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実存主義の生成について

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Academic year: 2021

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(1)実学主 義 の生 成 に つ いて. 松. 浦. 問. 伯. 題. 夫. 点. 実学 主義 (realism)の 概念 は,す でに モ ン ロー (P.MonrOe,1867-1947) が 詳論 した と ころであ る。 それ に よる と「 言語や文学 よ りも, 自然現象や社 会制度 を学習 の主題 とす る教 育 1)」. で関心 の 中核 を人間 よ りも事物 にお く教. 育 の考 え方 で あ る。 この 実 学 主 義 の 生 成 過 程 に つ いての モ ン ローの 見解 は 次 の ご と くで あ る"。 す なわ ちル ネ ッサ ンス にお け る ヒューマ ニズムは 人間 個人 の 自覚 を本 質的特徴 とし,教 育 に対 して 自由教 育を復興 せ しめ,や がて 1607世 紀 に ラ ブ レー (Fo Rabelais,1494-1553),ミ. ル トン (J.Milton,1608-1674)に 代表. され る humanistic realismを 生ぜ しめた。 さ らに,そ れ に不満 を もつ立場 の ものに よって social realismが 口 昌え られ ,モ ンテー ニ ュ (M.de Montai‐. gne,1533-1592)を もってその 代表 とされ たが, この実学主義 が理論的 に 明確化 されたのは 1708世 紀 としてい る。 17世 紀 には 如 上 の 初期実学主義 を 包摂 しなが ら 教育上 , 感覚的知覚 を重. んず る sense realismが 生 じ,ベ ー コ ン (F.Bacon,1561-1626),ラ. トケ. (Wo Ratke,1571-1635),コ メ ニ ウス (Jo A.Comenius,1592-1670)等 がそ の 代表 と見な され た 。 したが って モ ンローは 実学主義 の生成 に とって, ヒュ ーマ ニ ズムが一 つ の重要動 因 で あ る こ とを 認 めてい る。 なお,か れ に よる と18世 紀 の啓蒙思潮 は 実学主義 を一段 と昂揚 せ しめた と.

(2) 148. 実学主義の生成 について. す る。す なわ ち啓蒙精神 の 特質 としての人間 の悟性 な い し理性 に対 して絶対 の信頼 をお く理性的 自立 の 精神 に も とづ く合理主義 (rationalism)が. ,事 物. へ の関心 をたか め 「 思想 と信仰 にお け る 従来 の 形式主義 に対す る 反動 とな り,教 会 の絶対主義 に対す る反抗 も注 目す べ き一 つの進歩. 4)」. 3)」. ともな り,「 人間 の 自由の 発展 上 ,最. を促 し,実 学主義 を昂揚 せ しめた とい う。. かの カ ン ト (I.Kant 1724-1804)に よる啓蒙 とは「 人間 が 自己 の未成年 状態 を脱却す る こ と」 で あ り,未 成年 とは「 他者 の 指導 が なけれ ば 自己 の悟 性 を使用 し得 な い状態」 とした。 したが つて 未成年状態 を脱却す る こ とは. ,. 人 間 が「 自己 みずか らの悟性 を使用す る勇気 を もて」 とい うこ とに外 な らな い としてい る5)。. か くして啓蒙思潮 に よって,人 は理性的 自立 の顕著 な発現. を もた らされ た 。 元来 ,教 会 の権 力 か らの解放 や個 々人 の理性的 自立 等 は ル ネ ッサ ンス時代 の特徴 で あ ったが,そ の 頃 は なお ギ リシ ャや ローマ等 の 異国文化 へ の依存 と い う点 で,真 の 自立 とは言 いがたい ものが あ った 。 しか し啓 蒙思潮 は,一 切 を理性 の 光 に よって解決 し,生 活 の 全域 にそれ を拡大 しよ うとしていたので あ って,ル ネ ッサ ンスに お いて 開 かれた,か の解放や 自立 の道 を一 きわ前進 せ しめた もの と言 い 得 る。 もちろん実学 主義 (Realismus)の 中核的本質 は 事物 (Realien)お よび 自 然 へ の 関心 で あ るが, ヒューマ ニズムの それ は 人間的 (human)な もので あ るか ら, ヒューマ ニ ズムを も って直 ちに 実学 主義 と言 うこ とはで きな い。現 実 に ヒューマ ニ ズムを極度 に強調 した時代 には 実学主義 は抑圧 された。か の 啓蒙時代 の後 に生 じた新人文主義 や カ トリック主義 の興隆 に よって,一 時 の ニ 実学 主義 はそ の 勢 が 阻止 された 。 ヒューマ ズ ム と実学 主義 は 本質的 に 異 な る本 質 を も って い るが,実 学主義 が ヒューマ ニ ズムを根底 に 包蔵 して成立 ,. して い る こ とは前述 の如 く明 らか で あ る。 また humanistic realism,social. realsm,sense realismの それ ぞれ は,古 典 ,社 会 ,事 物 を媒介 とす る点 に 相違 は あ って も,い ずれ も人間 の個人的 自覚 が 重要 な動 因 に な っていた点か らも,実 学主義 は ヒューマ ニズムを基底 に して いた と言 い得 る。.

(3) 松 浦 伯 夫. 他方 ,わ が 国 において, 如 上 の 西洋的実学主義 を 提 唱 した のは 福沢 諭吉. (1834-1901)で あ る。 かれは, 人 々が「 勤む べ き」学 問 は「 人間普通 日用 に 近 き実学 な りつ」 とした。 この場合 ,も し実 用的学 問を も って 実 学 とす る ので あれ ば,山 鹿素行 (1622-1685),石 田梅岩 (1685-1741)の 思想 に も 見 られ るが ,福 沢 の実学 には「学 問」 と「 生活」 との結合 の 仕方 に特異性 が あ る。福沢 は「 今 の文 明学 を文 明 として之 を和漢 の 古学 に比較 し,両 者相 互 に 異 る所 の要点 を求むれ ば,単 に物 理学 の根本 に拠 る と拠 らざ る との 差違 あ るのみ の」 とか ,「 我 が 慶応義塾 に 於 て初学 を 導 くに 専 ら物理学 を以 て して 9」 な どと述 べ てい る。 福沢 は 学 問 の 中 におい て,物 恰 も諸科 の予備 と為す 理学 を基本的 な もの と考 え てい る。 この 点 に注 目した丸 山真男 は福沢 が ヨー ロ ッパ の学問 の核 心を「 数学的物 理学 つ ま リニ ュー トンの大成 した 力学体系 を さす. 1の. 」 として,「 物理学 を学. 問 の 原型 においた ことは『倫 理』 とか『 精神』 の軽視 ではな くて,逆 に新 た な倫理精神 の確立 の前提 な ので あ る。 彼 の 関 心 を ひいた のは 自然科学 それ 自 体乃 至 それ の もた らした諸結果 よ りも,む しろ根本的 には近 代的 自然科学 を 産 み 出す様 な人間精神 の在 り方 で あ った. lD」. とした。. この 人間精神 は,福 沢 が「 東洋 の儒教主義 と西洋 の文 明主義 と比較 して 見 るに,東 洋 に な きものは,有 形 に於 て数 理学 と無形 に於 て 独立心 と,此 二 点 で あ る1"」 と言 った と ころの「 独立心」 と「 数 理学」 とを一 つに した精神 で あ る。 言 うまで もな く「 独立心」 は ヒューマ ニズ ム,「 数 理学」 は 合 理主義 を象徴 してい る。かれ に よる と,実 学 の人 は人間 として の主 体性 と経験主義 的合理主義 を併 せ もつ もの と言 い 得 る。 福沢 は この実学 を,明 治維新 に あ た り,わ が 国 の近代化 のための思想 とし て『 学 問 のすす め』 をは じめ数多 の 著書 ,論 文 に提 唱 し,か れ の 死 の五 年前 の 論説 に「 我輩 が 多年 来 唱 ふ る所 は 実学 一 遍 に して 古風 な る 漢学 に 非ず」 (明 治 29年 6月 10日. 1め. )と 述 べ , 実学 の 普及 に 尽 力 した こ とを 述 懐 して い. る。 福 沢 が 生涯 か け て 唱 えた この 思想 は,西 洋 においては 内発的 で あ ったが. ,.

