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津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(六)

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(1)

椙山女学園大学

津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(六)

著者

二宮 俊博

雑誌名

文化情報学部紀要

5

ページ

173-204

発行年

2005-03-24

URL

http://id.nii.ac.jp/1454/00002534/

(2)

津阪東陽『杜律詳解』訳注稿

二宮俊博

本稿には、津阪東陽『杜律詳解』巻上の

「野老」詩から「望野L

詩までを収める。原文の「メ」は「シテ」

に、「「」は「コト」

に、 「托」は「トモ」

にそれぞれ改めた。明らかに訓点が脱落している

と思われる箇所には、これを補った。また詩句の左傍にところどこ

ろ附されている和訓は、※をつけて改行して示した。書き下し文は、

紙幅の都合で省略する。なお、詩題の上には便宜的に通し番号を施

した。

031野老

032南郷

033和装辿登萄州東亭送客逢早梅相憶見寄

034客室

035進艇

036寄杜位

037送韓十四江東省観

038所思

039王十七侍御拾許携酒至草堂奉寄此詩便請遊高三十使君同到

…∴「

031野老

此首彿二掴シテ門庭づ、

直。取ジ起頭ノ二字づ寅

璧三シ暮景→、鰯嘩料簡、味諾ハヲ自遣ル。

耳。

(注1) 例えば、西晋・張載「七哀詩」其二 (『文選』巻二十三) に 「哀人は感 傷し易きに、物に触れて恋心を増す」と。 (注2) 郡宝『集註』 (巻二十二、宮室須) に「題、篇首の二字を取る」と。静 益『分類』 (巻一、居室)も同じ。『集註』は宇都宮遊魔の詳説に挙げる。

この一首は、門庭を俳掴して、暮れなずむ景色を眺望し、景物に接

して感慨をもよおし、胸中に湧き起こった思いを詠じて憂を晴らし

たもので、そのまま初めの二字をとって題としたのだ。

野老籠前江岸週″

柴門不レ正カラズ逐け江ヲ開ク

野老ハ公鮎凱也。廻ハ言二廻抱鞄配→。逐ハ猶レ随ノ也。居俺二湾曲一「放

こ門随二岸之斜→″。、不レ能二正向シテ而設。ト。即テ是一段ノ野趣。蓋公

終日在二几案て薄暮有レ僑コト、滑二揺シテ粕誓以撃幽情→、所三以

首叙コ籠門之状→也。此詩第四句ノ返照ノ二字是一篇ノ枢軸。上二句ハ

返照前ノ夕景、頗遣再興ヲ自慰ム。下四句ハ則返照後ノ暮色、遂。感シテ入

二旅愁ぺ。若不頼領H此旨→、詩意不二貫通「一二尤男女離「讃者須

(3)

二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(六)

レ詳にス之ヲ。凡枢軸ノ語ハ、皆在丹首二易レ見、此猫在二中間一。非卜精二

千詩妄章二父盲ヲ而㌔撃。

(注3) 郡宝『集註』に「野老は、公自らの謂なり」と。辞益『分類』も同じ。 『分類』は宇都宮遊魔の増広本に、『集註』は詳説に挙げる。また『唐詩 貰珠』 (巻三十六、幽居〓 も同様の指摘。 (注4) 『唐詩貰珠』に「廻は、廻抱湾曲。所以に柴門正向して開く能はぎるな り」 し」0 (注5) 『礼記』楷弓上に「孔子蚤に起き、手を負ひ杖を曳き、門に消揺すLと。 (注6) 『荘子』田子方篇に「苦れ身を終ふるまで、汝と一瞥を交へんとして之 を失す。哀しまざる可けんや」と。

(野老)は、公自身の称。(廻)は、抱くようにぐるりと湾曲してい

ることを言う。(逐)は、随とほぼ同義。住居は、湾曲に添っており、

それゆえ(門)は(岸)が斜めになっているのに随って、真正面に

向って設えることができないが、そこに却って格段の野趣がある。

けだし公は終日几案を前にしていたのだろう、夕暮間近になって倦

み、(門)のあたりをぷらぶら散歩して、胸中深くひそめる思いをの

びやかにさせた。冒頭、(離)や(門)の様子を叙するゆえんである。

この詩は、第四句の(返照)

の二字が一篇の枢軸である。上二句は

(返照)前の夕景で、いささか憂晴らしをして自らを慰めている。

下四句は(返照)後の暮色で、かくて心感じて旅愁にまで昂じてく

る。もしこの趣意を領解しなければ、詩の意味は一貫して通ぜず、

一二句はとりわけばらばらになってしまう。読者はこの点をはっき

り知っておかねばならない。すべて枢軸となる語はどれも冒頭に

あって分かりやすいのだが、この詩だけは中間にあり、詩に精通し

た者でないと、みすみす見逃してしまう。

漁人ノ網ハ集窟軍fリ

軍容ノ舷ハ讐纏甥衷″

此襲撃柴門向一㌃江。而見″。渾ハ那百花渾。秋水如レ鏡ノ、漁舟撒レ網

ヲ、俸再門二者弄シテ、柳亦娯レ目ヲ也。質青侍。随ハ猶レ逐ノ也。

(注7) 輯註(巷七) に「滞は即ち百花澤」と。宇都宮遊魔の増広本にも引く。 なお、『唐詩貰珠』も同株の指摘。

これらはいずれも(柴門)が(江)

に面していることから見えるも

の。(渾)は、ほかならぬ百花渾。秋の水面は鏡のようで、漁舟は投

網をうっている。(門)によりかかって眺め、やはりいささか目を娯

しませているのである。(質)、字音は佑。(随)は、逐とほぼ同義。

長路闘…テ心l恋コニ郷間→

片雲何ノ意ソ傍妄言讐

鱒関…カ、リテ

此因ジ偉材門。晩跳パ竺、北望二釧閣之天づ、又解感シテ而愁起″也。長路

--..∵

-、

ヵ故宅。公思再郷ヲ北望ス。偶有二一片ノ暮軍、懲罰於琴婁之前ぺ。困デ

感シテ而尤帰之ヲ。雲ハ是願巌自在、乃何ノ意ソ傍り塞。悠悠猫蘭テ而不レ行

耶。若使か己ヲ卑官軍、則直。飛而踵去ン、釦閤不レ足二復悲ぺ也。雲

本無心、偶傍二琴塞一て亦是等閑、果シテ有ン何ノ憲一。公在ン天涯一「阻

..1、。・ ∴

慎憾。非㌣ハ歴m倦遊→者ぺ靡二以語㌶此ヲ耳。黄生云、前撃二晩景→、

琴哀詩中。有レ茎、後説こ旅情づ、幾ン於涙痕畢√紙ヲ臭。

(注8) 盛唐・李白の「覇道難」 (『古文真宝』前集) がよく知られている。 (注9)

訳注稿喝024「別れを恨むL詩。

(注10) 郡健二集解』に「相如の琴台は、浣花硲の北に在り」と。前漠・司馬相 如(字は長卿、前一七九∼∼前一一八)については、『史記』巻一一七及 び『漢書』巻五七に伝があり、杜甫に「琴台」と題する詩(詳註巻十)が ある。 (注11) 東晋・陶淵明の「帰去来の辞」 (『文選』巷四十五/『古文真宝』後集) に「雲は無心にして咄を出、鳥は飛ぶことに倦んで帰るを知る」と。 (注12) 等閑は唐代の口語。三浦梅園『詩轍』巻六に、「等閑ハ、ナヲザリト訓 ズ。何トモナキ意ナリ。尋常也卜注スレドモ、意少シカハリアルベシ。蒲 湘ヨリ何事ゾ等閑こ帰、等閑こ識得ス東風ノ面ノ類、不用意也」とする。な

(4)

文イヒ情報学部紀要,第5巷,2005年 お、塩見邦彦『唐詩口語の研究』は、清-劉洪『助辞弁略』巻三の「猶云 尋常、軽易之辞也」というのを挙げて、「否定的なニュアンスを持つ語で ある」と指摘する。 (注13) 初唐・王勃 (字は子安、六五〇∼六七六∼) の「萄中九日」詩 (『唐詩 選』巻七) に、次のように見える。 九月九日望郷墓 九月九日 望郷台 他席他郷選客杯 他席他郷 客を送る杯 人情己厭南中苦 人情は已に南中の苦を厭ふに 鴻雁那従北地釆 鴻雁那んぞ北地従り来たる *南中は、萄 (四川省) を指していう。 (注14) 黄生、字は扶孟(一六二二∼一六九六∼)。その著『杜工部詩説』は全 十二巻。康照三十五年(一六九六)自序の同年刊本がある。その巻八に、 この詩を載せ「前半は景を写す、真に是れ詩中の画。後半は情を写す、則 ち又た紙上の涙」というが、仇兆架の詳記(巻九)に「費生日く」として 「前幅晩景を摸す。真に詩中に画有り。後半旅情を説く。涙痕紙を湿すに 親し」という。東陽は『唐宋詩醇』 (巻十五) に引くのに拠ったものであ ろう。なお、「詩中画有り」は、北宋・蘇拭の「摩語の藍田煩雨図に害す」 (『東披題政』巻五)に「摩詰の詩を味はふに、詩中に画有り。摩語の画 を観るに、画中に詩有りLとあるのに基づく。摩詰は、王経の字。

