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る 。 唯太子の師は慧慈法師であり、共の思想南岳大帥を承けたには異いないが、古今目録抄に 今 此 , 疏 者 似 = 一 大 台 − 似 − 吉 宗 d 以 = 光 宅 寺 雲 法 師 疏 一 時 日 一 本 義 一 然 而 難 り 取 司 何 ノ 宗 吋 と 一 一 一 日 は れ る や う に 何 の 宗 に も 偏 頗 し て 居 ら ぬ と と は 事 賞 で あ る 。 賞は太子の俳敬は僻敬の窮めの悌敬でたく‘唯皇室中心の話めの働法、敬化第一の矯めの働法で有ったのである、 太子の叡智大陸文撃の渡来に伴った思想動揺の時に臨んで、直に之に俊一四して研究をつどけて、との大陸の思忠文鳳一− を融化して日本建国の精榊に同化して、 日本同有の精神と合致した大思想を創見した所に、太子の偉大さがあり太子 の株色が有ったのである。 夫れ故太子が数多の寺塔を詰ったことも、儒者流に見て伸敢に耽溺して敷多の堂塔を詰立したなどと見るのは、太 子の全貌 b L 知らない湾見者の妄断である。 奉 常 = 天 皇 井 御 世 天 皇 一 管 = 詰 λ 七 ケ 寺 ↓ E q j ヲ ギ 以 件 ノ 伽 藍 敬 主 泉 下 ? 岬 ん 陛 下 井 御 世 ノ 御 世 治 3 天 下 一 由 主 上 ム﹂凶節交にあるととが事賓太子の本心であらう.四天王寺は守屋討伐の誓願に於て立て、法隆寺は用明天皇搭病平癒 祈願の矯めに建てられたと倖へられ、共外四筒院施 事量 院 施 輔 衆 慈 善 院 療 病 院 慈 益 回 病 院 悲 同 院 孤 児 養 生 院 敬 同 院 感
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院 と 一 一 一 口 っ た ゃ う の も の は 言 は や と 知 れ た ‘ 一 畦 舎 事 業 の 機 闘 で あ る の で . 働 敬 徒 に 祉 合 事 業 を 委 ね 、 隼 皇 愛 閣 の 道 場 を 起 さしむるなE
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・十七憲法の 二 a 日ヶ鰐敬三賢三費者備法借也、則同生之格闘寓閑之輔宗也 と 一 言 へ ぽ 夫 れ 妙 法 蓮 華 経 は 査 し 是 れ 惣 じ て 寓 菩 を 取 り て 一 因 と 在 す の 曲 一 京 一 同 : ・ : 庚 ︿ 寓 善 同 時 の 理 を 明 か す ム﹂法華義疏開巻第一にある文と同巧異曲 十 四 、 続 悲 棄 照 不 怒 、 建 人 皆 有 心 、 心 各 有 執 彼 自 疋 則 我 非 、 我 日 疋 則 彼 非 、 我 心 非 聖 位 非 市 内 主 ハ 日 疋 凡 夫 耳 ・ : ・ : とあるは勝章義疏の 寓行王法を以て︵一念の﹀心とし︵一念の︶心を以て寓行五法と鴛す、心と法と一体にしてこ相なき故に、寓行革 法は即ち是れ心、心は即ち寓行E
法 ・ な り と 言 ふ な り ︵ 世 界 聖 典 杢 集 義 疏 間 十 二 ︶ ’ と あ る 義 疏 の 精 一 柳 と 其 の 根 本 は 一 致 し て 居 る と 見 て 柔 支 な い と 思 ふ 。 かく一々討験を加ふれば太子の憲法精神の由来する所を知るととが削来る、共中第一一僚の﹁以レ和得 L貴無 L杵 岱 レ 宗 ﹂ ::・は寓物融通の犬平等主義から出張した大乗一貫精神なるととは勿論である。 而して憲法の別体は推古天皇の十二年でご一経の宮中御講演は十問年と言はれである、此の前後に於ける太子の思想 境遇に欝化のなかったのみ左ら歩、身は推古天皇の皇太子として天皇の請に依て之を宮中に講じたので、との講本が 天下を風腰したと言ふより、共の形勢風潮が天下後世に影響した所は異に偉大たるもので、とれから僧尼度牒の志願 殺到して人員を制限身分を計って許した制度の生れたのを見てもわかる、此の感化徳風の偉大なる跡を慕って後代に 異に戒壇建立の思想と輿論が生れたものと見たのは私の見解ではるるが、とれは至営の推理であると思ふ。戒
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開舎の二字は法華経の思想を全的に言ひ顕はすよき文字である c 法華経の山なる身延山の関門に、開合闘と記され たる六牙潮師の三大文字は、との御山に最も相臆ぜる額面として、毎に合掌拝観しつ L 通過するのである。然るに文 明の機械が思想図作にまで影響するもの L 一ツとして、電車自動車等の交通は、参拝者に針する難有き思惑なると同時 に、隼き露蹟を逸せしめるのみ左ら守、御山の幽遼傑厳味を損減する恐れがある。今の開舎闘の如きも幸に寧掌の設 明を聞いたものは‘共の瞬間車窓より一瞥するに止まり、但だ大きた草書であったと思ふばかりである。偶 K 山 内 に あってさへ、祖師堂あるを知って棲一柳閣あるを知ら歩、総門あるを知って間合闘あるを知らないものがある。