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冷泉家蔵本と書陵部蔵本と  -『六条院宣旨集』と『躬恒集』との場合-

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冷泉家蔵本と書陵部蔵本と

﹃六条院宣旨集﹄と﹃躬恒集﹄との場合−

The Tran答rmed Text in a Hand- Written Copy⊇︶ A b s t r a c t :   R o c u j o i n n o s e n j i n o s h u   a n d   M i t s u n e s h u   a r e   t h e   a n t h o l o g i   e s   o r g a -n i z e d   i n   t h e   H e i a n   p e r i o d .         I n   t h e   R e i z e i s ' s   l i b r a r y 。   t h e r e   a r e   t h e s e   H a n d -w r i t t e n   c o p i e s   i n   t h e   l a s t   H e i a n   p e r i o d .         I n   t h e   S h o r y o b u ' s   l i b r a r y 。 手 e r e a r e   H a n d -w r i t t e n   c o p y 。   i n   t h e   E d o   p e r i o d 。   o f   t h e   R e i z e i s ' s   l i b r a r y .         I n   a c o m p a r i s o n   t h e   f o r m e r   w i t h   t h e   l a t t e r 。   f r o m   p h i l o l o g i c a l   v i e w 。   t h   e r e a r e m a n y   t h i n g s   o f   r e f l e c t i o n s   o f   t h e   a g e ' s   l a n g u a g e .         F r o m   t h e s e   t h i n g s 。   w e k n o w   h o w   t h e   t e x t s   c h a n g e   i n   a   p r o c e s s   o f   t r a n s c r i p t i o n .  稿者は先に、高階家一門の詠を集めた鎌倉時代後半の私撰集﹃遺塵和歌 集﹄を採り上げ、冷泉家時雨亭文庫に蔵されている鎌倉末期に写されたと 覚しき一本が、霊元天皇二六五四∼一七二三︶の御代に、さらに言えば 貞享二圭二︵一六八五∼一七三二︶年頃︵註∼にどのように書写された か、ということがらを通して、﹁臨摸﹂と呼び慣わされる書写形態が実態 としてどのようなものであるのかについて聊かの分析を試み、また鎌倉期 写本を江戸期に再転写するというごとく、隔たった時期にそうしたことが 行われた場合に、それが言語の面でどのような様相を呈するのか、につい ても併せ考えてみた。︵註2︶本稿では平安時代に成立した私家集である﹃六 五九  冷泉家蔵本と書陵部蔵本と ︵今野︶     今  野  真  二 ︵人文学部人文学科 日本・東洋文化コース︶ Shinzi K〇ツーツ﹁O 条院宣旨集﹄並びに﹃躬恒集﹄︵註3︶を採り上げ、さらに分析を進めて みたい。 一 ﹃六条院宣旨集﹄について  ﹃六条院宣旨集﹄は平安時代後期の女流歌人である六条院宣旨の家集で ある。冷泉家蔵本には藤原定家の手になる外題に﹁六条院宣旨集﹂、藤原 俊成の手になる内題には﹁六条院の/せんしの/集﹂とある。この俊成真 筆の内題︵あるいは本来の外題︶を有する私家集は、例えば前田家旧蔵﹃中 務集﹄︵現出光美術館蔵︶、前田家蔵﹃元輔集﹄他少なくないが、こうした 一連の私家集は︿俊成監督の下に書写された﹀︵﹃冷泉家時雨亭叢書 平安 私家集 二﹄田中登解題二八頁︶もの、と考えられている。ところで冷泉 家蔵本の筆者を具体的に知る手がかりはテキストそのものにはみえない。 書写年代は藤原俊成︵一一一四∼一二〇四︶が関与しているところから、 平安末期︵十二世紀後半頃︶と考えられている。したがってこの冷泉家蔵 本の書写年時も相当に古く、冷泉家蔵本そのものが格好の国語史料である ことは言うまでもないが、そのことがらのみを正面から採り上げることは

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六〇  高知大学学術研究報告 第四十五巻 二九九六年︶ 人文科学 控える。ここで主に考えてみたいのは、当該テキストの成立︵十二世紀後 半︶からおよそ五百年を経て書写された書陵部蔵本に、主に言語的事象と して何が看取されるかということがらである。  書陵部蔵本についてはすでに︿両者︵引用者補:冷泉家蔵本と書陵部蔵 本と︶の本文を子細に比較検討してみると、漢字と仮名の相違や、仮名の 字母の違いなどは認められるものの、一面の行数、一行の字詰めに至るま で、両者の本文はぴたりと一致することが知られるのである。即ち、時雨 亭文庫蔵本を親本にして、それを忠実に書写したのが書陵部蔵本だという ことになろう。﹀︵前掲解題三一頁︶と評価されていることをまず挙げてお く。冷泉家蔵本からの書陵部蔵本書写の形態には、例えば︿片仮名本から 平仮名に代える﹀︿仮名を漢字に充てて読みやすくする﹀など幾つかのか たちがあることが藤本孝一氏︵註1参照︶によっ七指摘されているが、書 写形態の多様さは、結局のところ書写者が複数であることをごく自然に意 味するであろうし、それに伴い書き手の技量もまた区々であると考えるべ きであろう。書陵部蔵本﹃六条院宣旨集﹄の書写者はまずは冷泉家蔵本の 筆致をよく写している、というべきであろうが、先に扱った﹃遺塵和歌集﹄ の場合と比すれば、その書写者としての技量はやや劣るといえよう。そし て厳密な複製本製作という意味における﹁臨摸﹂を志していない、と見受 けられることをまず初めに確認し、以下具体的な個々のことがらについて 述べていくことにする。    一のI 書陵部蔵本の書写態度について  書陵部蔵本では冷泉家蔵本の仮名字体を四四五箇所にわたって変更して おり、この一事を以てしても書陵部蔵本﹃六条院宣旨集﹄の書写者に臨摸 意識がなかったことが窺えよう。またその変更箇所の分布は均一ではない。 すなわち当該テキストは本文墨付部分が二二丁、総計二四丁であるが、一 八オ上面ウの末尾七丁に二四四箇所︵全体の五四・八%︶の変更箇所が 集中しており、書写に関しての集中がこの辺りでかなり緩んだことが顕著 に現れている。書陵部蔵本の書写者が臨摸の意志をさはどもっていないこ とは前述した通りであるが、それでもできる限りは原本に従って写しては いる。それが一八丁以降はいわば写すのが精一杯になった、と見受けられ る。また仮に全体を八丁ずつ前中後の三つに分割してみると、この仮名字 体の変更箇所は、前一〇二、中八四、後二五九で、底本に次第に慣れ、集 中力も続き書写の調子の上がった状態を経て、集中力の緩んだ状態への移 行がこの分布からはっきりと窺える。藤原定家筆本﹃土左日記﹄の奥書に よれば、藤原定家は文暦二年に︿老病中/雖眼如盲不慮之外紀氏自筆/本 蓮華王院賓蔵本﹀を手にし、︿不堪感興自書写之昨今ニケ日/終功﹀という。 これは定家七十四歳のことであり、その老齢と、加えて自らが記すように 必ずしも健康状態もすぐれない中で、そして周知のごとき様々な吟味、詮 索を加えながら二日間で貫之自筆本を写し終えたことを通常の書写とどの ように測り比べるか、はなはだ難しいが、残されている定家筆本﹃土左日 記﹄の墨付本文が四十六丁であることからきわめて機械的に考えれば、一 日に約二十三丁を写したことになる。︵補注︶これをひとまずの目安にす れば﹃六条院宣旨集﹄の墨付本文はこれとほぼ等しく、おそらくは書陵部 蔵本の書写者もこれを二日にわたって写すことはしなかったと予想され、 為に後半部に書写の粗さが現れたのであろう。     一の二 仮名文字遣︵註4︶について  稿者の興味の一つは︿仮名字母の違い﹀がどのようなかたちをとって現 れるかを観察するところにある。まず、これまで諸先学の調査によっても、 また稿者自身の調査によっても、もっともひろく、かつ組織だってみられ

