WTO衛生植物検疫措置の適用に関する協定(SPS協定)に関する紛争事案パネル・上級委員会報告における「科学」概念関連規定の解釈について
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(2) 58. (254). 横浜国際社会科学研究 第 17 巻第 2 号(2012 年 8 月). ところが,1990 年代に入って環境問題につ. で あった.英国 で 発生 し て い た 牛海綿状脳症. いての世界的な関心の一層の高まりや,いわゆ. (BSE)について 1996 年に英国政府が人への感. る「食の安全問題」が大きな社会的関心事とな. 染の可能性を公式に認めたこと,2001 年には. るにつれて,SPS 協定が注目されるようにな. 日本でも BSE 感染牛が発見されたこともあっ. り,また批判の対象となった. 「消費者の安全. て「食の安全」問題がクローズアップされるよ. に関する懸念」を背景にとられた EC でのホル. うになり,関連する国際機関の活動や SPS 協. モン剤を使用して肥育された牛肉の禁止措置. 定についての関心も一層高まることになった4).. や,同じく EC による遺伝子組み換え体(GMO). さ ら に,植物防疫 に 関 す る 2 つ の 紛争事案 が. の 認証保留措置 に WTO の 紛争処理手続 が 援. WTO に提起され,ともに「敗訴」したことも. 2). 用され, ともに「敗訴」の結論が出されたこと. SPS 協定についての批判的な見解を助長して. もこうした批判のきっかけとなり,また助長し. いるように思われる5).. た側面があった.反グローバリズムの立場から は,貿易自由化を至上命題とする WTO 制度の もとで SPS 協定によって国民の健康を守るた めの政府の政策的な裁量が掣肘されることにな るばかりでなく,各国の「食文化」の違いを無 視するものであるといった批判がなされ,国際 経済法の見地からは SPS 協定の「調和」や「科 学」に関する規定が論議の的となった3). 我が国では,SPS 協定について関心がもた れるようになったのは同協定の成立以降のこと . ことに付言している(146~171,193~197 ページ). なお,筑紫勝麿[1994]は,「貿易ルール」に関す る章においても SPS 協定について全く触れていな い.わ ず か に,ジョス リ ン ほ か[1996]が「SPS 分野に関する約束」が「市場アクセス,輸出競争, および国内措置の 3 分野における新しい規則と約 束を補完する,農業貿易における UR の成果の第 4 の柱」であるとしている(27 ページ). 2)そ れ ぞ れ European Communities-Measures concerning Meat and Meat Products(hormones) (DS26, 48),European Communities-Measures Affecting the Approval and Marketing of Biotech Products(DS291, 292, 293).「敗訴」は,いわゆる ジャーナリズム的な意味で用いている.国際経済 法上の論点にここでは立ち入らない. 3)ウルグアイ・ラウンド終盤での NGO からの 批判や働き掛けは SPS 協定案テキストの一部修正 に つ な がった(後述).Hudec[2003]は,SPS 協 定 の「科学」概念 が WTO 法制度 に「無差別原則 以後」(Post-Discriminatory)と呼ぶべき変更をも た ら し た と 指摘 し た.Echols[2001]は,SPS 協 定が各国の食文化の違いを無視し,食品安全に関 する国家の主権を制限すると批判している.. . 4)藤原邦達 ほ か[1995]は, 「SPS 協定 は,多 国籍企業がその策定に大きな影響を与えている食 品 の 国際規格(コーデック ス 食品規格)に 各国 の 食品の安全基準などを調和化することを義務付け た」とし,同協定の主眼はこれによって「食品貿 易の障壁をなくすことを目的」としたものである としている(15,26 ページ) .嘉田良平[1997]は, SPS 協定の問題として①国際基準への整合化を義 務付けたこと,②各国の食品安全基準をコーデッ クス規格で統一し,食品貿易上の障害をなくそう とするものであること,③風土条件や食生活の違 いを無視してコーデックスのリスク評価基準に単 純に統一することが食の安全性を脅かしかねない ことの 3 点を挙げている(150~151 ページ) . 5)相 原 延 英[2011]は,三 島 徳 三[2001]が 「各国・地域は自然条件を異にしており,存在する 植物も病害虫も違う.これを一律な国際基準でハー モナイゼーションすること自体,自然の摂理に背 くものである.貿易の論理こそ規制されなければ ならない」 (115 ページ)としていること,小林茂 典[2001]が「WTO 体制 に お け る 自由貿易拡大 の名の下に,食品検疫手続の迅速化・簡素化を図 り,国境保護措置のハードルを低くさせようとす る輸出国側の背景にあるものは,商品価値実現の 「円滑化」の 論理 で あ る.し か し,こ の「円滑化」 の論理は,輸入農産物・食品を使用価値として消 費する輸入国側消費者の観点からのものではない」 (66 ページ)としていることなどを先行研究として 挙げたうえで, 「 SPS 協定によるハーモナイゼー ションが,輸出国に有利に働くことへの批判が一 様になされている」 (56 ページ)とし,リンゴ火 傷病紛争事案では生産者団体が「敗訴に次ぐ敗訴」 により衝撃を受け,失望感や喪失感が生まれるこ とになったとし,WTO のような非公開の当事者不 在の裁判手続の下では十分な情報公開が行われず, 当事者である農業者等の意見が反映されないと批 判している(59 ページ) ..
(3) WTO 衛生植物検疫措置の適用に関する協定(SPS 協定)に関する紛争事案パネル・上級委員会報告における「科学」概念関連規定の解釈について(林) (255). 本論文は,SPS 協定に関する批判や論議の焦. 59. 月)10). 点となった「科学」概念を中心に,SPS 協定の. (エ)日本・リンゴ火傷病紛争事案(パネル報. 成立過程の視点から SPS 協定に関する紛争処. 告 2003 年 6 月,上級委員会報告 2003 年. 理事案のパネル・上級委員会報告の検討を行う. 11) 11 月). ものである. これまで SPS 協定に関して紛争処理手続が 援用された案件は,WTO によると 37 件あり,. (オ)EC・GMO 紛争事案(パネル報告 2006 年 12) 5 月). (カ)米国・義務停止継続紛争事案(パ ネ ル 報. うちパネルが設置され,報告がなされるに至っ. 告 2008 年 3 月,上級委員会報告 2008 年. たのは(さらに上級委員会報告がなされたもの. 13) 10 月). を含め)11 件であった 6)が,実質的には次の. (キ)オース ト ラ リ ア・リ ン ゴ 紛争事案(パ. 8 件である7).なお, (カ)は,紛争処理合意お. ネ ル 報告 2010 年 8 月,上級委員会報告. よび GATT1994 の条項に関して争われた事案. 14) 2010 年 11 月). であることから WTO の整理では SPS 協定に 関する紛争処理事案として扱われていないが,. (ク)米国・鶏肉輸入制限紛争事案(パ ネ ル 報 15) 告 2010 年 9 月). (ア)の EC・ホ ル モ ン 牛肉紛争事案 に 関 す る. 周知 の よ う に,交渉 の 際 の 提案・議事録 を. 米国の制裁措置の継続が問題になったケースで. 含 む 条約 の 準備作業(travaux préparatoires). あり,この事案の延長上の問題である.. は,条約規定の意味があいまいまたは不明確で あるか,常識に反し不合理な結果がもたらされ. (ア)EC・ホルモン牛肉紛争事案(パネル報告. る場合には補足的手段として援用することとさ. 1997 年 8 月, 上 級 委 員 会 報 告 1998 年 1. れている(ウィーン条約法条約第 32 条).条約. 8). 月). の交渉経過の記録にこのような位置づけが与え. (イ)オーストラリア・サーモン紛争事案(パ. られた主な理由のひとつは,「条約交渉の記録. ネ ル 報告 1998 年 4 月,上級委員会報告. が多くの場合不完全でミスリーディングであ. 9) 1998 年 10 月). る」ことであった16).条約法条約の起草時にも. (ウ)日本・コドリンガ紛争事案(パネル報告 1998 年 10 月,上級委員会報告 1999 年 2 . 6)WTO のウェブサイト上での検索結果(2011 年 12 日 1 日現在). 7)この 11 件のなかには複数の国が訴えを提起 しているものがあること,また,EC・アスベス ト紛争事案(DS135)はカナダが SPS 協定との整 合性も提起したものの,審理では TBT 協定および GATT1994 との整合性が争われたので SPS 協定に 関する紛争処理事案とは言い難いことから,これ らを除いた. 8)European Communities-Measures concerning Meat and Meat Products(hormones) (DS26, DS48)米国とカナダから提起された.報告 の引用箇所は括弧内で DS26 の報告のパラグラフ 番号を記した. 9)Australia-Measures affecting Importation of Salmon(DS18). 条約文と同等の効力を認めるべきとの主張(米 . 10)Japan-Measures Affecting Agricultural Products(DS76) 11)Japan-Measures Affecting the Importation of Apples(DS245) 12)European Communities-Measures Affecting the Approval and Marketing of Biotech Products(DS291,292,293)こ の 事案 は,米国,カ ナダおよびアルゼンチンから提起された. 13)United States of America-Continued Suspension of Obligations in the EC-Hormones Dispute(DS320) 14)Australia-Measures Affecting the Importation of Apples from New Zealand(DS367) 15)United States of America-Certain Measures Affecting the Imports of Poultry from China (DS392) 16)International Law Commission[1996]220 ページ..