(4) 150. 実学主義の生成について. わが国では従来,外 発的 とされた。夏 目漱石 (1867-1916)も 「西洋の開化 は 内発的であ って, 日本の現代の開化は外発的である1° 」 と言 う。 しか し ,. わが国の近代的思想の生成 について,内 発的か外発的かを,一 概 に論ず るこ とは至難 であ る。本稿 では,実 学主義思想 に視点をおいて, この点の考察を 試み よ うとす るものである。. 林 羅 山 と実 学 徳川幕府 は 彼岸的仏教 を排 して,此 岸的儒教 を文教 の 精神的 中枢 においた ことは 、 一 見 かの西 洋 ル ネ ッサ ンス期 の 中世的宗教 か ら脱 して,人 間的 自覚 と 自由に もとづ く ヒ ューマ ニズ ムの昂揚 の過程 を類推 せ しめ る。 しか し徳川 初期 の儒教 の主流は朱子学 で あ って,そ れは人間的 自覚や 自由を積極的 に推 進 せ しめ るものではな く, む しろ 抑制的 で あ った こ とは 周知 の と ころであ る。 したが って, ここでは まず 朱子学 の導 入 に 中心的役割 を演 じた林羅 山. (1583-1657)の 思想を実学主義思想 の 観点 か ら瞥見す る。. 1)主 体性 羅 山 の師 ,藤 原. l12富. (1561-1619)は 儒教 を重 ん じて,人 倫 の道 の 確立 を. 学 問 の真誦 とし,「 人倫皆真也. 15)」. 言 と伝 える「 世間虚仮唯仏是真 もので あ るが, かれが 元和. 19)」. と言 う。 これは 聖徳太子 (574-622)の とい う中世的 な もの を打破 しよ うとす る. 3(1617)年. 「 夫 レ道 一 ニ シテ教 三 ,心 一 ツニ シテ笑 三 見解 を表 明 してい る。. l12宮. 57歳 の 折 に書 した『題 三 笑図』 に 1つ. 」と記 し,儒 仏道 の三 教 一 致論的. は朱子学 に徹 し得ず , しば しば曖昧 な態度 を とっ. てい る。 これ に対 して羅 山は「 経 ヲ解 スル コ ト紫陽氏 (朱 子 )ヨ リ粋 ナル コ トハ ナ シ1° 」 として朱子学 を 自己 の学 問的立場 として,幕 府 に登用 され るや 朱 子学 を正学 とした こ とは周知 の と ころ で あ る。 朱子学 の 形而 上 学 的基礎 と な った ものは 周沫渓 (1017-73)の 『 太極 図 説』 とされ てい る。 朱子 は 宇宙万物 の根源 として 形而 上 学的 に 太極 を想定.

(5) 松 浦 伯 夫. 151. し,程 子 の 見解 を加 えて「 太極 ハ只是天地万物 ノ理 19」 と断定 した 。 か くし て 太極 (理 )は 理気 とな り,気 は陰陽 とな り,陰 陽 は五 行 (木 火土金水 )と な り,五 行 は種 々相交 わ り,万 物 を創造 した。他方 ,大 極 (理 )は 分殊 の理 として,万 物 の それ ぞれ に天命 として賦与 され ,こ の分殊 の理 は物 において は理 ,人 においては性 とな った 。 この性 (理 )が 気 に よって動 くとき情 とな り,性 と情 を兼ねた もの を心 とした。 この よ うに太極 に よって 天地 間 の万物 が 創造 され ,さ らに万物 の性 =理 が 総括 され るが,も ちろん太極 は 懸空 に外在す る人 格神的存在 では な く,万 物 に 内在 して造 物者 な い し主 宰者 として の機能 を もつ とされ た。 この天 の機 能 を天道 とい う。 他方 ,人 は物 に 内在す る理 を窮 め,物 に賦与 された理 と自己に賦与 され た 性 =理 とを貫通 させて,天 理 の全体や機能 を把 え,天 の造物・ 主宰 の機 能 を 参賛. (ま. じわ りたす )け る。 これ を人道 とした。. この よ うな朱子学 に立 つ 羅 山は,社 会秩序 を 自然的 な ものに拠 って 静動 二 面 か ら基底 づ け (Fundierung)を した。静的 な もの とは,天 地 とい う空間的 静的 自然 に よって「 天 ハ タカ ク,地 ハ ヒクシ,上 下差別 アル ゴ トク人 ニモ又 君 ハ タ ツ トク,臣 ハ イヤ シイ ゾ2の 」 の 如 く社会秩序 を基底 づ け た。動的 な も の とは,天 =理 が万物 に分れ て賦与 され る とい う動的 自然 に よって「 人・ 物 は天地 よ り出ず る本 是れ理 一 な り。 予 た り, 民 た り, 物 た り, 兄弟 た り ,. 聖賢 た り,不 才 た り, 孝子 た り, 21)」. り. ll■. 賊 た り, 富貴 た り, 貧賤 た る是 分殊 な. とぃ う。 この よ うに二 つ の 自然化 に よって 人 は社会的 に も生来的 に も. 完全 に 自然 の宿命 に よって生活す る存在 にせ しめ られ た。 したが って羅 山 の 人 間観 においては,人 はその主 体性 な い し主 体的行為 は認 め られ なか った 。. 2)合 理性 羅 山 の 自然研究 はいか な る特 質 を有 した ので あろ うか。天 =理 を 自然界・ 道徳界 の根源 とす るかれは, 自然探究 として の格物窮理 の 力点を道徳 の根源 の解 明 においた 。「 天 ハ上 ニ ア リ, 地 ハ下 ニ アル ハ天下 ノ礼也。 此天地 ノ礼 ヲ人 ムマ レナ ガ ラ心 ニユ タル モ ノナ ンバ,万 事 二付 テ上 下前後 ノ次第 ナ リ ,.

(6) 152. 実学主義の生成について. 此心 ヲ天地 ニ ヲシ ヒ ロム ンバ ,君 臣 上 下人間 ミダル ベ カラズ2の 」 と言 う。 羅 山はす でに西 洋 の 自然科学 の知識 に接 してい るが,そ れ に¬1を か さなか った 。す なわ ち慶長 H(1606)年 6月 15日 弟信澄 とともに『 妙貞間答』 の著 者 の耶蘇会 士 ,不 干. (1565-1621?)を たずねた時,不 干 が「 吾邦舟 ヲモ ッ. テ大 洋 ヲ運漕 ス,東 極 ハ是 レ西 ,西 極 ハ是 レ東 ,是 ヲモ ッテ地 ノ園 ナル フ知 ル2の 」 したが って 地 下 が 下 で 地上 が上で あ るが , 地下 もまた 天 で あ る とし た 。 それ に対 して羅 山は「 地下豊 二天 ア ラ ンヤ,万 事 ヲ観 ル ニ皆上下有 り ,. 彼 ノ上 下 ナ シ ト言 フガ如 キ ハ,理 フ知 ラザル ナ リ. 20」. と反駁 して い る。天理. を信 奉 して, 自然 を親 験 目賭す る こ とのなか った羅 山は西 洋風 の経験主義的 認識 に よる合理主義 に達 し得 なか った。 なお西 洋近代 の 自然研究 も朱子学 の それ も,人 間生活 へ の利用 を 目的 に し たが ,前 者 は 人間 の 理性 で も って 自然 を 征服 して 利用 しよ うとした に対 し て,後 者 は人間 の「 才智」 を も って天 =理 を窮 め ,天 の化育 に参賛け る こ と を 目指 した。 た とえば京都 において伊藤仁斎 と 並 称 され て 有名 な 朱子学者 , 中村 lla斎. (1629-1702)は そ の著『 講学筆記』 に「 (天 )ハ 今 ,之. (人 間 )二 賦 スル. ニ,才 智 ヲ以 テ スル ハ,其 レ豊 二徒 ニセ ンヤ,必 ズ将 二此 ヲ以 テ其職分 ヲ為 シ,之 二其性分 之理 ヲ尽 シ, 以 テ造物之功 二参 り賛 ケ シメン トスル ノ ミ25)」 とか「 謂 フ所 ノ物 ,則 チ民葬 ハ,ス ナハ チ是 レ天 ハ人 ヲシテ万物 二霊 ナ ラ シ メ,化 育之功賛 ケ シメル所 以 ナ リ。実 二天職 卜謂 フベ キ ノ ミ20」 と言 う。 ま た 大槻茂質 (玄 沢 )(1756-1827)は そ の 著『和蘭医事問答』 (1795)「 序」 に朱子学 の立場 か ら医学 を「 天寵 ノ霊 二答 へ,聖 化 ノ万 一 ヲ補 フ所 以 ノ者 27)」 として い る。 かの広瀬淡窓 (1782-1856)も 朱子学者 の「 究理 ノ学 ハ天 ヲ知 ル フ第 一 トス。先 (ヅ )天 道 ノ理 ヲ推 シキ ハ メテ,微 細 二通徹 シ,而 シテ後 二其行事 ノ理 二合 スル処 ヲ以 テ敬天 トスル也 20」 と記 してい る。 ここには 人間 の理性 で も って 自然 を征服す る思想は な く, 自然 の 中 に天理 を求め,そ の 化育 に参賛け,追 随す る思 想 が あ るのみで あ る。. 3)実 学的性格.

