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沖縄の標準語教育史研究-大正期の綴方教育実践を中心に-: 沖縄地域学リポジトリ

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Author(s)

梶村, 光郎

Citation

琉球大学言語文化論叢 = GENGO BUNKA RONSO

TREATISES on LANGUAGE and CULTURE(7): 51-70

Issue Date

2010-04-01

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10003

(2)

沖縄の標準語教育史研究

- 大 正 期 の綴 方 教 育 実 践 を 中心 に 一 梶村 光郎

1.はじめに

小論は、沖縄の綴方教育-作文教育の言説や実践の面か ら、大正期 の沖縄 の標準語教育の実態 を解明 しようとす るものである 1。綴方教育 との関わ りか ら沖縄の標準語教育の実態 を解明 しよう とするのは、主に発音、語桑、語法の三方面か ら方言 の矯正 を伴 う形で標準語教育が励行 されて きた ことと関係がある。子 どもの綴方作品においては、地 の文や会話の文 において語柔や語法が 発話 した とお りに表現 された り、教師の干渉 (指導) によ り生活語である方言が矯正 されて標準 請 (時期 によって、東京語 とか、普通語 とか、共通語 とか称 されている規範的な性格 をもつ 日本 語のこと)で表現 された りすることが多いか らである。 こうした点 に着 目して、本土復帰の頃の沖縄 の子 どもの綴方作品のなか に方言が全 く出て こな いことに疑問をもち、そ の原因 として 「過去 の方言禁止 と標準語強制の教育がいまもなお沖縄 の 学校教育のなか に尾 を引いているのではないか

2と予想 したのが、教育学者の故小川太郎であっ た。ただ小川の予想は、充分 に検証 されてはいない。小川は、霜 田正次 の 『あけもどろ』 とい う 小説のなかに記述 されていた、戦時中に疎開 した宮崎で地元 の子 どもたちが教室内を除 く学校 の 他の場でも家で も方言 を使用 しているのを見て驚 くという場面 を例 にあげなが ら、次 のよ うな結 論を出しているだけだか らある。 「本土では生活語 としての方言 を家庭で も地域で も学校で も自由につかいなが ら教室では標準 語が使われているのに、沖縄では教室はもちろん どこで も方言 を使わないように指導がなされて いたのであるO・3」 つまり、その予想が妥 当であるか どうか を、小川 自身は全体的 に検証 してはいないのである。 また、 このことに関す る先行研究 も少な く、 4 その検証 も充分 に行われているとは言えない状況で ある。 明治期の綴方教育 について言えば、 1902(明治35)年3月に国語調査委員会 によって言文一致 体を採用す るという方針が掲げ られて以来、文語体 の綴方だけでな く口語体 の綴方 も多 く書かれ るようになって くるF'。 口語体で文章を善 くということになれば、方言 -地域語 を使用 した綴方が 書かれる可能性が生まれてきて も不思議ではない。そ して、教師の指導がなければ、子 どもたち は普段使用 している方言 も使用 しなが ら綴方 を書 くのである6。 しか し、実際は教師の方言矯正の 指導があ り、その上作品が雑誌な どで公表 され る場合 には、標準語 による綴方へ と子 ども自身が 書いた綴方が訂正されて掲載 された りす るのである。 明治期 の沖縄 の綴方教育の例で言 えば、① 「一句一句ニッキ児童 卜共同シテ批評訂正ス」 る指導、②読本の例文 を模倣するような綴方の指導、 ③言語の練習をした後 に綴方 を教える指導、④ 「若 し誤謬あ らば少 しも仮借せず に之 を矯正す る」 指導 によって、方言混 じりの綴方は駆逐 されているのである7。その意味で言 えば、明治期の沖縄 の綴方教育は、小川の予想 した とお りの状況であった。

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それでは、大正期の沖縄の綴方教育 の言説や実践の面か ら見た沖縄の標準語教育の実態はどう であったろうか。そ の点 をこの小論では検討 してい く.なお、史料 のなかでは 「普通語」 という 用語が多 く使用 されているが、 「標準語」 という言葉で小論では論 じている。 また、 史料にある旧 漢字は原則 として常用漢字 に改めている。その ことを断ってお く。 1. 大 正 期 の沖 縄 の標 準 語 教 育 をめ ぐる言 説 明治期の沖縄の標準語教育について、筆者は次のように整理 した ことがある。 「明治政府 は、 中国 と日本 と両属関係 にあった沖縄 を、1872年 に琉球藩 とし、ついで1879年廃 藩置県 を断行 して 日本 に属する沖縄県 に移行 させた。その ことによ り、如何 に沖縄 を内地 (日本) に同化 させ るかが課題 となった。 しか し、その同化は簡単 に進 まず、教育 による同化 という政策 が推進 されてい く.一方、沖縄願私立教育骨の曾員達 は、明治政府の同化政策 を積極的に受け止 め、 『忠君愛国思想』 を内実 とす る教育 として沖縄教育 を位置づけ、 『皇民化教育』 を推進 してい く。そ して、その一環 として,言語風俗 の 『改良一致』が図 られ、標準語励行 に取 り組んでいく。 その内実は、地域語の使用の禁止、取締、制裁、罰を伴 うものであった。」ホ ここに示 したよ うな傾向が、大正期の標準語教育の言説において何か変化があったのか どうか、 その点か ら検討 してみよう。 まず、沖縄 を同化す るための 「皇民化教育」 の一環 としての標準語教育 ということに関 して言 えば、国頭郡尋常高等小学校長有馬猛が執筆 した

○御大典奉祝 と国民思想の滴養

」(

『沖縄教育』 <てて> 第104号) という論稿が注 目される。有馬は、その論稿のなかで 「2 国民的志想歯糞 に関する事 <ママ> 項」 に言及 し、 「国民的志想療養」 の不足 と対策 について次のように述べている。 <ママ> 「地理上の関係 と歴史上の径行 とによ り醸成せ られた一種得異の習俗 を為せ し県民が廃港置県 くママ> 後約四十 の星霜 を経過せ るにも関は らず、猶往事の余習 を脱却せず、未だに大部分の民象間に於 <ママ> ては民族的観念の明 白な らず、国民的志想の筆固な らざるが如 き傾 きあるを見 るは真に、一大遺 くマ7> 憾 に堪へざる庭な り、依 りて将来 に於て此の観念 を旺盛 に し其志想 を して益 々健全 に禰々筆固な らしめん と欲せば 固よ り学校教育の力に待つべきや論なきも、本間題の如 きは寧 ろ根底よ り社会 及び家庭の改良を図るを以て最 も得策な りと信ず」 9 この文章 を見 ると、沖縄 における同化 と 「皇 民化教育」 の推進が、大正期 においても引き続 き くてマ> 課題 となっていた ことが分かる。 そ して、 さ らに有馬は 「補習学校夜学会の如 き者 を到虚に設置 して、速成的 に無教育の育壮男女 を教育せざるべか らず」 と続 け,具体的な施設方法 として

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項 目を示 し、そのなかに、以下のような言語風俗の改良に関する問題 を取 り上げているのである。 川 十二、葬祭等の形式を変改せ しむること。 十三、普通の作法 を知 らしむること。 十四、普通語 を普及せ しむること。 つ ま り、内地 (日本) の言語風俗 に一致す るように沖縄の言語風俗 を改 良す る必要があると有 馬は主張 しているのである。その主張は、明治期 の同化の一環 としての言語風俗 の改良の問題 と 何 ら変 るところがない。 同様な主張は、1912 (大正元)年4月か ら沖縄県 の学務 を担当 していた 島内事務官の 「島尻郡部会 に於 ける島内事務官の演説大意」 (『沖縄教育』第76号) にも見 られる。