これは(門)

にもたれて夕暮を眺めていることから、北のかた(剣

閣)

の空を望み、心に触れ感じることがあって愁いが湧き起こった

のである。(長路)は、萄より洛陽にもどる四千里ばかりの道程で、

(剣閣)

の険をへる、いわゆる

「萄道難」

の苦しみである。されば

その帰るのが容易でないのを悲しむのである。(剣閣)は、前に詳し

く見える。(琴台)は、浣花渓の北にあり、司馬相如の故宅。公は故

郷を思い北のほうを望んでいると、たまたまひとひらの夕暮れ雲が

(琴台)

の前にかかっており、それで心感じてこれを答めている。

(雲)はふわふわとどこへ行こうとも自在であるのに、かえって(何

の意ぞ)

(どういうつもりで)

(台)に(傍)って、のほほんと留まっ

たまま去ってゆかないのだろうか。もし自分が(片雲)であったな

ら、すぐさま飛んで帰ろう、(剣閣)なんぞもはや悲しむに足りない

のだから、と。(雲)は本来無心であり、たまたま(琴台)に(傍)っ

ているだけのことで、やはりどうということはなく、はたして(何

の意)があろう。公は天涯にあって戦乱に阻まれ、旅愁のあまり故

郷のほうを望んで、いつになったら帰れるのかと心痛めているので

ある。さればやるせなさが昂じたあげく、このようなたわけた感情

を生じたのだ。王勃の「人情は巳に南中の苦を厭ふ、鴻雁は那んぞ

北地従り来たる」と全く同じ惧悩である。他郷での浮草暮しに倦み

疲れた経験のない者は、こんな言葉を吐くことはないのだ。黄生が

云う、「前半は暮れ方の景色をそのまま写し出していて、まことに詩

中に画がある。後半は旅上にある身の情懐を説いて、ほとんどもう

涙の痕が紙を湿らさんばかりだ」。

王師未レ報七収㌔東郡ヲ

城開秋生シテ書房哀ム

※未報…シラセズ

収…トリモドス

秋生…アキニナリテ

東都ハ夢意義ノ海軍去年九月、史思明復入テ陥落陽及済汝邸滑

四州→。今年六月、田紳功破m史明之兵ヲ於鄭州■一言然主東京輿二諸郡

一猶未レ復吉洛陽ハ公鮎轡故二特こ悲レ之ヲ。城開ハ雷二成都ノ城門→。

粛宗至徳二年、以二明皇ノ行糞享陛㌔遁郷嵩高京ぺ置レ声ヲ比

コ南京ニ。故二得レ稀㌔。トヲ城閲㌔角ハ一名嘩囁。以レ銅ヲ作レ之ヲ。形

如二竹筒→、本細シテ末大ナリ、軍中誓願之音。誰櫻置再此ヲ、以司m農昏

→。因いJ中原再乱-「萄亦警備。城頭ノ角馨、朝暮貫り耳ヲ。時及二秋候

l㌔、馨尤悲哀。公既。晩望傷帰日ヲ、不レ勝二素懐之悪づ言乃普…J暮色惨

僚之際て而国政断腸之聾→。感慨益切、無レ所レ遣″也。按二只間丹

㍍肇童絹糾鴇其清切→″ニ、想像シテ言レ之ヲ。太白誰家ノ玉笛暗

(注15) 輯註に「蓋し東都は京東の諸郡を冨ふ。滑州に非ざるなり」と。宇都宮 遜魔の増広本にも引く。滑州(今の河南省滑県の東)とするのは、辞益『分 類』 の説。

(5)

二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(六) (注16) 『集千家註』に引く南宋・黄鶴の注に「去年九月、史思明、洛陽及び済・ 汝・鄭・滑四州を陥る。是の年六月、田神功、史明の兵を邸州に破る。然 れども東京と諸郡と猶ほ未だ復せず」と。済州は、今の山東省荏平県の西 南。汝州は、河南省汝州市。鄭州は、河南省邸州市。 (注17) 訳注稿㈲、024「別れを恨むL詩の詳解に「公、曾祖以来、洛陽に居す。 故に公、長安に生まると錐も、然れども常に洛陽を以て故郷と為す」と。 (注18) 辞益『分類』に「至徳二年、玄宗成都に行在す。故に隆して南京と為す。 公の自注に城闘と称することを待と㌔宇都宮遊魔の増広本にも挙げる。 但し、南京を誤って東京に作る。なお、室徳二年の年は我とすべきこと、

訳注稿鱒024「別れを恨む」詩の〈注11)参照。

(注19) 嘩畷は、法螺。宇都宮遜魔の増広本には「角、文苑致傷に云ふ、寮尤と 玄甘[女]と戦ふ。帝始めて角を為り、命じて之を吹かしむ。龍囁を作し 之を禦がしむ。軍中に之を置いて以て昏暁を司どる。故に角を軍の楽と為 す。長さ五尺、本紙く末太し。或いは竹木を以てし、或いは皮を以て之を 為す」という。『文苑重篤』は、明・孫丞頸の偏になる凍害。全二十四巻。 その巻十九、楽器部に見える。 (注20) 李白(字は太白) 次のように見える。 誰家玉笛暗飛蜜 散入春風満洛城 此夜曲中間折柳 何人不起故園情 の「春夜洛城に笛を聞く」詩(『唐詩選』巻七) に、 註が家の玉笛 暗に声を飛ばす 散じ入りて春風洛城に満つ 此の夜 曲中 折柳を開く 何人か故国の情を起さざらん

並べさせた。それゆえ(城閑)と称することができるようになった。

(角)は、一名嘩曝。鋼製で、竹筒のような形をし、本は細く末端

は大きい。軍中で響戒する時の音。物見櫓にこれを置いて、朝晩鳴

らした。中原が再び乱れたので、萄でもやはり撃戒して備えており、

(城)頭の(角)声が朝な夕な耳を貫く。時候は(秋)に入り、そ

の音色はことのほか悲哀に満ちている。公は日暮れがた眺望して心

傷めており、蒔旅の身のあしきにたえないのに、暮色惨惨たる時に、

この腸を断ちきるような音色が聞こえてくると、感慨はますます切

なく、どうにもやるせないのである。按ずるに、ただ音色を問いた

だけで(画角)と称しているのは、その高く澄んだ切ない音色によっ

て想像して言う。李太白の「誰が家の玉笛暗に声を飛ばす」も、や

はり同様である。

032南郷

公往こ有下過二南都朱山人ノ水軍声。篇末こ云、看君力多冠気「従

レ此数〈追随セン。蓋亦雅士也。

(注1) 顧辰『註解』に題下に「朱山人なり。公に(南隣朱山人の水亭に過る) 詩有り」と注する。その詩(詳註巻九) は、次のごとくである。 *誰家は、だれの意。この詩については、『校注唐詩解釈辞典』(稲畑耕 一郎執筆) 参照。

(東郡)は、首都長安より東にある諸郡のこと。去年九月、史忠明

の軍が再び侵入して洛陽および済・汝・鄭・滑の四つの州を陥れた。

今年六月、田神功が史明の兵を鄭州に破った。されど東京たる洛陽

と諸郡とは今だに取り戻していない。洛陽は公の故郷であるので、

それゆえことさら悲しむのである。(城閑)は、成都の城門。粛宗の

至徳二年(七五七)、明皇(玄宗)が行幸されたことから、萄郡を昇

格させて南京とし、長官である声を置いて長安・洛陽の南京に肩を

相近竹参差 相過人不知 幽花歌漏樹 細水曲通池 蹄客囁非違 残樽席更移 看君多道気 従此数追随 * (細水曲) 相近づけば竹参羞 相過れども人知らず 幽花欺きて樹に満つ 細水曲りて池に通ず 帰客 相違きに非ず 残樽 席更に移す 看る君が通気多く 此れ従り数しば追随せん の三字、銭注(巻十一)及び輯註(巻十一)は(小水細) に作る。(帰客)は、杜甫をいう。(道気)は、脱俗の気象。

公には先に「南隣朱山人の水亭に過る」詩があり、その篇末に「看

(6)