自分は 先日佐 K 木帥の施本感鹿院日得聖人の報恩誌を得て、聖人を回顧すると同時にとの開舎の感を新にしたのである。 開舎といふととは宗門の撃者にとりて・は、殆んど常識的に考へられ・ながら、との位謬られ易い思想はない。そとで との開舎思想に封する認識を確にする必要があると忠ふ。 聞といふ字は、開顕・開費・問除・開廃等と熟字して、隠援護覆を取り除く意味と、同時に法門の内容民相を明か にする意味・なれば、との一字でも門戸開放内外融迫真相琵却の献態は能く領鮮が出来る。共の上に合は舎融・舎尉・ ム町田合・舎入等と熟字して、恰も百川の一大掘に朝宗するが如く‘差別の諸法を一ツのものに師入せしむる意味である から、開舎といふ時は直に真理顕彰、諸法統一、平等無差の綜合的名稲と心得べきでるる。川疋の如く考へるとき同曾 開 曾 a思 想 九開 舎 忠 、 想 、
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の思想は但だ法華経に限るべきであるが、悌一代の聖一救に於て、 凡そ園理を詑く庭叉幾分間舎の思想が・ないでもなv
、
口 故に五口組は一代大意紗︿一八四︶に爾前の固として、 華厳・浮名・般若等国理の詮文を接げ来りて、﹁少々開舎 の法門を説く臨もあり﹂、と仰せになって一往法華以前の開舎を沿許しになって居る。然し通漫に法関救理の融通を以 エ 開 舎 と 見 な す な ら ば ‘ 帥 救 に 畑 山 ら や 他 の ん 一 不 敬 及 び 折 H 皐思想中にも、之を見出すことが出来るであらう。共では開舎 を以て法華最勝の妙刷、法華思想の金的表現などと珍重すべき慣値はないと思ふ。加之乙のま L 粗 略 に 考 ふ る ・ な ら ば 雨前も法華も念怖も題目も同じと一五ふ思想に煩ひされ、やがては催貨雑乱の大誘法に堕するととであらう。五口組の所 前﹁日本闘の z 説法は雨前の固と法華の固と一ツといふ義の盛たりしよりとれはじまれり﹂との御言葉は移して以て五日 等が将来の警告とせねば・ならぬ。そこで更に問舎の民意、内容‘目的等を研哀して見ると、容易に前越の如く簡単に 説明しては措け・ない。即ち悶舎の意味は前の通りに相違なけれども、立名の所以は正に法華にあるので、根本は法華 の妙旨を費揮すべき大事な法相なのである。その言葉丈を暫く雨前の凶殺に寄せて視たまでに過ぎたいのである。一=日 び換れば法華開舎の後、更に爾前を顧みてその法味を再吟味し、その法門の慣値批判を試みたに過ぎないのである。 されば問舎は法華の妙を開聞はすべき主要の法相で‘法華思想を共ま L 顕 は す 言 葉 だ と も 一 五 へ る の で あ る ・ υ 即ち天台 の主治︵丘四左︶にはコ一に妙を明さば泊してことなす、一には相伴こには絶待たり、此の粧︵法華経︶は唯二妙を 論ポ﹂︵原漢文︶とありて、相待に妙を諭やる時には、八 7 ︵ 法 務 一 ・ ﹀ 品 目 ︵ 雨 前 ︶ 彼 ︵ 雨 前 ︶ 此 ︵ 法 華 ︶ 相 封 し 、 松 の 土 日 の 危の散を破廃して今の救の妙なるを一不し、絶作に妙を論やる時には、模即宜三来即一一来と開舎するが放に、賓の外に 椛 な く 一 千 叫 ん の 外 に 三 乗 ・ な く 、 会 く 今 品 目 隔 舎 の 法 の 別 な き を 彰 は し て 、 正 に 法 華 の 調 妙 b L諭守るのである。故に前者は 一位彼此の愈砂を判じ、後者は施植の械を開舎して、法荘一・の質法に師納して見れば、本来との質法の本心から‘施機の諸法を分別したのだから・皆一賓の妙法となって、彼此樺賓の相はなくなるのである。日疋を宗祖は組勘文紗︵一八 九七﹀の中に﹁四十二年の夢中の化他方便の法門も、妙法蓮華経の嬬の心に蝿まりて‘心の外には法左きなり、此を 法華経の開舎とは云ふ・なり﹂と仰せにたってゐるのである。即ち爾前の諸経は法華の真置を顕はさんが矯めの樫謀な るが故に、法華の震が顕はるれぽ爾前の構謀を要しなく、凡では法華・経陣内のものとなって‘比較すぺき何物もなく 骨法華の一一来法とたって、恰も模粧の存在を亡じた形に・なるから‘開の時即ち廃すとも言はる L のでるる。されば宗 組は﹁絶待妙と申すは開舎の法門にて候﹂︵縮遺九八﹀と仰せになり、併せて謬り易き思想を警戒して居られる。 是の如く結待妙の意は. 一 代 聖 歌 を 共 ま L 法華経なりと開合すれども、法華経乙そ能聞の妙で‘爾前経共他一切の 法を能く開合する妙用ありとなし、爾前経等はとの法華経によりて問合せらる L 所開の法と定めて︵遺文一九五、問 九三﹀開舎の主障を明にすべきである。陪て諸大乗経中の法門も、法華の矯めの部分訟として、或る時はとれを開曾 して活用し、叉或る時は法華経の開舎によりて、諸経営分の敬谷を究覚せしめる妙術をも含まれて居るので、開舎は 叉浄化・活用・成怖をも意味するととになるのである。︿御遺文一八九七・ 一 九 一 一 ︶ との場合逝即是順と相封的に 間合するのと、小善を其のま L 大 平 均 日 と 同 種 類 に 就 て 開 命 日 す る の と . ご た 通 り あ れ H C も 今 は 之 を 略 す る 。 