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規範と理想 : スピノザの哲学における「完全性」の意味

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規範と理想 : スピノザの哲学における「完全性」

の意味

著者

柴田 健志

雑誌名

鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集

86

ページ

99-108

発行年

2019-03-13

URL

http://hdl.handle.net/10232/00030447

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九九 当に存在するのかという疑問はさておき、いったい誰が「いかに生きる べきか」と問いかけているのでしょうか。ようするに、この問いかけの 主語は何なのでしょうか。 もちろん現実に生きている個々の存在ですね。 しかし、この問いかけに対する倫理学の答えはいつも「人間は・・・す べきである」 というものです。つまり、 倫理学が語るのは 「人間」 が 「い かに生きるべきか」についてです。アリストテレスからムーアまでこの 点は不変です。だからすごく自然なことのように見えますが、じつはこ こ が 疑 問 を 感 じ る と こ ろ で す。 「 い か に 生 き る べ き か 」 と 問 い か け て い るのは現実に生きている個々の存在なのに、答えは「人間」という抽象 的なものを主語にしているわけですから。   こ の 問 い か け の 主 語 を「 現 実 に 生 き て い る 個 々 の 存 在 」 と い い ま し た が、 む し ろ「 私 」 と い っ た ほ う が 適 切 な の で は な い か と い う 意 見 が あ り う る と 思 い ま す。 そ れ に つ い て ひ と こ と 断 っ て お く 必 要 が あ り ま す。 た し か に、 「 私 」 と い っ た ほ う が 具 体 性 は あ る か も し れ ま せ ん。 し か し、 ス ピ ノ ザ の 哲 学 に つ い て 語 る と き、 「 私 」 と い う 言 葉 を あ ま り 安 易 に 使 用 す る と 議 論 が 不 正 確 に な っ て し ま い ま す。 少 な く と も ス ピ ノ ザ 自 身 は「 私 」 と い う 言 葉 を 使 っ て い ま せ ん。 ス ピ ノ ザ は つ ね に「 各 人( unusquisque )」 と い う 言 葉 を 使 い ま す。 お そ ら く 次 の よ う な 理 由 です。デカルトのように「私」を主語にして語ってしまうと、存在の多 様 性 を 肯 定 す る こ と が 難 し く な る と 思 い ま す。 「 私 」 に つ い て 認 め ら れ ることは万人にも認められるはずであるという論理が生まれてしまうか らです。こうして「人間は・・・すべき」という答えが出てきます。実 際、 デ カ ル ト は『 方 法 序 説 』 を 次 の よ う に 書 き 出 し ま し た。 「 良 識 は こ の世で最も公平に配分されているものである」 ( Descartes 1996.1. )。「私」

 

規範と理想

 

スピノザの哲学における「完全性」の意味

 

 

 

 

この論文は西日本哲学会第60回大会(二○○九年、九州大学)での口 頭発表に加筆および修正を施し、注を付したものである。発表時の題目 は「規範と理想─スピノザの反=人間主義─」である。口頭発表にもと づくという経緯を考慮して文体は口語調で統一した。

はじめに

  倫理学は「いかに生きるべきか」という問いかけに答えることを目的 としています。例えば、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』を「最 高 善 」( 1094a ) の 探 求 か ら 始 め て い ま す。 「 最 高 善 」 と い う 生 の 究 極 目 標 を 設 定 す る こ と に よ っ て、 現 実 の 生 は こ の 目 標 を 実 現 す る 過 程 と し て 意 味 づ け ら れ ま す。 「 い か に 生 き る べ き か 」 と い う 問 い か け に 対 す る 答えはここから出てきます。ムーアが『プリンキピア・エチカ』のなか で 倫 理 学 を「 何 が 善 で あ る か に つ い て の 一 般 的 探 求 」( Moore 1996.54. ) であると定義したのも同じ理由からです   で も、 こ の 話 に は 何 か 疑 問 を 感 じ な い で し ょ う か。 「 最 高 善 」 な ど 本

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柴    田    健    志 一〇〇

 

