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西欧政治思想史・前編 (2・完)

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Academic year: 2021

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(1)Title. 西欧政治思想史・前編 (2・完). Author(s). 清末, 尊大. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 57(1): 79-94. Issue Date. 2006-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/832. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第57巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.57,No.1. 平成18年8月 August,2006. 西欧政治思想史・前編(2・完) 晴 末 尊 大 北海道教育大学旭川枚政治学研究室. HistoryofPoliticalThoughtinEurope,Partl(2,theLast) KIYOSUE Takao. DepartmentofPolitics,AsahikawaCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 11世紀のローマ法大全の発見は市民法学と教会. 法学の発展をもたらし,12世紀ルネサンスによる. ノ修道院に入れられ,教育を受けた.. アクイナスは1239年頃,15歳位でナポリ大学に. 古代ギリシア・アラブの自然科学書とアリストテ. 入り,自由学芸7科から神学の初歩までを学んだ.. レスの導入はスコラ学の発展をもたらし,12世紀. ナポリ大学は12世紀ルネサンスでヨーロッパに翻. 末から13世紀初めに大学が次々と設立される.大. 訳・導入されたアリストテレス哲学研究の拠点の. 学の設立にはボローニヤ大学に始まるイタリア型. 1つであり,アクイナスはここでアリストテレス. とパリ大学に始まるアルプス以北型の2つがある. の論理学と自然学を学んでいる.アリストテレス. が,その相違はたいした意味をもたない.大学は. 哲学の導入はキリスト教と相容れないとして大学. 自由学芸学部,つまりラテン語学校と同じく自由. に騒動をもたらしており,パリ大学では1210年以. 学芸7科を教える学部とそれを終えた学生を対象. 来司教や教皇によってアリストテレス哲学の講義. とする上級学部,つまり神学,法学,医学からな. の禁止令が繰り返し出されていた.しかし,キリ. る.大学も聖職者養成が目的であり,上級学部も. スト教の宗教や神学の体系化には哲学体系が不可. 神学と教会法学が中心であった.こうした学校で. 欠であり,アリストテレス哲学は,キリスト教と. 教えられる神学・哲学がスコラ学であり,その頂. の総合には向かなかったが,抗しがたい魅力を. 点がアクイナスである.アクイナスはゴシックの. 持っていた.. 大聖堂のような,壮大な神学体系を築く.. アクイナスは1243年頃,19歳位で托鉢修道会の ドミニコ会に入った.ドミニコ会はカタリ派=ア. 4.アクイナス(1225頃−74年). ルピ派異端に対する戦いのために1215年に設立さ. 4.1 生 涯. れ,翌年に教皇に承認され,異端と戦うための教. アクイナスは1225年頃に,ローマ教皇領だがシ. 皇直属の戦闘的な托鉢修道会として成立以来,急. チリア王国に近い,ローマ南方アクイノのロツ. 速に発展していた.都市を中心に急速に広まり,. カ・セッカの城で生まれた.城とは言っても地方. 13世紀中に黄金時代を迎え,修道院400以上,会. 豪族の「騎士」身分の家であり,9人兄妹の末息. 員1万3000人以上を擁し,ヨーロッパの内外で異. 子として生まれ,修道院長を目指す道をとること. 端弾圧・布教活動に専念し,パリ大学,オックス. になる.5歳でベネディクト会のモンテ・カシー. フォード大学以下多くの大学の神学講座を占めて. 79.

(3) 晴 末 尊 大. いた.若い学生であったアタイナスはその托鉢修. ドミニコ会では大学の神学教授の任期は3年と. 道会の理念と勢いに賛同し,立身出世を望む家族. 決まっており,アクイナスは1259年にドミニコ会. の猛反対にあったが,決意は変わらなかった.. に戻り,ローマ管区の顧問となり,修道院と付属. アクイナスは1245年頃にパリのドミニコ会修道. 学校の設立・指導・教育に専念した.1265年から. 院に移り,パリ大学神学部にも通ったのであろう,. はローマで,67年からはヴイテルボで修道院と付. ドミニコ会士でパリ大学神学部教授のアルベル. 属学校の指導・教育にあたったが,初心者用の神. トウス・マグヌスの弟子になっている.1248年に. 学教科書の必要性を痛感し,『神学大全』の執筆. はマグヌスに従ってケルンのドミニコ会修道院に. に取り掛かった.これがキリスト教とアリストテ. 移り,研究を続けた.そして,1252年に,マグヌ. レス哲学を総合したアクイナスの神学体系とな. スの推薦により,パリ大学神学部(12講座あった). り,主著になる.第1部はここで1266年から68年. にドミニコ会がもつ2つの教授ポストの1つの担. にかけて書き上げた.アクイナスは1269年から72. 当者となり,先ず講師になった.パリ大学はパリ. 年まで再びパリ大学神学部教授をやったが,ここ. 左岸の丘にあったラテン語学校が集まってできた. でも『神学大全』を書き続け,第2部をここで書. もので,1215年に教皇の支持をとりつけて独立し. き上げた.1272年にローマ管区の顧問に戻り,ナ. た大学で,神学部がヨーロッパ最高との誉れが高. ポリで指導・教育にあたっている時に,『神学大. かった.講師の仕事は神学の基本書であるベトル. 全』の第3部を書いていたが,1273年に執筆を止. ス・ロンパルドゥスの『命題集』を読んで注釈す. めた.. る講義をすること,それに教授が碇示する討論で 解答者の役を果たすことであった.. アクイナスは1256年,32歳位で神学教授に就任. 1273年に入ると,アクイナスはたびたび放心状 態と体調不良に見舞われるようになり,死期が近 いことを知った.アクイナスはもともと体が大き. した.教授の仕事は講義と討論と説教であった.. く,無口で,頑強な男であったが,年とともに肥. 当時の大学の講義はすべて権威書を読んで注釈す. 満していた.1274年リヨンの教会会議に招かれ,. ることであり,神学部では聖書か教父・神学者の. 体調不良をおして出発したが,ローマ南方の. 権威書を読んで注釈を加えることであった.討論. フォツサノーヴアのシト一会修道院で死の床につ. は月1回とかの定期討論とクリスマス前・イース. くことになり,死に,埋葬された.ドミニコ会は. ター前などの任意討論があった.定期討論は教授. シト一会に対して遺体の返還を求め,大変な争い. が前もって討論のテーマと日時・場所を掲示し,. になったが,教皇の仲介で100年後にようやく解. 誰でも参加でき,講師が討論を主導し,反論には. 決し,アクイナスの遺体は現在トゥルーズのドミ. 解答し,教授が後日最終的な確定を碇示した.任. ニコ会修道院に眠っている.. 意討論は日時・場所だけが前もって掲示され,そ の場でテーマが設定され,教授が討論を主導し, 最後に確定を行った.. スコラ学においては討論は重要な位置を占めて. 4.2 『神学大全』と政治思想 『神学大全』はキリスト教とアリストテレス哲. 学を総合した神学体系であり,ゴシックの大聖堂. おり,著作も討論形式で善かれた.スコラ学の著. のように壮大なスコラ学の神学体系を完成した著. 作は体系性と討論形式を特徴とし,あらゆる問題. 作である.アウグステイヌスの『神の国』が時間. を網羅的に扱い(大全summa),先ず問題提起. の歴史神学体系であるのに対し,『神学大全』は. をし(問題quaestio),次に権威と論理でもって. 空間の上下の階層秩序・目的論的秩序の神学体系. 然り(時に否)の反対論を展開し,最後に権威と. である.神が万物を創造した上下の階層秩序・目. 論理でもって否(反対論が否の時は然り)の解答. 的論的秩序に対応して,唯一宇宙外の存在たる創. で解決した(然りと否sicetnon).. 造主の神に始まり,被造物たる宇宙の天上界の天. 80.

