﹁武庫川国文﹂第八十五号 抜刷 平成三十年十一月一日 発行
樺
沢
綾
歌語﹁やがて﹂の成立
はじめに ひとは人生の節目に時間を強く意識する。恋愛や事の成り行きな ど物事の変化は和歌の中でさまざまに表現されてきた。そのような 時間性を表す一つのことばとして、 副詞﹁やがて﹂を取り上げたい。 和歌における﹁やがて﹂の用例を通して、日常のことばが歌ことば へと変換される過程でなにが重要視されたのかを分析し、和歌だか らこそ表現することができた時間概念の表現構造を考えてみたいと 思う。 一、副詞﹁やがて﹂に関する先行研究 ﹁やがて﹂という副詞の語義は古代と現代で異なる 。この変化に いちはやく着目したのは本居宣長である。 やがては 、俗言にそのまゝですぐにといふ意にて 、たとへば 、 春の日のいたく霞めるが、そのまゝですぐに春雨になるを、霞 める空のやがて春雨になるといふたぐひ也 、然るを近世人は 、 程なく 追 ツ付ケと い ふ 意に よむ は 、 俗 意 なり 。 か の 、 やが て春 雨 になるも、 追付春雨になる意にはあらず、 思ひまがふべからず、 古の歌文は、其意にいへるはなし。 ︵本居宣長﹃玉あられ﹄ *1︶ 宣長は、 ﹁古の歌文﹂ で用いられた ﹁やがて﹂ は ﹁そのまゝですぐに﹂ の意であるので、解釈の際に注意するよう促している。現時点の研 究状況を整理するため 、﹁やがて﹂に関する主要な先行研究の概要 とその調査対象を一覧にまとめた。
歌語﹁やがて﹂の成立
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本居宣長は古代の和歌や散文において﹁やがて﹂の語義が当代と は異なることを指摘したが、それ以上の詳しい分析はない。また現 代の研究も主に散文作品の用例を対象としており、平安時代の和歌 における ﹁やがて﹂の用法は十分に論じられているとはいえない そこで、本稿では副詞﹁やがて﹂が平安後期に歌語として成立する 過程について論じたい 。なお本稿は 、散文作品も含めた ﹁やがて﹂ の語の定義や、 現代の語義へと近づいていく時期についてではなく、 和歌における用法の特徴を論じることを目的としている。 二、平安中期の用例 和歌で﹁やがて﹂が用いられるのは平安中期以降である。 とまり ①とまりてふこの所にはくる人のやがてすぐべき旅ならなくに ︵貫之集・四四四、天慶二年宰相中将藤原敦忠屏風 あひてあはぬこひ ②ち ぎ り お き し 言 の 葉 か は る う き よ に は 文 も 心 も や が て ︵古今和歌六帖・服飾・言の葉・三三七一︶ 同じ頃、この亡き人を、泣き寝の夢に見て ③う た た ね の こ の よ の 夢 の は か な き に 覚 め ぬ や が て の 命 ︵実方集・四五・藤原実方︶ ①は詠ま れ た 年代が判別するも の で 最も古 い 用例 で あ る 。﹁と の語に 船 着 き 場の意 味 と終 着 点 の意 味 を 掛 け 、﹁ 泊 ま り と
旅 の途 中 なら宿 っ ても い い が 、 旅でな い のなら こ こ に 来た人はそ の まま通り過ぎ る べ きも の だ ﹂と詠ん で い る 。 第三句 ﹁ くる人 の や が てす ぐべ き﹂ の ﹁ やが て﹂は 、﹁ 来 る﹂と い う 旅 人 の 行 動 が ﹁ 過 ぐ ﹂ と い う行動 へ 、 と どま る こ と な く移行する こ と を表し て い る 。②は ﹁誓 っ た言葉が変わる憂き世には 、契った文もその文を書いた人の 心もそのまま古びていくものだ﹂という歌である。③は、子どもが 亡くなって間もない時 、我が子の姿を夢に見て詠んだ歌で 、﹁うた た寝でこの世にいた子の姿を夢に見たが、この夜の夢のはかなさゆ えに 、夢から覚めな い ままの我が 命であ っ て ほしか っ た﹂と嘆い て い る 。