完全性

  はじめに、道徳規範に則って自分の生を生きる場合の論理を明確にし ておく必要があります。それは以下のように表現できます。   大前提:人間は・・・すべきである。   小前提:ところでこの存在は人間である。    結論:したがってこの存在は・・・すべきである。 三段論法です。大前提が道徳規範ですね。その主語として「人間」が出 てきます。そして小前提で 「この存在」 が「人間」 であることを認めると、 結論は命令になります。一見するともっともな論理ですが、よく考える とそうでもありませんね。少なくとも、スピノザはこの論理を認めてい な か っ た と 思 い ま す。 『 エ チ カ 』 第 四 部 の 序 文 の テ キ ス ト に そ の 点 を 読 みとることができます。ですから、そこから入っていきましょう。問題 の 焦 点 は、 「 人 間 」 と い う 主 語 が い っ た い ど こ か ら 出 て く る か と い う 点 に あ り ま す。 始 め か ら 順 番 に 考 え て み る と、 「 よ く 生 き た い 」 と い う 欲 望 が 倫 理 学 に そ の 答 え を 求 め て い る わ け で す が、 「 よ く 生 き た い 」 と 思 うこと自体、今までの自分がよく生きていない、完全ではないと思って いる証拠であると思います。 ですから 「よく生きたい」 という願望には 「完 全」な生というものへの欲求が含まれていると考えられます。ここには 別に問題にするようなところはないように見えます。ところがスピノザ はここに決して見過ごすことのできない誤りの温床を認めています。問 題は 「完全性」 という言葉です。 「よく生きていない」 ということは 「完 がもっている「良識」はすべての「人間」がもっているはずだというわ け で す * 。 ス ピ ノ ザ は こ の よ う な 論 理 を 認 め な か っ た と 思 い ま す 。 だ か ら た ん な る「 各 人 」 と い う 言 葉 を 使 っ て い る の だ と 思 い ま す ** 。 ス ピ ノザが明らかに違う答えを出そうとしていることをこういう用語法に見 て取ることができます。   そこでスピノザの答えについて考えてみたいわけですが、 その前に 「人 間」 を主語にした答えのいったいどこが問題なのかを確認しておきます。 問 題 に な る の は 次 の 点 で す。 「 人 間 は・・・ す べ き で あ る 」 と い う 答 え は道徳規範として与えられます。規範というのは各人の欲望を超越した 規則ですね。 それは有無をいわせぬ命令です。 それゆえ、 道徳規範に則っ て生きることは、そのような生を強制されることにほかならない。こん な答えをみんな本当に望んでいるのでしょうか。 そうではないはずです。 そこでスピノザの哲学が意味をもちます。 * ま っ た く 同 じ 論 理 を サ ル ト ル が 主 張 し て い ま す。 「 こ う し て 私 は 私 自 身 に 対し、 そして万人に対して責任を負い、 私の選ぶある人間像を作り上げる。 私 を 選 ぶ こ と に よ っ て 私 は 人 間 を 選 ぶ の で あ る 」( Sartre 1996.33. )。 デ カ ルトからサルトルにまで続く「意識」の哲学の系譜です。 ** ス ピ ノ ザ の よ う な 考 え は ド ゥ ル ー ズ = ガ タ リ の「 器 官 な き 身 体 」 と い う 概 念 に 認 め る こ と が で き ま す。 「 身 体 」 と い う 生 の 基 盤 を「 私 の 身 体 」 と 呼 ん で し ま う と、 生 の 多 様 性 が 肯 定 で き な い。 だ か ら「 あ る 身 体( un corps )」 ( Deleuze & Guattari 1980. 203. ) と い わ な け れ ば な ら な い と い う のです。