(7) 松. 浦. 伯. 153. 夫. 羅 山は朱子学 の根本思想 た る天 =理 を万物 の根源 にお く立場 を固守 したの で ,人 間的 自覚 には至 り難 く, 自己 の理性 に拠 って 事物 を経験的 に認識す る 合 理主義 に も至 り得 なか った 。 したが って西 洋的 な実学主義 には 程遠 い思想 の段 階 に あ った 。 なお羅 山は「 実学」 とせず「 実」 とい う語 を使用 した。「 夫 レ儒 ハ実 , 仏 ハ虚・……今若 シ虚 卜実 トニ於 テハ則 チ誰 レ人 力虚 ヲ取 り実 ヲ舎 テ ンヤ,然 モ 仏 ノ実 ナキ ヲ取 ラバ ,則 チ道 ヲ聞 カザル ノ過 ノ ミニ非 ズ,虚 実 ヲ知 ラザ ル ノ 過 ノ ミナ ラ ンヤ,… …朱子 曰 ク 寂滅 ノ教高 クシテ実無 シ……吾 ガ所謂 ル道 ハ 道 ナ リ。道 ナル ト道 ニ アラザル トハ,他 ナ シ, 実 卜虚 トナ リ, 公 卜私 トナ リ29)」 と,朱 子 の『 大学章 句序 30』 の 語 を引用 して,儒 教 が 実 に して,仏 教 が 虚 で あ る こ と,儒 仏 ともに道 を 語 るが,儒 は公的世界 の 人倫 を説 くが ,仏 は私的個人 の救済 0解 脱 を説 くの み で,仏 は 高遠 な よ うだ が,本 質 は虚 で あ る と述 べ てい る。 この場 合 ,私 的 な彼岸的救済 を虚 として,現 世的人間行為 の あ り方 を主題 にす るもの を実 として い る。 この実 を「 実学」 と解す るな ら ば,そ れは人間 の行為 の学 として の「 実行 の学」 「 実践学」 の 意 で あ り,西 洋的 な実学 の概 念 と異 な る。 しか し羅 山は「 格物窮理」 の立場 か ら博物学的関心 を も っていた よ うで あ る。慶長 12(1607)年 長崎 で『 本草綱 目』 を入手 して,そ れ を参考 に して寛 永. 7(1630)年 『 多識論 31)』. 「 黒沢氏馬書序. 33)」. 3の を編述刊行 したが , さ らに 「 鉄胞書序二 篇 」. 「 百椿 図序. 34)」. 等 もあ る。 しか し これ らは 実試実則 の結. 果 の成果 で な いので堀 勇雄 は「名物学 の レ ヴェル. 35)」. に とどまった よ うだ と. され てい るが , この よ うな博物学 的 な羅 山 の著作 が,後 世 ,古 辞学 ,国 学. ,. 天文学 ,本 草学等 の 諸学 の振興 に貢献 した と見 る こ とが で き る。. 荻 生 征篠 と実学 荻生狙篠 (1666-1728)は 古文辞学 に拠 って新 しい学問的方法 と思想的立 場を確立 して,朱 子学を批判 した。その組篠 の立場を実学主義 の観点か ら検.

(8) 154. 実学主義 の生成 について. 討す る。. 1)主 体性 羅 山は道 の根源を天然 自然 においたが,狙 篠 は 道 は 先王 の造 る と ころ とし た。 「 先 王の道 は,先 王 の造 る所也。 天地 自然 の道 には非 ざるな り。 蓋 し先 王 聡 明叡知 の徳 を以て天の命 を受 け天下 に王 た り。其 の心 ,一 に 天下 を安 ん ず るを以て務 と為す。是 を以て其 の心 力を尽 くし,其 の知巧 を極 めて,是 の 道 を作為 し,天 下後世 の人 を して,是 に 由 りて之 を行 は じむ 。 86)」 したが っ て先王 は 天命を受 けた特別 の存在 で あ り,卓 越 した エ リー トで あ る。 この エ リー トが 平天下 の 法 を制定 したので あ るか ら,正 し く天下 を 安 んず る絶対的 法 な い し道 で あ る とした。 しか も徊篠 は 先王 =聖 人を歴史的 存在 とし「 几人 の能 く及 ぶ所 に非 3つ 」 ぎる天性 に よ って,無 秩序 に秩序 を付与す る絶対者 と し,非 人格的理 念化 を防 い だ。 したが って羅 山が「 君臣 卜父子 卜夫婦 卜兄 弟 卜友 ダチ ト此五 ノ間 ハ 古 モ今 モ,天 地 ノ間 ニ アル モ ノナ リ30」 と道徳 的規範 を 自然的存在 とした に対 し. ,. 狙篠 は 父子 の愛 を 自然的存在 としたが,他 は 聖人 の 作為 とした。 「 五倫 の 内. ,. 父子 の 愛 は 天性 に候。兄 に 悌を行 ふ といふ は,幼 少 よ り父母 のひた物 に教 る ゆ へ に こそ存候 へ 。教 な き者 は 曽て兄を 敬す る こ とは 不存候 39)」 とし,「 夫 婦 の倫 は伏義 の立玉 へ る道 な り40)」 「洪荒 の世は 只畜類 の 如 くに こそ候 へ 。 ま して君臣朋友 の 道 に至 りては, 聖人 の 立玉 へ るに よ りて こそ 人是 を存候 へ 41)」 「 五倫 といふ 物 も 是 を立 ざれ ば,天 下 は 平 治 な らぬ事故 ,聖 人 の立玉 へ るにて候。 4"」 さ らに「 た とえば五穀 を耕す といふは 神農 の建立 し玉 へ る 事也。宮室 を作 り衣服 を織 り出す事 は黄帝 の建立 し玉 へ る事也 43)」 と生活様 式 の一 切 を聖人 の 作為 とした。 この よ うに組篠 は 先王 =聖 人 といふ絶対 的存在 を認め ,そ の 人間的主体性 に もとづ く作為 に よって社会的秩序 が 形成 した とした。 そ して「 先王 の道 に 循 ふ ,之 を正 と謂 ひ,先 王 の道 に 循 は ざる之 を邪 と謂 ふ40」 と言 う。 これは 当時 の幕府政 治 の 危機 を救 う方途 を示 した。す なわ ち「皆其代其代 の 開祖 の 君 の料簡 にて世界全体 の組 立 に替 り有之候故 ,制 法替有之候 4D」 と.