然らぽ前に撞べたる法華以前の開舎とは如何、華巌・方等・般若等諸大乗経過同の固理を、法華部より且く敢に約 して別して興へる謹より、少々開舎ありと詑くので、諸味の岡敬は更に開すべからや’といふものは是である。然れど も部に約して通じて奪ふ時は、諸味の岡敬は特多少棋を食入内して居る故に、悉く所聞の法となるとと前述の通りであ る‘但し雨前に許さる L 開舎は法のみの開舎で、人の開舎は法華経に限るとせらる L の で 、 そ の 版 闘 に 既 に 貰 狭 の 茅 − のあるととだけはよく解る。更にその内奥の員理を研裏する時は、但だ岡融相即の妙理と言ふだけで‘国哉と稗する 開 令 思 想
~11 合 . 思 恕 一 部 一 一 映 の 艇 典 が あ る の で な く . 充 様 ・ 恋 歌 理 を 含 ん で 居 る と 一 試 ふ に 過 ぎ な い 。 故 に 法 華 よ り そ の 部 の 距 意 と し て の 教 理を認めて法開舎とすれ
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も‘華巌は僻陀随自の内詩、方等は開詞を主としての小概劉破去れぽ、開舎の意顕はれ宇 仙 川 若 部 は 法 の 融 通 を 目 的 と す る の で 、 脚 か 法 開 舎 と 稀 す る と と が 問 来 る ま で ど あ る 。 共 の 法 門 の 内 容 と し て も 、 法 恭 一 ・ の如き諸法世相十界平等の虞理が顕はれざる限り、法のみの開舎も未だ完全とは品目はれぬ。況して爾前の開舎は各其 都内に限られてゐるが、法華の法問舎は綿じて一代聖教を所聞の法とする。故に況口組は﹁法問舎の交は方等般若にも 品 川 川 に 談 ゃ れE
も法華に等き事友し﹂︵御遺文六六六︶と仰せられたのである。 共上に法華謎門の開願に於ては、開標額賀に於て爾前の棋の敬理を間合し、舎三蹄一に於て爾前の棋の行人を間合 し‘闘満たる訟の開舎の上に、爾前に絶へてたき二乗人天等庚く九界の衆生を開舎して、等しく一一僻乗に舎入せしめ た。日疋が諸艇に秀でたる人の開舎で‘との時には開舎によりて五共の思想がよく顕はれてくる。即ち皆成怖を目的と したものである。是の如く控門の四一開舎の上に、本門の開顕K
於ては、伽耶近成の敬主糟傘を以て、五百墜賠久遠 本併の垂越と左し、その誼併を開舎して、本併の質事を顕はすと共に、総ての働界の根本的統一をはかり、漣門の四 一開舎に封して、本門の敬現行果を顕はす.即ち本地所詮の境界たる本有の賓相も議にあるのである。 以上越門の開顕を以て、爾前の人法を間合し・本門の開顕に依て、爾前趣門の諸仰を開舎し、二門の開顕を以て正 w h 法華の開舎を全ろすと訟すものは、尚ほ謹門に立脚せる天台の開舎思想にして‘本門立脚の五口組より見れば‘ 切 所聞と怠るべきである。其は誇量品の顕本を塵賄久遠とせば、従来の例法を開舎し得るとするも、過去に塵貼の最初 あれば、本営に過去常とは一試はれぬ。剰へ本悌所詮の境界を漣門所顧の宜相とする様では、諸味の固障同に遠からず る感じがする。乃ち五口組は本門書量品の文底を徹見して無始の古併を顕はし、古悌の内詮を妙法蓮華・艇としたので、本併も無始無格三世常住にして、所詮の本法亦本有常住事常無作の妙法なれば、三世十方の諸悌並に所設の経法而か も今日頴設の書量品に至るまで、悉く今の書量文底妙法五字に封ずれば、序分であり主段準備の法門・なれば︵御遺文 九四二︶五百塵知本畳の併と雄
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も 、 同 県 に 無 始 の 本 伸 に 問 合 せ ら れ 、 書 目 亙 品 ま で の h 拡 散 の 法 門 も 、 一切妙法五字に罷 まって、妙法木伸の外には何物も・なき程に、同満究覚の開舎が行はれる。随てとの時には偉大なる包溶性も、三法一 休の妙旨も、質際に護持せられるので、同疋を異に法華経の悶舎とも‘品 H 成 品 抑 道 と も 云 ふ 、 絶 待 唯 一 の 法 門 視 で あ り 、 世界統一の本悌翻である。開舎の思想も蕊まで来・なければ徹底したいのである。悲に無限大の救済力がるり、認に高 法活用の妙能あるを知らねばたらぬ。徒に浅薄紅る間合思想に泥んで、樺賞雑乱の大誘法に堕せざらんととを切望す る 次 第 で あ る 。 ︵ 十 二 、 十 、 十 五 、 在 延 血 中 寮 幼 卒 未 定 稿 ︶ 開 令 回"
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想 、清 澄 寺 大 衆 河島