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規範と理想 一〇一 という意味をもつことになります。英語の perfect はそういう意味です ね。しかしラテン語もそうです。この言葉は17世紀の哲学では 「完全」 という方の意味で頻繁に使用されています。   こ の よ う に、 「 完 全 」「 不 完 全 」 と い う 言 葉 の 意 味 は も と も と「 完 成 」 「未完成」ということなので、 「家」のような人工物について使用される 場合は間違っていないわけです。ところが、この言葉が人間を含めた自 然物に対しても使用されているとすれば、いったいどういう意味で使用 されているのでしょう。この言葉が人工物について使用されている場合 と 同 じ 意 味 で 使 用 さ れ て い る と ス ピ ノ ザ は 指 摘 し て い ま す。 「 様 々 な 自 然物、つまり人間の手によって作られたのではないものをも、完全であ るとか不完全であるとか一般に呼んでいることに別の理由があるように は見えない」 ( Eth.IV . Præf. )。   つまり、現実に存在する人間が「不完全」であるという場合には、建 築中の家が「未完成」であるという場合と同様に、完成型としての「人 間」の概念を思い浮かべ、現実に存在する人間の状態をそれと照合して 判断しているわけです。ですから「人間」の概念には「人間とはかくあ るべきで、そうでなければ人間とはいえない」という規範が含まれてい ることになります。   では、ここからどんなことが認識できるのでしょうか。この点はスピ ノザが詳しく述べているわけではないので敷衍してみます。おそらく次 の よ う な こ と に な る と 思 い ま す。 「 よ く 生 き た い 」 と い う 欲 望 は 別 に 間 違っていない。今までの自分がよく生きていないという感覚もやはり間 違っていない。だからこれからどうすべきなのかという問いかけにも意 味 が あ り ま す。 と こ ろ が、 「 ま だ よ く 生 き て い な い 」 と い う 感 覚 を「 不 全ではない」ということと本当に同じことなのでしょうか。この言い換 えは正しいのでしょうか。スピノザはこれが誤りであると主張していま す。では、いったいどこが誤っているというのでしょうか。スピノザが この言葉について述べていることを、少し補いながら整理してみるとだ いたい次のようになります。 ( 1) た と え ば、 家 を 建 て て い る と き、 ま だ 窓 が つ い て い な い と か、 内 装がされていないとか、そういう状態の家は「未完成」であるといわれ ます。つまり「完成」していないわけですね。 (2)ここから何が分かるかといえば、 「家」という言葉でわれわれが思 い浮かべるのはその完成型であるということです。これはあらゆる概念 についていえることです。概念があらわすのはその事物の完成型だとい うことです。 ( 3) 目 の 前 に あ る 建 築 中 の 家 が「 未 完 成 」 で あ る と い え る の は、 わ れ われが「家」の概念を持っているからだということがこれではっきりし ますね。ちなみに、 「家」 という例はスピノザ自身が使っているものです。 ( 4) 概 念 と い う も の に は じ つ は 規 範 が 含 ま れ て い る と い う こ と が 以 上 か ら 指 摘 で き ま す。 「 家 」 の 概 念 に は「 家 と は か く あ る べ き で、 そ う で なければ家とはいえない」という規範が含まれているわけです。だから 窓のついていない家はまだ「未完成」で、はやく「完成」させなければ ならない、ということになります。   だ い た い 以 上 の よ う な 論 理 で す。 キ ー ワ ー ド は「 完 成 」 で す が、 『 エ チカ』はラテン語で書かれていますので、原文では perfectus です。こ れは perficere という動詞の完了分詞で、 もともとの意味は「完成した」 ということです。ところが、ここから転じてこの言葉は「完全」である

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柴    田    健    志 一〇二 その事物の現実的本質にほかならない」 ( Eth.III.7.Pr. )。そして生の原則 と し て「 各 人 は 自 己 の 利 益 を 求 め る べ き で あ る 」( Eth.IV.18.Sch. ) と 述 べています。主語は「各人」であって「私」ではありません。また、 「人 間 」 と い う よ う な 漠 然 と し た も の で は な お さ ら あ り ま せ ん。 「 人 間 」 を 主語にしていないからスピノザの提案することは規範的な意味にはなら ないという点が重要ですね。スピノザの倫理思想はこの立場から語られ ていると思います。   と こ ろ が、 『 エ チ カ 』 第 四 部 の 序 文 を 読 み 進 め る と、 ス ピ ノ ザ は「 人 間本性の型」について語り始めます。これはある種の「人間」の概念で す。しかも、現実に存在する各々の人間の完全性をこの概念を基準にし て判断することができると言い出すわけです。実際、スピノザは次のよ うに書いています。 「 そ れ ゆ え 私 は 以 下 に お い て、 善 と は わ れ わ れ が 提 案 す る 人 間 本 性 の 型 にわれわれがますます近づく手段になることをわれわれが確実に知るも ののことと解するであろう。また反対に、悪とはわれわれがこの型を思 い起こすのを妨げることをわれわれが確実に知るもののことと解するで あろう。さらに、人間がこの型により多くあるいはより少なく近づくに し た が っ て、 人 間 を よ り 完 全 あ る い は 不 完 全 と い う で あ ろ う 」( Eth.IV. Præf. )。   ここでスピノザの意図がまったく分からなくなります。自分がたった 今攻撃していた思考法を自分自身で語り始めているように見えるからで す。そこで解釈が必要になります。スピノザのいう「人間本性の型」と はいったい何のことなのか。これから試みる解釈では、 これが一種の 「人 間」の概念であることを認めます。その上で、スピノザが提案する「人 完 全 」 と 言 い 直 し て し ま う と、 「 人 間 」 と い う 概 念 が 規 範 と し て 求 め ら れてしまいます。 「いかに生きるべきか」という問いかけに「人間は ・・ ・ すべき」という形で答えが与えられるのはこのためです。   しかし、このような答え方には重大な問題があります。なぜなら人間 は家のような人工物とは違って一定の目的のために作られたものではあ りませんから、本来は人間の概念(完成型)など考えられないはずだか らです。スピノザもそのように述べています。人間には完全も不完全も ない、と。ですからそれをあえて考えようとすると、その内容はきわめ て 曖 昧 か つ 恣 意 的 な も の に な っ て し ま う で し ょ う。 「 私 」 に つ い て 認 め られることは万人についても認められるはずだという、あまり根拠のな い論理に頼らざるをえなくなってしまうからです。そういう概念にもと づいて「この存在は・・・すべきである」という答えを出してみたとこ ろ で、 「 各 人 」 が 生 き て い る 現 実 の 生 と は 何 の 関 係 も な い た ん な る 命 令 になってしまうわけです。求められていたのはこういう命令などではな いはずです。では「いかに生きるべきか」という問いかけに対していっ た い ど ん な ふ う に 答 え れ ば よ い で し ょ う か。 『 エ チ カ 』 に は そ れ が 示 さ れていると思います。