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る仮名文字遣として、仮名﹁は﹂についてみることにする。冷泉家蔵本に は仮名﹁は﹂が一九三みられるが、その内訳は︿者﹀が一三〇︵六七・四%︶、 ︿は﹀が三四︵一七こハ%︶、︿ハ﹀が二八︵一四・五%︶、︿盤﹀がI ︵○ ・五%︶である。もっとも冷泉家蔵本にしても転写本であり、この冷泉家 蔵本の状況が厳密に何人の仮名文字遣であるかを特定することは適わない のであるが、幾つかの径庭を経て冷泉家蔵本に現れるに至った、と少しく 漠然と捉えておくことにする。この冷泉家蔵本の状況は、中世期のきわめ て成熟した仮名文字遣と比較すれば、仮名文字遣が発生しつつある状況と みえる。すなわちこの仮名﹁は﹂に関しての仮名文字遣では、︿ハ﹀が音 韻ワ及び音韻バとふかく結びつくところにその特徴があるが、その結果と して必然的に助詞﹁は﹂﹁ば﹂に︿ハ﹀が充てられるところから、この︿ハ﹀ の使用数そのものが多くなるのが一般である。しかるに冷泉家蔵本におい ては︿者﹀使用が群を抜いており、この︿者﹀が仮名﹁は﹂を代表する字 体であることが明らかである。しかしその一方で少数使用された︿ハ﹀に 目を向ければ、そこにはある種の傾向が窺われる。仮名文字遣が﹁発生し つつある﹂と前述した所以である。すなわち、︿ハ﹀二八例は、やはり音 韻バにコー例、音韻ワに一五例が使用されており、音韻ハには結局一例し か使用されていない。この限りにおいては、これはこれで立派な仮名文字 遣と評価すべきであるが、やはり音韻バ及び音韻ワにおいて︿ハ︶が充て られていない場合が相当数あることを、ここではいわば未だ熟さないとみ ているのである。  今一つ別の意味で注目しておきたいのは︿ハ﹀二八例中一二例が行末で 使用されていることである。例えば﹁おしみかねおりてかへらむ/山さく らさらねとのこす/あらしならね︿ハ﹀﹂︵九番歌 三ウ六∼八 歌番号は 明治書院刊﹃私家集大成 第二巻中古H﹄において書陵部蔵本を底本とし て施されたものに従う︶や﹁ついのわかすかたとおもへ ︿ハ﹀/かやり火 のけふりをみても/ものそかなしき﹂︵三〇番歌 八ウ三∼五︶のごとき 六一  冷泉家蔵本と書陵部蔵本と  ︵今野︶ ものである。行末に︿ハ﹀が位置する時、そのすべてがそうではないが、 行末に物理的な空白をあまりもたない場合が少なくない。形態的な落ち着 きということからすれば行末に配する押さえの字体としてはくは﹀が相応 しいことは言うまでもない。事実︿は﹀三四例中、六例︵九ウ七・一八オ ー四・一八ウ六・一八ウ九・一九オ四こ一三オ九︶が行末で使用されてい る。ただしこれらは行末に充分な空白をもっている場合ばかりである。︿は﹀ が︿ハ﹀に比して充分な空白を必要とすることは自明であり、空白の少な い行末に書かれる、ということは実は字体︿ハ﹀の使用のそもそもの契機 ではなかったのか、と考えるがこれについてはさらに種々の然るべき資料 の観察を続けていきたい。  ここまで冷泉家蔵本においては、組織的なかたちでの、仮名﹁は﹂に関 する仮名文字遣はみられないものの、すでに字体︿ハ﹀と音韻ワ及び音韻 バとの結びつきはみられることを確認してきたが、次にこうした冷泉家蔵 本の状況が書陵部蔵本ではどのように受け止められているかについてみる ことにする。書陵部蔵本において総計四四五箇所仮名字体の変更が行われ ていることについては先にふれたが、仮名﹁は﹂についても種々の置き換       Iえがなされ、冷泉家蔵本の﹁冬かれのゝへのあさちかうへに/おくしもや した︿者﹀にすかる/たるひなるらむ﹂︵五七番歌 一四オ九∼一一 傍 線部見消︶の﹁したは﹂が書陵部蔵本では﹁した葉﹂と写されており、こ れを漢字表記と考えると、書陵部蔵本には仮名﹁は﹂が一丸二存すること になる。内訳は︿者﹀が一四九︵七七・六%︶、︿は﹀が一七︵八・九%︶、 ︿ハ﹀が一五︵七・八%︶、︿盤﹀が一一 ︵五・七%︶で、冷泉家蔵本と比 較すると︿者﹀︿盤﹀の使用が増えている。︿ハ﹀使用が減少していること 自体がある意味では注目に値する。すなわち﹁ときなはのとくとそいそ/ く身のうさもみなつきはつる/みそきとおもへ ︿ハ﹀﹂︵三四番歌 九オー ○︶や﹁みつとりのあたねのことの/なみまくらうきよの中に/あるはあ るか︿ハ﹀﹂︵六三番歌 一五オ九︶のごとく句末でかつ行末に位置し、音

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六二 高知大学学術研究報告 第四十五巻 ︵一九九六年︶ 人文科学 韻バ、音韻ワに充てられている︿ハ﹀が︿者﹀をもって写されており、こ の仮名﹁は﹂をめぐる仮名文字遣に限っても、意識無意識は今問わぬこと にして、書陵部蔵本書写者の習慣にはそれがつよいかたちとしてはなかっ た、と言えようか。ここから推せば霊元天皇の御代は、仮名文字遣が一般 的、つまり仮名文字遣が存在することが当たり前ではなかった、との予想 がたてられよう。  しかし一方で次のような例もみられる。 a もろひとのけしき︿裳﹀/ことになりにけりさ/こそは春のだちか   はるとも︵一番歌 一オ且 b 春をあさみなをし︿羅﹀/ゆきのふるすにはまた/︿宇﹀ちとけぬ   うくひすのこゑ︵四番歌 ニウ五∼七︶ c しつのをかたなれ︿濃﹀/こまもはるくれはのへに/つきけとなり   にけるかな︵二番歌 四オ四︶ d さくらちるはるをうし/とやとしをへてかすみを/︿和﹀けてかへ   るかりかね︵一二番歌 四オー○︶ e︿満﹀ちかきもくもゐに/きくもほとゝきすあかぬ/心はかはらさり   けり︵二三番歌六オ九︶ f かたそきもあらたむはか︿梨﹀/としふりて神さひにけり/すみよ   しのまつ ︵八一番歌 一八オこ これらはいずれも行頭行末に冷泉家蔵本にはみられない、比較的字画の複 雑な仮名字体を配したものであり、こうしたことが書陵部蔵本において徹 底してみられるわけではもちろんないが、いわば行に関わる緩やかな仮名 文字遣とでもいえよう。ただし、前述の︿ハ﹀のごとく音韻との結びつき をみせる場合や表語との関わりを感じさせる場合などを、言語伝達とふか く関わる、機能性のある仮名文字遣と考えれば、こうしたある意味では機 能性とはやや遣い仮名文字遣はその遠さ故に格別の積み重ねなく、︲また時 代を限らず起こり得る文字遣と考えることもできるが、これはこれで書陵 部蔵本の書写者の一つの﹁技量﹂と評価し得る。また冷泉家蔵本では仮名 ﹁き﹂一四二例に関して︿支﹀がI〇二例︵七丁八%︶、︿き﹀が四〇例︵二 八・二%︶使用されている。例えば青賂書屋本﹃土左日記﹄を藤原為家筆 本にほぼ準ずるものと考え、さらには貫之自筆本にかなりな程度近いもの と扱った場合に、そこに窺われる︿支﹀二八四例、︿き﹀六例、︿幾﹀ 一例、 ︿本﹀二例︵註5︶という仮名字体の使用を紀貫之の時代の在り方とまず は認め、彼此考え併せれば、︿支﹀汎用が古いかたちといえよう。したが って冷泉家蔵本の︿支﹀が書陵部蔵本においてくき﹀に置き換えられた場 合、これが実際に一三例みられるが、これはむしろ当然のことといえる。 しかし逆に冷泉家蔵本のくき﹀を書陵部蔵本書写時には稀少字体であった と覚しい︿支﹀で写しか例が六例︵三オ八・六オ八・九・九・九オー〇・ 二三才六︶みられ、かつそれが前半に比較的集中していることは、書陵部 蔵本書写者の、底本へのある意味での逸早い同化を示しており、興味深い。 こうしたことがらも書陵部蔵本書写者のある種の﹁技量﹂を示していると 考えられる。同じ意味合いにおいて、冷泉家蔵本三丁裏に存する九番歌を 書陵部蔵本が﹁おし︿美﹀かねおりてかへらむ/山さ︿九﹀らさらねとの こす/あらしならねは﹂と写したこと、特に冷泉家蔵本にも見えない、そ して当然江戸期では稀少字体と覚しき︿九﹀を仮名﹁く﹂に配したことに も注目しておきたい。     一の三 仮名使用などについて  冷泉家蔵本において助辞﹁けむ﹂﹁なむ﹂﹁む﹂﹁らむ﹂の撥音部分には、 ︿ん﹀が一八、︿む﹀が六、配されておりくん﹀表記への傾きが明らかであ る。この傾向が時代が下るに従い顕著になっていくことは言うまでもない。