(4) 60. (256). 横浜国際社会科学研究 第 17 巻第 2 号(2012 年 8 月). 国)があった一方, これを全く否定する主張(英. および暫定措置に関する第 5 条 7 項に規定する. 国,フランス)が対立したとされる17).ここで. 場合を除くほかは十分な科学的証拠(sufficient. は条約の準備作業を条文の解釈の補足的手段と. scientific evidence)なしに維持しないこと(第. しての位置づけ以上の地位を与えるべきか否か. 2 条 2 項) ,② SPS 措置の調和に関し,加盟国は. 18). の議論には立ち入らない .また,パネル・上. 科学的 に 正当 な 理由(a scientific justification). 級委員会の審理の際に実際に交渉経過が参照さ. がある場合またはリスク評価に関する第 5 条の. れたか否かも検討しない19).本論文の関心は,. 関連規定に従って自国の適切な保護水準を決定. これまでの SPS 協定の形成過程に関する検討. した場合には国際基準によるよりも高い保護水. から明らかにした交渉参加者の意図と,実際の. 準となる SPS 措置を導入・維持することがで. 紛争事案に直面したパネル・上級委員会による. きること(第 3 条 3 項) ,③加盟国はリスク評. SPS 協定の解釈とをこれらの報告によって比. 価に当たり,入手可能な科学的証拠(available. 較検討することである.前者の交渉参加者の意. scientific evidence)などを考慮しなければなら. 図を何によって把握するのかという問題は,こ. ない(第 5 条 2 項)等が定められている.. れらの提案とドラフト・テキスト比較,および. な お,第 5 条 7 項 の 暫定措置 を 援用 で き る. 交渉参加者が念頭に置いていたであろう,ウル. のは,関連する科学的証拠(relevant scientific. グアイ・ラウンド当時の SPS 問題によって接. evidence)が不十分な(insufficient)場合とされ,. 近することが可能である.こうした問題の解決. このようなときには加盟国は入手可能な適切な. 手段としての協定テキストを,WTO 紛争解決. 情報(available pertinent information)に基づ. 手続きの問題へ発展してしまった紛争処理事. いて暫定的に SPS 措置をとることができるが,. 案についてのパネル・上級委員会によりどの. 一層客観的なリスク評価のために必要な追加的. ように解釈されたのかが,ここでの関心事で. 情報(additional information)を得るように努. ある20).. めなければならないこととされている.. 2 紛争処理事案パネル・上級委員会報告にお ける「科学」概念関連規定の解釈. SPS 協定発効後の紛争処理案件で「科学」概 念に関して問題になったのは,科学的証拠の意 味,科学的証拠が「十分」ないし「不十分」で. SPS 協定 を 構成 す る 中心的 な 概念 の ひ と つ. あることのメルクマール,SPS 協定のもうひと. は, 「科学」で あった.SPS 協定 は,①加盟国. つの重要な概念である「調和」との関係,そし. の 基本的 な 義務 と し て,SPS 措置 を 科学的原. て SPS 協定には明示的に規定されていない「予. 則(scientific principles)に 基 づ い て と る こ と . 17)山本[1994]615 ページ. 18)WTO 協定附属書Ⅱ紛争解決に係る規則及び 手続に関する了解第 3 条(一般規定)2 項の「解釈 に関する国際法上の慣習的規則に従って対象協定の 現行の規定の解釈を明らかにする」でいう「解釈に 関する国際法上の慣習的規則」とは, 「条約法に関 するウィーン条約」 (第 31 条から第 33 条)が基本 的に該当するとされる(外務省[1996]574 ページ) . 19)WTO 紛争処理手続 に お い て,SPS 協定 の 交渉経過もパネリストに説明されるが,採用する か否かはパネリストの判断にゆだねられるとのこ とである(2009 年 8 月 28 日の WTO スタントン上 級参事官とのインタビュー).. . 20)交渉経過を参照すべきでないとする立場の 論者(Beckett)は,交渉記録に裏取引や交渉団代 表の非公式の発言が含まれていないことから,交 渉参加者 の 真 の 期待(genuine expectations)が 反映されていないとし, 「条約のテキストはいっ た ん 調印 さ れ る と そ れ 自身 の 生命 を 持 つ も の で あ る(The text of the treaty, when once signed, assumes . . . a sort of its own life) .交 渉 中 に 問 題 であった事項の半分は大して重要でなかったこと が判明し,交渉中にほとんど考えられなかった新 たな問題が重要な問題となってくるものである」 としている(McDougal, Lasswell and Miller[1994] 131~132 ページ) ..