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島内は、 「内地府県の人よ り、一般我国の世の中よ り骨董物扱ひをされて居た」 という認識のもと に、 「一 日も早 く、 四十七県 中の一県 として 当た り前の状態 にな らなければな らぬ」 ことを主張 し、11言語風俗の改良の必要性 について、次のように訴えているのであるo 「本県の固有語は到底他府県 の間に通用は しない。之れ も早 く当 り前の語 にしなければな らぬ。 本県 の衣装、その他万端の風俗 も余 り賞めた ものでないO之れ も今 日の 日本人の当 り前の服装風 俗 に改めることが肝要である。 尚色 々な習慣 の如 きも、随分 日本の当 り前の習慣 として通用 しな いものも少な くはないそ うであ りますo 国粋保存 も固よ り結構であるが、沖縄語 の如 きは将来到 底保存を許す ことができないのである。是非保存 したいな ら蓄音機 に吹き込んでおけば宜 しい。 沖縄風俗 の如きも可成早 く改めなければな らぬ。之れ亦保存 Lや うな らば宜 しく写真 にとってお くべきであるo どうか是等の点は一刻 も早 く、内地府県並の当 り前にしたいのである.」12 ここには、沖縄 を内地の他府県並 に 「向上」 させたいという同化 の思想 と、そのために沖縄固 有の言語風俗 を否定 し撲滅 させ るべきである ことが述べ られている。沖縄 における方言撲滅論の 系譜のなかに位置づけ られて しかるべき言説の一つである。 これ らの言説か らも窺えるよ うに、大正期の沖縄 の標準語教育 も、その基調は明治期の同化 ・ 「皇民化」政策の一環 としての標準語教育 という線 を保守 していると言えるだろう。 しか し、大正期の沖縄 の標準語教育は、上述 したよ うな明治期の沖縄の標準語教育 をただ保守 して営 まれていたわけではない。標準語教育 を推進す る新 しい動 きも見 え始めているのである。 新 しい動きとは何か。ずば り言えば、それは海外移民が増加す るにつれて生 じてきた動きである。 その動きは、 いつ頃か ら起 きたのだろうか。「(四) 中頭郡初等教育沿革」 (『沖縄教育』第31号) のなかに、次のような記述があるO 「徴兵実施の結果入営す る壮丁 に無学者多きを以て年 々各校 に於て仮名及び簡易なる文字文章 の読方綴方普通語又は入営後 の心得な どを教へ しに依 り服役 中大なる不便 を感せ ざるに至れ り殊 に日露戦争後郡内の情勢海外渡航せん とす るもの多 く随て之 に相 当の教育 を施す の必要 を生ぜ L を以て各小学校 に於て区内青年を集め無学者に習字読書修身等 を授けた り

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これ によれば、 日露戦争後の明治末期頃か ら海外渡航す る者が増加す るようにな り、渡航者 に 「相当の教育 を施すの必要を生ぜ し」 めるようになった と述べ られているO もちろん、その記述か ら直ちに大正期の標準語教育の課題 になった ということは言 えないが、近藤健一郎が 『近代沖縄 における教育 と国民統合』 という著書のなかで紹介 している 「移民教育 の要」 (『琉球新報』1917 年2月10目付)な どの記事の存在 を見 る14と、大正期 に入 って移民教育の問題への関心が高 まるよ うにな り、風俗言語な どの改善が喫緊の課題 となってきている ことが分かる。その ことが、 ここ でいう新 しい動きなのである。言い換 えれば、大正期 に入 り、沖縄では移民教育の必要か らも標 準語教育の励行が強 く意識 され るよ うになってきた ということである。大正期 の沖縄 の標準語教 育の実態 を見ていく上で、その点 を見逃す ことは出来ないだろう。それでは次 に、大正期の沖縄 の標準語教育の実践に関わる動向について見てみよう。

2.

大正期の沖縄の標準語教育実践 この動向の問題 に関 しては、(1)沖縄県師範学校附属小学校 の発音矯正法、(2)沖縄県教育会への 「普通語 ノ励行方法答 申書」、(3)桑江良行の 「標準語 と沖縄語 との対照研究」、以上の三点か ら見て いくことにす る。なぜ この三点か と言えば、 この三点は、沖縄県下 の各学校、教員 の標準語教育

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実践に対 して大きな影響 を与えるか らである。 た とえば、沖縄県師範学校附属小学校は、師範生の教育実習校であ り、 この学校の 「発音矯正 法」 は師範生によって卒業後各地の学校で実践 されるか らである。 また、 同附属小学校は、沖縄 の初等教育の実践 と研究 にお いて リーダー シップをとってお り、研究授業や実践報告は沖縄県教 育会 の機関誌 『沖縄教育』 な どを通 じて影響 を与えているか らである。次 に、沖縄県教育会への 「普通語 ノ励行方法答 申書」 は、県 内の標準語教育の実態 を調査 した上で出された答申であ り、具 体的な手だてが示 されているか らである。 と同時 に、県下の教育界で最 も権威 と影響力のある沖 縄県教育会 の標準語教育 に対す る取組みの姿勢がそ こか ら窺えるか らである。 もう一つの桑江良 行の 「標準語 と沖縄語 との対照研究」 は、 『沖縄教育』 の1924 (大正13)年11月号か ら1926年 7月 号 まで連載 されたものである。 このような長期連載は、それまでの 『沖縄教育』 には見 られなかっ た ものであ り、その異例な扱 いは沖縄県教育会の この間題への熱心 さを示 していると同時 に、系 統的な標準語教育を現実化す るものと考え られるか らである。 最初 に示 した、沖縄県師範学校附属小学校 の 「発音矯正法」 の取組みは、 『沖縄教育』 の第103 号 と第105号で公表 された ものである。 同校 の主事常葉作太郎が第103号 に掲載 された 「発音矯正 法」の冒頭で、 これがまとめ られた経緯 を次のよ うに述べている。 「本篇は大正三年度 当校開催 の専一学年会 に於 ける未協議問題の一 に して、其の後 当附属校国 語研究主任比嘉永元専之が調査 の任 にあた り、立案 の上、本校国語科担任、 日野、佐久田両教諭 の意見 をも参案 し職員会 の討議 に附 し成れ るものな り、幸 いに本県児童発音矯正上の一助 ともな らば幸甚、 尚本篇 につき意見書 を回送せ られたる各小学校並び比嘉研究主任訓導 に多大の有益な る注意 を与え られたる伊波文学士の厚意 を謝す」15 この文章で注 目され るのは、沖縄県師範学校附属小学校 の実態調査だけでな く沖縄県 内の各小 学校 における発音矯正 に関す る実態調査 も行われていることである。沖縄県 内の各小学校の 「発 音矯正法」 の実態が窺 える史料 として、 この文章の価値 は高 いO また、 ここに記述 されている 「伊波文学士」 とは、伊波普獣の ことであ り、沖縄学の泰斗 と見なされている人物である。 この伊 波の 「注意」 も得て 「発音矯正法」が作成 されているということは、そ こに専門的な裏付けがな されているということである。 この ことで、 同附属小学校 の 「発音矯正法」 は,よ り権威づけ ら れ影響力が大 きいものになっている。次 に、 この 「発音矯正法」 の中身を見てみよう。そのため に、 この論稿の目次構成 を次 に示す ことにする16。 発音矯正法 (題名)/ (主事常葉作太郎の言葉)/一、は しがき/二、各郡区の回答せる学校数/ 三、 回答事項 の表記 (1 不正発音の原因調査

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不正発音 の調査)/四、矯正法の大要/ (附属小学校の実際)一、発音不正の原因/二、不正発音の調査 (1 五十音図に依 りて個人的 に調査す

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物音図に依 りて同

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教科書中の材料よ り児童が発音するに困難 と思ふ もの を発音せ しめて調査す

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読本教授 の際不正発音 を調査 し置 く

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方言 の調査)/三、本 年入学せ る児童 につきての調査/四、本年入学せ る男児童 につきての調査 ・本年入学せ る女児 童 についての調査/五、大正三年度 中尋-読本教授 中児童発音正誰調査/六、本県児童の正 し か らざる発音 (短音について (1)アAイⅠウU

Eオ0 (2)単独音の発音の不正なのは力行サ行 夕行ハ行 ラ行 の五行昔 に多い)/七、本県 の詑音一斑 ((1)母音 について (2)音の口蓋化 につい て (3)サ行音、 夕行書、 ヲ行書 について (4)音の類推及方言 との混清 について (5)一昔又は父 音、母音の脱落添加 について)

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以上は、第103号掲載分である。第105号分は次の とお りである17。 「八」は不明 (欠落か、以下の項 目 「九」 の部分は単なる誤植かは不明である。)/九、発音矯 正法 (以下実験せ る矯正上の要件 :第-、発音不正の児童への対応/第二、発音 を正す には正 しき姿勢をとらす ことが大切である。/第三、矯正の機会 と組分/第四、児童の模倣 と教師の 模範/第五、母音の発音 を正す) 発音の実態調査は、附属小学校 を除けば、那覇区6校、首里区1校、中頭郡4校、宮古郡8校、 八重山郡2校 の計21校 に対 して行われている。地域的 にみれば、沖縄本島の国頭郡 と島尻郡な ど が抜けているが、本島 ・宮古 ・八重 山と主要な地域で調査が行われてお り、沖縄県 内の発音 の実 態はかな りな程度把握できると言 って もよいだろう。 沖縄県内の各小学校の回答 によれば、不正な発音の原因は 「社会及び家庭 にて不正確なる言語 を使用するため。」18だ となっている。子 どもを取 り巻 く環境のせ いで子 ども達の発音が 「不正」な も のになっているという認識がそ こにはある。そ して、具体的に 「不正」発音 の例が 「共通的誤謬」 として、次のように示されている19。 2 不正発音の調査 サ行書 サーシャ. シース。ス- シコ。セ-シェo ソーシ ョ. ソウ-シ ョウ。 ザ行書 ザ-ジヤ.ズージュ。ゾ-ジ ョ。 夕行者 ツーチュ。 ダ行書 ダーラOヅ-ジュ。デー レ。 ド一 口。 ナ行書 ヌーノ

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)

ハ行音 ヒ-シ。 フ-ホ

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)

かな り多 くの 「不正」発音が見 られ るが、発音矯正 の具体的な方法 については、各学校 の回答 によれば次のような取組みがなされている2口。 四、矯正法の大要 1 教師が根気強 く継続 して矯正す。 2 普通語 を奨励 してつかはす。 3 発音の口形図を示す。 4 鏡を用ひて 口形及舌の位置 を知 らす。 5 教師は正確なる模範を示す。 6 個人的に模範 を示 して矯正す。 7 鉛筆や答にて舌の位置を知 らす。 8 サ行音の不正音は左の如 く分解 して教ふ。

(A)SIS-S- (B)S-A. SIA.SIA (C)SA.SA.SA.

