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プラットフォームを支えるビッグデータと公共圏

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Academic year: 2021

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Ⅰ はじめに Ⅱ ビッグデータと公共圏 Ⅲ 公共圏の形成の基礎理論――Kant と Habermas Ⅳ インターネットを通じた公共圏の自由主義的 形成 Ⅴ むすびに代えて

Ⅰ はじめに

 情報化が加速度的に進行する現代において, SNS や検索システムといったインターネット上 のプラットフォームは,市民が情報を受発信し意 見を交換する公共圏として,重要な役割を果たし ている。Twitter の「トレンド」やサーチエンジ ンのリスティング広告といったプラットフォーム の機能により表示されるのは,その瞬間の統計結 果ではなく,積み重ねられた過去の個人データを もとに個別化(パーソナライズ)された情報であ る。個別化された情報を表示するためには,ビッ グデータが不可欠である。インターネット上の言 動から個人の興味関心や傾向を判断するには,当 該個人のデータを蓄積するだけでは足りない。無 数の人々のデータの傾向分析と当該個人の蓄積デ ータを重ね合わせることで,精緻に個別化された 情報の表示がはじめて実現するのである1)。  パーソナライズされた情報が各個人に与えられ 続けることは,(その情報が商業的広告であるとし ても)公共圏にとって脅威となりうる。2014 年 にドイツ・Kassel 大学で開催された「ビッグデ ータ時代のプライバシー,公共圏,民主的意思形 成」をテーマとする情報技術形成学会(ITeG)研 究大会の成果を編んだ Richter2)は,ビッグデー タによる公共圏の断片化(Fragmentierung)現象 について,以下のように述べる。企業が共同体に 即した情報をどのように選び出すか,また如何な る基準に従って情報を提案するかは,第一には, 重要な公共の福祉に即した種々の情報の要求では なく,顧客ロイヤリティと広告収入の増大に関連 している。そこでは情報の選択は常に個別化され, 個々の利用者の偏向に向かう3)。政治的に重要な 情報も,同様に高度に個別化された消費財となる。 ここには,二つの問題がある。まず,潜在的な各 市民が異なる情報を受け取ることで,討議による (diskursive)公共圏の形成が困難となることであ る。インターネット上のアルゴリズムの助力を受 けて,各々が個別に受け手専用の情報を受け取る ため,個人はその人特有の小さな広告の泡 (Nach-richtenblase)の中に生き,広告を表示されないた め〔の条件を:筆者注〕事前に知覚することもで きず,興味があると推定されるものをただ見るし かないこと(フィルターバブル)から,この問題 が生ずる4)。もう一つは,孤立した情報の受け手 が容易に操作されてしまうことである。これは情 報の受け手にとって,どのように表示される情報 が選択されるのか,またその選択の前提は何かと いうことが,常に不透明で示されることがないこ 1) ジェイミー・バートレット(秋山勝訳)『操られる民主 主義』(草思社,2018)28 頁以下参照。

2) Philipp Richter(Hrsg.), Privatheit, Öffentlichkeit und demokratische Willensbildung in Zeiten von Big Data, 2015, S.9.

3) Philipp Richter, Big Data und demokratische

Willens-bildung aus verfassungsrechtlicher Sicht, in : Richter(Hrsg.), Fn.2, S.60 f.

4) Ibid., S.61., Vgl., Eli Pariser, The Filter Bubble, 2011. 邦 訳としてイーライ・パリサー(井口耕二訳)『フィルターバブ ル』(早川書房,2016)。山本龍彦「個人化される環境」松尾陽 編『アーキテクチャと法』(弘文堂,2017)72 頁参照。

プラットフォームを支えるビッグデータと公共圏

一橋大学大学院法学研究科特任講師(ジュニアフェロー)

小 西 葉 子

KONISHI Yoko ●公募論文●

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とから生ずる問題である5)。この問題提起から示 されるのは,ビッグデータに基づく公共圏の断片 化が個人を操作し,公共圏を基礎とする民主主義 に影響を及ぼしうるという可能性である。ここで は,情報の内容がニュースか広告かということで はなく,情報が利用者ごとに個別化されるという 仕組みそのものが問題とされる。  本稿ではこのような問題意識から,ビッグデー タと公共圏の関係について,公共圏の形成主体た る個人と民主主義に関する憲法学的視点から検討 する。検討対象としては,公共圏論の哲学的発祥 地であるドイツの議論を中心に扱い,関連する他 国の論者の主張についても一部論ずることとする。

Ⅱ ビッグデータと公共圏

 まず,ビッグデータと公共圏の関係について, ドイツの公法学者でありメディア法・通信法の研 究者でもある Boehme-Neßler6)の議論に沿って 概観する。 1  データ保護と民主主義  Boehme-Neßler は,ビッグデータが(従来推進 されてきた)データ保護の限界をもたらしている と指摘する7)。ビッグデータを支えるのは,指数 関数的に増大するインターネット上のデータ量と, ここから得られる新たな情報と知識である8)。ビ ッグデータはもともと,「果てなきデータ(Daten ohne Ende)」であるが,ここから必要なデータが 加工されて情報となり,「スマートデータ」が生 まれる9)。データから情報が生ずるという営み自 体は,人類にとって新たな挑戦というわけではな い。しかし,利用可能又は必須なデータの量が指 数関数的に増大し,そのために(場合によっては) 知識の新たな性質がもたらされうる点は,「スマ ートデータ」の特徴である。ここでは,因果関係 的関連性に従った伝統的な検索は,蓋然性と相関 性に従った検索に取って代わる。(検索の対象とな る)エクサバイト級の容量のデータは,数理統計 的な手法によってのみ取り扱うことができるもの であり,このことは我々の思考に変化をもたらす 可能性がある10)。  データ保護は,デジタル情報化社会における人 間の尊厳と人格的発展(die Menschenwürde und die Persönlichkeitsentfaltung in der digitalen Infor-mationsgesellschaft)を保障するという明確な目標 に向けられている11)。ドイツ基本法上,人間の 尊厳は同 1 条 1 項12),人格的発展は同 2 条 1 項 に規定され,1 条 1 項と結びついた 2 条 1 項が一 般的人格権(allgemeine Persönlichkeitsrecht)と 呼ばれる基本権を形成することは連邦憲法裁判所 判例により確立されている13)。そして国勢調査 判決以来,一般的人格権から発展した固有の権利 として,情報自己決定権(Recht auf informatio-nelle Selbstbestimmung)が導出されてきた14)。 「人間の尊厳」には個人がその人格を自由に発展 させることができる前提条件としての私的領域が 必要であり15),更にデジタル情報化社会におけ る人格的発展には,後述のとおり,情報通信技術 を通じて伝えられた多様な情報について自身で決 定するということも必要である16)。データ保護 はその前提となる17)。 5) Ibid., S.61. 6) Boehme-Neßler が 2008 年に教授資格論文を提出したの も,Kassel 大学であった(ITeG は 2005 年発足)。