る君が道気多く、此れ従り数しば追随せん」と云う。けだし、やは

り高雅の士であろう。

鏡里ノ先生烏角巾

園空家素¥垂ラ

文化情報学部紀要,第5巷,2005年

※収…トリイレテ

粥錮緋銅調鯛鍼ハ錮摘横転離開場絹蟻蟻打

二緒衣小鳥巾→。以二錦ノ字盲二合シテ烏車て以麗㌔テ句面→、而槻…

拒ポ撃ハ銅摘踊銅レ銅鏑綽鰭障銅結サ銅

栗皆収也。未二全ク貧二言二貧而不㍗貧。蓋山人錐レ貧ミ以レ収憲子粟

→、供給不レ乏カラ、是暫ク富也。

(注2) (芋粟)の二手、銭注(巻九)は(芋粟)に作り、「一に実に作る」と注 す。また韓註(巻七)及び顧廣『註解』は(芋栗)に作り、輯註に「一に 芋粟に作るは罪」、註解に「今、誤って芋粟に作る」とそれぞれ注す。宇 都宮遜魔の詳説にも「芋栗ノ芋ノ字芋二作ルハ不可ナリ。芋ハトチ也。栗 ハクリ也」という。これに対して、『唐詩貫珠』 (巻十六、雅事一)は本文 を(芋栗)とし、「按ずるに芋と栗とは局中の土産常物。或いは芋に注し て梯子と為す者は非」という。詳註(巻九)もこれに同じで、「一に芋に 作るは非」、「一に粟に作るは非」とする。 (注3) (未)字、銭注および輯註は(不)に作り、輯註に「一に未に作る」と。 (注4) 菅宿。長老。『礼記』曲礼上に「六十を曹と日ひ、指侵す。七十を老と 日ひ、伝す」と。 (注5) 『唐詩貫珠』に「鳥角巾は、隠士の服。錦字を以て烏字に串合し、而し て其の錦里に障るるを称するのみ」と。 (注6) 顧展『諌解』 に挙げるが、(厳)を(厳)に作る。但し、劉厳・劉巌の いずれにしろ、『南史』に見えない。『註解』は、宇都宮遊魔の増広本にも 挙げる。 (注7) (注5)参照。 (注8) 『唐詩貫珠』に「按ずるに広志に、萄漢に芋繁し。凡そ十四種。君子芋 有り、大きさ斗の如し。百菓芋、畝に百科を収む。実以て免を養ふ」と。 『広志』は、晋・郭義恭葵。『蕃文類衆』巻八十七、某部下、芋の条およ び 『太平御覧』巻九七五、菓部十二、芋の条に引く。

浣花里は、もとの錦宮城の地で、(錦里)とも号した。朱山人は、そ

の地の長老であるから、(錦里の先生)と称した。(鳥角巾)は、隠

士の服装。『南史』

に、「劉厳は隠逸して仕えず、いつも綿衣をまと

い小さな黒い頭巾をかぶっていた」とある。(錦)の字で(鳥)の字

に配合して、句の字面をきらびやかにして、(未だ全く貧ならず)を

際立たせている。(芋)は、局地に適したもので、萄芋という言い方

がある。そのなかに斗ほどの大きさの君子芋なるものがあって、『広

志』に見える。(栗)もやはり山郷に適したもので、どうやら当地の

名産らしい。時はけだし九月で、(芋)(粟)どちらも収穫できるの

である。(未だ全く貧ならず)は、貧しくとも(食うに困るほど)貧

しくはないことを言う。けだし山人は(貧)しいとはいえ、(芋)や

(栗)が収穫できたので、食べる物に乏しくはない。しばらくは富

んでいるのである。

慣"看″ニ賓客兎童喜フ

得…食ヲ階除鳥雀馴″

※慣看…ミナレタル

階除…ザシキノヱンサキ

馴…ナック

慣ハ熟也。賓客ハ公自謂也。公敷く過二其家一一て故。見童亦慣再見〝。而

-

-1

-■-軍書ト、悠然忘レ機言尤見誌敵て不四必シモ稗㌔ナラ英行…ト恵ヲ及プ

於禽牽確

(注9) 顧辰『註解』に「本と山人の賓客を喜ぶを言ふ。却って児童の喜ぶを以 て形出す」と。宇都宮遊魔の増広本に挙げる。 (注10) 何か拠るところあるのか、不明。 (注11) 顧畠『註解』に「堵除鳥雀馴擾して去らず、正に(但だ見る群鴎日日来 たる)と同一の野趣」と。宇都宮遜魔の増広本に挙げる。なお、(但だ見 る〉云々は、後出0341客室」詩の第二句。 (注12) 『唐詩貫珠』 に 「四は其の仁を行ふこと禽鳥に及ぶを言ふ」と。

(7)

二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿(六)

(慣)は、熟である。(賓客)は、公自身のこと。公はさいさいその

家を訪れたので、それゆえ(児童)も見慣れて、やってくるのを(喜)

んでいる。けだし本来は主人が客を喜ぶことを言うのだが、かえっ

て(児童)が

(憲)ぶことで、その喜びをあらわしている。堂前の

庭を(除)という。山人がいつも(食)

べものを与え、人に(馴)

れた鳥が(階除)

に遊んで、驚いたり疑ったりする様子がない。の

んびりとさかしらを忘れており、とりわけ野趣が見てとれる。必ず

しも恵みを施すのが禽鳥にまで及んだというのではない。

秋水挽こ深シ四五尺

野航恰受ク雨三人

二語蝉聯シテ而下″、一片ノ天機。娩二深ハ水浅也。一

(注14)

詔雛鮎幣ノ絹㍍繁閑皿

7。吹"南ヲ受二和風ペ軽燕受り風ヲ斜、僑竹不レ受レ暑

∴巨9/

毛ノ侵づ、而野航恰受尤奇ナリ。蓋山人迎レ公、芋襲果敢供畢り、因テ乗

㍉秋水-一て浮二小舟→、件ご二ノ同好一高逝造スル也。

(注13) 天機の語、『荘子』大宗師常に見える。ここでは、技巧を弄さず自然の ままであるのをいう。 (注14) 顧展『註解』に「此れ正に秋水落ち僅かに深きこと四五尺、以て下の恰 も受くの句を生ずるのみ」と。 (注15) 顧窟『註解』に「公詩多く受の字を用ふ。此の受字、更に奇趣を見る」 とある。このこと、すでに宋こ氾温『潜漢詩話』 に指摘し、『集千家註』 にこれを引く。宇都宮遵魔の詳説にも『千家註』を挙げる。 (注16) 「上巳の日、徐司録の林園宴集」詩(詳註巻二十〓 に「薄衣積水に臨 み、面を吹きて和風を安く」。 (注17) 「春帰」詩(詳註巻十三) に「達観水に浮かんで静に、軽燕風を受けて 斜めなり」。 (注18) 「李北海に陪して歴下の亭に宴す」詩(詳註巻〓 に「修竹暑さを受け ず、交流空しく波を湧く」。 (注19) 「貸間老の汝州に出さるるを送る」詩(詳註巻六) に「人生五馬資し、 二毛の侵すを受くる英かれ」。

二語は連なって続いており、まったく自然である。(挽かに深し)は、

公ノ詩喜テ用二受ノ字

∴トJ∵

り汚如トコ

落テ僅。深コト

更二具奇鹿

莫レ受㌔二

水が浅いのである。(秋水)が引いてたかだか深さが(四五尺)になっ

たのを言い、下の(恰も受く)

の句を生んでいる。公の詩は(受)

の字を愛用しているが、いちだんと奇鹿があらわれている。「面を吹

きて和風を受く」、「軽燕風を受けて斜めなり」、「修竹暑さを受けず」、

「二毛の侵すを受くる莫かれ」といった例があり、なかでも(野航

恰も受く)というのがとりわけ奇抜である。けだし山人は公を歓迎

し、芋の費や栗の飯によるもてなしがおわると、そこで(秋水)を

好都合として小舟を浮かべ、一二の同好の者に伴って舟遊びを楽し

むのだ。

白沙翠竹江村ノ暮

相送テ柴門月色新ナリ

白沙翠竹、栴窟ノ清幽→。雷歎迄レ暮ニ、月上テ㌔警。主人殿勒二出

レ門ヲ相送″。江村清幽、月邑欺り董フ。飴歓陶然、乗ルテ興こ而辟。通

首螢高人意気相得テ鞄撃ルヲ。結尤有二徐昧一。葦荘常二愛㌔此二句

づ、吟諷シテ不レ置。長こ有レ以英。鶴野新ノ字有二撤見テ而驚之憲一。野

景雷蓮、不レ璧月色又新ナリ臭。按ス竺此篇救㌶鮒牒ノ幽鹿づ、而詩健極

テ清麗、亦見…不コ全ク貧再ラ。髄輿レ事柄フ、化工之筆。余嘗テ謂七律第

二句領盲首ノ詩紳ぺ句句皆従レ鵬警斯夢奄作素。末レ能憲訣

→、不レ宜レ作也。如二此詩」可レ見己。

(注20) (送)字、銭注および輯註は(封)に作り、輯註に「英華は(送)に作 る」と注す。英撃は、『文苑英華』巻三一八。 (注21) 『唐詩貫珠』に「下界己に秋水に乗じて野航を浮かべて之を訪ひ、直に 談じて薄暮に至り、月上って方に選るを言ふ」と。 (注22) 『唐詩貫珠』 に「通首、高人音気相得て宛然たるを覚ゆ」と。 (注23) 牽荘、字は端己(八三六∼九一〇)。『唐才子伝』巻十に伝がある。布目 潮諷・中村喬『唐才子伝の研究』および小川環樹編『唐代の詩人1その僻 記』 (横山弘執筆)参照。宋・計有功『唐詩紀事』巻六十八、葦荘の条に 「後、子実の爵、(白沙翠竹江村の暮、相送りて柴門月色新なり)を詞し、 吟諷して緩まず」と。ちなみに、その編にかかる『又玄集』にも、この「南 隣」詩を収む。なお、近年、轟安福箋注『馨荘集箋注』 (上海古籍出版社、