物音のシャ。 シュ。 シ ョ。 も右 に準 じて教授す。

9 ラ行は単独 に発音す ることは困難なるもダ ラダ ラダルマ等は容易である。故 に矯正す るに はこれ等の材料よ りは じめる。

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この 「1 教師が根気強 く継続 して矯正す」 るという矯正法を見 ると、1915 (大正4)年頃の 沖縄では、 「社会及家庭 にて不正確なる言語 を使用す るため。」 に 「不正」発音が多 く、その矯正 については教師が根気強 く継続 して取 り組 まなければな らないと認識 されていた ことが窺 える。 子 ども達 の発音 を規定 している、社会や家庭の発音の 「不正」 を変えない限 り、子 どもたちの発 音 も簡単 には矯正できないと考 えるのは 自然な ことである。毎 日至 る所で 「不正」発音 を耳にし ているか らである。そ して、沖縄の社会及び家庭では、標準語 を知 らなかった り、使用できなかっ た りす る人が大半なのである。子 ども達が家庭や社会で標準語 を耳 にす ることは少ないのである。 そ ういう状況であれば、簡単 に子 ども達 の発音矯正ができるとは考え られないだろう。 「四、矯正 法の大要」の 「1」で述べていることは、そ うした意味で当然な対応だ と考え られる。 次に、 「2 普通語 を奨励 してつかはす」 と述べていることは、普通語-標準語は沖縄人とって 日常的 に接する ことのない内地の言葉であ り,強 いて学ばな くて も日常生活で何 ら困 らない言葉 である。教師 による奨励や指導がなければ、学習意欲 も起 きないし、その言葉 を使用 しよ うとい う意欲 も起きない言葉である。その意味で

「2」で述べていることは、標準語教育の励行 をせざ るを得ない教師 にとっては、必要な矯正法 と言 えるだろう。 また、標準語 の語柔の学習は同時 に 標準語の 「正 しい」 発音の学習 を伴 うものでもある。 だか ら、子 ども達は教師に習 うとお りにそ の語嚢 を学び発音す るようになる。 しか し、発音 ・発声の面で標準語の語柔 を正 しく発音するよ うな 口や舌の動 きになっていないため、 口形や舌の位置な どを教えなければな らない。その時に、 標準語 の正 しい発音 を一斉指導や個別指導 を通 じて教師が模範を示 した り、子 どもの理解が得 ら れた りす るよ うに、現在発音ができる語条な どを利用す るな どの教育的な配慮が必要 になるので ある。 「3」か ら 「9」 に見 られる矯正法は、それ を反映 した ものだ と言えるだろう。そ うした こ とも踏 まえ、附属小学校では 自らの発音矯正の立場を次のように示 している。 「児童が生活す る家庭 と社会が正確なる発音、正 しき言語 を使用 してゐなければ決 して児童の 言語 は正確 を望む ことは出来ないのである。発音教授 の照準点は此の環境の影響 を蒙れる不正言 語 を正 して標準語 に-致せ しむることに努力すべきである。故 に其 の地方の不正言語 を第一一に調 査 して児童の不正発音の根源 を穿聖開明 して教授にかか らねばな らん」2' この立場か ら、五十音 図 ・物音図 ・教科書 を用 いて子 どもの発音 を調査 し、具体的な発音矯正 法 を試みている。その概要は、上述の 日次構成で示 したので、 ここでは附属小学校 の取組みで注 目され ることを指摘する。 まず注 目されるのは、 「発音は他教科教授の際は勿論遊戯 中で も途中で も忽諸にせず辞々として 正 さねばな らん。」22と主張 し実践 していることである。決 して国語科だけで発音矯正をするのでは な いとい う姿勢が、 そ こには現れて いる。 『沖縄教育』 第105号のなか の 「九、発音矯正法」 の 「第五、母音の発音 を正す」 のなか に 「唱歌教授 とも連絡 して正 しき母音が 自由自在に出す ことが 出来なければ他の発音教授 も恩は しい成績 を挙 ぐることは覚束ないのである

了、と記述 されている よ うに、唱歌教授 の面か らも発音矯正が追究 されて いたのである。 この点 につ いては、附属′ト学 校か ら1918年 に仲西尋常高等小学校の校長 に転出 した吉良長包が、 「発音唱歌」 (1919年) を作詞 ・ 作 曲 して子 ども達の発音矯正を行 っていた こととの関係が注 目される

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次に注 目され るのは、 「不正発音の矯正は学校ばか り努力 して も家庭で父兄が注意 して呉れねば 駄 目である。そ こで父兄へ も不正なる発音は通知 し協力 して撲滅せねばな らん。」2'qという主張であ る。 これは、発音矯正は方言 を撲滅 しないと達成で きないということであ り、実践の レベルにお いて方言撲滅の立場 を明確 に打 ち出 している点が注 目され るものである。 と同時 に、方言撲滅の

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象徴 と見なされ る罰札 (「方言札」 な ど) の使用 の ことが、 ここで言及 されなか った ことが注 目さ れ る。 なぜな ら, 同附属小学校 では、 『沖縄教育』第

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号 に 「教育施設一覧」 を公表 し、そ のなか で 「五、普通語奨励方法」 の手だての一つ として、罰札 の使用 につ いて次 のよ うに述べて いたか らである。 <ママ> 「四、休 憩時間 中尋常科第 六学年以上の児童 に当番 に方言取締 掛 を置 き児童 に して方言 を使用 せるものには 『普通語』 と記入せ る厚紙製の札 を渡 さ しむ」26 「発音矯正法」 のなかで、 附属小学校 が罰札 の実践 につ いて触れなか ったのはなぜか。後 述す る沖縄県教育会への 「普通語 ノ励行方法答 申書」 にある罰札 の記述 とも関係 している内容なので、 注 目すべき点 として指摘 してお く。 以上、沖縄県師範学校 附属小学校 の発音矯正法 の取組み を見て きたが、全体 として言 える こと は、沖縄県 内各小学校か ら回答 された内容 を追認す る と同時 に、 同附属 小学校 な どの子 どもの発 音の実態 を踏 まえ、唱歌教授な ど他教科で の取組 にも眼 を向けつつ、方言撲滅 の方 向か ら発音矯 正 に取組む とい う特徴が見 られた とい うことである。 それでは次 に、沖縄県 教育会へ の 「普通語 ノ励行方法答 申書」 (以下、 「答 申書」 と称す) を検 討 してみよ う。 沖縄県教育会は、1915(大正4)年8月9日に開催 した総会 において、 「普通語励行 ノ方 法如何」 という諮問案 を提示 し、会員の意見陳述 の後 に、 この諮問案 に対す る調査答 申を行 う委員 を選 出 す ることを決議 した。 そ して実際 に、矢袋喜一、 近藤幸衛、玉城豊、安村 良公、我謝秀厚、 翁長 <マ7> <ママ> 盛周、大嶺詮松、平 田吉作、菅野喜久治、 比嘉徳 ,松元柴 (顔)之垂、有馬猛、島袋武 (源) 一 郎、池間昌書,嘉平善幸、 の16名が選出された27。 これ ら16名の委員達は、県内各小学校 の標準語 教育 に関す る励行 の方法 の調査 を進 めて い くが、そ の調査 の進 め方 につ いては、史料 もな く不 明 である。 ただ, 「答 申書」が、1915年9月6日付で沖縄県教育会 に提 出されている ことか ら、大忠 ぎで調査 をして 「答 申書」 をまとめた とい うことは窺 える。 「答 申書」 には、学校、家庭、社会毎 に、有効 だ と考 え られ る標 準語励行 のための手だてが盛 り込 まれてお り、 それ らは全体 で41項 目を数 えて いる。 そ の内訳 は、学校 に関 しては28項 目、家 庭 に関 しては3項 目、社会 に関 しては10項 目.である2㌔ ここで注 目され るのは、学校 以外 に、家 庭や社会の領域 にお いて も標準語励行 を進 めよ うと して いる ことで ある。 この ことが徹底 され る な らば、生活語である沖縄 の方言 は消滅 し、標準語 を生活語 と して使用す る ことにな るだ ろ う。 その ことは、家庭 に関す る 「-、現今多数 ノ家庭二於 テハ両親普通語 ヲ話 シテ範 ヲ児童二重ルル コ ト困難ナ レバ教師 (役場員等) ノ家庭 ヨリ先ヅ之 ヲ始 メテ漸次他 ノ家庭二及 ホス コ ト」2【)とい う 項 目や、社会 に関す る 「方言廃止会普通語奨励会等 ヲ設ケテ徹底的二励行 ヲ期スル コ ト」`}`)とい う 項 目か らも推測 され る ことである。 「答 申書」 は、 この ことを人為的 に推進 してい こうとしている のだか ら、方言撲滅論 の立場 を選択 した と言 えるだ ろ う。 そ してそ の ことは, 島内事務官 の演説 や沖縄県師範学校 附属 小学校 の 「発音矯 正法」 にも見 られ る方言撲滅論 の流れ を加速す る もので あった と見 ることができる。 学校 に関す る項 目は28項 目であるが、それ らは(D標準語励行 の姿勢 に関わ る項 目、②教師が標 準語の模範 を示 して指導す る ことに関わ る項 目、③標準語 の奨励 に関わ る項 目、④方言 の矯正 と 標準語指導 に関わ る項 目、(9方言 を使用 させ な いための環境 の整備 に関わ る項 目、(秒発音 の矯正 に関わる項 目, といった形 に分類できる。 ① の項 目に該 当す るのは、 「-、教師ハ普通語励行二就 テハ根気強 クコ レガ実行二徹底努 力 ヲナ スコ ト」一"と、 「-、小学校 中等学校共 カシテ普通語励行二努力スル コ ト」32という二項 目である。最

