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臨時台湾糖務局の糖業政策

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Academic year: 2021

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(1)臨時台湾糖務局の糖業政策 新福 大健. はじめに.  新渡戸稲造の『糖業改良意見書』により,台湾糖業発展の基本方針が提案され,この実 施が児玉源太郎総督によって決定された。本項では新渡戸稲造の提案がどのように実現さ れ,そして台湾聖業がいかに発展したのか考察することにする。. 1 新渡戸指導下の糖務局による糖業政策.  1901(明治34)年9月に『外業改良意見書』は提出されたが,その柱の1つに唱導奨励 の特別機関である臨時台湾糖務局の設置が含まれていた(1)。これを受けて児玉源太郎 総督は日本政府と交渉し,勅令によって臨時台湾糖務局官制の発布を1902(明治35)年に. 実現した。これに先立ち新渡戸稲造は1901(明治34)年2月に総督府技師,5月に民政部. 殖産課長,11月に官制改革により殖産局長心得となっており,翌年6月17日の臨時台湾 糖務局設置と共に局長に就任した。.  新渡戸稲造による得業政策指導:は1901∼1904(明治34∼37)年に行われ(2),糖務局. 長就任直前の1902年6月!5日に,次に挙げる台湾興業奨励規則が発布されている。   第一條 甘薦ノ耕作又ハ砂糖製造二従事スル者ニシテ台湾総督二歩テ適當ト認ムルモ      ノニ片耳ノ費用二王シテ奨励金ヲ下付ス       一 甘庶苗費又ハ肥料費       二 開墾費       三 灌概費又ハ排水費       四 製糖機械器具費       台湾総督二野テ必要ト認ムルトキハ奨励金二代へ現品ヲ下付又ハ貸付スルコ      トヲ得   第二條 台湾総督ノ定ムル数量:ノ原料ヲ以テ砂糖ノ製造二従事スル者ニハ補助金ヲ下.      付スルコトヲ得   第三條 甘簾耕作ノ為メニ官有地ヲ開墾スル者ニハ之ヲ無償ニテ貸付シ全部成功ノ後      無償ニテ其ノ業主権ヲ畑野ス   第四條 前條二依リ業主権ヲ附與セラレタル者又ハ第一條二依リ開墾費ヲ下付セラレ      タル者ハ台湾総督ノ許可ヲ受クルニ非サレハ其ノ開墾地二於テ甘薦ノ耕作ヲ廃      止スルコトヲ得ス   第五條 甘簾耕作ノ為二灌概又ハ排水工事ヲ施行セントスル土地官有地ナルトキハ無      償ニテ之ヲ其ノ起業者二貸付ス   第六條 此ノ規則二依リ下付シタル現金又ハ下付若クハ貸付シタル現品ハ之ヲ他ノ目. 一16一.

(2)      的二消費届出使用スルコトヲ得ス   第七條 薦園ノ姦凶又ハ排水二関シ奨励金又ハ現品ノ下イ寸若クハ貸付ヲ受ケタル者ハ.      台湾総督ノ許可ヲ受クルニ非サレハ其ノ薦園二他物ヲ耕作シ又ハ其ノ薦園以外      二灌潮iスルコトヲ得ス.   第八條 製糖機械器具費又ハ現品ノ下付若クハ貸付ヲ受ケタルモノ並二第二條二心リ      補助金ヲ受ケタルモノハ台湾総督ノ許可ヲ受クルニ非サレハ廃業シ又ハ製糖季      面一期間以上二渉リ休業スルコトヲ得ス   第九條 第四條i乃至第八條ノ規定ハ之ヲ其ノ承継人二適用ス   第十條 此規則二依リ下イ寸法ラルヘキ現金及ヒ下付セラレタル現品ハ第三者ノ権利ノ      為メ之ヲ差押ノ目的ト為スコトヲ得ス.   第十一條 台湾総督ハ此ノ規則二依リ奨励金,補助金又ハ現品ノ下付若クハ貸付ヲ受       ケタル者二封シ糖業二関シ必要ナル事項一壷命令ヲ発スルコトヲ得   第十二條 第四條及第六條乃至第八面詰ハ此ノ規則二八キデ発スル命令二違反シタル       トキハ台湾総督ハ奨励金又ハ補助金ノ停止若ハ返還又ハ土地現品ノ返還ヲ命       スルコトヲ得   第十三條 此ノ規則又ハ此ノ規則二基キテ発スル命令二面リタル処分二封シテハ損害       賠償ヲ要求スルコトヲ得ス.   第十四條 此ノ規則二定ムルモノノ外必要ナル規定ハ台湾総督之ヲ定ム  第1条では,甘蘇栽培・製糖に関する費用又は現品を下付することが定められている。 これは新渡戸稲造の『意見書』全体にわたる提言の具現化である。.  第2条では,一定以上の製造量がある製糖場へは補助金を付与することを規定している ことから,『糖業改良意見書』の「第六 製糖法の改善」が実現したものである。.  第3丁目は,甘薦耕作のための官有地開墾は無償にて貸し付け,開墾成功後には業主権 を与えるとされている。これは『糖業改良意見書』の「第五 甘薦園に適する土地の新墾 を奨励する事」に該当する。.  第4条では,業主権を与えられた土地,または総督府から開墾費を補助された土地につ いては総督府の許可なく蘇作をやめることが禁じられている。ここに面作面積を増やした いという総督府の意向を読み取ることができる。.  第5条では,幽幽のために寄島・排水工事を実施する土地が官有地の場合は無償で土地 を貸し付けることが規定されている。.  第6条は,この規則で交付または貸し付けられた現金・物尽の目的外使用の禁止である。.  第7条も灌概・排水で総督府の補助を受けた場合は総督府の許可なく薦作以外の耕作を 禁止している。.  第8条では,補助を受けた糖業者の無許可廃業・休業の禁止が規定されている。.  第9条は,第三者が事業を引き継ぐ場合,第4条から第8条までの規定は事業を受け継 ぐ者に適用されると定められている。. 一17一.

