1
パレートにおける「合理性」の意義
松
爵
霞
敦
茂
1 は じ め に 経済学者たちの問で「合理性」の意義と概念とが問い直されることが多くな っている。一つには,いわゆる「近代合理性」を中勅として発展してきた近代 文明に, 「赤信号」とまでは云わないまでも少くとも注意信号が灯されたから であり。二つには,その「近代合理性」のいわば「人格化」ともいうべきホ モ・エコノミックスの行動様式を出発点に据えた正統的経済学がここ久しく 「危機」に直面しているからである。 私は本稿でこの「合理性」に関連して,社会科学者パレートが,今世紀初頭 に著わした諸著作の中で与えている考察を少しく立入って検討してみたい。そ れがこの概念の意義と内容とをヨリ深く考えるための手がかりの一つにでもな ればと思ってである。 「合理的行動」(rational action)の定義としては, T・パーソンズが処女作 り『社会的行為の構造』の中で与えている次の定義が社会科学者の間でかなりの 市民権をえているように思われる。 「状況の諸条件の下で〔実現〕可能な目的をば追求し,かつその目的を,行 為者が用いうる諸手段の中で一実証的経験科学によって了解可能で,検証可 能な理由から〔判断して〕一その目的〔の実現〕に最もよく適合しているよ うな諸手段によって追求している限りにおいて,行為は合理的である」。 この定義は,M・ウエーバーの「目的合理的行為」(zweck rationales Han. 1) T. Parsons, Structure of Social Action, N. Y., 1937, p, 58. ( ものである。 〕内は筆者によるdeln)の概念や,パレートの「論理的行為」(azione logiche)の観念,特にこの 後者に多くを負って形成されたものである。 もっとも,パレート自身は「合理的行為」という用語を用いていない。彼は その代りに上に示した「論理的行為」という言葉を使っている。この概念は彼 が1898年掛書いた論文「純粋経済学の問題はいかにして立てられるか」に既に 登場している。〔そこでは,それは「実験的で,論理的な行為」(action exp6一 ラ rimentale et logiqUe)とよばれている〕。 パレートがウエーバーやパーソンズのように「合理的」行為という言葉を用 いずに「論理的」行為という用語を使った理由一それについて彼自身は何も 言及していな:い一としては,次の2つを挙げることができよう。 第一。彼は「合理的」(rationel)という言葉を,主として,「論理法則にの み由来して経験には全くよらないもの」(Petit Robert)という意味で使ってい るように思われる。例えば1905年に書いた論文の中で彼はこうのべている。 「これらの仮説的命題は……社会および政府の組織化の唯一可能なbase ratio− nelleをなしている!と。ちなみに,ここで「仮設的命題」とは,何らかの仮 設から演繹的につまり「合理的」に引出される若干の帰結を意味しており, おう 「叙述的命題」に対置されている。 第二。彼が行為の分類にあたって重視した規準は一次節でヨリ詳細に検討 するが一行為主体が「意図して」その行為をしたのか,それとも「習慣」に よってあるいは,「意識を通過しない反応(r6action)によって自動的にその行 為をなしているかの区別,つまり行為主体が「論理的」推論を通じてその行為 の を行なったのか否かにあった。彼が「論理的」という言葉を好んで用いた理由 2) V. Pareto, Comment se pose le probleme de 1’6conomie pure, Oeuvres complets T.IX,ハ4arxisme et economie pmre, Droz,1966, p.104,なおG. Busino, Jntroduction aK une histoire de la sociologie de Pareto, (Cahier Vilfredo Pareto, no. 12) Droz, 1967,p.41を参照。 3) V. Pareto, Programme et sommarie des cours de sociologie Oeuwres complets, T. M, Droz, 1967. 4) do., Comment se pose, p. 103.
バレーートにおける「合理性」の意義 3 の一端はここに見出すことができよう。 ところで,「合理性」には2つのレヴェルがある。一つは,「信条の合理性」 もしくは認識の合理性(rationality in belief;epistemic rationality)であり, らう ニつは,「行為の合理性」(rationality in action)である。ある信条が何らかの 行為をもたらすとは限らない。が,人間の行為は,全くの反射的行為や,乳児 や狂人の行為などを除けば,たとえインプリシットにでもその行為を動機づ け,あるいは方向づける特定の信条をもつことを1つの特徴としていると考え られる。つまり,行為の合理性は信条の合理性を,何らかの形で前提してはじ めて成立する概念であるともいえよう。例えば,先に見たパーソンズのいう 「合理的行為」は,実証的経験科学によって方向づけられた行為なのである。 パレートは,彼の社会学上の主著『一般社会学概論』(TrattatO di sociologia generale,2ed. Firenze,1923.以下Trattotoと略記する)において,同書の r帰納的」部分つまり第2章「非論理的行為」において「行為の合理性」を, ついで第4章「経験を超越する理論」および第5章「擬似科学的理論」におい ては,「信条の合理性」のレヴェルでの議論を展開している。 私は本稿において,「合理的行為」一「論理的行為」および「合理的信条」 一「実証的経験科学」〔パレートはこれを「論理・実験的理論」(teoria logico− experimentale)とよんでいる〕が,人間行為および人間の創りだす理論の中 で,一体いかなる位置と意義とをしめているとパレートは考えていたのかを確 定したいと思う。 私は本稿の叙述を,パレートがTrattatoで採ったのと同一の順序,つまり rationality in actionのレヴェルでの議論, rationality in beliefのレヴェルで の議論の順序で行なうつもりである。そして最終審では前2節で明らかにさ れたパレートの見解について,一つの反省的・批判的考察を加えてみたいと思 i・ 5)たとえば,S.1. Benn, G. W. Mortimore, ed., Rαtionαlity and Social Sciences, London,1976を参照。