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初の項 目については、沖縄師範学校附属小学校 の 「発音矯正法」 という論稿のなかの 「四、矯正 法 の大要」 にある 「1 教師が根気強 く継続 して矯正す」 という項 目を踏 まえた ものであること が、そ の内容か らも窺 える。② について も、 同上の 「四、矯正法の大要」 の 「5 教師は正確な る模範 を示す」 を踏 まえていると言える。ただ、具体的にどうするか という点で言えば、 「答 申書」 の方 には次のような手だてが示 されてお り、内容的には深め られている:Lr-0 -、教員 自身正 シキ普通語 ヲ使用 シ範 ヲ垂ルル コ ト ー、教員間二方言廃止規約 ヲ設クルコ ト ー、教員ハ野昇ナ ラザル小説講談等 ノ書 ヲ閲読シテ通俗的言語 ノ熟達 ヲ勉ムルコ ト ー、他府県 ヨリ教師 ヲ招聴スルコ ト場合ニ ヨリテハ交換教授 ヲナスコ ト ③は、 「四、矯正法の大要」 の 「2 普通語 を奨励 してつかはす」 と共通 している。 これについ て も、 「四、矯正法 の大要」 は、 「2 普通語 を奨励 してつかはす」 と概括 されているだけである が、 「答 申書」 の方では次のような手だてが示されている31. -、普通語 ノ必要ナル コ トヲ生徒二会得セ シメソノ気分 ヲ養成スル コ ト ー、運動場二於ケル監督ハ児童 ノ言語二注意 シ方言使用者ハ一々訓戒スル コ ト ー、普通語使用児童 ヲ称揚スル コ ト ー、普通語使用 ノ最モ成績佳良ナル学級 ヲ表彰スル コ ト ー、小学校上級若 クハ 中等学校二於テハ生徒間二制裁 ヲ設ケテ 自発的二普通語 ヲ使用セシムル コ ト つ ま り、標準語学習の必要性 を訴え、学習の 目当て を与えると同時 に、訓戒、称揚、表彰な ど を行 い、標準語の奨励 をしていくというのである。具体化 という点で、 「答 申書」は 「四、矯正法 の大要」 よ りも一歩先に進んでいる。 ④は、方言の矯正 と標準語指導 に関わる項 目であるが、 「一、入学当時 ヨリ普通語ニテ教授スル コ ト」L-5を行 いなが ら、 「一、幼学年児童 ノ普通語ハ完全ヲ望 ミ得ベカラザ レバカタコ ト交 リノ普通 語ニテモ使用セ シメ徐 々二訂正 シテ行 ク方法 ヲ トル コ ト」'i臼を指摘 しているo この ことは、子 ども の実態 を踏 まえた標準語指導 を志 向す るものであ り、教育的な配慮がなされていると言 えるだろ うoそ して、 「一、発音矯正表 ヲツクルコ ト」37、 「一、標準語 ヲ示スコ ト」.iH、 「一、困難ナル語句ヲ 調査 シ置クコ ト」39、 「一、如何ナル点二於テ重二誤アルカヲ調査 シオクコ ト」川を求めている。 また、 標準語の指導の面では、次の様な項 目が示されている41。 一、方言 ヲ使用スル生徒二罰札 ヲ渡 シテ制裁 ヲ与 フルモ地方 ノ状況二依 り校風 ノ如何ニ ヨリー 時的方便 トシテハ可ナ ランモ主義 トシテハ善キ方法ニアラザルベシ ー、座談等 ヲナシテ応接二関スル言語二熟達セシムル コ ト ー、国語教授時間中ハ勿論他教科 ノ時間二於テモ正確ナル普通語 ヲ以テ思想 ヲ発表セ シムベシ ー、 中等学校二於テモ国語中心主義 ヲ トリ他教科二於テモ読方綴方話方二充分 ノ注意ヲ トルコ ト ー、児童 ノ談話会 (学芸会級会) ヲ頻繁二開催 シ正格 ノ言語二対 シテハ ソノ都度之 ヲ訂正スル コ ト

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これ らの項 目で注 目され るのは、罰札 に関す る項 目である。方言罰札 に関 しては,先 に沖縄県 師範学校附属小学校の 「教育施設一覧」 のなかに 「普通語」 と記入 された罰札 の使用 の ことが言 及 されている こと、 しか し 「発音矯正法」 の取組みのなかでは罰札 について何 の言及 もされてい ないことを指摘 しておいたo この ことの理 由については何 も言及 されていないが、 同附属小学校 にお いては、罰札 を導入 してみたものの、思 うよ うな教育効果が得 られなかったために罰札の こ とが取 り上げ られなか った ことが考え られる。 「答 申書」では方言罰札の導入 について、地域や校 風などの条件を考慮することと、 「主義 トシテハ善キ方法ニアラザルへシ」 と批判的に述べている。 その批判的な部分に着 目して言えば、 「答 申書」の罰札 に対す る認識は、思 うよ うな教育効果が得 られなかったためではないか という筆者の推測 を裏付 けるものか もしれない。そ うだ とす ると、 「方便」 として罰札の使用 をなぜ認めたのか という問題が出て くる。 これ については、 同附属小学 校以外の学校 において罰札を使用 している事例があったか らではな いか と考 え られる。た とえば、

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日付の 『琉球新報』 に掲載 された 「第一回申等学校教授法研究会 (二)」 という記事のなかに、 「生徒間の約束 によ りて方言使用のものに罰札 を渡 し」42という、罰札 に関す る文言が見える。 このよ うな事実か らも、 同附属小学校の事例だけを取 り上げて方言罰札 を禁止 する処置は とれなかったのではないか と考 え られ るのである。 この点は、 さ らに追究 しなければ いけない課題の一つである。 ⑤は、方言 を使用 させないよ うにす るための言語環境の整備 に関す る項 目であるが、具体的 に は次のような手だてが示 されている13。 一、入学当時 ヨリ普通語ニテ教授スルコ ト ー、児童 ノ課外読物 (オ トギ話 ノ類) ヲ選択 シ之 ヲ学校文庫又ハ図書館ニテ閲読セ シムル コ ト ー、学校使丁相互間使丁児童間ニモ普通語 ヲ励行セ シムル コ ト ー、小学校 中等学校共カシテ普通語励行二努力スル コ ト ー、他府県人ガ各 自ソノ方言 ヲ使用セヌコ ト ここには、普通語-標準語 に親 しませるために課外読物 を整備 して置 くことと,子 ども達 に方 言 を使用 させないよ うに、方言の世界 を遮断 して普通語 -標準語励行 を進めてい くという形での 言語環境の整備案が示 されている。学校 における方言撲滅のための試み として位置づけ られ るだ ろうC ⑥は発音矯正に関わる項 目であるが、次のような手だてが示されている44。 一、読方教授及唱歌教授 ノ際発音 ノ矯正二注意スル コ ト くママ> ー、児童 ノ談話会 (学芸会級会)ヲ頻繁二開催 シ不正格 ノ言語二対 シテハ ソノ都度之 ヲ訂正スル コ ト ー、発音二閑スル郷土的証書 ノ矯正二注意スル コ ト (例へパオ段ガ ウ段 トナ リラ行 トダ行 トノ 靴誤 ノ如シ) 一、発音矯正表ヲツクルコ ト ー、標準語 ヲ示スコ ト 沖縄県師範学校附属小学校 の 「発音矯正法」で も示 され、実際に実践 されている矯正方法が こ