(3)  第10条では,総督府からの補助金または現物は差し押さえることができないとされ,薦 農が総督府の補助を受けて耕作が続けられることが保証されている。.  第11条では,総督府から補助を受けた者は総督府の指示に従わなくてはならないことが 規定されている。.  第12条では,第4条,第6条,第8条,または総督府の命令に違反した場合は,補助金 の停止や返還,土地や現品の返還を命じられると定められている。.  第13条は,この規則や総督の命令で損害を受けても,賠償請求はできない規定である。  第14条では,この規則以外でも必要な事項は総督が定めるとしている。  このように糖業奨励規則は新渡戸稲造の立案した『糖業改良意見書』の奨励事項をほぼ 完全に含んでいる。その奨励内容は,台湾総督府は薦作・製糖に従事する者に対し様々な 面で補助を与え,他方で補助を受けた糖業者は総督府の指導に服さなくてはならないこと も規定していた。このように糖業保護・奨励と共に総督府による製糖業への統制,言い換 えるならば総督府指導下での糖業発展を打ち出している点が糖業奨励規則の特徴として挙 げられる。.  これに先立っ1900(明治33)年から,台湾総督府は製糖会社及び製糖所補助として,台. 湾最初の新式製糖会社である台湾製糖株式会社への補助金支出を始めていた。また1901 年には糖務局設置に先駆け,罪業の中心地である台南に殖産局出張所を設けて,甘庶耕:作 ・砂糖製造の改良試験並びに奨励に関する事項や補助金を受ける糖業者への監督を行って いた。さらに出張所には甘庶試験苗圃を設置し,輸入薦苗の育成にも努めていた。  新渡戸の構想では,臨時台湾雑務局の設置期間は10年間とし,最:初の5年間は製糖分野. に重点を置き,糖務局を設置している10年間で製糖業全体の改良を実現しようという構想 であった(3)。新渡戸の在任中に始まった台湾総督府による糖業保護政策には以下の内 容がある(4)。. ①製糖会社及び製糖所補助:製糖会社や製糖所が操業当初に機械等を購入するため巨額の    資金が必要となったときに補助。1900∼08年まで実施した。. ②種苗補助:甘薦品種改良のため1902∼13年に実施した。1902∼07年は現品を,1908    ∼12年は現金と現品を,1913年は現金を下付した。 ③肥料補助:本島人農民に肥料の観念と習慣を認識させるため,主に共同購…入の方法で補    助,又は現品配布。1902∼玉6年に実施した.. ④灌概排水補助:甘庶耕作用土地へ灌概排水工事を推進するための補助。1902∼04年,    1907∼08年,1910∼30年まで実施した。 (5). ⑤開i墾補助:新規に開墾し庶園を開設する者への補助。1902∼08年に下付。この他糖業    奨励規則で官有荒蕪地を無償貸付したものが9,214甲,そのうち業主権を与えられ   ・たものが7,552甲あった。. ⑥模範薦園耕作費補助:糖務局開設前に殖産局で篤農家を指導して甘薦挙の模範を示すた    めに,甘蘇苗,肥料,耕作費を補助。1901年に実施した。. 一18一.

(4) ⑦製糖機械購i入補助:製糖機械購入に対する補助。1902∼09年に実施した。  表1は新渡戸稲造在任中に始まった糖業補助について丁年の推移を表したものである。 【表1】 新渡戸稲造台湾総督府在任中の丁丁補助 年   代 ①製融社1製糖所禰 補助項目. 1900    1901 両年で85,881円(6). 1902 59,600. 1903. 1904. 56,122. 54,400. ②種苗補助. }. 皿. ③肥料補助. 一. 一. 16,513. 20,117. 2,216. ④灌概排水補助. 一. 一. 5,566. 6,946. 1,500. ⑤開墾補助. 一. 一. 1,080. 4,480. 一. 2,000. 一. 一. 一. 一. 一. 22,706. 56,110. 77,230. ⑥模池園耕作高点. ⑦製礁購入襯. 5,416,098. 642. 3,526,030. 3,466,320.   (出典) 『台湾詩業統計』第26(台湾総督府殖産局特産課,1938年),他   注:池中の①∼⑦は本文中の項目①∼⑦に対応する。①・③∼⑦は金額(単位:円),.     ②は本数 これによると,まず製糖会社・製糖所への補助金が大きな割合を占めていることが分かる。. これについては,台湾総督府から台湾最初の新式製糖会社である台湾製糖株式会社へ初年 度の1900年には玉2,000円を,都合5年間は毎年最大で30,000円を補助することが明示さ れており(7),1906年までは大規模な新式製糖会社は設立されていないことから,各年. 度の製糖会社及び製糖所補助から台湾製糖株式会社へ総督府が補助した金額を差し引く と,台湾製糖への補助金に近い額の補助金が糖廓と呼ばれる小規模製糖所へ支出されたも のと考えられる(8)。このことから,大規模製糖所を育成しながらも,当面は糖廓によ る甘薦生産を奨励することによって製糖量の増加を図ろうとしていたことが分かる。つま り新渡戸稲造の糖業政策実施当初の段階では,砂糖生産の中心は糖廓であった。.  これに対し農業分野においては開墾補助以外の項目は,補助を始めた1902年当初に比べ 1904年は大幅に減少している。このことからは糖務局が勧める外国種の薦苗・肥料・灌潮i などの新たな耕作方法は,農民にとってこれまで以.ヒの耕作費の支出が必要となるため,. 農民はこの支出を避けようとしたものと考えられ,従来の耕作方法に固執していた農民の 姿を想起することができる。.  次頁の表2は領最初期から新渡戸稲造が糖務局長として在任していた時期までの台湾糖 業の推移である。甘庶栽培面積については不明な年もあるが,産糖量の推移からおよその 傾向はつかむことができよう。因みに産十三については製糖年度は11月から翌年10,月ま. でとなるので,表2では前年の面積・割合が産糖量に反映していると考えてよかろう。総 耕地面積は新渡戸が台湾に赴任する前年の1900年までは減少傾向が続き,その後増加に転. じている。門門量も1899年にはいったん大きく増加するが1900年は大きく落ち込み,そ の後は減少する年もあるが傾向としては増加に転じている。. 一19一.