(5) WTO 衛生植物検疫措置の適用に関する協定(SPS 協定)に関する紛争事案パネル・上級委員会報告における「科学」概念関連規定の解釈について(林) (257). 防原則」との関係であった.. 61. 入手可能 な 科学的証拠 の 集 ま り(the body of scientific evidence)がリスク評価を許さない. ⑴ 「科学的証拠」の意味. ほど質的または量的にリスク評価を許さないと. SPS 協定 に 関 す る 紛争処理事案 の パ ネ ル・. きであるとした(179).この文章の原文で “the. 上級委員会報告 で, 「科学的証拠」の 意味 そ の. body of” がないとリスク評価との関連を述べ. ものを正面からとりあげたものはない. しかし,. た以外は同義反復になるので,この表現は重要. 「科学的証拠」をはじめとする「科学」関連概. な意味をもつが,意味するところは明確ではな. 念についてパネルや上級委員会報告書でふれた. い.仮に「集まり」と訳したが,厳密には「あ. ものはかなり存在する.. る集合の大部分」ないし「主要部分」と理解さ. 「科学的証拠」がひとつのものではなく,多. れ,とすればパネルの科学的証拠についての理. 数意見と少数意見からなるものであることは,. 解を踏まえ,リスク評価のために使用できる,. 早い段階から注意されていた.リスク評価に. 科学的方法によって入手した情報に限定する趣. 関 す る 第 5 条 1 項 に 関 し,EC・ホ ル モ ン 牛. 旨で用いたと解することができよう.つまり,. 肉紛争事案 の 上級委員会報告 は リ ス ク 評価 が. パネル,上級委員会ともに「科学的証拠」は「科. 「関連 す る 科学集団 の 多数意見(the view of a. 学的方法によって入手された情報」から構成さ. majority of the relevant scientific community). れると理解したと見られるのである.. のみを体現する必要はない」とし, 「資格があ. し か し な が ら,米国・義務停止継続紛争事. り,尊重 す べ き 出所(qualified and respected. 案に関するパネル報告では,この点に混乱が. sources)からの,ある時点では異論に属する. あるように見受けられる.パネルは,ある科. 意見」に基づき責任ある政府が行動することが. 学的問題についての理解の変更をもたらすもの. 21). ありうる,とした(194) .. という文脈で「新たな科学的情報および証拠」. 「証拠」と「情報」との関係にも注意が払わ. ( new scientific information and evidence)と. れた.日本・りんご火傷病紛争事案のパネル報. い う 表現 を 用 い る(6.141)一方,「既存 の 科. 告では,証拠(evidence)と情報(information). 学的証拠 は 新 た な 研究 や 情報(new studies. は区別され,第 2 条 2 項の「科学的証拠」でい. and information)に よって 疑問 が 呈 さ れ る こ. う証拠とは科学的方法によって入手した証拠で. とがあり得ることに同意する」 (7.620)とし,. なければならず,科学的方法によらずに入手し. さらにこれまで十分とされてきた科学的証拠. た情報は除外され,十分に実証(substantiate). が不十分とされるためには「十分な量の科学. されていない情報だけでなく,立証されていな. 的証拠 お よ び/ま た は 科学的情報(a critical. い 仮 説( non-demonstrated hypothesis)も 除. mass of scientific evidence and/or scientific. 外されるとし,交渉者たちはいかなる材料でも. information)」が必要であるとした(7.648).. 使用できると考えたのであれば第 5 条 7 項と同. 二番目の「新たな研究や情報」は科学的なも. 様に「証拠」ではなく「情報」という言葉を使. のでなければ意味をなさないから,一番目と三. 用したであろう,とした(8.92~93) .. 番目の「科学的情報」と同義と考えられるが,. この事案に関する上級委員会報告は,第 5 条. 「科学的情報」 (scientific information)がなぜ「科. 7 項に基づく暫定措置の要件のひとつである. 学的証拠」と並列ないし「および/または」の関. 「関連 す る 科学的証拠」が 不十分 で あ る と は,. 係にあるのかパネルは説明していない.こうし. . 21)当該パネルまたは上級委員会報告書のパラ グラフ番号を示した.以下同じ.. た点について上級委員会は判断を行っておら ず,その報告でも特に説明を行うことなく「国 際基準の基礎をなす科学的情報」 (the scientific.
(6) 62. (258). 横浜国際社会科学研究 第 17 巻第 2 号(2012 年 8 月). information underlying the international. ラダイム」の変化であろう23).. standard) (708)といった表現を用いている.. し た がって,整理 す べ き は「科学的証拠」. 「科学的情報」 (scientific information)は ウ. (scientific evidence),「科学的 に 正当 な 理由」. ルグアイ・ラウンドの終盤に米国から提起され. (scientific justification),「情報」 (information). た「科学的に正当な理由」の定義問題を解決す. そ し て「科学的情報」(scientific information). る方策として考え出された現行第 3 条 3 項の脚. との関係である.. 注で用いられている.パネルが「科学的証拠」. すでに見たように,「科学的証拠」は「科学. (scientific evidence)とあわせて「科学的情報」. 的情報」の集合体であると考えることができる.. (scientific information)を 用 い た の は, 「科学. 「科学的情報」は定説を構成する場合もあるが,. 的証拠」として提出された個別の証拠にはさま. 多数意見と少数意見から構成されているかもし. ざまなものがあり,また学会の少数意見を反映. れない.新しい科学的情報がもたらされ,古い. するものもあるといった現実と,英文法でいう. 科学的情報が置き換えられることによって多数. 不可算名詞 で あ る「証拠」 (evidence)と の 表. 意見と少数意見の関係が逆転し,定説が修正さ. 現上の折り合いをつけることが難しかったこと. れあるいは覆されるかもしれない.科学者によ. によるものと考えられる.しかしながら,その. り,科学的方法により得られた情報という意味. 過程 で SPS 協定第 5 条 7 項 の「情報」は「科. で科学的情報と呼べるが,確認されていないも. 学的」との形容詞を付さないことが特別の意. のや仮説の段階に止まっているものは科学的証. 味 を 持って い る こ と,第 2 条 2 項 や 第 5 条 2. 拠とはいえない.その意味で科学的証拠は科学. 項 の「科学的証拠」が い わ ば 集合概念 で あ る. 的情報の部分集合であるといえよう.科学の進. ことが看過された結果,「科学」概念について. 歩という動態プロセスの中で,この隙間部分は. の表現に混乱をもたらすことになったと考え. 科学的証拠へと絶えず狭められてゆく一方,新. られる22).. たな未確認の情報が供給され続けるであろうか. SPS 協定のテキストで用いられた用語に忠. ら,科学的証拠を構成する科学的情報の集合体. 実に,また以上に記したようなパネルや上級委. の内容は絶えず変化し続けることになる.リス. 員会の表現とできるだけ整合性をとりつつ「科. ク評価は入手可能な科学的証拠をもとに行われ. 学」概念に関する再整理を行うとすれば,次の. るが, 「入手可能な」に示されるような科学の. ようになるのではないかと思われる.. 動態的な性格から,ある科学的情報が科学的証. まず, 「科 学 的 原 則」 ( scientific principles). 拠の範疇に含まれるかどうかの線引きを機械的. とは,現時点で科学者により共有される科学的. に行うことは難しいであろう.. 原理であり,科学者間で理解の相違が存在しな. ここで重要な意味をもつのが「科学的」との. い.これが覆されるとすれば,それこそがクー. 形容詞を冠さない「情報」である.科学的証拠. ンがその著書「科学革命」で用いた意味での 「パ. たるだけの科学的情報が不十分な状況下では,. . 22)中川ほか[2003]は,第 2 条 2 項に関して, SPS 協定が「科学的決定の多くがさまざまな科学 的見解のなかから価値判断の問題であるという事 実を認識している」としたうえで「各加盟国がそ のような価値判断を行う能力を持つべきことを承 認するものである」としている(175 ページ).措 置の決定には主観や価値観が入ることは排除され ているから,「価値判断」ではなく「評価」とすべ きであろう.. 科学者により,科学的方法によって得られた情 報以外の,何らかの情報によって対応措置をと らねばならないことがありうる.その意味で は,情報は,科学的情報を含む,より広い概念 である.単なる一片の新聞報道の形をとる情報 であっても,将来科学的証拠であることが実証 . 23)Kuhn[1962]10 ページ..
(7) WTO 衛生植物検疫措置の適用に関する協定(SPS 協定)に関する紛争事案パネル・上級委員会報告における「科学」概念関連規定の解釈について(林) (259). 63. 情報(information) 科学的情報(scientific information) 科学的証拠(scientific evidence). 未確認の ものなど. 少数意見. 多数意見. 図. されるかもしれない,重要な科学的情報の片鱗. トが限定的なものであることが判明すれば,そ. であることがありうる.. れ以外のロットについて輸入制限措置を解除す. 一例として,1989 年のチリ産ブドウへの青 24). るべきであろう.これが第 5 条 7 項で「科学的」. 酸カリ混入事件が挙げられる .この事件の場. 情報であることを要しないこととしたひとつの. 合,問題は青酸カリの毒性の程度ではなく,チ. 重要な理由であると考えられるのである.. リからすでに輸出された,また今後輸出される. 「科学的に正当な理由」は単なる情報ではな. 生鮮果実への毒物混入リスクの程度と範囲が不. く科学的情報でなければならない.しかし,リ. 明なことであった.米国が輸入した生鮮ブドウ. スク評価を行うことが前提であるから,科学的. に混入の事実が発見されたこと(科学的情報で. 証拠と認知されるような科学的情報でなけれ. ある必要はない)をもとに,その他の国々もチ. ば,SPS 協定に整合的とされる可能性はないで. リからの生鮮ブドウの輸入停止措置をとること. あろう.. は,許されるであろう.しかし,そのような措. 以上を図示すると,図のようになる.. 置をとった国々は,混入の原因と範囲に関する 情報(これも科学的である必要はない)を得る. ⑵ 科学的証拠の「十分性」と「不十分性」. よう努力し,リスク評価の結果汚染されたロッ. 紛争事案の審理において,科学的証拠が十分 であるか否かのテストは異なった物指しで行わ. . 24)1989 年 3 月,米国等向けの生鮮ブドウに青 酸カリを混入したとの通報があり,米国でチリか ら輸入されたブドウを検査したところ青酸反応を 示すものがあったことから,米国,日本等はチリ 産ブドウの全面的な輸入禁止・積戻し措置をとっ た.こ の 事件 を きっか け に,同年 10 月 の GATT 理事会で人,動植物の生命・健康を守るための措 置は必要以上に厳しく,また長期にわたるもので あってはならないこと,速やかに通報・協議する こと等を内容とするガイドラインが採択された. GATT 理 事 会 議 事 録 C/M/232(24 ペ ー ジ),C/ M/236(6~7 ページ)参照.. れた.すなわち,SPS 措置を「十分な科学的証 拠なしには維持しない」との第 2 条 2 項におけ る「十分性」は,SPS 措置 と 科学的証拠 と の 間の「合理的な関係」の存在の有無によって判 断された一方,第 5 条 7 項の「関連する証拠が 不十分な場合」の「不十分性」に関しては,紛 争事案ごとに検討が深められてゆくことになっ た. ア 「十分性」に関する判断基準 科学的証拠の「十分性」は,証拠それ自体の.