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しかるに書陵部蔵本においては冷泉家蔵本がくん﹀を以て書き表していた ﹁らん﹂︵六オ七︶﹁ん﹂︵二二ウーニ︶までをくむ﹀表記しているのである。 ︵註6︶さらに冷泉家蔵本は次の二箇所において助詞﹁を﹂をくお﹀で表 記する。このことがらをどのように解すべきかについては慎重に扱うべき であろうが、こうした表記をみせる文献は平安末期∼鎌倉期にかけてみれ ば稀有ということでもない。 g さくらちるはるをうし/とやとしおへてかすみを/わけてかへるか   りかね︵一二番歌 四オ九︶          −h すみふるすみ山おいつる/うくひすは日もくれたけに/だひねして   けり︵八二番歌一八オ五︶ これらが共に書陵部蔵本で︿越﹀すなわち﹁を﹂に置き換えられてぃるの は、ひとまずは当然というべきことか。  また﹃遺塵和歌集﹄にっいての前稿でもふれたが、三例みられる仮名二 字以上相当の踊字の起筆位置は、冷泉家蔵本においては明らかに下字の末 画の上方にあるが、書陵部蔵本では﹁冬のよなく﹂︵一五オ三︶以外の 二例、すなわち﹁たえく﹂︵一五ウーこ、﹁はしくら﹂︵一九才六︶は 下字の末固よりかなり下方に起筆することも時代相といえよう。  次の事柄は興味深い。前掲解題には︿一行の字詰めに至るまで、両者の 本文はぴたりと一致する﹀とあるが、実は一致しない箇所が二箇所みぇる。 つまり冷泉家蔵本には 1 ● J さ月やみゝちもしられ すたちはなのはなさく さとにしるへせよ風︵二八番歌 八才六∼八︶ − あきくれははきかはなすり﹄ 六三  冷泉家蔵本と書陵部蔵本と ︵今野︶ にほひっゝあきはうれ しきたひころもかな︵三七1 歌 九ウーO∼一〇オニ 傍線部見消、 傍害わけ︶ とある箇所を書陵部蔵本は 一 I J さ月やみゝちもしられす たちはなのはなさく さとにしるへせよ風 − あきくれははきかはなすり にほひつゝあきはうれしき たひころもかな と写しており、冷泉家蔵本にあって﹁しられ/す﹂﹁うれ/しき﹂と、一 つの所謂﹁文節﹂または一語が二つの行に跨るかたちで写されていたもの が書陵部蔵本ではまとまりよく一行に写されている。このことがら自体は 奇とするようなものではなく、むしろ感覚的には納得し得ることがらであ るが、その背景にある﹁行﹂の意識とでも呼ぶべきものには注目しておき たい。まず冷泉家蔵本が、一一五首の和歌をいかに記しているかについて 整理しておく。一八・七七∴一三番歌を︵ほぼ︶二行で記している他は すべて和歌を三行書きしている。二行書きされた三首の中、一八番歌は五 丁表末尾に位置しており、聊か窮屈に二行書きしたと覚しいが、これはや はりこの面すなわち五丁表に和歌を収めようとの意識によるものと考えら れる。といって、冷泉家蔵本においてすべてこのような﹁処置﹂が施され ているのではもちろんなく、こうした改面に際して三行に書く和歌の、そ の一行を次面に送ったものとして、二九・四三・六一・六八・八四・一〇 三番歌と六例がみえ、さらに二行を送ったものとして、一〇∴二二∴二七

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六四  高知大学学術研究報告 第四十五巻 二九九六年︶ 人文科学 ・四〇・四六・四九・九九・一〇六1 歌と八例がみえている。しかしやは りこうした改面、改丁に際して書写上の事故が生じやすいことは充分に予       −想され、実際四六番歌では冷泉家蔵本は﹃きりはれぬよとのおふねの﹄お ふねのみなれさをさ七/てゆくへそわすられぬへき﹂と術字を生み、書陵 部蔵本書写者はこれに当然気づき、新字部分に﹁如本﹂と傍害を加えてい る。冷泉家蔵本五二番歌︵一二オ最末尾︶、七一番歌︵ニハオ最末尾︶では、 狭い空白に無理に三行目を書き込み、一行を次面に送ることを避けている ことが明らかである。冷泉家蔵本﹃六条院宣旨集﹄は綴葉装であるとのこ とで、丁の表から裏への移行は裏から表への移行に比して隔たりが大きい。 前述のごとく、改面、改丁また改行の際に事故が起こりやすいことは事実 であり、それは書物の書写が繰り返し行われる中で当然経験的に知られて いたであろう。しかし、そうした事故を避けるために面や行において纏ま りを求めたのではなく、いわば書記の単位において纏まりが自然に求めら れるように次第になっていった故と考える。こうしたことがらについては 夙に池田亀鑑が高著﹃古典の批判的処置に関する研究﹄で指摘し、稿者も その騏尾に付し、青賂書屋本﹃土左日記﹄を素材として聊かの分析を試み たことがある。︵拙稿 一丸九五a︶冷泉家蔵本には﹁面﹂を単位として 書記の纏まりをつけようとする意識がみられるとまずはいえよう。  次に二行乃至三行書きされた和歌を行を単位としてみた場合に、改行が、 所謂﹁文節﹂また一語の切れ目と一致しない場合がどの程度存するのかに ついてみることにする。一一五首中、二行書きされたものが三首のみで、 他は三行書きされているのであるから、和歌において改行が二二七回行わ れていることになる。また当時の語構成意識などを問題にすべきところで もないので、判断はごく当たり前に行う。すると改行と所謂﹁文節﹂の切 れ目とが不一致のものが二〇、単語の切れ目とが不一致のものが一二を数 えた。不一致といっても、書記された文字を言語に対応させて理解してい く、その対応の過程で改行が言語の﹁分節﹂つまりは認識に著しく障る場 合とそうでない場合とかあろうから、実際に問題とすべきはこの中のさら に少数となろうが、例えば k もろ人もゝろ心にやもろ   はくさ神にたのみをけ   ふはかくらん ︵二二番歌 六オ五∼七︶ I さもこそはあきはくれた のもりならめこすゑのもみ ちしばしとゝまれ ︵五四番歌 一三ウ六∼八︶ などは聊か気になるところである。しかし逆に先ほど数え上げた三二を改 行二二七回と比べたとき、やはり八六%程度は所謂﹁文節﹂や単語の切れ 目と改行が一致していることになり、その点からすれば、冷泉家蔵本は随 分と整ったすがたをみせているといえよう。つまり冷泉家蔵本には書記の 単位としての﹁行﹂意識もかなり窺えるということになる。このような意 識は時代と共に次第に徹底したものになっていくことが、流れとしては予 想できるが、書陵部蔵本のlj二首での状況はそれを裏付けるものといっ てよいであろう。その意味で注目しておきたいのである。 一の四﹁本文﹂の異同  次に所謂﹁本文﹂の異同に関わる箇所を掲げておく。m﹁としをへて心 はのきの/あやめくさたゝかりそめの/たよりとそみる﹂︵二四番歌 七        −ウニ︶を書陵部蔵本は﹁としへをへて心はのきの/あやめくさたゝかりそ       Iめの/たよりとそみる﹂とし、またn﹁たひゝとのつゆのおほのに/あさ たてはみのしろころ/もかひなかりけり﹂︵四五番歌 一一オ七︶を書陵     −部蔵本は﹁たひとヽ のつゆのおほのに/あさたてはみのしろころ/もかひ

