い。 第3窟 は 前 記 ゴ ー タ ミー プ トラの 寄 進 に か か る。 これ は ギ ハ ー ラで あ つ て、 内 部 に は 比 丘 の 住 房 が 左 右 に 並 ん で い る。 比 丘 の 住 房 な ら ば 室 に装 飾 は しな い の が 普 通 で あ る。 然 るに この 室 に は 彫刻 に よ る装 飾 が い くつ か あ る。 それ は 何 故 か とい え ば 一 番 奥 に 塔 婆 が あ るか らで あ る。 しか もそ の塔 婆 は普 通 の 立体 的 な もの で な く、浮 彫 で あ る。 元 来 塔 婆 は仏 寺 の 中 心 で あ る。 しか るに これ を 浮 彫 に 表 わ す こ とは そ の意 義 が や や 薄 れ た故 と見 ざ るを 得 な い。 また 以 前 に は 塔 婆 が 窟 堂 に あ れ ば、 そ の 窟 の 平面 図 は 馬蹄 形 で あ り、両 側 に 八 角 の 列 柱 が あ る。 この 窟 は 方 形 で 列 柱 が な い。 しか も僧 房 が あ る。 だ か ら この 窟 はギ ハ ー ラ ナ ー シ ク と ジ ュ ナ ル 附 近 の 佛 教 窟 堂 群

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-87-密 教 文 化 とチ ャ イ トヤを兼 ね た もの で あ る。 チ ャ イ トヤ と しで塔 婆 が あ るか ら、 そ れ に 対 して 窟 の前 面 を荘 厳 してあ る。 そ の装 飾 は軒 下 の 垂 直 面 に あ る欄 楯 形、 地 上 に これ と略 同 様 の 装 飾 あ る欄 楯 及 び ア トラ ス ・ヤ クシ ャ で あ る。 これ ら は古 い、 西 紀 以前 の 建 築 装 飾 の 方 式 に よつ て い る。 次 に 窟 の前 面 の廊 下 に は 軒 を 支 え る八 角 の 列 柱 六 本 が あ る。 一 々 の 柱 の構 成 分 た る重 ね 方 板、 水 瓶 柱 礎.八 角 柱 身、 逆 ま に した 水 瓶 柱 頭、 方 形 の 枠 に入 つ た球 根 形、 獅 子、 象、 牡 牛 な どの 動 物 は 極 め て興 味 あ る様 相 を 呈 す る。 この よ うな 水 瓶 八 角 柱 は 当時 広 く印度 に行 わ れ た こ とは他 地 の 遺品 に よつ て も証 し得 る。 窟 堂 の 内 室 へ の 入 口 に は古 くか ら印 度 に 行 わ れ た トー ラナ(門) の 形 を 浮 彫 る。 入 口 の 周縁 に も男 女 像 な ど を浮 彫 る。 これ だ け 手 の こ んだ 装 飾 が の こつ て い る の は 印度 と して は 珍 ら しい。 そ の細 部 を 見 れ ば、 他 地 の 記 念 物 と比 較 して 年代 は わ か る。 二 世 紀 の 最 初 の 四 分 の 一一 とす るの が 妥 当 で あ つ て、 沢 村氏 が 古 い バ ー ジェ ス説 に追 随 して 四 世 紀 前 半 とせ られ た の は 大 きな 誤 で あ る。沢 村氏 の 説 に よ る とす れ ば この 窟 自体 に つ い てい つ て も、 い くつ か の 矛 盾 を指 摘 出来 る。 この 窟 は 古 代 とグ プ タ 時代 の過 渡 期 の 様 相 を 示 し、仏 像 も な く、装 飾 は古 式 に従 い、 しか も後 に大 い に 発 展 す る グ プ タ の ギ ハ ー ラの先 躍 と な つ てい る。 第10窟 は 前 記 ナ ハパ ー ナ の 寄 進 した も の で あ り、大 い さ と構 造 上第3窟 に 酷 似 す る。 い ず れ の細 部 を とつ て 見 て も全 く瓜 二 つ とい つ て よい。 但 し第3窟 と 相違 す る所 は 地 上 前 面 に 欄 楯 な く、 ま た入 口 に も装 飾 が な い こ とで あ る。 列 柱 の 柱頭 を 仔細 に比 べ て見 る と水 瓶 形 が 第 三 窟 の よ り も優 美 で あ る。 この 水 瓶 柱 頭 は も と花 辮 を あ らわ した の で あ るが、 こ の時 代 か ら、 水 瓶 を 逆 まに した よ う に 意 識 し、竪 の く り溝 を は ぶ い て し まつ た。 この 窟 は第3窟 の 手 本 とな つ た 窟 で あ つ て、 あ れ 程 装 飾 的 で は な い。 