(4) 西欧政治思想史・前編(2・完). 便,地上界の人間,動物,植物,無生物に至る上. グステイヌスの国家を盗賊団と同じ武装集団と見. 下の階層秩序・目的論的秩序の神学体系である.. る悲観主義的国家観を否定した(第2−2部65間. 下降が原因・支配の系列であり,上昇が目的・服. 2項,66間8項).. 従の系列である.そして,アウグステイヌスの『神. アクイナスはアリストテレスの最善政体=混合. の国』が神の国と地の国を根源的に対立させた二. 政体論も取り入れたが,その内容はヨーロッパの. 元論的世界観であるのに対し,『神学大全』は一. 現実に合うように全面的に作り変えた.アクイナ. 元論的世界観である.創造主たる神に発する超自. スが最善政体とする混合政体は,世界が一なる神. 然的秩序が被造物世界たる自然的秩序を貫徹して. によって統治されているように君主政を基本と. おり,その間に矛盾・対立はありえない.アクイ. し,僧主政に堕落しないように,すべての人民が. ナスはそれを「恩寵は自然を廃せず,完成する. 統治に何らかの形で参加できる民主政,多くの者. gratianontollitnaturam,Sedperficit」(第1部. がその卓越さに応じて統治する貴族政を混合した. 1問8項)と定式化した.ここに,自然的秩序は. 政体である.具体的には,古代イスラエル王国が. 超自然的秩序から相対的自立する根拠を手に入. そうであったように,王が神と人民によって選出. れ,政治思想も神学から相対的自立する根拠を手. され,王が長老たちの支持の下に統治を行うよう. に入れた.. な君主政である(第2−1部105間1項.第1部103. アウグステイヌスが二元論的世界観をとったの. 間3項,第2−1部95間4項も参照).. は原罪を決定的な出来事として重視したからであ り,地の国を原罪に基づくものとして全面的に否 定したのに対し,アクイナスにとっては原罪は自. 第3章 近代国家の政治思想−マキアヴェッ リとボダンー. 然=神の創造の結果を破壊する程決定的な出来事 ではない.天使や人間の神に対する反逆が神の創 造の技を破壊すべくもないことは神学上当然の帰 結であった.アクイナスは社会・国家が原罪の結. 1.キリスト教帝国・キリスト教普遍国家理念の 解体と近代国家の登場 ヨーロッパの中世から近代にかけての長期にわ. 果生まれた制度だとするアウグステイヌスの見解. たる最大の歴史変動はキリスト教帝国・キリスト. を否定し,社会・国家を自然的制度だとした.ア. 教普遍国家理念の解体と近代国家の登場である.. リストテレスの定義を普遍化して,人間は自然に. カール大帝と教皇レオ3世に始まり,神聖ローマ. おいて「社会的・政治的動物」であると定義し,. 帝国に継承されたキリスト教帝国・キリスト教普. 社会・国家は自然的制度であるとした(第1部96. 遍国家理念は現実にはすぐにヨーロッパの一部を. 間4項).. 支配するにすぎなかったが,理念的にはヨーロッ. アクイナスは国家について,アリストテレスを. パは1つのキリスト教帝国・キリスト教普遍国家. 普遍化してこう論じた.人間は本来的に共同体を. であり,2つの頭(教皇と皇帝)をもつ1つの体. 求める「社会的・政治的動物」であり,先ず家族. だと考えられた.そして,教皇と皇帝は精神と肉. が生まれ,次に家族が集まって村が生まれ,最後. 体に対応して教権と俗権に分かれ,相補い合うも. に発展の最高段階として国家という「完全な共同. のと考えられた.しかし,現実には両者はどちら. 体」が生まれた.ここで「完全な共同体」とは発. が上位権をもつかをめぐって激しく争い,中世最. 展の最高段階にあり,全体の幸福・福祉たる共通. 大の争いは教皇と皇帝の権力闘争であり,両普遍. 善をはかる共同体であるということである(第2. 的権力が権力闘争によって弱体化するなかで登場. −1部90間2項,3項).国家はかかる最高にし. してくるのが近代国家である.. て共通善をはかる「完全な共同体」であり,その ために「完全な強制力」をもっているとし,アウ. 教皇権は皇帝権の支持の下改革による勢力確立 を目指し,特にグレゴリウス7世(在位1073−85. 81.

(5) 晴 末 尊 大. 年)の改革によって普遍的権威確立に成功するや,. 作,内乱・戦争(百年戦争),黒死病,アヴィニョ. 叙任権闘争(1075−1122年)に打って出,13世紀. ン捕囚と教会大分裂が次々と襲い,終末論の全盛. 初めのイノケンティウス3世(在位1198−1216年). 期に入る.黒死病に限って説明すると,1347年に. の時に絶頂期に達した.皇帝権はカール大帝の死. ジュノヴァのガレー船団がコンスタンティノープ. 後すぐに支配領域がドイツ王国,イタリア王国,. ルからの帰路シチリアのメッシーナに入港すると. ブルグント王国に限られ,11世紀後半からは普遍. 恐るべき疫病がはやりだし,瞬く間にヨーロッパ. 的権威を確立した教皇権によって挑戦され,弱体. 全土を襲い,第1次黒死病(51年まで)だけで,. 化し続けた.特にシチリア国王にして神聖ローマ. 都市を中心に人口の3分の1,3000万人程が死ん. 皇帝フリードリッヒ2世(在位1215−50年)が教. だと推定されている.終末論幻想がヨーロッパを. 皇権と独立を強める北・中部イタリアの都市国家. 覆い,鞭打苦行者の群が現れ,20世紀以前では最. に対する戦いに失敗し,死んだ1250年以降は顕著. 悪のユダヤ人虐殺が行われた.. に弱体化した.皇帝権が弱体化するなかで登場し. こうした悲惨な時代からいち早く回復し,栄光. てくるのが近代国家である.当初は2つの形態を. の15世紀のルネサンス・ヒューマニズム文化を開. とり,北・中部イタリアの諸都市は都市国家を形. 花させ,近代国家として登場してくるのが北・中. 成してゆき,封建王政はフランス,イギリスを先. 部イタリアの都市国家,特にフィレンツェ共和国. 頭に王権の周りに君主国家を形成していった(シ. である.その後を追ってアルプス以北の列強は15. チリアは1282年の晩椿事件によって潰えた).皇. 世紀末に回復し,一斉に外に向けて乗り出し,折. 帝権が再度浮上するのは16世紀のハブスブルク家. からヨーロッパに押し寄せるイスラム勢力にあた. のカール5世の時で,寄木細工の大帝国を相続し,. ることはなく,経済的・文化的に繁栄しながら,. ヨーロッパの覇権を争うことになるが,これは後. 分裂して弱体なイタリア争奪戦争に乗り出す.(カ. に扱う.. ステイリヤ・アラゴンのスペインとポルトガルは. 14世紀に入ると,教皇権はフランスを中心とす. 大航海・新世界に乗り出す.). る君主国家と争って弱体化し,急速に普遍的権威 を失っていった.教皇至上主義を唱えるボニファ ティウス8世(在位1294−1303年)はフランス王. 2.北・中部イタリア都市国家とイタリア戦争 北・中部イタリアの諸都市は12世紀以来富と権. フィリップ4世(在位1285−1314年)の聖職者課. 力を集中し,大商人と封建領主からなる都市貴族. 税をめぐって争い,かえってアナーニ事件(1303. が支配権を握り,都市国家(コムーネ)を形成し,. 年)を招き,憤死した.これを契機に,教皇のア. 帝国からの独立を強めていった.統治は激しい内. ヴィニョン揃囚(1309−77年),教会大分裂(1378. 部抗争を避けるために,他都市出身の騎士身分で,. −1417年)が続き,教皇権は衰退した.教皇権は. 大学で法学教育を受けた者にまかせるボデスタ制. 衰退したままで,1453年に東口ーマ帝国(ビザン. をとった.13世紀には地中海貿易航路に続いて大. ティン帝国)を滅ぼし,ヨーロッパに押し寄せる. 西洋貿易航路,フランドルと結ぶ陸路が確立し,. イスラム勢力(オスマン・トルコ),そして1520. 更なる富と権力を集中し,ヴュネティア,ミラノ,. 年のルターに始まる宗教改革の挑戦を迎えざるを. フィレンツェが強国となり,帝国からの独立を強. えなかった.教皇権が再度浮上するのは1563年に. 化した.. 終結するトレント公会議とスペイン王フェリーペ. 14世紀には皇帝のイタリア遠征はことごとく失. 2世との同盟によって反宗教改革に乗り出してか. 敗し,教皇権も弱体化し,北・中部イタリア都市. らである.. 国家は事実上ほぼ独立を達成した.ボローニヤ大. 13世紀まで順調に発展してきたヨーロッパは14 世紀に入ると大混乱期を迎える.寒冷化による凶. 82. 学の代表的ローマ法学者バルトールス,パルドゥ スは,法的には(dejure)支配権が皇帝に属す.

