大國眞希の言葉は、言葉の究竟を尋ねる。それは、 それ以後にもそれ以前にも、それを超える言葉の可 能性が開かれることのないような、およそ意味なる ものの至上の瞬間において、言葉をすくい取る。そ のような言葉の自由、言葉の純粋状態は、研究の言 説としては希有のものに属し、小説家 詩人を含め ても 、 かつて 高 度 に 洗 練 さ れたわずか な書き手だ け が 到 達 しえた 領 域 に まで 入 り 込 んでいる 。 方 法 論 の 相 違 を超え て 、 これ ほ ど の 達 成 に対し て は率 直に驚か さ れ ると 言 うべきだろう 。 そしてまた 、 このような 業 績 を 評 価 しうるような 理 論 は 、 たぶん 未 だに 開 発 されてい ない 。 それほどまでに 、 本 書 の 到 達 点は余り に も高い。 もっとも、本書を一言で要約するのは、それほど 困難なことではない。例えば、これは、太宰治の テ ク ス ト群を、 イ メ ー ジ論の手 法で論じ た研 究 書 で あ る 、 と 。 それには 何 の 疑 い もない 。 だが 、 そ のイメージ 論 たるや 、 ほとんど 前 代 未 聞 と 言 ってよいほどの 、 無 限 の系列に開かれた意味の氾濫を、氾濫のままに横 させ、しかし決して祝祭的に無秩序化させることな く、その可能性を解放する成果を呈するのである。 それは、よくあるイメジャリー分析や、イコノロジ ー、精神分析、神話学、テーマ批評などの手法と、 至るところで接触し、それらと似ることもあるが、 そのいずれとも 交 わることはない 。 む しろ 、 そ れらはす べて 、 そ の 場 限 り の 道 具 でしかなく 、 このような 意 味 の瞬間をとらえる真の秘技は、まさに大國眞希の筆 致にあるというほかにない。本書の方法論は、他に 例を見ない、絶対的に独自のものと言うべきである。 本書で取り上げられる太宰のテクストは、 「彼等 と其のいとしき母」 「思ひ出」 「陰火」 「めくら草紙」 「海」 「二十世紀旗手」 「女の決闘」 「水仙」 「フォス フォレッスセンス」 「斜陽」 「桜桃」その他である。 昭和三年から二十三年に至る、太宰の創作活動の全 域をカバーするこのたくさんの章の中には、ひとが 太宰を語る際に頻繁に触れる「道化の華」も「人間 失格」も、主な対象としては含まれていない。むろ ん含めることもできたのだろうし、また世間的に有 名な「斜陽」も論じられてはいるのだが、ひとが伝 統的に太宰について語ってきた、津軽の家との関わ りとか、心中未 遂 薬 物 中 毒 とか、 破滅型 下降型 とか、 共産党 活動からの 脱落 とか、そういった 煤 け た話 題 はここには 存在 しない。ついでに言うと、 最 近 のジ ェ ン ダ ー批評や、 ポ ストコロ ニア リ ズム や、 文 学場などといった 流行 言説も、ここには一 切介 在 してこない。対象 選択 は、言葉の意味 = イメージの 系列との関わりにおいてなされ、それはその前 提 で もありまた 結 果でもある。そしてまた、 著 名な「斜 陽」 についてすら、 「 恋 と 革命 」 などという 黴臭 い 紋 切 型 ではなく、一見、ひとの度 肝 を 抜 く「あ」の 物 語として 新 たに 読み 解かれる。これを含めて、 読 者 は、これまでに 認識 されていなかった太宰 文 学の 新局面 を見せつけられ、 然 とすることだろう。 本書の 内部 を動き 回 っている 力 の 姿 を、方法論と して 定着 させることは、 右 の 事情 からして難しい。 さしあたり序論にあたる「 絵画 的方法から見る太宰 文 学の 変遷Ⅰ 」において、筆 者 自 身 がその 素描 を 試 み ている。まず、 「水」 。「 『 水 』 は可 変 的であり、無 色 で、 内容 を有さない、 様々 な 内容 を 与 えられる 材質 マテリ ア ル である。