7) Volker Boehme-Neßler, Big data und Demokratie― Warum Demokratie ohne Datenschutz nicht funktioniert, DVBl 2015, S.1282 ff., Vgl. Volker Boehme-Neßler, Die Macht der Al-gorithmen-Anmerkungen zum Einfluss von Big Data auf die Demokratie, in : Volker Boehme-Neßler, Manfred Rehbinder (Hrsg.), Big Data : Ende des Datenschutzes?, 2017, S.111 ff.

8) Ibid., S.1283. 9) Ibid. 10) Ibid. 11) Ibid. 12) 「人間の尊厳」条項は,表現の自由の規制根拠として各 国で用いられており,特に 1989 年以降の旧社会主義国家新憲 法では「表現の自由の制限としての人間の尊厳」条項が明記さ れるようになった(Thomaß Groß, Der Missbrauch der Men-schenwürde als Schranke der Meinungsfreiheit, Jahrbuch des öffentlichen Rechts der Gegenwart 66, 2018, S. 187 ff.)。ただ し近年のドイツでは,連邦憲法裁判所による具体的事例の解決 に際し,人間の尊厳条項である基本法 1 条 1 項 1 文の助力を得 ることはなくなってきていると Groß は分析する(Ibid., S.203 f.)。 13) 上村都「ドイツにおける人格権の基本構造」岩手大学 文化論叢 7・8 号(2009)93 頁。

14) BVerfGE 65,1, Urteil des Ersten Senats v. 15. 12. 1983. 15) Boehme-Neßler, Fn.7, 2015, S.1284.

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 Boehme-Neßler は,ポストプライバシー時代 ともいえる現代においても私的領域は人間にとっ て不可欠なものであり,法的保護を必要とすると 述べる。その上で,社会学的・心理学的観点を踏 まえ18),データ保護と民主主義の関係について 以下のとおり論ずる。(私的領域と緊密に関係する) データ保護は,個人とその生活形成にとって大き な意味をもつだけではなく,社会と自由な民主主 義に強い影響を有する。ここでは民主主義とは, 競 争(Konkurrenz)と 参 加(Partizipation)に よ り刻印づけられる「思想の競技会 (Ideenwettbe-werb)」として描かれる19)。この公に実施される 競技会を通じて,競合する思想の長所と短所,解 決の手がかりが明瞭となり,詳細に議論され,個 別に分析される20)。「思想の競技会」は,最適化 (Optimierung)と正当化(Legitimation)を目的と するモデルである。公の議論により質的にベスト な解答を浮き彫りにする(最適化)とともに,全 ての市民が参加可能な競技会において詳細且つ対 立的に議論された結果として,ある思想が承認さ れる(正当化)21)。  機能的な民主主義は強固な制度と効果的なプロ セスを必要とし,(これが)政治的な「思想の競 技会」への全市民の参加を可能とするが,憲法上 保障された制度と手続が全てではなく,文化的な 前提,とりわけ民主的な意識を持った市民を必要 とする22)。多くの対立的な異なる思想及び意見 (そしてそこから生まれる政治的議論)は,民主的 な「思想の競技会」が機能するために必要である が,多数派への迎合(Konformität)という人間の 心理学的傾向が活気ある民主主義にとって問題と なると指摘し23),そのような状態に陥らないた めには十分な人格的自律性(persönliche Autono-mie)を有していなければならないとする24)。民 主主義における市民の決定的要素は,(人格的) 自律性なのである。この人格的自律性は,生物学 的・文化的・社会的要素の相互作用の中で,複雑 な心理社会的発展過程を経て生じる25)。この発 展過程における自律的な思考と行為にとって必須 となる心理学的観点における前提条件は,プライ バシーとデータ保護である。保護された私的領域 は,自分自身の矛盾した願望とセルフイメージに ついて熟考すること,そしてその生にふさわしい 決断をすることを可能とする26)。 2  民主主義と人間像  Boehme-Neßler は,我が国において主に表現 の自由との関係で語られてきた人格の自律的発展 と民主主義という展開を,データ保護との関係で 語っている。「情報伝達行為は多かれ少なかれ情 報収集活動に依拠するから,『表現の自由』は 『情報収集の自由・権利』(中略)を包摂するもの と解される」とした日本の憲法学者・佐藤幸治の 見解27)とは異なり,表現行為から独立したデー タ取扱いについて民主主義の観点から論じている 点が特徴的である。  インターネットと民主主義について積極的に議 論し続けてきたアメリカの憲法学者・Sunstein は,オンラインによる集団分極化28)や,分極化 の結果として生じるサイバー・カスケード(多く の人がそう信じているようだという理由だけで,特 定の事実とされる話や見解が広まる情報交換のプロ セス)による社会の断片化がソーシャルメディア によって生じていることを,行動経済学的手法を 用いて認定しながら29),それが民主主義にとっ て常に悪とはいえないと解する。パブリックフォ ーラム論の根拠の一つ,そして民主主義の重要な 要素として,人々が「予期せぬ出会い」も「望ま