(8) 64. (260). 横浜国際社会科学研究 第 17 巻第 2 号(2012 年 8 月). 量ないし品質よりも,問題となった SPS 措置. 提であったからこそ,1990 年の成文化プロセ. と(リスクに関連する)科学的証拠との間の「合. スの際に輸入国により重い立証責任を負わせた. 理的な関係」の有無が問題とされた.. い米国とケアンズ・グループが SPS 措置は科. 第 2 条 2 項 と の 整合性 が 争 わ れ た 日本・コ. 学的証拠に「基づくべき」(be based on)と主. ドリンガ紛争事案で,パネルは十分な科学的. 張する一方,この逆の立場から EC,北欧グルー. 証拠「な し に 維持 されている」とは,措置と. プは SPS 措置を科学的証拠に「反して維持し. 科学的証拠 と の 間 に「客観的 ま た は 合理的 な. て は な ら な い」(not be maintained against). 関 係 の 欠 如」 ( a lack of objective or rational. との対立があった.また,SPS 協定交渉の最終. relationship)が 見 ら れ る こ と で あ る と し た. 段階であった 1993 年 12 月,米国からなされた. (8.29)上 で,日本 の 品種別試験 の 要求 と パ ネ. 本条項 の 修正提案 は「(当該措置 の)科学的基. ルに提出された科学的証拠との間に「実際の因. 礎がもはや存在しなくなった場合には維持され. 果関係」 (actual causal link)が認められないと. な い」(not maintained if its scientific basis no. して第 2 条 2 項に不整合と判断した(8.42~43) .. longer exists)とされていた.ある時点で採用. 上級委員会も, 「十分性」とは 辞書的に「量,. された SPS 措置の根拠となった科学的証拠を. 広がりまたはスコープがある目的・事項に照. 構成する科学的情報の集合が,その後の科学的. らし十分であること」であるから「関係的な. 知見 の 進歩 に よって 少数意見 と なった 場合 で. 概念」 (relational concept)で あ る と し,本条. も,科学的情報の集合として存在する限りは,. 項 の「十分性」は SPS 措置 と 科学的証拠 と い. その SPS 措置がチャレンジされることのない. う二つの要素間に「十分な関係」 (a sufficient. ようにするというのが,この提案のテキストに. or adequate relationship)を 必要 と す る と し. 込められた意図であった.. て(73)パネルの判断を支持するとともに,措. ウルグアイ・ラウンド交渉最終局面で,第 2. 置 と 科学的証拠 と の 間 に「合理的 な 関係」 (a. 条 2 項のテキストがこの米国案のような直接的. rational relationship)があるか否かは措置の性. な関係性ではなく「第 5 条 7 項に規定する場合. 格や科学的証拠の質および量を含め個々のケー. を除くほか,十分な科学的証拠なしに維持しな. スごとの状況をもとにケース・バイ・ケースで. い」との表現で決着した結果,日本・コドリン. 決定されるべきであるとした(84) .. ガ紛争事案や日本・りんご火傷病紛争事案のよ. この「合理的な関係」 (a rational relationship). うに,質的・量的に相当程度の科学的証拠が存. の判断基準は,日本が国内に存在しない火傷病. 在しているなかで,措置の妥当性が問題になっ. 菌の侵入を防止するため,米国産りんご果実の. たケースについて判断が下しやすくなったとい. 輸入に際して課している検疫要件について米国. うことができよう.. が提訴した日本・りんご火傷病紛争事案でも適. なお,これら両事案で被提訴国となった日本. 用された.パネルは日本の要求する緩衝地帯の. は,十分な科学的証拠の存在について,矛盾し. 要件と園地検査の要件は入手可能な科学的証拠. た主張を行っている.日本・コドリンガ紛争事. と合理的関係を有していないとし(8.191) ,上. 案におけるパネル審理では,日本政府はその. 級委員会もパネル判断を支持した(162) .. 措置が十分な科学的証拠に基づくものであり. このような「合理的な関係」の概念は,交渉. (4.60),総合的なリスク評価を行った(4.145). 時には当然の前提であり,問題は量的・質的な. と 主張 す る 一方,品種別 テ ス ト は 暫定措置 で. 十分性をどう表現するかであった.SPS 措置と. あると考えることができるとした(4.187) .す. これをとる基礎となった科学的証拠との間に関. な わ ち,日本政府 は 論理的 に 両立不能 な は ず. 係性があることは交渉関係者にとって当然の前. の SPS 協定第 2 条 2 項 と 第 5 条 7 項 の い ず れ.
(9) WTO 衛生植物検疫措置の適用に関する協定(SPS 協定)に関する紛争事案パネル・上級委員会報告における「科学」概念関連規定の解釈について(林) (261). 65. でも正当化できると主張した.暫定措置として. きる証拠がほとんどないかまったくない(little,. の正当化がパネルにより「30 年以上継続して. or no, reliable evidence was available)状況 で. いるにもかかわらず追加的な情報を求める努力. 援用されるよう意図されている(designed)こ. を行っていない」として否定された(8.57)の. とは明らか」であるとし,本件については「科. ち,上級委員会で日本政府は「予防原則」を援. 学的研究と実際的経験が 200 年にわたり蓄積さ. 用した(10) .日本・リンゴ火傷病紛争事案に. れてきており,明らかに第 5 条 7 項の適用が意. ついても,同様であった.日本政府は,パネル. 図された状況ではない」として日本の主張を退. に対して措置が科学的証拠により支持されてお. けた(8.219).. り,措置 を 科学的証拠 と の 間 に 合理的・客観. 上級委員会ではパネルの第 5 条 7 項解釈が狭. 的関連性があるとする(8.72)とともに,パネ. きに失するとして日本が主張した次の 3 点が争. ルが科学的証拠不十分と判断した場合には日本. 点となった.. の措置は暫定措置として考えることができると. ①「関連する科学的証拠」が不十分か否かの検. した(8.203) .パネルにより「火傷病に関する. 討は科学的証拠に関する一般的な検討に限定さ. 知見が過去 200 年間蓄積されている」ことを理. れるのでなく, 「特定の措置」または「特定の. 由に本件が第 5 条 7 項の問題ではないとされた. リスク」との関連での「特定の状況」について. (8.219)ことから,日本が上級委員会で科学の. 検討しなければならない.. 「不確実性」を提起することになったことはよ. ②「新 た な 不確実性」と「未解決 の 不確実性」. く知られている.. は区別して検討すべきである.日本のケースが. この科学的不確実性はさまざまな論議のテー. 該当するのは後者であるが,パネルは前者のみ. マとなったが,日本政府がその措置が「科学的. を検討した.. 証拠」に基づくのか否かという基本的な点につ. ③科学的発見が進行中で証拠の量が少なからず. いて,論理的に両立しえない立場をとったこと. (more than little)あるにもかかわらず,入手. に注意する必要がある25).. 可能な科学的証拠が決定的ではない場合にも第. イ 「不十分性」に関する判断基準. 5 条 7 項に基づく措置は発動できるようにする. 他方,第5条 7 項の「関連する証拠が不十分. べきである.. な場合」の「不十分性」に関しては,紛争事案. 上級委員会は,①については入手可能な科学. ごとに検討が深められてゆくことになった.. 的証拠の集まりでは量的または質的に第 5 条 1. 第 5 条 7 項が援用された最初の紛争処理事案. 項が要求し付属書 A で定義される十分なリス. である日本・コドリンガ紛争事案では,第 5 条. ク評価を遂行できない場合に第 5 条 7 項の意味. 7 項の適用のための条件について確認された. 26). で「関連する科学的証拠」が「不十分」である,. にとどまり,第 5 条 7 項の「十分な科学的証拠」. 「一般的」であれ「特定的」であれ関連する証. がない状況が初めて争点となったのは日本・リ. 拠が火傷病の日本への侵入,定着,蔓延の可能. ンゴ火傷病紛争事案においてであった.パネル. 性の評価を許すほど十分かどうかが問題なので. は,「第 5 条 7 項は明らかに入手可能な信頼で. ある(178~179),②については第 5 条 7 項が. . . 25)また,リスク評価らしい評価を行っていな い点でも後のオーストラリア・リンゴ紛争事案と 著しい対照を見せている. 26)パネルは,第 5 条 7 項に基づき正当化され るためには同第 1 文((ア)関連する科学的証拠が 不十分な状況のもとで,かつ(イ)入手可能な適. 切な情報に基づきとられた措置であること)と第 2 文( (ウ)より客観的なリスク評価のための追加情 報を得るよう努力し, (エ)合理的な期間内に再検 討する)の 4 つの累積的な要件が満たされなけれ ばならないとし(8.56~58) ,上級委員会もこれを 確認した(80) ..