(9) 155. 松 浦 伯 夫. 幕府 の政 治的諸制法 の変 改を将軍 自身 の料簡 に よってなす こ とを正 当化 して い る。 また「 日本 国中 ハ上 ノ御心侭成様 に被成置 ザ ル トキ ハ,時 二取 リテハ 政 道 ノ指 ツカエ ル所 有. 40」. 上 ノ御 心侭 ニナ ル 仕方. 47)」. りとした り,「 世界 ノ万民悉 ク 上 ノ御 手 二入 テ. ,. にす べ きで あ る と述 べ ,将 軍政 治 の絶対主義 を理. 想 とす る思想があ る。 この よ うに組篠 に よって, よ うや く将軍 の みが先王 =聖 人 に該 当す るエ リ ー トとして,人 間 として の主体性 が 認 め られ , 自由を もつ 存在 とす る思想が 形成 された 。. 2)合 理性 狙篠学 においては, 自然 と人間を分 離 し,天 道 と人道 を別個 の もの とした ので,近 代的 自然科学 を発達 せ しめ る素地 を有 していた 。 かれ は「 先 王 の教 は物 を以て し,理 を以てせず 40」 と述 べ ,朱 子学 の よ う に形而 上 学的天理 を語 らず ,「 物」す なわ ち 礼楽刑政 の 具体的事物 に拠 って 論 じたが ,そ の「 物」 は感覚的 な 自然 の「物」 ではなか った 。 狙篠 の この「物」 は三 枝博音 も指摘 した よ うに「 す べ ての世 の 中 の き ま り 50)」 で ぁ る。 かか る り49)」 で ぁ り,「 ヨー ロ ッパ的 に い えば,ノ モスの こ と. 「 物」 は文 辞 に支 え られ てい るが , 自然科学 の 対 象 と しての「 物」 ではな く,い わ んや ,感 覚的実学主義 の場合 の「 物」 ではない。 それ では狙篠 は感性的 自然 の「 物」 に対 して, どの よ うに 見 たのであろ う 51)」 とか か。 「 風雲雷雨 に 限 らず , 天地 の 妙用 は, 人智 の 及 ば ざる 所 に候. 「 日月星辰 の撃 り,風 雷雲雨行 はれ ,寒 暑昼夜往来 して已 まず ,深 玄 な り ,. 測 る可 か らず , 杏冥 な り, 度 る可 か らず. 5"」. と, 不可知論 に お ち い ってい. る。 さ らに「 神妙不測 な る天地 の上 は,も と知れ ぬ 事 に候 間,雷 は 雷 にて可 被 差置候. 53)」. と投 げ出 してい る。. したが って組 篠 においては,感 性的 自然 の「 物」を介 しての近 代的合 理主 義 の生成 は絶無 とい うべ きで あろ う。. 3)実 学的性格 狙徳学 には近代的 自然科学 の萌芽 はないが ,社 会科学的認識 へ の萌芽 が あ.

(10) 実学主義 の生成について. 156. る。 「 六経 はその物 な り。 礼記 ,論 語 はその義 な り。 義 は必ず 物 に属 き, しか るの ち道定 まる。す なは ちそ の物 を舎 てひ と りそ の義 を取 らば,そ の乏濫 自 50」. 卑 せ ざる者 は幾希 し. と言 う。す なわ ち六経 には「 物」 =具 体的事実 が記. され ,礼 記 ,論 語 にはその事実 の義 (意 味 )が 説 かれ てい る。義 は 必ず事実 と密 着 して一定 の道 にな る。事実 を抜 きに して義 のみ にた よれ ば,主 観 に も とづ く勝手 な解釈 ばか りに な るであ ろ うと言 うので あ る。 この よ うに道 は「 物」 に あ る として,狙 篠 は『学貝J』 第 三 項 に「 それ六経 は物 な り。道 ,具 に ここに存す」 と記 した 。 また古 代 と現代 の違 い を「 物」 (礼 楽刑政 )に おいて 知 るべ き こ とを 『 学則』 第四項 に 「 それ 古今 は 殊 な. り。何 を以 てかその殊 な るを見ん。唯 だそれ 物 な り。物 は世 を以 て殊 な り。 5D。. 世 は物 を以 て殊 な り。」 と説 く. この「 物」 は ノモスで あ り, ヴェーバ ー. のい うエ ー トス に該 当す る。 また「 古 に通 じて以 て極 を立 て,今 を知 りて 以 て これ を体 し,世 々を差 し て 以 てその 来 を観れ ば,そ の民俗 ,人 情 にお け るは,な ほ これ を掌 に視 るが ご ときか」 (学 則第四項 )56)と して ぃ る。 「 古」す なわ ち六経 に記 され た聖 人 の 時代 を明確 に して,「 極」す なわ ち ヴェーバ ーのい う Idealtypus理 想型 に 類す る一種 の物差 しを確立 して ,そ れ に よって現代 を知 り,そ れを具体化 し て各時代 の変遷 を考 え てい けば,社 会や人間 の実情 が 明瞭 に認識 で き る とし てい る。 これ は 明 らか に現今 の社会科学的認識 の 仕方 の範疇 に属す る もので あ る。 さ らに「 史 は 必ず志 に して, しか るの ち六経 ます ます 明 らか な り。 六経 明 らかに して 聖 人 の道 に古今 な し。 それ然 るの ち 天下は 得 て 治む べ し。故 に 5つ 君 は必ず世を論ず。 またただ物 な り」 (学 則第四項 )と 言 う。 す なわ ち歴. 史 は志 =誌 に して文物制度 が記 され てい るので六経 の 時代 が 明 らかにな る。 六経 が よ くわ かれ ば聖人 の道 には古 今 の差 が ない こ とが わか る。道 がわかれ ば天 下 を治め る こ とにな る。 そ の故 に君子 は必ず 世間を論 じる。 そ の場 合 ひたす ら「 物」 =ノ モスを論 じる ことに な る と言 うので あ る。. ,.

(11) 松 浦 伯 夫. 157. 「 物」 は ノモス とか , エ ー トスに あた り,「 道」 は道徳 のみで な く政 治経 済 を包含 した文物制度 で あ る。 かか る思 想 か ら「 物」 を記 した歴 史 を重視す る見解 が 生 じる。狙篠 が 出羽庄 内 (鶴 岡)藩 の家老水野元朗 の 質 問 に答 えた 「 答問書」 に「 見聞広 く事実 に行 わ た り候 を 学 問 と申事 に候故 , 学問 は歴 史 に極 ま り候事 に候 50」 と言 う。 また聖 人 が社会 の 事物 に考察を加 えて「 道」 を立 てた よ うに,狙 篠 自身. ,. 幕府体制下 の 当時 の社会を考察 して新 しい「 道」 を立 て よ うとした。かれ の 晩年 ,享 保 10年 か ら12年 (1725-27)の 頃 ,八 代将軍吉宗 の 求 めに応 じて執 筆 した と推定 され る『 政談』 に そ の特色 が 見 られ るが ,当 時 の社会的矛盾 を 指摘 し,そ の 改革 の要諦を示 唆 した 。 た とえば 当時 の 武家 の経済的 窮乏 の原因を 幕藩体制 の もつ 矛盾 に よる と し,次 の よ うに記す。「武家御城下 二集 り居 ハ旅宿也。 諸大名 ノ家来 モ其城 下 二居 ル フ江戸 二対 シテ在所 卜雖 モ是又 己 ガ知行所 二非 ンバ 旅宿 也 59)」 それ 故 ,武 家 は知行米を売 って, 日用 品 のす べ て,い わ ば「箸 一 本 6① 」 まで買調 えね ばな らな いので,結 局「御城下 の町人盛 ニナ リ……物 ノ直段 次第 二高直 二成 テ, 武家 ノ因窮 , 当時 二至 テハ最早 ス ベ キ様 モ 無 クナ リタ リ61)」. と言. う。 武 士の城下町集住 は藩主 の政 治的軍事的必要 か らで あ るが ,そ れは当然. ,. 商 品経済 に影響 した 。 幕藩体制初期 の 商 品経済 では 領主 の権 力 の 庇護 の下 で,主 要商 品 の 米は領主が百姓か ら徴収 した 年貢 米を領主側 が売 り,商 品化 した。他 の諸種 の商 品 も,都 市 に集 め られ た職人 の 手 で生産 し,そ の職人 は 領主 か ら特権 を与 え られた職人頭に支 配 され た。職人頭 は御用商人 と共 に町 年寄や名主等 を勤 めた 。 この よ うに商 品 が 生産 か ら流通 まで 領主 の支 配機構 の下 に あれ ば「旅宿」 の武家 も左程 の 困窮 にお ち い らなか った。 しか し開幕後六十余年後 の 寛文一一 延 宝 の 頃 か ら農村 の商 品生産 が急成長 した。稲作 の不適地 では漆 ,櫨 ,麻 ,茶 等 を つ くり,年 貢 を金納 し,稲 作 の 適地 で も敢 えて木綿 , 煙 草 , 莱種等 をつ く り, 年貢 を 石代納 として金 納 し た 。稲作 よ り商 品作物 の方 が 農民 に 利益 が 多 く残 ったか らで あ る。 また農.