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なかりけり﹂とする。またo﹁はれかたきまとひのくもに/くらされてむ    Iつのみちにや/ゆきかへる/へき﹂︵一二一番歌 二四ウニ︶の﹁みち﹂       −を書陵部蔵本は﹁みや﹂、一一四番歌の歌題﹁めうをむ︵妙音︶﹂を﹁めう I せむ﹂とする。特に後二例は﹁むつのみち︵六道︶﹂﹁妙音﹂なる語である ことが明らかであり、ここが最終丁であることを思えば、集中力の減退に 起因するものといえよう。また前二者も単純な誤写に類するものにみえる が、とすれば書写後に反省が加えられていないか。次の一例はやや微妙で ある。一〇一番歌の詞書に冷泉家蔵本では﹁ゆかりありてつねに/まいり          Iみまいらすへかりしかと/さもなかりしかは仁わしの/一品の宮へまいら       Iせし﹂︵二Iウ八︶を、書陵部蔵本は﹁みまいらすへかりしを﹂とする。 冷泉家蔵本の﹁しかと﹂は微妙な字形ではあるが、﹁を﹂の字形と一々比 べていけば筆致が明らかに異なっている。従って此箇所については書陵部 蔵本書写者が字形を誤認したとみる。同様の例を今一つ。七七番歌は冷泉       −家蔵本に﹁おもふことかなはてのみそ/ふるさとのやふるゝものは心なり けり﹂︵一七オ九︶とみえる。傍線部分字形は微妙であるが、歌意からも、 また冷泉家蔵本の他の︿者﹀字形と比較すれば﹁かなはて﹂は確実である       Iが、この箇所を書陵部蔵本は﹁かなえて﹂とする。︵翻刻一・二共同じ判 断を示す︶こちらの字形も微妙であるが、やはり﹁え﹂と認むべきもので あり、やはり書陵部蔵本における誤認の例と覚しい。歌意を考え併せれば ﹁かなえて﹂はあり得ないところであるが、やはりそうした充分な反省を 加える暇なく書写されたとみるべき一証左といえよう。以上ここまで﹃六 条院宣旨集﹄に関して冷泉家蔵本と書陵部蔵本とを彼此比較し、そこから 窺われる書写上の問題について主に言語の面から聊か分析を試みた。 六五  冷泉家蔵本と書陵部蔵本と ︵今野︶ 二﹃躬恒集﹄について    二のI 書陵部蔵本の書写態度について  まず冷泉家蔵本についてみておく。一丁表から六丁表までは部分的に散 らし書きを交えるが、まずは通常の書写形態をとる。一面行数は七∼十行。 六丁裏から十五丁裏までは一面に五∼九首の和歌をきわめて変化に富む散 らし書きをする。例えば﹁いまゝてに/ちらすは/あれとさくらはなゝ/ きものとのみ/おもほゆるかな﹂二一五番歌 一二ウ︶︵註7︶のごとく 一首を五つに区切って書写することがもっとも多い。区切りはいわば改行 のかたちをとるのであるから、当然のことながら、一面中に短く切られた 句が密集することになり、判読も通常の書写形態と比べればいささかの困 難を伴う。そして十六丁表から十九丁裏まで短歌は一面に九∼十一首がほ ぼすべて一行書きされている。二十丁表には識語が散らし書き風に記され ているが、こうした書写形態が冷泉家蔵本の書写原本をそのまま引き継い だものであるのかについてはさらに慎重に考える必要があろう。冷泉家蔵 本の書写年時は︿院政期おそらく十一世紀末から十二世紀初頭あたりのも の﹀︵﹃冷泉家時雨亭叢書 平安私家集一﹄所収﹃躬恒集﹄田中登解題四一 頁︶とされる。この冷泉家蔵本には︿右の下隅にかなりの破損があって、 これが毎葉に及んでおり、それがために本文に一定間隔で欠脱箇所が生じ ている﹀︵同解題同頁︶のであるが、その欠脱が書陵部蔵本にもほぼその ままのかたちで引き継がれており、このことがらが冷泉家蔵本と書陵部蔵 本との直接的な関係を推定される﹁証﹂となっている。  ここで書陵部蔵本書写者の﹁技量﹂についてみておく。冷泉家蔵本を一 瞥すれば明らかであるが、前述したごとく必ずしも読みやすいものではな い。しかし書陵部蔵本はまずはよく理解し、読んでいるといえる。ただし 書陵部蔵本に誤写が存在しないわけではない。以下は書陵部蔵本の誤写、

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六六  高知大学学術研究報告 第四十五巻 二九九六年︶ 人文科学 誤認の例である。これら以外に若干の脱字がある。   めに見えてかせはふくと︿*ん﹀あをやきの/なひくかたにそはな        I  はちりける︵五五香歌 六オ︶←﹁ふくらむ﹂       j  春のゝに/ころ︿*人﹀かたしき/たかために/ならはぬかせに/        −  わかなつむらむ︵八六1 歌 九才︶←﹁くせに﹂        −  しろたへの/いもかころも/はむめの/はないろ/を︿*ん﹀かを   ︿*ん﹀/わきそかねつる︵一三六番歌 一四オ︶←﹁ころもに﹂    春の日を/いまいくかと︿*ん﹀/お︿*ん﹀はねは/しつ心/し        I   て花をや/は見る︵一五七1 歌 一五才︶←﹁いくかとか﹂ また冷泉家蔵本は通常とは聊か異なる漢字使用をみせる。すなわち、       −   いつれとも春のひかりはわかなくに又/みよしのゝ山はゆきふる    ︵四番歌 一才︶    みな人の花のころ︿*ん﹀をきる中に入り/そおいにしほみはてぬ    る︵六番歌 一ウ︶        −   人のこも/かるときくまて/をみなへし/もと事になく/すゝむし    のこゑ兌二番歌 九ウ︶          −   ゆくさきは/又七ほけれと/夏山のこのし/たかけはたち/うかり    けり︵九五番歌 一〇言    あつさゆみ/春たちしよりとし月のいるか事くも/お︿*ん﹀ほゆ    るかな二Iオ︶     −   花事に/をしむには/あらすわきもこか/やとのさくらそえ/こそ    わすれね︵一四三番歌 一四ウ︶       −   さとはみな/ちりはてにしを/あしひきの/山のさくらは又/さか    りな︵り︶︵一五〇番歌 [五才]        i   ゆきと見て/はなとやし/らぬうくひすは/ふく春風の又/さむき    な︵り︶︵一五一番歌 一五オブ     ー   我事や/人も見るらん/さくらはな/あくともし/らぬいろに/あ    るかな︵一五五番歌 一五言        −   ほとゝきすこゑもかはらてとし事にあかぬ心やかくめつらしき二    九六番歌 一七生      −−   むつ事も又つきなくにあけにけりいつらはあきのなかしてふよも    三○一番歌 一七オ︶       −   秋のよのあかぬ我れやたなはたのたてぬきにのみ思ふへらなる︵二    〇四番歌 一七ウ︶        −   かりてくるやまつのとりをあきゝりのたつたひ事にそらにこそ見れ    二八方 のごとき例である。これら以外に後掲acの例がある。ただし例えば﹁ご とし﹂に対して漢字﹁事﹂を配することは、大福光寺本﹃方丈記﹄にもみ えており、これらの表記はたしかに目を引くが、共時的、通時的にひろく 文献をみわたせばむしろさほど奇とするべきではないと考えるべきか。こ きみかため心もしるくはっし物おきての/こせるきくそありける ︵四〇番歌 四オ︶        iさかさらむものとはなしにさくら花/お︿*ん﹀かけにのみ又き見 えっゝ ︵五〇番歌 五ウ︶ とゝむへき/ものならなくに/はかなくも/ちるはな事に/たくふ 心か︵五九番歌 六ウ︶       −おもひっゝ/又いひそめぬ/我こひを/おなし心に/人はしらなむ ︵六五番歌 七オ︶ − 我れては/のちそこひしき/にこりえのそこと︿*ん﹀/しらぬあ りか/とふみは︵六七番歌 七ウ︶