(10) 66. (262). 横浜国際社会科学研究 第 17 巻第 2 号(2012 年 8 月). 不確実性の存在により発動されるのではなく,. EC が EC・GMO 紛争事案でとりあげた.この. 科学的証拠の不十分性によってである(183~. 事案では,EC が加盟国によるセーフガード措. 184) ,③についてはパネルが第 5 条 7 項は「入. 置を暫定的な措置であるとして第5条 7 項を. 手可能な信頼できる証拠がほとんどないかまっ. 援用し,第 5 条 7 項と第 5 条 1 項,さらに第 2. たくない状況に援用されることを意図されてい. 条 2 項との関係が争点となった.科学的証拠の. る」と述べたのは信頼すべき証拠の入手可能性. 「不十分性」については争点とならなかったが,. についてのことであり,入手可能な証拠が量的. EC の一般的モラトリアムに基づく措置に関す. に極めて少ないよりまし(more than minimal). るパネル検討に際して,「科学的不確実性」が. だが,信頼すべきまたは決定的な結果に導いて. ある場合のリスク評価が問題となり,パネル. いない場合を除外しているとは考えられない,. は,リスク評価のための科学的証拠が仮に十分. パネルが述べているように多くの科学的研究が. であったとしても,その結果についての不確実. なされているが信頼すべき証拠を示すに至らな. 性を免れるものではない,政府はこのような状. い場合にも第 5 条 7 項は適用可能である(185). 況のもとで可能な選択肢の幅の中から,もっと. との判断を示した. パネルの「不十分性」とは単純に科学的証拠. も適切と思われる措置を選択するものである (7.1525)との判断を示した.. が「ないかほとんどない」状態であるとの判断. 更 に,EC は EC・ホ ル モ ン 牛肉紛争事案 の. が,上級委員会によって科学的証拠がリスク評. 延長上 に あ る 米国・義務停止継続紛争事案 で,. 価を行うために十分かどうかの問題であると修. 形を変えてこの問題を提起した.EC は,関連. 正されたわけである.確かに,情報が極めて限. する科学的証拠が相当程度あり,ある時点でリ. られたなかで政府当局が人,動植物の生命・健. スク評価の基礎となったとしても,科学的知見. 康を守るために難しい決断を迫られる場合が第. の動態的な性格から,新たに入手可能となった. 5 条 7 項で想定された典型的なケースであると. 証拠によって「矛盾し,決定的でなく,不完全. いうことはできよう.. な」( contradictory, inconclusive, incomplete). 問題は,第 5 条 7 項の援用が許されるのはこ. ものとなる場合がありうると主張した.パネル. のようなケースだけなのか, 「不十分性」は絶. は,新たな研究や情報によって既存の科学的証. 対的な概念なのかどうかということであった.. 拠に疑問が生じ,かつては十分とされた科学的. SPS 交渉の過程では,具体的にどのようなケー. 証拠が不十分となることがありうることに同意. スまで認めるのかについて議論されなかった.. しつつ,科学的に不確実性があることがかつて. しかし,SPS 協定第 5 条 7 項でいう「不十分性」. 十分とされた科学的証拠を不十分とし,またこ. とは,政府当局がどのような SPS 措置を, いつ,. のことが第 5 条 7 項の適用可能性を正当化する. どの範囲でとるのかの判断をするための準備作. ものではない,とした(7.614~7.637).. 業としてのリスク評価が直接的な目的であった. 確かに,科学的証拠の「不十分性」がリスク. から,絶対的な不十分性を含むものの,相対的. 評価を行う見地からの相対的な概念であるとす. な概念であることは否定できないことであっ. ると,問題となるのは,相当程度の量の科学的. た.. 証拠が存在する場合でもリスク評価の見地から. 「不十分性」が相対的な概念である以上,紛. は不十分な場合がありうるのかという問題と,. 争事案ごとにさまざまなケースについての議論. 高い保護水準を設けている国がリスク評価にお. が発生することになった.. いて科学的証拠が不十分と判断することは許さ. まず,日本・リンゴ火傷病紛争事案で日本が. れるのかという問題である.. 上級委員会 に 提起 し た「科学的不確実性」は,. 前者については,「不十分性」という量的な.