(12) 158. 実学主義の生成 について. 具 ,肥 料 ,灌 漑等 の 技術 が 発達 , 加工業 (綿 製品,綿 家 か らの製油,酒 造) も進 んで各地 に 特産物 の商 品 が 出現 した。 この趨 勢 が都市 の消費 を 向上 させ て,「 金 サ ヘ ア ンバ 如何様 ノ火急 ナ ル事 ぅ便利 さにな った 。 さ らに 寛文年 間 に 河村瑞賢 に よって奥. モ皆 間 二合 6"」. 州 と江戸 (東 廻 り),出 羽 0北 陸 0山 陰 と大坂 (西 廻 り)の 航路 が 改 良 され. ,. 急速 に この外 の 海 上輸送 も整 い,経 済界 が一 段 と活性化 した。初期 にみた御 ヘ 用商人 は衰 え,新 興商人 が 拾頭 し,狙 徳 も「 元禄 ノ頃 ヨ リ田舎 モ銭行渡 テ 銭 ニテ物 ヲ買 コ トニ成 タ リ. 63p」. と記 して い る。. か くして「 諸事 ノ物 ハ皆商人 ノ手 ニ ア リ。夫 ヲ金 ヲ出 シ,貰 ヒ請 テ用 フ弁 ズル コ トナ ル故 段 ノ押 引 ハ ア ン ドモ,押 買 (無 理 に 買取 る)ハ ナ ラ ヌ コ. ,直. 60」 で ぁ る。 したが って「 アキ (商 )人 トナ ンバ ,畢 党直段 ハ商人 ノ言次第. ノ勢盛 二成 テ, 日本 国中 ノ商人通 ジテー 枚 トナ リ,物 ノ直 段 モ遠 国 卜御城下 卜釣合 セ テ居 ル故 ,数 万人 ノ商人 一 枚 二成 タル勢 ニハ勝 レヌ事 ニテ,何 程御 6D」 と当時 の商業資本 の恐 る 城下 ニテ御下知有 テ モ物 ノ直段下 ラ ヌ筋 モア リ べ き勢 を説 き,「 シメ売 ノ コ ト昔 ハ 未 ダ初心 ニテ其物 ヲ蔵 へ 買込 デ 置 タル故 ,. 其子細 知 レ安 シ。今 ハ物 ノ出 ル 元 へ金 ヲ前方 ヨ リ遣 シ置 テ人. 二売 セ ネバ ,高. ク売 ベ キ モ我心 次第 60」 とも記す。 か くして「 武家 の 困窮 ,当 時 二至 テハ最 早 ス ベ キ様 モ無. 67)」. しとぃ う状態 で あ った 。. この よ うに経済的危機 の核心 を 明示 してその救済策を記 述 したのが『 政談 談』 で あ るが,上 記 の瞥 見 においてわか る よ うに,そ の優 れ た説 得力 は 現実 の社会事象 =「 物」 に即 して論考 したか らで あ る。 そ の 意味 では『政談』 を 中心 とす る狙篠学 は社会科学的 性格 を もち,一 面 ,西 洋風 の social realism の傾 向が あ る。 しか し本 来 の social realismの よ うに万 人 に人間 として の主 体性 や 自由を認 め るに至 らず ,聖 人 な い し将軍 とい うエ リー トにのみそれ を 認 め る立場 で あ るの で,狙 篠学 はそ の エ リー トの要請 に応 える学 で あ った と 言 える。 それ は必然的 に「 聖人 の 道 し「 政務 ノ筋 二入用 ナ ル事. 70」. 60」. す なわ ち「 治国平天下 の道. 69」. ない. を主 内容 とした。 いわ ば絶対君主 として の将. 軍 のための学 で あ り,万 人 のための学 では なか った 。.

(13) 松 浦 伯 夫. 159. この よ うにみ る と,組 篠 学 では実在 の人間 としての聖 人 =将 軍 に人 間 とし ての主体性や 自由を認 めた 。 それが 明治維新 において 四 民平等 を認 め られ る にいた ったので あ って,狙 篠学 はわ が 国 の 四民 平等思想 の形成 の 第 一 楷梯 を 提 供 した もの と言 え よ う。. 4。. 征 休 学 以 後 の思 想 界. 朱子学 にお け る 自然 と人 間 の連続的構成 を分 離 せ しめた ものは,上 述 の 古 学 ,就 中狙篠 学 で あ った。 そ の組篠学 の 出現 に よって儒教界 に討論 の 自由の 風 を生ぜ しめ,井 上金 峨 (1739-84)が 「 物氏 ノ学行 ナ ワンテ ヨ リ,学 者 自 ラ処 スル ニ太 夕高 ク,五 尺 ノ童子 モ亦先賢 ヲ議 ス71)」 と言 い,那 波魯堂 (17. 27-1789)が 思想界 に「 帰 一 ノ風 7の 」 を失 った と言 う。 この 混乱を抑制す べ く,周 知 の 如 く幕府 は 寛政 異学 の禁令 を出 し,朱 子学 の 勢力 の挽 回を試みた。 勿論 , この禁令 の発令 には 種 々の要 因 が あ って. ,. 崎門流 の朱子学徒 が主 導権奪 回を企 て, この禁令 を利用 した 点 も看過 で きな い。 当時 の大学頭林信敬が この禁令を「 山崎流 の取計 7D」 と非 難 して いた こ とか らも,そ の 事情 が 推察 で き る。 しか し西 山拙斎 (1735-98)が 柴野栗 山 (1734-1807)に 宛 てた 同令 の発令促進書状 70で は 朱子学 のみで な く,儒 教 界全体 の 不振 な い し弱 体化を くい止め よ うとす る意図 がみ られ る。 それ では如何 な る形 で儒教 が 弱体化 を示 したので あろ うか。第 一は 神儒仏 三 教 の一 致論 の 拾頭 で あ る。 この三 教 を同等 に 見倣す 見解 は朱子学 を正学 と す る幕府 の容認 しがたい 見解 で あ る。 しか し これは儒教 を政 治的 よ り心術的 に考 え る下級武 士や 町人階層に 普及 した。 た とえば 雨森芳洲 (1668-1755) ま「老聘 ハ虚無 ノ聖者也。 釈迦 ハ慈悲 ノ聖者也。 孔子 ハ 聖 ノ聖者也。 三聖 ヤ 人 ノ言 ハ形而上也 , 謀 ラズ シテ同 ジ, 蓋天唯 一 ノ道 75)」. と述 べ, 松宮観 山. (1686-1780)は 「 三 教 同 じか らざるに似 た りといへ ども, 然れ ども 人性 に 循 て 治をなす ものは一 な り70」 と言 う。心学者石 田梅岩 は「 神儒仏 とも悟 る 心 は一 な り。何れ の法 にて得 る とも皆我心 を得 るな り7つ 」 と言 い,他 の心学.