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うした表記にも書陵部蔵本書写者はよく対応して読み解き、それをほとん どの場合仮名表記にする。ところで藤原定家が古典書写に際して、﹁未だ﹂ の場合は仮名で、﹁又﹂の場合は漢字で、あるいは﹁こと﹂という仮名連 続の中﹁事﹂のみを漢字で書記するという書き分けの傾向があることが小 笠原[ 二九七三]によって指摘されている。定家の意図は明らかであり、 そうした書き分けから見れば冷泉家蔵本のごときはずいぷんと混然とした ものと映るが、しかしこうしたところに書き分けに向かうそもそもの芽が あったともいえるのではなかろうか。ここにも﹁事﹂﹁又﹂が現れている のは偶々とは思いにくい。冷泉家蔵本では、音列﹁ごと﹂︵﹁∼ごと︵毎︶﹂ ﹁如﹂﹁︵むつ二言しが期待される一三例中九例に漢字﹁事﹂を充て、音列 ﹁まだ﹂が期待される六例をすべ・て漢字﹁又﹂で表記する。こうした表記 方針とでも言えそうなものはもとより藤原定家ほど徹底したもので社もち ろんなく、前者では仮名表記された例が四例、また﹁こと︵事︶﹂に対し て﹁事﹂が充てられた例も三例みられるのであるが、仮名が清濁を書き分 けないことに対しての﹁手当﹂めいたことがなされていることもまた事実 である。例外が存在する以上、この冷泉家蔵本の段階では、こうした表記 がどの程度意識的に行われていたか、それはそれで問題ではあろうが、こ うした表記法を自覚的かつ意識的に行うに至ったのが藤原定家であったと まずは考えるべきであろう。  書陵部蔵本の書写年時を直接的に知る手がかりは書陵部蔵本自体にはみ えないが、やはり霊元天皇の下での一連の書写と考えるべきであろう。と ころで書陵部蔵本は、前述のごとき冷泉家蔵本の複雑な形態を伝えず、識 語を散らし書き風に冷泉家蔵本に従って写した他は、原mとして和歌二行 書きのかたちをとる。冷泉家蔵本書写者に関して特別な人物が比定されて おらず、形態までを模す必要がその書写に際して認められなかったのであ ろうか、複製本製作という意志はみとめ難い。仮名字母の変更は言うに及 ばず、漢字表記と仮名表記との双方向での変更ももちろんみえる。ただし、 六七  冷泉家蔵本と書陵部蔵本と ︵今野︶ これはこれで書写の一つの在り方であろうし、こうした書写はもちろん少 なくない。この場合、書写者が写し留め、後世に伝えたかったのは、書写 原本の何であるのかがやはり言語学的な観点からは興味深い。表記の伝承 にはさして意を用いていない、となればそれは﹁本文﹂ということになろ うが、例えば霊元天皇の御代に﹁本文﹂に相当するそうした概念はあった のか、そしてそれはどのように意識されていたのか、何らかの方法で明ら めておく必要があるよう忙思われる。そもそも現在の﹁本文﹂なる概念に ついても考える必要があるのかもしれない。以下﹃六条院宣旨集﹄とは対 照的ともいえる書写態度を窺わせる書陵部蔵本﹃躬恒集﹄について個々の ことがらについて分析を試みることにする。 二の二 書写の単位︵丁・行︶に関して  冷泉家蔵本の﹁すくしこしとしをいくらとかそふれ/はゆひいとなくも おいにけるかな﹂︵十一番歌 ニオ五∼六︶が、書陵部蔵本ではちょうど        I改丁にかかっているが、そこでは﹃すこしこしとしをいくらとかそふれは﹄         −ゆひいとなくもおひにけるかな﹂と写されている。﹃﹄は改丁箇所︶・冷泉 家蔵本の﹁すくし﹂﹁おい﹂を書陵部蔵本が各々﹁すこし﹂﹁おひ﹂とする ことはここでは措くが、書陵部蔵本は冷泉家蔵本通り改行︵つまり改丁︶ せずに、﹁かそふれは﹂と纏まりのよいかたちまで写して丁を改めている。 時代としてはむしろ当然と言えようが、やはり書陵部蔵本書写者には丁の 意識がはっきりと窺える。  冷泉家蔵本が散らし書きをとる場合、五つに区切られていることが多い ことは前述した。この五つが和歌の各句に一致するとは必ずしも限らず、 a﹁ゆくさきは/又とほけれと/夏山のこのし/たかけはたち/うかりけ り﹂︵九五番歌 一〇オ︶ のごとく、単語や所謂﹁文節﹂などの文法的単 位とは添わないかたちで散らされる場合も少なくない。これを書陵部蔵本

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六八  高知大学学術研究報告 第四十五巻 ︵一九九六年︶ 人文科学 が﹁ゆくさきはまたとをけれと夏やまの/このしたかけはたちうかりけり﹂ と写すことはむしろ当然といえようが、このことがらは書陵部蔵本書写者 の側に和歌の上句下句を書写の単位としての行に一致させるという意識が 存することを示していることになる。同様の例としてI〇六1 歌二Iウ︶ 一〇七番歌︵一二オ︶ 一一五番歌︵一二ウ︶ 一二四番歌︵一三オ︶ 一二六 番歌︵一三ウ︶ 一二七番歌︵同︶ 一三二番歌︵同︶ 一三四番歌︵一四オ︶ 二一六番歌︵同︶ 一三七番歌︵同︶ 一四〇番歌︵同︶ 一四一番歌︵一四ウ︶ 一四五番歌︵同︶ 一六五番歌︵一五ウ︶が挙げられよう。こうしたことが らは和歌の書記形式の推移を背景にさらに慎重に考えていく必要があろう。    二の三 重点について  冷泉家蔵本では﹁いまゝてにいてたゝぬみはもゝ ︵しき︶/の宮のさく らを見てやゝみな︵む︶﹂︵八番歌 一ウ/︵ ︶内は破損個所を他本から 推定したもの︶b﹁ふるさとを/おもひやりつゝくるかりの/たひの心は /そらにさるらし﹂︵四二番歌 四ウ︶などから明らかなように自立語語頭、 自立語語中、自立語語尾、付属語語頭、付属語語尾、いずれの位置におい ても自由に重点を使用する。拙稿︵一九九六b︶では使用位置からみた重 点使用の推移を分節機能という観点から捉えてみたが、その使用位置に関 して自由な、かかる重点使用は時代的には古いものと考えられる。自立語 付属語を問わず、語中語尾位置での重点使用は時代の推移にあまり関わら ない、ともいえるが語頭位置でのそれは時代が新しくなるにつれて減少し ていると覚しい。冷泉家蔵本と書陵部蔵本との重点使用を数値の上から見 れば、冷泉家蔵本にみえない重点を書陵部蔵本では二五使用し、逆に冷泉 家蔵本に存在していた重点の二四を書陵部蔵本は別のかたちに置き換えて いる。今、書陵部蔵本を中心に考えて、前者を増加、後者を減少と呼ぶこ とにすれば、重点増加二五の中、冷泉家蔵本の﹁心﹂を書陵部蔵本が﹁こヽ ろ﹂とした例が二二﹁心地﹂を﹁こA.ち﹂とした例がI例みえるが、他 三例は各々興味深い。冷泉家蔵本﹁かをとめて/たれをらさらん/むめの はな/かにこそに/たるものなかり/けれ﹂︵八五番歌 九才︶を書陵部 蔵本は﹁かをとめてたれをらさらむヽめのはな/かにこそにたるものなか りけれ﹂と写す。前述したごとく時代的にみれば︵自立語︶語頭位置での 重点使用はかなり稀になっているのが一般であろうが、一方で書陵部蔵本’ 書写者は自らがそうした位置でいわば自発的に使用することもあったとい うことである。そうした位置で重点が使用された文献、つまり時代的に遡 る文献に親しく触れてきた経験に基づく重点使用であることを予想させる。 みちには人もあらしとそおもふ﹂︵二I八番歌 一八オ九︶の﹁あきのゝの﹂ ︵秋の野の︶を書陵部蔵本は二箇所共﹁あきの野にとする。﹁あきのゝご は通常考え難いので、冷泉家蔵本のかたちは重点使用の一般的なかたちと いえようが、語の切れ目が分かり難いことも確かである。それに対して漢 字表記を交え、連続する﹁の﹂の最末尾に重点を使用した書陵部蔵本に、 漢字を相応に使用しながら分節の上からはわかりやすいかたちをとる中世 ∼近世期の表記の在り方が窺われるといえよう。﹁春のゝに﹂︵八六番歌 九才︶こ○八番歌 一二オ︶は当然、﹁春の野に﹂と写され、﹁かす/かのゝ へは﹂︵一一ウ︶は﹁かすかの野へは﹂と写されるのである。  重点減少二四例中、一例は冷泉家蔵本﹁わひゝとの﹂︵二番歌 一才︶ を﹁わひしとの﹂と誤認したことに起因するが、これが冷泉家蔵本初丁の 第一首目であることを思えば、書陵部蔵本の書写者が冷泉家蔵本のやや長 めな重点に慣れていなかった故と考えられる。此例も含めて重点の減少が いかなる位置においてみられるかを整理すると、自立語語頭で一丸、自立 語語中で四、付属語語頭でI、と語頭位置が大半を占めている。この位置 での重点使用の減少という一般的傾向に添うものである。