(5) 【表2】. 領台初期から新渡戸在任中までの耕地面積と産糖量の推移. 年代. 総耕踊積 臆栽培酪 繍魎積物騰の諾 産糖量                       単位:面積は甲,産糖量は. 1897. ? ?                         担,割合は% 779,942 429,282. 1898. 414,302. ?. ?. 683,499.                            (出典)『台湾糖業概観』 4.56 玉899 i6,576 815,102 363,290 ? ?                              1929年,pp.68∼69 1900 445,380 358,182.                             注:1895∼97年の耕地面 1901 6.75 26,167 387,568 585,145                             積は清朝時代の1890年の 1902 3.66 16,526 908,704 451,032                             面積が続いているため, 1903 3.92 506,805 21,594 550,723.                             1897年以降を掲載 3.8フ 1904 644,691 24,977 758β43.  表1・表2から読み取ることができることは,第一に近代的な製糖会社,或いは従来の 糖廊を機械化した改良糖廓に育成することにより,砂糖製造の基礎を確立しようとしたこ とである。次に甘庶栽培面積拡大のための開墾補助は,人口に比して耕地面積が狭く労働 集約的農業を行っていた台湾においては,補助金の支出が農民の耕作意欲を刺激し,これ が補助金の増額と面積の拡大として現れたことを読み取ることができる。3点目としては 藤苗補助としての現品の配布・灌慨補助・肥料補助などを計画し実施したものの,この時 点では農民はあまり積極的に利用したとは認められないことである。.  新渡戸稲造時代の台湾糖業保護政策は,開墾の奨励,製糖会社や糖廓という製糖所への 補助により一定の成果を上げることはできた。しかし新渡戸自身が『糖業改良意見書』で 「之を現状に照らすも在来種中戸薦の竹庶に優るは多衆の熟知せる所なるにも係はらす,. 徒に栽培の労と肥料の多きとを厭ひ,寧ろ劣等なる竹蘇を植へ粗放的農業を営めるを観れ ば,紅蕨よりも一層集約的ならざるべからざる外国種を以て之に代ふるに於いては,必ず 多少の困難なき能はさるべし1と述べていたように,新渡戸稲造指導下にあった初期の糖 務局では,台湾農民が旧来の耕作方法を放棄し新耕作方法へ転換することは,まだ難しか ったのが現実であったといえよう。. II新渡戸稲造離任後の糖務局による三業政策  新渡戸稲造が1904年に内地へ去った後は,殖産局長の祝辰巳が糖務局長に就任し糖業政 策を指導した。祝辰巳の後は大島久満次,内田嘉吉などの民政長官が兼務することになっ た。.  新渡戸稲造の退任後,臨時台湾丁丁局において実施された糖業政策の中で最も大きな影 響力を持ったものは,1905年に発布された製糖場取締規則であった。以下はその条文であ る。.   第一條 全部又バー部新式機械ヲ白白シ製糖場ヲ設立セントスル者ハ此規則二依り臨      時台湾糖務局長ノ許可ヲ受クヘシ設立後工揚ノ設計ヲ変更セントスル場合亦同. 一20一.

(6)      シ       許可ヲ受ケスシテ前項ノ製糖場ヲ設立シ又目零ノ変更ヲナシタルモノアルト      キハ臨時台湾糖務局長ハ何時ニチモ早筆取管掌ハ変更ヲ命スルコトヲ得   第二條 前条ノ許可ヲ受ケントスル者ハ第一号又ハ第二号書式二依リ願書及其ノ附属      書類ヲ調製シ所轄地方磨二差出スヘシ       地方磨二於テ前項ノ願書ヲ受理シタルトキハ意見ヲ附シ之ヲ臨時台湾糖務局      長二送致スヘシ   第三号 臨時台湾糖務局長ハ製糖場ノ設立又ハ変更ノ許可ヲ與ヘタル場合ニハ其ノ原      料採取区域ヲ限定スヘシ       原料採取区域内険難テハ臨時台湾糖務局長ノ許可ヲ受ケスシテ在来ノ構造二      依ル糖廊ヲ設立スルコトヲ得ス       原料採取区域内ノ甘薦ハ臨時台湾糖務局長ノ許可ヲ受ケスシテ之ヲ区域外二      搬出シ華甲砂糖以外ノ製造用原料二供スルコトヲ得ス   第四條 前視第一項二依リ原料採取区域ヲ限定シ又ハ其ノ区域ヲ変更シタルトキハ台      湾総督府報二之ヲ公示スヘシ   第五條 第一條第一項及第三條第二項第三項二違背シタル骨屋戴尊卑以下ノ罰金二三      ス.   附則  既設ノ製糖軍馬シテ第一條二該當スル者ハ本令施行後三箇月内二本令ノ規定      二依リ許可ヲ受クヘシ  第1条では,新式機械を用いて製糖場を設立するときは糖務局長の許可が必要なこと, 許可なく製糖場を設立した場合は取り払いや変更を糖務局長から命じられることが規定さ れている。この規則により自由な製糖場設立が不可能になったことから,総督府から糖廓 と呼ばれる製糖場設立の動きを抑制する方向の政策が出ていたことを知ることができる。. その背景にあるのは,旧式糖廓の急増と日本資本の進出である。紫野の表3は製糖所数と 甘庶栽培面積・産糖量の推移であるが,旧式糖廓は糖=業奨励規則発布後に急速に増え,1906. 年頃から減少している。これに対し,改良糖廓は1905年頃から出現して1911年頃まで増 加している。このように雌牛が急増することによって,大規模に砂糖生産を行う製糖会社 の進出する余地がなくなることを防ぐため,第1条は設けられたと考えられる。また日本 資本を中心に新式製糖工場も1905年には7工場が設置されており,糖廊よりも大量生産が 可能になる新式製糖会社に臨時台湾事務局の期待が集まっていたものと考えられる。.  第2条では,製糖場設立許可を受ける場合は願書を地方庁に提出し,地方庁は意見をつ けて専務局長に送ることとされている。.  第3条は,糖務局長が製糖場設立や変更の許可を与えた場合は原料採取区域を設定する こと,原料採取区域内では糖務局長の許可なく糖廓設立はできないこと,原料採取区域内 の甘薦は糖務局長の許可なく区域外への搬出・砂糖製造以外の使用を禁止する規定である。. これによって区域内の農民が甘蘇を栽培した場合は,区域の製糖所へ売却が義務づけられ 一21一.