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− 、 は し が き ニ 、 清 澄 の 大 衆 三 、 調 印 願 義 静 義 一 回、宗瓢と割問鮪義務 車 、 海 開 房 穴 、 理 由 利 房 七 、 遺 義 房 義 倫 務 義 八 、 閥 智 叡 智 質 成 丸 、 明 心 閥 頓 西 発 −。、伊勢公ノ御房 − − 、 助 ノ 阿 闇 梨 − 二 、 明 慧 房 = 二 、 肥 前 公 貨 幸Y 清澄寺大衆とは宗祖営年に於ける清澄寺の大衆の意である。とれに先建て先づ師の房たる遺品一昔御房に就て匙ぶべき であるが、とれに就ては去月法華誌上に﹁奮師道善御房﹂と題して一交を草した故に、本稿は遺善房以外の清澄の大 衆に就て述べるととにする。とれを研究するに営つては‘御還交が根本史料であって‘弐で遺交に就ての諸先師の末 註等を参考して‘とれを紡梯乍ら取纏めて営年清澄に於ける聖人の附閣の環境を明にせんとするものである。古来諸先師の研究中清澄の大衆を明かにしたものとしては、別頭統紀第三に営時に於ける同門の絹素とし‘且つ清 法寺初持法輪の折の劃告衆として 道 義 一 屍 ・ 浮 一 期 一 民 ⋮ 開 一 寸 法 肝 一 清 一 義 母 げ 房 ・ 背 蓮 一 民 、 明 心 房 、 寛 成 長 ・ 浮 国 民 蹴 一 語 肝 一 羽 一 回 頓 房 、 西 曹 長 、 園 密 一 長 ・ 観 智房.質智房‘国管長雛借稚児之類戚出勢 ι之︵全
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︶ と十三名を列ね、叉鋒外考文五には﹁開宗之日在レ座之人﹂として、前掲の外に地頑景信を出し、更に岡智、道芸同国加の 略俸を掲げて居るが、要するに是等の中国密を聖筏の設とすれば、青蓮を除いては遺文の中に散見する、清澄を中心 とする人々を列悲して、且らく清澄の大衆とし、叉聖人初締法輸の封告に擬したものである。 今遺文中に散見する営時の清澄の大衆を列車中するも仏らば、清澄寺大衆中に七名、御振舞紗に五名、善無長紗陀三名 報恩紗、凹信五日間妙に各二名、新尼齢、光日房御堂同、聖密房御書、別営御一局御返事に各一名を見るのであるが、此等 中にも勿論東出もあるので、別人としては且らく十五名を算するととが出来る・即ち左の如くである。 義 名 房 房 義尚/名
六 六 六 紗 善 | 五 五 五 細一一
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中寺 ! 別 鈴 御 振 一 費 一 一 一 一 一 一 御光 書日 民 ? 事 . 恩 長少 品問紗信
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J F i J 4 ノ 右の十五名が現に遺文に散見する所であるが、浮願、義浮の如きは賜書もあり‘且つ聖人と最も閥係のあった人 k 智 房 である。執れにしても遺文中に於ける表示の多少は.順にまれ逆にまれ聖人との闘係の親疎を物語るものである。 閤 梨 向ほ此の外現存古文書中に・且らく三名を見出すととが出来る。即ち共一は身延文庫所臓の嘉暦三年正月の﹁日進 城 房 聖人仰之趣﹂︵棲紳一二披所載︶に、開宗営日の献を越ぷる中に道善房は勿論.外に道義房、義一房.慈義房の三名が 頓 房 発 房 』回 同 房 慧 房,
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房 密 房見 ら れ . M A金津文庫所臓の建長年聞の寂澄手樺本の奥書に依れば、肥前公法鍵久は日手が営時清澄の大衆であったと とが明かである。故に遺文散見の十五名に今の古文脊の義一耳、慈・議長.肥前公の三名 b L 加へて、且らく十八名を算 するととが出来る。以下是等諸人に就て述べるととにする。 活用額房、義海房、義一一房、慈義房 清澄寺大衆中に於て宗岨と最も親しかったのは、恐らく滞顕、義母の二人であらう、大衆中に於て現に賜警の存す るのは豊密房以外には此の二入者のみである。又此の二入者は他の大衆とは異って、その賜書の多い点からも、法門 住 前 ,ーー,《ー・ー、 同 文 氷 七 善 無 長 三 蔵 紗 竹 一 の内務からも早く聖化に蹄し・随うて親しい闘係にあったのである。今その賜寄 b L出さば左の如くである。 浄顕.義浮 八 佐渡御勘気紗 40
4
主 義博房御室長大 渡 同。
建 治 清澄寺犬家中主 佐 華果成就航芝町 報 恩 h u F 4 四 a m 実= 同 後 同 選 紙 一 4 同 弘安一冗 同 本骨尋問答紗む 清 寺 大 量 民 歩,
活 ま 同I
司 義 崎 市 滞 顕 持顕.義浮 同 同 同 同 浄 顕 七情 il'l 4 T 大 家 守主 j¥ 此の外二人者の名の出づるものは前表の如くである。 此二人は遺文中に於ては宗岨との闘係は明瞭ではないが、恐らく二人共に健砂︵七、六阿︶のいふ如く、宗組と北ハに活 善房の弟子と見るべきであらう。且つ二人は共に柏先輩であり・古来よりの霊停は等しく宗祖開宗の日の初持法輸の 折.地一明景信の難に宗組を庇誰して華房に菟れしめたと侍へる。此のととは本骨尋問答妙に 貴謹︵浮顕﹀は地闘のいかりし時、義城房とともに清母を出で L 、沿はせし人なれば‘何となくとれを法華経の御 奉公と、なぼしめして生死を離れさせ給ふべし。ロ とあり、叉報思妙に 日蓮が景信にあだまれて‘清澄山を出でしに、誼ひてしのび出でられしは‘天下第一の法華経の奉公・なり、後生は 疑 h u ぼ す べ か ら や ’