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れ らの項 目にも見 られ る。た とえば、同附属小学校の場合、発音 「不正」 の子 どもに発音の 「不 正」 を自覚 させているが、発音矯正表 を作成 して提示 した り、標準語 を示 した りす ることは標準 語 を科学的に、かつ系統的に指導 しようとす る時に有効であろう。 また、 「郷土的詑音 ノ矯正」に ついて も、 同附属小学校では国語科や他教科 (唱歌教授な ど)で取組み、特 に 「第五、母音の発 音 を正す」 ことに力を入れていた。 だか ら、県 内の各小学校 と同附属小学校で行われていた発音 矯正の手だてが この 「答 申書」 に反映 しているのであるO 次 に、 もう一つの桑江良行の 「標準語 と沖縄語 との対照研究」 について見てみよう。 この 「標準語 と沖縄語 との対照研究」 は、 「本県 の初学者 を相手にし標準にして其の教導手引き のつ も りで調査 を進め解説 を加へた もので」45ある。 この連載は、1930(昭和5)年 に 『標準語対 照沖縄語の研究』 (青山書店発行) として纏め られ、1954(昭和29)年に崎間書店か ら改訂再発行 されている。 この点 に関 して、本永守靖は

『沖縄語の研究』

」(

『沖縄大百科事典 上』、沖縄タイ ムス社、1983年) のなかで 「桑江良行著。1930(昭和5)年5月、崎間書店発行。」 と記述 してい る46が、発行時期か ら言 えば 「崎間者店発行」 は 「青山書店発行」 の誤 りである。そのことを指摘 しておきたい。 ともあれ、標準語対照の沖縄語の研究 に関す るものとしては、 この桑江 の研究は 戦前の主要な ものの一つであ り、標準語教育の科学的 ・系統的指導 を行 う上で、実践上の見通 し を与えるものである。 著者の桑江は、1882(明治15)年10月18日沖縄県 中頭郡読谷山村生 まれ。1901(明治34)年3 月沖縄県 中学校 を卒業、 同年

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月島尻郡大南高等小学校 に代用教員 として赴任。 それ以降、東京 府駒沢尋常高等小学校代用教員 (1902年赴任)、早稲 田大学国漢文科学生 (1910年7月卒業)、神 戸市立神港商業学校教諭 (1910年9月赴任)、 沖縄県立水産学校教諭 (1911年赴任)、栃木県烏 山中学校教諭 (1915年赴任)、埼玉県立工業学校教諭 (1919年赴任)、 沖縄県立第二 中学校教諭 (1922年赴任)、 同中学校校長事務取扱 を経て、 同校 を退職 (1939年3月)。1939(昭和14)年

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月 東京巣鴨中学校 ・高校教諭 (赴任)、1952(昭和27)年7月那覇高等学校教諭 (嘱託 として赴任), 1954年8月同校 を退職。以上が彼の主たる経歴である47。 彼 の研究は、 『改訂標準語対照沖縄語 の研究』 (1930年) に掲載 されている 「著者の ことば」 に よれば,中学以来 の親友仲村渠完綱 の求めに応 じて行 っていた標準語 と沖縄語 との対訳か ら始ま る。沖縄県立水産学校への赴任後、男子師範学校長森川辰之助 に推薦 されて中等学校国語科教授 研究会の 「沖縄県 の学生が特 に誤 りやす い普通語」 の調査研究の委員に選出され、それ までの研 究 を森 山に提出す る。その研究 の成果 は、 『沖縄教育』 の編集者の又吉康和 に認め られ、 『沖縄教 育』へ連載す る ことになる。48ただ し、桑江が述べている 「中等学校国語科教授研究会」 とは、 「第 一回中等学校教授法研究会 (-)」 (『琉球新報』1911年9月29日付) の記事 によれば、1911 (明 治44)年9月22日に開催 された 「沖縄県 中等学校教授法研究会」 の ことである。そ して この時の 研究会 においては、第一回 として 「国語漢文研究会」が開かれたのであ り、桑江の記述は正確な ものではない。 また、 「第-回中等学校教授法研究会 (二)」 (『琉球新報』1911年9月30目付)の記事によれば、 この研究会 にお いて、 「普通語普及奨励法の調査」 な どの委員 として、玉城栄 (-中)、崎山宗秀 (二 中)、大島秀策 (高女)、大嶺詮松 (商業)、羽田一成 (中頭農学校),長沢恭治 (師範)などと ともに桑江が選 出されている。 また、 この9月30目付の記事 には、方言札 に関 して も、次のよう に重要な事が述べ られている。 「三、普通語普及奨励 に関す る各学校実施の状況如何 (師範学校)/多 くは談話会、級会、学

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友会、等 を設けて特 に練習せ るが其他生徒間の約束 によ りて方言使用の ものに罰札 を渡 し或は生 徒 の誤 り易き普通語 を集めて特別 に之 を教授 し或 は運動場に於て特 に注意監督す る等実施 の状況 を談 し合ひた り」1■' ここには方言罰札 に関す る記述があるが、現在文献の上で確認できる最初のものである。 この ことは、 これ まで言及 されていないo注 目してよい事実であろう。 また この記事 によれば、 「本県 に於て誤 り易き言語方言の調査」 も行 うということであ り、 『標準語対照沖縄語の研究』 は、それ に対す る桑江な りの回答 と言 って もよいか もしれない。 この ことは、決 して、桑江の研究が彼個 人の興味関心か らだけなされた ものではないということを意味す る。背後 には、沖縄県の教育界 が推進 しようとしている標準語励行の動きがあるのである。 『沖縄教育』の第

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年11月) に掲載 された 「標準語 と沖縄語 との対照研究」によれば、 「(-)同語異解、 (二)本県 の初学者が特 に誤 り易い語句及び音韻、 (三)本州の古語がそのまま 本県で現在使用せ られつつあるもの、 (四)標準語及ひ沖縄語間で適訳 を見出す に困難 を感ず るも の、 (五)標準語及び沖縄語間で互 に適 当な直訳がない語句」 の五項 目について説明をしてい くこ とが述べ られている.rd。そ して同

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号に掲載された桑江の論文は,予告通 り 「(-) 同語異解」 を 取 り上げている。 ここで言 う 「同語異解」 とは 「同形同音の語であ りなが ら其の意義は全 く異な るものと云ふ意味」であ り、その ことを弁えないと 「とんで もない間違 をしだす場合が往 々ある」 ことを述べている5㌧ 沖縄語 をカタカナ表記、標準語 を平仮名表記 しなが ら、沖縄語でいう 「アザ」 は、標準語でいう 「ほくろ (黒子)」 の ことである ことを示す と同時に、標準語でいう 「あざ」 と は 「血液病又は癒傷な どによ りて皮膚 に異常の色 を残 し留めた部分の称」 である ことを示す ので ある

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沖縄語 を介 して標準語 を理解す る場合 に誤解が生ず ることに注意 を促 し、誤解 を防ごうと いう意図がそ こには見 られ る。標準語 の誇嚢の意義 を正 しく理解 させ るためには必要な配慮 と言 えよう。 『沖縄教育』 の第

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月) には、 「二、沖縄県 の学生が特 に誤 り易い語句及び音韻」 の ことが取 り上げ られ、 ここで も沖縄語か ら標準語へ変換す る際に誤 り易い事例が説明されてい る。その誤 りは、10項 目に整理 されている。それを示そ う5‥I。 (1)沖縄語 を直訳す る事か ら来 る誤 (2)用語語格が妥 当でな いもの く3)助詞使用上の誤 (4)副詞 (主に有様 を形容す る語)の用法が妥昔でないもの (5)員数称呼の誤 (6)清音 を濁音 に云ふ誤 (7)濁音 を清音 に云ふ誤 (8)短音 を長音 (引 く音) に云ふ誤 (9)物音 を直音 に云ふ誤 (10)音韻学 上ダ音 とラ音 との近親する事 を証する実例 10項 目の一部について紹介すると、(l)の事例 として、 「あて (心算) に してゐた」 というべきも のを 「ツモツテヰタ」 というものが紹介 されている54。沖縄語では 「君は出席するだ らうとツモツ テゐたよ」 と使用す るのだ という。標準語 の語句の意義 を充分踏 まえていないと間違 って しまう という事例である。(2)については、 「読める」 な ど言 うべきものを 「読 ミエル」 と表記 している事 例などが指摘 されている{'5。 (3)については、 「へ、 に、 を」 な どの助詞 を抜か して言 う事例な どが 指摘 されている・%。発音の部分 について言えば、(9)については、標準語 の 「しょもつ (書物)」 を 沖縄語で 「ソモツ」 と発音 した り表記 した りす る事例などが指摘 されている57。(10)については、標 準語の 「あぶ ら (油)」を沖縄語で 「アンダ」 と発音 した り表記 した りする事例が説明されている誓 これ らの事例に基づき、標準語 と沖縄語 を系統的 に対照させて いく指導 の必要性 を桑江は 自覚