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 自立語語頭での減少一九例についてさらに詳しくみると、漢字を使用し たことに伴うものがI〇例、仮名を使用したことに伴うものが九例みられ る。前者の例としては﹁あきヽり﹂︵二I番歌 三ウ︶を﹁あき霧﹂とし た例、﹁あけぬ/ともをりや/まとはむヽめのはな﹂︵一二九番歌 一三ウ︶        −を﹁あけぬともおりやまとはむ梅のはな/﹂とした例、﹁わひゝと﹂︵二二 八番歌 一八ウ︶を﹁わひ人﹂とした例などがすでに掲げた﹁あきのゝの﹂ 等の例と共に挙げられる。  一方重点を仮名に置き換えた場合、改行などがなければそこには同字連 続が新たに発生するが、その同字連続が書陵部蔵本においてどのように書 記されているかについてみることにする。各例の後者が書陵部蔵本のかた ちである。 c とし事にともひきつらねくかりを/いくたひきぬとこ   ︵冷四オ︶   としことにともひきつらねくるかりを/いくたひきぬくと﹀︿登﹀   ふ人そなき d かくてのみゝつゝそしのぶむらさきのいく/しほそめしふちのはな   そも︵五六番歌 冷六古   かくての︿ミ﹀︿み﹀ つゝそしのぶむらさきの/いくしほそめし藤   のはらそも e 今日くれて/あすになりなん/ふちのはなかけて/のみこそ春をゝ   しまめ︵一〇〇番歌 冷一〇ウ︶   今日くれてあすになりなんふちのはな/かけにのみこそ春をおしま   め f いまゝてに/ちらすは/あれとさくらはなゝ/きものとのみおもほ   ゆるかな二一五番歌 冷一二ウ︶   いまゝてにちらすはあれとさくらは︿那﹀/︿な﹀きものとのみお 六九  冷泉家蔵本と書陵部蔵本と  ︵今野︶   もほゆるかな g かせにのみ/*おほせてゃむ/ゝめの/はなくの心は/しれるも   のかは二三〇番歌 冷一三ウ*他本おほせやはてむ︶   風にのみおほせてゃむゝめの︿者﹀︿那﹀/︿者﹀︿な﹀のこゝろは   しれるものかは h かせふかぬ/ほとにをりて︿*ん﹀ ゝ/めのはな我て/からこそち   らはちらさめ︵一三七番歌 冷一四オ︶   かせふかぬほとにおりても梅のはな﹄我手からこそちらはちらさめ ・I さくらはな/をちくる/みっのたえ/さらはゝや/くちるともなけ   か︵ましゃは︶︵ニ八五番歌 冷一五ウ︶   さくらはな落くる水のたえさら︿ハ﹀/︿者﹀やくちるともなけ︵空   白︶ j たまくしけあけかたにするあきのよそ心ひとっをゝさめかねっる   ︵二〇二番歌 冷一七ウ︶   玉くしけあけかたにする秋のよそ/こゝろひとっをおさめかねっる k 月かけにいろわきかたしゝらきくはをりてもをらぬこゝちこそすれ   ︵二〇六1 歌 冷一七ウ︶   月かけにいろわきかたくし﹀︿志﹀らきくは﹄おりてもおらぬこゝ   ちこそすれ  c∼kの各例は種々の興味深いことがらを提示している。同字が連続し た場合に使用される重点は書記上の手間を省くということに使命の一つが あろうが、仮名勝ちに書記される文献においては、それがどの位置で使用。 されたとしても、仮名の連続を避けるという意味合いにおいて、消極的に しろ言語の﹁分節﹂忙関わる要素を内包していたとみるべきであろう。重 点が次第に使用されなくなっていったという理由については充分に考える 必要があるが、今ここでは措く。重点が使用されなければ必然的にそこに

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七〇  高知大学学術研究報告 第四十五巻 二九九六年︶ 人文科学 は同字の連続が存在することになるが、これをわかりやすく﹁分節﹂する 一つの方法が同字に充てる仮名字母を変える﹁変字﹂であったと考える。 もっともその変字が行われた理由は、同じ仮名に属する﹁字形﹂が複数存 在するのであるから、同じ字形を連ねることは曲がない、というような、 専ら美的な、つまり大げさに言えば書道的な配慮からであったかもしれな い。そう考えるのがこのことがらの契機としてはむしろ自然なようにも思 われる。ただしこれはここで述べているごとき縦方向の変字が、つねに書 道的な完成度を追求したと覚しきテキストにしかみられないということを 意味しない。中世の具体的文献を見渡せばそうしたことがらにさして意を 用いているとも思えないものにもこうした変字がみられる。しかしまたど んな性質の文献にも無条件でみえるものともいえないのであり、そこにこ うしたことがらが観察される︿文字社会﹀というものを設定する必要がや はりある。そうした変字が分節に関しての﹁手当﹂になっていたことを指 摘しておきたいのである。cdkがそうした例である。flにも変字がみ られるが、むしろ改行を挟んでいることを問題にすべきであろう。すなわ ちflは仮に重点を使用すればそれが行頭に位置することになる。行頭で の重点使用を避ける傾向は夙に池田亀鑑が青籍書屋本﹃土左日記﹄の分析 を通して指摘したごとく藤原為家の時代にすでにみえ、江戸時代には真名 の重点に関してではあるが﹁又行︵クタリ︶ つまりて、下に浦とかき、上 へあけて、々なとかくへからす、もししか下につまり/たらん時は上にも 浦とかくへしとそ傭書家なとのかけるもの/には、此あやまり多き事なり﹂ ︵富土谷御杖﹃北辺随筆﹄巻之三︶なる記述がみられるに至っている。改 行によって隔てられれば、そこに仮に同字形が配されても問題はないはず であるが、flは尚変字を行う。gも行頭での重点使用を避けた例として 考えられよう。  hはまた別の問題を提示する。冷泉家蔵本においては現在使用するくん﹀ に近い字形︵︿*ん﹀で現す︶が次のように使用されている。 I ゆめにたにうれしとお︿*ん﹀はざつつゝにて/わひしきよりは猶   まさりな︿*ん﹀︵五番歌 一ウ︶ m 春のよの/やみはあやなし/︿*ん﹀めのはな/いろこそ/見えね   かやは/かくるゝ 二Iウ︶ こうした表記をみせる文献は青谷書屋本﹃土左日記﹄つまり藤原為家筆本 ﹃土左日記﹄を初めとして、書写年時の古いものには少なくない。こうし        Iだ冷泉家蔵本を書陵部蔵本はよく読み解き、前掲lmの例であれば﹁おも         − jはご﹁まさりなむ﹂﹁むめのはな﹂と写す。しかしhの例のみ誤認してい る。書陵部蔵本書写者はおそらく﹁をりて︿*ん﹀ゝ/めのはな﹂から﹁む め﹂をまず認め﹁梅︵のはな︶﹂と漢字表記に変換することを考え、次に それに先行する助詞︿*ん﹀を考えた際に今までにもあった、仮名﹁も﹂ との結びつきを考えて誤認したと思われる。冷泉家蔵本の書写を任される 程の人物であれば︿*ん﹀に﹁も﹂﹁む﹂﹁ん﹂を配することもさして困難 なく行い得たであろうが、此箇所はいわば上手の手から水が漏れた、と言 うべきか。    二の四 かなづかいについて  前節で掲げたI・Jの例はそれぞれ、冷泉家蔵本﹁春をゝしまめ﹂﹁心ひ        Iとっをゝさめかねっる﹂を書陵部蔵本が﹁春をおしまめ﹂コころひとっ  Iをおさめかねっる﹂とした例である。冷泉家蔵本の書写年時は前述のごと く一一世紀末∼一二世紀初頭頃と考えられている。とすれば冷泉家蔵本が 書写された時には1000年頃から始まるとされる音韻オヲの混同も進行 していたであろうし、また八行転呼音現象も時代相応に進んでいたことに なる。そうした目で冷泉家蔵本をみわたすと、案外とかなづかいの破綻を        I見せておらず、古典かなづかいに一致しない例としては﹁ひきうへし︵引