(11) WTO 衛生植物検疫措置の適用に関する協定(SPS 協定)に関する紛争事案パネル・上級委員会報告における「科学」概念関連規定の解釈について(林) (263). 67. 概念を「不確実性」という質的な概念に置き換. であった.. えて日本が日本・りんご火傷病紛争事案で,ま. ア 「調和」と「科学」の優先関係. た EC が EC・GMO 紛争事案 と 米国・義務停. 国際基準 へ の「調和」に つ い て,EC・ホ ル. 止継続紛争事案でとりあげたことはすでに見た. モン牛肉紛争事案のパネル報告書で,パネルは. とおりであるが,論議が抽象的な次元に止ま. 義務であるとの解釈を示し,上級委員会はこれ. り,深まらなかった.前者を量的な問題として,. を 覆 し た.パ ネ ル は,SPS 協定第 3 条 3 項 は. また後者の論点がとりあげられたのが米国・義. 国際基準に基づくすべての措置は原則として国. 務停止継続紛争事案であった.この事案で,こ. 際基準と同じ保護レベルを達成しなければなら. うした 2 つの論点は国際基準との関係で問題と. ないことを求めているとするとともに(8.72),. なった.. SPS 協定前文(パラ 6)を根拠に同協定の目的 のひとつは国際基準に基づき加盟国間で調和. ⑶ 「科学」と国際基準との関係. のとれた SPS 措置をとることが促進されるこ. SPS 協定のもうひとつの重要な概念は「調. とであるとし,第 3 条 1 項は加盟国に対して. 和」で あ る.SPS 協定 は,①前文 で 国際基準. 特に第 3 条 3 項などの例外を除いて措置を国. に基づき,加盟国間で調和のとれた SPS 措置. 際基準に基づかせることを義務付けていると. がとられることを希望するとし(パラ 6) ,②. し た(8.86).こ れ に 対 し,上級委員会 は,パ. SPS 措置をできるだけ広範に調和させるため. ネルの第 3 条 1 項の解釈は国際基準を強制規範. に国際基準がある場合には特別な場合を除くほ. (binding norms)へと変質させるに等しいが,. かは自国の SPS 措置を国際基準に基づいてと. SPS 協定にそのような根拠は見当たらない,ま. ること(第 3 条 1 項)を定めている.この「特. た主権国家がそのような義務を自らに課した. 別な場合」とは,加盟国が科学的に正当な理由. と軽々に断ずることはできないとした(163~. (a scientific justification)がある場合またはリ. 166)うえで,調和の究極的な目的は,加盟国. スク評価に関する第 5 条の関連規定に従って自. が人の生命・健康を守るために必要な科学的原. 国の適切な保護水準を決定した場合に,国際基. 則に基づく措置をとることを妨げることなく,. 準によるよりも高い保護水準となる SPS 措置. またその適切な保護水準の変更を求めることな. を導入・維持した場合とされている(第 3 条 3. く,恣意的ないし不当な差別的手段としてある. 項) .なお,自国の措置を国際基準に基づかせ. いは国際貿易に対する偽装された制限とならな. たことの法的意味としては,国際基準に適合す. いようにすることである(177)として,パネ. る SPS 措置 は 人,動植物 の 生命・健康 の 保護. ルの解釈を覆した.. に必要な措置と見なされるとともに,SPS 協定. 国際基準への「調和」が義務であるとの紛争. および GATT1994 の関連規定に適合している. 処理パネルの見解は,前文と第 3 条 3 項の規定. と推定されることとされている(第 3 条 2 項) .. の文理解釈にもっぱら依拠するものであったの. 紛争事案で問題となった論点は,そもそも「調. に対し,上級委員会はパネル判断の法的な含意. 和」と「科学」のいずれが優先するのか,国際. と実際上の効果に着目して判断を行ったといえ. 基準が存在する場合にあえてこれよりも厳しい. よう.確かに,パネルの見解は SPS 協定の成. 措置をとるときに必要とされる「科学的正当化」. 立過程における議論の経過からしても,意外な. とは何か,国際基準よりも高い保護水準をとる. 判断であった.交渉過程を通じて「調和」を義. ことがリスク評価に影響を与えうるのか,そし. 務的なものとすべきであるとの提案や発言がな. て国際基準が存在する場合であっても「関連す. かっただけでなく,条文テキストの論理構成の. る科学的証拠が不十分な状況」がありうるのか,. 見地から「科学」概念との整理が困難であり,.
(12) 68. (264). 横浜国際社会科学研究 第 17 巻第 2 号(2012 年 8 月). ひいては SPS 措置に関するルールの条文化そ. スク評価を行わねばならないとした(175).す. のものに破綻をきたす可能性があった.実際. なわち, 「科学的に正当な理由がある場合」と. 上の問題としても,当時の国際基準の状況から. 「当該加盟国が第 5 条 1 項から 8 項までの関連. みて,これに準拠することの義務化は問題外で. 規定に従い自国の保護水準を決定した場合」と. あった(だからこそ消費者団体は国際基準への. の間には実質的な違いがないことが紛争処理事. 「下方調和」に反対した) .. 案についての判断により確定した.. このような判断をパネルが行ったのは,本事. ところで,リスク評価の際には「入手可能な. 案 が WTO 協定発効後間 も な い 時期 に 行 わ れ. 科学的証拠」を考慮しなければならない(第 5. た紛争処理事案であった事情が反映していたの. 条 2 項)から,リスク評価が行われているかが. ではないかと思われる.GATT 時代において. 極めて重要な意味をもつことになる.EC・ホ. は,紛争処理 パ ネ ル の 審理 は,GATT の 原則. ルモン牛肉紛争事案のパネルは,SPS 措置が第. に対する例外条項を援用している被提訴国が挙. 5 条 1 項および 2 項で求められているリスク評. 証責任を果たしたか否かが鍵であった.パネリ. 価に基づかない場合には,当該措置は科学的原. ストは,SPS 協定においても GATT における. 則に基づかないか十分な科学的証拠なしに維持. こうした審理の方法論を単純に適用しようと. されている,すなわち第 2 条 2 項に反している. したのではないかと思われる.しかしながら,. と推定されるとするとともに,第 2 条 2 項は一. SPS 協定はもはやこのような単純な方式の適. 般的性格を有していることから,すべての第 2. 用を許すような構成や内容ではなくなってい. 条 2 項違反が第 5 条 1 項および 2 項によってカ. た.この事案は,パネルが審理の過程で SPS. バーされているわけではない,とした(8.52).. 協定案のドラフトを参照していればこうした誤. こ の 論理構成 は そ の 後 の SPS 協定関係紛争. 27). りを犯さずに済んだケースといえよう .. 事案に適用され,「科学」そのものよりもリス. イ 国際基準より厳しい措置をとる場合の「科. ク評価の有無に審理の重点が置かれることに. 学的正当化」とリスク評価. なった.SPS 協定に関する次の紛争事案となっ. SPS 協定第 3 条 3 項は,国際基準よりも高い. たオーストラリア・サーモン紛争事案では,パ. 保護水準の措置をとることができるのは「科学. ネルは問題となったオーストラリアの措置が. 的に正当な理由がある場合または当該加盟国が. 第 5 条 1 項に一致したリスク評価に基づいてお. 第 5 条の 1 項から 8 項までの関連規定に従い自. らず,したがって当該措置が維持されている限. 国の保護水準を決定した場合」であると規定し. りにおいて第 2 条 2 項にも不整合であるとし. ている.ホルモン牛肉紛争事案のパネルは,第. (8.101,9.1),上級委員会もこの判断を支持す. 3 条 3 項ではなく第 3 条 1 項に不整合との解釈. るとともに,オーストラリアが第 5 条 1 項に反. をしたこともあって,この条文について注意を. して措置を維持していることの含意として第 2. 払わなかった.しかし,上級委員会報告は「起. 条 2 項と不整合に行動しているとした(138) .. 草と伝達の明確さの模範ではない」としつつ,. EC・GMO 紛争事案においても,パネルは加盟国. 第 3 条 3 項本文と脚注の文理解釈に基づいて国. のセーフガード措置について,第 5 条 1 項と不. 際基準を採用しない場合には第 5 条に基づくリ. 整合であり,その含意として第 2 条 2 項の「科. . 27)スタントン上級参事官によれば,パネリス トに対して SPS 協定テキストの制定経緯の説明を 行ったが,パネリストはテキスト解釈のみにより 判断を行うことを選択したとのことである(2009 年 8 月 28 日のインタビュー).. 学的原則に基づき」,「十分な科学的証拠なしに 維持しない」との要件を満たさない,とした (7.3399).オーストラリア・リンゴ火傷病紛争 事案でも,パネルはオーストラリア政府の措置 は適切なリスク評価を行っていないと判断した.