皿 人間行為の諸類型と「論理的行為」 すでに前節でものべたように,パーソンズの云う「合理的行為」とパレート の云う「論理的行為」とはほぼ同一の概念である。この概念について,パレー トが詳細に規定した,Trattato第150節のほぼ全文を次に引用しておこう。少 し長いけれど,このテーマに関する基本的なパラグラフだからである。 「目的(fine)に対して適切な諸手段を用いており,かつ,諸手段がその目 的に対して論理的(logicamente)に結合されている諸行為がある。また行為の 中にはこのような性格の欠除している他の諸行為もある。 これら2種の行為は,客観的側面で考えられるか,主観的側面で考えられる かに応じてきわめて異なったものとなる。主観的側面から見ればほとんど全て の人間行為は第一の類型をなしている。ギリシアの水夫にとっては,ポセイド ソの神々に人身御供を献げるのも,櫓をこぐ行為も等しく航海のための論理的 手段であった。 これら2種の行為に名前を与える方が都合がよかろう。……次のような行為 に論理的行為azione logicheの名を与えよう。すなわち,その行為をなす主体 に対してだけでなく,ヨリ広範な知識をもっている人々に対しても,その行為 がその目的に対して論理的に結合されている行為,つまり主観的にも客観的に も上で説明されたような意味をもつ行為を論理的行為と名づける。他の行為は 《non−logiche>非論理的とよぶことにしよう。 non−10giche非論理的というこ とは,決してillogiche反論理的ということを意味しはしない」(傍点は筆者に よるもの)。 この引用文から次の諸点が明らかとなる。 第一,人間行為(A)は,「論理的行為」(AL一以下このように略記する)と 「非論理的行:為」(ANL一以下このように略記する)とに2分される。 第二。ある行為がAしであるためには,(1)手段が実証的経験科学の知識に照 らして,目的の実現のために適合的であり,(2)そのことを行為主体が明確に認 識・自覚していなければならない。つまり,行為の主体がはっきりとした「主
パレートにおける「合理性」の意義 5 観的目的(fine, purpose)」をもっており,この「目的」に対して主観的には適 合的だと思われる手段を採っており,かっこの「主観的目的」が「客観的目的 6) (fine, end)」と「一致」していなければならない。ここで行為の客観的目的 とは,実証的経験科学の知見に照らして考えて,その行為によってもたらされ ると想定される結果のことである。 第三。云うまでもないことだが,実証的経験科学によって確証されるのは 7) 「実在」(reale)の・「観察と経験の領域」に属する事実のみである。だから, 「客観的目的」は,このような事実でなければならない。従ってまた,ある行 為がAしであるためには,「主観的目的」もまた「実在」のものであって,「想 8) 像上の目的」(fine imaginarie)であってはならないことになる。 6)V.Pareto, Trattato di sociologia g膨rα♂θ,§151.英訳版では本文中に示したよう にfineが2様に訳しわけられている。 7) 1「う此乏。, 8)バレー1・のALはMeウ=一パーの「目的合理的行為」としばしば同一視される が,梨たしてそれでよいのか? この註ではその点に関して少し考えてみよう。ウェ ーバーは「社会学の根本概念」 (Sociologishe Grundbegliffe,1922)において,「社 会的行為」の類型を示している。ここで「行為」(Handeln)は「行為者が主観的な意 味を含ませている限りでの人間行動(Verhalten)」である。(清水幾太郎訳,岩波丈 庫8ページ)。だから,それはパレートにおけるazioneと全く同一ではない。 さて「社会的行為」の4類型とは,(1)「目的合理的行為」(zweck−rationales Han・ deln)。(2)「価値合理的行為」。(3)「感情的,特にエモーショナルな行為」。(4)「伝統的 行為」。ここで第一の「目的合理的行為」は次のように定義されている。「これは外界の 事物の行動および他の人間の行動についてある予想をもち,この予想を,結果として 合理的に追求され考慮される自分の目的のために条件や手段として利用するような行 為である」。(同訳書39ページ)。この定義から判断する限りでは,ウェーバーの「目的 合理的行為jはパレートにおける「論理的行為」と同一であるように見える。が,R. Aron, Les 6tapes de laρensie soeiologigue, Paris,1967,や折原浩「M・ウェーバー における『没意味性』の概念」(『危機における人間と学問』未来社,1969年目らの指 摘する所によれば両者は決して同じでない。「理解社会学のカテゴリー」(Uber einige Kategorien versthenden Soziologie,1912)の中ではウェーバーはそれを「〔主観的〕 に一義的かつ明僚に把握された目的の達成のために,一義的に適合的であると〔主観 的に〕見なされた手段に従って行なわれる行為」 (林道牛脂,岩波文庫20ページ)と
第四。ANLはAしの補集合ないしは「残余カテゴリー一」(T・パーソンズ) として定義されている。つまりANL= A−AL。 第五。ところでこのANLはazione illogiche反論理的行為を「意味しはし ない」とは一体どういう意味だろうか? パレートが『経済学提要』(Manuel d’600ηo加6 Politique, Paris,1909.以下 Manuelと略記する)で与えているANLの定義はこの疑問に答えてくれてい る。曰くANLは「(手段の目的への)適応が,論理的推論以外の手順によっ て得られる」ような行為であると。’ちなみに,C.0. D.(6 th ed。)で, non− logicalという言葉の定義を調べてみると次のように記されている。“proceeding 10) by means other than logic”と。つまり<non>logica1は10gicの否定ではな り くて,それといわば次元を異にしていることを示している。 (例えば「重さ」 と「長さ」が次元を異にしているように)。これに対してillogicalとは「論理 に反する,あるいは論理を欠く」(C,0,D.)ことである。例えば3段論法で,
A=BかつA=Cを認めながらA≠Cを主張するような論理法則の無視を意
味している。もちろん,実際には「非」論理的で,かつ,「反」論理的でもあ るような場合一例えぽ狂人の行為一もあるが,両者は概念としては裁然と 定義している。つまり,パレートが,主観・客観の両面の考慮を不可欠とするのに対 して,ウェーバーは行為の主観的側面を重視するのである。ちなみに,パレートが ANLだとする「呪術的行為」をウエーバーは「目的合理的行為」だとしている。 (『理解社会学のカテゴリー』,邦訳22ページ) だから「目的合理的行為はパレートの論理的行為とほぼ対応する」(R.Aron, op. citi, p.500)といわれるのである。なぜパレートが客観的側面の考慮をも重視したの か? この間に対する私なりの説明は第四節で与えられるであろう。(パレートのAL とウェーバーの目的合理的行為の概念の今一つの相違は,ウェーバーでは,手段選択 の目的設定へのいわばフィード,バックの効果が考慮されている点であろう。 9) V. Pareto, Manueg d’iconomie Politigue, p. 41. 10)森川真規下国は,ANLを「論理によらない行為」と訳出されている(P・ウイン チ『社会科学の理念』新曜社)。