(7) 【表3】 糖廊・新式製糖会社工場数と甘薦栽培面積・産糖量の推移 年代. 細式糖廊. 1902. 894. }. 1903. 899. 一. 1904. 1029. 1905. 1055. 1906. 改良壷振. 新熔融肛騒. 甘露培面積. 甘詠唱高. 産糖高. 1. 16,526. 6831,579. 506,806. 1. 21,594. 10,749,749. 758,344. 2. 24,977. 10,722,234. 826,327. 4. 7. 35,158. 16,902,067. 1,273,884. IIOO. 52. 8. 30,391. 38,364,808. 1,064,613. 1907. 878. 60. 8. 28,704. 14,188,608. 1,092,015. 1908. 847. 61. 9. 39,035. 22,194,715. 2,038,797. 1909. 582. 40. 16. 63,411. 36,014,966. 3,404,019. 1910. 663. 69. 17. 89,445. 47,152,552. 4,505,647. 1911. 499. 74. 22. 75,329. 31,595,986. 2,926,453. 1912. 212. 50. 29. 67,358. 15,305,180. 1,191,492. 一.   (出典)糖廓・工場数は山根幸夫「新渡戸稲造と台湾糖業政策」 (東京女子大学新渡.   戸稲造研究会編『新渡戸稲造研究』春秋社,1969年),甘薦栽培面積から産糖高まで   は『台湾事業統計 第18』より引用   単位:糖廓・工場数は実数,甘薦栽培面積は甲,甘薦収穫i高・産糖高は担(1甲は約.     1ha,1担は約60kg) ることになった。.  第4条では,原料採取区域の設定・変更は総督府報で公示することが定められている。.  第5条では,規定に違反した場合は200円以下の罰金とされている。違反者に高額の罰 金を科すこのような規定が設けられた理由は,台湾製糖が最初の工場を設置した際に製糖 原料を確保することに苦しんだことと関係があるものと考えられる(9)。  この製糖場取締規則により,新式製糖会社はその必要とする製糖原料を確保することが 可能になった。逆に糖廓,特に旧式糖廊にとっては甘庶栽培に適した地域は製糖会社の原 料採取区域とされ,旧式糖廓は排除されていくため,糖廊の衰退を決定づけることになっ たといえよう。.  この原料採取区域制度について,〉余照彦氏は次のように指摘している(10)。.   (原料採取区域制度は)区域内の庶作農家にその栽培した甘蘇を政府指定の域内製糖   場へ必ず売り渡さねばならないという法的義務を負わせることを意味する。その点で   同制度は,いわば糖業資本の原料買占独占の権力的補償であった。. つまり製糖会社の力が強大になる根源がこの制度であると主張しているのである。これに 対し台湾総督府の『台湾糖業概要』では原料採取区域制度を次のように評価している(11)。.   此の区域制度に封しては製糖自社をして庶価を墾断せしめ自然薦農を圧迫するものの   如く説く者もあるが,之は皮相の見であって事実上製糖業者が徒に薦農を圧迫し庶価. 一22一.

(8)   を墾断ずるに於いては,米其他の対抗作物との収益採算上農家は薦作を廃止するに至   るべく,結局製糖業者は困難にして危険を伴ふ原料自給法にあらずんば其の業務を継   続遂行する能はざるに至るの弱点がある,故に會社は容易に庶価を引き下げ得ないの.   みか割増金奨励補助等各種の手段を尽くして斜面を優遇し原料確保の安固を図る一   方,原料採取鉄道敷設其他製糖場として必要なる設備に安んじて巨資を投ずることを   得るのである。斯くて製糖業者と篤農とは其の利害関係頗る緊密となり所謂共存共栄   の実を挙ぐるに至るべく,今日までの事実に徴するに却って農家に制せられて製糖會   社が蘇価引き上げを余儀iなくされた事実こそあれ,薦価を墾痒して農民を圧迫したこ   とは絶えて無いのである。. これによると,製糖会社が薦農を圧迫して甘薦買収価格を引き下げると,薦農は米などの 甘煮より収益の上がる作物に走り庶作を廃止するため,製糖会社は原料を自給しない限り は経営ができなくなる。そのため製糖会社はなかなか丸紅買収価格を引き下げられない上 に,割増金・奨励金などで薦農を優遇して原料確保をしていることを指摘している。筆者 は『台湾本業概要』が当時の製糖会社と薦農の関係を述べている内容について,完全に正 確とは言えない箇所もあると考える。それは「製糖會社が薦画引き上げを余儀なくされた 事実こそあれ,庶価を畑島して農民を圧迫したことは絶えて無い」の部分である。製糖会 社が台湾糖を海外へ輸出するためには外国糖との対抗上,できるだけ安い価格で販売する 必要があり,そのためには原料の甘薦買収価格を引き下げることがどうしても必要であっ た。しかし製糖会社が買収価格を引き下げれば鳴虫には作物を選択する自由があるため, 『台湾糖業概要』で指摘されている通り,農民は米などの甘庶以外の作物の栽培に走って しまう可能性は多分にあった。そこで製糖会社は買収価格を引き下げる一方で,割増金・. 奨励金を支給することにより,農民を庶作に繋ぎ留めようとしていたということで,完全 な保護ではないが転作をできるだけ食い止めるための奨励策が行われた(12)。他方農民 にとっては作物を選択する自由はあるものの,薦作をすれば製糖会社は必ず甘薦を買収し なくてはならないため販路は確保されており,これは見方を変えると農民にとって最低限 度の収入は確保できるということを意味すると考えられる。また製糖会社は生産量を増加 させるために,庶農に優良な蘇苗や肥料の配布,灌概・排水施設の整備等を進めたため, この点でも農民にとって当作は利点があったといえよう。〉余照彦氏の主張は薦農が自ら製. 糖過程に携わり,製品を受け取ることができた分糖法が農民にとっては利益があったとい う前提でなされているものと考えられ,当時の実態を正確に把握していないものと考えら れる(13)。この原料採取区域制度に対する評価については,当時の農民の収支計算など のさらに詳しい経営分析を行い,実態を解明する余地がある(14)。今後の課題としたい。.  製糖場取締規則の実施で新式製糖会社の発展を促す傾向が強まった,新渡戸離任後の糖 務局により行われた糖業保護・奨励政策には以下の項目がある(15)。. ①改良糖廓取払補助=新式製糖工場創業により,原料採取区域内にある既設の改良糖廓は    取り払わなくてはならないが,その際に改良糖廓側から新式製糖工場側へ補償金と 一23一.

