晶 子 と 安 喜 子
10 第11回を迎えた大学図書館特別展示・学術資 料講演会は、晶子没後60年にあたるのを記念し、 本大学図書館が所蔵する特別文庫「丹羽記念文庫」 と本年度新たに所蔵することになった与謝野晶 子の自筆書簡の公開を兼ねた催しとして実現し ました。 この丹羽記念文庫の蒐集者であり、晶子の自筆 書簡の宛先であった丹羽安喜子(1878-1942)は、 1919年以来、近代短歌集の新詩社の社友として、 晶子に師事するだけでなく、自ら「芦屋短歌会」 を興すなど活躍すると同時に、明治・大正・昭 和初期に出版された近代短歌集のほとんどを初 版の形で蒐集、とりわけ晶子の短歌集の初版本 コレクションはきわめて貴重なものです。この 丹羽記念文庫の寄贈者は、歌人であり、安喜子 の夫君で、本学院の財務部長・理事であられた 丹羽俊彦氏でした。 かつて、河内厚郎は「阪神学」を提唱し、その 中で阪神間のモダニズムを特徴とする文学を「阪 神間の近代文学」と呼び、谷崎潤一郎に始まるも のとしました。河内はその基礎に「郷土文学」と はニュアンスの異なる「市民文学の系譜」の存在 を予知しました。与謝野夫婦を師とする丹羽ご 夫妻の文芸活動はその一環をなすものといえる のではないでしようか。「晶子と安喜子」研究が、 晶子研究にとどまらず、この阪神学の一部をな す「阪神間の近代文学」研究の一助となることを 願っております。さらに、関西学院に繋がる佐 藤清、竹友藻風、竹中郁、坂本遼などもまた「阪 神間の近代文学」を支える人だといえるでしよう。 今回の特別展示に関する学術資料講演会には 本学の中島洋一名誉教授をお招きして「晶子に 師事した安喜子 ∼同時代の歌人たち∼」と題す る講演をしていただきました。その中で中島先 生は二人の師弟関係を明らかにし、文学史上の 位置を示していただくと同時に、大学図書館と して、丹羽記念文庫のさらなる充実の必要性を 指摘していただきました。本学における「晶子 と安喜子」研究の、さらには関西学院が生んだ 野口弥太郎・神原浩・吉原治・北村今三などの 画家をも輩出した「阪神文化」研究の進展に寄 与できる資料の蒐集に努めたいと思います。 幸いなことに、この展示が契機となり「晶子 と安喜子」の師弟関係を如実に示す貴重な資料 が神戸女子大学名誉教授で生田神社宮司である 加藤隆久様から寄贈されました。その資料は、 安喜子『芦屋より』草稿への晶子の朱入れ原稿、 その初版本への箱・表扉・裏扉の画家石井柏亭 による挿し絵原画を中心とするものでした。さ らに、丹羽俊彦・安喜子ご夫妻のご遺族からも、 貴重な資料・情報が寄せられました。これら新 たな諸資料をも併せて「晶子と安喜子」研究の発 展・深化に役立つことを願っております。 最後になりましたが、今回の展示・講演会のた めにご協力頂きました丹羽家のご遺族の方々、 入江春行元大谷女子大学教授、清水康次光華女 子大学教授をはじめ、中島洋一名誉教授、細川 正義文学部教授、森田雅也文学部教授、日本文 学研究科の研究員と大学院生の皆様、さらに館 員の皆様に深く感謝いたしたいと思います。∼与謝野晶子と同時代の歌人たち∼
第11回 大 学 図 書 館 特 別 展 示 ・ 学 術 資 料 講 演 会
大学図書館長・経済学部教授井上 琢智
2002年9月から11月にかけて西宮上ケ原キャンパス大学図書館で第11回大学図書館特別展示を行 った。今回は大学図書館が丹羽安喜子宛与謝野晶子書簡を購入したことにあわせて、文学部日本文 学科の協力を得て、本学図書館所蔵の近代短歌のコレクション「丹羽記念文庫」と、それに関連す る図書・資料を「晶子と安喜子 ∼与謝野晶子と同時代の歌人たち∼」と題して展示した。また、 11月18日に大学図書館ホールで学術資料講演会を開催し、中島洋一名誉教授に「晶子に師事した安 喜子 ∼同時代の歌人たち∼」と題して講演していただいた。 芦屋の丹羽邸にて 左:丹羽安喜子 右:与謝野晶子11