適訳だと思う。ただ私は,日本語の「非」という言 葉には,このような意味があると思うので(例えば,仙人のことを「非人情」のもの という),訳語の簡潔さを重んじて,「非論理的行為」という従来から用いられてきた 訳語を踏襲した。パレートにおける「合理性」の意義 7 区別しておかなければならない。パレート自身Manuelでは,先に引用した定 エ i義につづいてこう書いている。「non−10giqueということはillogiqueというこ とを意味しはしない。というのは,ANLは事実の観察と論理とに頼って目的 に手段を適合させる時に見出されるであろうものと同一でありうるからであ る」と。 さて,AL, ANL,および「反論理的行為」の相互関係を明らかにするため に,ANLとは一体具体的にはどのような行為なのかを次に調べてみよう。彼 ユ はANLを更に4回目類型に分類して次のような表を示している。 「表1」に示されている第一の類 表1 型は,行為主体がその行為を通じて 実現しようとする「直接的」目的を もっておらず,またその行為によっ 1 て何か特定の,偶然的でない結果が 1[ 皿もたらされることもないような行為 rv である。例えば人が無意識の中にす 一t 行為は論理的目的をもっているか 客観的には 主観的には 持。ていない隠。ていない 持っていない 持っている 持っている 持っている 持っていない 持っている るクセとか,現在ではもはや何の意味も持たなくなった伝統的慣習・儀礼など はこれに属する。もちろん人がこのような慣習や儀礼をなすに際しては,それ を無視してその実行を怠れば「他人に悪く思われるだろう」といった配慮が働 いていることが多い。しかし,これはその行為の「聞接的」目的であって,こ こでいう「直接的目的」ではない。 第二の類型の例は,先に掲げたTrattat・第150節からの引用文の中で挙げら れているギリシアの水夫の行為に見られるような,呪術的・もしくは迷信的行 為。つまり行為主体にとっては目的適合的な手段だと考えられているが,現今 の科学的知識に照らして考えれば,何らの意味ある結果ももたらさないような 行為である。 第三の類型。これはANLの「典型」であるとパレートが考えているもの 11) V. Pareto, Manuel, p. 41. 12) do., Trattato, g 151.
で,本能にもとずく行為や,行為主体がその意味を何ら自覚することなしに行 なっているある種の慣習的行為などをあげることができよう。つまり行為主体 は何ら「推論」に基づいて行動したのではないが,結果としては「事実の観察 と論理とに頼って目的に手段を適合させる際に見出されたであろうものと同一 であるもの」が生みだされるのである。 最後の類型。行為主体が明確な目的意識をもって行動しており,客観的にも 特定の偶然的でない結果が生みだされている。が,行為主体が目ざしたものと 客観的結果とが一致していない。ここではパレートが挙げている例の中から, 経済の領域に属する1つの例をとりあげてみよう。「自由競争の状態」におい て,企業家がヨリ多くの利潤をえようとして生産費を切り下げたとしよう。そ の結果として生じるのは利潤の増大ではなくて,販売価格の値下げである。と いうのは,自由競争は常に販売価格を生産費に均等ならしめるように働くから である。つまりこの企業家の行為は「主観的目的が客観的目的と同一でない」 ANLの第四の類型なのである。パレートは『経済学講義』(Cours d’660ηo擁θ politigue, Lausaune,1896−7)で,1自由競争の条件のもとにある企業家は「回 ユの 転式の櫨の中に入れられたリスに似ている」とのべている。つまりリスが上に 登ろうとすると,濫がまわって一向に上には登れないように,企業家も利潤を 増大させようとコストを切り下げた結果は,販売価格も下がってしまい元のモ クアミというわけである。たしかにこの例は彼自身認めているように「いくぶ ん通俗的」である。というのは,リスは本能によって行動するが,企業家は計 算をして行動する。しかし,パレートの眼からみれば,因果関係の長い連鎖あ るいは相互依存関係の長い連鎖の一環だけにしか気がつかぬ近視眼的な思考は 「推論」の名に値しない「本能的行為」と映ったのであろう。 P・ウインチは,パレートが挙げているこの企業家の行動はnon−logiCalと 13)Ibid.,§159,1592なお,「独占」の状態では,生産費の低下は販売価格の低下をも たらさないから,企業家の意図はそのまま実現され.その行動は「論理的」だとされ ている。 14) do., Cours d’6eonomie Politique, S 15!.
パレートにおける「合理性」の意義 9 15) いうより,illogicalな行為だというべきであると述べている。彼のこの批判は 実はTrattato ij327節の中でのパレートの議論と関連している。この節の中で パレートは,さきにあげたギリシャの水夫の行為(ポセイドンの神々に人身御 供を献げる行為)が,「擬似科学理論」(teoria pseudo−scientifica)であると述べ たのちに,「〔工学的〕欠陥のある船の建造」は「ANLではない」と書いている。 すでに述べたようにTrαttato第150,151節においては, ANLはAしの残余 カテゴリーとして,つまり「主観的目的」と「客観的目的」とが一致しない行 為として規定されていた。この規定にだけ従うかぎり,「欠陥のある船の建造」
はANLにほかならない。しかしManuelでの規定をもこれに重ねあわせて
考えれば,ANLは経験にもとつく推論以外のものによって叫びかれた行為と いうことになる。パレートが欠陥のある船の建造がANLではないとのべる際 のANLとは上にのべたようなものでなければなるまい。さて, P・ウインチ の主張は,もし「欠陥のある船の建造」がこのような意味でのANLでなく 「反論理的行為」であるなら,先にみた企業家の行為も同様にANLではなく て,「反論理的行為」であるというべきであろう,というものである。彼の主 張の前半部分については,ひとまずおくとして,その後半部分一企業家のこ の行為が「反論理的行為」だという主張 に私は同意しかねる。というの エアラ は,ウィンチものべているように,「反論理的行為」とはそのうちに「論理的 誤謬」(mistake in Iogic)を含む行為である。しかし,先の企業家の行為は 「回転式の鑑の中に入れられたリス」の行為に比せられるべきものであり,自 由競争経済のもとでのいわば必然的な愚行であって,論理的推論における単な る「誤謬」の結果ではないからである。 (この点に関しては第四節でいま一度 論じる)。 だが,「欠陥のある船の建造はANLではない」という命題ははたして何を 15)P・Winch, Ideαof Social Science, London,1958, P.99,邦訳,前掲書,122∼3 ページ 0 16) V. Pareto, Trattato, g 327, 17)P.Winch, op. cit., p.100,邦訳123ページ。