02
等とあるに依て古来よりしか解したのであらう。 併し乍ら身延文庫所臓古馬本.聖減間十四年後の嘉暦三年戊辰正月一日の﹁日進聖人仰之趣﹂に依れば、身延第三 世日進聖人仰として.開宗の日の有棋が古老借よりの聴聞として 一 、 日 本 圏 中 の 諸 宗 念 伸 、 真 一 吉 田 、 開 宗 等 皆 無 間 亡 国 天 魔 と 一 Z K 、 共 の 時 導 善 の 御 百 却 を 奉 レ 初 数 十 人 の 人 k 赤面してを はします。良あて導普御反聖人をつく/\と御覧あて被レ仰けるは‘ 道 義 御 房 の 念 伸 し 無 聞 の 業 賊 ・ : ・ ・ ・ 共 時 導 士 官 御 , 房は戸をたて L 内へ入り玉ふ也、共後安房上組の念帥者と云百余人同心して‘繭陀伸の敵よとて、夜打に寄て J 打殺 しまいらせんと儀する底に、つねに聖人に付そいまいらせし、義一房、慈義房二人の御同宿此のよしを聖人に語り 巾也、共の故に夜打をのがれ玉ふ也、共の後束僚左衛門に所を沿はれ.K
ふ 也 。左記して居るが、此の詑事が果して事賓とすれば、開宗の説法に封する念働者等の聖人夜打のととは数日後に属し、 叉景信よりの揖出は更に其の後となるのである。 此の記事に依れば埠放の事賓は古停と一致するが、唯時間の上に相違があり、叉不時の難を菟れしめたのは浮顕義 浮でなく、義一慈義の二人となるのである。今且らく開宗の日の折伏に封する、念働者の難は義一、慈義の内報に依 で菟れたとしても、後の地周景信の遁放の時に、浮欄義洋が宗祖を慕って清散を出てたととは‘本隼同窓口紗並に報思 砂の文意に依て明かである。故に日進撃一人の仰を真左りとすれば、初轄法輪の折伏に封しては、念悌者の難と地問景 信の難と二回の難があったと見なければたらぬ。今且らく斯く見るとすれば.最初念伸者の難の時は義一、慈義二人 者の内報に依て難を菟れ、次の景信の難の時宗組迫放の折は持崩閥、義浮の二人も共に、且らく清澄を立ちのいたと解 ず べ き で あ ら ろ 。
四
更に宗祖と浄顕、義浮雨人との関係に就ては報思齢には 但し各々二人は日蓮が幼少の師匠にて必はします、勤操伶正、行表僧正の偉救大師の御師たりしが、かへりて御弟 子とならせ給ひしがごとし02
とあるに依れば、二人は讃普御房の弟子であり、且つ宗祖より先輩で出家以来何かと指導せられたととが明かである 然るに侍敬と勤操‘行表との如︿後には却で宗祖に師し、同じく法華の行者の一分となった様である。故に佐渡御流 罪中にも常に文書を往復して、安否を気謹はれたととは.佐渡御勘気齢、己心悌界紗等に徴して明かである。 務 澄 三 与 大 象 考 丸Aが ;
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O されば公岨は常に二入者を過して、向己の主張を清待の大衆に呼びかけ、R
つ師の房を始め大衆の扶邪師E
を 勤 め て止まなかったのである c 叉清佐寺大衆中に 去年不 L・ 米 如 何 、 定 め て 子 細 有 ら ん 敗 。 む とあるは二人が時々身延の聖一居を訪問されて殺を受けたととが窺はれる。就中浮瀬田加が由主化に師したととは、報思紗 詮 献 に 無=親疎一法門を申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得候へ、御本骨弔問して逸らせ候。一寸 ・とあるに依て詩するととが問来る。何となれば最初の法門に針する識に依ても明かであるが、本隼を授興せられたと とに依ていよ/\明かである。とれに就ては文永十二年の新尼御認事に依れば 但大厄御前御本隼の御事、たほせっかはされて沿もひわづらひ候、乃至領家はいつわりたろかにして、或時は信じ‘ 或時はやぶる不定なりしが、日蓮御勘気を蒙りし時、すでに法華粧をすて給ひき、日蓮重恩の人なれば、扶けたて まつらんために、此の御木隼をわたし奉る・ならば、十羅剃定めて偏頗の法師とをぽしめされなん。尼御前我身のと がをばしらせ給はやして、ろらませ給ふらんo z
と示されし如く、需品思の大尼御前にさへ退輔の事ありし震に、御本隼の授胤︵はなかったのである。此の点から見て二 入者は不退時の師依者なるととは知るべきである。 叉浮顕﹂加は時間治二年荊議口房遷化の後には.その後を襲って清澄寺の主座とたったととは、報思砂詮献に﹃御まへと 義城房と二人此御房をよみてとして﹄と述べた宛名に清澄御房とあるはそれがためであらう。叉義持房には文永十年 己心悌国外紗を賜ひ、害景品の﹃一心欲見姉、不自惜身命﹄の文を引いて日蓮が己心の伸界を此交にて顕すたり、共故は書量 n m の事の一念三千の三大秘法を成就せるとと、此文に依て顕す 也 o m L h と遺文中最初に三大秘法の名目を示し、不惜身命の信心を勤められて居る。