(14) 160. 実学主義の生成について 70。. 者 も概 して三 教 一 致 を説 く。 それ に つ いて石川謙 は既 に詳論 してい る. 富永仲基 (1715第 二 は三 教 のいずれ に も欠点 を有す るとす る所 論 で あ る。. 46)は 三 教 の究極 目標 は「 誠 の道 79」 に あ る とは い え,「 三 教 にみ なあ し き く せ あ り,是 を よ く弁 へ て迷 ふ べ か らず 秘的空想 に陥 り,儒 は「 文. 8の. 8の. 」 と述 べ ,仏 は「 玄. 81)」. に流れ ,神. 」 に 流れ ,文 辞倍屈 に堕 し,神 道 は「絞. 8紛. 」に. 流れ ,清 介質素 に過 ぎ る とした。 これは前述 の三 教 一 致論 よ り積極的 に儒教 の権威 を侵 した。 また三 浦梅 園 (1723-95)は 「 聖人 と称 し,仏 陀 と号す る 80」 「 習気 になや まされ も,も とよ り人 なれ ば 86)」. きがた く. 「畢尭我講求討論 の 友. 8つ. 8D」. 聖人 も仏陀 も「 達眼 は開. 」 に過 ぎな い として 聖 人を普通人 と同. 列水準 に した。 第 三 は聖人仏祖等 を敵視す る見解 で あ る。 宝暦頃, 安藤 昌益 (1703-46) は 農民 と関係深 い生活体験 か ら「聖賢仏祖薩羅等不耕 ニ シテ道 (糧 )ヲ 盗 ム 80」 「 仁 ヲ為 セバ 則 チ 必 ズ不仁有 ル故 不仁 ハ仁 ノ罪 輩也。 故 二 之 ヲ好 マ ズ 也 89)」 「仁 ヲ為 ス勿 レ. 90)」. 等 と述 べ 儒仏 を排斥 した。 海保青陵 (1755-1817). は町人生活 の体験 か ら, 儒教 を排斥 した。「儒者 ノ論 ハ唯 ウツク シキ ヨ トフ 91)」 「孔 孟 ノ 利 ヲ厭 ヒ民 イ フバ カ リニテ, 今 日二 取用 ユベ キ コ トニ ア ラズ 9° スル説 」 は乱世 にお け る治術であ って, 大平 の 現今 では「 利 ハ ス. (フ. )愛. 93)」 とし,「 凡 ソウ リ テ ベ キ モ ノ ニ ア ラズ, 民 ハ愛 シス グベ キ モノ ニ ア ラズ. カイノ コ トハ,君 子 ノスル コ トデハ ナイ ト云 ハ,皆 孔子 ノ利 フイ トフ コ トフ 90」 と言 い,「 算用 ゴ トモ治国 ノー 丸 ノ ミニ シテ, ノ ミコ ミソ コナ フタル也. カ条 95)」 として,経 済観念 を も って富をつ くる こ とが肝 要 とした。 国学者本居 宣長 (1730-1801)は 「漢籍 の毒酒. 90」. と儒教 の教 えを排斥 し. アニ 。. この よ うに,は じめ朱子学 は幕府 の正学 として確乎た る存在 で あ ったが. ,. 狙篠 学 以後 ,そ の地位 がゆ らぎ,そ の権威 の 弱体化 に したが って,思 想界 に 自己 の学 問的研鑽 と生活体験 か ら,主 体的 な思想や学問 を樹立 しよ うとす る 気運 が 彫済 として生 じた と考 え られ る。 他方 ,狙 篠 の 晩年頃 か ら洋学 が盛 んにな った。.

(15) 松 浦 伯 夫. 5. 161. 。 洋 学 の 刺 激 と実 学. 洋学 は一 般 に将軍吉宗 の奨励 に端 を発 し,田 沼時代 に 発達 を とげた とされ てい る。吉宗 が 漢訳 洋書 の輸入制限を緩和 して 洋書 の解禁 を断行 したのは享 保. 5(1720)年 で あ る。狙 篠 の死の八年前であ る。 新井 白石 が イタ リアの イ. エ ズス会宣教師 の シ ドッテイ (SidOtti6 G.B.1668-1715)を 訊問 した のは 約 十年前 の 宝永 6(1709)年 H月 で あ った。 前 野良沢・ 中川淳庵 ・ 桂川甫周 杉 田玄 自 らは『 解体新書』 を 明和. 0. 4(1771)年 か ら 安永 3(1774)年 まで の. 4年 かか って訳 した。宝暦 0明 和 0安 永 0天 明にか け て幕府 において専権 を ふ るった 田沼 意次 (1719-88)が 強 い開国思想 の持主 で あ った こ とは,辻 善 之助著『 田沼時代』9つ に詳 しい。前野 良沢・ 杉 田玄 自 らは 意次 の庇護 を うけ. ,. 平 賀源 内 の幾多 の 発 明 も意次 と深 い関係 が あ った 由で あ る。意次 は 洋学発達 史 上 ,看 過 で きな い人物 で あ る。 この よ うに 洋学 の影響を受けやす くな った 時代 に な って,従 来 と異 った思 想家 が 出現 した 。 長崎 の 西川如 見 (1648-1724)は 元来 ,宋 学 と天 文暦学 を学 び儒教的 自然 観 を基礎 に して,『 天文義論』『 日本水土考』 を著わ したが , やは り蘭学 の 影響 を受 け て,『 天文義論』 (1713)に 「 一 人 一 家 の吉 凶, 豊 天星 に 感 じん ゃ 98H」 と述 べ ,『 町人嚢底払』 (1719)巻 上に「 天地 に凶 事 な し。 凶は人 に あ り……生 を吉 とし剋 を凶 とす る ものは,人 界 日前 の情意 な り,天 地万物永世 の吉 凶 には あ らず 99」 として, 自然界 の法則 と人間界 の それ とを峻別 した。 これ は, 自然界 の法則 と 人間界 の それ とを 同一 視 した 羅 山 が「 ああ 日食 の 10の 変 ,最 も天を恐 るべ し」 と『 読 男靖 日食説 』に記 した 思想 とは異 な る。. 三 浦梅 園 は「 天地物 を いわず ,人 々の お もふ様 に 見 らるる物 にて,正 す処 の 人 ,千 差万別 に候 へ ば, 日舌 を以て争 はんには,尽 期 な く, 自得 に し くは な く候 ,さ れ ど其 自得 も心 々に して 101)」 と,天 の実在性 と 原理性 を 説 く朱 子学 と異 った ,人 間 の悟性 な い し理 性 に即 して把握す べ きもの として の 自然.

(16) 実学主義の生成 について. 162. 科学的 な天を説 いてい る。 司馬江漢 (1737-1818)は 天 に つ いて「 天 ノ虚 ハ虚 二非 ズ天 ノ蒼 々タル ハ 設天気 ノ之 ヲ塞満 テ空隙 ナ シ 空色 ナ リ天必色 フ不 レ. 102D」. と『 和蘭天説』(1796). に記 して い る。 これは朱子学 の 天 の 観念 では な い。 それか ら約 20年 後 のか れ の 著『 天地理諄』 (1816)で は「 天 トハ 仰 見 ル 青天 ヲ云此青 キ ハ 気 ノ積 リテ 青 キ ヲナス水淵 二温 マ ツテ底深 キ所 其水 ノ色青 キ カ如 シ天 ノ遠 キ事限 ナ シ又 形ナシ. 103)」. と記す。 この 天 は感覚的知覚 に よって把握 した天 で あ る。. 山片幡桃 (1748-1821)は 大坂漢学塾懐徳 堂 の 門人 に して,洋 学塾先事館 にて麻 田剛立 (1734-99)か ら 西洋天文学 を学 び,「 無鬼論」 を もって有名 で あ るが ,か れ は 従来儒教 において 天 に実在性 と原理性 を付与 したのは「 天 二託 シ 人 ヲ 服 セ シム100」 「方便 105)」 に過 ぎな い と 喝破 した。 また儒教 では 「 積善 ノ家 ノ余慶. 106)」. 10° ゃ「 不積善 ノ家 ノ余狭 107)」 を「天 賞 天 罰 」 とい う. 111)」 もあ る が,そ れ らは「偶然 10"」 で あ って,「 善人 ノ不幸 110」 「 悪人 ノ幸 1lυ と した。 これ らはす べ て「 ミナ人事 」 で あ って,人 間 生活 に 生ず る 社会. 11助 過程 にお け る 自然淘汰 と見 てい る。「 天 卜云 ミナ人事 」 に して「 山川鬼神. 卜云 モ 亦 同 ジ, コ ン天然 自然 ナ リ114)」 と断 じて い る。 この場 合 の「 天然 自 然」 は感覚的 に把 え られ る 自然 で あ る。 また幡桃は狙篠 が 道 を聖 人 に 求 めたに対 して「 孔子 二託 スル 言語 ア レバ ヒ タモ ノ ニ 只信 ジテ コ ンフ 主張 ス, 組篠 氏 ノ『 非先王之法言, 不敢言』 ノル ィl15)」 を斥け て, 道 を「 我賢」116)」 に よって 選択す べ き こととし, さ らに 「 天下 の教法 ,西 洋切支丹 ,天 竺仏法 ……丼 に 日本 の 神道 ……其外国 々に さ 117)」 まざま有 りて。 勝 て論ず べ か らず 。 元来 ,天 下 に一 定 の法 な き こ とな り. と断言 して「 我賢」す なわ ち各 自の 知的判断 に よって選択す べ き こ とを 指摘 して い る。西洋 の啓蒙時代 の理性主義的人間 の 自覚 に も比す べ きもの を幡桃 に 見 る こ とがで き る。 したが って 自然現象 に 対 して も, 狙篠 の よ うな 不可知論 に 陥 い らず「 天. 110J とし 「 西 文 ,地 理 ,医 術 ニオイテハ古 ヘ ヲ主張 シ,是 フ トル ハ愚 ナ リ 洋人 ノ 発 明 二 発 明 ヲカサ ネ. 119」. た と ころを「 実試 スベ シ12の 」 として い る。.