(9)    しての賠償が請求される。しかし新式製糖会社側も創業当初のため資金繰りが苦し    いため,総督府が相当額の補助を与えて解決した。1908∼10年掛実施した。. ②原料糖補助1新式工場が次々に操業を開始し,これに伴い砂糖生産が激増して国内需要    を超える勢いとなったが,ジャワ糖の方が価格が安いため海外輸出は難しく,また.    当時の関税制度では外国糖を輸出用精製糖原料にする場合は輸入税の払戻があっ    た。この輸入税の払戻は国内精製罪業を保護するために,外国へ輸出する精製糖に    ついては原料輸入時に課せられていた輸入税相当金額を精製糖会社へ払い戻してい    たものである。これにより精製糖会社は輸入税分の値引きが可能になり,外国糖と    も対抗できた。しかしその制度下では台湾産原料糖は不利となるため,輸入税と同    じ割合の補助を台湾産原料糖へ与えたものである。1910∼11年に実施した。. ③原料消費補助:新式製糖工場創業当初は台湾の甘薦収穫率は1甲当たり4∼5万斤で,.    ジャワ糖の約3分の1,原料買収価格もジャワ糖の2倍になった。そのため第2種    糖の価格は外国糖に対して100斤当たり2円50銭の関税をかけても、台湾糖は約    80銭高かった。そこで第2種直接消費糖(いわゆる分蜜粗糖)に対し原料1,000斤    に付き1円を補助して内地への移出価格を値引かせた。1910年だけ実施した。 ④農具補助:改良農具の使用を奨励するため購入費の一部を補助,又は当局から購…入して.    これを貸し付けるに当たり運搬費を補助。1909年,1911∼14年置1916年に実施。 ⑤模範簾園標木補助:模範薦園の位置,耕作者の氏名・住所を分かりやすいように一定の    標木を建てるための調製及び運搬費の補助。監督のしゃすさ,或いは耕作者や他の.    耕作者の向上心を促すことで,模範薦園設置の目的を達成するため1911∼14年に    実施した。. ⑥甘庶品評会補助=農会やその他の団体で甘薦品評会を実施するのに対し,報奨金その他    を補助。1908年,1910年,1913年,1915年に実施した。  次頁の表4は新渡戸稲造離任後の農務局による糖業補助をまとめたものである。  これによると前半は新渡戸の時代から継続されていた製糖会社及び製糖:場補助,種苗補. 助,製糖機械補助の金額が大きいことが注目される。これは表4に表れているように,旧 式糖廓の増設・改良糖廓の新設により製糖会社及び製糖場補助・製糖機械補助が増えたも のと考えられる。種苗補助の増加が意味するものは外国産薦苗の普及である。ローズバン ブーの普及は1912−13年期には全巻園面積の96.2%を超えるまでになり,台湾全土にほぼ. 完全に行き渡ることになった(16)。これは台湾人庶農に外国種薦苗の有利さが認識され るようになった結果である。後半の時期は肥料補助の増加,改良外廓取払補助・原料糖補 助や外国糖に対して割高な台湾糖の原料消費,つまり製糖に関する費用に対して支給する 補助としての原料消費補助が新設されていることが特徴としてあげられる。肥料補助の増 額は施肥の習慣が一般化したことを意味し,また改良糖廓取払補助の新設は新式製糖工場 増設と関連しているものと考えられる。また外国種の普及・施肥の一般化や大規模な製糖 工場の増設により産糖量が急増したことを受けて,総督府が原料糖や原料消費のために補. 一24一.

(10) 【表4】 新渡戸稲造離任後の糖務局による補助(1905∼11年) 囎 製糖会社・製糖踊助. 種苗補助 肥料補助 灌軍水禰. 開墾補助 製糖鰍補助. 改贈取隅田. 原料糖補助. 1905. 玉906. 1907. 1908. 84,650. 56,400. 2玉,000. 36,000. 24,884,000 20,497,100 14,568. 26,604. 1909. 1911. 一. 一. 一. 75,000. 3,807,000. 482,823. 574,152. 一. 4,318. 34,756. 一. 皿. }. 一. 一. 980,000. 2,862,187. 6,066,964. 164,254. 406,040. 621,959. 23,870. 11,157. }. 一. 2,419. 1,240. 5,673. 167,532. 182,411. 6,760. 18,134. 20,272. 一. 一. 一. 83,009. 67,302. 一. 1910. 52,618. 一. 一. 一. }. 一. 一. 481,057. 2,630,877. 一. 一. ㎜. 一. 一. 1,351,983. 皿. 農具補助. }. }. 一. 一. 15,506. 5,024. 模鰭麟欄助. 一. 一. 一. 一. 一. 一. 1,435. 5,000. 一. 6,000. 原料消費緻. 騰品評会禰. 一. 215. 一.   (出典) 『台湾糖業統計』第26(台湾総督府殖産局特産課,1938年)より作成.     単位1種苗補助は本数,他は円     注:二重線より上は新渡戸稲造時代からの継続,下は新渡戸稲造離任後始めたも      のを示す。. 助金を下付することで製糖会社の過剰糖に対処しようとしたことを読み取ることが出来 る。.  このように新渡戸稲造の政策は彼の離任後に,よりはつきりとその効果を現した。しか し原料糖補助・原料消費補助に見られるように,台湾産山:の処分方法に対しても補助が与. えられるようになったことから,台湾糖業の発展は新渡戸稲造が想像していた内地の直接 消費糖の需要を満たす範囲を超えてしまったといえるであろう。. 皿 産糖組合規則の内容  以上見てきたように臨時台湾糖務局の糖業政策は,新渡戸稲造の『糖業改良意見書』を ほぼ完全に実現したものであり,『糖業改良意見書』を実現することによって台湾糖業は 急速な発展を遂げた。矢内原忠雄氏は臨時台湾糖務局の糖業政策について, 「新渡戸博士. の意見中甘薦作者による製糖組合(協同的生産組合),材価公定,及び甘薦保険を除き他 の項目はすタて実現せられたのである。すなわち結果に於て資本家的企業の保護に帰した のである」 (17)として,新渡戸稲造が提案した総督府による甘薦価格公定,産業組合の. 準備,甘蘇保険の設置については実現しなかったと主張している。しかし甘庶価格公定に ついては,次の興味深い史料がある。.   一 打狗共同検査所設置ノ件 一25一.