(8)

文化情報学部紀要,第5巻,2005年 二〇〇二年)及び斉涛箋注『童荘詩詞箋注』上下(山東教育出版社、二〇 〇二年) が刊行されている。 (注24) 顧窟『註解㌔宇都宮遊魔の増広本にも挙げる。 (注25) 巧まざる自然な筆致をいう。例えば、明・李費『焚書』巻三「椎説」に 「拝月・西府は化エなり。琵琶は画工なり」と。 (注26) 『夜航詩話』巻一に、「(七律の)第二句の好は、尤も得難し。蓋し是の 句は全首の詩神を領し、句句皆此れ従り生ず」と。

(白沙翠竹)は、あたりが清らかで静かなのを称する。引き留めら

れて款待を受け(暮れ)に至り、(月)がのぼってやっと我が家にも

どることになった。主人はねんごろに(門)を出て(相送)ってくれ

る。(江村)は静かで、(月色)は昼かとまがうばかり。楽しく過ご

した飴韻に心地よく、興のつきぬまま気分よく帰るのである。一首

全体から、高雅の士との意気投合ぶりがさながら目に浮かぶような

気がするし、結びにはとりわけ徐韻がある。葦荘はつねにこの二句

を愛し吟諷してやまなかったというが、まことにもっともなことだ。

顧展の注に、「(新)字には、ちらっとみて驚くという意がある。(江

村)の美しい景色のもと、いつまでも立ち去りがたく居続け、ふと

気がつけば、(月色)がまた(新)たになっている」と。按ずるに、

この詩は村家の幽趣を述べており、詩の風格はきわめて清麗で、や

はり(全く貧ならざる)ことをあらわしている。風格と事柄とがぴっ

たりし、巧まざる自然な筆致である。わたしはかつて七律の第二句

は一首全体の精神や気分を支配し、他の句はどれもここから生ずる

と言ったことがあるが、これは法度にかなった作だ。この秘訣を能

くしないうちは、作らないほうがよい。この詩のような例に、見る

鸞靂望遠聖霊こ送レ客ヲ逢青梅義憤テ盈筈

延音数。関中ノ人。善…詩ヲ、輿二公及三雄一友トシ善。萄州ハ層コ成都府

紺謂訝雛翫縛瑠侍郎→、則後年ノ事英豪腕霜

(注1) 明こ局検『唐詩晶彙』 に「襲始、関中の人」。宋・計有功『唐詩紀事』

巻十六、襲辿の条に「辿、初め王維二痙)興宗と倶に終南に居る。天宝

の後、萄州刺史と為り、杜甫と友とし善し」という。また『全唐詩』 ー二九)の小伝には「襲辿、関中の人。初め王推・雀興宗と与に終南に居 り、同に侶和す。天宝の後、萄州刺史と為り、杜甫・李億と友とし善し。 嘗て尚書省郎と為る。詩二十九首」とある。萄州は、今の四川省崇州市。 但し、襲通が萄州刺史となったとするのは、誤り。襲過と王経との交友に ついては、入谷仙介『王維研究』 (創文社、一九七六年)第十章「周辺の 人人」 に詳しい。 なお、銭起(字は仲文、七一三∼七八〇)に「襲噴侍御の萄に使ひする を送る」詩(『全唐詩』巻二三九) があり、「柱史後に年四十強、磐腎美 髪 清揚美なり」と詠じられているが、噴字について「一に辿に作る」と あることから、倍数環主編『唐五代文学編年史【中庸巻】』は、襲辿のこ とを詠じたものとみなして、襲通が萄に入ったのを上元元年(七六〇)二 月の条に繋年し、その年齢をおよそ四十三歳と推定している。さらに礪棟 「襲追考論」(「唐代文学研究」第十輯、二〇〇四年)では、上元元年当時、 四十二歳で、開元七年(七一九)生まれとする。もっとも、陣内孝文「襲 辿生年考」「中国文学論集」三十三号、二〇〇四年)は、従来の説を否定 し、六九九生まれの王維より「四十歳ほど年下」であったとみなしている。 (注2) 王紆(字は夏卿。七〇一∼七八こについては、『旧唐書』巻一一八、 『新唐書』巻一四五に伝がある。その伝には萄州刺史となったことは見え ないが、王維の「窮を責め弟を薦むる表」 (『王右丞集』巻十七)に王紆の 宮街を萄州刺史とし、皇甫敵[徹〕がかつて萄州刺史を務めた四人の宰相 を詠じた「四相を賦す」詩(『全唐詩』巻三一三) の其四に王紆が挙げら れている。 (注3) 「襲通が新津の寺に登って王侍郎に寄するを和す」詩(詳註巻九)には、 「王は時に萄に牧たり」と注を附して、次のように詠じられている。

窒素津寺盲¥侍郎舞踏ハ(張之弟。嘗テ畢刑部侍郎一、

一一て在二成都ノ西百畢憲時。依誌轡在二萄州云ノ集♂甥

(注6)

(9)

二宮俊博/渾阪東陽『杜律詳解』訳注稿(六) 何恨倍山木 吟詩秋葉姦 婦聾集古寺 鳥影度寒塘 風物悲遊子 登臨憶侍邸 宅大倉俳日 随意宿僧房 何の恨か山木に借りて 詩を秋葉の費なるに吟ず 膵聾 古寺に集まり 島影 寒塘を度る 風物 遊子を悲しましむ 登臨 侍郎を憶ふ 老大 彿日を合る 随意に僧房に宿せん

な雪他に067「暮れに西[四〕安寺の鐘楼に登って襲十娘に寄す」詩があ

る。 (注4) 刑部侍郎は、尚書刑部の次官で、正四品下。 (注5) 黄門侍郎は、門下省の次官で、正四品上。旧伝に拠れば、王府が黄門侍 郎となったのは、広徳二年 (七六四) のことである。 (注6) 東陽が底本とした明・郡侍『杜律集解』を指す。 (注7) 郡宝『集註』 (巻二十三、簡寄)。なお、銭注(巻十こおよび韓註(巻 八) にも(相憶)の二字がある。

(始)、字音は秋。(襲麹)は、関中の人。詩を善くし、公や王経と

友人で仲がよかった。(萄州)は、成都府に属し、成都の西百里にあ

る。褒始は当時、王給を頼って(萄州)

にいた。公の集に「裏地新

津寺に登って王侍郎に寄するを和す」詩がある。王府は、王維の弟。

かつて刑部侍郎となったことがある。この当時は、けだし(萄州)

の刺史であったのだろう。いったい黄門侍郎となるのは、後年のこ

とである。旧本は、(相憶)の二手を脱している。『集註』

に従って

これを補う。

還如三何遜力在シヵ揚州二

∴∴≡∴∴デ∵

.-南平王偉為m揚州ノ刺史ぺ引テ夢葡客ぺ掌書記室タリ。遜有二早梅ノ

詩去、兎園標ン物候→、驚"時。最是梅。衝富相ヲ嘗丹路こ琴映ルテ雪こ

凝ルテ寒ヲ開ク。枝ハ横卯月戟、花ハ遼″凌風董。應レ知早ク諷落ス″ヲ、故

。逐二上春づ釆″。此在ジ揚州一哀傷シテ所レ味ス″。襲力詩亦感㌔早梅-高

作ル。放こ用嵩ヲ比軍。又何遜鞄撃、東関1開、競テ収二楊馬→、

詳こ載二墨荘漫錬-「東閣ハ庶漢ノ公孫弘力故事、言三南平王延ジ文学之

士→。畢」東亭→薦二束閣ぺ亦本コ諸些言蓋襲勉在二王侍都ノ幕て如

三何遼力畠封南平東閣之軍。乃逢ン早梅一一て感ル時。懐〃人ヲ、而動コ詩興

つ、亦如下何遜力空揚州函時。最張之感電。虞註引下何遜革蕩

州ノ法曹靂恒トヲ廃絶頂化㍍。明表意亦載レ之ヲ。誤テ薬二億蘇之妄づ

耳。葛常之力望叩陽秋、揚用修力梅雛録所レ之ヲ詳ナリ英。億蘇トハ者、

南宋/時間中ノ鄭昂卜云者、儲ジ東披ノ名→、作二老杜事賛一編→。其所り

引事、皆無二根墟一、反テ用靂詩ノ見句ぺ増減シテ畢支ヲ、而誘堀

二古人ノ弼謂二之ヲ億蘇註パ。今千家註。蘇日卜云者是也。朱子文集、

洪容粛随筆詳。所盲(妄→。然去猶畢レ謬ヲ不レ巳、長。可レ笑也。

(注8) 明・徐師曽志文体明弁』巻十五に、この詩を載せ、(東関)の下に「即 ち東亭」、(官梅)の下に「官廃の梅」と注する。 (注9) 何遜(字は仲言、四六七∼∼五一八∼)の伝は、『安吾』巻四十九、文 学伝および『南史』巻三十三、何承天伝に見える。前者には、興膳宏編『六 朝詩人博』に訳注(森田浩一執筆)がある。後者に「梁天監申、尚書水部 郎を兼ぬ。南平王引きて賓客と為し、記室の事を掌らしむ」と。南平王は、 梁武帝の異母弟、蘭偉(字は文達、四七六∼五三三)のこと。『梁書』巻 二十二、『南史』巷五十二に伝がある。天監六年(五〇七)、使持節都督揚 徐二州謡軍事・右軍将軍・揚州刺史となった。なお、何題詩の校注として、 劉暢・劉国稽注 及び李伯斉校注 (注10) 何遜の「早梅」 兎園標物候 驚時最是梅 街霜普路藤 吹雪凝寒開 校横如月窮 花遼凌風蛋 『何遜集注・陰産集注』 (天津古籍出版社、一九八八年) 『何遍集校注』 (斉魯書社、一九八九年) がある。 詩(『古詩紀』巻九十三) は、次のごとくである。 兎園 物候を摩し 時に驚くは最も是れ梅 霜を街み路に当たって発し 雪に映じ寒を凝らして開く 枝は横はる卯月観、 花は遣る凌風台