(6) 西欧政治思想史・前編(2・完). ることは明白だが,事実上(defacto)独立の領. チオリーニに受け継がれ,アルベルテイ,マネッ. 域国家であるとし,皇帝の支配から独立の君主と. テイ,パルミューリ(1406−75年)でほぼ完成し. 同じく,「都市は自身君主である civitassibi. た.. princepsest」と定式化した.. 北・中部イタリア都市国家はほぼ独立を達成す. フィレンツェ・ヒューマニズムの特徴はこうで. ある.1.ヒューマニストは法律か修辞・雄弁術. ると,近隣の弱小都市国家の争奪戦争に乗り出し,. の教育を受け,国家の官僚である書記官になった.. 体制は全権が1人に集中するシニヨリーア制に. ヒューマニズム運動は新たに生まれてきた国家と. 変っていった.ミラノはヴイスコンテイ家,次い. 密接な関係があり,官僚を碇供した.サルター. で傭兵隊長のスフォルツア家の公国(君主国)に. ティとパルミューリに限って説明すると,サル. なり,南下を続けた.ヴェネツィアは都市貴族の. ターティはボローニヤ大学で修辞・雄弁術を学. 支配が安定し,ドージュ制のままであったが,海. び,イタリアの様々な国で書記官をやった後,最. 外領土をトルコに奪われ,内陸部へ向かって拡大. 後に死ぬまでフィレンツェで第1書記官をやっ. を続けた.フィレンツェは海への出口を求めて西. た.パルミューリは大学を出ておらず,学歴ははっ. へ向かい,ピサを征服し,体制は変えなかったが,. きりしないが,フィレンツェの書記官を長年やっ. メデイチ家が全権を握った.. ており,後にマキアヴェッリが同じ経歴をとるこ. 戦争状態は1454年のローデイの和約によって終 り,それをイタリア全土に拡大した翌年のイタリ. とになる.. 2.ヒューマニストは自由の擁護と傭兵軍批判. ア同盟の成立によって,イタリアは5大国による. を展開した.彼らはフィレンツェ共和国の危機. 平和の時代に入り,経済的・文化的繁栄の絶頂期. を,市民がミラノ公国やその他の専制支配者の侵. を迎える.近代の諸国家体制が始まるのはイタリ. 略に対して,共和国の自由を守るために闘う気概. アにおいてである.5大国とはミラノ公国,ヴュ. を失い,傭兵軍にまかせていることに見た.フィ. ネティア共和国,フィレンツェ共和国,ローマ教. レンツェでは豊かになると,市民は商売に忙し. 皇領,ナポリ王国である.5大国で外国の介入を. く,市民としての軍事奉仕義務が果たせなくな. 排除し,勢力均衡(balanceofpower)によって. り,14世紀に傭兵軍に依存するようになった.. 現状維持の平和を守るというもので,バランサー. ヒューマニストの傭兵軍批判の根拠の1つは,傭. の役割を担ったのがフィレンツェで,その事実上. 兵軍が金でどうにでも動く危険性であるが,主要. の専制的支配者のメデイチ家3代,コシモ(1389. な根拠は古代の都市国家から受け継がれていた市. −1464年),ピエロ(1416−69年),大口レンツオ. 民軍の模範に反するからである.市民とは外部の. (1449−92年)であった.. ヒューマニズム運動の中心地はフィレンツェ. 敵に対して武装して自由を守り,統治に参加する 自由民のことであった.自由が守るべき最高の価. で,フィレンツェのヒューマニズム運動はベトラ. 値であり,それを守ることによって栄光,名誉,. ルカの影響下に14世紀後半に始まり,栄光の15世. 称賛を受けることが市民の誉れであった.自由と. 紀に飛躍的に発展した運動である.古代の偉大さ. は外敵からの独立と統治に参加する自治の2つを. を認識し,古代の知恵に戻り,模範として再生し. 意味し,共和政の自由を擁護し,君主政の専制を. ようとする運動であり,キケロの修辞・雄弁術と. 批判し,共和政期ローマを理想とし,帝政期ロー. 政治哲学を中心に,古代ローマの共和政期を模範. マを嫌った.. として再生しようとした.(ヒューマニズムと呼. 3.ヒューマニストはキケロの思想を基に思想. ぶのは彼らが自らの運動をstudiahumanitatisと. を展開した.キケロによれば,教育の目的は専門. 呼んだことによる.)サルターテイ(1331−1406. 家の養成でも知恵者の養成でもなく,Virtusを. 年)に始まり,ブルーニ,ヴェルジェリオ,ブラり. 身につけた市民を養成することである.Virtus. 83.

(7) 晴 末 尊 大. の語源は男(vir)であり,教育の目的は男らしさ・. 3.マキアヴェッリ(1469−1527年). 気概・勇気・力量・根性・ハングリー精神を身に. 3.1 生 涯. つけた男らしい男(virvirtutis)を養成すること. マキアヴェッリは中肉中背で,快活で社交好き. である.特に,政治哲学を学んで知恵があるだけ. だが,口元には皮肉な笑みを浮かべ,論争好きな. でなく,修辞・雄弁術を学んで知恵を実現する市. 男であった.この人物が『君主論』の著者として. 民を養成することである.この世を支配するのは. 西欧政治思想史上最も有名な思想家であり,古代. 運命の女神(fortuna)であるが,運命の女神は. と中世の伝統的な政治思想を否定し,近代の政治. 男らしい男には微笑み,名声,栄光を授けるので. 思想を確立した革命的政治思想家と評されてい. ある.ヒューマニストはこうしたキケロの思想を. る.しかし,こうした位置づけは当時の状況を一. 基に思想を展開した.基本概念はvirtusであり,. 切無視し,マキアヴェッリの著作しか読まないこ. virtusをfortunaとの対決で論じた.マキア. とから起こる誤ったものである.マキアヴェッリ. ヴェッリが後に同じ枠組みで思想を展開するの. はフィレンツェ・ヒューマニストの伝統に立つ思. で,詳細はそこで説明しよう.ヒューマニストは. 想家であり,彼の政治思想の大枠はヒューマニス. virtus,Virvirtutisを再生することによって,フィ. トと同じで,彼の独創性は長年の実際政治で学ん. レンツェ共和国,更にはイタリアの自由をミラノ. だ経験によって部分的に批判・変更を加えること. 公国や教皇庁,更にはアルプス以北の君主国・帝. にある.. 国の専制から守ろうとした.. マキアヴェッリが外交官として眼前に見ていた. イタリアの勢力均衡による平和は1492年,バラ. のはイタリア戦争によってイタリアが征服されて. ンサーの大口レンツオの死とともに危機に陥っ. ゆく過程だが,彼はイタリアの政治制度に何か問. た.諸勢力がアルプス以北の列強の介入を画策. 題があるとは考えもしなかった.ヒューマニスト. し,遂に1494年にフランス王シャルル8世(在位. と同じく,アルプス以北の君主国や帝国など野蛮. 1483−98年)がナポリの王位継承権を主張して,. な専制であり,イタリア都市国家の共和国こそが. 6万の軍隊を率いてアルプスを越え,イタリア戦. 文明の自由であった.マキアヴェッリが危機意識. 争の時代が始まった.これによって,これまでイ. をもつのは外戟であり,軍事と外交を問題にし,. タリア内で作動していた,勢力均衡による諸国家. 政治の本質が軍事の武力と外交の術策にあるの. 体制がアルプス以北にも拡大し,近代ヨーロッパ. に,イタリアの支配者がそれを理解しないで敗北. の諸国家体制が始まる.. し,隷属していることであり,この点で彼はヒュー. イタリア戦争とは1494年のシャルル8世のイタ. マニストの政治思想に批判・変更を加えるのであ. リア進攻に始まり,1559年のカトー・カンプレジ. る.近代の実力的国家観を確立するのがマキア. 条約で終るまで続く戦争である.前半はアルプス. ヴェッリなのである.. 以北の列強による分裂して弱体なイタリア争奪戦. マキアヴェッリは1469年にフィレンツェで生ま. 争で,後半はヴァロワ家とハブスブルク家のヨー. れた.ボンテ・ヴュッキオ橋を渡ってすぐのグイ. ロッパの覇権をかけた戦争に拡大した戦争であ. チヤルデイーニ通り18番地である.父親は大学出. る.前半で,イタリアの都市国家は小さすぎて,. の弁護士であったが,弁護士活動よりヒューマニ. 野蛮だと軽蔑するアルプス以北の君主統一国家に. ストとして古典の研究に熱心で,ヒューマニスト. 太刀打ちできず,敗北し,隷属してゆく.それよっ. のサークルで名前が通っていた.マキアヴェッリ. てイタリアの都市国家は脱落し,アルプス以北の. が晩年に家が貧しかったので苦労したと述べてい. 君主国家が近代国家となる.経済的・文化的繁栄. るので,家が貧しく,教育を受けられなかったこ. もアルプス以北に移ってゆく.. とが革命的思想家が生まれることに幸いしたと考 えられてきたが,誤りである.父親ははやらない. 84.