16) Ibid. Vgl., Alexander Roßnagel/Peter Wedde/Volker Hammer/Ulrich Pordesch, Digitalisierung der Grundrechte?, 1990, S.233 f. 17) イギリスの議論を参照に両者の違いについて言及する 林紘一郎「『個人データ保護』の法益と方法の再検討:実体論 から関係論へ」情報通信学会誌 31 巻 2 号(2013)81 頁以下参 照。 18) Boehme-Neßler, Fn.7, 2015, S.1284 f. 19) Ibid., S.1286. 20) Ibid. 21) Ibid. 22) Ibid. 23) Ibid. 24) Ibid., S.1287. 25) Ibid. 26) Ibid. 27) 佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂,2011)249 頁。 28) キャス・サンスティーン(伊達尚美訳)『# リパブリッ ク』(勁草書房,2018)103 頁以下。

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ぬ出会い」も含んだ多様な話題や意見を見聞きす ることを想定する Sunstein にとっては30),特定 の意見しか聞かない人々が社会にあふれることで, 「既存の意見を定着させ,嘘を広め,過激思想を 助長し,共通の問題で力を合わせにくくなる」と いう社会全体にとっての危険が生ずることが最も 危惧される事態である31)。  熟議民主主義を主張する Sunstein が指摘した このようなインターネットと民主主義の課題は, Boehme-Neßler の描く「思想の競技会」モデル の想定と類似した人間像を前提としており,更に はビッグデータを用いた現代のインターネット社 会の特性の一部が,このような人間像を実際に毀 損する可能性があることを示唆している。すなわ ち,両者が想定する民主的な人間(多様な意見を 見聞きする人格的に自律した人間)が,ビッグデー タを通じた選好的な情報への遭遇の斡旋によって, 自分と同じ意見しか見聞きしない人間となってし まうという可能性である。  ビッグデータを用いたインターネット上のプラ ットフォームを通じて形成される公共圏が,多様 な意見を聞く機会を,技術的アルゴリズムを用い て排除することを可能としたことは事実である。 この事実が民主的な市民の形成を毀損しうる,と いう上述の両者による指摘について筆者なりに考 えてみると,一方では技術的な課題が公共圏の形 成に深刻な影響を与えているようにも思われるも のの,他方ではそのような市民は元よりフィクシ ョ ン で あ っ た の で は な い か と も 思 わ れ る。 Boehme-Neßler や Sunstein は,心理学的観点や 行動経済学的観点を踏まえて民主的な市民の毀損 可能性について語るが,ビッグデータ登場以前に は彼らが想定するような「多様な意見を見聞きす る市民」のみによって公共圏が形成されてきたの だろうか。ビッグデータの登場により,公共圏の 形成主体はどのように変化したと解するべきなの だろうか。

Ⅲ 公共圏の形成の基礎理論

――Kant と Habermas  この疑問に対する応答を試みるべく,公共圏を 形成する主体の哲学的理解を分析してみたい。現 代の公共圏に関する議論の基礎をなすのは,この 後 に 論 ず る Habermas の 公 共 圏 概 念 で あ る。 Habermas によれば,公共圏(Öffentlichkeit)と は,公的(öffentlich)という形容詞をもとに,英 語及びフランス語における publicity / publicité を模して 18 世紀につくられた概念である32)。社 会学者である梅津顕一郎はこれを,「主としてヨ ーロッパ系の哲学者,批評家が用いる概念で,元 来は人間の生活圏における,他者や社会と関わり 合いを持つ時間や空間のことを指」し,「近代以 後の社会においては,公共圏における対話的コミ ュニケーションを通じ,公共の物事に関するまと まった意見(世論)が形成されることを,民主主 義社会の理想形とする考え方が,広く正統性をも つものとして受け入れられている」とする33)。  一方,公共圏を形成する表現行為とその行為主 体の位置づけについては,Habermas 以前に, Kant が具体的な議論を展開している。そのこと は Habermas 自身,「市民的公共圏の理念」が Kant の「公開性の原理」の展開により「理論的 に完熟した形態を得た」としていることからも読 み取ることができる34)。本稿では,公共圏の形 成主体について考えるにあたり,まず Kant の理 解を確認していきたい。 29) 同上,78 頁,133 頁以下。カスケード現象について, Cass R. Sunstein, Democracy and the Internet, in : Jeroen van den Hoven, John Weckert(ed.), Information Technology and Moral Philosophy, 2008, pp.103 も参照。 30) 同上,49 頁以下。キャス・サンスティーン(石川幸憲 訳)『インターネットは民主主義の敵か』(毎日新聞社,2003) 8 頁は,「民主制度は,広範な共通体験と多様な話題や考え方 への思いがけない接触を必要とする」とする主張に明確に賛意 を表す。松尾陽「集団分極化と民主的憲法論の課題」近畿大学 法学 59 巻 4 号(2012)51 頁以下参照。 31) サンスティーン・前掲注 28)182 頁。 32) ユルゲン・ハーバーマス(細谷貞雄=山田正行訳)『公 共性の構造転換〔第 2 版〕』(未来社,1994)12 頁以下。 33) 梅津顕一郎「情報公共圏と現代日本――『ポストモダ ン』時代の市民意識を考える」前納弘武=岩佐淳一=内田康人 編著『変わりゆくコミュニケーション 薄れゆくコミュニティ』 (ミネルヴァ書房,2012)268 頁。 34) ハーバーマス・前掲注 32)143 頁。