(10)

文化情報学部紀要,第5巷,2005年 朝澄長門泣 夕駐臨叩杯 應知早諷落 放逐上春釆 ちなみに、 朝に濯ぐ長門の泣 夕に駐む臨叩の杯 応に知るべし早く諷落するを 故に上春を逐って来たる 明・張蒋『漢貌六朝百三名家集』 (第八十六冊) は、話題を 「揚州の法曹、梅花盛んに開く」 に作る。 (注11) 輯註に「胡震寧日く、何遜墓誌に東閣一たび開き、競って楊馬を収む。 杜甫の東関は此の誌に本づく。墨荘漫録に載す」と。宇都宮遊魔の増広本 にも引く。但し、明・胡家事(一五六九∼〓ハ四五)の語は、何に見える か、不明。その著に『杜詩遵』四十巻がある由(『社業書目提要』及び『杜 集書録』に拠る)だが、未見。『唐音突致』には見あたらない。『墨荘漫録』 は、宋・東邦基の挨。その巻一には、何題の本伝に揚州に在りしことを言 わずとしてから、「余、後に別本を見るに、(中略)遜、東海別の人。本州 の秀才に挙げらる。射策当時の冠為り。官を奉朝諸に歴す。時に南平王殿 下、中権将軍楊州刺史と為り、望は右戚に高く、実に賢主と日ふ。彗を擁 して庭を分かち、客を愛して士を接す。東闇一たび開き、競って楊馬を収 む。左席皆啓き、争って都枚を超ふ。君は詞蟄を以て早に聞こゆ。故に深 く親礼し、引きて水部と為し、参軍の事を行はしめ、偽って文を記室に掌 らしむ、云々」 (『稗海』本)という。ここに見える別本のことを、胡震亭 は「何遜墓誌」と称したのものか。なお、(楊馬)は、揚雄と馬融。(都枚) は、緋陽と枚乗。いずれも漢代、賦の大家。すぐれた文学の士を指す。ち なみに、『墨荘漫録』は『唐詩貰珠』 (巻五十六、花木四) にも挙げる。 (注12) 『漢書』巻五十八、公孫弘伝に「是に於いて客館を起こし、東閤を開き 以て賢士を延く」と。 (注13) 『杜律虞註』酬寄の部に「何遜、字は仲言。梁の天監中に揚州の法曹と 為る。廓舎に梅花一株有り、其の下に吟味す。後、洛に居して梅を思ふ。 因って再任せられんことを話ふ。揚州に抵るに及んで梅花方に盛んに開 ・\」 し㌔ (注14) 輯註に「按ずるに偽蘇註に何遜揚州の法曹と為り廃合の梅花を詠ず。一 統志も亦た之を載す」とあり、宇都宮遊魔の増広本にも引く。また(注19) に挙げる『夜航詩話』巻四の偽蘇注について述べた箇所に続けて、「余、 明一統志を見るに、梁の何遜が揚州法曹と為り、麻舎の梅花を啄ずるを載 す」というが、但し、『大明一統志』 には見いだせない。 (注15) 南宋・葛立方

(字は常之、∼∼二六四)

の『韻語陽秋』巻十六に「近 時妄人有り、東彼の名を仮りて老杜事実一編を作る。一事として拠ること 有る無し。遜、揚州法曹と作り、廓舎に梅一株有り、遜、其の下に吟味す と謂ふに至っては、蓋に学者を誤らざらんや」と。 (注16) 明・楊慎『丹鉛総録』巻十九、詩話類、「偽書人を誤る」 の条に「任防 の述異記・殿芸の小説・沈約の梁四公子記、唐人の杜陽雄編・天望遠事、 宋人の雲仙散録・清異録・杜詩偽蘇註の如き、時に盛行す。殊に学者を誤 る」という。また『升庵詩話』巻八および『升庵集』巻五十七に東関官梅 の条あり、「宋世妄人有り、東披の名を仮りて杜詩注一巻を作り之を刻す。 一時争って杜詩を尚ぶ。而して披公名天下に重し。人争って之を伝ふ。而 れども其の偽なるを知らざるなり。(中略)近日、郡文荘宝乃ち其の註を 手抄し杜詩七言律に入れ刻行す。豊に後学を誤らぎらんや。偽蘇註の謬、 宋世、洪容欝・厳漁浪・劉須渓父子・馬堀臨経籍考、皆力めて其の謬を所 ず。而して文章の鉱公、郡文荘の如き者、乃ち独り之を信ず。亦た尺に短 き所有るなり」という。文荘は、郡宝 (字は国賢) の認。 (注17) 南宋・朱藁〓 二二〇∼一二〇〇) の『朱文公文集』巻八十四、「章国 華集注する所の杜詩に放す」に「章国章、予を山間に過り、集注する所の 杜詩を出して予に示す。其のカを用ふること勤めたり奏。然れども引く所 の東披事実なる者は蘇公の作に非ず。之を長老に聞くに、乃ち間中の邸昂 尚明偽りて之を為る。引く所の事皆根拠無し。反って杜詩の見句を用ひ、 増減して文を為り、而して其の前人の名字を博して、託して其の語と為 し、時世先後顧倒して次を失する者有るに至る。旧と嘗て之を考ふるに、 其の決して蘇公の書に非ざるを知るなり。況んや杜詩の佳処は用事造語 の外に在る者有り。唯だ其れ虚心に諷詠して乃ち能く之を見る。国華更に 予の言を以て之を求むる、以て三百篇を読むと雄も可なり。朱藁仲晦書 す」と。 ちなみに、王徳毅他編『宋人伝記資料索引』 (鼎文書局、一九八〇年) に拠れば、鄭昂は、福州侯官(福建省)の人で、政和五年(一一一五)の 進士。国子祭洒、鄭穆(一〇一八∼一〇九二)の孫にあたるという。章国 華は、伝不詳。 なお、実礪鋒「杜詩(偽蘇注)研究L (「文学遺産」一九九九年第一期)

(11)

二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稲(六) では、朱其の説は伝聞に過ぎず、確証がないとし、偽蘇注の作者について は疑問のままにしている。 (注18) 南宋・洪邁(一一二三∼一二〇二)の『容斎随筆』巻一、浅妄書の条に、 「俗間伝ふる所の浅妄の書、所謂雲仙散記・老杜事実・開元天宝追事の属 の如き、皆絶(はなは)だ笑ふ可し。然るに士大夫或いは之を信ず。老杜 事実を以て東彼の作る所の者と為し、今、萄本社集を刻するに、遂に以て 注に入る」云々という。 (注19) 『夜航詩話b巻四に「南宋の時、間中の鄭昂といふ者、東彼の名を仮り、 老杜事実一編を作る。其の引く所の事、皆根拠無く、反って杜詩の見句を 用ひ、増減して文を為し、而して託して古人の語と為す。之を偽蘇注と謂 ふ。今、千家注の蘇日くといふ者是れなり。朱子文集に詳らかに之を弁ず。 洪容斎・厳漁浪・劉須渓・尾端臨・楊用修等力めて其の妄を弁ず。然れど も猶ほ謬を襲ひて己まず、後学を誤る殊に甚だしLと。偽蘇注のことは、 訳注稿臼、0121曲江」二首英二の(注膏こも参照。

(東閣)とは、ほかならぬ(東亭)

のこと。(官梅)は、役所の梅。

(詩興を動かす)は、(早梅)をみることによって、季節の移ろいに

心感じて、感懐をもよおし吟詠するのを言う。季節の風物を娯しむ

ことを意味するのではない。(何遜)は、梁の人。南平三億が揚州の

刺史となった時、引き立てて賓客とし掌書記室となった。何遜に「早

梅」の詩があり、次のように云う、「兎園物候を標し、時に驚くは最

も是れ梅。霜を衝いて路に当たって発す、雪に映じて寒を凝らして

開く。枝は横たはる却月観、花は遣る凌風台。応に知るべし早く親

落するを、故に上春を逐って来たる」と。これは揚州にあって感傷

して詠じたもの。襲延の詩もやはり(早梅)に心感じて作られたの

で、これを用いて比擬したのだ。また「何遜の墓誌」

「東閣一た

び開き、競って楊馬を収む」とあり、詳しくは『墨荘漫録』

に載せ

られている。(東閣)は、元来、漢・公孫弘の故事で、南平王が文学

の士を招いたことを言う。(東亭)を(東閣)というのも、やはりこ

れに基づく。けだし襲勉は王侍郎の幕府にあり、何遜が南平王の(東

閣)