(8) 西欧政治思想史・前編(2・完). にしても大学出の弁護士であり,ヒューマニスト. れた.選出の記録ではマキアヴェッリは「弁護士. として当時は非常に高価であった本の収集家であ. バルトロメオ・マキアヴェッリ氏の息子ニコロ」. り,フィレンツェ市内に家をもち,郊外のサンタ. と記され,明らかに無職で,大学出の学士の敬称. ンドレアには広大な山荘をもっていた.年収も. もなく,何故マキアヴェッリが選出されたのか,. 100フィオリーノ以上あり,明らかに中流家庭で. 生涯最大の謎とされている.フィレンツェ共和国. ある. ヒューマニストの父親は長男にヒューマニズム. の政治制度はこうである.最高決定機関である議 会は大評議会で,その下に小評議会の80人委員会. 教育を受けさせ,マキアヴェッリは7歳から学校. がある.政府は大統領を頂点にした内閣が担当. に通い,ヒューマニズム教育を受けた.大学は出. し,その下に官僚機構として書記局があり,第1. ていないが,フィレンツェ大学数授のヒューマニ. 書記局と第2書記局があった.第1書記局書記官. ストのアドリアーニに学んだ,という証言もある.. が官僚のNo.1の長官で,第2書記局書記官が. マキアヴェッリは28歳の1498年には反メデイチ・. No.2の次官であり,その下に補佐3名,局員6. 反サヴオナローラ派で頭角を現わしており,ロー. 名の平の官僚がいた.第1書記官はサルターティ. マ駐在大便からサヴオナローラ評を求められ,状. 以来フィレンツェ最高のヒューマニストが就ぐ慣. 況に応じて嘘をつくのが巧みな詐欺師だと答えて. 例になっており,半年前にマキアヴェッリがその. いる.. 教え子であるという証言のあるアドリアーニが就. フィレンツェでは,1494年にシャルル8世率い. いていた.マキアヴェッリは親子2代にわたる. るフランス軍が侵入すると,ドミニコ会士で終末. ヒューマニストであり,第1書記官アドリアーニ. の預言者サヴオナローラ(1452−98年)率いる親. の教え子であった可能性もあり,それ故第2書記. フランス・反メデイチのクーデタが起き,メデイ. 官に選ばれたのではないか.. チ家は追放された.しかし,フランスの成功は勢. マキアヴェッリは第2書記官として主に外交と. 力均衡による反作用を生み,教皇アレクサンデル. 軍事に携わり,先ずピサ問題とチユーザレ・ボル. 6世提唱の反フランス同盟が結成され,神聖ロー. ジア問題に奔走した.ピサはフランス軍侵入とと. マ皇帝,スペイン向土(カステイリヤのイサベル. もに反乱を起こして独立を宣言し,フィレンツェ. とアラゴンのフエルナンド),ヴェネツィア,ミ. は傭兵軍やフランス軍(実態はスイス人傭兵)を. ラノ,イギリスが加わり,シャルルは95年に大急. 使って攻撃を続けたが,もちこたえた.フィレン. ぎでフランスに逃げ帰るしかなかった.サヴオナ. ツェでは1502年にソデリーニ政権が成立すると,. ローラ率いる親フランス政権は外から厳しい締め. マキアヴェッリが懐刀として重用され,マキア. 付けにあい,98年にサヴオナローラは異端として. ヴェッリは国民軍,もはや都市の市民は商売に忙. シニヨリーア広場で絞首・火刑に処された.マキ. しくて軍務を果たせないので,農村の農民からな. アヴェッリはサヴオナローラ失脚の原因をこう見. る国民軍を創設し,ようやく1509年にピサを降伏. た.「武装せる預言者は常に勝利するが,武装せ. させた.. ざる預言者は滅ぶ」(『君主論』第6章).政治の. チユーザレ・ボルジア(1475−1507年)は教皇. 最終的保障は武力であり,偉大な預言者モーゼで. アレクサンデル6世(在位1492−1503年)の私生. さえ武力なしでは成功はおぼつかなかったのに,. 児で,1499年から教皇軍総司令官として教皇領の. サヴオナローラは政治に無知で,武力の備えを. 秩序確立を目指し,フィレンツェに接するロマー. 怠った,と.. ニヤ地方の征服に乗り出した.そして,強大な軍. 1498年に反メデイチ・反サヴオナローラ派が権. 事力と大胆不敵な行動力で瞬く間に征服し,傭兵. 力を握ると,サヴオナローラ派は官職から追放さ. 隊長たちの反乱を招くや,和睦すると見せかけて. れ,第2書記局書記官にマキアヴェッリが選出さ. 皆殺しにし,1502年までにロマーニヤ地方の征圧. 85.

(9) 晴 末 尊 大. を完成した.マキアヴェッリはこの間チユーザレ. リの名前も入っていたので,逮捕・投獄・拷問を. と行動を共にし,すっかり魅了されてしまい,自. 受け,メデイチ家のジョヴァンニ枢機卿が教皇レ. らの力量(virtd)によって運命の女神(fortuna). オ10世に選出された大赦によって,ようやく釈放. を征服する新君主として称賛した.「チユー. レ・ボルジアは残酷な人物と見られていた.しか. ザ. された.. マキアヴェッリは1513年に郊外のサンタンドレ. し,この残酷さがロマーニヤの秩序を回復し,こ. アの山荘に移り,43歳で引退生活に入った.彼は. の地方を統一し,平和と忠誠を守らせる結果と. 官僚しか職業経験がないので,何とかメデイチ家. なった」(『君主論』第17章).. との関係を改善し,仕官することを望んでいたが,. しかし,マキアヴェッリはチユーザレの自信過. そこにメデイチ家の三男ジュリアーノが兄の教皇. 剰には初めから危惧をもった.この世を支配する. レオ10世(在位1513−21年)からチユーザレと同. のは運命の女神であり,人間の力量には決定的な. じく,教皇軍総司令官に任じられ,ロマーニヤ地. 限界があるのに,運命の力を軽視している,と.. 方の征服に乗り出したという知らせを受けた.マ. 翌1503年にアレクサンデル6世は疫病(マラリア). キアヴェッリは急きょ,恐らく2,3ケ月で『君. に倒れて死に,チユーザレも倒れたが若かったの. 主論』を書き上げ,ジュリアーノに献呈したい旨,. で生き返った.マキアヴェッリはただちにローマ. 12月に友人のローマ駐在大便ヴュットーリに依頼. に行き,チユーザレの破滅を確信した.チユーザ. した.ジュリアーノの計画実現には14年間統治術. レはあろうことか次期教皇としてボルジア家の不. を学んだ自分の経験が不可欠だと自分を売り込む. 倶戴天の敵ローヴュレ枢機卿の約束を信じ,教皇. のが目的であった.ところが,ヴュットーリが何. 軍総司令官の地位と引き換えに,教皇選出に協力. もしてくれないうちに,1516年にジュリアーノは. し,破滅した.. 戦死してしまい,その後任になったのが甥のロレ. 教皇ユリウス2世(在位1503−13年)は気が短. ンツオで,マキアヴェッリは今度はロレンツオに. く,怒りっぼい男で,軍人教皇として気に食わな. 献呈し,自分を売り込もうとした.それが今日. い支配者たちに次々と戦争をしかけ,イタリア戦. 残っている『君主論』である.. 争を拡大していった.宗教心のないマキアヴェッ. マキアヴェッリは1516年に,フィレンツェの親. リも,ユリウスはひょっとすると噂通り終末の教. メデイチ家の名門の若者たちの集まりオリチエ. 皇かもしれないと疑った.1510年からは怒りの対. ラーリ・サークルに招かれ,熱烈な信奉者の若者. 象がフランスに変り,翌11年にスペイン,ヴェネ. たちを手に入れた.彼はこのサークルを拠点に詩. ツィアと反仏同盟を結び,12年にラヴェンナの大. 人・劇作家としても活動するが,中心は1517年に. 会戟で1万2000の戦死者が出るなか,フランス軍. 完成する『政略論』である.『政略論』はリウイ. が勝ったが,フランス軍は総司令官を失い,退却. ウスのローマ史を素材に,自由にコメントを展開. した.反仏同盟側の勝利は親仏のフィレンツェに. した余りまとまりのない著作だが,この著作はマ. 危機をもたらし,マキアヴェッリは城壁を強化し,. キアヴェッリが『君主論』以上にフィレンツェ・. 1万の国民軍を作り,防衛に尽力した.しかし,. ヒューマニストの伝統に立つ思想家であることを. 国民軍は百姓軍にすぎず,戦争のプロの傭兵軍の. 明示している.. 敵ではなく,初戦で壊滅した.ソデリーニは亡命. 主題は何故共和政期ローマは偉大な大国になれ. し,メデイチ家が入城し,クーデタがなった.マ. たのか,その原因を解明し,模倣・再生すること. キアヴェッリは罷免され,1年間の追放とその保. にある.その答えは明快である.自由を守り続け. 証金1000フィオリーノの支払いに処された.その. たからである.自由とは外敵からの独立と統治に. うえ,翌13年にはサヴオナローラ支持者の反メ. 参加する自治の2つを意味し,共和政の自由の下. デイチ陰謀が発覚し,そのリストにマキアヴュッ. では力量と栄光を求める有能な市民が続出し,繁. 86.