意味しているのであろうか? この命題が主張されている部分でのパレートの 論理の展開を記すこし詳細に検討してみよう。 次のような命題Pがあるとする。一Aなる船の建造が安全な航海のために は必要だ。(ところでこのAなる船は実際には「欠陥のある船」である)。この 場合「われわれは〔命題Pにおいて〕ただ誤った科学的命題(una proposizione scient量ficata errata)をもつにすぎない。というのは欠陥のある船の建造はANL 18) ではないからである。」(傍点および〔〕内は筆者による)。みられるように, 「欠陥のある船の建造はANLではない」理由はここでは何らのべられていな い。逆に,この行為の性格規定から命題Pの性格規定がひき出されている。だ から,ここでの疑問を解くためには,この章句を離れヨリ立ち入ってANLの エ ラ 構造を分析してみなければならない。 パレートはALを次のように図式化している。(図1)すなわち,1)行為類 型工(図1の(1))。ここでTは理論,Aは行為である。経験的事実に基づく正 しい論理的推論によって行為Aは動機づけ・方向づけられている。 2) 行為類型1の対極にあるのが行為類型皿 (1図の(2))で,先に表1で示したANLの第一と 第三がこれに属している。ここでPsは行為者の 「心的状態」(stato psichico)を示している。 3) これらに対してANLの第:二と第四の類型 (表1)は行為類型皿:に属している。ここで「心 的状態」Psは,行為Aだけではなくて理論丁によ っても「表明」(manifestare)されている。バレー
湾A遼
=∵咽
丁孫丁 第
D劾㈹
トによれば,人間社会・人間行為の分析にとってはこの行為類型の分析こそが 最も重要な意義をもっているのである。というのは「人は本能や感情を言語的 に表現しかつそれに論理的もしくは擬似論理的展開を付加することを喜ぶ習慣 !8) V. Pareto, Trattato, S 327. 19) lbid., gS 162f.パレートにおける「合理性」の意義 11 20) がある」。つまり「人間は彼らの行:為に論理的ニスをぬるというきわだった傾 2t) 向をもっている」からである。行為の分析が,信条・命題の分析に進まねばな らない理由がそこにある。実際にそれを行ない,それを通じてえた諸カテゴリ ーを出発点として「社会システム」を理論的に構成したところにパレート社会 学の最大の特徴もあるのである。 さて当面の問題に戻って,「欠陥のある船の建造はANLではない」という 命題の意味するところは,この行為が行為類型皿もしくは1圧には属していない ということである。つまり,この行為は「心的状態」Ps一それが内容的には 一体何であるのかは次節で検討する一の「表明」(manifestazione)ではなく, たとえ誤っているにせよ「科学的理論」によってのみ導びかれているというこ とに他ならない○ かくて,分析をヨリー層おし進めるには,我々もパレートと共に信条・命題 の分析に進まねばならない。 Ilr 「論理・実験的命題」とその意義 パレートに従えば,ある一つの命題は相異なる三つの側面から考察すること ができる。すなわち,(1)「客観的側面」(aspetto ogettivo)(2)「主観的側面」 (aspetto sogettivo)(3)「効用の側面」(aspetto dell’utilith)の3側面からであ る。 第二の「主観的側面」とは,その命題の創造者および受容者との関係でその 命題を考察することを意味している。つまり「なぜある人々はA=Bであると いい,なぜ他の人々がそれを信ずるのか」を考察する。そしてそこで問題にな るのは「感情との一致」もしくは「不一致」である。 第三の「効用の側面」では, 「A=Bという命題で表明される感情は,その 命題をのべた者に対して,またその命題を認めた者に対していかなる効用をも 20) Jbid., Indici deg1玉argomenti, Ic. 2!) Ibid.,§ 154 22) Ibid., §§ 13f.
っているか? そのA=Bという理論そのものは,それをのべた者および受容 れた者に対していかなる効用をもっているか?」が問題にされる。 この2つの観点は,命題をその内在的価値において考察するのでなく,それ を取巻く外的状況との関係において,その命題を評価するのである。だから, 外的状況が変るにつれて,それらに帰せられるべき価値もまた変化する。 これに対して,第一の「客観的側面」は「この命題が経験と一致しているか 否か」を,つまりその命題の普遍的な,いわば内在的な:価値を問うのである。 前節でみた「行為の合理性」の分析との関係でさしあたり重要なのはこの側 面である。次に,パレートによるこの側面からの命題の分類を見てみよう。 Tアattato第523節において,彼は命題の次のような分類を示している。 「(1)叙述的命題 (2)実験的斉一性(uniformita sperimentale)をのべている命題。 ㈲ 実験的斉一性に何かを付加するか,あるいはそれをなおざりにする命 題」。 そしてこの第三の命題は,更に次の2つの細目に分割されている。(3−1) 「擬似科学的理論」(teorie pseudo−scientifiche)(3−2)「経験を超越する理 論」。 次に命題の内部構造を分析することによって,上に示した分類の意味すると ころを明かにしよう。 いかなる命題も,2つの構成要素から成り立っている。すなわち,「素材」 ラ(皿ateriale)と「結帯」(nesso)とからである。この2つの要素の結合の様式 セの は種々であるが,さしあたり次の5つを区別すればよいであろう。(図2参 照) (/) 「実在の」(r6el)素材Aと同じく「実在の」素材Bとが「論理的」結帯 によって結合されている。 (ロ)実在の素材Bと実在の素材Cとが「非論理的」結帯で結ばれている。 23) lbid., E !3. 24) do., Manuel, pp. 46ff, Les systDmes socialistes, Lausanne, 1902−3, T・ 1, pp・ 22ff,
㈲ 実在の素材Cと「想像上」 の素材Dとが論理的結帯で結ぼれ ている。 (=)想像上の素材DとEとが論 理的結帯で結ばれている。
㈱想像上の素材EとFとが非
論理的結語で結合されている。 これら5つのケースの中で,命 題㈲は「論理・実験的命題」(pro旧 パレートにおける「合理性」の意義 13国/気
@
ヘ︻
勘▽◎
④吟
・/④
第2図 posizione logico sperimentale)と呼ばれている。これに対して命題(P)から㈲ま では「非・論理・実験的命題」と呼ばれる。次に我々は,これら㈲から㈲につ いて,一ヒに示した命題の分類表との関連を考慮しつつ,分類,整理してみよう。 表2耀イ 論理的.r.験的 1(、)(、)