若し也安元年の華果成就紗は、宗祖が一 期弘通の功徳を師の房に回向せられた、報恩紗二容の意を要約して述べたもので 栢は来巣成就すれども必十米の精大地にをさまる、故にひっぢ生ひいで L 二度華果成就するなり、日蓮が法華経ま 弘むる功徳は、必十道善房の身広師すべし。よき弟子をもっときんば師弟俳果にいたり‘あしき弟子をたくはひぬ れ ば 、 師 弟 地 獄 に た つ と い へ り 。 一 日 間 と結び‘師の一加の回向に擬して二入者の信心を勤奨せられたのである。若し本崎尋問答紗に五つては、曾て授興せられ た本隼の疑問に劃する説明書で、とれ不容の観智儀軌に出づる民言の法華畏茶羅と我が大量茶羅との相遣を指示せら れたものである。内容に就ては今の所論ではない。此の外二入者への普無長砂並に佐渡御勘気紗等は、道一五日御房揺化 の 法 円 で あ る が 、 一切は報思齢二巻に依て解決せられて居る、査し報恩の観念は宗祖の遁傍観の根本である。 若 し 僻 組 統 紀 三 に は 浮 顕 の 韓 日 中 ︵ 仲 ︶ と 賜 ひ ︿ 金 堂 百 、 KO ﹀ 叉 考 文 五 に 依 れ ば 浮 顕 は 日 市 帯 、 義 洋 は 日 住 ︵ 会 主 主 同 ︶ と 賜うたといひ、又一設には浮顕は聖人の肉兄といふが考異師のいへる如く信じ難い︵金書一三︶のである。執れにもせ 土二入者は宗組と共に誼普門下にあって柏先輩であり‘且つ法兄弟の闘係にあって宗組の設に耳を傾け、相等信仰が あった人々である。若し最初清澄法難に於ける庇護に就ては.道一、慈義雨房の問題を m川 め て 置 く 外 は な い 。
五
指f 澄 寺 大 衆 考清 澄 寺 大 衆 考
薄圏房
持 崩 m . 義 洋 以 外 の 清 澄 の 大 衆 の 中 で 、 賜 虫 同 の 存 す る は 浮 園 、 恵 一 一 絡 の 二 人 で あ る 。 浄 同 房 に 就 て は 清 澄 寺 大 衆 中 に 虚空蹴菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年四月廿八日安房の岡、東僚の郷清澄寺遺品一昔之房持悌堂の南面にし て、持闘房と申す者並に少々の大衆に、とれを巾しはじめて共後二十余年が間退陣左く申す。主一 といふに見れば、浮国房は正しく初締法輪の封告衆であったに相還ない。且つ開宗十年後の文永元年九月の営世念悌 者無間地事の初に 安 房 園 長 狭 郡 東 保 花 房 郷 、 於 = 蓮 華 寺 一 封 = 千 浄 国 房 一 日 蓮 阿 閤 梨 註 レ 之 。 問 。 と あ る ︵ 今 の 交 の 東 僚 は 西 僚 の 誌 、 考 具 、 金 = 一 一 − 一 ︶ が 、 営 時 浄 同 房 は 商 依 花 房 蓮 華 寺 に 住 し て ‘ 開 宗 以 来 宗 祖 の 諸 宗 批 判 に釘し疑問を懐いて居った故に、念伸無間の所以を詳説したのが本書である。叉浮固房に封して宗祖が自ら阿闇梨と 稿する点から見れば、浮園長は後輩であったからであらう。叉営時蓮華寺は清母の配下で、開宗後の難並に同年十一 月十一日小松原の難を遁れたのも此底と侍へる。若し善無長紗に依ればその三日後、即ち十一月十四日調善御房と此 に於て見参し・道善御房に心から捨邪蹄正を勧めたのは此底である。即ち向紗に か め 此諸経諸論諸宗の失を排へるととは虚宰臓菩薩の御利生、道普御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報やる事あり、 何に況や人倫をや。此恩を報ぜんがために清澄山に於て悌法を弘め説善御房を導き奉んと欲す。而るに此人思療に h w はする上、念伸者也‘三悪道を量るべしとも見えや、而も叉日蓮が救訓を用ふべき人にあらや。然れE
も文永元 年十一月十問日間依華房の僧坊にして見参せし時、彼人の一疋く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへ・な ければ、念怖の名僧をも不レ立、世間に弘まる事なれば‘唯南無阿調陀仰に巾計也。柏岡とはその折の宗組の述懐である。後年報恩砂執筆の動機は今の文中に躍如として拝するととが出来る。 以上の事情を綜合して浮同房は矢張遺品一官房の弟子で、恐らくは文永頃から西僚華−房蓮華寺の寺主とた G たのではな からうか、宗砲に封しては法兄の様にも思はれる。然るに倖燈大師録に依れば浮園は俗名を太郎重政といひ.貫名重 山中の長男で浮顕並に宗祖の令兄に営り、法詳 b L日在と稲し、小湊の妙蓮寺の歴代と侍へるが、若し西蓮寺株起なるも のを信じ得るとすれば、強ちに推論ともいはれない。叉僻組統紀三は高山胞に障して詳を日在と賜ふ︵全書き﹀と前説 に依って居るが、此等の設はどの程度に信じてよいか相等吟味する必要がある。若し姉崎博士は洋国を法敵ハ法華経 の行者日蓮主 U と 見 て 居 る が 、 洋 国 は ︷ 一 一 小 凪 と 共 に 誼 益 口 御 房 の 弟 子 で . 浮 婦 、 義 浮 に 封 ず れ ば 目 下 と 思 は れ る の で あ る 。 ..a..