(11)      打狗共同検査所ヲ設置スル事並二甘薦保護廃止ノ上ハ原料買入値段二関シ其筋      ノ干渉ヲ止メラレ度民政長官二請願スルノニ件ハ在台ノ山本會長二架電シテ便      宜ノ配慮ヲ煩ハス事     右可決 これは1910(明治43)年10月に成立する台湾糖:業連合会における第4回協議会(1910[明. 治43]年10月22カ日の決議録である。この史料によると糖業連合会は検糖所の設置と共 に, 「其筋」が製糖会社の甘薦買収価格に干渉することをやめるように総督府に申し入れ. ることを決議している。ここで言う「其筋」が台湾総督府,或いは臨時台湾糖務局を指す ものなのか,それとも農会などの機関を指すものであるかは不明である。しかし何らかの. 公的な機関によって製糖会社の甘庶買収価格が指導されていたことを窺わせるものであ る。このような「其筋」に関する記載は野業連合会発足当初のみに見られ,第4回協議会 以後はこのような記事は見られなくなる。しかし製糖所取締に関する全部新式製糖場設立. 許可命令下物には第10条で   第十條 毎営業年度二三ル事業ノ豫定収支豫算ハ其ノ年度ノ始メニ於テ又事業ノ行程      及決算ハ年度ノ経過後二箇月以内二台湾総督二報告スヘシ と規定され,さらにその中の「一 原料二関スル事項」では甘庶買収について以下の規定 がある。.   丙 買収原料      蘇園ノ甲数及収穫斤量(甘庶種別).      原料買収ノ方法      原料ノ標準等級及価格      買収斤量等級別 このことから全部新式製糖場(いわゆる製糖会社)は台湾総督に甘薦買収価格を報告する 義務を負っていたことが分かる。また同第3条では次のように規定されている。   第三條 台湾総督ハ原料ノ採取ノ砂糖製造其ノ他事業経営上二必要ト認ムル施設又ハ      方法ヲ命令スルコトアルヘシ この規定によると製糖会社の経営に関し,総督が命令する権限を持っていたことが分かる。. そのため特等連合会の第4回協議会決議案のように、総督府が製糖会社の甘薦買収価格に 介入していたことが可能性としてはあり得る。このことについては今後さらに検討を要す る課題であると考えるものである。.  また産糖組合については,台湾総督府の法令としては発布されていないが,いくつかの 地方庁において規則が作成され,実際に施行されている(18)。その例として塩水港庁の ものを挙げてみたい(19)。.   塩水港磨令第一号   糖業組合規則左ノ通り定ム    明治三十六年二月二十八日    塩水港磨長 村上先. 一26一.

(12)   三業組合規則. 第一條 此ノ規則二於テ糖業者ト称スルハ甘薦ヲ耕作シ,予察砂糖ヲ製造シ若ハ販費    スルヲ業トスルヲ爲ス者ヲ云フ. 第二條 事業者ハ業務上ノ弊害ヲ矯正シテ糖業ノ発達進歩ヲ図り同業者共同ノ利益ヲ    増進スルヲ以テ目的ト爲シ組合ヲ設置スヘシ 第三條 組合設置地域八三長之ヲ指定ス.     指定区域外ノ糖業者ハ組合ヲ設置セサルモ妨ケナシ. 第四條 指定区域内二在リテハ組合二加入スルニ非サレハ糖業ヲ営ムコトヲ得ス 第五條 業態ヲ親鳥スル者ハ磨長ノ許可ヲ得テ各別二組合ヲ設置スルコトヲ得 第六條 組合ヲ設置セントスルトキハ創立総会ヲ開キ規約ヲ協定シテ庁長ノ認可ヲ受    クヘシ. 第七條 組合規約昌昌左ノ事項ヲ記載シ組合員部属署名捺印スヘシ     一 組織     二 区域     三 名称及事務所位置     四 目的.     五組合員ノ証標及組合ノ標章二関スル規定     六 業務取扱二関スル規定     七 組合ノ機関二関スル規定     八 取引上ノ紛議仲裁二関スル規定     九 違約者処分二関スル規定     十 経費賦課徴収二関スル規定      其他必要ナル規定 第八條 組合ハ組合員名簿ヲ作成シテ之ヲ事務所二具へ其ノ副本ヲ當磨二提出スヘシ                                   ママ     名簿ニハ組合員ノ住所,氏名及螢業ノ種類,其ノ他必要ナ事項ヲ記載ツヘシ. 第九條名簿ヲ加除訂正シタルトキハ其ノ都度當廉二届出ツヘシ 第十條 組合ハ組合相互ノ気脈ヲ通シ其ノ目的ヲ達スル爲聯合組合ヲ設置スルコトヲ   .得.     聯合組合會ヲ設置セントスルトキハ其ノ設立総會ヲ開キ協約ヲ協定シテ廉長    ノ認可ヲ受クヘシ 第十一條 組合及聯合組合會ノ規約ヲ変更セントスルトキハ其ノ各規約ノ規定二從ヒ     之ヲ協定シテ磨長ノ認可ヲ受クヘシ 第十二條 組合及聯合組合會ハ組合中ヨリ組長,副組長各一名,幹事及評議員若干名     ヲ撰任シテ廉長二届出ツヘシ其ノ改撰ヲ行ヒタルトキ亦同シ 第十三條 組合及組合員ノ経費ノ豫算ハ其ノ規約ノ規定二三ヒ之ヲ協定シテ磨長ノ認     可ヲ受クヘシ. 一27一.