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していた。 「之 (沖縄語か らくる誤用 一梶村) を県内では何等 の不便 を感 じないと云 うて其健全々放任 し て置 く時 には 自分の県 の方言 の特殊な る語法 を根拠 としてゐる誤用であるが為 に百年河清を待つ が如 く何年たって も中々矯正す る事は出来ないと思ふのであ りますか ら之を早 く小学校の児童時 代か ら正 しく使用 させ る習慣 をつけて段 々と一般 に及ぼす様 に努力す る必要があると愚考するの であ ります。」59 この標準語 の系統的な指導 の構想は合理性 を有 しているが、 その指導は 「出来 る事な らば我が 沖縄県民は一 日も早 く此 の沖縄語 を忘れて、急進的に標準語の上達 に向かって突進 しなければな らないのである。」"'という方言撲滅論の立場か らのものであった。その意味で言えば、桑江の考え る標準語教育 は、沖縄県師範学校 附属小学校 の 「発音矯正法」 や沖縄県教育会の諮問に対す る 「答 申書」 と同様、方言撲滅論 を基調 とするものであった と言えるだろう。ただ違いは,桑江の場 合 「標準語 にない沖縄語」 のなかか ら選択採用 して標準語の語桑 とす る 「大 きい希望」 をもって いた という点である。 しか し、それ を可能 にす る現実的な道はな く、 「国語同好家諸彦の熱誠な御 研究 と御努力を煩はす ことが出来たな らば本懐の至 りである。」61としか言えなかったのである0 -万、大正期 の八重山に、方言は 「日常 ノ通用語」であ り、 「商用語」 として必要であると考え て標準語 との併用 を主張する石垣測候所の所長岩崎卓蘭が いた。彼は、 カブヤ- (凧揚げ)大会 を開催 して方言 を使用す るのを許容 した り、方言で唄われた童謡集である 『八重山童謡集』 を編 纂 した り、標準語 の児童向け新 聞 『児童の産業』 を発行 した りす るな ど二語併用の教育文化活動 を展開 している62。その ことも、大正期 の沖縄の標準語教育 をめ ぐる大勢 とは異なる言語教育実践 として指摘 しておかなければな らないだろう。 以上の ことを整理 して言 えば、大正期の沖縄 の標準語教育実践の基調は、方言撲滅論の立場か ら標準語励行 を徹底 させ よ うとしていた ところにあった と言 えよう。そ して標準語 の系統的な指 導 を構想 しつつ、学校だけでな く家庭 ・地域 をも巻 き込む という点で、各学校や沖縄県教育会な どの標準語励行の計画は徹底 しようとしていた と言 えるだろう。 しか し、そ うした基調のなかで、 標準語 の価値だけでな く方言の価値 をも認める立場か ら、学校外でこ語併用 の教育文化活動が八 重山で展 開されていた ことも記憶 されてよいだろう。そ してその事実は、学校 ・家庭 ・社会 ぐる みの標準語励行 の計画が実践 において必ず しも徹底 されて いたわけではないことを物語 っている と言えるだろう。

3.

大 正 期 沖 縄 の綴 方 教 育 と標 準 語 教 育 大正期の沖縄の標準語教育 の言説や実践の基調は、方言撲滅論 を志向 しなが ら標準語励行 を徹 底す るところにあった。 その観点か らこの時期の沖縄 の綴方教育の言説や実践を見 るな らば、 当 然方言の使用 の禁止 ・標準語 による綴方教育 を中身 とす る主張や実践 しかないように思われる。 しか し、沖縄 を同化の対象 としていた内地では、国語教育 ・綴方教育 の分野 において、方言の使 用 を肯定す る言説や実践が出現 していた。そのよ うな状況 のなかで沖縄 の教師達は、綴方教育に お いて方言の使用 を肯定す るよ うにな ったのか、それ とも明治期か ら続 く方言禁止 ・標準語の強 制教育 を方言撲滅論の立場か ら追求 して いったのか、その ことが問われて くる。そ こでまず、内 地の綴方教育 にお いて、方言の使用が肯定 されて いるか どうかを確認 し、ついで沖縄の子どもが 書 いた綴方作品に方言が使用 されていたか どうかを明 らかにす る。その上で、綴方教育か ら見た

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沖縄の標準語教育について考察することにする。 内地の綴方教育 において、方言の使用が肯定 され る ことになった様子 を滑川道夫は 『赤 い鳥』 (1918年7月)の主宰者鈴木三重吉の場合 を取 り上げなが ら、次のように述べている。 「写実 と実感 を三重吉が強調すれば、 日常生活語 としての方言的表現が、応募作品に多 くあ ら われて くることになる。 --方言で綴方 を書 くと、教師は標準語 に訂正 して書き直 しを命ず るの が、 この頃一般的な状況であった。方言卑下の傾向があ り、子 どもたち も 『わ るいことば』 とし て教え られた時代である。 『赤 い鳥綴方』 に共鳴共感す る教師たちは、方言で 自由に書かせ るよう になる。そ うした作品が 『入賞』 になって三重吉 に励 まされ ると、その傾向が当然助長 され る。 標準語では居ず まいを正 して観念的な作文 にな りがちであった ものが、方言で書 くことによって 生彩 をおびて くる ことを指導者がのみ こんで くると、農 ・漁 ・山村の小学校か らの投稿が増加 し ていったcJ"1 これ を見ると、内地で も方言の使用 を否定 し、方言的表現は標準語 に訂正 して書 き直 しす る こ とを、教師達が子どもに命 じていた ことが分かる。その点では、 内地 も沖縄 と同様であった。 し か し、内地 においては、児童芸術雑誌 『赤 い鳥』 が1918(大正 7)年7月に創刊 され、綴方 の投 稿欄で同誌の主宰者鈴木三重吉が 「写実 と実感」 を強調す る選評 を行 うよ うになると、方言的表 現の綴方が増加 し、方言の使用が肯定 され るよ うな機運が生 まれて くる。滑川の文章は、その こ とを教えて いる。 しか し、方言 の使用 を肯定す る主張 に もい くつか流れが あった。 そ の ことを 『児童中心国語の新学習法』 の著者秋 田喜三郎は,次のように四つに分類 して示 している。64それ を 紹介 し、簡単に中身を説明す る。 1 会話の描写に方言 を許容するもの 2 地の文で も特殊の言葉は方言 を許容するもの 3 言葉の不足を方言で補はうとするもの

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全然方言の使用を本体 とするもの 1の主張は, 「若 しも会話の方言をも標準語 に改めるや うであっては、 ローカルカラーは出でず、 その人物の個性は殺 されて終ふ。故 に地 の文は標準語 に拠 るが会話は方言でそのまま描写 しなけ ればな らぬといふのである

-}5というものである。鈴木三重吉の強調す る 「描写 と実感」 に近 いち のである。 さらに言えば、実際に会話 した とお りに描写 しないな らば、それは虚偽 の表現であ り、 描写ではない。描写論か ら言えば、 当然な主張である。 2の主張は、 「用語は標準語 を本体 とす るけれ ども、会話又は其の他特殊な想を現はす言葉は、 方言 を許容 しようとす るものである。即ち標準語では十分情緒 を表現す る ことが不可能であるか ら、方言の助 を借 らうとす るものである

t姑というものである。標準語 に語費が無 く方言で しか表 現できないのな らば、 このような主張が出て くるのは当然である。標準語の不備 を補 う主張 とし て合理性があるというものである。 3の主張は、 「児童の語柔は貧弱であるか ら標準語だけでは想の表現が不十分である。故 に適切 な標準語 を有 しないものは、方言を使用 させよ うとす るものである

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というものである。 ある特 定の地域 を越えて広 く自分の考えや思 いを理解 して もらお うとすれば、全国に通用す る普通語 -標準語で綴方が書かれなければな らない と考 えるのは 自然である。 しか し、 自分の考 えや思 いを 標準語で書 けないとすれば、普段使用 している生活語 -方言で綴方が書かれるのもやむを得ない