ロ 非論理的・実験的 (3一一!) ハ 論理的e非実験的 (3−!)or(3−2) 二 論理的・非実験的 (3−2) ホ 非論理的・非実験的 (3−2) (この表の最右翼の欄は,Trattato§523との関連を示す) これらの諸命題の中で,パレートが真に「科学的」であるとするのは命題α) だけである。ただ命題(ロ)と㈲については,「もし非実験的付加物が〔この命題 にとって〕必要でない付加物(superfluo)であれば」それを取除くことによっ て科学的命題にすることができる。例えば命題一真空にしたガラス管を逆さ にして水に立てると,水が上に昇っていくC,というのは,自然は真空を恐れ ているからであるD一は,命題そのものとしてはのの類型に属する非科学的 理論である。しかしこの命題からDの部分を除去しても命題の実質は変化せ ず,科学的命題(c)がえられることになる。 25) do.,Trattato,§524.〔〕内は筆者による。パレートにとってある命題が「科学的命題」であるための必要条件は,「検 ● ・ 。 , ・ 。 26) 証」(verificazione)の論理的可能性が存在することである。つまり,「我々に とって必要なデータを経験が我々に与えうる」ことの「理論的可能性が示され ヨア れば……さしあたりは……十分である」。従って,命題⇔や㈹のような「形而 上学」的あるいは「神学」的命題が科学的命題でないと考えられていることは いうまでもない。それらは「論理・実験的側面においては,真でもなければ偽 でもない。単に何も意味しないだけである」。ここに見られるパレートの科学 観は,K・ポッパーらの論理実証主義のそれに近いことが気づかれるであろ う。 ここで再び前節でもその一端を垣間見た問題一「誤った科学的命題」につ いて考えてみよう。「安全な航海Bのためには,ポセイドン神に人身御供を献げ ることCが必要だ」という命題Qと「安全な航海(B)のためには,実際には工学 的欠陥をもつ船の建造Gが必要だ」とする命題Pとは一体どう違うのか? 命 題PにおいてもQにおけると同様GはBと論理的には結合されていない。ま’た C。Gともに「実在の」事実である。つまり命題の客観的構造だけから見る限 りPとQとは同値である。にもかかわらずパU一トはPを「誤った科学的命 題」,Qを「擬似科学的命題」と明確に区別している。一体相違はどこから生 ずるのであろうか? 結論からいうと,私は相違は命題の「主観的側面」から 生じたと考えられているように思う。つまり,命題Qは,行為Cを「正当化す る」ことを,半ば目的として,この行為Cを生みだしたのと同じ「心的状態」 Psから生みだされた。これに対して行為Gは(たとえ誤っているにせよ)「科 学的理論」にのみ起源をもち,行為者の「心的状態」みに起源をもつもので ない。もちろん命題Pについても,これを創りださしめ,この命題の原因にな った何らかの「心的状態」P’sを考えることはできるであろう。が,この命題 26) lbid., g g 564ff. 27) Economie math6matique, Oeuvre comPlets. 8, Statislique et e”conomie mathematigue, p. 332. 28) do,, Trattato, S 463.
パレートにおける「合理性」の意義 15 がそれを主張した,あるいは受容した人の行動を「正当化する」目的をもって 主張もしくは受容されたのでないと考えられうるかぎりにおいて,命題Pと命 題Qとは,その「主観的側面」において大きく異なっているといわれねばなる まい。いいかえれば,命題Qは「イデオロギー」としての機能を果たしている のに対して,命題Pはそのような機能を果たしていないといってもよいであろ う。 これまで私は「心的状態」(Ps)という言葉を,それについての内容的説明 を何ら行わずに使ってきた。次にその内容を見てみることにしよう。それによ って「論理・実験的命題」と「非論理実験的命題」との相違がヨリー層明らか になることであろう。 Trattatoの巻末に収められている「事項索引」(lndici degli argomenti)の中 で,パレートは社会的事実をば2大部類MとNとに区分している。ハ4は「本 能・感情・性向・食欲等および利益の,行為もしくは言葉による表明,ならび にこの表明から引出される論理的もしくは擬似論理的な帰結」。これに対して Nは「人間社会がその中に存する世界の諸他の全事実」である。Mは当然「論 理的行為」および「非論理的行為」を含んでいるが,Mのうちで「非論理的行 為」に関連する部分は,更に,「言語的表明を生みだす」部分Cと「言語的表 明を生みださない」部分dとに2分されている。 「心的状態」つまり感情・潜在意識等は,そのものとしては知りえないもの である。ただMを通じてのみそれらは我々の想定しうるものとなる。そして人 間においては,動物と違って,言語的表明0を通じてこれを想定することがで きる。 すでに先にのべたように,パレートはこの言語的表明Cこそが人品社会の理 解にとって重要な意味をもっていると考えている。なぜなら「人は本能や感情 等を言語的に表現し,これに論理的・もしくは擬似論理的展開を加えることを 喜ぶ習性」があり,「社会組織に見るべきほどの影響を与えている事柄は理論 を生みだす」からである。 29、 fbid., Indici degli argomenti Ic;§861.
ところでパレートはこのC(私がTと表示してきたもの)をば「事実的データ を別にして」,更に2つの部分a,およびblt分割する, aはうに比べて「はる かに恒常的」でrANLに直接的に対応していて,若干の感情を表現している」。 それは「人間の精神の中に存する原理(principio)である」。これに対して部分 bはr偶然的でずっと変りやすい」。これも「感情やANLに部分的には対応 している。が,それらに論理的もしくは擬似論理的衣をまとわせている」。そ 30)れはαつまり「人間の精神の中に存する原理」の「説明であり,演繹である」。 彼はこのαに「残基」(residui),うには「派生」(derivazioni)そして。(T) には「派生態」(derivate)の名を与えている。 さて以上の説明からもすでに明らかなように「非・論理・実験的理論」を生 みだした「心的状態」とは「残基」によって「表明される」ものに他ならな い。それでは「残基」た対応しこれによって表わされる「心的状態」とは一体 いかなる性質をもつものであろうか。 第一。r派生態」を生まない「心的状態」は当然その中には含まれない。従 って全ての「単純な食欲・嗜好や性向」,また「社会的事実」としては「利益」 (interessi)が排除される。前者は「推論」(ragionamenti)を生まない「心的 状態」だからであり,後者は「推論」は生むが,ANLにではなくAしに対応 する,つまり「論理・実験的命題」を生むと考えられているからである。だか ら心理学者が重視する「性欲」なども,何らかの「推論」の原因にならぬ限り では問題にされることはないのである。 第二,従って一パレート自身は明示的には指摘していないが 彼のいう 「心的状態」は,本質的に社会的あるいは間主観的(interSUbjeCtiVe)なもので なければならない。なぜなら,言語とは本来社会的あるいは間主観的なものだ からである。 30’凵E lbid., g 7gs. 31)Ibid.,§868.なおrさsiduiは「恒常態」と訳出されることもある。 32) lbid., S 851.