与謝野 晶子
(よさの あきこ) 1878(明治11)年12月7日堺市に生まれる。 父鳳宗七、母つねの三女。本名志よう。 堺女学校補習科を卒業後、家業を手伝う かたわら、独学で古典の勉強をする。20 歳頃から作歌を志し、1900(同33)年『明 星』2号から発表をした。与謝野鉄幹に 出会った翌年に上京し、前妻と別れた鉄 幹と結婚した。同年、『みだれ髪』を出 版。初めての女流による画期的な新派歌 集で、その鮮烈な自我の昂揚と多彩な美 の乱舞は、大反響を呼び、晶子は一躍ス ターの座に上る。また1904(同37)年9月 に発表した社会性を持つ長詩「君死にた まふこと勿れ」は、この時代に珍しい大 胆な発言で多くの論争を呼び起こした。 『明星』廃刊後、創作不振に悩む鉄幹の 渡欧に自らも跡を追い外遊し、西欧女性 の実態を見た。帰国後、婦人、教育問題 などを中心に活発な評論活動を展開する。 1921(大正10)年、文化学院を創立し、芸 術自由教育、女子教育の実践にもたずさ わる。1940(昭和15)年5月、脳溢血で倒 れ静養に努めるが、1942(同17)年1月病 状悪化し、狭心症を併発。尿毒症を起こし、 同年5月29日に死去。多磨墓地の鉄幹の かたわらに葬られる。享年65歳。特 別 展 示 資 料 解 説
人物解説
丹羽 安喜子
(にわ あきこ) 1892(明治25)年3月に三重県津市に生ま れる。1905(同38)年に東京府立第三高等 女学校を卒業し、1909(同42)年に丹羽俊 彦氏と結婚。1919(大正8)年5月に与謝 野鉄幹、晶子に師事し、新詩社の社友と なる。1936(昭和11)年3月に第一歌集『芦 屋より』を出版する。翌年に関西の友人 たちと紫絃社を起こし、1940(同15)年に 芦屋短歌会を起こした。1944(同19)年2 月に第二歌集『低唱』を出版する。1960(同 35)年8月に死去。 (『丹羽記念文庫目録』より)丹羽 俊彦
(にわ としひこ) 1886(明治19)年3月に広島県三原市に生 まれる。慶応義塾大学理財科を卒業し、 千代田生命保険相互会社に入社、関西信 託株式会社に転じ重役も務めた。戦後、 関西学院の財政危機を克服するため、 1945(昭和20)年に関西学院の理事に迎 えられ、1947(同22)年に財務部長に就任(一 時は総務部長も兼務)した。今日の健全 財政主義の路線と、宣教師主導の経営を 引き継ぎ、明確化するのに貢献した。ま た、短歌にも造詣が深く、妻である丹羽 安喜子と共著で歌集『低唱』を出版した。 1971(同46)年4月に死去。 (『関西学院事典』、『低唱』より)帰りし夜も心配に候ひき。夜の一時ごろにまた 近江先生に来てもらひなどいたし候。 風邪などはどこへか飛んでしまひこしつ になる印もつに候が、殺生石の気に遂げざりし ならばなど悔い居り候。 満洲の子が私の立ちし日の夜につきし に候が、その子が電報にてもうちてくれし ならば私はらくゆになりしものを など申候。それ以来、全く気の弱く なり候て、その子十四日に立ちて帰り候ひしに 今夜あたり奉天へつき候べし、帰りて直ち に母の死をきくなどとはよくあることなりなどと 昨夜はそれにてまた神経がたかぶり眠りぐるしく 候ひき。まだ来週までは学校へはまゐるまじく候。 それはこの上もなくさびしく候 知人の多く死なれ候とも私をいかにいのらせ 候ことに候。 歌かいの旅行をわろくいふ人あり候ことの さることもとよりあり候べし。何か悪しく 候べき。写さでつくるより却ってらくならるべく候 去年仙石原にてこゝちわろくなりしも 今にしておもひ候へば、私などの心臓の弱き ものには硫黄泉が強敵なりしに候。 河つの殺生石のある山に候へばいっさん ひそその他おそろしき気の立ち候こと それをおもはざりし無智を恥しく存じ候。 しかも俄なる雪ふり出でて低気圧とも 申すべき、その月の十日気流の中にて私の脈す く なく消えてやうやくによろしく、 12
資料解説
1.