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1  Kant

 Kant は言論の自由(Freiheit der Feder)につ いて,このように述べる。「国家市民には,元首 が思いのままにおこなうことがらのうち公共体に 対する不正であると思われるものについて自分の 考えを公表する権限が,当然のこととして,しか も元首自身からの恩恵として,与えられるのでな ければならない。というのも,もしも元首は考え ちがいをすることも事情に無知であることも全く ありえないなどと想定するとしたら,元首は神的 な霊感に恵まれ人間性を超越した存在だとみなし ていることになるだろうからである。それゆえ, 言論の自由は,国民の権利の唯一の守護神である ―ただし,われわれは体制の中に生きているので あって,言論の自由は,臣民のリベラルな考え方 (これもまた体制が臣民に注ぎ込むものなのだが) によって,その体制に対する尊重と愛という限界 を超えることはない(そして,言論自身もまた, その自由を失うことがないように,互いにその限 界のなかへと自ら制限する)―。」と35)。Kant の 描く言論の自由は,法律との関係では,「法律に 効力を与える国家権力は,反抗を許さない(抵抗 の余地がない)」ことと結びつく36)。すなわち, 「いかなる公共体においても,(全体におよぶ)強 制法にしたがって国家体制の機構へ服従するとい うことがなければならないが,しかし同時に自由 の精神が存在するのでなければならない。なぜな ら,各人は,自己矛盾に陥らないためには,人間 の普遍的義務に関して,この強制が正当であると いうことを理性によって確信しているのでなけれ ばならないから。自由の精神のない服従は,秘密 結社を誘発する原因となる」のである37)。  Kant が治世者の不正の可能性を認め,これを 正す手段としての言論の自由を掲げることは,第 一次的には,Hobbes がこれを一切認めないこと に対する反論として位置付けられる38)。その本 質的な意義は,思想史学者・斎藤拓也が指摘する ように,「カントにとって国家の成立は最終的な 目的ではなく,いかにして統治と法的秩序をより よいものにし,その中で人間がよりよく生きうる 社会を作り上げるか」に眼目を置いているという 点に求められる39)。Kant は,言論の自由の保障 を強く主張することと同時に,体制を転覆させる 抵抗権や革命権を全面的に否定しているが,1780 年代後半から 1790 年代前半にかけてのドイツの 歴史的背景に鑑みれば,むしろ言論の自由を保障 すること(ひいては,治世者の不正や誤謬の可能性 に言及すること)のほうが革新的であったことは 言うまでもない。宮沢俊義は,「独裁制を基礎づ ける政治観は絶対的な権威者をみとめるそれであ り,民主制を基礎づけるものは絶対的な権威者を みとめぬそれである」として,このような権威者 を「信仰の基礎」の上にのみ立つものと述べ40), また Schmidt は「国家の『全能』という言い回 しは,事実しばしば神の全能という神学的定式の 浅薄な世俗化にすぎない」と述べるが41),治世 者を論駁するための言論の自由は,まさにこの信 仰を突き崩すものである(実際に Kant は,共和制 を論じている)。ただし,公共圏の形成主体につい て考えることを目的としている本稿からは, Kant が言論の自由を「国民の権利の唯一の守護 神」とした直後に,その源泉となる「臣民のリベ ラルな考え方」を「体制が臣民に注ぎ込むもの」 としている点も注目される42)。 35) イマニュエル・カント(北尾宏之訳)「理論と実践」 『カント全集 14 歴史哲学論集』(岩波書店,2000)208 頁以下。 36) 同上,201 頁。 37) 同上,210 頁。 38) トマス・ホッブズ(本田裕志訳)『市民論』(京都大学 学術出版会,2008)166 頁。ただし Hobbes は,最高命令権を 手に入れた者が「市民たちに対していかなる不法も行うことは ありえない」としつつ,「たとえば残忍や不公平や侮辱その他 の」「悪徳のような,多くの仕方によって,他の自然法に違反 することはありうる」と述べ,しかも君主制の国家意思が君主 の自然意思の発現であることから,「もし君主が何か自然法に 反することを決定したならば,罪を犯しているのは君主自身で ある」としている。 39) 斎藤拓也『カントにおける倫理と政治』(晃洋書房, 2019)138 頁。 40) 宮沢俊義「民主制より独裁政へ」宮沢俊義『転回期の 政治』(岩波書店,2017)18 頁以下[初出,中央公論 1933 年 9 月号]。 41) カール・シュミット(菅野喜八郎訳)「政治的なるもの の概念」長尾龍一編『カール・シュミット著作集 1 1922-1934』(慈学社出版,2007)267 頁。 42) 斎藤・前掲注 39)141 頁以下,322 頁参照。