の客であったのと同様である。虞註に何遜が揚州の法曹となり

廃合の梅花を詠じたことを引き、『明一統志』もこれを載せるが、誤っ

て偽蘇注のでたらめを踏襲したのだ。葛常之の

『韻語陽秋』や楊用

修の

『丹鉛録』

に、このことを詳しく弁じている。偽蘇とは、南宋

の時、間中の鄭昂なる者が、蘇東彼の名をかりて

『老杜事実』一編

を作った。その引用している故事は、どれも根拠がなく、かえって

杜詩の現にある句を用い、増減して文章をでっちあげ、古人の語に

仮託したもので、これを偽蘇註という。今、千家註に

「蘇日く」と

いうのが、それである。『朱子文集』や『洪容斎随筆』にそのでたら

めぶりが詳しく弁じてある。さりながらなおも謬まりを踏襲してや

まず、まことに可笑しなことだ。

此時封ルテ雪二造二相憶″

送け客ヲ逢レ春二可ンヤ自由→″

蓑力詩蓋雪中ノ早梅、句中言二零讐、故。日二此時封㍗雪。。憶ハ言二襲

憶㍗公ヲ也。遠客俺遊、同断鶴撃故-墜相澤遽鞘緩摘湾、\津増

離難絹鮎鯛根調錮訝雛銅朋町表詣折銅

可ルヤ禁耶。宜ナリ其賦シテ以遣レ興ヲ也。或ハ謂封憲ヨニ亦印蓬二鶴野、

非レ是ニ。空こ軋軍て誤。

(注20) 『呉越春秋』開聞内伝に「子背、河上の歌を述べて日く、同病相憐れみ、 同憂相救ふ」と。

(注聖

釈大典『杜律発揮』巻上に「可訓誉且可ソと。 (注22) 『文体明弁』に「(自由なる可けんや)は、禁止せんと欲して而も己れに 由る能はぎるなり」と。 (注23) 原文は(愁)字の下に「一」点を鉄く。今、これを補う。 (注24) 郡償∴集解』に、雪字の下に「花白」と注し、宇都宮遊魔の詳説に「対 レ雪ニトハ花ノ自ヲ云」とある。また『唐詩貰珠』に「雪に対すは、花の 雪の如きに対す」と。 (注25) 銭注に「一に花に作る」と。

餉囁

感靂念及ス也。達頼

。言下自欲二禁止セント

(12)

文化情報学部紀要,第5巷,2005年 ノ ーヲ 上ヲ

幸二不三折来テ傷ンメ歳暮→

(春)字、一に(花)に作るのは、誤り。

す)のも、(早梅に蓬ふ)ことにほかならないというのは、よくない。

詩を賦して憂を晴らすのは、もっともなことだ。ある説に(雪に対

に感ずる愁いをつき動かす。その感情はどうして押さえきれようか。

くのをまのあたりにした。別れを恨む心を傷ましめるばかりか、時

旅の身で、客を見送る際、ふと(早梅に蓬)って、気候風物の選りゆ

めようとしても、自身ではどうにもできないことを言う。けだし幕

なる可けんや)は、量の字を加えて読む。湧き起こる感慨を押し止

(春に逢ふ)は、詩題の(早梅に蓬ふ)ことにほかならない。(自由

れんでいる。それゆえ己れの感慨によって気にかけているのである。

地が公を憶うのを言う。遠く故郷をはなれて客遊に倦み、同病相憐

言うのであろう。されば(此の時雪に対して)という。(憶)は、裏

襲麹の詩は、けだし雪中の(早梅)を詠じたもので、句中に雪景を

若馬セン看去テ乱ン郷愁→

此述二己力撫レ時ヲ毎繹.折ノ字乱撃芳下折嘩蓬二軍褒

、、

詔案シ得テ妙。剤州記こ陸凱輿二苑嘩高書シ。自二江南葡二梅一枝

詣プ長安盲ハレ嘩。、併テ暦再詩ヲ日、折丹梅ヲ蓬二騨嘩一て寄輿ス陵頭

。江南無レ所レ有、聯贈″一枝ノ春。此蓋音人」五、非二劉宋ノ苑嘩

一高。早梅ハ是先再春二早ク開、故■首二歳暮ぺ指二臓末→。若鳥ハ猶レ言

二奈何㌔二句意二貫、

正二所レ謂感ルテ時二花。

モ錮無

其不㍗寄二梅花→。是極無御中ノ語。

時。故二言幸こ不四折レ花ヲ釆贈テ使三

我ヲシテ見丹之ヲ而傷コ歳暮之感→。若シ得テ而見…之ヲ、即亦所レ云驚頼時

∵-.ト

・。∵

(注26) 『唐詩貫珠』 に「下界、己が時を撫するの感を述ぶるなり」と。 (注27) 『唐詩貫珠』 に「此の聯、只だ一折字題を検す」と。 (注28) 『唐詩賞味』に「折字、梅を折って駅使に蓬ふの折を用ふるなり」と。 (注29) 『太平御覧』巻九七〇「梅」、『事類賦』巻二六「梅」、『方輿勝覧』巻二 二「南安府」に引く。但し、『太平御覧』では(折梅)の二字を(折花) に作る。 (注30) 南朝・宋の人。字は蔚宗(三九八∼四四五)。『宋書』巻六九ならびに『南 史』巻三三に伝がある。『後漢書』 の撰者。 (注31) 「春望」詩(詳註巻四) の第三句。 (注記) 『文体明弁』に「通が詩、今、伝わらず。意ふに其の中必ず折り来らん と欲す及び同じく看るを得ずの語有らん、故に和して之に及ぶ」と。また、

釈大典『杜律発揮』巻上に「羞糞力詩中言下不レ得一折贈「ヲ無レ由二携看

一言意㍍也Lと。

(注33) 『唐詩貫珠』 に「郷字、客を送る従り脈絡し来たる」と。

これは時事に触れての感慨を述べる。(折)の字は、話題をしっかり

つかんでいる。けだし、「梅を折って駅使に蓬ふ」の(折)を用いた

のであろう、翻案のしかたが絶妙だ。『刑州記』に「陸凱は汚嘩と仲

がよかった。江南より梅一枝を寄せ、長安に至り箔嘩に与え、併せ

て詩を贈った。日く、梅を折って駅使に蓬ふ、寄与す龍頭の人。江

南有る所無し、聯か贈る一枝の春」とある。これはけだし晋の人で

あるという。劉宋の箔嘩ではない。(早梅)は、春に先んじて早く開

花するので、(歳暮)といい、腺末を指す。(若為)は、奈何という

のとほぼ同じ。二句は意味が一貫し、かえって(梅)花を寄越さな

かったのをもっけの幸いだとしている。これは極めて無柳のあまり

吐かれた語である。まさしくいわゆる「時に感じて花にも涙を溌ぐ」

という時で、されば(幸ひに)も、花を(折)って贈り私にそれを見

て(歳暮)に心傷ましめるような気持ちを起こさせなかったと言う。

もしそれを手にして見ていたなら、ただちに「時に驚くは最も是れ

梅」というふうになって、とりわけ(郷愁)に心かき(乱)され、

どうしようもない状態になっていたはずである。襲姫の詩は、今に

伝わっていないが、思うにそのなかに手折って贈ることができない

(13)

二宮俊博/浄阪東陽『杜律詳解』訳注稿(六)

のが残念だという悪がきっとあったはずで、それで唱和してこれに

言及しているのである。(郷愁)の字は(客を送る)から来ており、

暗につながっている。

江連ノー樹垂垂トシテ畿ク

朝夕催ルテ人ヲ自白頭

※朝夕催人…コレハマアナニトドウセフゾ

江連ハ公白雲所靂蓋宅邁亦綿準株包。垂ハ肇也。婿帰

及也。垂垂ハ旦夕欲レ登ント之貌。司空曙垂垂身老絡帰侍ルト法ヲ、倍賞

鵬講義垂垂トシテ老、亦軍欲レ老ント之貌→。私感シテ作二梅帯;雪

ヲ貌ぺ誤テ泥以上ノ封㌶雪。。非レ所三以。言二流年之感ヲ也。催頼人ヲ健

二人ノ白頭→也。二句乃波瀾、既専科ス糞力之不㌔軍票両党ルルヲ動コ。責

苦感愴→、如何セン壁聖樹ノ江梅、便復垂垂トシテ欲レ教ント、旦夕催ルテ

ーー

・‥‥

レ之ヲ。或ハ以二此時封ルテ雲。造。相憶瑚ヲ夢蚕憶㍗襲、謬″英。

(注34) 釈大典『詩語解』に「哉会。垂ハ将描及バンF也Lと。(韻会)は元∴熊 忠『古今韻会挙要』のこと。なお、(垂垂)は唐代の俗語で、しだいしだ いに、だんだんとの意。 (注35) 中庸・司空曙の七律「衡岳の隠禅師に贈る」詩(『全唐詩』巻二九二) の第七句。 (注36) 晩唐五代・貫休(八三二∼九一二)の七律「情を陳べ萄皇帝に献ず」詩 (『全唐詩』巻八三五) の第三句。 (注37) 『文体明弁』に「梅の雪を帯ぶるの貌」と。顧炭『註解』にも「垂垂は、 花の雪を帯ぶるの状」と。 (注38) 『唐詩貰珠』 に「只だ自字、上文を承けて甚だ明らかなり」と。 (注39) 『唐詩貰珠』に「頭白も亦た花の白きに映帯す。筆精墨妙」と。 (注40) 顧展『註解』に「見る可し雪に対しての句、是れ公、襲を憶ふ。正に此 の句と隠映す」と。宇都宮遊魔の増広本にも挙げる。