(13) WTO 衛生植物検疫措置の適用に関する協定(SPS 協定)に関する紛争事案パネル・上級委員会報告における「科学」概念関連規定の解釈について(林) (265). 69. 結果,SPS 協定第 5 条 1 項および同条 2 項と不. るものの,リスク評価それ自体に影響するもの. 整合とし,さらにその含意として第 2 条 2 項に. であってはならない,とした(7.604~7.612).. 不整合であるとし(7.905) ,上級委員会もこの. 上級委員会は,高い保護水準を設定している場. 判断を支持した(261─262) .. 合にはリスク評価の範囲や方法に何らかの影響. 最新の米国・鶏肉輸入制限紛争事案のパネル. をもつはずであり,国際基準の前提となったリ. で は,第 2 条 2 項不整合 の す べ て の ケース が. スク評価とは異なった要素や方法による検討を. 第 5 条 1 項および同条 2 項によりカバーされる. 行うことがありうるとして,パネルの判断に同. わけではないとして,米国がリスク評価を行っ. 意しなかった.ただし,リスク評価のための. たか否かおよび「十分な科学的証拠」なしに維. 科学的証拠の十分性の検討は厳格な客観的プロ. 持されているか否かを区別して審理した.パネ. セスであり,保護レベルの選定が関連する科学. ルは,中国の衛生状況に関して懸念があるとの. 的証拠の十分性の検討結果を先取りするもので. 国際機関や米国農務省報告,新聞報道はあるも. あってはならない,とした(682~687).. のの,中国からの鶏肉輸入制限措置を導入する. エ 国際基準が存在する場合の「関連する科学. に当たりリスク評価を行ったとの証拠を提示し. 的証拠が不十分な状況」. なかったことから,第 5 条 1 項および同 2 項に. 国際基準があるような場合でも「関連する科. 不整合であるとしたうえで(7.192) ,科学的証拠. 学的証拠が不十分な状況」が生じうるのか否か. はリスクの存在を証明するために十分なだけの. の問題が,同じく米国・義務停止継続紛争事案. 「合理的な関係」をもたねばならないところ,. で提起された.米国が国際基準はリスク評価を. 米国は中国からの鶏肉の輸入に関するリスクに. 行うための科学的証拠が十分かどうかの指標た. ついて,「いかなる特定的な科学的に正当な理. りうると主張したのに対し,EC は国際基準が. 由」も提示しなかったとして,米国からの中国. 存在していても科学的情報が不十分な場合があ. における食品安全の状況に関する証拠は第 2 条. ることは米国も認めており,問題のケースにお. 2 項の意味において「十分」ではなく,同条項. いては新たな証拠が既存の前提のバランスを変. に不整合であるとした(7.202) .しかしながら,. 更させるものとなった,と主張した.パネルは,. 区別して審理しているとはいえ,決め手となっ. 「これまで十分とされてきた関連する科学的証. たのはリスク評価が行われたか否かであった.. 拠が不十分とするためには知識や証拠の基本的. ウ 国際基準よりも高い保護水準の設定とリス. な教え(fundamental precepts)を覆すだけの. ク評価. 十分な量の新たな証拠・情報(a critical mass. 米国・義務停止継続紛争事案 で,EC は 国際. of new evidence and/or information)がなけれ. 基準よりも高い保護水準を設定している場合に. ばならない」とし,本件についてはリスク評価. は国際基準が前提としている科学的証拠では. がなされてきており,多くの証拠が蓄積されて. 「決定的なリスク評価」を行うことができない. いることから,過去のリスク評価の結論を支持. と主張した.これに対し,パネルは第 5 条 1 項. するだけの証拠がもはや十分ではないとするだ. が「決定的なリスク評価」を行うことを要求し ていない,また実際上もリスク評価は「進化」. けの科学的証拠がなければならない,とした (7.638~7.648).. (evolve)するものであり 「決定的なリスク評価」. 上級委員会は,①第 5 条 7 項は国際機関や他. は存在しない, 「十分な科学的証拠」とはリス. の加盟国がリスク評価を行った場合に暫定的措. ク評価を行うために必要なだけのものであり,. 置をとってはならないとはしていない,国際機. 十分かどうかの判断は客観的なプロセスである. 関からの情報が第 5 条 7 項でいう「入手可能な. から,保護水準は措置を決定する際には関連す. 関連する情報」であるとはいえようが,リスク.
(14) 70. (266). 横浜国際社会科学研究 第 17 巻第 2 号(2012 年 8 月). 評価のために十分とは必ずしもいえない,国際. と上級委員会の基本的な見解であった.. 機関が依拠した科学的証拠はその後の科学的発. ウルグアイ・ラウンドで SPS 措置に関する. 展により有効ではなくなったり,十分でなくな. 規則・規律を検討していた際,交渉当事者には. る可能性があり,国際基準の存在は科学的証拠. 関連する国際基準は絶対的なものと考えられて. が第5条 7 項の意味で不十分であることを意味. いなかった.制定されてから見直しをされてい. するものではない(688~698) ,②科学の進歩. ないものも多く,国際基準として存在する以上. は十分な客観性をもつリスク評価を行わせるこ. はこれに準拠していれば適合推定とすべきもの. とになるかもしれないが,逆の場合もあり得,. の,準拠しないからといって必ずしも貿易制限. その場合には第5条 7 項の範疇となる,パネル. 的とはいえない,というのが交渉当事者の理解. も認めているように科学は常に進歩し続けてい. であった.こうした理解に照らし,本紛争事案. るものであるが,かつて十分と考えられた科学. における上級委員会判断は,実際に即した判断. 的証拠が不十分となる限界領域から, 「パラダ. として評価できよう.すでに触れたが,パネル. イム・シフト」に導くほどの根本的な科学的な. は第 5 条 7 項の適用に関してとかく必要以上に. 変化まで幅が存在する.パネルの見解のように. 制限的な態度をとる傾向があるといえよう.. 科学的証拠が不十分と判断されるためにパラダ イム・シフトに相当するような科学的知見の進. ⑷ SPS 協定と「予防原則」. 歩を求めるのはあまりに柔軟性に欠け,国際基. 「予防原則」は,1970 年代にドイツの環境政. 準より高い保護レベルを採用する場合の第5条. 策において生まれ,1980 年代には環境保全と経. 7 項の科学的証拠の不十分性に関する法的テス. 済発展の両立のための基本原理として確立し,. トはより厳しいものであってはならないとし,. 1992 年 6 月のリオ宣言の原則 15 の「予防的ア. パネルの判断を覆した(699~712) .. プローチ」 (precautionary approach)をはじめ,. このように,新たな科学的知見によってかつ. 同年の気候変動条約,生物多様性条約などの国. ては十分とされた科学的証拠が不十分となるこ. 際条約で採用されることになり,さらに「その. とがありうることが認められた.相当量の科学. 適用領域も環境法の枠を越え,遺伝子組み換え. 的証拠が存在する場合でもリスク評価の見地か. 作物 や BSE 規制等 の 食品衛生,HIV や 肝炎汚. らは不十分な場合がありうるのかという問題に. 染の恐れのある血液製剤の規制など医事法の領. ついては,国際基準も科学的証拠とこれに基づ. 域など,人間の生命や生活にかかわる広範な領. くリスク評価の結果であり,そうである以上国. 域に広がりつつある」とされている28).この言. 際基準であるというだけの理由でその基礎と. 葉は,EC・ホルモン牛肉紛争事案において EC. なった科学的証拠が不十分とするためのハード. が自己の措置を正当化する根拠として援用した. ルを高くするべきではないことが上級委員会に. ことで,「食の安全」のための理念としても広. より認められた.. く知られるところとなった.. 高い保護水準を設けている国がリスク評価に. ア EC・ホルモン牛肉紛争事案での提起. おいて科学的証拠が不十分と判断することは許. この紛争事案のパネル審理において,EC は. されるのかという問題については,高い保護水. 米国も含めすべての国で家畜へのホルモン剤の. 準を決めること自体は当該国の主権の問題であ. 使用が制限されているなかで EC がより厳しい. るが,高い保護水準はリスク評価の結果として. 措置をとっているのは,EC が農業生産者や薬. 考えられるさまざま措置の中からの措置の選択 に反映されるものであって,リスク評価それ自 体に影響するものではない,というのがパネル. . 28)中山竜一[橘木ほか 2007]106 ページ..