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2  Habermas  Kant の理解を踏まえて Habermas が想定する のは,私的領域と公権力の領域の間に存在する公 共圏の存在である(なお Habermas の公共圏理解は, のちに『公共性の構造転換〔新版〕』で追加された序 言において公共圏の「多元性と多様性」に対する明 確な認識を表しており43),これが公共圏の議論の起 爆剤となってきたわけだが44),ここでは『公共性の 構造転換』本文における公共圏形成主体の歴史的遷 移の理解についてのみ概観する)。民間人により形 成される公共圏は,本来的に私的領域に属す る45)。Habermas によれば,18 世紀における公 共圏は,私的領域としての「小家族的内部空間」 と公権力の領域としての「宮廷」の間に存在する 「文芸的公共圏」,私的領域としての「市民社会」 と公権力の領域としての「国家」の間に存在する 「政治的公共圏」に区分される46)。サロンや会食 クラブにおける「私人たちの間の持続的討論」の 組織化47)を通じて形成されてきた「文芸的公共 圏」と,法律規範に実証される48)「政治的公共 圏」は相互に連関している49)。「文芸的公共圏」 における人間形成(Humanität)50)は,「政治的公 共圏」に「実効性をもたせる媒介」となってい た51)。一方,「文芸的公共圏」の基礎となる家族 (親密圏)は,一見独立しているが,「政治的公共 圏」を支える市場(私有圏)の要求に深く巻き込 まれ,依存してきた52)。  その後,マスメディアの台頭により「文化を論 議する公衆から文化を消費する公衆」へと公衆の 在り方が変化する過程で,両者の均衡は損なわれ, 「文芸的公共圏」は「その固有の性格を喪失し た」53)。マスメディアは「統合同化」を求めるの みならず,その内部に現体制の「広告」としての 機能を内包する54)。そこにあるのは,「社会学的 にも法律学的にも公私のカテゴリーには包摂しき れない特殊な,再政治化された社会圏」であ る55)。この社会圏においては,「私生活圏の自立 性」が失われることで,公的討論が法規範の「普 遍性と真理性という二つの契機(正義=正論)」 を形成することが最早不可能となり,「国家と社 会の分離が克服されて,国家が計画,分配,管理 という形で社会運営の中へ干渉してくるので,規 範の普遍性を原理として守りぬくこと」はできな い状況に陥っている,というのが Habermas の 分析である(Habermas はこのような状況から脱す るため,周知のとおりコミュニケーションに関する 行為を統制する理論を提唱するが,本稿では公共圏 の形成主体に議論を限定する)。すなわち,「商業的 に拡張された公共圏は,もはやかつてのような政 治的批判の場としては機能しない」56)。  Habermas にとって理想的な公共圏は,「自由 意志,愛の共同体,教養」という三つの契機から なる人間形成(Humanität)を前提として,市場 から解放された討論により法規範の普遍性と真理 性を担保しており,私的空間の重厚さに始原を持 つ「政治的公共圏」として,行政の正統性,公的 な政治システムとは異なるアプローチで民主的な 意見形成・意思形成に関与する57)。国家の介入 は,この普遍性を原理的に崩壊させる。ここでは このような Habermas の理解の特徴について, 政治学者・齋藤純一の整理を参照したい。齋藤に よれば,「政治システムと異なった政治的公共圏 の特徴」は,①「政治的に扱われるべき諸問題を 敏感に察知し,それらを公共の議論における主題 43) 山本啓「訳者あとがき」クレイグ・キャルホーン編 (山本啓=新田滋訳)『ハーバマスと公共圏』(未来社,1999) 342 頁以下。 44) 森英樹「憲法と公共・公共性・公共圏」森英樹編『市 民的公共圏形成の可能性』(日本評論社,2003)3 頁参照。 45) ハーバーマス・前掲注 32)49 頁。 46) 同上。 47) 同上,56 頁。 48) 同上,76 頁。 49) 同上,72 頁以下。 50) 同上,67 頁,216 頁。 51) 同上,77 頁。 52) 同上,67 頁,76 頁。 53) 同上,231 頁。 54) 同上。 55) 同上,232 頁。 56) 阿部潔『公共圏とコミュニケーション』(ミネルヴァ書 房,1998)73 頁。 な お 同 80 頁 が 的 確 に 指 摘 す る よ う に, Habermas は「近代的マス・メディアの機能を全面的な支配や 管理としてではなく,支配と解放の両側面を含むものとして位 置づけることを可能にしている」。 57) ユルゲン・ハーバーマス(河上倫逸=耳野健二訳)『事 実性と妥当性(下)』(未来社,2003)29 頁以下。

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として争点化していく」こと,②「意思決定を求 める圧力を免れている」こと,③「正統ではない 権力の自立化を阻止する,民主的統制の最後の拠 り所」であること,以上三点がその特徴であ る58)。  本稿の問題関心からは,これらの特徴が,政治 的公共圏が強制的な力の制約を受けずに“開かれ ていること”により基礎づけられるということを 強調したい。すなわち,政治的公共圏に対して特 定の力がかけられることで,公共圏に歪みが生ず る事態は,許容されないということである。これ は,公共圏の自由主義的側面を表している特徴で ある。  日本の憲法学においては,佐藤幸治がプライバ シー権について論ずる際,類似する理解に基づい た権利論を展開してきた。佐藤は憲法 13 条から 導かれるプライバシー権を「人間にとって最も基 本的な,愛,友情および信頼の関係にとって不可 欠の環境の充足という意味で,まさしく『幸福追 求権』の一部を構成するにふさわしい」とす る59)。佐藤のプライバシー権論の背景には,「自 然法論には端的には与しえず,といって,今日多 くの国では『人間性』とか『人間の尊厳』とかに よって根拠づけることで充分だと考えているから といった論法にも満足できないものを感じ」ると いう問題関心がある60)。この問題関心に対する 応答として,佐藤は自説の位置づけを以下のとお り明らかにする。「『人権』の主体として奥平教授 は『一人前の人間』,樋口教授は『強い個人』を 想定されるのに対して,私は,十全の自律性ない し理性的判断能力を備えたそうした個人を基本に 据えながらも,自律性獲得・維持の過程も射程に 入れて『人権』を捉えるべき」と考える,と61)。 この人間像は,「超越的権力者が被支配者に恩恵 的に与える権利というような場合はともかく,主 権者=憲法制定権力者たる国民が,それぞれ独自 の自律的存在たる個人として相互に尊重し合い共 生できる社会を作ろうとする場合,人間や社会の あり方に関する基本的な見方・考え方を構成し, それに従って基本的な権利を導き出し,それを法 的に保障する」という構造を前提としている62)。  佐藤の見解を媒介に,憲法上の権利論の言語に よって Habermas の論旨を言い換えてみると興 味深いことに気づく。“プライバシー権の内実を 形成する実体は,公共圏における政治的表現の自 由を下支えするものであったが,国家の介入がこ の関係を崩壊させる”と言い換えることができる のである。このことは,独立した権利として論じ られる表現の自由(憲法 21 条 1 項)とプライバシ ー権(憲法 13 条)が,公共圏の形成に対する国家 の介入という視点で見ると,一体的な法的利益を 形成するといえるのではないか,という仮説を導 く。 こ の 仮 説 は, 既 に 本 稿 で 扱 っ た Boehme-Neßler の論理展開と同様の帰結を示唆する。デ ータ保護がプライバシーの保護をその主観的実体 として伴うことを思えば当然の帰結であるが,公 共圏との関係におけるビッグデータの課題が,従 来から憲法学で意識されてきた問題意識に通底す ることは,重要な意味があるように思われる。  もう一点,公共圏の形成主体について考える上 で重要と思われる内容を指摘しておきたい。佐藤 の見解は,憲法学者・樋口陽一が「『人』権主体 としての『個人』」とは「ほんとうに強い個人で よいのか」と問うた「反・近代の主張」63)に対す る構造的一回答であるといえる。樋口は,現代的 課題との関係で先鋭化するこの問題が,「実は, 『人』権を支える『近代』の論理のなかに,はじ めから,二つの要素の緊張関係として内在してい た」とし,「人」権の形式と内容の間の緊張関係 について指摘する64)。 58) 齋藤純一「ハーバーマス」小野紀明=川崎修編集代表 『岩波講座 政治哲学 5 理性の両義性』(岩波書店,2014)190 頁以下。 59) 佐藤幸治『憲法〔第 3 版〕』(青林書院,1995)454 頁。 60) 佐藤幸治『日本国憲法と「法の支配」』(有斐閣,2002) 157 頁。 61) 同上,159 頁以下。 62) 同上,158 頁。川岸令和「プライバシー権とは何のた めの権利なのか」阪口正二郎編『自由への問い 3 公共性』(岩 波書店,2010)105 頁は,プライバシーについて,「個人がど のように社会的に生存していくのかという構想と密接に関連し ている。その意味で本来的に公共的な事柄を前提としている」 と述べる。 63) 樋口陽一『国法学〔補訂版〕』(有斐閣,2007)54 頁以 下。 64) 同上,61 頁以下。