(13)       経費ノ決算及業務成昏惑毎年組合二公示シ且磨長二報告スヘシ  第1条では,糖業者を三農と製糖業者・砂糖販売業者と定義している。  第2条では,組合の目的を,業務上の弊害を改良し糖業者の利益を図ることとしている。.  第3条では,組合の設置地域は庁長が指定し,指定区域外の糖業者は組合設置の義務は ないとされている。.  第4条では,庁長が設定した区域内では必ず組合に加入することが定められている。  第5条では,庁長の許可があれば業種毎,つまり農民,製糖業者,砂糖業者がそれぞれ 個別に組合を作ることが認められている。.  第6条は,組合設置の際は設立総会を開き,規約を作って庁長の許可を受けることを定 めている。.  第7条は,規約作成に必要な事項を定めている。.  第8条では,組合は必要事項を記載した名簿を作り,その副本は庁に提出することが規 定されている。.  第9条は,名簿の訂正があった場合は,その都度庁に届け出る規定である。  第10条では,組合が結集して連合組合を作ることができることも規定されている。  第11条は,規約変更の場合は庁長へ届け出る規定である。  第12条は,組合組織に関する規定である。.  第13条は,組合の予算は協定後に年長へ届け出て,決算や業務成績も公示すると共に庁 長への報告を義務づけている。.  こうして藤津の独自の組織として活動した糖業組合であるが,1906(明治39)年には糖 業組合規則が廃止されたことが明らかになっている(20)。その理由としては台湾総督府 から塩水港庁へ「民問の団体について庁がその規則を定めるべきではない」と指示があっ たためとされている。糖業組合規則廃止後の糖業組合の活動は不明であるが,『台湾糖業 概観』では「何れもきわめて一部の地方に局限せられ,その後新式製糖会社の続出と共に 漸次影を潜むるに至った」 (21)としていることから,間もなく消滅したものと考えられ る。.  一度は地方庁で糖業組合規則を制定することを認めていた台湾総督府が,一転してこれ を否定した理由には何があったのであろうか。これは今後史料的に補充し充分な検討が必 要であるが,先の『台湾糖業概観』で述べられているように,新式製糖会社の勃興と関係 があるのではなかろうか。つまり新式製糖会社の工場が進出する際,既述したように先発 の糖廓と原料を巡る争いが起きた。そのため総督府は製糖場取締規則を制定して区域内の 糖廓を撤廃させる方針を取ることで,新式製糖工場の原料を確保した。これに対し難業組 合規則では,糖業組合が団結して連合組合を組織することを認めていたため,連合組合が 新式製糖会社と競合する,或いは新式製糖会社が進出した場合は糖廓取払の際に通常より 高額の補償を請求される可能性があったことが予測される。そのため新式製糖会社の進出 を容易にするため,台湾総督府は地方庁が制定した糖業組合規則を廃止させ,組合の弱体. 一28一.

(14) 化を図ったとの見方も成り立つのではないか,と筆者は考えるものである。これについて はさらに史料的な補充を行い,今後の課題としたい。. 結論.  新渡戸稲造の提言によって設置された臨時台湾糖務局は,糖業奨励規則に基づいて工業 ・農業両面で製糖業の改良を進めた。新渡戸稲造が主務局長を務めた時期は,糖廓改良と. 品種改良に重点が置かれた。台湾最初の新式製糖会社である台湾製糖株式会社も設立され たが,新渡戸稲造の指導した時期は生産の中心は糖廊であり甘庶圧搾機械を導入した改良 糖廓に糖務局の期待は向けられていたことが明らかになった。その後寝業保護・奨励の重 点は,製糖会社及び製糖場補助・機械購i入補助が相次いで廃止され,他方で蘇苗補助・肥. 料補助は増額していったことから工業面から農業面に重点が移ったことが明らかになっ た。また糖廓と新式製糖会社が同一地域に設立されると,原料の甘庶を巡って争う事態と なったため,糖乳局は製糖場取締規則を制定し原料採取区域制度を始めた。これは電燈局 がそれまでの糖廊奨励方針から新式製糖会社保護政策へと,政策を180度転換したものと 見ることができる。台湾糖業の発展は新渡戸稲造の離任後によりはつきりとそめ効果を表 した(22)。しかし台湾産糖量の急増ぶりは,内地精製粗削へ原料糖として供給しなくて は台湾産糖量を消化できないまでになったため,総督府は原料糖補助を支出することで辛 うじて供給先を確保した。つまり新渡戸稲造の予想していた内地への直接消費糖を中心に 供給するという水準を超えて台湾糖業は発展したことが明らかになった。また新渡戸稲造 の提唱した糖業組合は台湾南部を中心にいくつかの庁で規則が制定されたが,充分な成果 を挙げられず,糖業組合規則も廃止されたため自然消滅の状態になったと考えられること が明らかになった。.  新渡戸稲造の『糖業改良意見書』に基づく臨時台湾糖務局の指導で,台湾糖業は急激な 発展を遂げた。しかしその発展は計画を立案した新渡戸稲造の構想を遙かに超える規模に まで拡大した。そのため台湾総督府は1910(明治43)年には製糖能力の制限を打ち出し, 製糖場の新設・製糖機械の増設を許可しない態度をとった。つまり台湾糖業は新渡戸稲造 の『糖業改良意見書』をもとに発展したが,台湾斯業発展の規模;が新渡戸稲造の意図した. 規模を超え、また臨時台湾糖務局が設置期限であった10年目を1912年に迎えることによ り,台湾総督府は臨時台湾似島局に代わる新たな台湾糖業を統制する機関を求めることに なったのではないか。それが臨時台湾糖務局の指導下で成長した製糖会社の組織である台 湾糖業連合会であり,台湾総督府は台湾糖業連合会を通して継妻政策を実施しようとした 可能性があるものと筆者は考えている。このことについては今後の検討課題としたい。. 註. (1)新渡戸稲造の『糖業改良意見書』については拙稿「章台初期の糖業調査・政策立案   について」 (兵庫教育大学東洋史研究会編『東洋史訪』第9号,平成15年3月)を参 一29一.