﹁ 夢から覚め ぬ やが て の 命﹂と は 、 我が子と会える夢 の 中 の 状 態がそ の まま持続する現実であ っ て ほしか っ たことを表し て い る。 このような﹁やがて﹂の語義は、前掲の小松登美氏の指摘と一致 している。すなわち、小松氏は﹃源氏物語﹄の用例でもっとも多い のは、 動作 ・ 状態 Aが継続中、 他の動作 ・ 事態を中間にはさむ事なく、 他の動作 ・事態 B がおきるか 、又は移行する時の ﹁やがて﹂であ ると指摘している。また、先行研究の小杉商一氏の⑵、吉田金彦氏 の⑶のように 、﹁やがて﹂の語に主体の意志の表れを認める指摘は この三例の和歌の解釈にも有効であると思われる。 三、歌語﹁やがて﹂の成立 ﹁やがて﹂の用例をみると 、ある時期までは 、和歌本文よりも詞 書や左注に用いられることが多い。次表は、散文と和歌が織り交ぜ られることの多い私家集について、和歌本文、詞書と左注のどこで 用いられているかを調べたものである。すなわち﹃後拾遺集﹄成立 ︻表︼和歌本文・詞書・左注における﹁やがて﹂の用例数
までにおいては、和歌本文よりも、詞書や左注に用いられることが 多いことが分かる。 こ の ことは 、 当 初 ﹁やがて﹂は 、歌ことばではな く 日 常のことば として捉 えられて いたことを示 して い る 。﹁ やがて﹂と いう 語 は、状 態 の 持続を表す日常的なこ とば である 。 そもそも当時 の和歌にお い て は 、 状 態 の 持続を表す内容を ﹁晴﹂ の 歌と し て 仕立 て る 必要性が な い 、ある い はそのよう な 発 想 がなか っ たためにあ え て和 歌に詠 ま れることがなか っ たも のと考 え られる。 それゆえ歌の贈 答 にお い て 、 前 歌 や 、 ある 状 況 を 受 けて 次の歌 が 詠 ま れた 歌の成 立 事 情 を 説 明 す るために、詞 書で﹁やがて﹂が用 い られることが 多か っ た のだろう 。 ﹁やがて﹂は 、日常的なことばとして 、現在の状態や共通の理解 を前提として相手に贈る歌において、その状態が持続することを表 す意味で用いられる、という一つの特徴がある。したがって、晴の 歌というよりは日常の歌に多く用いられ、日常的な会話や言葉の延 長として思いを伝える場合に用いられることが多いといえる。 しかし 、﹃後拾遺集﹄成立後 、十二世紀に入ってからは 、和歌の 本文に用いられた﹁やがて﹂の方が詞書 ・ 左注の数を大きく上回る。 この背景には、贈答歌よりも題詠が主流となっていく和歌詠作事情 の変化が作用したと考えられる。題詠によって詞書や左注が減った のならば﹁やがて﹂の語の使用も減って然るべきである。しかしな がら和歌本文での用例数が増加している現象の背景には 、﹃後拾遺 集﹄成立頃までとそれ以後とで﹁やがて﹂の用法に大きな変化が生 じたという可能性を考えるべきであろう。すなわち﹁やがて﹂の用 法の変化を推し進める強い影響力を持つ歌の存在があると思われる のである。 四、 ﹁∼するほどにやがて﹂の表現構造 ﹁やがて﹂という語を 、日常のことばから晴の歌ことばへと引き 上げ、 ﹁やがて﹂だからこその固有の表現性を持つことばとして、 がて﹂の用法の第二期を切り開いたと考えられる大きな影響力を持 つ歌が二首ある。それは馬内侍と源俊頼の歌である。 かりそめばかり思ひし人の 、まめやかにかたらふ人のい できぬと聞きて、うつろひたる萩の下葉に書きて ④う つ ろ ふ は 下 葉 ば か り と 見 し ほ ど に や が て 秋 に も な り に ︵馬内侍集・一四六︶ ▽﹃拾遺和歌集﹄ 題知らず うつろふはしたばばかりと見しほどにやがても秋になりにけ るかな︵恋三 ・ 八四〇・中宮内侍︶ ▽﹃麗花集﹄断簡︵徳川美術館蔵香紙切 *4︶ 人にわすられたりけるころはぎのしたばにつけて むまのないし うつろふはしたはかりとみしほとにやかて秋にもなりにける かな ▽﹃玄玄集﹄ 馬内侍三首