バレーートにおける「合理性」の意義 17 33) 第三,このことは「残基」の内容を見てみるとき一層明らかになる。そこで 「残基」として挙げられているものは,人々が諸個人相互の交通を通じて集団 =社会を形成しこれを維持・発展させていくために必要な基本的「原理」(prin cipio)に他ならないのである。 それではなぜこのような人間社会存立の基本的な「原理」は「論理・実験的 命題」によって表現されえないのだろうか? それは,端的にいえば,一つには「人間は純粋に理性的な存在(6tre de pure raison)ではなく,感情や信仰をもつ存在(etre de centiment et de foi)でも 34) ある」からであり,一つには「その解決が科学の限界を越す問題」があるから である。この点に関連してパレートが書き記した次の章句は興味深い。 「イデオロギー(id6010gie)が文明人の性質の不可欠な一部分(partie inte− grant)をなしていることは否定しえないであろう。このイデ」t・Pギーとそれ に関連する全部分を追放しようとするのは,まさに,人は完全に宗教なしで済 ますことができ,かつ宗教を単なる科学的観念でおきかえることができると想 35) 卸する人々の誤りに陥ることに他ならないのである」と。 バレー1・ぱ経験と観察の領域にとどまる限り「真」であるといいうるのは 「論理・実験的命題」のみであり,これに基づく行為のみが「論理的行為」だと している。しかし,彼は「非・論理・実験的命題」(「擬似科学理論」「経験を超 越する理論」)のもつ意義を決して否定していないのである。彼は次のように書 36) いている。「論理実験的な理論の領域は非・論理・実験的理論の領域とはっき 33)7’rattato, ch.6−8.次に参考のためにその大綱をあげておく。「1.結合の本態。 (lstinto delle Combinazioni)2.集合体の持続の残基。(Persistenza de91i a99regati) 3.感情を外的行為で表わそうとする欲求。(Bisogno di manifestare con atti esterni isentirnenti)4.社会性の残基。(Residui in relazione can la socialit諭5.性的残 基(Residuo sessuale) 34) Pareto, Les syst2mes soctalistes, T. 1, pp. 2f. 35)Jbid., T.皿,pp.401f,なお,パレートのイデオロギー論については, N. Bobbio, Pareto e la critica delle ideologie, Saggi sulla scienza Po/itica in fralza, Laterzaを参照せよ。 36)dα,Trattato, Indici degli argomenti豆g.なお次の箇所も参照。 Ibid・,§§15,69 −30, 70.
りと違っており,後者とは何ら接していない。実験的世界の研究は非実験的世 界の研究と共通のものを何らもっていない。各研究はその領域内で最高の権限 をもっており,一方が他方の領域を侵すことは誰も認めえないであろう」と。 ラ そして更にこうものべている。r実験的現実と社会的効用とは全く異なる2 つの事柄であり,時には対立している。論理・実験的科学の命題においては前 者が見出される。が,後者は見出せないかもしれない。非・論理・実験的科学 の命題においては,通常前者は見出されない。しかし,そこに後者を見出すこ とはできるかもしれないのである。つまり,ある理論は経験とは一致している が社会にとっては有害であるか,あるいは経験とは一致しないが社会にとって は有用でありうるのである」。 以上のべてきた所から明らかなように,パレートの命題論は,(1)経験的世界 の研究と非経験的世界の研究との問の完全な独立性,つまり, 「科学」と「形 而上学」との問の相互不可浸【生の承認。(2)経験的・科学的真理と社会的効用と の間の独立性・二元性の主張とからなっているのである。 つまり,パレートは人間が創りだした相異なる二種の知識形態(経験科学と 形而上学と)が,それぞれ相異なる認識的価値=知識における合理性(epistemic rationality)をみとめているということができよう。 IV 結 び 他の機会に再三書いてきたことではあるが,パレートは,彼の「純粋経済 学」の出発点に,「論理的」に行為する「経済人」をおいている。そしてこのよ 37)Ibid・, Indici de91i argomenti,皿u,なお, Ibid.,§14.をも参照せよ。 38)C.Mongardiniはパレートにおける「論理・実験的命題」の明らかにするのは,「科 学的真理(veritきscientifica)であるのに対して,宗教形而上学などによって得ら れるのは「実存的真理」 (veritb esistenziale)であるといいうるとのべている。 (Il problema dell’ ideologia, Attualita di Pareto, p. 67.) 39)例えば,松嶋敦茂「V・パレートにおける経済学と社会学」『社会思想」3巻2号, 「パレートの経済学方法論」『彦根論叢』 No,194, Economics and Sociology in Pareto’s Thought, Shiga Univ. Working Paper Series No.2,など参照。
パレートにおける「合理性」の意義 19 うな想定の根拠として,経済的行為の「反復性」が挙げられていることについ てもそこで指摘しておいた。本稿ではこの点をヨリ一層堀下げて「社会的行 40) 為」が「論理的行為」として成立するための諸条件を検討してみたい。 第一。ある個人が「論理的」に行為するためをこは,彼にとって利用可能な諸 手段の中で,彼の目的に対して,一般的に認められた経験的知見に照らして, 最もよく適含していると思われる手段を選ばねばならない。ところで,もしこ の行為が「自然」を対象として行なわれるのであれぽ,彼に必要とされる知識 は主として「技術」的なものであると云えよう。しかし,もし彼の行為が「社 会」を対象としている,つまり他の個人YZ…等の行為を不可欠な媒介として のみ実現されうるものであれば,単に「技術的」な知識だけでは全く不十分で れ ある。彼には更に次のような知識が最低限必要とされよう。すなわち,(1)彼の 行為のYZ…等による解釈。(2)YZ…等の反応(react量on)とその動機。(3>YZ …等がいかなる(行為の)目的体系とそれを実現するための諸手段をもち,彼 らが目的手段の相互連関関係についてどの程度認識しているか。…などについ ても明確に知っていなければならない。 しかし,果たしてこれは可能であろうか? 可能なケースが2つ考えられる。 一つは共同体的関係。しかしこれは諸個人が「論理的」に行為するという前提 と相容れない。二つは,関係する「行為者たちが,彼らの属するin−groupに よって行為のルールとして社会的に承認された特定の規準(standard)によっ て彼らの行為を方向づける」場合である。諸個人が「論理的」に行為するとい う前提と相容れるのはこの第二のケースである。 この第二のケースの具体例としては次のようなものがある。個人X.Y, Z… 等が「会社」や「軍隊」などの一員である場合。彼らが理想的に確立された 40)以下の分析(第一および第三)は次に掲げるA・Schutzの論文に負う所が大きい。 “Common−sense and Scientific lnterpretation of Human Action”, Collected Paper J, Martinus Nijhoff, 1962. “The Problem of Rationality in the Social World”, Collected Paf)er II, Martinus Nijhoff, 1964. 41) A. Schutz, Collected PaPer fl, p, 80. 42) do., Collected Paper L p. 32.