(江辺)は、公自らその住まいをいう。けだし宅辺にもやはり梅一

株があったのだろう。(垂)は、ほとんど。今にもそうなりそうなの

をいう。(垂垂)は、旦夕のうちに(発)かんとするさま。司空曙の

「垂垂として身老い将に法を伝へんとす」、僧貰休の「一瓶l鉢

垂として老ゆ」も、やはり老いんとするさま。あるいは(梅)が(雪)

を帯びるさまと解するのは、誤って上の(雪に対す)に拘泥したの

である。歳月が過ぎゆくことへの感慨を述べたわけではない。(人を

催す)は、(人)の(白頭)を(催)すのである。この二句は、起伏

変化にとみ、襲始が(梅)花を贈り示さず、私に悲しい思いをさせ

ずにすんだのをもっけの率いとしたのに、どうしたかことか、限前

の(一概)の江(梅)が(垂垂〉として今にも(発)きそうで、旦

夕に愁を(催)して(人)の(頭)を(白)くさせようとしている。

結局、春の花が人を悩ますのを免れがたいのである。(自)の字は、

上文を承けて味わいがある。(頭)が(白)いのも、花の白いのと照

応関連している。これは襲始の詩が届いてから公が唱和する詩を

作った時のことをいう。ある説に、(此の時

雪に対して遥かに憶は

る)を、公が襲辿のことを憶うとするのは、でたらめだ。

034客至

公自註。喜二撞明府力相過…ヲ。辞廣文謂公ノ生母ハ楼氏、明府ハ蓋舅氏

也。然主詳㌔″。詩径ぺ恐ハ不二是専行て疑クハ是表兄弟。

(注1) 『而庵説唐詩』 (巻十九)に「公の自註に、雀明府が相通るを喜ぶと。辞 広文謂ふ、公の生母は攫氏。明府は蓋し其の舅氏なりと。愚観去するに、 恐らくは足れ専行ならず、必ず是れ表兄弟ならん」と。(辞広文)は、明・ 辞益のこと。広文は教授の意。¶分類』(巻二、尋訪類)に見える。(明府) は県令。(窮民)は母の兄弟。(表兄弟)は母方のいとこ。

公の自注に「荏明府が相過るを喜ぶ」。辞広文がいう、「公の生母は

雀氏。明府はけだしその兄弟であろう」と。さりながら、詩の筋み

ちを詳しくみると、おそらく年長者ではない。どうやら母方の従兄

弟らしい。

(14)

文化情報学部紀要,第5巷,2005年

舎南舎北皆春水

但見ル軍鴎日日来″

首句用下在二水ノ〓た撃息㍍。次句用二海翁押レ鴎二晦苧居在二江流

曲〝虞㌔舎之南北皆水而巷説滴漫、殆欲レ浸冊ント岸ヲ。於レ是二葦鴎因

憲二而東リ、遊二於舎ノ南北益配一一て日こ輿二件ヒ馴テ、坐ナカラ占靂上翁

之趣素。釆ノ字抑止欝二所レ云相親ミ相近ック、見ぎ機ヲ意→。然トモ

但見二手有二人跡断絶猫坐寂蓼之感一、薦レ喜封客室→張レ本ヲ。抑亦婿

二間鴎→説プ、作三極テ有コ父博一、極テ不二妄二交】レ人言

(注2) 『詩経』秦風・兼蔭に「所謂伊の人、水の一方に在り」と。 (注3)

『列子義帝篇に見える。訳注稿q

OOl「張氏の隠居に題す」詩の(注讐

参照。 (注4) 『而庵説唐詩』に「群鴎は水鳥。水に因って来たり、舎の南北の間に遊 ぶ。人跡断絶せり央」と。 (注5) 訳注稿㈲、030「江村」詩の第四句。 (注6) 伏線となること。訳注稿日、002「邸鮒馬潜曜渦中に宴すL詩の(注10)参 照。

首句は、「水の一方に在り」という『詩経』の句の意を用い、次句は、

海辺に住む翁が鴎になれ親しんだという故事を用いている。住まい

は、江の流れが湾曲するところにあり、(舎)の(南)と(北)とは、

いずれも川で春になって水面が張り、ほとんど岸を浸さんばかりで

ある。そこで(群鴎)がやってきて、(舎)の(南)(北)の間に遊

んでおり、日に日に馴れて、海辺に住む翁が鴎と親しんだというの

と同じぐあいになってきた。(来)の字は、前の詩に云う「相貌しみ

相近づく」

で、横心を忘れる意を表している。されど(但見)の二

字には、訪う人もぶっつりとだえ、ぽつねんと独り坐しているとい

う寂蓼感がある。(客室る)を喜ぶための伏線となっている。そもそ

もやはりのんびりとした鴎をよろこぶのは、きわめて親近感がある

とみなして、みだりに人と交際しないのだ。

花擾不二曾テ緑け客二掃一

蓬門今始テ席に君力開

※蓬門…ロジモン

二句一連、流水封ノ法。聞居曾テ不レ引レ客ヲ、放こ任コ落花埋一一√径ヲ、

是不二惟傾慢一、抑〈亦惜レ花ヲ也。今薦二君力過臨パで姶テ開再門ヲ相

迎。蓋好客定吉、晦撃露出ル也。蓬門ハ葺こ以㍑蓬ヲ者。蓋入レ園こ

小門也。日二今始一「不∵閲久シ英。日レ薦損スト君カ、特こ延迎也。

(注7)

訳注稿嘩021「九日藍田撞氏荘」詩の詳解に1十四字一気に読み下す、

之を流水対と謂ふ」と。その (注13) 参照。 (注8) 『後漢書』後顧伝に「(欝)憲、履歴して門に迎ふ」とあり、李賢の注に 「履歴は、履を紬き之を曳きて行く。忽遮を言ふなり」。また鄭玄伝にも 「国相孔融、深く (鄭)玄を敬し、展履して門に造るLと。

二句一連なりで、流水対の句法。閑居してこれまで(客)を招かず

におり、それゆえ落(花)が(径)を埋めるにまかせていた。これ

は願惰怠慢なせいばかりでなく、そもそもやはり(花)をいとおし

む心ばえによるものなのだ。(今)、(君)が訪ねてくれた(為)に、

(始)めて(門)を(開)

いて出迎える。けだし好客の楚音に、履

物をつっかけて出迎えるのであろう。(蓬門)は、蓬で葺いたもの。

けだし庭に入る小門であろう。(今始めて)というのは、それまでずっ

と(開)かずにいたのだ。(君が為に)というのは、わざわざ招き迎

えるのである。

盤韓市遠シテ無〓菜味【

樽酒家琴ソテ只蕾酷

※盤餐…ゴゼンブ

無兼味…サイノモノニトボシ

旧酷…ナミザケ

殆音琴夕食也。市遠ハ言二村居ノ僻陪づ。無一㌦兼味二言二唯一味→也。

幣ハ潜末レ渡者。因テ軍」濁膠づ薦レ際ト。言市隔テ難二卒。舛、て盤殆僅。

一味、家貧シテ無二美醸】。樽酒只濁膠、率薄殊甚シ、良こ可二恕悦㌔

幸こ是親戚情親シ、鷹二諒シテ而不一レ恨也。

(注9) 『字彙』に「殆、蘇毘の切。音孫。夕食なり。夕食故に夕に臥ふ。俗に 塊に作るは非」と。 (注10) 『字彙』に「錨杯の切、音杢。洒未だ渡さず。又た酔飽なり」と。『而庵 説唐詩』 に「酷は是れ洒未だ漉さざる者」と。 (注11) 『而庵説唐詩』 に「盤冶は止だ一味を得、第二様有る無し」と。

(15)

二宮俊博/津阪東陽パ杜律詳解』訳注稿(六) (注12) 率薄は、質素なこと。例えば、『晋害』良吏伝、呉隈之伝に「隠之、将 に女を嫁せんとす。(謝)石、其の質素なるを知る、女を遣るに必ず当に 率簿なるべしとて、乃ち蔚帳を移して其の経営を助けしむ」と。