うつろへば下葉ばかりとみしほどにやがて秋にも成りにける かな︵八○︶ ▽﹃金葉集﹄三奏本 はぎをよめる うつろふはしたばばかりとみし程にやがて秋にもなりにける かな︵秋・二三七・馬内侍︶ この歌の本文は諸本で異同がある。 ﹃拾遺和歌集﹄ では作者は ﹁中 宮内侍﹂とされ 、第四句の本文は ﹁やがてもあきに﹂の形をとる 。 なお﹃拾遺和歌抄﹄には入集していない。また﹃麗花集﹄には右記 と同じ本文で収められ 、﹃玄玄集﹄では初句 ﹁うつろへば﹂の形で 入集している。作者や本文に揺れはあるものの、この歌が好まれて いたことがうかがわれる。 さらに ﹃金葉集﹄ の三奏本に、 この馬内侍の歌が入集している。 ﹃金 葉集﹄は、撰者・源俊頼が当代歌人に重きを置いた二度本を白河院 に却下されて、後撰・拾遺時代の歌人の和歌も取りいれて作り直し たのがこの三奏本である。 ﹃金葉集﹄の二度本が世に広まる一方で、 三奏本は白河院の手元に収められて、俊頼の手元に残らず、成立直 後から世の中にほとんど流布することはなかったといわれる。その ような三奏本であるが、俊頼が馬内侍の歌を選び入れたことは大き な意味があると思われる。 というのも 、馬内侍の和歌の第三句以下 ﹁見しほどに/やがて 秋にも/成りにけるかな﹂のような 、 ﹁ ∼するほどに﹂と ﹁やがて﹂ とを組み合わせた構造を持つ歌を俊頼が詠んでいるのである。 摂政殿下にて十首の歌よませ給ひけるにつかまつれる ⑤ 煙 かと む ろ の や しまを見し ほ ど に や が て も空 の か すみ ぬ る か な ︵散木奇歌集・春・九・源俊頼︶ この歌の ﹁むろのやしま ︵室の八島︶ ﹂ とは、 元永元年十月二日の ﹃内 大臣家歌合﹄の判詞に、 絶えずたく室の八島の煙にも猶立ちまさる恋もするかな 俊云 、前のうた 、絶えずたくといへるはひが事とや申す べからん 、此の室の八島 、実に火を焼くにはあらず 、野 中に清水のあるより気のたつが煙のごとくみゆるなり 、 それを焼くといはんこといかが ︵内大臣家歌合 元永元 ︵一一一八︶年十月二日 源俊頼 の判詞︶ とあり、関根慶子氏の注釈の通り﹁清水から立つ水蒸気が煙かと見 えると解される﹂ ︵ *5︶ことから 、﹁むろのやしま﹂と呼ばれる ﹁清 水から立つ水蒸気が煙かと見える﹂と解釈できる 。﹁室のやしまの 清水から立つ水蒸気を煙かと見ているうちに、やがても空が霞んで きたことだ﹂というこの歌の表現の眼目は、 春を迎えた﹁室の八島﹂ の風景、 ﹁室の八島﹂の眺望であろう。 ﹁室のやしま﹂の清水から立つ水蒸気を煙かと見ているうちに 、 その空が春霞にかすんできたことに気がつく、というこの歌におい て、空の移り変わりに気付くことはすなわち時間の経過・時の移り 変わりを眺めるということを意味する。空にのぼる水蒸気を見てい
ると、霞がたなびいたことに気付く、遥か東国のこの土地にも漸く 春が訪れたことに気が付く、その気付きに至るまで詠歌主体がこの 対象を見つめ続けていたという姿勢をも表していると思われる。 この歌の構造として 、﹁むろのやしまを見しほどに﹂と第三句で 切れ、この上句を受けて第四句以下の﹁やがても空のかすみぬるか な﹂と続く。 ﹁やがて﹂の語が表しているのは、 ﹁ むろのやしま﹂の 景をみつめて、その空の変化に気付くまでこの風景を見つめ続けた 主体の状態持続の姿勢である。上句の風景と下句の景は、 ﹁やがて﹂ の語で結びつけられている。下の句は、上の句の状態を受けて、そ の成り行きの結果としての景色である 。﹁やがて﹂は 、事の成り行 きを見届けた主体の ﹁見る﹂ ﹁眺望する﹂という姿勢の持続を表し ているのである。 源俊頼は 、前掲の馬内侍の和歌に着想を得て 、﹁やがて﹂の語を 主体の﹁眺望﹂の姿勢を表現するのに適した語として発見したので はないかと推測させる 。﹃拾遺集﹄に恋の歌として収められた馬内 侍の和歌は 、﹃金葉集﹄三奏本には秋の歌として収められているこ とに、俊頼の解釈が示されている。