 

人間本性の型

  スピノザが眼中に置いたのは個物という存在だけです。スピノザはそ れを「様態」と呼んでいます。スピノザは人間の本質を規定しようとし ませんでしたが、個物の本質については明確に書いているのもこの理由 か ら で す。 「 各 々 の 事 物 が 自 己 の 存 在 に 固 執 し よ う と す る コ ナ ト ゥ ス が

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規範と理想 一〇三 20では人間が「自己に有益なもの」を追求すればするだけその人間に 「 徳 」 が 認 め ら れ、 逆 に そ れ を 怠 る と き「 無 力 」 で あ る と い わ れ る と い う こ と が 証 明 さ れ ま す( Eth.IV.20.Pr. )。 さ ら に 定 理 2 1 で は「 生 き る 」 こ と を 欲 望 す る こ と な し に「 よ く 生 き る 」 こ と な ど 欲 望 し え な い と い う こ と が 証 明 さ れ ま す( Eth.IV.21.Pr. )。 こ れ ら を ま と め る 形 で、 定 理 22は「いかなる徳もこれ(すなわち自己保存のコナトゥス)より先に 概念されることができない」 ( Eth.IV.22.Pr. ) となっています。したがっ て、 「 自 己 保 存 の コ ナ ト ゥ ス は 徳 の 第 一 に し て 唯 一 の 基 礎 で あ る 」( Eth. IV.22.Cor. )。   このように、スピノザにおいて問題になっているのは自己の存在以外 のものではないですね。それを維持することだけが 「徳」 なのであって、 何 か そ れ よ り も 重 要 な も の が あ る わ け で は な い。 「 誰 も 他 の も の の た め に 自 己 の 存 在 を 維 持 し よ う と は し な い 」( Eth.IV.25.Pr. ) と ス ピ ノ ザ は 念を押しています。定理22では「コナトゥス」と呼ばれますが、自己 の 生 を 生 き る 欲 望 だ け が 問 題 と さ れ て い る わ け で す。 「 い か に 生 き る べ きか」という問いかけはこの欲望から発せられる問いかけとして理解さ れなければならない。   こ の 延 長 線 上 に、 後 で「 自 由 な 人 間 」( Eth.IV.67.Pr. ) と 呼 ば れ る こ とになる人間のライフスタイルが描かれるというのが『エチカ』第四部 の 大 ま か な 構 成 で す。 「 自 由 な 人 間 」 と は『 エ チ カ 』 第 四 部 の 序 文 に 出 てきた「人間本性の型」のことです。では、 「自由な人間」とは何でしょ う か。 「 自 由 」 と い う 言 葉 の 意 味 は『 エ チ カ 』 第 一 部 で 定 義 さ れ て い ま す。 「 自 己 の 本 性 の 必 然 性 の み に よ っ て 存 在 し、 自 己 の み に よ っ て 行 動 に 決 定 さ れ る も の は 自 由 で あ る と い わ れ る 」( Eth.I.7.D. )。 こ う い う 意 味 間」の概念には規範的な意味が含まれていないことを示したいと思いま す。 続 い て、 「 人 間 」 の 概 念 を 基 準 に し て 現 実 に 存 在 す る 各 々 の 人 間 の 完全性を判断するということが何を意味するかを考えてみます。スピノ ザは明らかに現実に存在する人間の生を評価しようとしています。しか し、それは命令や強制を伴わない評価であるということを示したいと思 います。以上の二点を示すことによって、スピノザの『エチカ』が「い かに生きるべきか」という問いかけに対してどんなふうに答えようとし ているかを考えてみたいと思います。

 