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塞密房
弐に霊山省房であるが‘建治三年聖続長へ建はされたる賜書に依れば、専ら真言の邪義を批判し、最後に とれは大事の法門なり、虚昼蹴菩薩に参じて、常に読み奉らせ給ふべし。主 とあるに依れば、聖総房も矢張営時清澄の皐併であったととは疑はれも仏い。然るに健紗には 此聖宿坊と一広は真一言宗にて、市も大型へちたみ巾たる様なる人欺云 k ハ 二 五 、2
︶ と い う て 居 る が 、 此 の ﹃ 因 み 申 し た る ﹄ の 意 味 は 、 ︷ 一 万 組 に た ょ っ た と い ふ 意 味 か 何 か 不 明 で あ る 。 叉 異 号 口 ︷ 一 訴 と い ふ こ とは法門の内容らか・米たものであるが‘既に昔時清澄が台統で・めり、且ヲとれを是正するのが宗副の役目であり、本・ 情 iI1~ 寺 大 衆 考告奇 澄 寺 大 来 考 四 書執筆の動機と見れば‘密徒とは台密の意で東密とは解されぬ。されば巧異下には健紗の設に依り、﹁斡徒而陰慕=翠 化 4者 欺 ﹂ ︵ 金 番 号 V といへる如く、営時清澄は慈費大帥を開山
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する台密でるり‘且つ後世に至つては浮顕‘義浮等 の計らいで、毎年身延宗祖舎下へ‘幾人かの期間接生を訳したととは、清澄寺犬家中等の文意からして明かであり。今 の 量 同 に も 宛 名 に ﹁ 聖 密 房 遺 レ 之 ﹂ と あ る よ り 見 て 、 聖 密 房 も 或 は 留 皐 生 の 一 人 で あ っ た 様 で あ る 。 更に身延蜂外に見ゆる別常御房御返事に依れば 聖密房のふみにくはしくかきて候・なり、あひてきかせ給び候へ‘訟に事も二問清澄︵一回御経は誤讃︶の事をば、 聖密房に申しb
わせさせ給ふべく候か‘世間の理主しりたる物に候へばかう申すに候、とれへの別︿所は誤︶顕在 んどの事は、ゆめゆめをもは守候。いくら程の事に候べき、但・なハ名﹀ばかりにてとそ候はめ‘乃至大名を計るも のは小祉にはぢ・?と申して‘南無妙法蓮華経の七字をば日本園にひろめ、震且高麗までも及ぶぺきよしの大願たは らみて、共闘を浦すべきしるしにや、大蒙古園の牒献しきりにありて‘此園の人ごとの大なる歎きとみへ候。日蓮 叉先よりとの事をかんがへたり‘閤浮提第一の高名なり。先よりにくみねるゆへにま L と ︵ 糟 子 ﹀ の か う み や う ︵ 功 名︶のやうに‘専心と︵に?︶は用ひ候はねE
も、絡に身のなげき極候時は‘謹執のものE
も も 、 一 定 と ︵ たT
︶ かへぬとみへて候。とれ程の大事︵蒙古襲来︶をはらみて候もの L 、少事をあたがちに申候べきか、但し本寺︵嘗 時7
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日蓮心ざす事は生底たり・日本圃よりも大切にをもひ候.例せば漢玉の柿郡ををもくをぽしめし L が ご と し かれの生慮・なるゆへゑり。聖智︵?﹀が跡の主とたるをもんでしろしめせ、日本闘の山寺の主ともたるぺし。日蓮は 閣浮提第一の法華艇の行者なり。天のあたへ給ふべきととわりたるべし。乃至とれより後は心ぐるしくをぽしめす べからす候 一 耳 々乃 時 別 賞 御 一 民 御 返 事 。 ハ 績 ,
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とあって年践は不明であるが‘文の内容より見て文永建治の交のものらしい。とのこ問寺といふのはこ問川が清澄に 流を琵し‘曲折市流して天津に五り、袋倉川と合して外洋に注ぐより見るに、或は今の天津若しくはその近漫にあっ たのであらうロ且つ此の清澄二問に就ては、建治二年の清澄寺大衆中に 東依左衛門景信が悪人として、清澄のかひし L 等をかりとり、長 K の 法 師 等 を 念 僻 者 の 所 従 に し ・ な ん と せ し に 、 日 蓮敵をたして領家のかたうE
となり‘清法二聞のご簡の寺‘東僚の方に O くならば、日蓮法華粧をすでんとせうじ ゃうハ請誠﹀の起請をかいて、日蓮が御本隼を手にゆいつけていのりて、 一年が内に雨寺は東僚が手をはなれ候し たり。虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給ふべき。大衆も日蓮を心へやにをもはれん人々は、天にすてられたてまつ らざるぺしゃ。主 等とあるに依れば、建治二年以前に清澄二聞の隔寺に闘して東僚と領家との勢力争があった様である。然るに此寺が 虚 昼 臓 窓 口 薩 の 利 生 で 領 家 に 期 し た の で あ る 。 此に問題と・なるのは雨寺の別営であるが、南寺が同一別営に管掌せられたか、各一人宛の別営があったが不明であ るが.報恩帥選般に依れば浮顕は建治二年七月清澄寺を管理した様であるから、今の別営御房御返事は或は浮顕一必へ 宛てたもので、二間寺の別営に宗胞を浮頴房が推薦したのかも知れぬ、とれに封する返信が別営御房御訴事である。 即ち生闘の寺の別営といへば、漢王が浦郡を非常に等霊する採に.進んで受くべきであるが、今自分は法華経の題目を 日本因を始め、支那高麗迄も弘通すべき大願を立てたのである。天の御計らいで此の使命があるから‘折角の御好意 ではあるが﹃とれへの別営たんE
の事ゆめ/\思はや候﹄と辞退せられたのである。 梼 澄 寺 大 衆 考 二 五古奇 澄 寺 大 衆 ~