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 樋口にとって,この問いに応答するために重要 となるのは「強い個人」ないし「強者であろうと する弱者」という擬制(フィクション)である。 これは,社会契約論のそれと同視される。あくま でも社会的フィクションなのだが,それは「弱者 が弱者のままでは,それによって担われる『権 利』は,恩恵的,慈恵的な性格にとどまる」こと を認め,(実際に権利を主張する必要に迫られる者が 弱い個人であるにも関わらず)「強い個人」により 権利が獲得されたと解することで「権利のための 闘争」の素地をつくるためのものなのである65)。 この考えは,実に明瞭である。これと比較すると 佐藤の見解は,「強い個人」の擬制を排しないま ま,(現実に)自律性を獲得・維持する過程とい う事実上の段階を含んでいる66)。同様の構造は, 前述した Boehme-Neßler や Sunstein の主張にも 見られる。フィクションとしての個人と実際の人 間像の混載は,公共圏の形成主体の議論を混乱さ せ不正確な結論を招きかねないため,どの段階の 議論をしているか意識することは重要である。

Ⅳ インターネットを通じた公共圏の自由

主義的形成

1  ビッグデータに支えられたインターネット上 のプラットフォームと公共圏  Kant と Habermas の公共圏の形成主体の描写 に対して,ビッグデータに支えられたインターネ ット上のプラットフォームを重要な要素とする現 代の公共圏の形成主体は,どのように変化したと 解するべきであろうか。  フランスの社会学者・Cardon は,元々インタ ーネットの「唯一の意思とは,ネットの接続性を 高めること」にあり,ソフトウェアによる技術的 イノベーションという「頭脳は,インターネット の中枢ではなく,『末端』に配置され」ていたと 分析する67)。中枢機構がないインターネットは, 「中立な基盤」であるがゆえに,自由であるとと もに「管理が難しい」68)。国籍を超えた「知識の 解放」と,匿名性に基づく「人々の解放」という, インターネット黎明期に描かれた「現実世界との 分離」69)は,「流動性が高く開放的で寛容な交流 によって,世界が再統合されることを夢見」た理 想であったが,大衆化された現在のインターネッ ト世界は「社会的,地理的,文化的に同じ特徴を もつ個人の集結したコミュニティ」の再構築にす ぎないものとさえ評価される70)。  「民主主義の強力なツール」として期待された インターネットは,結果として「市場の戦略と利 益の中核に位置する」存在とはなったものの71), 民主主義の革新の担い手となっているかは疑問で ある。社会学者の佐藤俊樹は,インターネットに 期待された民主主義の実現という機能について, 「情報技術と民主主義は半デ ィ オ ス ク ロ イ身の双子なのだろうか, それとも現代という手術台で出会ったミシンと蝙 蝠傘なのだろうか」との命題を提起した上で,民 主主義は「一般成員が自分たちのことについて決 定する」「自己決定(autonomy)」としての側面 と,「一般成員の意見や感情を最大限反映させて 決定する」「声の表出(expression)」としての側 面を併せ持つものとの理解を示す72)。この理解 は,Cardon のように「インターネットによって, 人々の期待を知ることができるように」なり, 「そのような人々の期待が,どのような民主主義 を望んでいるのかを描き出」すことができるとす る考え方73)に懐疑的なものと位置づけられる。 65) 同上,68 頁以下。 66) 中島茂樹「憲法における人間像」立命館法学 333・334 号(2010)3389 頁は,樋口と佐藤の描く人間像が同じく「現 実的・具体的な人間の姿やその諸特徴をはぎとって,人間の理 性や人格的自律に焦点を据えた抽象的な法主体として構成され た」フィクションであると解するが,前述のとおり,佐藤が意 識的に奥平・樋口と異なる人間像を選択していることには,完 全なるフィクションとしての人間像への葛藤が現れているよう に筆者には思われる。 67) ドミニク・カルドン(林香里=林昌宏訳)『インターネ ット・デモクラシー』(トランスビュー,2012)24 頁。 68) 同上。

69) 同上,38 頁。A Declaration of the Independence of Cyberspace, Davos, Switzerland, February 8, 1996 参照(https:// www.weforum.org/agenda/2018/02/a-declaration-of-the-independence-of-cyberspace/,2020 年 9 月 30 日最終閲覧)。 70) 同上,47 頁。 71) 同上,155 頁以下。 72) 佐藤俊樹「制度と技術と民主主義」佐藤卓己編『岩波 講座 現代 第 9 巻 デジタル情報社会の未来』(岩波書店, 2016)17 頁以下。 73) カルドン・前掲注 67)17 頁。