(10) 西欧政治思想史・前編(2・完). 栄するのに対し,帝政の専制下ではそうした人物 は出ず,没落あるのみである.共和政期ローマの. 3.2 『君主論』の政治思想 『君主論』は君主,特に新たに君主となった新. 民主政的共和政とスバルタ・ヴェネツィアの寡頭. 君主に安定した権力を築くための統治術を教える. 政的共和政では,民主政的共和政の方がより自由. ことを目的とした著作である.この点で,『君主. を保障し,より有能な市民を生み,より繁栄する. 論』はフィレンツェ・ヒューマニストの君主教育. 理想政体である.マキアヴェッリは帝政期ローマ. 論の伝統に立つ著作であり,独創性は長年の実際. を嫌って共和政期ローマを理想とし,帝政の専制. 政治で学んだ経験によってその伝統に批判・変更. を批判して共和政,特に民主政的共和政の自由を. を加えることにある.. 擁護した.. マキアヴェッリは1520年にオリチエラーリ・. 1.主題はヒューマニストと同じく,運命 (fortuna)と力量(virtd)であり,ほとんど同. サークルの紹介でメデイチ家のジュリオ枢機卿,. じ議論をする.この世を支配しているのは気まぐ. 後の教皇クレメンス7世(在位1523−34年)と会. れな運命の女神であり,人間の力量には限界があ. うことができ,メデイチ家との関係改善に成功し,. り,女神の力を軽視してはならない.転変する時. フィレンツェ史の執筆を依頼された.ところが,. 勢の変化に適合せず,自分のやり方に固執する者. オリチエラーリ・サークルはジュリオ枢機卿を暗. は失敗する.しかし,運命の女神は我々の行為の. 殺してフィレンツェに自由を回復し,民主政的共. 半分しか支配しておらず,力量のある人間は女神. 和政に戻すという反メデイチの陰謀を企て,22年. を征服することも可能であり,その報酬として権. に発覚した.マキアヴェッリが疑われる理由は十. 力や栄光を手に入れることができる.時勢には用. 分にあったが,ジュリオ枢機卿と親しくなってい. 意周到に振舞うべき時と果断に振舞うべき時があ. たことが幸いし,追求されることはなかった.. るが,一般に果断に振舞うべきである.運命の女. イタリア戦争は神聖ローマ皇帝カール5世(在 位1519−56年)とフランス王フランソワ1世(在 位1515−47年)の登場以来ヨーロッパの覇権をか. 神は男らしい男に微笑むからである.チユーザレ がそうであったように(第25章).. こうして,基本主題はヒューマニストと同じく. けた戦争に拡大していた.カール5世は相続に. 力量であり,力量とは運命の支配に適合し,かつ. よって,ブルゴーニュ公国,スペイン・ハブスブ. 達命の女神を征服して権力や栄光を勝ち取る男ら. ルク家の所領,オーストリア・ハブスブルク家の. しい能力である.しかし,その中身は大きく批. 所領という大帝国を受け継ぎ,25年にフランソワ. 判・変更される.ヒューマニストにとって,力量. 1世をパヴイアの大会戦で破り,絶頂期にあった.. とは政治哲学と雄弁術と徳を身につけ,政治理念. それに対して,教皇・フィレンツェが中心になっ. を実現する崇高な人間の能力のことであり,ライ. て反カール5世のコニャック同盟を結成したが,. オンの武力とキツネの術策は人間以下の獣がやる. 27年に「ローマの略奪」にあった.. ことであった.マキアヴェッリはそれを,現実を. フィレンツェでは1527年にサヴオナローラ支持. 無視した想像の世界の話で,多くの君主がそれを. 者の反メデイチのクーデタが成功した.マキア. 信じて破滅したと批判する.力量とは権力と栄光. ヴェッリは第2書記官に立候補したが,オリチエ. を獲得し,守るために必要なことはすべて,有徳. ラーリ・サークルの亡命した弟子たちの支持をえ. か悪徳かなど考慮することなく行う能力のことで. られただけで,圧倒的反対で落選した.落胆のあ. あり,何よりもライオンの武力とキツネの術策を. まり病に倒れ,死に,サンタ・クローチェ教会に. 使いこなす能力のことであった(第6,14章).. 埋葬された.享年58であった.. 2.傭兵軍批判と国民軍の主張はヒューマニス. トの伝統的な主張であり,マキアヴェッリもこの 伝統に立っている.しかし,傭兵軍に取って代わ. 87.