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というものである。だか ら、 この主張は積極的に実践 され るべきものではな く、やむをえない対 応 として方言使用 を便宜的に認めるというものである。 4の主張は、 「如何なる言葉で も総て方言で差支ない、真 に自己を表現せん とす るには、 自己に 最 も親 しみのある言葉でなければな らぬ。それ には方言が最 も適 してゐる。即ち方言 を本体 とし ようとす るものである.」6柊というものである。方言が共有 されている地域の人達 を対象 として達意 の文章 を書 くのだ とすれば、方言 を本体 とした綴方 も認め られるだ ろう。 しか し、 3の主張のと ころで指摘 したよ うに、全国に通用す るよ うな達意の文章 を書 こうとするな らば、特定の地域 に しか通用 しない方言 を本体 とす る綴方は認め られないだろうo また、 自己表現 という面か ら見 る とこのよ うな主張 も認め られ るが、全国的 に通用す る達意 の文章 を求めるな らば、 この主張は排 除 され るだろう。秋 田が、 3と4の主張 について、言語教育の不足 を指摘 し、標準語 による綴方 を書かせ るべき ことを主張 しているのもそのためである6㌔ 以上、秋 田の方言使用 を肯定す る綴方の主張の分類 を手がか りにしなが らその中身について確 認 してきたが、主張の根拠は様 々である。積極的に肯定 され るべきものもあるが、 自己限定 ・地 域限定 という条件や、言語学習の不足の間だけに限定す るという条件の下で、方言使用が肯定 さ れ るよ うな もの も見 られた。 いずれ にせ よ、 ここでは内地にお いて、方言使用 を肯定す る綴方教 育 の言説や実践が展開されていた ことを確認すれば よい。 それでは次 に、方言撲滅論 と方言使用 の肯定の綴方論 の間で、大正期の沖縄 の教師達は どのよ うな綴方教育論や実践 を展開 していたの だろうか。それ を見 るために、当時の子 ども達 の書 いた綴方作品に着 日し、作品のなかで方言が 使用 されていたか どうか を確認 してみよ う。 児童雑誌 『おきなは』 (喜納緑村主宰、おきなは社、1914年3月号) を見 ると、綴方が16篇掲載 されている。 これ らの作品を確認 した ところ、 どの作品にも方言は使用されていない。 『沖縄教育』 第97号 (1914年7月) に比嘉永元の 「綴 り方教材 を読本よ り採択す る場合の実際」が掲載 され、 そのなかに二つの綴方作品が紹介 されているが、そ こにも方言 の使用は認め られない。1924(大 正13)年11月22日か ら1926(大正15)年5月まで発行 された子 ども向け新聞 『児童の産業』 (確認 できるのは16号 まで。16号が終刊号か どうかは不明。) にも子 どもの綴方作品な どが76篇ほど掲載 されているが、それ を見て も方言 の使用は認め られない。1926年3月に発行 された 『那覇地方修 学旅行記 (大湊尋常高等小学校)』 にも子 どもの綴方が

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第掲載 されているが、そ こにも方言使用 は見 られな い。 ただ一つだけ、 『沖縄教育』第132号に掲載 された 白楊生の論稿 「芸術教育」 のな かで紹介 された、無題 の綴方のみが方言 を使用 して いるだけである。その綴方は、次のような も のである

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夏 の初め子供が池 のほと りで遊んでゐました。竹 に止 まってゐるとんぼ を見つけた子供は静 かにとんぼ に近づきま した。 スウ ッと手伸ば して とんぼ に手がふれたか と思ふ と、 とんぼ はブ ルブル とはね をふるは しなが ら空たか くとんで行 きま した。 あけざい あけざい スガー リ スガ- リ 子 どもは歌ひなが らとんぼ を追ふてかけ出 しました。 ここに見 られる 「あけざい」 とは 「とんぼ」 の ことであ り、 「スガ- リ」 は 「すがれ」 のことで ある。 この無題の綴方 において、金武 の童謡が歌われた とお りにそのまま描写表現 されていたの

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である。現在大正期 の沖縄 の綴方作品のなかで方言 の使用が確認できるのは、 この綴方 だ けで あ る。 しか もこの綴方 は、実験的 に方言 の使用 を許容 されて書 いた ものではない。 だか ら、調査が 進み、大正期 の綴方作品が数多 く発掘 され るな らば、 これ以外 にも方言 を使用 した綴方 が発掘 で きる可能性がある と言 えるだ ろ う。 ともあれ、 ここでは大正期 に公表 されて いる沖縄 の綴方作 品 は、標準語だ けで書かれた綴方作 品が圧倒的であった ことをひ とまず確認 してお きた い。 それで は、そのよ うな傾向をどのよ うに考 えた らよいだろ うか。 上述 の児童雑誌 『お きなは』

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月号) に掲載 された綴方作品は、 「十二月三十 日」 (名護 太郎、首里 区大 中)、 「木馬」 (大潰信恭、八重山郡登野城尋常高等小学校、高等科一年)、 「冬之夜」 (我那覇孫寛、登野城尋常高等 小学校、高一)、 「安謝港 の演習見物 の有様」 (大嶺詮雄、邪、 尋、 校、 六年)、 「龍漕」 (座波嘉輿、 附属小学校、尋三)、 「一年 の計は元旦 に有 り」 (な にが し)、 「私 の こまちゃん」 (南 重男、 甲辰校、三年)、 「生人形」 (山 口保仁、 甲辰尋四)、 「冬 の一番」 (伊佐 真安、美里尋常高等小学校、 高一)、 「春雲 日記」 (比嘉良徳、那覇尋常高等小学校、高一)、 「宿題 をやった気」 (崎演秀功、那尋五)、 「海辺 の散歩」 (野原酒仁、 東風平尋常高等 小学校、 高二)、 「能文の三要素」 (松島朝信、登野城尋常高等小学校、高等科一年)、 「(イT> 本箱」 (橋 口秀子、登野城校、 尋五)、 「私 は机 です」 (照屋林 口、 甲辰五)、 「私 は机」 (山下静雄、登野城尋五) で ある。投稿 し てきた子 どもの住 んでいる地域 は、八重 山 と沖縄本島の二つの島である。 学校 は、沖縄師範学校 附属小学校、登野城尋常高等 小学校、 甲辰尋常高等 小学校、那覇尋常 高等 小学校、 美里尋常高等 小学校、東風平尋常高等小学校及び、学校名不明の学校二校である。 学校名不明の綴方 は、 「十二月三十 日」 と 「一年の計は元旦 に有 り」 という題名の綴方であるが、 学校か ら教師が投稿 した ものではない と考 え られ る。 教師が投稿 した ものな らば、封書 には教師 の氏名や住所が書かれて いるはず であ り、 それ を手がか りに して学校名や氏名の確認 もで きるか らである。そ のよ うに考 えて この二つの綴方 を見 る と、教師 の干渉 (指導) がな くて も標準語 で 綴方が書かれている ことが分か る。 この事実 は、綴方 は標準語 で書 くものだ とい う指導が強 くな され、その ことが 子ども達 に浸透 して いるか らだ と考 え られ る。 それ は、 明治期 の綴方教育 と標 準語教育の関係 を検討 した際 に確認 された、教師 の干渉 (指導) がなければ、子 ども達は方言混 じりの綴方 を書 くということか らも言 える ことである71。 同時 に、 この雑誌 に掲載 されて いる、沖 縄県 内の各小学校 の子 ども達 の綴方 の全てが標準語 で書かれた ものである とい う事実か らは、綴 方は標準語で書 く,方言 は使用禁止、方言的表現 を標準語 に訂正 ・書 き直す ことな どの指導 の存 在が考 え られ る。 このよ うな指導 の可能性 は、 先 に引用 した滑川道夫 の 「方言で綴方 を書 くと、 教師は標準語 に訂正 して書 き直 しを命ず るのが、 この ころ一般 的な情況で あった。 方言卑下 の傾 向があ り、子 どもたち も 『わ るい ことば』 として教 え られた時代である。」 という言葉か らも推測 され る。 この点 に関 して、読谷 山小学校 高等科一年担 当の真書屋賓重 の 「普通語 の使用 自在 な ら ず」72とい う指摘 が注 目され る。 真書屋 は、 高等科一年 の子 ども達が標準語で 自在 に綴方 を書 く力 がない ことを認めて いるか らで ある。 この間題 は、読谷 山小学校 の子 どもだ けの問題ではな い。 すで に見て きたよ うに、沖縄県師範学校 附属小学校 が ま とめた 「発音矯正法」 のなか に、県 内各 小学校で標準語 の奨励 を して いた事実が あるのである。 奨励 されなければな らない位 に、沖縄県 内の子 ども達 の標準語 の能 力の向上は課題 とな って いたので ある。 そ の ことは、決 して読谷 山小 学校だけの問題でない ことを示す ものである。そ うだ とすれば、 『お きなは』 に掲載 された綴方が 全て標準語で書かれた ものである とい う事実 を どのよ うに考 えた らよいだ ろ うか。 や は り、教師 の標準語 による訂正 ・書 き直 しの指導 の存在 を認 める しかないのではな いか。 なぜ な ら、 高等科