あるいは 内容 が 溶 解し、なおその 力 を 孕 んだコロイ ド である」 。この「 材質 マテリ ア ル 」 ( あるいは 「マ チエ ル 」) は、 本書の意味 = イメージの 鍵 である。 同 様 に「 光 」が 数 えられることから、バ シュラ ー ル による 物 質 の 想像 力 論が 想起 されるが、本書は、バ シュラ ー ル と 親 近 性の 強 い ユ ン グ の 元 型 論や、ある いは他の精神分析とは 異 なり、 「 材質 マテリ ア ル 」 が 言葉以 外 のどこか へ収斂 するのではなく、言葉そのものとし て太宰のテクストを 構 成することを 注視 する。だか ら言葉の意味 = イメージはどこにも 定着 することな く、無限の 表 意作 用 を解発される。 しかも、意味 = イメージは、その 仕 方で言葉に 付 着 ( 憑依 象 徴 寓 意 ) しつつ、 その言葉からすら 逸 脱 して ゆ く。すなわ ち 、そのような言葉の意味 = イメージは、言葉が「葉」と 呼 ばれるバ ラ バ ラ の 断 片 群として解 体 され、 それが 「 裂 け 目 」「 消 失点」 「 穴 」に 準 えられるテクストの 特 異 点に 吸 収 され、 文 字通 り 消 失する。 そして、 この言葉の 消 失の 過程 ― 70―
中
村
三
春
『
虹
と水
平線
太宰
文
学における
透
視
図
法と
色
彩
』
大國眞希
著
2009年 12月 10日 おうふう A5判 236頁 定価 3500円(本体)経路 が 、「遠 近 法 パースペクティヴ 」や「 視 点 パースペクティヴ 」 と称さ れ る あ る構 造 、 すなわち小説の物語となるのである。ここにおいて 本書は、作品がそこから生成する特異点としての彼 方への通路を認めるという、ブランショに由来し、 初期の天澤退二郎が展開したいわゆる文学空間論に 近似した姿を見せる。だがここでもやはり、ブラン ショや天澤が行ったような、一種の作品の呪物化と は、 本書は無縁であると言わなければならない。 (なお、 バシュラールもブランショも、 本書において は言及されていない。 ) さらに、本書は「透視図法と色彩」と副題にあり、 また序論 結論でも「絵画的方法」と述べられてい るが、必ずしも文芸と美術との関係を論じた芸術論 と言うわけではない。確かに、口絵にとられたピエ ロ デッラ フランチェスカの聖母画から、デュシ ャンの「大ガラス」までの美術への参照が散在して いるが、文芸テクストを絵画に還元し、同一視する のではない。ただし、右のような言葉と意味=イメ ージの仕組みへの眼差し (語弊を恐れず図式化すれ ば、 バシュラール+ブランショ+αの理論) は、 太宰 論のみならず、およそ文学研究において地上に現れ たことがない。 絵 画論から文芸論への一種の翻訳 (比喩) で あ る 「 遠近法 パースペクティヴ 」 や 「消失点」 の用語に よ ってのみ 、 か ろうじて 語 ることのできる 全 く 新 た な 論 述手法が、ここに誕生を見たと言うべきなのだろう。 論述において均質な本書は、どの一章によっても 代表させることができる。 どの章も見事である。 「思ひ出」の章では、 「ふくれ」 「つぶつぶ」 「面皰」 の意味=イメージを、向こう側に失われたものとし てのみ 「私」 を語り得るような 「ぶれ」 の表象、 「存在の余剰」 「意味の余剰」の露出としてとらえる。 この章では、エディプス的な枠組みが、通過される ための便宜として導入されている。 (ということは、 論法は本質的にはエディプス的ではないのだ。 )「陰火」 の章では、一見独立した四つの物語を通底するもの として、 「処女/非処女」 、および「いやな臭気」の 意味=イメージが取り出され、 そこから 「妻の不貞」 と、それによる子どもの「流産」が導かれ、 「陰火」 は、死んだ子どもの魂であると 推 認される。