「市場」の担い手である場合。さらに彼らが定められたルールに従ってゲーム やスポーツ競技を行なう場合などである。いずれにせよ,ここで注意すべき点 は,(1)合理的行為(AL)は,単一個人の「孤立した行為」(isolated act)ではあ う りえず,それは「合理的行為(AL)のシステム」の下でのみ実現可能である。 (2>このようなシステムは,いかなる時と場所においても存在する。没歴史的な ものではなくて,いわば歴史的にのみ形成されうるものである。パレートが 「社会的行為」・におけるAしの典型例として経済的行為を挙げる際,1彼は暗に このような「システム」つまり市場メカニズムの成立と定着を前提していたと 云うことができよう。 第二,ところで仮にこのようなシステムが存在するとしても,行為者Xがこ のシステムに存する「斉一性」(uniformita)=法則性を正しく認識して,これ を自己の目的の実現のために意識的に利用しうるとは限らない。 パレートは,経済人は経済的行為の「反復」を通じてこのような斉一性の認 識に到達しうると考えている。しかし,行為の「反復性」だけで,それは保証 されうるのだろうか。我々はその反証の1つをすでに第二節で示している。す なわち,自由競争の下での企業家は自己の意図に反して,利潤の増大ではなく て価格の低落をもたらすような行為=・ANLをする。今この例を一度ヨリ詳細 に分析してみよう。 ある目的Eを実現するために用いられるべき手段Mが適合的であるとはどう いうことだろうか? それはEとMとの間にいわゆる「因果関係」があるとい うことだろうか? パレートはこの答を拒否するだろう。というのは,彼はい わゆる「因果関係」論を否定しており,相互依存関係の総体をこそ問題にする からである。つまり手段Mの行使にともなう波及効果=相互依存関係の総体と して,もしEが実現されたとすれば,MはEに対して適合的である一論理的 に結合されている一と云いうるのである。従って,Aしとは,ある行為がも たらす総波及効果=相互依存関係の総体の認識に基づく行為でなければならな 43) lbid.
パレートにおける「合理1生」の意義 21 い。だから,先に挙げた企業家は彼の行為のこのようなマクロ的分析を行いえ なかった。いやヨリ正確に云えば,行いうる位置(立場)にいなかったという ことができよう。 一般にあるシステムの内部にいる人間が,自己の行為の総波及効果一マク ロ的効果を成功的に分析することはきわめて困難なことである。 もちろんそのような分析が比較的容易な場合もある。さしあたり,経済の領 域に限定して考えると次の3つのケースが考えられる。(1)主として「技術的」 な行為。 (もっとも,純粋に「技術的」な行為は「経済的」行為ではありえな いが)。(2)完全競争市場における消費者の行動のように,彼の行為がシステム に対して有意な影響を与えず,従って彼の行為の波及効果は無視してよく,外 的環境はほぼ一定不変と考えられる場合。㈲「完全独占者」のように,彼の行 為のマクロ的効果を比較的適確に知りうる立場にある場合。パレートが念頭に う おいていたのもこれらの場合であると思われる。 第三。Aしとは「主観的目的」と「客観的目的」とbNh 一一致する行為つまり 主観的にも客観的にも,手段が目的に対して適合的に選択されていると見なさ れている行為である。が,この条件はA・シュッツも指摘するように,かなり 困難な問題を含んでいる。というのはこの条件が実現されるためには,「観察 される老」 (=行為者)の知識のストックと,「観察する者」の知識のストッ ク,両者の「妥当性」(relevance)の体系が,少なくとも基本的な部分では一 致していなければならないからである。しかし,この条件の実現は必ずしも容 易なことではない。このことの例証としてシュッツの挙げている例を1つ紹介 しよう。干天に雨を降らせるという行為を考えてみよう。アメリカ・インデア ンの中にはrain danceで雨を降らそうとする種族がある。これに対して現在 の気象学者たちはヨード銀(si正ver iodine)を使って入工的に雨雲をつくって雨 を降らそうとする。これら2つの行為はもちろん「主観的」にはいずれも「合 理的」 (論理的)である。が, 「客観的」にはどうだろう。現代では,アメリ 44)註13)を参照せよ。
カ・インデアンの行為を「論理的」だとする者は少かろうが,第二の行為も, ラ 「20年前の天文学者」なら「論理的」ではないということだろう。現代のよう に科学的知識が非常な速さで変化する時代では,先に見た条件の実現は益々困 難なものとなるように思われる。 自然現象を対象にした認識においても事態はこのようである。まして社会現 象に関して,「観察者」と「観察される者」の知識と妥当性の体系が基本的に ラ ー致することはきわめて困難だと云うべきであろう。 の このようにパレートの意味でのALは社会的行為としてはきわめて実現が困 難な行為類型だと云わねぽならないであろう。もちろんパレート自身もこのこ とは十分に知っていたに違いない。だから人間の行為は多く「非論理的」であ るとのべたのである。 第二節でも見たように,「非論理的」ということは決して「反論理的」とい うことではない。また彼はANLが「非合理的行為」であるとものべていな い。彼が意識してそう云わなかったのか否かは別として,彼が「非合理的」と いわずに「非論理的」と表現したことは当をえていたと私は考えている。とい うのはパレートの意味での「論理的」一パーソンズの意味での「合理的」 一は日常語としてのrationa1の語義と同一ではない。いや重要と云ってもよ い相違を含んでいるからである。日常語においてrationa工な行為とは,理性的 るの 行為。sensibleあるいはreasonableな行為を意味している。ところでシュッツ パのトナゆ によれば,sensibleとは「その行為の動機とコースとが我々つまり同伴者もし 45) lbid., p. 29, 46) この事はパレートによっては,よく認識されていたように思われる。「理性」のみ によって支配される社会はありうるだろうかと自問して,これに否定的に答えた時, パレートが論拠としていたものはまさにこの認識であった。前掲松嶋論文(「バレー トにおける経済学と社会学」)参照。 47)例えば0・E・Dでは次のように定義されている。1)Having the faculty of reason. 2) of, pertaining or relating to, reason. 3) Based on, derived from, reason or reasoning. 4) agreable to reason; reasonable, sensible, not foolish, absurd or extravagant…….なおA. Schutz, Colleeted P妙θr I, P.27参照。