(11) 晴 末 尊 大. るべき国民軍とは,ヒューマニストにとって古代. 政治の現実を知らず,力量を失って運命に屈服し. の都市国家以来の市民軍のことであったが,マキ. たことにある.メデイチ家がフィレンツェと教皇. アヴェッリには市民軍のモデルはもはやなく,自. 領を支配している今こそ,自分の助言に従って強. 分の軍隊のことである.政治の根幹は武力であ. 国を築けば,他国も従い,イタリアを野蛮人ども. り,従って統治術の根幹は自分の軍隊にのみ依存. から解放できる,と(第26章).マキアヴェッリ. すべしだと主張する.軍隊には外国援軍,傭兵軍,. が見た夢はフィレンツェ・ヒューマニストが見続. 外国援軍・傭兵軍・国民軍の混成軍,国民軍の4. けた夢であり,現実主義者のマキアヴェッリも理. つあるが,その順番に危険で,自分の軍隊という. 想主義者と批判した者と同じ夢を見ていた.. 意味の国民軍を主張した.自分の軍隊を手に入れ たチユーザレはロマーニヤを平定し,武力なき預 言者サヴオナローラは失脚し,傭兵軍に頼るフィ. 4.フランスと宗教戦争 キリスト教帝国・キリスト教普遍国家の解体と. レンツェはピサを征服できず,軽蔑と弱体化を招. 近代国家の登場という長期にわたる歴史変動がほ. き,外国援軍と傭兵軍に頼るイタリアはアルプス. ぼ終りに近づき,近代国家が登場し,諸国家体制. 以北の列強に敗北し,隷属の憂き目にあっている. が始まるのは15世紀末から16世紀前半のイタリア. (第12,13章). 3.マキアヴェッリはヒューマニストの有徳さ. 戦争の時代であった.近代国家はアルプス以北の 列強の君主国家となり,フランス,イギリス,そ. の主張をこう批判する.君主は慈悲深くて残酷で. してスペイン,ポルトガルと登場し,イタリアの. なく,人民に愛され恐れられないようにすべきだ,. 都市国家は脱落し,カール5世の寄木細工の帝国. と言う.善人ばかりの世界でならそれでうまく統. は分解して,息子フェリーペ2世のスペインに. 治できるだろう.しかし,悪人だらけの現実の世. 取って代わられる.近代国家の先頭に立っていた. 界ではそれではうまく統治できない.慈悲深くて. のはフランスであり,主権論を確立し,近代国家. 人民に愛されようとする君主は反乱を誘発し,残. を主権国家と理論づけるのがフランスの16世紀後. 酷で人民に恐れられる君主の方が秩序を生む.残. 半の思想家ボダンである.. 酷で恐れられたチユーザレが秩序を生み,慈悲深. フランスはフランソワ1世(在位1515−47年),. くて愛されたソデリーニが反乱を招いたように. アンリ2世(在位1547−59年)の治世に,強力な. (第17章). 君主は約束・条約を守り,公正に振舞うべきだ,. 王権の下に強大な統一国家として登場した.独立 の封建大諸侯は征服や結婚政策や偶然によって消. と言う.しかし,悪人だらけの現実の世界ではそ. 滅し,国内の権力構造ははるか以前から封土と忠. れではうまく統治できない.相手が約束を守らな. 誠の封建制から保護と忠誠の保護・従者制に変質. いからであり,従って必要があれば約束は守るべ. し,保護の源泉は国王に一元化していた.但し,. きではない.チユーザレは自分の権力と栄光の保. 大貴族は国王官僚機構に取り込まれながらも,中. 持のためにローヴュレ枢機卿との約束を守っては. 央と地方で保護・従者制を築き,後にこれに宗派. ならなかったのに,守り,破滅した(第18章).. が結合して宗教戦争をもたらす.. 結論として,君主,特に新君主は国家を維持す. 身分制議会は王権強化の過程で衰退した.三部. るために必要なことは,約束・条約に反してでも,. 会は1302年にフィリップ4世によって教皇に対抗. 宗教や人間性に反してでも,すべてやらなければ. するために召集されて以来制度改革と王権強化に. ならない,ということである.. 尽くしたが,弱体な王権の下で党派争いや反乱の. 4.最後に,マキアヴェッリは今こそイタリア. 場となってしまい,1484年を最後に召集されなく. がアルプス以北の野蛮人どもの専制から開放され. なった.但し,三部会は宗教戦争の危機のなかで. る好機だと断言する.敗北の原因は支配者たちが. 復活し,重要な役割を果たす.. 88.

(12) 西欧政治思想史・前編(2・完). 国王官僚機構は国王による保護と売官の拡大に. ヒューマニズム法学,ヒューマニズム聖書学も. よって拡大した.財政も拡大したが,対外戦争と. 発達した.ヒューマニズム法学は文献学によっ. 派手な宮廷の出費で常に借金漬けであった.. て,ローマ法大全がローマの様々な時代の法律の. そして,大学で法学を学び,国王官職保有者と. 窓意的な寄せ集めにすぎず,「善かれた理性」,つ. なった法曹家(レジスト)が王権神授説によって. まり普遍的に妥当する法律ではないと伝統的な. 教皇や皇帝の上位権を否定し,王権を称える理論. ローマ法学の基盤に挑戦していた.ヒューマニズ. を展開した.国王は「地上における神の代理」,. ム聖書学は文献学によってカトリック教会の正統. 「その王国内においては皇帝」といった標語の下. 聖書のウルガータの誤りを指摘し,原典と翻訳を. に,国王に固有の大権を何百と羅列し,その総称. 出版していた.ヒューマニズム運動は折から始ま. として主権という言葉を定着させていた.. る宗教改革と絡んで大騒動をもたらし,巻き込ま. 主権(souverain,SOuVerainet6)という言葉は フランスで13世紀末から用いられ,その語源が中. れる.. フランス宗教改革の源泉はルター派の影響と. 世ラテン語の比較級(superanus)にあるように,. ヒューマニストの福音主義連動の2つあり,弾圧. 何らかの優越した権力をもつ者すべてに使われ. され,スイスに亡命するなかでツヴイングリ派に. た.国王はその王国内では主権者であり,貴族も. なり,そしてカルヴァンがジュネーヴで支配体制. その領地内では主権者であった.それが14世紀末. を確立し,フランス布教体制を確立する1555年か. 以降,対外的には皇帝や教皇との対決でその上位. らカルヴァン派になっていった.フランスのカル. 権を否定し,体内的には封建諸侯との対決で最上. ヴァン派の特徴は貴族に広まることであり,カル. 級の権力となり,様々な国王の大権の総称になっ. ヴァン派は総人口1600万の1割強でしかないの. てゆき,16世紀前半に定着した.ボダンはこの本. に,貴族ではブルボン家のナヴアール王を筆頭に. 来君主政の理論を国家の一般理論として主権論を. 3分の1以上に達し,これによって強力な政治党. 確立し,近代の主権国家を理論づけることになる.. 派ユグノーとなり,宗教戦争に向かう.. この時代はフランス・ヒューマニズム文化が花. イタリア戦争が1559年のカトー・カンプレジ条. 開いた楽観的な時代であった.1530年にはその象. 約で終わると,時代は悲観的な宗教戦争の時代へ. 徴的存在である王立教授団が設立されている.最. と大きく転換した.プロテスタント側を代表する. も影響を受けたのはフィレンツェのヒューマニズ. のは戦闘性を失ったルター派に代わってカルヴァ. ム運動だが,それは15世紀末に大きぐ性格が変わ. ン派である.ジュネーヴは55年にプロテスタント. り,フィチーノ(1433−99年)とピコ・デッラ・. のローマたる体制が確立され,ドイツのファルツ,. ミランドーラ(1463−94年)のプラトン・アカデ. スコットランド,イングランド,そして16世紀後. ミイが主流になっていた.政治に対する関心を失. 半の国際政治の焦点になるフランス,ネーデルラ. い,古代ギリシア・エジプト・ヘブライの自然哲. ントを戦場に攻勢をかける.それに対して,ロー. 学と神学を模範として再生しようとし,新プラト. マは反宗教改革によって対抗する.イエズス会は. ニズムの自然哲学と神学が中心になっていた.一. 既にその体制を整え,トレント公会議が教皇ピウ. 者から宇宙霊が階層秩序をなして流出し,愛憎(吸. ス4世の努力によって63年に終結し,そしてスペ. 引と反発)の粁で結ばれた人間化された宇宙論を. イン優位の時代を築くフェリーペ2世(在位1556. 展開し,一方で小宇宙,神の写したる人間が瞑想. −98年)が同盟し,反宗教改革に乗り出す.フラ. によって浄化され(魂の肉体からの分離),上昇し,. ンスではギーズ・ロレーヌ家が同盟して過激派カ. 照明され,神と法悦的合一すべき神秘的宗教論を. トリックのリーグを形成し,宗教戦争に向かう.. 主張し,他方で小宇宙,神の写したる人間が操作. その矢先にアンリ2世は条約に伴う結婚祝賀の. すべき実践的学問としての魔術を主張していた.. 騎馬試合の傷がもとで死んでしまう.イタリア人. 89.