(15) WTO 衛生植物検疫措置の適用に関する協定(SPS 協定)に関する紛争事案パネル・上級委員会報告における「科学」概念関連規定の解釈について(林) (267). 71. 品業界の利害よりはむしろ高い水準での消費者. EC はパネルが予防原則について第 5 条 7 項. 保護 の 達成 を 目指 す「予防的 ア プ ローチ」 (a. にのみ関連しているとしたのは誤りであり,予. precautionary approach)をとっているからで. 防原則が国際法の一般的慣習法ないし少なくと. あると主張し,消費者の保護のために「予防的. も法の一般原則となっていると主張したのに対. アプローチ」をとることが望ましいことが実証. し,上級委員会 は,「予防原則」そ れ 自体 に つ. されたケースとして食品の大腸菌汚染と BSE. いては「重要ではあるが抽象的な問題について. を挙げ,特に BSE については 250 年以上前か. 判断することは不必要であり,また不用意であ. ら知られていた羊の類似の病気(scrapie)が. ろ う」と し つ つ,①予防原則 が SPS 協定 に 不. 人の健康に害を生じる証拠が知られていなかっ. 整合な措置を正当化する根拠として協定の中に. たことから,BSE についても人への健康への. 書き込まれていない,②予防原則は第 5 条 7 項. 影響は不確かないしきわめて少ないというのが. だけでなく,前文 6 パラおよび第 3 条 3 項にも. 一般的な見解であったが,早期にこのアプロー. 反映されている,③パネルは加盟国がある措. チをとるべきであった,とした(4.202~4.203) .. 置 に つ い て「十分 な 科学的証拠」が あ る か 否. これに対し,米国は EC が禁止措置を正当化. か を 検討 す る 際 に は 当然,責任 あ る,代表制. するために持ち出した「予防原則」は EC のみ. のある政府ならば通常,人の生命にかかわる. に特有のアプローチではなく,これを闡明した. リスクが関係している場合には慎重さと予防. 「リオ宣言」の原則 15 に大多数の国々が署名し. (precaution)の見地から行動するであろうこ. たところである,EC は「予防原則」を誤解し. とを念頭において行うだろうしそうすべきであ. ており,地球温暖化問題への対応のように,争. る,④予防原則はテキスト上の明示的な指示な. う余地のない科学的結論が存在しない場合でも. しにそれ自体ではパネルが SPS 協定の条文の. 行動することが重要な場合には予備的ないし決. 解釈に当たって通常の慣習国際法の原則を適用. 定的でない科学的情報に基づいて行動すること. することから解放しない,とした(120~125).. を呼びかけているのが「予防原則」である,第. イ その後の紛争事案における援用. 5 条 7 項はこの原則を反映しているが,EC は. すでに見たように, 「予防原則」は日本が日. 第 5 条 7 項を援用していない,とした(4.207) .. 本・コドリンガ紛争事案で措置を正当化する根. こうした両者の主張について,パネルは①予. 拠として援用した.パネル審理において,日本. 防原則 が 慣習国際法 の 一部 と なって お り,リ. はその措置が科学的証拠に基づいており SPS. スク評価に関する SPS 協定第 5 条 1 項および. 協定第 2 条 2 項により正当化できるとするとと. 2 項の解釈にあたりこれを考慮すべきであると. も に(4.60),同第 5 条 7 項 の 暫定措置 と し て. の EC の主張について,予防原則は第 5 条 7 項. も考えうると主張した(4.187).パネル報告内. に組み込まれ特定の意味づけを与えられている. 容を不服として上級委員会に上訴した際,日本. ( incorporated and given a specific meaning). はパネルが「予防原則」に然るべき注意を払っ. が,EC はこの条項を援用していない,②予防. ていないと主張した(10).これに対して,上. 原則はリスク評価を義務付ける第 5 条 1 項およ. 級委員会はホルモン牛肉紛争事案に関する上級. び同 2 項 の 明示的規定に優先しない,として. 委員会報告で「予防原則」は前文,第 3 条 3 項. EC の主張を退けた(8.157~8.158) .. および第 5 条 7 項に反映されていると指摘した. この判断は上級委員会でも争われた.上級委. 通りとした(81).. 員会 は SPS 協定 に「予防原則」が 反映 さ れ て. EC は米国との EC・GMO 紛争事案で「予防. いるとのパネル判断を拡張するとともに,その. 原則」を再度正当化の根拠として援用した.こ. 他の点についてもパネル判断を支持した.. の 事案 で は,1999 年 6 月 の EC 環境相理事会.
(16) 72. 横浜国際社会科学研究 第 17 巻第 2 号(2012 年 8 月). (268). 宣言以降 EC で GMO に関し新たな承認が行わ. しない措置をとるか,同じリスクに対して他の. れない状態が継続する EC レベルの措置(一般. 加盟国よりも厳しい措置をとることがありうる. 的モラトリアム)と, 「新規食品に関する理事. ことを認めたうえで,そのような場合でも措置. 会規則」 (258/97/EEC)及 び「GMO の 環境 へ. がリスク評価に「基づく」 ,すなわち「十分に. の 意図的放出 に 関 す る 新指令」 (2001/18/EC). 保証される」 (sufficiently warranted)ないし「理. のセーフガード条項. 29). に基づく加盟国による. にかなったものとして支持される」 (reasonably. GMO の流通・輸入禁止という加盟国レベルの. supported)ことが求められる,換言すれば第. 措置の 2 つが問題となった.. 5 条 1 項に整合する必要があるとした(7.3065. パネルは,この 2 つの問題それぞれにおいて. ~7.3066).. 「予防原則」に関する見解を表明している.. GMO 紛争事案 に お け る EC の「予防原則」. EC レベルの一般的モラトリアム措置につい. に関する主張は,ドーハ・ラウンドの準備交渉. て,パ ネ ル は SPS 協定附属書 C ⑴(a)の 規定. に 際 し 2001 年 に EC が WTO 農業委員会 に 提. は関連する SPS 要件が満たされていることを. 出した後述する文書の内容と比較して目新しい. 十分な確信をもって決定するために合理的に必. 点がなかっただけでなく,積極的でもなかった.. 要とされる時間をかけることを許容しており,. その理由としては,EC が EC レベルの措置に. 「慎重で予防的なアプローチ」 (a prudent and. ついて,一般的モラトリアムなるものはそもそ. precautionary approach)の適用を排除するも. も存在しないとの立場をとったこと,加盟国レ. のではない(7.1522)とし,この規定の義務の. ベルの措置について積極的に弁護すべきインセ. 遵守とこのアプローチの適用との間に内在的な. ンティブが EC 委員会になかったこと,が挙げ. 緊張関係があるとは考えられないが,このアプ. られる.問題となった加盟国による禁止措置は,. ローチも合理的な限界の下に適用されねばなら. EC 委員会による人の健康または環境に対して. ず,加盟国が注意と慎重さの必要を理由に際限. いかなるリスクもないとの評価結果に反してと. なく決定を引き延ばせるのであれば,この規定. られ,維持されていたから,EC 委員会として. の意味は失われることになる(7.1523)とした.. は右のような主張を行う以外選択肢がなかった. 加盟国レベルのセーフガード条項に基づく措. であろう.別の見方をすれば,加盟国に対す. 置については,EC は加盟国が EC レベルでの. る EC 委員会の権限を強化する見地からも,加. GMO に肯定的なリスク評価において反映され. 盟国による独自の判断に基づくこうした措置を. ている主流の科学的意見とは異なる見解および. WTO の場で否定されることは,EC 委員会の. 「予防原則」に基づきセーフガード措置をとっ. 利益に合致していた.. た,ホルモン上級委員会報告によれば主流の科. ウ SPS 協定と「予防原則」. 学的意見でなく異なる科学的意見(少数意見). ホルモン牛肉や GMO をめぐる問題は一般消. に基づくことができるとしていると主張した.. 費者にとって関心のある,したがってジャーナ. パネルは,予防原則を採用している加盟国はリ. リズム的に注目を浴びやすいテーマであっただ. スクの評価に当たって不確実性や制約に直面し. けに,EC が WTO の紛争処理手続きでその措. て,同一のリスク評価の結果他の加盟国が採用. 置の正当化の根拠として提起した「予防原則」 は,消費者団体のみでなく国際経済法研究者も. . 29)加盟国が人の健康または環境に対するリス クを構成すると考える正当な理由がある場合,暫 定的に自国領域内においてその使用または販売を 制限または禁止できるとの規定.. 関心を寄せた.総じて,この原則に照らし SPS 協定に批判的な評価を下すものが多いように見 受けられる30). ところで,これらに共通していることは,「予.
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