どちら にも 典 型 的に現れている論述の ダ イ ナミズム は、 「面皰」 や 「臭気」 などの 極微 的な言葉の意味=イ メージが、 増幅 され、 変換 を 加 えられて 「私」 や 「陰火」などの 主要動機 に 接 続 されるところにある。 この 想像力 の 巧 みさ、 鮮 やかさ。 「 水仙 」 の章は、 本書 中 の 圧巻 の一つである。 タ イトルから 連想 される ナ ル キ ッ ソ スとエ コ ーの 神話 の意味=イメージが 定位 され、 ナ ル キ ッ ソ スが視 覚 的、エ コ ーが 聴覚 的に、どちらも「無 限 の二 重 化」 ( 反映 反響 ) を 担 うものとされる。 この小説にお ける 「消失点」 は、 「 僕 」の「 信 じて ゐ る一事」 で ある。この「一事」は、一方では視 覚 的な 核 として の「 蜆 の 肉 」や「お 臍 」として、 他 方では 聴覚 的な 核 としての 「絵を 破 る 音 」や 、「 紙 を 引 き 裂 くくら ゐ の小さい 音 」として表象される。 「『僕』 が 夫人 の 『 絵 』 を ( 破 る 音 として) 聞 く 限 りにおいて、 ま た 夫人 が 『僕』 の言葉を ( 蜆 の 肉 として) 見る 限 りに おいて、二 人 は確かにある 交 流を 果 たす。 今 まで見 てきた二つの消失点は、お 互 いを 決定 的に 隔 てなが らも、これ 以 上 望む べくもない 『 天 才 という 崇高 』 と言われるような 何か を 相 手に 伝 える 役目 を 果 たしている」 。 この経 緯 回 路こそが、 この小説の 「 遠近法 パースペクティヴ 」と な る 。こ う し て 、さ し て 注目 もされて こなかった「 水仙 」一 編 は、一 躍 、太宰的なテクス トの表意面における代表作として 蘇 る。 我々 は 今 ま で、いったい 何 を 読 んでいたのか。 「フ ォ スフ ォレ ッス セ ンス」の章は、 夢 と現 うつつ 、「あ のひと」 「 ご 主 人 」「私」の 相 互 嵌 入と 反 転 を 基 盤 と する (本書 中 の「 フ ォ スフ ォレ ッ セ ンス」 という表 記 は、 誤 り) 。「 別 れて、 また ふ」 分 裂 と 再合 一を 内 包 する 「 P ho sp ho re sc en ce 」 が 、 まさに言葉として 力 をもつ 局 面と、 「 燐光 」( 光 ) と「 涙 」( 水 ) の意 味=イメージとして 機 能 する 局 面とが 交 錯 せられ、 死んだ「 ご 主 人 」の 腐敗 した 肉 体 がフ ォ スフ ォレ ッ ス セ ンスとともに物語を 循環 し、言葉の誕生が魂の 帰 還と 重 ね られる。 また 「 斜陽 」は 、「あ」 と いう 音 が (「消失点」として) 全 体 に 響 く物語とされる。 それは 、 願 い 祈 りの 声 であり 、「 蛇 」と「 虹 」と い う 類 縁 性 の 強 い 言 葉 の 意 味 = イメージが 基 軸 となり 、 「 水 」「ゆ め」 「 炎 」「 光 」 な どのイメジャ リ ーが 次 々 と 算 入されて、 最後 には聖母子 像 の ホ ロ グ ラフィが 暗 示 される。 専 ら 人 倫 の物語として 連 綿 と 読 み 継 がれ てきた 「 斜陽 」は 、 ほ かなら ぬ 図 像 的「 遠 近 法 パースペクティヴ 」の 書として、 再 び手に取られなければならないのだ。 要 するに本書は、太宰研究ひいては文学研究に、 これまでにない新たな一 頁 を開くものである。その 発 想力 パースペクティヴ は、余 人 の 追随 を 許 さない。 読 者 は、大 國 眞 希 の言葉の 乱舞 を、これからも、手を 拱 いて見て いる ほ かにないだろう。 (なか む らみ は る 北 海道 大学大学 院 文学研究 科 教授 ) ― 71―