「丹羽安喜子宛与謝野晶子書簡」
1934(昭和9)年1月17日付 (東京市杉並区荻窪の与謝野晶子から芦屋の丹羽 安喜子に送られたもの) [概要]便箋7枚 [翻刻] 安喜子様 御無沙汰をいたし居り候ひしうちに生死 のさかひにまで迷ひ歩みしこと、今は お話になりてしまひしことながら、今年は あはれに候かな。去年か一昨年の、あなた 様にもはやよろしと手紙かき候てその夕 にまたわろくなり候ひしことをおもひ、迷 信にてはなけれど、さることのなきがよろしと おもひ、いかにお案じなされてなど御志を 存じ候 心よりおもひやりながらえふでを とらず候ひき。 箱根ならば塔の沢あたりの唯の湯の却って 心臓の療法としても十分くらゐの入浴が よろしとされ居り候よしにて、子供も 臨床科に変り候て日あさく、そのゝち いろいろ本をよみてまゐり、今は私も たゞ生くる力もえてこしやうに候。 黒磯は山の下四里にてそこより医師を むかへ候こと大変なれば、初めはお願ひして ありしがのちには東京の光をよぶかた よしとて子をよび候て、共にかへりしに候。 (1) (3) ・・・・ ・・ (8) (7) (6) (5) ・・・ (4) (2) (10) (9)来月あたり主人山口県へ一寸まゐるべく、 (外のことにてまゐるなれど) 井上様その旅行の帰路のことなど御けいくゎくを して見んなど申され候ことは年の終りの 話にて候ひしが、私はせめて蘆屋まで ゆきて待ちてゐらるゝほどにからだが なってくれば宜しけれど、少し 無理にて候。子の光が三月には 旅行をしてもよろしなど申し候。 昨夜からは雪にて庭は艶なるおもむきを 見せ候。紅梅が三分ぐらゐ咲き居り候。 風さむく候。あなた様もおからだおいとひ なさるべく候。お電話のせつ石井さんにも 宜しく御つたへ下されたく候。くらまにて 二十日すぎには石井丹羽二氏と会食 が出来んかとあり候ひしがいかがにや。 御主人様にもよろしく御つたへ下されたく候。 あなたの正月の御労をなぐさめ候 晶子 十七日 草々にかきたるに候
2.
「原稿 婦人と短歌」
与謝野晶子著(筆跡は与謝野寛代筆と思われる) [概要]400字詰原稿用紙2枚 草稿「婦人と短歌」は、『女子文壇』などの投 書雑誌に書かれた初心者向けの文章の一部で 13 あろうか。あるいは、講演の要旨であろうか。 古典文学の例を引きながら、「我国の女子の素 質が文学的であり、殊に端的に感情を表現する 短歌に適してゐる」とし、現代の女性にも「奮発」 を望んでいる。また、「私は此のお話の中で、 私が歌を作つてゐる体験について申述べようと思」 うと記されている。ただし、筆跡は与謝野寛の 代筆と思われる。寛の代筆した晶子の草稿は他 にも存在しており、二人の協力関係を示してい るといえる。 掲載誌や執筆時期は未詳である。内容的には、 寛の「和歌は婦人に適す」(1909年4月)と同趣 旨であり、晶子の「女子と詩歌」(1920年2月)・ 「女子と文学」(1929年10月)などとも重なるも のである。なお、作歌について述べた晶子の著 作には、『歌の作りやう』(1915年12月)・『晶子 歌話』(1919年10月)などがある。3.