ギ ハ ー ラ内 に 塔 を 浮 彫 つ て礼 拝 堂 と して の チ ャ イ トヤを も兼 ね た こ とは こ この み で な く、 カ ラー ドゥ、 ク ダ ー、 及 び 後 述 の ジュ ナル 周 辺 に相 当数 あ る。 これ は恐 ら くア ン ドラ風 の伝 統 で あ ろ う。 ナハ パ ー ナ 自身 は シ ャ カ族 で も、 工 匠 は ア ン ドラ派 の伝 統 に 育 つ た 人 々で あつ た の で あ ろ う。 ゴ ー タ ミー プ トラは敵 人 た る ナ ハパ ー ナの 創 つ た 窟 を 見 て、 更 に こ れ を凌 駕 し よ う と して、 第3窟 に 善 美 を つ く した の で あ ろ うと考 え られ る。 第 10窟 を 私 は 西 紀100年 頃 と見 る。 第20窟 は構 造 上 大 体 第3窟 に 似 るが、 不 整 方 形 で、 後 世 に 増 補 した 跡 が 歴 然 と してい る。 前 面 の 列 柱 四 本 は 第3窟 の もの に 似 るが、 更 に 遅 い で あ ろ う。奥 に 現 わ され る佛 菩 薩 像 は 印 度 佛 教 の最 後 期 に 属 す る こ とは明 らか で あ る。 八 世 紀 頃 に 奥 壁 を 新 た に 開 い て佛 像 を つ くつ た の で あ る。 こ の窟 の銘 文 に よれ ば、 これ は ア ン ドラ王 朝 の シ ュ リー ・ヤ ジ ュ ニ ャ王 の将 軍 の 妻 の寄 進 にか か る。 王 の年 代 は二 世 紀 後 半 た る こ とは動 か な い で あ ろ う。

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-86-第 二 章 で は、 」ジ ュ ナ ル附 近 に あ る七 群 の 窟 堂 が構 造、 様 式、 年 代 に お い て ナ ー シ クの 諸 窟 に 近 く、両 者 相 侯 つ て窟 堂 建 築 及 び 彫刻 に 異 彩 あ る材 料 を 提 供 す る所 以 を 述 べ る。 ジ ュ ナ ル附 近 の 山 々に150乃 至200個 に近 い 窟 群 が あ る。 多 くは小 さい比 丘 の 住 房 で あ るが、 チ ャイ トヤは 全 部 で10窟 に 近 く、そ の装 飾 法 は 古 風 で佛 像 な ど は な い。 即 ち チャ イ トヤ操 窓 形、 欄 楯 形、 塔 要 形 を装 飾 的 意 匠 と して 使 用 す ゆ る。 大 体 小 窟 ば か りで、 大 い さに お い て は他 処 の大 窟 に比 肩 す べ くもな い が、 種 類 は 多 く、他 地 で 類例 の 少 い の もあ る。 窟 は ジ ュ ナ ル の 町 の 周 辺 の 山 々の 中 腹 に 七 群 を な して 並 ん で い る。 そ の 中最 も主 な もの だ け を 略 述 し得 るに 過 ぎ な い。 ジ ュ ナ ル の 町 の 北 ス ラ イ マ ン山 の窟 群 中、 前部 に 八 角 柱 二 本 と二 つ の壁 柱 を 有 す るチ ャ イ トヤ が あ る。 そ の 柱 は ナ ー シ クに 多 い 型 で あ つ て、 この窟 は ゴー タ ミー プ トラ窟 と同 時頃 で あ る。 チ ャ イ トヤ の操 窓 は 形式 的 な 飾 り物 に 堕 して しまつ た。 内 陣 の 八 角 列 柱 の 中10本 は動 物 像 を い た だ く。奥 の塔 婆 の覆 鉢 の基 部 が 内屈 し始 め て い る。 これ に 隣 る ガ ネー シュ 窟 は ギ ハ ー ラで、 や は りゴー タ ミープ トラ窟 の 柱 に 似 る六 本 の 八 角柱 が 前廊 に あ る。 奥 に 今 ガ ネ ー シ ュ像 を刻 して あ るが、 も とは ナー シ クの ゴ ー タ ミー 窟 と同 様 に、 塔 を浮 彫 で現 わ して あ つ た の で あ ろ う。次 の 第15窟 は 列柱 あ る前 廊 の 奥 の 方形 の 室 に塔 婆 が あ る。 即 ち これ は珍 しい 方 形 チ ャ イ トヤ で あ つ て、 ギ ハ ー ラで は な い。 明 らか に 古 い 馬 蹄 形 チ ャ イ トヤ か ら進 化 した もの で、 ジ ュ ナル の 別 の 窟 及 び クダ ー、^カラー ド ゥ に類 例 が あ る。 