自由な人間

  倫理的な判断の基準は、 「人間」にとってではなく現実に存在する各々 の存在にとって有益であるかどうかでなければならない。スピノザはこ の意味で「自己」といっています。現実に存在する各々の存在それ自身 ということであって、けっして「私」ということではありませんね。す で に 確 認 し て お い た よ う に、 こ れ が ス ピ ノ ザ の 原 則 で す。 し た が っ て、 ス ピ ノ ザ に お い て は「 自 己 」 に と っ て 有 益 な も の だ け が「 善 」 で あ り、 またそのようなものを追求することが「徳」であるということになりま す。徹底的な唯名論です。この点から『エチカ』第四部の定理19から 定理22を見ておきたいと思います。   定理19はこう断言します。 「各人は自己の本性の法則にしたがって、 必然的に自己が善と判断するものを欲求し、 悪と判断するものを避ける」 ( Eth.IV.19.Pr. )。 読 ま れ る と お り で す。 各 人 は 自 己 に と っ て の 善 を 欲 求 し、自己にとっての悪を避けるというわけです。この点を踏まえ、定理

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柴    田    健    志 一〇四 う点にあります。身体に対して外部から多くの力が作用するので「自己 の本性の法則」のみにしたがって欲望するわけにはいかない。では「自 由な人間」 は身体をもたない存在なのでしょうか。そうではありません。 「自由な人間」 も身体をもっていると考えられます。しかもそれはミシェ ル・ フ ー コ ー の い う「 ユ ー ト ピ ア 的 身 体 」 *** の よ う な も の で は な く 、 誰 も が も っ て い る と こ ろ の 普 通 の 身 体 で す。 た だ し、 「 自 由 な 人 間 」 は 外 部から身体に作用する力をコントロールする技術を駆使することによっ て「自己の本性の法則」にのみにしたがって生きることができる。この 意味で「自由な人間」とは「きわめて多くのことに対して有能な身体を も つ 者 」( Eth.V.39.Pr. ) で す。 こ の よ う に 解 釈 す れ ば、 各 人 の 欲 望 を 超 越する外在的な規範ではなく、むしろ各人の欲望に内在する理想である と 考 え ら れ ま す **** 。 で す か ら ス ピ ノ ザ の 「 人 間 」 の 概 念 は 命 令 し な い わけですね。 命令されて自己の欲望にしたがう人間はいませんから。 「自 *** フ ー コ ー に よ れ ば、 「 ユ ー ト ピ ア 」 の 空 想 は 現 実 の 身 体 の 否 定 に よ っ て も た ら さ れ る。 「 ユ ー ト ピ ア 」 で は「 身 体 が 光 と 同 じ 速 度 で 移 動 す る 」「 望 ん だときに透明人間になる」 ( Foucault 2015.1249 )。 **** 『 エ チ カ 』 第 四 部 の 序 文 は あ ま り 解 釈 の 対 象 に な ら な い テ キ ス ト で す。 今 のところ最も詳細な読解はピエール ・ マシュレによるものです( Macheley 1997. )。 マ シ ュ レ の 解 釈 に は 私 も 同 意 し ま す が、 一 点 だ け 食 い 違 う こ と が あ り ま す。 マ シ ュ レ に よ れ ば「 自 由 な 人 間 」」 の 生 は 現 実 に 存 在 す る 各 々 の 人 間 の 欲 望 の「 延 長 線 上 」( Macheley 1997.22. ) に 構 成 さ れ る も の で す。 だ か ら そ れ は 一 種 の「 理 想 」( Macheley 1997.23. ) で す。 こ の 二 点 に は 完 全 に 同 意 で き ま す。 し か し こ の 理 想 が「 超 越 的 な 理 想 」( Macheley 1997.23. ) で あ る と い う 点 に は 同 意 で き ま せ ん。 以 下 に 考 察 さ れ る よ う に、 「 内 在 的 な 理 想 」 と し て 考 察 し な け れ ば こ の 概 念 の 機 能 は 十 分 に 理 解 で き ないからです。 で「自由」なのは、スピノザの哲学では「神」だけです。人間に対して は こ の 言 葉 は 使 え な い わ け で す。 『 エ チ カ 』 第 四 部 は も ち ろ ん こ の 点 を 前 提 し て い ま す。 実 際、 次 の 定 理 が 置 か れ て い ま す。 「 人 間 が 自 然 の 一 部でないということ、また人間が自己の本性のみによって考えられ、自 己がその十全な原因であるような変化以外は何の変化も被らないという ことは、起こりえないことである」 ( Eth.IV.4.Pr. )。   そ れ な ら「 自 由 な 人 間 」 と は 何 な の で し ょ う か。 「 自 由 」 と い う 言 葉 を 厳 密 な 意 味 で 使 用 す れ ば、 「 自 由 な 人 間 」 が 現 実 に は ほ と ん ど 存 在 す ることのできない人間であることは明らかです。その意味でたんなる概 念です。では、この概念はいったいどうやって作り出されたのでしょう か。 「 自 由 な 人 間 」 と は「 理 性 の み に よ っ て 導 か れ る 人 間 」( Eth.IV.68. Dem. ) と 定 義 さ れ て い ま す。 人 間 は「 自 己 の 本 性 の 法 則 」( Eth.IV.19. Pr. ) に し た が っ て 善 と 悪 を 判 断 す る と い う 定 理 に は す で に 言 及 し ま し た が、 「 理 性 」 と「 本 性 」 は こ こ で は 同 義 で す( Eth.IV.24.Dem. )。 で す から「自由な人間」とは「自己の本性の法則」のみにしたがって生きる 人間です。現実に存在する人間もやはり 「自己の本性の法則」 にしたがっ ているわけですが、それのみにしたがっているのではないという意味で すね。この点から「自由な人間」という概念が理解できます。それは現 実に存在する人間と同じ欲望によって生きる人間として構想されていま す。現実に存在する人間と同じ条件を課せられていながら「自己の本性 の法則」 のみにしたがって欲望することのできる人間です。 ですから各々 の人間は「自由な人間」のなかに自分の欲望を理想的な形で認識できる わけです。おそらくこれがスピノザの意図したことです。   現実に存在する人間に課せられた条件はそれが身体をもっているとい