『みだれ髪』
(初版)
鳳晶子著 (新詩社 1901年) 『みだれ髪』は、1901(明治34)年8月、東京 新詩社・伊藤文友館から発行された、晶子の第 一歌集である。著者名は鳳晶子(奥付では昌子 と誤植)。装丁は洋画家藤島武二によるもので、 巻頭に「表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハ ートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は 詩を意味せるなり」という武二の言が記されて いる。晶子は、一年あまりの『明星』での活躍 をこの歌集にまとめ、若々しい情熱や感情をス トレートに、また絢爛に歌い上げ、ロマンチシ ズムの新しい旗手として注目を浴びた。 3版が、1904(明治37)年9月に、大阪の杉本 書店・金尾文淵堂から発行されているが、この 版において改訂が施され、「訂正改版」として 発行された。著者名も与謝野晶子に変わってい る。本図書館の丹羽記念文庫には、初版・3版・ 4版(1906年10月)の三種類が所蔵されている。 (11) (12) 注 (1)えふでをとらず 「ふでをとれない」の意。「絵筆」ではない。 (2)いろいろ 原文では繰返し符号が使われている。 (3)東京の光 晶子の長男。医師。 (4)近江先生 近江湖雄三博士。産婦人科医。与謝野家の家庭の 医師のような親しい間柄で、「晶子さんは18人ぐ らい産めるのではないか」と言っていたという。 (5)こしつ 固疾 (6)満洲の子 晶子の三男、麟(りん)。奉天(現在は瀋陽)の 奉天図書館に就職が決まって行くことになった。 (7)学校 文化学院。晶子はそこの「学監」で、源氏物語と 短歌の実作についての講義も担当していた。 (8)歌かいの旅行をわろくいふ人 晶子が行く先々で、弟子の家で一宿一飯にあずか ることを非難する人。 「体に悪い」という意味にとることも可能。 (9)河つ 河津 (10)いっさんひそ 一酸化砒素(硫化砒素のことか?) (11)井上様 井上苔渓(たいけい)。与謝野家が旅行する時は いつも企画してくれた旅行代理店のような人。 (12)石井さん 石井柏亭14
4.
『草の夢』
与謝野晶子著 (日本評論社 1922年) 晶子は『晶子歌話』の中で、「特殊な自然の 景色から促されて生じた作者の感動」を「客観 的記述の歌」にしないためには、「感動の象徴化」 が必要であると述べている。「眼前風物」を「あ るが儘」に歌う完成度の高い象徴歌を生み出し ている。5.
『瑠璃光』
(初版)
与謝野晶子著 (アルス 1925年) 自然観照が基調で、歌集の頂点は1923(大正12) 年6月9日に雑誌記者波多野秋子と軽井沢の別 荘で心中した有島武郎の哀悼歌と、同年9月の 大震災の体験にある。流転する「人間生活の真相」 (『砂に書く』)が歌に表現された。6.
『心の遠景』
与謝野晶子著 (日本評論社 1928年) 収録歌数は生前歌集中最多で、また単独歌集 としては最後となった。生活が安定したことに より、晶子は夫や友人たちと短い旅に出かけ、 透明度の高い旅の歌を多く詠んだ。内面の充実 が完成度の高い象徴歌を生み、歌集に結晶した。7.
『白櫻集』
与謝野晶子著 (改造社 1942年) 『白櫻集』の中の「寝園」の世界は、盛りの 枝から真珠貝のごとき光を放って零れてゆく桜 花の淋しい美しさをたたえた歌集中の白眉である。 夫の亡き後、友人たちに誘われてゆく旅の折々 に詠む歌には、愛する人の面影が感じられ、あ われが深い。8.