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なぜなら,情報技術が「自己決定」としての民主 主義と「声の表出」としての民主主義の「結びつ け方に新たな自由度をあたえる」との理解からイ ンターネットの構造と公共圏形成に対してアプロ ーチし,「理想の『熟議』も『データベース』も もたない」両者の「再分離という可能性にどう対 処するか」という「現代の社会科学が答えるべき, 本当の問い」を炙り出そうとするからである74)。  このような懐疑を前提とすると,「国民の自己 支配ないしは治者と被治者の同一性という直接民 主制的な構想が,実際にはデマゴーグ的な指導者 による支配を隠蔽するイデオロギーとして機能す る危険を免れないとすれば,憲法論にとって重要 なのは,他者による支配が不可避であるという冷 徹な現実認識に立脚した民主制の理論を打ち立て ること」とする憲法学者・林知更の警鐘は,本稿 の問題意識においても極めて重要な意義を有す る75)。すなわちインターネットを重要な構成要 素とする公共圏においては,その自由なユートピ アとしての側面を誇張することと民主主義にとっ てのリスクとしての側面を誇張することは同じく らい危険であり,公共圏の理想とは区別された他 者による支配を避けることはできないという現実 を,正面から認識すべきではないかと思われるの である。 2  C.Schmidt の公共圏論とインターネット  以上の議論を踏まえ,インターネットを重要な 構成要素とする公共圏について,敢えてインター ネット出現以前のドイツ国法学者である Schmidt の主張を参照しつつ検討してみたい。その意図は, インターネットを重要な構成要素とする現代的公 共圏の淵源が,インターネット出現以前の時代の どこにあるのか,考えを深める点にある。  自由主義と民主主義との不可分な結合を正面か ら否定した Schmidt にとって,民主主義は「実質 的平等」と「同質性」を前提として成立するもので あった。多元的な社会を前提とする Habermas は,これをエスノナショナリズムの是認となると して批判しており76),「シュミット学派のように 自由主義的な法治国家のドグマに固執するのは, 社会的諸関係の変化を正しく評価していない」と 述べるが77),まずは「同質性」とは何を指すの かを確認したい。  Schmidt は,「社会学的および心理学的に異質」 の「大衆」が,抽象的にのみ「国民」と呼ばれて いることを指摘する78)。そこで「国民」は,「多 数決で敗れた少数派の意思は実は多数派の意思と 同質なのだという,―やがて明らかになるような ―本質的に民主主義的な論拠」に支えられる。し かし,この同質性は「手にとらえることのできる 現実ではなくて,同質性の承認」,すなわち「同 一視」でしかない79)。このような民主主義の思 想は,議会主義の思想の正当化と関連して語られ がちだが,例えば「国民の名においてただ一人の 信任を得た人」が議会に代替することができると き,民主主義は放棄されぬまま議会主義を放棄す ることができるし,議会の特色を「公の討論」に 求めるのであれば,それは民主主義の要請ではな いと Schmidt は指摘する80)。その理解によれば, 自由主義は(民主主義ではなく)「理性の断片の担 い手が議会に存在する」ことと直接に関係す る81)。すなわち,自由主義が前提とする「自由 競争と予定調和」は,公の市場だけでなく,公の 討論にも当てはまるのである82)。「自由主義の体 系において討論の占める中心的な地位が正しく認 識 さ れ る と き 」 に の み,「 政 治 生 活 の 公 共 圏 (Öffentlichkeit)の要請と権力分立の要求」は正し さを獲得する83) 。そこでは,「公の意見(öffentli-che Meinung)よりも意見の公共圏(Öffentlich-keit der Meinung)が重要」である84)。公共圏は, 政治と外交の秘密性の排除という政治腐敗への 74) 佐藤・前掲注 72)21 頁。 75) 林知更「政治過程における自由と公共」阪口編・前掲 注 62)145 頁。 76) ユルゲン・ハーバーマス(高野昌行訳)『他者の受容』 (法政大学出版局,2004)159 頁,大竹弘二「シュミット」小 野紀明=川崎修編集代表『岩波講座 政治哲学 4 国家と社会』 (岩波書店,2014)180 頁参照。 77) ハーバーマス・前掲注 32)xvii 頁。 78) カール・シュミット(樋口陽一訳)「現代議会主義の精 神史的状況」長尾編・前掲注 41)61 頁以下。 79) 同上,63 頁。 80) 同上,69 頁以下。 81) 同上,70 頁。 82) 同上。