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一年 にもな って、子 ども達 は 自在 に標準語 で綴方が書 けな い という事実が報告 されているか らで あるO そ して、 このよ うな指導 の背景 に、方言撲滅論の立場か ら標準語励行 を徹底 させよ うとす る大勢的な動 きがある ことは言 うまで もないoそ の ことは、沖縄県教育会への 「答 申書」 の 「一、 国語教授時間中ハ勿論他教科 ノ時間二於テモ正確ナル普通語 ヲ以テ思想 ヲ発表セ シム」 とか、 「-、 中等学校 二於テモ国語 中心主義 ヲ トリ他教科二於 テモ読方綴方話方二充分 ノ注意 ヲ トル コ ト」 と かの項 目によって裏付 ける ことができるだ ろう。 次 に、 『児童の産業』 の綴方 であるが、それ らは当時 日本が支配 していた台湾 を含め沖縄県内の 各小学校か ら投稿 された ものである。 しか も、それ らは全て標準語 による綴方 であ り、方言の価 値 を認めていた岩崎卓蘭 の主宰す る児童新 聞 にそれ らが投稿 された ということは、 『お きなは』 と 同様なケースがその背景 にはあった と考 え られ る。 八重 山の大演尋常高等 小学校 の綴方 の場合 は,那覇への修学旅行 を題材 と して書かれた もので ある。 同校 の 「旅行 生JL、得及注意事項」 のなか に 「ィ.方言禁止」 とい う項 目があ り7.㌧ その こと が結果 として標準語 による綴方 しか掲載 しな いとい うことになった と思われ るOそれは、 「ィ.方 言禁止」 を学校 の方針 として いる以上、 それ と矛盾す る方言 の使用 を肯定す る ことはできなかっ た と考え られ るか らである。 比嘉永元 の指導 した綴方 の場合 は、それが掲載 された論稿 「綴 り方教材 を読本 よ り採択す る場 合 の実際」 とい う題 目が示 して いるよ うに、読本 の例文 を利用 して綴方 を書かせ る指導か ら生 ま れた ものである71。全国の子 どもが読む読本 とい う性格 上、そ の例文は標準語で書かれた ものだけ である。そ の ことの綴方教育上 の意味は、綴方 は標準語で書 くものだ とい う隠れたカ リキ ュラム を子 ども達 に押 しつ けて いる とい うことである。 比嘉 はそ の ことを意識せず に、標準語 による綴 方 を書かせて いたのである。 また比嘉 は、 「直感 と低学年 の話 し方綴 り方」 (『沖縄教育』第

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号) とい う論稿 を執筆 しているが、そ こで紹介 されて いる二つの綴方 も標準語で書かれた ものである。 ただ、 この場合は、読本 の例文 を利用 して綴方 を書かせた とい うのではな く、 「直感 に依って得た る児童 日常の生活 内よ り多 く材料 を採択 し之れ を十分整理統 一す る様 に努め話 し方練習 によって 表彰 の形式 を練習 し語柔 の応用 を的確 に し其 の興味 ある、活躍す る間 に文章 を綴 る意義 を会得せ しむ る一方法」75を実践 して綴方 を書かせ た とい うものである。 端的 に言 えば、 日常生活 のなかか ら題 を選び、話 し方 の練習 を してか ら、語秦指導 を行 い、そ の上で綴方 を書かせ る という指導 を した ということである。話 し方の練習 と語柔指導 を通 じて標準語教育が行われ,それが績方 となっ て反映す るとい う指導 である と言 えよ う。方言が綴方 のなかで使用 され る可能性は、 上述 のよ う な話 し方 の練習 と語柔指導 による標準語教育 に加 え、標準語 を奨励す る附属小学校 の状況 を考慮 すれば非常 に少な い と言 える。 そ の ことが、比嘉が紹介 した綴方 が標準語 による綴方である根拠 だ と考 え られ る。 以上、 各雑誌 に掲載 された、沖縄 の大 正期 の綴方 が圧倒的 に標準語で書かれた ものであること を見 て きたが、次 に この時期 に公表 された沖縄 の綴方 のなかで唯一方言が使用 されて いる綴方が どうして生まれたのか を見てみよ う。 そ の綴方が紹介 されたのは、 先述 したよ うに、 白楊生の 「芸術教育」 という論稿 のなかであっ た。 白楊 は、 冒頭 で 「芸術教育 (文芸教育) の提唱一 我が教育界の異鷺 であった。 本県教育界に 於 ける 自由画、童謡、童話, 自由綴 り方、童話劇等が盛 んになったの もその為であった。」76と、沖 縄県 内で芸術教育 ・自由教育が盛ん にな ってきた ことを述べている。 そ して、 「鑑賞は創作 の第一 歩である。」77という黒川延平の綴方論 に共感 を示 し、芸術教育 としての童謡 につ いて、郷土童謡の

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鑑賞の必要性を次のように訴えるのである。 「鑑賞の材料 については人によって無論違ふ筈であるが私 としては大家の創作 した童謡 を鑑賞 せ しめるの も善いが其れ と共 に郷土の童謡 を鑑賞せ しめる ことは最 も価値があるもの と思ふ。殊 に本県 の児童 に対 しては一層必要の事 と思ふ。 其 の郷土 に於 ける童謡 は其 の民族 の もつべ き最 初の芸術的な形式であるか ら感情の移入の点か らも又真 に童謡 を理解せ しめる点か らも必要であ る。」 7" こういう観点か ら、彼は郷土である金武の童謡 「あけざい あけざい (とんぼ とんぼ)/ス ガ- リ スガ- リ (すがれ すがれ)」 を子 どもに鑑賞 させたのである。その結果、方言 を使用 し た無題の綴方が生まれたのである。ただ、 この綴方 について言えば、 自然に生まれたのではな く、 そ こには少な くとも①郷土童謡の鑑賞の指導、②綴方な どの創作 において方言 を否定 しないで肯 定する指導、③描写論 を踏 まえた表現指導、な どがあって創作 された ことが指摘できる。 この場 合は、郷土童謡を歌った とお りに描写 したか ら、そ こに方言の使用が見 られたのである。描写は、 見た ものは見た とお りに、言 った ことや聞いた ことはその とお りに表現 しなければ いけないので あるQそのことを、 白楊生は子 ども達 にしっか りと教えていたのである。 このような方言肯定 ・描写論 を踏 まえた指導 は、何 も白楊生の場合 に限った ことではない。読 方科 において 「5.発音矯正 に重きを置 く」79としていた大里第一尋常高等小学校では、 自由教育 の実践 という位置づけのもとに、 「三綴方話方科」 の方針 として次のよ うな ことを示 している8。。

2.

自由選題法による自由なる綴方話方 を以て本体 とす 3. 自由表現法の体得 を主眼 とす るが故 に特 に尋常一二年生に於ては両仮名達の誤用等 は深 く 脊めず 4.基本題の着想及描写法の指導 をなす 5.方言の使用は敢えて脊めず 6.範文鑑賞 を多 くし別 に範文帳を備へ しむ 7.指導時間内に於ては主 として発表、批判、鑑賞 をなさしめ観察記述は家 に於て之 を多 くな さしむ 8.盛んに童謡を奨励す 9.盛んに観察の指導 をなす この大里第一尋常高等小学校 の 「三綴方話 し方科」 に関わ る方針 を見 る と、 読方科 にお いて 「5.発音矯正に重きを置 く」 としなが らも、 自己表現 を重視する 「自由選題法」や 「自由表現法」 を採用 し、 白楊生が実践 したよ うな方言の肯定、範文の鑑賞、描写法の指導、童謡の奨励な どが 追求 されている。 この大里第一尋常小学校で どのような綴方が創作 されているかは現在未発掘 の ために不明であるが、方言混 じりの綴方が書かれている可能性は大であろう。 なぜな ら、 自己表 現は描写や実感 を尊重す る表現であるか ら、三重吉が しているように、生活語である方言 の使用 も肯定 され るか らである。そ してその ことは、 白楊生の紹介 した無題 の綴方の例が証明 して いる と言えよう。 以上述べてきた ことを整理すれば、大正期 の沖縄 の綴方で公表 された ものは、圧倒的 に標準語 で書かれた綴方であった。そ こには、方言撲滅論 を志向 しなが ら標準語励行 を徹底 させ よ うとす る言説や実践の影響があった。具体的 には、方言 の禁止、読本の例文 を模倣 させ る綴方 の指導、

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