(17) 松 浦 伯 夫. 163. かれ の著『 昼夜長短図並解 121)』 を見 ると, 測定器 を作成 して, 西洋人 と同 じ「 実試 12"」 「 経験試歴 12の 」 を通 じて, 西洋 の 自然科学的知識 を 摂取 しよ うとした こ とがわか る。 幡桃 は 児童 の教育 につ いて も言及 して い る。教 育上 ,重 視す べ き教育 内容 は四 書 五 経を中心 とした漢 学 をは じめ歴史 , 天文 , 地理 , 医学 , 兵学 ,算 学 ,経 済 ,音 楽 ,詩 歌等を挙 げ る。 この場合 の漢学 は勿論 ,朱 子学や古学 で は な く,社 会道徳 を学 ぶ 手段 として用 い「 悪 シキ語 ハ孔子 卜云 ドモ執 ベ カラ ズ,荀 モ善言 ナ ラ ンカ,其 ノ人 ニ カカハ ル コ トナ シ120」 として, 万事「 我 賢 125)」 を も って 取捨す べ しとした 。 歴史 は , 幕府 の威信 にかかわ る部分 で は儒教的道徳史観 に よってい るが ,そ の他 の範 囲 では,た とへ ば古 代 に つ い て │ま 「 古往伝来 ノ説 120」 を 打破 して「疑 シキ ハ疑 ヒ, 議 ス ベ キ ハ議 127)」 す る態度 を求めた。 天文 ,地 理 ,医 学 , 算学 は「 実試」 「経験試 歴」を通 じて 学 習す る こ とを強調 した 。 文字 に つい ては 西 洋 の表音文字 が便利 で学 習 上容 易な こ とを指摘 し,わ が 国 の仮名 が表音文字 で あ る こ とに注 目して,そ の使用法 をわが国 の学術振興 上 積極的 に 考察す べ きで あ る とした。12の. また伝 統的 に あ った 六芸 を排 し. ,. 12"」 と言 い, 実生活 に 密着 風雅文筆 の徒 よ りも「 経済家 ヲ 以 テ 大 トス ベ シ. した人間教育 の 必要 を提 唱 した 。 この よ うな 教育を受 け た者 を「 実学 ノ人」 と呼び「 実学 ノ 人 ハ 五 行 災異 ヲ 事 トセズ13の 」,鬼 神 妖怪 の 「 妖説 ニマ ドワ ズ131)」 と説 いてい る。 この実学 は 伝統的 な実学 と異な り, 人 間的 自覚 の基 礎 の上 に立 って,近 代的合理主義 を根 幹 として い る と見 られ る。 これは独立 心 と数理学 とに象 徴 して 唱 えた福沢 の実学 と同 じで あ る。福沢 の生誕 か ら約 90年 前 の 生誕 の幡桃 に よって,同 じよ うな実学 が既 に説 かれ ていた ことに な る。 それ ではいか な る理 由で,か か る実学思想 を幡桃が もつ に至 ったのであろ うか 。 そ の理 由は幾多考 え られ る。第 一 に,か れ が学 んだ懐徳堂 が朱子学 を 固執 せ ず ,広 く漢学 を講 じた こ とと,礼 楽 ,刑 政 ,軍 法 ,医 術 ,天 文 ,暦 数 にいた るまで筆跡 を の こ した 同塾 の 中井履軒 の影響 を うけた こ と。第二 に. ,.

(18) 164. 実学主義の生成 について. 洋学 塾 で西洋天文学 を 実測 して学 んだ こ と,第 三 に,か れ が羅 山や狙篠 の よ うに幕政 に関与 しな い大坂町人 として,冷 静 な眼で政治経済 の現象 を見 る こ とがで きた こ と等 が 挙 げ られ る。 かれ は「天下 ノ智 フア ツメ血液 ヲカ ヨハ シ,大 成 スルモ ノハ大坂 ノ米相場 ナ リ13の 」 と情 報 の 重要性 を述 べ ,「 今 西国 二蛙 ス,飛 檄 ヲ以 テ米 ヲ買 フ時 ハ 価 躍貴 ス,奥 州豊 ニ シテ米 ヲウル時 ハ崩下 ス,四 国風 ア ンバ船 ヲ飛 シテ買 ヘ バ 又 上 ル。北 国順気 トシテ檄 ヲ伝 フ レバ 又下 ル,関 東洪水 二上 り,三 百十 日 ノ天気 二下 ル 133D」. ま ことに平 明な合理的思考 が 生 き生 きと記 され てい る。. これは師 に教 え られ る よ りも,か れ の 生活体験 か ら得 た もの と言 え よ う。. 6.. ま. め. 1)実 学主義 の生成 を時間的 にみ る と,次 の よ うにな る。 まず西 洋的実学 主義 の 生 じ難 い思想を もつ羅 山 の 生誕 か ら約八十余 年後 の生誕 の得徳 が ,エ リー トた る将軍 においてのみ人間的 自覚 に もとづ く主体性 と合理性 を保持 し 得 る こ とを認 め る思 想 を表 明 した。 そ の思想 は変形 では あ るが,一 種 の社会 的実学主義 の傾 向を もつ と言 い 得 る。 次 に狙篠 よ り約七十余年後 に生れ た幡桃 の思想 に西洋的 な感覚的実学主義 が 見出 された。幡桃 は 福沢 よ り約九十年前 の 出生 で あ る。 この よ うにみ る と 西洋的実学主義 は,福 沢 に よって突 如 出現 したのではな く,そ れ 以前 のわ が 国 の思想発展 の過程 で 徐 々に醸成 され た もの と考 え られ る。 なお, この場 合注 目す べ き ことは ,幕 府 がは じめ,朱 子学 で も って一 種 の 思想統 制を行 っていたが,そ れ が狙篠学 の 出現 に よって弱体化 し,そ の こ と がやがて言論 の 自由の風を惹起 せ しめ,実 学主義思想 の生成 を促 した こ とで あ る。 本稿 では 実学 主義思想 の 生成 にお け る 狙篠学 の 意義 につ いて 述 べ た が ,他 の教育領域 にお け る貢献 に ついて は後 日を期 した い。. 2)実 学主義 の展開 を空間的 に考察 した場 合,前 述 した ご と く漱石 は,わ が 国 の開化 は 外発的 と言 ったが, そ の よ うに 簡単 に 断言 で きる ものでは な.