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「万能薬」として「絶対的に実効的な抑制手段」 として機能する 18 世紀の啓蒙主義の産物であ る85)。この意味でも,自由主義がもたらす公共 圏と,民主主義がもたらす少数者の否定は,対立 的である86)。  ここで Schmidt が想定する公共圏は,国民を 討議から排除する議会主義を前提としたものであ る点には注意が必要であり,「討論の結果生まれ る力への信頼が失われたとき,公共では指導者へ の『喝采』が現れ,非同一的なものへの排除が始 まる」状況87)を Schmidt の理論が支えたことに よる歴史的実証の悲惨さを看過することはできな い。ただ本稿の立場から興味深く思われるのは, Schmidt が公の意見そのものよりも公共圏を重視 する理由として,市場原理とのアナロジーが用い られている点である。上述した Habermas の見 解88)や日本における一般的な公共圏理解からす ると,自由主義の構成要素としての公共圏という 理解は逆説的ともいえる。しかし,「同質性」が 自由主義や議会主義に内在せず,民主主義にのみ 存在するフィクションであるとする理解に限って 見れば,空間としての公共圏を中立的に捉えるこ とに成功しているとも思われるのである。この理 解によれば前述した Boehme-Neßler や Sunstein が設定した「多様な意見を見聞きする市民」は, 民主主義にのみ存在する「同質性」のフィクショ ンであると解される。そうであるとすれば,ビッ グデータに支えられたインターネット上のプラッ トフォーム普及の帰結として「多様な意見を見聞 きする市民」と対立する像が描写されることの意 義は,少なくとも民主主義との関係では失われる。 理想とすべき像そのものがフィクションである以 上,現実の事象を科学的に解明しようとする心理 学的分析や行動経済学的分析に基づいて描かれた 市民像が理想と対立するものであっても,なんの 不思議もないからである。  Schmidt の「同質性」理解をもとに,インター ネット上のプラットフォームにおける公共圏につ いて考えると,インターネット出現以前の公共圏 と比較して,「自由競争と予定調和」という市場 原理がより強く機能していると評価することがで きる。マスメディアが公共圏を支配していた時代, あるいはその前史となるジャーナリズムが生まれ た時代には,公共圏において叫ばれる意見は多く の人の手を介して検証された見解が主であり,自 由競争には主体や時間の観点で(国家による規制 に留まらない)一定の制限がかけられていたが, 現代では共通のプラットフォームを通じ,“誰で も即座に自分の意見を発信できる”し,更にはそ の意見が市場原理により形成されるビッグデータ を経由して公共圏に還元されうるからである。  ではこの理解は,本稿が扱ってきたビッグデー タと公共圏に関する議論に,どのような影響をも たらすのだろうか。この理解によれば,市場原理 に従ったビッグデータの運用の上では,民主主義 的観点を含んだ理想的な「思想の競技会」モデル は存在せず,多様な意見を見聞きすることのない 市民が多数を占めた断片化したコミュニティしか 存在しないかもしれない。ただ我々は,インター ネット上のプラットフォームにアクセスすること により,“誰でも即座に自分の意見を発信できる” 公の手段(単独・即時の発信可能性)を手に入れた, ということだけは明らかである。名もなき市民が (束になってかかるのではなく)一人で声をあげる ことができるようになったということは,「自由 競争と予定調和」にとって革命的である。そして 単独・即時の発信可能性という要素は,プラット フォームにアクセスするという技術的要件の充足 さえあれば発生するものであるから,実際の人間 像の理解ではなく,フィクションとしての公共圏 83) 同上,74 頁(なお後述のとおり,樋口は Öffentlich-keit を「公開性」と訳すが,本稿では試験的に「公共圏」と改 訳する。ただし毛利透『表現の自由』(岩波書店,2008)6 頁 が指摘するとおり,Schmidt と Habermas の Öffentlichkeit の 意味は異なるところ,この異同については別稿で論じる。)。 84) 同上。 85) 同上,76 頁。 86) 同上。 87) 毛利透「国家意思形成の諸像と憲法理論」樋口陽一編 著『講座・憲法学(1)憲法と憲法学』(日本評論社,1995)66 頁。 88) 本多幸子「公共圏論の歴史的展開に関する一考察」同 志社政策科学研究 13 巻 2 号(2012)86 頁が指摘するとおり, Habermas は公共圏形成における自由競争の役割を認識しつつ, これを冷笑的に評価している。

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の形成主体の特徴として付加された要素であると いえよう。

Ⅴ むすびに代えて

 本稿の目的は,インターネット上のプラットフ ォームを支えるビッグデータと公共圏の関係を検 証することであった。そこで本稿は,データ保護 と公共圏に関する議論を契機として,「民主主義 に参画する公共圏の形成主体が,ビッグデータの 登場によりどのように変化したと解するべきか」 という問いを検証するため,公共圏形成に関する ドイツの議論を辿った。  本稿の議論を踏まえると,Boehme-Neßler や Sunstein が期待する熟議のフォーマットの提供 を,インターネットを重要な構成要素とする公共 圏に要求することは困難である,と筆者は考える。 なぜなら,単独・即時の発信可能性を担保する現 代のインターネットの価値は,多様な情報が多く の人に開かれていること(開放性)にあり,その 開放性を支えるのは情報通信技術という(基本的 には)政治的無関心を基礎とする科学技術である, と考えるからである。Habermas は,技術至上主 義の下での「イデオロギーとしての技術と科学の ゆるやかな支配」を危惧するが,その中で「技術 的課題の解決は公開の討論を必要としない」と述 べ,科学技術の本性は政治的無関心にあるとす る89)。科学技術は現実に我々の生活様式を支配 し,私的領域を形成する役割を担っているが,前 掲 の Schmidt の 論 稿 を 訳 出 し た 樋 口 陽 一 が Öffentlichkeit を「公開性」と訳したように,今 昔問わず公共圏の本質は“開かれていること”, すなわち,(各時代における)一定の条件がそろえ ば誰でもアクセスできることにあったはずであり, インターネットはまさにそのような「開放性」を 特徴とするツールである。しかし公共圏に親和的 な「開放性」は,Boehme-Neßler や Sunstein の 指摘によれば,ビッグデータの運用次第では狭窄 してしまう。ではこの狭窄に対して,何らかの対 応をすることはできるのだろうか。また,そのよ うな対応が民主主義にとって望ましいことなのだ ろうか。ビッグデータの運用を私企業のみに委ね ず,適切な公共圏を形成するための対応を加える ことによって,インターネットの「開放性」を維 持する代わりに何を失うこととなるのだろうか。 公共圏の断片化を回避するため,ビッグデータの 運用を市場原理から引き離すことは,何を意味す るのだろうか90)。  この問いに法学の視点から応答するにあたって は,公共圏の形成に向けられた国家の介入により 制約される法的利益についての仮説(本稿Ⅲ 2) が重要な役割を果たすのではないかと推測される が,本稿は問いを明らかにするところまでで役目 を終える。問いに対する応答は,別の機会に試み ることとしたい。  * 本研究は,公益財団法人日立財団 倉田奨励金 (奨励金 No.1420)の助成を受けて遂行された研 究の一部である。 89) ユルゲン・ハーバーマス「イデオロギーとしての技術 と科学」ユルゲン・ハーバーマス(長谷川宏訳)『イデオロギ ーとしての技術と科学』(平凡社,2000)88 頁。 90) 類似した問題意識を示す見解として,大屋雄裕=松尾 陽=栗田昌裕=成原慧「〈座談会〉法学におけるアーキテクチ ャ論の受容と近未来の法」松尾編・前掲注 4)254 頁以下[栗 田発言]がある。

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