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       −植︶﹂︵一七番歌 三才︶﹁なを︵尚︶﹂︵一七一番歌 一六オ/一丸三番歌 一七オ︶の三例を数えるのみであり、当該本の書写年時の古さ及び素性の 良さを物語る。これらの語の古典かなづかいが﹁をしむ︵惜︶﹂﹁をさむ︵収︶﹂ であることと冷泉家蔵本のこうした状況とを考え併せれば、前掲の例は﹁を しまめ﹂﹁をさめかねつる﹂を意図したものとまずは考えてよいだろう。 書陵部蔵本書写者にしても、もっとも普通に冷泉家蔵本の表記を読み解け ばそうなったはずであるが、ここではかなづかいに変更が加えられている。 書陵部蔵本が冷泉家蔵本のかなづかいに変更を加えた例は他にも次のよう にみえる。﹁をる︵折︶﹂を﹁おる﹂とした例がI〇例︵一才・一一ウ・一 二ウ・一三ウ・一四オ∴五ウ②・ヱハオ②∴七ウ︶︵*︵ ︶内は冷       ︿表﹀冷泉家蔵本と書陵部蔵本とのかなづかいが異なる箇所 泉家蔵本での所在︶﹁おい︵老︶∼﹂を﹁おひ﹂とした例が八例︵一ウー ニオーニウ・五才・一二オ・一四オ・一五才②︶﹁つひに﹂を﹁つゐに﹂ とした例が五例︵三ウ・七オ・一〇オ∴ニオ∴八オ︶﹁おき︵置︶∼﹂ を﹁をき∼﹂とした例が三例︵四オ・七ウ・一八ウ︶﹁おと︵音︶﹂を﹁を と﹂とした例が二例︵八オ五∴七ウ︶﹁とは︵遠︶ ∼﹂を﹁とを∼﹂と した例が二例こ○オ∴五ウ︶﹁たわごを︵たはごとした例が一例二 二ウ︶﹁をし∼︵惜︶﹂を﹁おし∼﹂とした例が六例二三ウ②・一四ウ③ ・一五才︶ みえる。  ︿表﹀はこれらの語が中世∼近世初期のかなづかい書にどのようなかた ちで採り上げられているか、及び中世期の実態として連歌書におけるかな ををとおお るしほとく −−ヽ−−折惜九音置  ̄ ̄遠`゛ ̄   に一 つお ひい に竃  心  S た わ わ 古 典 is. 遣 ををとおお るしほとく  S し つお ひい に S た わ 冷 泉 家 蔵 本 おおとをを るしをとく  S し つお ゐひ に S た は ゝ 書 陵 部 蔵 本 *おとをを たしをとく を S し S る * 花 を お る | お  ひ  /  お  ひ  い * た は む 文 11 年 本 仮 文 字 遺 おおとをを るしをとく  む S つお ゐい に | 連 歌 書 *おとをを 花しをとく を S し S お る つお Uゝい に つ ゐ に * た は む 版 本 仮 名 文 字 遣 ぉぉとをを るしをとく  S し S つお ゐひ にか  け  著  懇 | 新 撰 仮 名 文 字 遺 ぉぉとをを るしをとく   し つお ゐひ に つお X/1 X/ゝ に共 共 た は ゝ 類 字 仮 名 遣 |をとをを  しをとく  むし つ| ゐ に 共 に 用 た は む 初 仮 名 遣     ︱ 凡 侈     1     n 乙     Q り     4     r D     a り かなづかいが問題になる音韻毎にグループ化し、活用語は終止形をもって代表させた。 文明十一年本﹃仮名文字遣﹄、︵慶長︶版本﹃仮名文字遣﹄は﹃駒潭大学国語研究資料第二﹄︵一九八〇年汲古書院刊︶による。 ﹃新撰仮名文字遣﹄は亀井孝氏蔵本による。︵註8︶ 連歌書は拙稿︵一丸八四︶による。 ﹃類字仮名遣﹄︵寛文六 二八六六年刊︶﹃初心仮名遣﹄︵元禄四 一六九一年刊︶は架蔵本によるが、前者は刊記を欠く。 *は関連語形を援用した場合に付した。 七一  冷泉家蔵本と書陵部蔵本と ︵今野︶

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七二 高知大学学術研究報告 第四十五巻 二九九六年︶ 人文科学 づかいを併せたものである。一見して明らかなように書陵部蔵本は中世∼ 近世初期のかなづかいを示しており、冷泉家蔵本書写に際しておそらくは 無意識の中に自身のかなづかいを現したものであろう。書写態度というこ とに関していえばそれは褒められたものではないが、かなづかいの枠組み ということになれば、それが随分とつよく存在したことを示してもいる。 それはこのように図らずも露呈したものを探り上げているのだから、当然 枠組みのつよさは予想されもするのであるが、また仮名遣書の側からいえ ば今はこれらの例に限るにしても実態に即したかたちを掲げていることに もなる。ただし、僅かこれだけの例を注視しても、例えば﹁老﹂に関して、 連歌書、慶長版本﹃仮名文字遣﹄が一致して﹁おい﹂であるのに﹃類字仮 名遣﹄で﹁おい共﹂としながらも﹁おひ﹂を掲げていること、﹁つひに﹂ に関しては慶長版本﹃仮名文字遣﹄、﹃類字仮名遣﹄、﹃初心仮名遣﹄が﹁つ ゐに﹂を並立させていることなど一々の例はそれぞれ気にかかるが、こう したことがらについては機会を改めて充分な準備の下に臨むことにする。    二の五 その他のことがらについて  冷泉家蔵本﹁春にあふと︿*ん﹀ふ/こゝろは/うれしくて/いまひとゝ せの/おいそゝひ/ける﹂︵一三五番歌 一四オ︶を書陵部蔵本は﹁春に    Iあふと思ふこゝろはうれしくて/いまひとゝせのおひそゝひける﹂と写す。 冷泉家蔵本の表記を単独で仮名表記そのままに発声することがあったのか、 どうかについては別に考える必要があろうが、少なくも仮名として考えれ ば﹁もふ﹂とみるべきである。書陵部蔵本の表記がそれを意図していなか ったと断言することは尚できないが、やはりその可能性はかなりひくいと 思われる。﹁もふ﹂は﹃古事記﹄歌謡に﹁ちはやひど宇治の渡に渡り瀬に        I    −立てる梓弓まゆみい伐らむと心はもへどい取らむと心はもへどもとはへ君       −を思ひ末へは妹を思ひ出∼︵許許呂波母閉抒︶﹂︵応神︶とみえ、また﹃万        −葉集﹄にも﹁梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶと見れば都しぞもふ︵弥夜    −      −古之叙毛布︶﹂︵巻五 八四三︶﹁山吹は日に日に咲きぬうるはしと吾がも I      − ふ君はしくしく思ほゆ︵安我毛布伎美波︶﹂︵巻一七 三九七四︶とみえる。        −また﹃土左日記﹄二月五日の条の﹁いのりくるかさまともふを/あやなく もかもめさへたになみ/とみゅらん﹂︵青妨害屋本三七オ七∼九︶を定家 筆本、三條西家本、日本大学図書館蔵本、近衛家陽明文庫蔵本といった根 幹写本がいずれもそのまま﹁もふ﹂と書写しているところから考えれば、 語形からいえば﹁おもふ﹂が僻められていることは明らかで、それ故文献 の表には姿を現しにくいことは当然のこととして、しかし例えば﹁和歌世 界﹂では生き続けていた語形と考える方がむしろ自然かもしれない。また 一方でそれが理解されずに、転写を重ねる間に﹁もふ﹂が﹁おもふ﹂とな り、さらに漢字表記された例もあるであろうし、﹁おもふ﹂を介さずに漢 字表記された例もあろう。この場合、その漢字表記がなされた時点でそれ が意図する語形には二つの場合が結果的には考えられるが、書陵部蔵本で のそれは、おそらく﹁おもふ﹂であろう。冷泉家蔵本には今一箇所﹁をみ       Iなへし人もとゆへにあきのゝのちくさなからもはなをもふかな﹂︵二〇七 番歌 一七ウ︶がある。冷泉家蔵本のかなづかいは前述したごとく古典か なづかいにきわめてよく一致しているところから﹁をもふ﹂が﹁思﹂の表 記である可能性はまずないと考えるが、書陵部蔵本は﹁をみなへしひとも とゆへにあきの野ゝ/ちくさなからもはなを思ふかな﹂とする。やはりこ れらは書陵部蔵本書写者の存知の外なる語形に書写の過程で変更が加えら れた例といえよう。冷泉家蔵本の﹁すくしこし﹂を書陵部蔵本が﹁すこし こし﹂とした一一の二前掲一一番歌も﹁すくす︵過︶﹂と﹁すこす﹂との二 語形の新旧ということで同様にいえるか。上代資料においては﹁すくす﹂ が一般で﹁すこす﹂はきわめて少なく、﹃万葉集﹄東歌︵三五六四︶の例 が知られるのみである。中世以降は﹁すこす﹂が一般的になったと覚しく、 ﹃日葡辞書﹄には﹁Sueoxi/Iysugoxi/Vomoisueoxi/Yarisugoxi Iはみえ