(殊)、字音は孫、夕食である。(市遠)は、田舎住まいの辺邸なこ

とを言う。(兼昧無し)は、ただ一種類のものしかないことを言う。

(酷)は、まだ漉していない洒。それで濁膠を(酷)という。ここ

は、(市)が隔っていて用意万端整わず、(盤辣)はわずかに一種類、

貧乏で美味い酒もない。(樽酒)は濁膠ばかりで、質素このうえなく、

まことにお恥ずかしいかぎりだ。さいわい親戚で気兼ねもいらぬ、

きっと事情を酌んで遺憾に思わないでくれるだろう、という意。

宵テ輿二野草相封シテ飲ンヤ

隔テ籠ヲ呼取テ壷"ン徐杯」

公有二鞄雛粘幣革。南琴錦里ノ先生朱山人。北都ハ王明府。公ノ詩

≡一‥・ニ

琴態

愛ル洒ヲ能㍑詩ヲ者。又尉斯校書亦草堂之南郷。江畔尋レ花ヲ

走テ寛南郷愛レ洒ヲ伴1自註二尉斯融吾洒徒。今所…指蓋斯人

也。宵ハ省間レ客。之評。言家醸不レ美ナラ、供給太乏シ。情意徒。切。シテ、

鰭餉…摘録掴に、】糾銅舵㌶甜軍㌫㌍掴

鰻鯛蟻鍼磐柑葺ルヲ。。。郷翁1[㌘隔撃亦輿

(注13) 前出022「南隣」詩参照。 (注14) 「北隣」詩 明府立鮮満 蔵身方告努 青餞買野竹 白隣岸江皐 愛洒菅山簡 能詩何水管 時来訪老疾 (詳註巻九) は、次のとおり。 明府 義に満を辞せんや 身を蔵して方に労を告ぐ 背銭 野竹を買ひ 白幡 江皐に岸く 酒を愛す晋の山簡 詩を能くす何水管 時に来りて老疾を訪ひ 歩靡到蓬萬 歩展 蓬萬に到る *何水管は、梁・何遜のこと。 郡博『集解ぬに「千家註に云ふ、明府は王明府か」、輯註(巻七) に「公 の詩多く県令を以て明府と為す。此の北隣は、蓋し王明府か」と。(三明 府)については、「敬んで三明府に簡すL詩(詳註巻十)および「重ねて 三明府に簡すL爵(詳註巻十) がある。 (注15) 「江畔花を尋ぬ七絶句L其一詩 (詳註巻十) に、 江上被花惰不徹 江上 花に悩まされ徹せず 無慮告訴只揮狂 告訴するに処無く只だ顕狂す 走東南隣愛洒伴 走って食む南隣洒を愛する伴 経旬出飲濁空淋 経旬出飲して独り空淋 (注16) 『而庵説唐詩』に「只だ一介の隣翁有り、未だ肯へて与に飲むや否やを 審らかにせず。如し以て可と為さば、籠を隔てて呼取し、徐杯を尽さしめ ん」と。なお、(呼取)の取は、単なる接尾辞。聴取・看取の取も同じ。 (注17) 『而庵説唐詩』 に「隔添の二字、舎南舎北の四字に照顧す、妙」と。

公に「南隣」「北隣」の詩がある。南隣は錦里の先生朱山人で、北隣

は三明府。公の詩にいわゆる「漕を愛し詩を能くす」る者である。

さらに斜斯校書もやはり草堂の南隣に住んでいる。「江畔花を尋ぬ」

詩に「走って寛む南隣洒を愛する伴」といい、自注に「斜斯融は吾

が洒徒」とある。今ここで指しているのは、けだしこの人であろう。

(肯)は、客に問う辞。ここでの意味は、家で醸した洒は美味くな

いし、もてなしの品に乏しい。気持ちだけいたずらに何とかしたい

と思うのだが、(客)を娯しませることができない。ここに一人隣家

の翁がいて、ふだん洒を酌み交わす仲。一緒に飲みませんか。もし

よろしければ、さっそく(呼取)せて、残りの酒(飴杯)を呑み(尽)

させましょう、これもいささか(客)

に興を添え喜んでもらえるこ

とになる、というのである。(離を隔つ)は、そのたやすいことを言

う。(隣翁)といい、(鮭を隔つ)というのも、やはり(舎南舎北)

と照応して用いている。

(16)

文化情報学部紀要,第5巻,2005年

戒㌢テ而長ヲ日レ艇ト。村農所レ用也。公暑中不レ勝二畢

午聞摘二妻子→、泣け江二取レ涼ヲ也。

(注1) 顧展『註解』に「広雅に日く、船小にして長きを挺と日ふ。村農の用ふ る所なり」と。『広雅』は、魂・張揖の著。その釈水に艇字を載せるが、 顧註に引く一文は見えない。なお、宇都宮遜魔の両署にも顧註を挙げる。

『広雅』

に「船が小さく長いのを艇という」と。村の農民が用いる

もの。公は暑いさなか鬱鬱たる思いにたえず、昼間妻子をつれて江

にうかび涼を取ったのである。

南京ノ久客耕嵩臥一㌧

北望傷ルメテ帝窮五里

銅鰻摘舶終結鯨墾転銅…

▼一言臥音某。公爵コ婆化村ノ逸民ぺ聯亦新二作ス田園-一て故。日レ耕㌔南

紺折壁銅離錮鰯綽喝絹餌閑綽欒

(注7)

.・.--∵

.

胸こ塞箪て故こ毎簑糀然り也三句是序引。公蓋臥ぷ準

。難レ睡、弔レ身ヲ思レ郷ヲ、不レ勝二無鱒「困テ動二進レ艇ヲ之興

以遣ント鶴野也。南京南畝宣望北窓、句中弄レ巧ヲ、亦偶然

苦〃暑

Ⅷ此園丁冴

耳。

(注2) (注3) (注4) (注5) (注6)

学者宜レ無レ警転嘩

銭注(巻十こ及び輯註(巻七)は、(臥)を(坐)に作り、「一に臥に 作る」と。 前出031「野老」詩の詳解に「粛宗室徳二載、明皇の行在せしを以て萄郡 を陸して南京と為し、芦を置きて両京に比す」と。 『詩経』小雅・大田。 『詩経』園風・七月。朱子の『集伝』に「籠は田に餉するなり」と。畑 に食事を運ぶこと。 陶淵明の「子優等に与ふる疏」に「常て言ふ、五六月中、北窓の下に臥 し、涼風の暫く至るに遇へば、自ら謂へらく是れ義皇上の人かと」、また 『晋書』隠逸伝の陶淵明伝に「嘗て言ふ夏月虚閑、北窓の下に高臥し、清 風諷として至れば、自ら謂へらく或呈上の人と」。 (注7) 熱転は、暑いさなかの草とり。『孔子家語』屈節解に「民は寒に耕し熱 に転る、曾て食を得ず」と。 (注8) 昼寝のこと。例えば、北宋・蘇拭の「広州を発す」詩(『蘇文恵公合註』 巻三十八)に「三杯軟飽の後、一枚黒甜の除」とあり、その自注に「俗に 障りを謂ひて異甜と為す」と。 (注9) 顧京『註解』に「粛宗至徳二載、成都府を以て南京と為す。南従り北を 思ふ、公、景に触れて皆然り」と。宇都宮遵魔の両署にも挙げる。 (注10)

前出031「野老」詩の(注望参照。

(注u) 顧廣『註解』に「或いは北窓に坐して無聯、因って艇を進むの興を動か すなりLと。宇都宮遊魔の両署にも挙げる。

(注望

辞益『分類』(巻二、舟揖)に「言ふこころは局中に留滞して、農畝に 辱めらる、北のかた長安を望んで鞭ち神を傷めて侶臥する所以なり。因っ て其の悶懐を遣らんと欲するなり」と。宇都宮遊魔の増広本にも挙げる。 (注13) 顧廣『註解』に「南京南畝、北望北窓、句中巧を弄す、亦た偶然筆に捗 る耳」と。宇都宮遊魔の両署にも挙げる。

(注望

訳注稿臼、012「曲江二首」英一の詳解に「学ぶ者好んで此れに放はば、 則ち隣女の致攣なり臭」と。その(注16)参照。

粛宗が筍を昇格させて(南京)としたことは、前に見える。萄は西

方に位置するが、長安から萄を望めば南にあたることから、(南京)

と号した。『詩経』の小雅に「傲めて南畝に我とす」、また幽風に「彼

の南畝に籠す」とある。(畝)、字音は某。公は浣花村の逸民となり、

いささか田園に耕作したので、(南畝に耕す)という。自ら落晩を嘆

じているのである。(北望

神を傷めしむ)は、故郷に帰りたく思い、

中原の地をながめやるのである。(北窓に臥す)は、陶淵明の故事で、

暑さを避けて昼寝するのである。(南畝)での畑仕事に疲れ倦んでも

どってくると、まずは一寝入りして精神や気分を休めようとした。

偶たま(北窓に臥す)ことによって、かくて(北望)して宮閑を恋

参照

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こうしゅう、 しんせん、 ふぉーしゃん、 とんがん、 けいしゅう、 ちゅうざん、

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