『芦屋より』
丹羽安喜子著 (益文堂 1936年) 歌集。丹羽安喜子著、与謝野晶子序、自跋。 1936(昭和11)年4月、東京神田、益文堂より刊行。 序文冒頭で晶子は安喜子に対し、「創作の名に ふさわしい真実の歌を作った人として推薦する」 と惜しみない評価を与えている。また、晶子は、 この推薦の辞に続き、歌が新しい芸術品となる 理想の作歌のあり方の定義を述べた後、安喜子 の数ある歌(跋文によれば約三千首)から千百 幾十首をかかる条件のもとで精選したという旨 を書く。すなわち、与謝野晶子こそが、この書 の選者であることを披露しているのである。序 文は続き、このような二人の師弟関係を広く読 者に知らしめるため、晶子と安喜子の邂逅、夫、 与謝野鉄幹と丹羽俊彦も含めた「家族同様」の つきあいとなる経緯を、関西、芦屋文化圏との つながりをも含めて語っている。序文は、夫人 の人となりを称揚したあと、最後に1934(昭和9) 年の大水害の一ヶ月後に詠草が届けられ、鉄幹 とともに驚いたことが付されている。 安喜子は、本書見開きに「与謝野寛先生の霊前 に捧ぐ」と付したうえに、跋文で晶子、鉄幹へ の謝辞とともに、一周忌を迎える鉄幹への哀悼、 文学へ誘ってくれた夫俊彦への感謝を書いている。 本書の出版記念会は、与謝野晶子と本書の表紙 絵を描いた石井柏亭が列席し、1936(昭和11)年 5月2日、大阪倶楽部で盛大に行われている。 今回展示した新出の書簡にある「石井さん」は この「柏亭」と考えられよう。そうなると、上 梓の2年以上前から本書の出版計画がなされて いた可能性が出てくる。文面からうかがえる、 晶子と安喜子の親密な師弟関係、芦屋への思い 入れ、「ご主人様(俊彦氏)」という親族との つきあい方は、本書の序、跋の内容と一致する。 本書の成立意義は、「晶子と安喜子」を固く結 んでいる点である。新出書簡は、その点を裏付 ける資料として興味深いといえる。9.
『低唱』
丹羽俊彦、丹羽安喜子著 (紫絃社 1944年) 歌集。丹羽俊彦・安喜子著、丹羽俊彦前記、丹 羽安喜子後記。1944(昭和19)年2月、京都愛宕 郡鞍馬、紫絃社より刊行。紫絃社は晶子門新詩 社社友。 俊彦三百首、安喜子五百首を入首。後記によれ ば、安喜子五百首は『芦屋より』以降の作品か ら約半数を自選した。俊彦の緒言に初代丹羽宗 兵衛没後三百三十三年のことや、この書を記録 として子々孫々に伝えるということがあること からも、私家版として企図されたといえる。そ れだけに安喜子の内的生活を知る上の貴重な資 料であることは確かである。晶子への思いは、 「師とともに」の35首に詠まれているが、見開 きに付す「昭和8年夏著者邸に於ける与謝野両 先生」の写真が、本書が与謝野晶子三回忌として、 安喜子が晶子の霊前に捧げたものであることを 示している。 1516
1
0.
「石山のたび」
丹羽安喜子著 (1941年) 料紙に安喜子自らの歌を自らちらし書きにし、 それを自ら製本したものと推察できる。11首、 12丁。1丁めに「昭和16年初夏吟行 安喜子」 と墨書する。 歌は『低唱』所収「石山」19首中にすべて入首。 同書所収俊彦歌「石山の旅」の歌とは異なる。 草稿というより、書家安喜子の手慰みと考えら れる。1
1.
『白櫻遺芳』
菅沼宗四郎編 (紫絃社 1943年) 『低唱』を上梓した京都愛宕郡鞍馬、紫絃社よ り1943(昭和18)年9月、刊行。編集者は菅沼宗 四郎。 本書は、関西における晶子門下新詩社同人及び 有志者によって企画された与謝野晶子一回忌に 伴う記念行事(1943年3月2日∼3月7日)を まとめたもの。 行事は与謝野晶子に関する講演会や、追憶の会、 展観等であった。圧巻は同期間に行われた京都 市烏丸七條丸物百貨店五階美術画廊での遺品遺 作展であった。本書の目録によると、ここに展 示された晶子短歌集のほとんどは、丹羽安喜子 もしくは俊彦所有のものであった。もちろん、 安喜子は発起人であり、追憶の会の座談会での 扱いなどから関西晶子門下の重鎮であったこと がわかる。1
2.