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規範と理想 一〇五 の人間の存在だけを眼中に置く場合には欠如など存在するわけがありま せ ん。 し た が っ て、 「 不 完 全 」 な 人 間 な ど 存 在 し な い。 む し ろ、 各 々 の 人間はそれぞれ「完全」であるといえます。これがスピノザの基本的な 考えです。というのも、 『エチカ』 第二部の定義で 「完全性」 と 「実在性」 は 同 じ 意 味 で あ る と さ れ て い る か ら で す。 「 実 在 性 お よ び 完 全 性 を 私 は 同じものと解する」 ( Eth.II.6.D. )。   と こ ろ が、 現 実 に 存 在 す る 人 間 に は ひ と つ の 条 件 が 課 さ れ て い ま す。 自分自身の生を自分の欲望にのみしたがって生きることができないとい う条件です。というのは、スピノザによれば人間が何かを欲望するとい うことは力を行使することですが、各々の人間の単独の力は非常に小さ いものであり、その外部に存在する力によってつねに制限されていると 考 え ら れ る か ら で す。 「 人 間 が 現 実 存 在 す る こ と に 固 執 す る 力 は 制 限 さ れ て お り、 外 部 の 原 因 の 力 に よ っ て 無 限 に 凌 駕 さ れ る 」( Eth.IV.3.Pr. )。 人 間 は「 自 然 の 一 部 分 で あ る 」( Eth.IV.4.Pr. ) と い う 形 而 上 学 が こ の よ うな認識の前提になっています。   ところで、自分の欲望にのみしたがうということは自己の利益を求め るということです。すると、欲望に関する上のような認識は次のことを 意味しています。すなわち、人間は自己の利益を求めて生きることがで きないということです。少なくとも真の利益を求めることは非常に難し いことであると考えなければならないでしょう。人間は自分にとって真 の利益が何であるかを十分に認識できないまま自分の生を生きていると い う わ け で す。 『 エ チ カ 』 に よ れ ば、 こ れ が 人 間 の 生 の 現 実 で す。 今 ま での自分がよく生きていないという感覚はここに由来するものだと考え ることができます。この現実から一歩踏み出すには、まずこの感覚を自 由な人間」の生きる生とは「いかに生きるべきか」とみずからに問いか ける各々の人間が 「このように生きたい」 と感じる生なのです。ただし、 この理想は容易に実現することのできないものです。現実的にはほとん ど実現不可能であるとさえ考えられます。しかし、それでかまわないわ け で す。 む し ろ、 「 自 由 な 人 間 」 の 生 を 実 現 可 能 な 範 囲 に 設 定 し て し ま う と、 そ れ は 現 実 に 生 き て い る 人 間 に 対 し て 命 令 し 始 め て し ま い ま す。 実現可能なことを実現していないということになれば、それは明らかに 落ち度ですから、道徳的な叱責は免れませんね。この点をスピノザは明 瞭に理解していたと思います。しかしそれならスピノザはいったいどう して「自由な人間」を基準にして現実に存在する人間の生を評価しよう としたのでしょうか。 「完全」 とか 「不完全」 とかいうのはスピノザにとっ ていったいどんな意味だったのでしょうか。

 