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一 』/ 、 又文の最初に﹃聖密房のふみにくはしくかきて候、よりあいてきかせ給へ﹄とあるのを、若し取市街房御堂円とすれば 今の別営御百万御返事は‘建治三年の聖密房御書の後でなければならぬ。果してさうだとすれば、此の問題は道善房死 後何人かに依て︵浮顕等?︶二間寺の別賞に宗組が説せられたものといふべきである。何れにしても聖密房は清澄よ り営時身延への留副学生の一人であった様である。若し別踊統紀二四︵金書下玄三﹀、門葉縁起等には聖一緒房を以て、駿河 の珂山高橋入遣なりといふが営らない様でるる。因忙録内第百十七番目の聖密房御書は、第百阿十七の断片の重出な るととは、忠実記︵三、さ﹀の如くである。七
遁義房義尚
以下は全く賜警のない清澄の大衆であって‘遺交に依る外全く手掛は在いのである。即ち極々御振舞紗に依れば D 0 9 0 位人はさで置きぬ。︷女房の東西の人々は此事を信十ペき事なり。眼前の現詮あり。いのもりの固哩加、清澄の商売 3 0っ
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房、道義房‘かたうみの質智房等は、たうとかりし借ぞかし。此唯一すの臨絡はいかんがありけん等ぬぺし。乃至日蓮 こそ念仰者よりも‘道義房と固智房とは無間地獄の民に希つべしと申したりしが、此人 K の御陥格はよく候けるか いかに、日蓮なくば此人々をば、備になりぬらんととそ沿ぽすぺけれ。一哨 とあるに依れば、此等五人は粗ぼ同一一地位の人々であり、且つ大衆中に於ても相等上位にあったととは﹃たうとかり しの﹄文で切である。而して此等五人は固頓長を中心として、商売房、道義房、宜智A M
.或は固頓民と失第すぺきで あらう。叉日記等の内今の交の外にその名の見ゆるは道義民と周智房とである。先 づ 道 義 房 に 就 て は 文 永 六 年 の 者 無 長 釣 に 依 れ ば 、 指 一 議 口 一 男 の 事 と 叙 し て 此人の兄道義房義備に此人向って、無間地獄に墜ワペき人と巾してるりしが、臨格岡山ふ棋にも空しをさ沿りけるや らん。官 ム︸あるに依れば‘道義房とは揖品一官房といふ如く、或は清舟塔中の坊名かも知れぬ。即ち清澄の岩村執事は曾で十二坊 あ り と い ひ 、 大 衆 中 に は ﹃ 房 々 の 法 師 等 ﹄ ↑ 一 一 と あ る か ら で あ る o 或は題稿で字を義尚といったのであらう。との話義 長は熱心の念伸者であったらうととは、左記の雨者共に無間地獄といひ、若し身延文庫の日抽出聖人仰之趣には 良あて導善御房聖人をつくん\と御覧あて被 L仰けるは、道義御房の念伸し無聞の業敗。道義御房は清澄寺の近所也 清澄寺は旦より七里へたてぬる底也。ヰ寸へ登て同十年が問、 一 日 に 念 伸 一 高 返 ‘ 阿 繭 陀 経 百 巻 づ よ 誠 一 式 ふ 也 。 此 の 人を生身の摘陀の如くに人貴みし也。 聖一人仰云、道義御長は百品川六の地獄の中には無間地獄の民に落ち給ふべきなり、共故は一人勝て無聞の業たる念伸 被 ι申 故 也 。 ム﹂御振舞紗では清澄の人の様でるるが、今の文に依れば清澄へ七里の所に屑たとあるが、果して何底か不明である。 併し乍ら普無長紗には明に﹃此一人の兄﹄とあるから誼善の法兄なるととは明である。︵砕蒙二ニ
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− − ﹂ 然 る に 一 設 に 清 澄 寺 の 情 、 御 文 に 兄 と は 肉 兄 た り や ‘ 法 兄 ・ な り や 詳 在 ら ヂ 。 ︿ 聖 典 大 都 林 恒 例 ︶ ム﹂述べて居るが恐らく肉兄ではなからう。併し宗祖の法伯父であった様であるがその他は全く不明でるる。J
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告号 j脅 寺 大 衆 来,
七¥.lf i鞍 号与・ 大 衆 多,. t、、
園智房、観智房、責戚房
若し闘智房に就ては.大衆中、御振舞齢、報恩妙、四信五品紗等に見え、御振舞紗に依れば 同智百加は清涼の大堂にして、三筒年が間一字三体の法華経をかきたて‘まつりで、十容をそらにをぽへ、五十年が問 一日一夜に二部つどよまれしぞかし‘かれをぽ皆人は伸になるべしと云々。一哨 と国智に就て述べて居るが、且く三の事賓が観取される。 とと。こに五十年間二部宛の法華主讃諦せりといへぽ、御振舞紗が建治二年作であるから、時に宗祖は五十歳、固智 一 し に 固 智 は 未 だ 霊 化 に 陣 せ ・ さ る も ‘ 法 華 讃 諦 を 日 課 と せ る 民は七十歳以上の老齢たりしとと。三に右法華笥諦の日課は清澄山が台痛を詮し得るととである。 併し乍ら第一僚に就ては、御振舞紗に﹃道義百万と周智房とは無間地獄の底に沿っぺL
﹄ 一 咽 と あ り ‘ 叉 四 信 五 品 紗 に は 明心と岡智とは現に白癒を得、乃至罰を以て悪を推するに‘我門人等は幅過十蹴疑無き者也o
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と無問、白摘の罰と記せるは‘周知刊は詩法者で格ったのであらう。併し乍ら相等患者で弟子に観智一房のるったととは 大衆中に 国 知 日 長 の 御 弟 子 に 翻 h 官房の持ちて候なる。宗要集かしたび候へ。それのみなら歩、ふみの候・聞も人々巾し候し也。 早々に返すべき山中させ給へoE
の文に依て知るととが出来る。叉観智房も固智の弟子で建治二年頃或は身延にmm曲学した清澄の青年備の一人であった といふ外知る由はない。併し乍ら遺文中常に周知 H と 引 A ロに出さるは賓成︵城﹀房である。即ち報恩紗には 提婆.豊伽利にことならぬ国智、賞味が上と下とに居てh d z
せしを‘あながちに K Mそれで、いとをしと沿もうとしとろの弟子等をだにも‘すてられし人なればハ道善︶後生もいかんがと疑ふ。但一の冥加には景信と固智、宮城と がさきにゆきしとそ. 一つのたすかりとはをもへ