『丹羽記念文庫目録』
(関西学院大学図書館 1965年) 丹羽安喜子氏が収集した近代短歌など約3,000 冊の図書・資料が、夫の本学元財務部長丹羽俊 彦氏を通じて本学に寄贈され「丹羽記念文庫」 として大学図書館に所蔵されている。与謝野晶 子と鉄幹に関する図書約150冊を中心に、歌集、 詩集、ならびに雑誌『明星』、『スバル』など、 近代短歌に関する貴重な図書・資料が含まれる。 それらの図書・資料の目録がこの図書である。 後に「丹羽記念文庫」には、与謝野晶子の第一 歌集『みだれ髪』の初版、および与謝野晶子か ら丹羽安喜子宛の書簡が追加された。17
◆1920
(大正9)
年頃
与謝野鉄幹が創設した新詩社の社友として、与謝野晶子が丹羽安喜子の歌の添削を請け負うという 師弟関係が始まる。与謝野夫妻、とくに晶子の添削はとても丁寧で、一首一首を朱で添削し、末尾 に評をつけ、気配りのあるものだったという。 その後、丹羽安喜子は夫・丹羽俊彦氏の外遊中に、富士見町の与謝野邸を訪問し、晶子と会った。
◆1931
(昭和6)
年8月
講演のため高野山へ出かけた与謝野夫妻は、東京から同行した友人と丹羽安喜子を含む関西の社友 とともに、晶子の郷里である和泉の浜寺、大阪、神戸、六甲山と場所を変えながら連日歌会を開催 した。その間に晶子は芦屋の丹羽邸を訪ねているが、神戸の歌会を控えており歌を詠む時間がなか った。安喜子が「芦屋にいらして歌会をしていただく時間がなかったことが大変残念です」と言うと、 晶子は「あの美しい芦屋を歌にもせずに帰ることは残念ですが、そのうち必ず伺います」と述べた という。 芦屋から神戸への道中、与謝野夫妻は沙や松の美しさに感嘆し、鉄幹は「芦屋にて」と題して「車 より白服の人出で来ればいと濃くなりぬ沙の松かげ」と詠んだ。 以後、晶子は安喜子と2∼3ヶ月おきに会ったという。晶子は、安喜子の創作力が驚くほど進歩し、 それを鉄幹とも常に話題にして喜んでいる、と安喜子の第一歌集『芦屋より』の序文で記している。資料から見る与謝野晶子と丹羽安喜子の主な接点
丹羽邸で写真を見る晶子 1933年夏 芦屋の丹羽邸にて 前列右から1人目が丹羽俊彦、 その左後ろが与謝野鉄幹 前列左から2人目が丹羽安喜子、 4人目が与謝野晶子18
◆1932
(昭和7)
年11月
鉄幹は一人で岩国へ行き、その帰りに京都へ寄り、各地から来た友人らとともに鞍馬寺で歌会を催 した。その歌会には安喜子も参加している。◆1933
(昭和8)
年7月
与謝野夫妻は岡山への旅行のあと、7月3日に神戸へ到着。晶子は西宮市立高等女学校での講演後、 芦屋の丹羽邸を訪れた。翌日、京都、四国、堺から多くの歌人らが集まり、芦屋をともに観光した後、 浜を散歩して歌を作った。その次の日、一同が歌の批評を行った後、打出焼の素焼きに与謝野夫妻 が歌を記すという企画が催され、与謝野夫妻の書いたお皿が来会者への贈り物となった。 鉄幹はこの芦屋訪問の1年9ヶ月後に亡くなった。安喜子は鉄幹を再び芦屋へ迎えることができな くなったことを残念に思うと記している。また、丹羽俊彦と晶子は鉄幹を偲ぶ追悼短歌を詠んでいる。 参考文献:「特集 与謝野晶子、芦屋を詠む」加藤隆久著(『関西文學第33号』) 『芦屋より』 丹羽安喜子著(益文堂 1936年) 『低唱』 丹羽俊彦、丹羽安喜子著(紫絃社 1944年) 『白櫻遺芳』菅沼宗四郎著(紫絃社 1943年) 『与謝野寛短歌全集』与謝野寛著(明治書院 1933年) ※上記の他、『与謝野寛晶子書簡集成』(八木書店 2001年−)等からも、与謝野晶子と丹羽安喜 子の交流を窺い知ることができる。 [写真右] 芦屋の丹羽邸にて 右から与謝野晶子、 丹羽安喜子 [写真左] 与謝野鉄幹と関西の諸友とともに 左から2人目が与謝野鉄幹、 右から3人目が丹羽安喜子19