自己のテクノロジー

  『エチカ』第四部の序文のなかで、 「不完全」ということは本来あるべ きものが欠けているという意味ではないと、 スピノザは注意しています。 本来あるべきものが欠けているということがいえるのは、現実に存在す る 人 間 を 規 範 的 な「 人 間 」 の 概 念 を 基 準 に し て 評 価 す る 場 合 だ け で す。 しかし、規範的な「人間」の概念の内容はきわめて曖昧かつ恣意的なも の で す。 す な わ ち、 人 間 に 帰 属 す る 様 々 な 性 質 の な か で、 「 私 」 を 含 め た多くの人間が持っていると思われる性質が何の基準もなしにただ表象 されているだけです。ですから、 あるべきものが欠けているといっても、 そういう性質をたまたまもっていないということにすぎませんね。各々

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柴    田    健    志 一〇六 間 」 の 概 念 に は、 人 間 が な す べ き こ と が 含 ま れ て い ま す。 そ れ が「 善 」 ですね。その逆が「悪」でしょう。しかし、 すでに述べたように「人間」 の概念それ自体がきわめて曖昧かつ恣意的なものであり、ほとんど何の 根 拠 も な し に た だ 表 象 さ れ て い る だ け の も の で す。 つ ま り、 「 人 間 」 の 概念と同様に、善とか悪とかを規範として設定すること自体が現実に存 在する各々の人間にとっては意味のないものです。そういうものを個人 に強制することは生の軽視でしかないですね。   これに対するスピノザのスタンスは明瞭です。スピノザにとって善も 悪もたんなる相対的な概念にすぎません。事実『エチカ』第四部の序文 で ス ピ ノ ザ は そ の よ う に 主 張 し て い ま す。 「 善 と 悪 に 関 し て い え ば、 そ れらもまたものがそれ自体において見られる限り、ものにおける積極的 な も の を 何 ら 表 示 し て お ら ず、 思 惟 の 様 態 で あ る に す ぎ な い 」( Eth.IV. Præf. )。スピノザのこのスタンスは 『知性改善論』 から一貫しています。 「 善 と 悪 は 相 対 的 に の み い わ れ る も の で あ っ て、 そ れ ゆ え 同 じ も の が 異 なった関係にしたがって善といわれ、 また悪といわれうる」 ( TIE. § 12 )。 では、善と悪が「相対的」であるとは何のことでしょうか。現実に存在 する各々の人間の状態に相対的なものであるということです。すでに引 用した 『エチカ』 第四部の序文が述べているのはじつこのことです。 「善 とはわれわれが提案する人間本性の型にわれわれがますます近づく手段 になることをわれわれが確実に知るもののことと解するであろう。また 反対に、悪とはわれわれがこの型を思い起こすのを妨げることをわれわ れ が 確 実 に 知 る も の の こ と と 解 す る で あ ろ う 」( Eth.IV. Præf. )。 ス ピ ノ ザ が い い た い こ と は 明 ら か だ と 思 い ま す。 「 自 由 な 人 間 」 の 生 を 基 準 に して各々の人間の生を評価することによって、その人間の「欲望」の状 分に対してはっきりさせなければならない。そのためには、やはり何か の基準が必要です。それが「自由な人間」だと思います。それは各々の 人間が自分の欲望にのみにしたがったら、どんなふうに生きることがで きるかを示すものです。ですから「自由な人間」とは自己にとって真の 利益が何であるかを知っていて、それにしたがって生きる人間のことで す。 「 絶 対 的 に 徳 に よ っ て 活 動 す る こ と は、 我 々 に お い て は、 理 性 の 導 き に よ っ て 活 動 し、 生 き、 自 己 の 存 在 を 維 持 す る 」( Eth.IV.24.Pr. ) こ とであるといわれていますが、この定理は「自由な人間」について述べ ているわけです。   このように考えれば、スピノザがどうして「自由な人間」を基準にし て現実に存在する人間の生を評価しようとしたのかという問いかけには 次のように答えることができるはずです。問題は「より完全」とか「よ り不完全」とかいう言葉の意味ですね。すでに引用したスピノザの説明 に よ れ ば、 「 自 由 な 人 間 」 と い う「 人 間 本 性 の 型 」 に 近 づ い て い る か ど うかでその人間は「より完全」とか「より不完全」といわれます。それ は自分の欲望が自分にとっての真の利益にどれほど近づいているかとい う認識です。この認識によって「よく生きたい」という欲望に鮮明な輪 郭を与えることができるはずです。スピノザのねらいもそこにあったと 思います。各々の人間の欲望に対して外在的な「人間」の規範との違い は こ こ に あ り ま す。 「 よ く 生 き た い 」 と 思 っ て い る 人 間 が「 い か に 生 き るべきか」と問いかけているわけですが、規範を基準にして現実の生を 評価することはただ欠点を指摘しているだけです。これでは答えになっ ていませんね。 「よく生きたい」という欲望が無視されているからです。   善および悪についても同様のことが指摘できます。規範としての「人