すなわち﹃金葉集﹄三奏本の歌 の配列を見ると、馬内侍の和歌は、宮城野の萩を詠んだ歌の直後に 並べられている。馬内侍の直後の和歌は川霧、菊の花、紅葉へと続 く配列である。このことから、俊頼は馬内侍の和歌を、萩の葉の色 づきを見つめることで秋の訪れを感じる歌として解釈しているとい える。対象をながめる姿勢を詠んだ歌として再評価し、その解釈を 世に問うているとも捉えうるのである。そのような、ある一定の時 間対象をながめるという主体の姿勢を成立させるための、その鍵と なる語として強く意識されたのが ﹁やがて﹂という語であり 、﹁ ∼ するほどにやがて﹂の表現構造だったと思われる。こうしたことか ら俊頼はこの﹁∼するほどにやがて﹂の構文を用いて、風景を眺め ている内に春霞が立ったことに気付く歌を詠んだものと考えられる のである。 五、 ﹁やがて﹂第四句用法と藤原基俊 ﹁やがて﹂の新しい用法の典型となった形が 、三句切で に﹁やがて﹂を置き、上句の内容を受けて、下句でその帰結を述べ るという構造である。俊頼が注目した第四句﹁やがて﹂の表現構造 は、 同時代の歌人たちも共有するものだったと思われる。すなわち、 この時期以降の歌人達に﹁∼するほどにやがて﹂の構文を用いて詠 んだ歌が急速に増加するのである。 この中でも、殊に﹃永縁奈良房歌合﹄における藤原基俊の判詞が 注目される 。﹃永縁奈良房歌合﹄は 、興福寺の別当である永縁の花 林院で行われた歌合である。後頼と基俊の二人が判者をつとめ、そ れぞれの判詞の内容を比較できる点に特徴がある。 五番︵雪︶左 弁得業 うちきらしあまぎるそらと見しほどにやがて積もれる雪の白山 ︹俊頼の判詞︺ 左歌 、﹁うちきらし﹂ 、心得ず 、﹁ふりきらし﹂といはばや な。また、 末の﹁雪のしら山﹂ 、 心得ず、 ﹁白山の雪﹂とぞ、 次第はいはまほしき、 上に置けば、 なだらかならぬなめり、 されば、わびておけるにや
︹基俊の判詞 *6︺ ﹁うちきらし﹂ ﹁あまぎる空﹂己に重言なり 。また ﹁雪の白 山﹂は 、夏冬分かず積もれる雪なり 。今うちきらすに 、お どろきて山となるべきにあらず。 問題となる和歌は﹁空一面をくもらせて雪が降る空だと見ていた間 に、雪の白山に積もってしまったことだ﹂という内容である。俊頼 と基俊は共に、初句の﹁うちきらし﹂と第五句の﹁雪の白山﹂に関 して問題点を指摘している。とりわけ注目されるのが基俊の指摘で ある。基俊は、 ﹁うちきらし﹂ ﹁あまぎる空﹂という同じ意味の言葉 を連ねた重複表現の問題を指摘した上で 、﹁雪の白山﹂の問題を次 のように指摘する。 ﹁﹃雪の白山﹄は 、夏冬分かず積もれる雪なり 。今うちきらすに 、 おどろきて山となるべきにあらず﹂ 、すなわち﹁ ﹃雪の白山﹄は、伝 統的な和歌の用語としては夏冬区別なく常に雪が積もった山のこと である。ゆえに﹁雪の白山﹂とは、今空一面をくもらせて降ってい るのが 、はっと気付いたら雪山となるというものではない﹂ 。雪が 降っている空を見ていると、白山になってしまったことに気付いて 驚くという当該歌の表現について 、大げさすぎる 、﹁白山﹂の使い 方がおかしい 、と指摘しているのである 。﹁今うちきらすに 、おど ろきて山となるべきにもあらず﹂という批評の言葉からは、基俊は ﹁ ∼するほどにやがて﹂の構文を 、対象の変化に対する主体の観察 と気付きと発見、すなわち﹁おどろき﹂の文脈として捉えていたと いうことが伺える。 基俊自身も ﹁∼する ほ ど に やが て﹂ の 構 文を用 い た歌を詠ん で い る 。 おもひをのぶ あしねはふ浮世わたるとせしほどにやがてふかくもしづみぬる かな︵基俊集・九八︶ うまく世を渡ることの出来なかった自らの官位の低さや境遇を自嘲 的に詠んだこの歌で、 ﹁ やがて﹂の語は、渡ろうとしたはずなのに、 逆に沈んでしまったという、自らの思っていたこととは裏腹の展開 になってしまったことの嘆き、思いがけない成り行きの帰結に導く 言葉として用いられている。 