パレートにおける「合理性」の意i義 23 くは観察者に了解しうるものである」ことであるという。つまりそれは「典型 的な目的を達成するために典型的な手段を適用することによって,典型的な問 題とおりあう社会的に承認されたルールや手法の集合と合致する」行為を意味 している。この行為は手段の目的への適合性を含意してはいない。例えばある 人がひどい侮辱をうけて大いに立腹したとする。その行為によって彼の「立 腹」の原因はとり除かれなかったとしても,その「立腹」が一A・スミスの 表現を借りれば一人々の一般的「同感」をえられるものであれば,その行為 はsensibleといわれよう。 これに対して「ある行為が観察者にとってsensibleであり,かつその行為 が,可能な種々のコースから選ぶことから生じたものである時には,たとえそ れが正当だと見なされている伝統的もしくは慣習的パターンに従っただけであ る つたとしても,この行為はreasonableだと云いえよう。これらの行為は明ら かにAしではなくANLである。しかしそれは通常「合理的」な行為だとい われているのである。 つまり私の考えでは,パレートが人間行為の基本類型をば,論理的=合理的 でも反論理的・非合理的でもなく,まさに非論理的であると見た点に,彼の認 識の最大の独自性・メリットがあるように思う。その点で彼は「新古典派経済 学者」たちとも,ロマン主義的・非合理主義者たちとも,はっきりと区別され るべきであるように思われる。 しかし,このような重要な意味をもつ行為(ANL)を, Aしの補集合・残余 カテゴリーとして「反論理的行為」などと一緒にして論じてしまったのは,云 うまでもなく,賢明でなかった。そこから多くの誤解や混乱が生じたのであ る。 このように,パレートの社会学理論は,社会的行為の理論としては,曖昧な 点をふくみ,不完全なものだといわれねぽなるまい。しかし,彼の目指したも のはそこにはなかった。 48) Jbid., pp. 27f.
それでは,彼がその主著Trattatoを通じて解明しようとしたものは何であ ったのか? 本稿でもたびたび使ってきたTrattato巻末の「事項索引」(lndici deg1量ar一 る の gomenti)の中で,パレートは自分の著作の目的をこうのべている。 rこの著作 の目的の1つは,現実から〔派生〕というヴェールをとりさることである」 と。つまり種々の理論や学説によっておおいかくされている現実を,人々の 「意識」の下から引きき出して一構造主義者の言葉を代りて表現すれば一 社会のinvisible structureを溢出することこそが彼の目指したものであった。 そしてこの「見えざる構造」を挟出する際の論理的規準こそが,「論理的行為」 一「論理・実験的命題」であった。次にこのことをTrattato派別構成の分析 を通じて示そう。 第1章「序論」(preliminari)で方法論的諸前提を明らかにした後,第2章か ら第5章まではこの著作の「帰納的部分」である。まず第2章「非論理的行為」 (Le azione non−logiche)では,既に本稿第二節で明らかにしたように行為を
AしとANLとに分類。その上でANLの構造を分析する。この分析の上に立
って,ANLを「正当化」し「論理化」するものとして「非・論理・実験的命題」 が位置づけられる。(第2章および第3章「学説史における非論理的行為」Le azione non−10giche nella storia dell dottorine)。第4章「経験を超越する理論」 (Le teorie che trascendono dall’esperienza)および第5章「擬似科学的理論」 (Le teorie pseudo−scientifiche)では,すでに本稿第三節で明らかにしたごと く,「論理・実験的理論」を規準としつつ,「非・論理・実験的理論」の構造が 分析される。そして,この分析を通じてえられたカテゴリー「残基」(residui) をば出発点として,第6章以降の「上向的」研究が展開されることとなる。 「残基」一→「派生」→両者の統合,が論じられた後に,第12章「社会の一 49) Pareto, Trattato, lndici degli argomenti, lb. 50)以下の叙述はN.Bobbioの諸論文(前掲書所収)に教えられる所が多かった。な お,その中の一論文は下記に英訳されている。t‘lntroduction to Pareto’s Sociology”, On Mosca and Pareto, Droz, 1972.パレートにおける「合理性」の意義 25 般的形態」(Forma generale della societti)においてパレートは,それまでは 十分に考慮されなかった要素(利益,階級)をも加えて「社会システム」の構 造を解明するのである。 以上の簡単なスケッチからも肯づけようが「論理的行為」一「論理・実験 的理論」の両概念をばパイロットとして,パレートは「下向」と「上向」の長 い途を旅したのである。 経済学において彼は,「論理的」に行為する個人=経済人を出発点として, その属性から「合理的」方法によって,「経済システム」の全体構造を構成して みせた。しかし「社会システム」を理論的に構成するに際しては,このような うエ いわば「合理的」な方法をとることはもはやできない。彼は人々の「意識」か ら出発するのではなくて,その「意識」を更に下向して,その上で,彼らがそ の日常意識においては決して把握しえない「見えざる構造」をば描きだしたの である。 (!980年2月11日) 51)Pareto, Trattato,§2079参照。