(13) 晴 末 尊 大. の未亡人と幼子たちを残して.カトリーヌ・ド・. 著作によって物価騰貴と貴金属量の関係が常識に. メデイシス,マキアヴェッリが『君主論』を捧げ. なり,貨幣数量説として確立することになる.. たロレンツオの娘が摂政となって政治を行うが,. ボダンは若い時にフィレンツェ新プラトニズム. 弱体で権威のない王権の下で,遂に1562年に宗教. の影響を受け,真の宗教を「浄化された魂の神へ. 戦争が始まり,98年のナント王令まで8回,36年. の転化」とフィチーノの定式を用いて定義し,普. にわたってフランスを痛めつける.. 遍的な自然宗教の立場をとっていた.そして,キ リストの神性=三位一体,キリストによる煩い=. 5.ボダン(1531−96年). 原罪を否定し,原始キリスト教に戻れと主張し,. 5.1 生 涯. カトリックをそれ以後異教化した偶像崇拝の宗教. ボダンは1531年にアンジュの仕立屋の親方の家. と批判し,プロテスタントを支持していた.更. に生まれ,子供の時にカルメル会の修道院に入れ. に,フィレンツェ新プラトニズムの一構成要素に. られ,教育を受けた.45年頃に司教の保護を受. すぎなかった,フィロンを中心とする旧約・ヘブ. け,パリのカルメル会の修道院に派遣され,ヒュー. ライ主義の影響を強く受けるなかで,67年頃から. マニズム教育を受けたが,47,8年頃に異端裁判. 善霊の導きを自覚し,自らを預言者だと確信する.. にかけられ,修道院から追放された.. そして,真の宗教は神自らが命じた自然法=神法. ボダンは49年噴からトゥルーズ大学で自由学 芸,続いて法学を学び,その後私講師として教え. た.トゥルーズ大学はオルレアンと並んで法学部. の十戒の宗教だという結論に達し,キリスト教を 誤った宗教だと批判することになる.. ボダンは法曹家として政治生活の道を歩み始. が有名で,多くの法曹家を輩出していた.彼は伝. め,71年には王弟アランソン公フランソワの訴願. 統的なローマ法学である注釈学派を批判し,. 審査官兼顧問となり,重要な地位を手に入れた.. ヒューマニズム法学の立場をとり,ローマ法大全. 王弟は当時16歳の若者であったが,カトリーヌの. がローマの様々な時代の法律を改変・ごちゃ混ぜ. 息子は管主になるというノストラダムスの予言の. にしたものだとその権威を否定し,古代ローマ法. 実現に乗り出そうとしていた.72年にはサン・パ. の再生にとりかかっていた.. ルテルミイの虐殺が起こり,宗教戦争は激化して. ボダンは59年頃に騒然とした大学を去り,パリ. ゆく.ユグノーはこの虐殺を「フィレンツェ女」. 高等法院の弁護士になった.そして,66年に『歴. が「イタリア人の聖書」の暴君術を適用したもの. 史方法論』を出版し,有名になった.彼は法曹家. だと信じたし,暴君に対する武力抵抗権論を確立. の影響を受け,ローマ法大全の権威だけでなく,. する.モナルコマキ(暴君放伐論者)が身分制議. ローマ法の権威そのものも否定した.ローマ法は. 会や従属的統治者によって人民主権が行侵される. ローマ国民の法律にすぎず,普遍性をもたないの. 制限君主政論を展開し,武力抵抗権を弁証した.. であり,法学は諸国民の法律の歴史的・比較的研. 王弟フランソワは73年に兄のアンジュ公アンリが. 究である「普遍法(世界法)」でなければならない,. ポーランド主になると,結核で死を待っている. と主張した.そのために,歴史の方法論を問題に. シャルル9世(在位1560−74年)の王位継承者の. し,新しい国家論の構想を提示した.. 地位をねらい,ポリチーク・ユグノー連合の陰謀. 68年には『物価騰貴論』を出版した.ヨーロッ. を企てた(ポリチークとは過激派カトリックの. パは16世紀後半に経済史上「価格革命」と呼ばれ. リーグとユグノーの中間に立つ第3の党派のこ. る物価,特に農産物価格の急激な騰貴に見舞われ. と).陰謀は74年に発覚し,ボダンは親友の故郷. る.ボダンは物価が需要と供給のバランスで決ま. の町ランに逃げ,その妹の未亡人と結婚する.第. り,物価騰貴は貴金属量の増加,特にアメリカ産. 5次宗教戦争が始まり,76年にアンリ3世(在位. 貴金属量の増加が主要な原因だと指摘した.この. 1574−89年)が王弟率いるポリチーク・ユグノー. 90.

(14) 西欧政治思想史・前編(2・完). 連合軍に完敗すると,王権の権威は失墜し,ギー. したが,飾りにすぎず,王弟は83年にクーデタを. ズ公は過激派カトリックのリーグを結成し,フラ. 起こして,フランスに逃げ帰り,ボダンもどうに. ンスはアナーキーの様相を呈してくる.. か帰りついた.. ボダンは76年,40代半ばの円熟期に主著『国家 論』を出版し,ヨーロッパ中で大成功を収めた. 『国家論』の最大の特徴は10年前の『歴史方法論』. 84年の王弟とオラニュ公の相次ぐ死はフランス. とネーデルラントに危機をもたらし,両内戦にス ペインとイギリスの介入を招いて国際宗教戦争の. にはなかった宗教戦争に対する危機意識であり,. 危機をもたらした.王弟の死によって王位継承権. マキアヴェッリとモナルコマキを論敵に選び,絶. がユグノーのナヴアール王アンリに移ったフラン. 対君主政論を展開した.三部会や高等法院,法律. スでは,ギーズ公アンリ率いる強力なリーグが再. や慣習法に一切拘束されず,政治的危機に上から. 生し,スペインと同盟し,アンリ3世とナヴアー. 一方的に対応する絶対君主政論である.. ル主に宣戦を布告し,ナヴアール王もイギリスと. アンリ3世は権威回復のために,76年にブロワ. ドイツ新教徒諸侯に援助を求めた.「国父」オラ. に三部会を召集し,ボダンも第3身分の代議員に. ニュ公を失ったネーデルラントでは,スペインが. 選出され,参加した.宗教問題,財政再建,売官. 南から次々と再征服に成功し,全国議会は絶望し. 制改革が主要議題で,重要な三部会であったが,. てイギリスとフランスに援助を求めた.こうし. 王と過激派カトリックの提案をボダン率いる第3. て,フランスでは最後にして最大の第8次宗教戦. 身分の穏健派カトリックがことごとく否決すると. 争「3人アンリの戦争」が始まった.フェリーペ. いう抵抗の場になり,ほとんど何の成果も生まず,. もエリザベスも戦争だけは避けようとしたが,. 翌年解散した.. フェリーペはメアリーの処刑(87年)で遂に決断. ボダンは80年に『魔女論』を出版し,魔女の絶 滅を訴え,魔女狩り反対者ヴァイア一に反論し,. ヨーロッパ中で大成功を収めた.魔女狩りは15世. し,無敵艦隊アルマダの建造を急がせ,フランス にも介入してゆく.. 熱烈なカトリックの首都パリでは,84年に貴族. 紀に始まり,16世紀後半から17世紀前半に頂点に. のリーグとは別に都市のリーグの16人委員会が生. 達する現象である(拙著「最初の魔女狩り全書『魔. まれ,88年にバリケードを築いて蜂起し,制圧し. 女に下す鉄槌Mal1eusMaleficarum』の研究」北. た.ギーズ公と16人委員会はブロワに三部会を召. 海道教育大学紀要(人文・社会科学編)49巻1号,. 集させ,圧力をかけたが,アンリ3世の屈辱感に. 2号,平成10,11年参照).論争は勿論ボダンが. 火をつけ,ギーズ公は暗殺された.弟のマイエン. 勝った.聖書に基づいていたからであり,経験的. ヌ公と16人委員会はパリに革命政権を樹立し,モ. 証拠と宗教熱狂の時代も彼の側にあったからであ. ナルコマキから導入した武力抵抗権論によって正. る.フランスもこの80年代から,ボダンと『鉄槌』. 当化し,フランス中の都市に広めていった.ラン. を権威に,熱狂的な魔女狩りの時代を迎える.. の町も89年にリーグにつき,ボダンがその説得役. 王弟は78年以来ネーデルラントの反スペイン闘. を果たした.彼がリーグ支持に態度を変えたの. 争への支援とエリザベス女王(在位1558−1603年). は,1つには状況の強制からだが,もう1つの理. との結婚によってノストラダムスの予言を実現し. 由はリーグを道具に使っての神の介入という観点. ようとしていた.79年に結婚の条項に署名がなさ. からである.ボダンは預言者として振る舞い,バ. れ,81年にオラニュ公と全国議会によってフェ. リケードの日が神の介入の最初の日で,数えで6. リーペの廃位と王弟の即位が宣言され,81年にイ. 年目(93年)に大変革が起き,7年目に神の平和. ギリスとネーデルラントに向った.ボダンも先発. が訪れると予言した.. 隊に加わって同行した.結婚交渉は結局解約金を. ボダンはリーグ支配の困難な時代にも野心的な. 得ただけで終り,82年にアントウェルペンで即位. 著作を書き続け,96年に出版される『自然の劇場』,. 91.