(19) 松. 浦. 伯. 165. 夫. い。 明 らか に 外因 として,西 欧 か らの刺激 が あ った として も,わ が 国 の人 々 の 中 に,た とえ少数 では あ って も,そ れ につ いての 自覚 が 素地 として生成 し てい な いでは,開 化 は不 可能 で あ る。他方 ,内 因 のみでは,そ れ に係 わ る事 例 も少 く,そ れ へ の着 想を誘発 させ る知識 も限定 され ,急 速 な開化を期 待 し がたい。 わ が 国 の実学主義 も同 じく,単 な る外国 か らの導 入ではな くして,ま ず 内 発的 な何 らか の素地 が 生成 した と ころへ,外 国 か らの実学主義 の刺激 に よっ て 促進 され た と解す べ きで あろ う。 したが って 明治初年 洋学者福沢 の強 力な実学 の提 唱 が あ ったが,同 時 に. ,. 当時わ が 国 の人 々の 精神状況 mentalityの 中 に実学 を 求 め る気運 が,す でに 幾分存在 していたが 故 に, 明治 5(1872)年 学制 に早 くも 実学主義教育 を 採 択 し得 たので あろ う。そ してその後 の学校教育 に影響を与 え る こ とがで きた ので あろ うと考 える130。 なお,明 治以降 の実学主義教育 の展開 につ いては,す でに別稿 に述 べ た と ころであ る。. 3)現 今 のわが 国 の教育 に視点を おいて考 える とき,ま ず ,そ の教育 の現 状 は 実学主義教育 か らみ て,い か な る問題点を含む ので あろ うか 。 また,現 今 の教 育問題 は数多発生 してい るが,実 学主義教育 はいかな る点 の解決 に貢献 し得 るので あろ うか。 さ らに将来 の教育 は現在 に比 して格別 ,人 間性 ,国 際性 ,科 学性等 が要請 され る とすれ ば,実 学主義教育 の考 え方 は, どの よ うに修正補綴 され るべ き か 等 々の 問題 が 考 え られ る。 これ らの究 明 に つ いて も他 日を期 したい。. 注. 1)Paul Monroe, A Brief Course. in the History of Education l"7p. 215. (Macmillan 1907) 2)ditto pe 216f. 3) 4)Po Monroe,A Tevt Book in. the History of Education。. 1905 p. 537.

(20) 166. 実学主義 の生文 について. (Macmillan 1919). 5)Immanuel Kant,Was ist AufklarungP 1784,S。 55(Kleine Vandenhoeck‐ Reihe 1975). 6)皇 至道,独 逸教育制度史,柳 原書店,1943。 231頁 7)福 沢諭吉,学 問 のすす め,初 篇1872.岩 波文庫,1942。 13頁 8)福 翁百余話,福 沢諭吉選集第 7巻 ,岩 波書店,1952。 291頁 9)物 理学 の要用,福 沢諭吉全集第10巻 ,国 民図書,1926。 4頁 10)東 大東洋文化研究所東洋学会,東 洋文化研究,第 3号 ,1947.16頁 11)同 上書,18頁. 12)福 翁 自伝,岩 波文庫,1944。 263頁 13)福 翁百話,創 元社文庫,1951。 75頁 14)夏 目漱石全集巻 12,明 治文学刊行会,1948.261頁 15)jlE富 先生文集,藤 原怪富集巻上,国 民精神文化研究所,. 16)天 寿国曼荼羅繍帳銘,中 官寺蔵. 8頁. ,. 17)日 本倫理彙編巻 7,臨 川書店,1970。 19頁. 18)羅 山先生文集巻 1,京 都史蹟会編,1918。 14頁 19)朱 子語類巻第 1,正 中書房 ,中 華民国,59年 (1970)印 行, 1頁 20)春 鑑抄,続 々群書類従第10,国 書刊行会,1907。 52-3頁 21)前 掲書18),337頁 22)三 徳抄下,続 々群書類従第10。 86頁. 23)24)排 耶蘇,羅 山先生文集巻 2。. 228頁. 25)前 掲書17),54頁 26)同 上書,57頁 27)文 明源流叢書第 2,同 書刊行会,1914。 383頁 28)広 瀬淡窓,約 言或問, 日本儒林叢書第 6冊 ,鳳 出版 1971。 29)前 掲書18),32-3頁. 5頁. 30)朱 子,大 学章句序,漢 文大系第 1,冨 山房,1909。 2頁 「異端虚無寂滅之教。其高 過於大学而無実」. 31)中 田祝夫外共編,多 織編 自筆稿本刊行三種 並びに 総索引 32)羅 山先生文集巻 2,133頁 33)同 上書,135頁 34)同 上書,137頁 35)堀 勇雄,林 羅山,吉 川弘文堂,1964。 134頁 36)弁 道,日 本倫理彙編巻 6,13頁 37)同 上書,15頁 38)前 掲書22),71頁. (影 印篇),1977。. 勉誠社.

(21) 松 浦 伯 夫. 39)40)41)往 篠先生答問書下,前 掲書36),196頁 42)同 上書,198頁 43)同 上書,196-7頁 44)弁 名上,前 掲書36),70頁 45)答 間書下,前 掲書36),202頁 46)政 談巻之 4, 日本思想大系36,岩 波書店,411頁 47)政 談巻之 1,同 上書,274頁 48)弁 道,前 掲書36),21頁. 49)50)三 枝博音, 日本の唯物論者,英 宝社,1956.59頁 51)53)答 問書,前 掲書36),159頁 52)弁 名上,前 掲書36),32頁 54)弁 道,前 掲書36), 12頁 55)日 本思想大系36,192頁. 56)57). 58). 同上書,193頁 前掲書36),153頁. 59)60)前 掲書55),295頁 61)67) 同上書,296頁. 62) 63) 64) 65) 66). 同上書,308頁 同上書,330頁 同上書,307頁 同上書,328-9頁 同上書,329頁. 68)69)70)同 上書,443頁 71)井 上金峨,匡 正録, 日本倫理彙編巻 9,364頁 72)那 波魯堂,学 問源流,1794。 日本文庫巻 6,29頁 73)林 大学頭信敬申上書,1791。 高瀬代次郎『家田大峰』 1919。. 16頁. 74)日 本儒林叢書巻 3,14頁. 75)雨 森芳洲,橘 窓茶話,1786序 , 日本倫理彙編巻 7,313-4頁 76)松 宮観山,三 教要諦,1760。 日本儒林叢書巻 6, 6頁 77)石 田梅岩,都 畳 答,刊 年不明, 日本経済大典巻 13,518頁 `問 78)石 川謙,石 F予 い 学史の研究,岩 波書店,1938。 79)富 求仲基,翁 の文,1737。 日本哲学全書巻12,219頁. 80). 同上書,228頁. 81)82)日 本思想闘請史料巻 3,名 著刊行会,225頁. 83). 同上書,189頁. 84)87)三 浦梅園,多 賀墨郷君に こたふ る書,1777.三 浦梅園集,岩 波文庫,16頁.

(22) 168. 実学主義 の生成 について. 85)86)同 上書, 10頁 88)安 藤 昌益,自 然真営道巻25,大 日本思想全集巻11,440頁. 89)90)同 上書,435頁 91)海 保青陵,稽 古談,1813.日 本思想大系44,岩 波書店,220頁. 92)93)同 上書,218頁. 94) 95). 同上書,222頁. 100) 101) 102) 103) 104) 105). 前掲書32),329頁. 同上書,246頁 96)本 居宣長, くず花,本 居宣長全集第 8巻 ,筑 摩書房,1972。 123頁 97)田 沼時代,1915。 岩波文庫,1980。 284-326頁 98)西 川如見遺書,第 二編,1899.天 文義論,16丁 99)西 川如見,町 上嚢底払,岩 波文庫,116頁 前掲書84), 29頁 中井宗太郎,司 馬江漢著作集,1942。 30頁 同上書. 216頁. 山片幡桃,夢 の代, 日本経済叢書巻25,484頁 同上書. 481頁. 106)107)109)110)111)同 上書,491頁. 108). 同上書,641頁 112)113)114)同 上書,485頁. 115)116). 同上書,507頁. 117). 同上書,642頁. 118) 119) 120) 122) 「 可 」 ヒ墓 罫, 110『 疑. 112)写 本,京 都大学理学部数学教室所蔵, 夢 の代「 天文第一」 の第十二節 と重複す る ところあ り, 日本経済叢書巻25,58頁. 123). 前掲書 104),611頁. 124)125). 同上書,507頁. 126) 127) 128) 129) 130) 131) 132) 133). 同上書,. 9頁. 同上書,188頁 同上書,403頁 同上書,432頁 同上書,408頁 同上書,554頁 同上書,365頁 同上書,366頁. 134)実 学主義教育の展開,甲 南女子大学人間科学年報,第 10号 1985..

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