これ は チ ャ イ トヤ発達 史 上、 少 く も理論 的 に は ゴー タ ミープ トラ窟 な どの チ ャ イ トヤで しか もヰ ハ ー ラを 兼 ね る もの よ り も一 歩 手 前 の 発 達 段 階 を 示 す もの と して興 味 が あ る。 町 の 西北 西 の 山 に 円 形 の チ ャ イ トヤが あ る。 中 央 の 塔 婆 をか こん で 八 角 柱12 本 が 弩隆 の天 井 を 支 え る。 この 窟 は ジ ュ ナル 附 近 で は古 い 窟 の一 つ で あ つ て、 私 は西 紀 前一 世 紀 の 終 り頃 と考 え た い。 町 の 西南 の シ ブ ネ リ山 に 方 形 の チ ャ イ トヤが あ る(第48窟)。 この 窟 は 入 口 よ り中 に2本 の 八 角 柱 が あ つ て、 そ の 向 うが 内 室 に なつ て い て、 普 通 の 窟 と逆 で あ る。柱 の 水 瓶 形 は ナー シ クの よ うで あ る。 また 頂 冠 の 頂 上 に 長 さ75セ ンチ の 方 柱 が 立 つ て い て、 柱頭 と梁 を 連 結 す る。 この 方 柱 は ジ ュ ナ ル附 近 に の み 認 め られ、 他 地 に は 存 しな い。 内陣 は 方 形 で 奥壁 に 近 く円 形 塔 婆が あ る。 そ の 形 が ゴ ー タ ミー プ トラ窟 の 奥 の 塔 婆 に 似 て い るか ら、100-130年 頃 と仮 定 して よ い。 天 井 に 方 形 の格 間 を え が き、 一 々 に蓮 花 文 を え が くのが の こつ て い るが、 絵 は もつ と遅 い もの で あ ろ う。 ジ ュ ナ ル の南 南 西 に あ た る マー ンモ デ ィ 山 に ア ム バ ル ヤ とい う未 完 成 の チ ャ イ トヤが あ る。 大 操 の下 に あ た る半 円 形 の 部 分 に 扇 状 に 七 枚 の 蓮 辮 が 彫 り出 さ ナ ー シ ク と ジ ュ ナ ル 附 近 の 佛 教 窟 堂 群

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-85-密 教 文 化 れ、 シ ュ リー 女神 を双 象 が 灌 水 す る浮 彫 が の こ る。 また 大 撲 の上 方 に 龍 神 が 守 護 して い る。 この 窟 は ジ ュ ナル 附 近 で は 古 い 部 類 に 属 す るが、 明 確 な年 代 は知 られ て い な い。 私 は 前 一世 紀 終 り頃 と仮定 す る。 同 じマ ー ンモ デ ィ山 の 第2群 に含 まれ るア ム ビ ー キ と い うチ ャ イ トヤ窟 が あ る。 前 面 の 柱 の 柱頭 上 に 動 物 は な くて、 シ ブ ネ リ山 の 第48窟 に 見 る よ うに 方 形 の 柱 身 に なつ て い る。 大 撲 を他 地 の もの と比 べ る と、 例 え ば ベ ドナ ー や ナー シ クの 西 紀 前 の操 とちが つ て、 ア ジ ャ ンタ の第9窟 に 近 い。 年 代 は二 世 紀 前 半 は 動 か な い だ ろ う とい う確 信 が も て る。 マ ー ンモ デ ィ 山 の第3群 は ビ マ ー ル シ ャ ンカ ル とい う未 完 成 窟 で あ る。 列 柱 を比 較 す れ ば、 ナ ー シ クで は ナハ パ ー ナ窟 よ り も ゴー タ ミー プ トラの 柱 頭 に 似 る。 や は り二 世 紀 の は じめ頃 に 出 来 た に ちが い あ る ま い。 大 まか に 言 え ば、 ナー シ クの 主 な ギ パ ー ラ窟 と ジ ュ ナ ル 周辺 の 主 な 窟 は 略 々 同 時代 に、 しか も同 じ政 治 的 勢 力 圏 の 中 づ制 作 せ られ た こ とが ジ ュ ナ ル で も発 見 され た ナ ハ パ ー ナに 関 係 あ る銘 文 に よつ て も察 せ られ る。 また それ らは 美術 上 は ア ン ドラ美 術 の伝 統 に よつ て い る。 か くて、 ナ ー シ ク と ジュ ナル の 諸 窟 は 互 に 兄 弟 の 関 係 に あ り、後 に来 るべ き華 麗 な グプ タ時 代 の窟 堂 の 先 躍 を な す も の で あ る。 古 代 とグ プ タ期 の 中 間 期 の 代 表 的 窟 堂 群 で あ る。

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