基俊のこの歌のように 、風景の歌のみならず非常に世俗的な歌 、 述懐の歌においても事態の展開を導く言葉として用いられるところ に、 この ﹁∼するほどにやがて﹂ の構文の幅広さが示されている。 ﹁や がて﹂が日常的な言葉であったことから生じた、言葉としての使い やすさが看取されるといえる。 ﹁ ∼するほどにやがて﹂の構文は 、上の句の状態を受けて 、下の 句でその成り行きの帰結を述べるという表現構造である。その派生 系として順接を表す助詞﹁ば﹂を用いたり、あるいは﹁やがて∼な り﹂ 、﹁やがて∼ぬ﹂という語を伴う形も詠まれている。 ︹∼ば、やがて︺ 或る所にて、同じ心を︵時雨易晴︶ 山めぐる時雨のあとを見わたせばやがてさし行く夕づく日かな ︵林葉集・冬・五八五・俊恵︶ かくとだにいはではかなく恋しなばやがて知られぬ身とやなり なん ︵詞花集・恋上・一八九・隆恵法師︶
︹やがて∼なり/∼ぬ ] 山深み焼くすみがまのけぶりこそやがて雪げの雲となりけれ ︵堀河百首・すみがま・一〇七五・源国信、詞花集・冬・一五三︶ ひとよとて夜がれし床のさむしろにやがてもちりのつもりぬる かな ︵続詞花集・恋中・五六六 ・ 二条院讃岐、千載集・恋四 ・ 八八○︶ ﹁やがて﹂の後の下旬で ﹁雪げの雲となりけれ﹂ ﹁つもりぬるかな﹂ などと詠んだこれらの用例は、上句の事態を受けて、下句で﹁その 事態の成り行きの帰結を述べる ・気付く ・発見する﹂という点で 、 第四句 ﹁やがて﹂ として共通の構造であると言える。このように ﹁や がて﹂を第四句に置いて一首の要の構造とする歌は、一つの流行を なしているといえるだろう。 このような和歌が詠まれた時期は、歌の題として﹁眺望﹂が和歌 に詠まれて流行する時期とも重なっている 。これらの用例は 、﹁ ∼ している間に∼してしまった﹂という内容、すなわちある現象や事 態を見守っているうちにこのように事態が移り変わった、このよう な変化が起きたという観察と気付きの姿勢を詠んでいる 。これは 、 自然現象や恋の成り行きが、時間と共に変わっていくことを見つめ る表現であり、物事の時間経過を歌の中に描き取ろうとする表現で あるともいえる 。そのような 、﹁事態の経過を見守る/みつめる/ ながめる﹂主体の姿勢の持続性が 、﹁やがて﹂の語によって表され ているのである。 前述したように、 ﹃後拾遺集﹄ 以後、 とりわけ源俊頼の活躍期に ﹁や がて﹂の語は詞書や左注ではなく和歌の本文で用いられることが主 となっていた。歌のやりとりを行う実生活のその現場の状態を直接 受けて用いる﹁やがて﹂ではなく、上句の内容を受けて下句でその 結果を述べる構造で用いられる﹁やがて﹂へと大きく用法が転換し たと思われる。 ﹁やがて﹂はさらに ﹃詞花集﹄成立直前の久安百首に の歌が詠まれ、歌合・私家集ともに非常に用例数が増えている。俊 頼の歌は﹃月詣和歌集﹄ ﹃千載和歌集﹄ 、俊成の﹃古来風体抄﹄にも 選ばれていることから、俊頼の歌は一つの規範的なものとなってい たものと考えられる。 歌人たちにとって、上句と下句をつなぐ役割として機能する第四 句が﹁やがて﹂の置き場所として非常に使いやすく、歌も作りやす かったという要素もあったといえる。従って、 このような﹁やがて﹂ の第四句用法が流行して、機能的な歌語として定着するに至ってい たのが、平安後期の和歌のひとつの傾向であったといえる。 注 *1 ﹃本居宣長全集﹄第五巻︵筑摩書房︶ *2 ﹃国文学解釈と鑑賞﹄一九五九年十月 *3 以下、和歌の引用本文・歌番号は﹃新編国歌大観﹄ ︵角川書店︶により、 適宜表記を改めた *4 ﹃久曽神昇博士還暦記念研究資料集﹄ ︵風間書房・一九七三年︶ *5 関根慶子﹃散木奇歌集 集注篇 上巻﹄ ︵風間書房・一九九二年︶ *6 ﹃袋草紙﹄ ︵﹃日本歌学大系﹄ ︶による ︵かばさわ・あや 本学非常勤講師︶