(15)  照。. (2)新渡戸稲造の糖務局長としての在任は1904(明治37)年11月までであるが,実際  にはこの前年の10月からは京都大学法科大学教授を兼務していたため,実際に台湾  で糖政を指導していたのは約3年間であった。 (3)台湾総督府殖産局特産課、『台湾宮参概観』 (1927年)p.26. (4)同上,前掲書,pp.35∼41. (5)『台湾糖業統計 第29』 (台湾総督府殖産局,正943年),p128. (6)同上,前掲書,p,44から製糖會社及び製糖所補助は,1900∼1908年に454,093円が.  下付されたことが分かるが,これは補助合計額のみ挙げられており,各単年度ごとの  金額は不明である。これに対し『台湾糖業統計』には,臨時台湾糖務局が設置された  1902年から毎年の補助金額が挙げられ,1902∼08年の合計として368,212円が下付さ.  れたことになっているが,1900∼01年の2年間の金額は不明である。そのため『台湾  三業概観』記載の製糖会社及び製糖所補助から『台湾糖業統計』記載のそれを引くと.  差引85,881円が1900∼01年に下付されたことになる。但し1900年の糖業全体への補  助金は台湾製糖株式會社に対して行われた12,000円のみが記載されているので(『台  尊皇業概観』p.47,また『台湾製糖株式會社史』p.89),1902年の製糖会社及び製糖.  所補助は73,881円であった可能性がある。しかし資料としては明らかな金額は不明な  ため,表1には両年を合算した形で補助金を載せた。 (7)『台湾製糖株式會社史』p.73によると,児玉源太郎総督の約束として以下の記述が  ある。.   「一 補給利子ノ年限ハ参ヶ年トシ五拾萬圓ノ六出ヲ限度トスルコト.     但會社営業ノ都合口塞リ尚ホ武ケ年補給スルコト   一 今年ノ補給金ハ壱萬就千円ヲ限りトスルコト」.  これによると初年は12,000円,翌年からは当初の資本金とされた500,000円の6%,  つまり30,000円を上限に事実上,合計5年間は補助金を受けることが可能になった。 (8)森久男「台湾総督府の糖業奨励政策の展開」 (『台湾近現代史研究』創刊号,龍渓.  書舎,1978年)によると,発足当初の糖務局の傾向について「当時総督府殖産課の職  員は札幌農学校の出身者によって固められていた。かれらは北海道における新式甜菜  糖業移植の失敗を直接体験もしくは見聞しており,そのため台湾へ赴任後も新式糖業  の前途に懐疑的となり,在来の旧式糖:廊(糖廓とは製糖所の意)の原料甘薦圧搾過程  のみに姑息な部分的改良を加えるべきだという,小製糖所論が支配的であった」 (p..  53)と述べられており,製糖所への補助が多額に上っていることと関係があるものと  考えられる。また〉余照彦氏は製糖会社及び製糖所補助は盛業奨励規則施行細則の第7.  条で    台湾糖業奨働規則第二條二依ル補助金ハ左二掲クル者ニシテ當該官廉二於テ適當   ト認ムルモノニ限リ之ヲ下付ス. 一30一.

(16)    一 一日(十二時間)一萬二千貫以上ノ原料ヲ消費スル機械ヲ装置シテ粗製雑業.     二法事スル者    ニ 一日(十二時間)二千四百貫以上ノ粗糖原料ヲ消費スル機械ヲ装置シテ精製.     糖業二從事スル者  とされていることを根拠に新式製糖会社のみに向けられたと主張しているが(『日本  帝国主義下の台湾』p.65),台湾総督府の補助金額と台湾製糖が受けた金額に差があ  り,新式製糖会社への補助金は明治製糖が設立される際に糖務局がこれを支給しない  ことを言明していることから(『明治製糖株式會社三十年史』pp.2∼3),実際には  糖廓へも支給されたものと見られる。 (9)鶴見祐輔『後藤新平』第二巻, (勤草書房,1965年)によると「初めて台湾に台湾  製糖會社起こるや,旧来の糖衣等はその業を奪はれることを恐れて,流言浮説を放ち,  百方手段を講じて,甘薦原料が會社に費られることを妨げた」 (p.291)とあり,旧  乳糖廓主が新式製糖会社の設立に反対していたことが分かる。 (10)〉余照彦『日本帝国主義下の台湾』 (東京大学出版会,1975年)p.65. (11)台湾総督府殖産局『台湾復業概要』 (1927年置p.11. (12)台湾総督府殖産局特産課『台湾糖業概観』pp.119∼137によると各製糖会社の製糖  工場毎に様々な庶作奨励策が採られていたことが明らかにされている。 (13)徐照彦は前掲書で「在来糖廓が長年慣用してきた現物分前制=分糖法から現金引取.  制=甘庶買収法に早い時期に移行してから貨幣経済が庶作農家の経済に直接浸透する  ようになり,農家経済は大きなインパクトを受けざるを得なくなった」と指摘してい  る(p.170)。しかし同氏は同書の別の箇所では,領有前の台湾農村について「台湾の.  農艮は貨幣商品経済の浸透に習熟しており,それなりに利潤の動機に敏感であった」  としており(p.30),これは甘庶買収法によって農民が貨幣経済に巻き込まれたとい  う先の主張と矛盾している。〉余照彦氏の:矛盾については今後実証していきたい。 (14)台湾農民の経営内容については,陳逢源「本島小作問題の核心」 (『台湾農会報』.  第4巻3,月号,1942年)を参照 (15)台湾総督府殖産局特産課『台湾怠業概観』,pp.36∼40 (16)同上,前掲書,p.71. (17)矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』 (岩波書店,1929年)p.278. (18)台湾総督府公文類纂によると虚業組合規則が制定された庁とその制定日は以下の通  りである。.    塩水港庁;1902(明治36)年2月28日    阿繧庁 :1902(明治36)年5月8目    嘉義庁 :1902(明治36)年6月13日 (19)『明治三六年台湾総督府公文類纂甲種永久』第四門文書塩水港庁庁令第一号「難業  組合規則規定」 (明治36年2月28日). 一31一.

(17) (20) 『明治四一年台湾総督府公文類纂甲種永久』第五門地方には塩水港庁については記.  載がないが,同文書に阿維庁庁令で三九年第二四号「糖業組合規則廃止」の記事があ  る。おそらく同時期に塩水港庁でも廃止されたものと考えられる。 (21)台湾総督府殖産局特産課『台湾糖:業概観』p.59. (22)台湾産糖量について,新渡戸稲造は『糖業改良意見書』提出当時の産糖量を42,000.  トンと見積もっていた。これが糖業保護・奨励政策により,新渡戸稲造の予測では産  糖量は最大で215,400トン(『糖業改良意見書』提出頃と比べて約5.1倍)まで増加  するとしていた。しかし実際には糖務局時代の最大生産量は1910年の約270,339トン   (『糖業改良意見書』提出頃と比べて約6.4倍)まで増加した。. 一32一.

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参照

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