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規範と理想 一〇七 人が自前の手段を用いるにせよ他人の助けを借りるにせよ、 自己の身体、 魂、 思想、 行動、 存在様式に対する一定数の操作を実行することによって、 幸福、浄化、知恵、完全性、不死、こういったものの何らかの状態に到 達 す る た め に 自 己 自 身 を 変 え る こ と が で き る よ う に す る も の 」( Martin et al. eds.1988.18. )。驚くべきことに、 このなかには、 すでに考察した 『エ チカ』の重要な主題が含まれています。 (1)個々人の生が問題である点。 ( 2) 命 令 や 強 制 に よ っ て で は な く 自 己 に 操 作 を 実 行 し て 自 己 自 身 を 変 えるという点。 ( 3) 自 己 自 身 を 変 え る の は、 何 か よ り 善 き も の に 到 達 す る た め で あ る という点。   このような「自己のテクノロジー」の中心に位置づけられるのが、現 実に存在する個々の人間の欲望の状態を内在的な理想によって評価する という考えです。そのなかで重要な役割を演じているのが「完全性」の 概念だったわけです。 凡例 『 知 性 改 善 論 』( Tractatus de Intellectus Emendatione : TIE. ) の 参 照 箇 所 は 節 番 号を本文中に挿入する。 『エチカ』 ( Ethica : Eth. )の参照箇所は以下の略号を用いて本文中に挿入する。 序文: Præf.   定義: D.   定理: Pr.   証明: Dem.   系: Cor.   注解: Sch. 使用テキスト:

Gebhardt(ed.) 1972, Spinoza Opera II, Heidelberg

態が明確になります。自分の欲望をもっと追求するには何が真に役立つ かということが、ここで明確に認識できるはずです。それが真の意味で 善であるはずです。それは各々の人間の現実の欲望との関係でのみ 「善」 で あ る だ け で す。 こ の 点 も『 知 性 改 善 論 』 か ら 一 貫 し て い ま す。 「 人 間 は自分の本性よりもはるかに強い何らかの人間本性を考え、同時にその ような本性を獲得することを妨げるものを何ら認めないので、この完全 性へ自分を導く手段を求めるように駆られる。そしてそこに到達する手 段となりうるものすべてが真の善と呼ばれる」 ( TIE. § 13 )。このように、 「 自 由 な 人 間 」 と い う 内 在 的 な 理 想 を 基 準 に し て、 現 実 の 生 を 評 価 す る ことによって、各々の人間にとっての真の「善」および真の「悪」が明 確に認識できます。これらは各々の人間が「よく生きる」ために真に役 立つ認識です。   さて、以上のような解釈によれば、スピノザの倫理思想は「人間」の 概 念 を も と に 個 人 の 生 を 規 制 す る 思 想 に 対 す る 挑 戦 で す。 『 エ チ カ 』 第 四 部 の 序 文 を 注 意 深 く 読 む こ と で こ の 点 が 理 解 で き る は ず で す。 「 い か に生きるべきか」という問いかけに対して『エチカ』は個人の生に焦点 を定めて答えようとしているわけです。その内容ですが、何らかの規範 に則って各々の人間を行為させるという発想はスピノザにはまったくあ りませんね。むしろ各々の人間が自己の生を変えることを提案していま す。 ス ピ ノ ザ は そ の 著 作 を『 エ チ カ 』 と 名 付 け て い ま す。 「 倫 理 学 」 と いうことですね。 しかしその中身はメタ倫理学でも規範倫理学でもない。 スピノザが提案しているのはミシェル・フーコーのいう「自己のテクノ ロジー」のようなものです。   フーコーは 「自己のテクノロジー」 を次のように説明しています。 「個々

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柴    田    健    志 一〇八 文献

Deleuze, Gilles & Guattari, Felix 1980, Mille Plateaux, Minuit

・ De sc art es 19 96, D isc ou rs d e l a M ét ho de , A da m & T ann ery (E ds. ) Œu vre sV I,V ri n ・ Foucault, Michel 2015,

“Le Corps Utopique,”

Œuvre II, Gallimard

・ M ar tin , L uth er H ., G utm an , H uc k, H utt on , P atr ick H .(E ds .) 19 88 , T ec hn olo gie s

of the Self: A Seminar With Michel Foucault, Tavistock Publicat

ions

Macheley, Pierre 1997, Introduction à l

’Éthique de Spinoza IV, Vrin

Moore, G.E. 1996, Principia Ethica revised edition, Cambridge

Sartre, Jean-Paul 1996, L

参照

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