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るが、﹁すぐす﹂形が見出しとして立項されていない。        − また冷泉家蔵本の﹁冬のいけにむすをしとりのつれもなくそこにかよは’ ん人︵以下破損︶﹂︵二二九番歌 一八ウ︶の﹁むす﹂を書陵部蔵本は﹁す む﹂とする。﹁むす﹂が誤写である可能性もまったくなくはないであろうが。       −﹃万葉集﹄に﹁吾妹子が植ゑし梅のき見るごとにこころむせつつ涙し流る﹂ ︵巻三 四五三︶ の悲しみのために心がつまるという意の﹁むす﹂で解し 得ないか。﹃躬恒集﹄の伝本は一様に﹁すむ﹂のかたちを伝えているが、 これは﹁むす﹂が理解されなくなってから書き僻められたということも考 ヽ兄られよゝつ。  以上冷泉家蔵本﹃六条宣旨集﹄﹃躬恒集﹄と書陵部蔵本の各々とを彼此 比較することを通して転写に際して起こることがらを主として言語的観点 から考えてみた。比較によって冷泉家蔵本、書陵部蔵本双方のテキストが 内包する種々の語学的問題が浮き彫りになったといえよう。冷泉家蔵本の 書写年時が古く善本であることに相応して多くのことがらが看取できると もいえる。さらにまた異なる場合についても考えてみたい。 註1 藤本孝一﹁御所本歌書と冷泉家御文庫﹂こ九九四年七月二日﹃しくれてい﹄    第四十九号︶  2 拙稿︵一九九五b︶  3 テキストとして、冷泉家蔵本﹃六条院宣旨集﹄は﹃冷泉家時雨亭叢書 平    安私家集二﹄に、書陵部蔵本﹃六条院宣旨集﹄︵函号五〇丁一三〇︶は    国立国文学研究資料館蔵の、同本のマイクロフィルムから焼き付けた紙焼    写真による。字体の検索等に備える為に冷泉家蔵本を自ら一旦翻字し、パ    ーソナルーコンピュータにテキストファイルを作製した。その過程で先行    する翻刻を参照させていただいたが、一、二気づいた点があるのでここに    記しておく。書陵部蔵本﹃六条院宣旨集﹄は﹃桂宮本叢書﹄第十巻︵一九    五九年 養徳社刊︶︵以下翻刻こまた﹃私家集大成第二巻 中古H﹄︵一 七三  冷泉家蔵本と書陵部蔵本と ︵今野︶   九七五年 明治書院刊︶ ︵以下翻刻二︶に翻刻されている。翻刻一二一共   三二番歌歌題を﹁火むろ﹂とする。字形は︿火むろ﹀であるが、この︿火︾   を敢えて漢字と認めるよりも仮名字体と考えて﹁ひむろ﹂とするのが自然   ではないか。また四節で扱っているnの例を翻刻一・二共に﹁たひとこの﹂   とするが﹁こ﹂とはやはりよみ難いのではなかろうか。また翻刻一二一共  にIコー番歌﹁よの中のつねなきことし/つねなれはゝかなしとおもふ/   われそはかなき﹂︵二四オ八︶ の重点を落とす。これらの他に翻刻二が四   節で扱っている七七1 歌の初句﹁おもふこと﹂の﹁も﹂を落とすのは誤植   であろう。また冷泉家蔵本﹃躬恒集﹄は﹃冷泉家時雨亭叢書 平安私歌集   こに、書陵部蔵本﹃躬恒集﹄︵函号五〇丁三〇六︶は国立国文学研究   資料館蔵の、同本のマイクロフィルムから焼き付けた紙焼写真による。 4 本稿での仮名文字遣は安田章︵一九六七︶に従う。所謂異体仮名レベルで   の用字法を指す。 5 奥書に﹁乍去むの字にくん﹀を書さの字に/︽散︾を書すの字に︽数﹀を   かき其外/営世之仮名使に不相吉之間予/書改よみよくせんかため也﹂と、   積極的に表記を変えたことを記す近衛家陽明文庫蔵本﹃土左日記﹄︵慶長   頃写か︶では青絵書屋本に存した二八四箇所の︿支﹀が僅か二箇所しかみ   られず、逆に青絵書屋本に六箇所しかみえなかったくき﹀が、二I三箇所   になっている。こうしたことがらについては拙稿︵一九九六a︶で少しく   ふれた。 6 冷泉家蔵本ではくん﹀が仮名﹁も﹂に対しても使用されている。撥音部分   に充てられているくん﹀との間には、少なくも当該書においては字形差は   まったく感じられない。このことがらについては大坪併治︵一九六こ、   鶴久︵一九六六︶で扱われ、こまつひでお︵一丸九五︶も︽不規則な対応﹀   として言及した。最近では中川美和︵一九九四︶が採り上げ、拙稿︵一九   九六︶でもややふれたが、いまだ明解な解釈が提示されるに至っていない。   また書陵部蔵本は冷泉家蔵本の﹁ふけん﹂︵二四ウ七︶をくふけむ﹀とする。 7 歌番号は﹃私家集大成﹄第一巻中古I︵一九七三年明治書院刊︶所収、   ﹁躬恒Tl﹂︵書陵部蔵本 函号五一一・二八︶に施されたものに便宜従った。 8 大友信一先生のご厚意により亀井孝氏蔵本のネガフィルムの紙焼写真の借   覧が適ったのでここはそれに基づく。大友先生の学恩に感謝申し上げるも

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七四 高知大学学術研究報告 第四十五巻 二九九六年︶ 人文科学    のです。 神汪﹃土佐日記﹄書写については夙に池田亀鑑が︿恐らく定家は、第一日に五    四頁︵廿九日︶まで書いて一旦中止し、翌日改めて五六頁︵坦日︶から書    き始めたのではなかろうか﹀︵一九四一年岩波書店刊﹃古典の批判的処置    に関する研究﹄第二部一一四頁︶と指摘し、清水義秋︵一九七三︶もこれ    を支持する。これは二七丁分ということになるが、およそこれが一日の書    写の目安となろう。 参考文献 大坪併治 小笠原一 一九六一 一九七三  ムーモの相通︵風間書房刊﹃訓点語の研究﹄︶ ﹁又﹂と﹁まだ﹂・﹁事﹂と﹁来と﹂ −定家自筆本  に関してI ︵﹃学芸国語国文学﹄第八号︶ こまつひでお 一九九五  仮名文テクストの文献学的処理 −書記の理論・        的確な解釈・音韻史との相関・資料の均質性−        ︵﹃国語と国文学﹄第七二巻第九号︶ 今野真二 清水義秋 鶴  久 一丸八四  連歌書のかなづかい ︵﹃国語学﹄第一三九集︶ 一丸九五a 書記における﹁行﹂意識︵﹃國學院雑誌﹄第九六       巻第一二号︶ 一九九五b 臨摸本における本文転化 −書陵部蔵本﹃遺塵和       歌集﹄の場合− ︵﹃高知大学学術研究報告﹄第       四四巻人文科学分冊︶ 一九九六aヽ常世之仮名使︵﹃文学語学﹄第一五一号︶ 一九九六b 分節機能からみた重点 −﹃土左日記﹄根幹諸本       を中心資料としてI ︵高知大学人文学部人文学       科﹃人文科学研究﹄第四号︶ 一九七三  定家の用字と注釈意識 −漢字の場合−︵﹃相模       工業大学紀要﹄第七巻第一号︶ 一九六六  ムーモの表記に用ゐられたといはれる仮名﹁ん﹂       の考察︵﹃香椎潟﹄第一二号︶ 中川美和 安田 章 一丸九四  平安時代平仮名文献における﹁ん﹂字の表記につ       いての一考察︵﹃都人論究﹄第三一号︶ 一丸六七  仮名資料序︵﹃論究日本文学﹄第二九号︶ 平成八年 平成八年 二九九六年︶ 二九九六年︶ 九月十日受理 十二月二五日発行

参照

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