(15) 晴 末 尊 大. 『パラドックス』,それに出版されない遣ノ稿『7. 家を盗賊の集団から区別するもので,ボダンにお. 賢人の対話』を書いた.『7賢人の対話』は国際. いては神法=自然法,王国基本法にかない,私的. 自由都市ヴェネツィアを舞台に,真の宗教と宗教. な「生命,財産,自由」を保障する統治のことで. 的寛容の問題を扱っている.ボダンはフィロンを. ある.. 中心とする旧約・ヘブライ主義の影響を強く受け. 1.主権論.ボダンは未だ誰もなしえなかった. るなかで,真の宗教は神自らが命じた自然法=神. と豪語する主権(souverainete,majestas)をこ. 法の十戒の宗教だという結論に達し,キリスト教. う定義する.「主権とは国家の絶対的で永続的な. を誤った偶像崇拝の宗教だと激しく批判し,全宗. 権力である.」ラテン語版では,「主権とは市民や. 教の競争的共存としての宗教的寛容を主張した.. 臣民に対して最高で,法律の拘束をうけない権力. 89年にアンリ3世が暗殺され,ナヴアール王が. である」(第1巻8章).「永続的」「最高」とは,. アンリ4世として即位の宣言をしたが,アナー. 主権は公権力の最終的な源泉であり,神以外には,. キー状態がひどくなるばかりで,フェリーペは公. 体内的にも対外的にも,上位者をもたないという. 然と介入した.カトリックの王を選出すべき三部. 意味であり,これが主権の条件である.主権の実. 会が93年にパリに召集された.しかし,スペイン. 体をなすのが「絶対的」「法律の拘束をうけない」. は買収の金をばらまき,スペイン王女イサベルの. である.主権は具体的には法律の最終的な源泉で. 女王選出を譲らず,パリ高等法院は無効を宣言し. あり,法律は主権者の命令・意志に他ならず,主. た.そして遂にアンリ4世改宗の儀式がサン・ド. 権とは絶対的で法律の拘束をうけず,立法によっ. ニ大聖堂で執り行われ,フランスは今やカトリッ. て必要に対応する意志である.国家は公権力,法. クの王をもち,ボダンの予言通り大変革が起きた.. 律の体系であり,主権は公権力,法律の最終的な. 翌94年のシャルトルでの戴冠は改宗の効果を決定. 源泉にして,立法によって必要に対応する意志で. 的にし,パリ始め都市は次々と国王側についた.. あり,主権なき所国家なしである.. ランも94年に国王側につき,ボダンの予言通り平 和が戻った. ボダンは96年に遺書を書き,遺稿を燃やし,フ. 主権が体内的,対外的に上位者をもたないこと を条件に,立法によって必要に対応する意志を意 味するなら,主権を構成する公権力は立法権だけ. ランシスコ会の修道院に埋葬するよう遺言し,心. となり,すべて立法権に「包含される」ことにな. 安らかに死に赴いた.享年は,数秘学による予定. る(第1巻10章).ボダンは法律意志説に基づく. を3年超えて,数えで66であった.. 不可分の立法主権論を確立し,国家を不可分の立. 宗教戦争が最終的に終るのは98年のナント王令 である.宗教戦争の政治的結果は強力な王権=秩. 序か無秩序かの二者択一しかないという強迫観念 であり,ブルボン絶対主義の開始である.. 法主権に基づく法的制度と近代の法的国家観を見 事に確立した.. 2.正しい統治論.国家の定義で主権と並んで 国家の本質とされたのが正しい統治であり,神法 =自然法,王国基本法にかない,私的な「生命,. 5.2 『国家論』の政治思想. 財産,自由」を保障する統治のことである.. 『国家論』は国家の定義から始まる.「国家とは,. 主権論は主権的支配者を無拘束にするものでは. 多くの家族とそれらに共通なもの[市民共同体の. 決してない.主権的支配者は上位者たる神の支配. こと]に対する,主権をもった正しい統治である」. 下にあり,当然神の命令である神法=自然法に拘. (第1巻1章).主権とは公権力の源泉たる最高. 束されるし,主権が法律の拘束をうけない権力な. の公権力のことであり,国家を成り立たしめ,他. ら,定義上法律に含まれない王国基本法にも拘束. の社会集団から区別するものである.正しい統治. される.法律が拘束力をもつのは,主権的支配者. とはキケロ,アウグステイヌスの伝統に立つ,国. がそれを意志するという法的形式の安当性だけで. 92.

(16) 西欧政治思想史・前編(2・完). は不十分で,「正しい命令」という内容の妥当性. り,公的なものが国家,公権力に独占されたこと. ももたねばならず,その正しさの保障がセットさ. によって,私的財産権の保障を手に入れるのであ. れていない以上,必然的に神法=自然法,王国基. り,その保障ができない支配者は正当化されず,. 本法による拘束が登場する.ボダンが神法=自然. 暴君となる.この点,ボダンはプラトンの共産主. 法,王国基本法による拘束として最も重視するの. 義の主張と再洗礼派のミュンスターでの共産主義. が私的財産権の保障であり,私的な「生命,財産,. の実験を公私の区別をなくし,国家と家族をとも. 自由」の保障である(第1巻8革).. に破壊するものだと激しく批判した.そして,ボ. ボダンは公権力の源泉たる最高の公権力,主権. ダンは夫権,父権の絶対化と保護・教育機能の強. を確立し,国家を公権力の独占体として確立する. 化を主張した(第1巻2,3,4章).近代主権. ことによって,私的財産権,私的な「生命,財産,. 国家の成立に対応するのは家族における夫権,父. 自由」の保障を確立しようとした.自由主義的国. 権の絶対化と保護・教育機能の強化であり,社会. 家観は主権が確立し,国家が公権力の独占体とし. 全般の管理化である.. て確立して初めて可能になるのであり,ボダンが それを理論づけた最初の思想家なのである.. 以上『国家論』の前半は国家の分析論であった が,後半は国家の有機体論,具体的には変動論,. 3.国家形態(政体)と統治形態.ボダンは主. 統治政策論,最善政体・最善統治論である.ここ. 権論と正しい統治論の区別に対応して,主権の法. では統治政策論の宗教問題,国際関係論,それに. 的所在によって決まる国家形態(政体)と権力行. 最善政体・最善統治論だけを扱う.. 使の内容によって決まる統治形態を区別した.政. 5.宗教的寛容政策と宗教的寛容論.ボダンは. 体に関しては,主権が1人か,少数か,多数ある. ヒューマニストの保守主義者であり,変動は常に. いは全人民にある君主政,貴族政,民主政の3政. 悪で,党派が弱体なうちは武力を使ってでも潰さ. 体しかありえないとし,最善政体を混合政体とす. なければならないし(「必要は法をもたない」),. る古来の説を否定した.主権の不可分からして主. 強力になったら内戦を避けるために寛容政策をと. 権は1箇所にしかありえず,混合政体などありえ. らねばならない(「2つの悪ではひどい方の悪を. ず,それは主権の帰属が決まっていない内乱状態. 避けねばならない」),と主張した.強力な党派に. しか意味しない.. 成長したユグノーに対しては,内戦から国家を守. 統治形態に関しては,正当的統治と専制的・暴. るために寛容政策をとるよう主張した.この政治. 君的統治の分かれ目を私的財産権の保障におき,. 的効果の観点からする寛容政策の主張はポリチー. 権力の正当化をここにおいた.そして,暴君に対. ク共通の理論となり,アンリ4世のナント王令で. する抵抗権の問題では,臣民には公権力がなく,. 勝利した.但し,政治的効果の観点からは1つの. 能動的抵抗権は認めなかったが,神に召名された. 宗派の方が良く,宗教再統一を先送りした所に成. 預言者と外国の支配者には能動的抵抗権・介入権. り立っており,次の世紀のラ・ロシュルの悲劇も. を認めた.神が主権的支配者より上位の絶対的支. そこに内包されている.. 配者としてこの世界を支配しているのである(第 2巻1,2,5章). 4.家族と市民共同体.近代主権国家が成立す. しかし,ボダンやポリチークが原理的な宗教的 寛容論をもっていなかったと考えてはならない.. ボダンは国家を宗派とは分離したが,宗教とは決. ると,家族と市民共同体はどう変化するのか.ボ. して分離しない.ボダンの国家は決して世俗国家. ダンは「家族とは1人の家父長に服する多くの臣. ではなく,神を主権者とする宇宙に従属した有機. 民と彼に固有なものに対する正しい統治である」. 体であり,宗教を基盤とする.しかし,この宗教. と定義した.固有なものとは私的財産権のこと. は私的・内面的宗教であって,教会や教義や秘蹟. で,かつての市民は今や家父長=自由な臣民とな. といった公的・外面的宗教,つまり宗派ではない.. 93.

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