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存在する 弟子訓練は 人が思考 感情 行動において よりキリストに似た者となることを手助けするプロセスである このプロセスは 人が新しく生まれたときから始まり 残る生涯中続くものである このキリストを わたしたちは宣べ伝えており すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように 知恵を尽くしてすべ

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Academic year: 2021

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2018年の総会にあたって 『人間をとる漁師にしよう』 牧師 司祭 フランシス 小林史明 昨年の総会では、伝道部の課題図書として部員たちが読んでいる、リック・ウォレン著「5つの目的が 教会を動かす」という本の前半、リックさんの描いている教会の活動の全体像をお話ししました。 教会のあり方、教会のなすべきことは何なのか。神様は教会に何を求め、この世界に何をしようとして おられるのか、という根本的な課題に対して、著者のリックさんは、私たちがよく知っている、ふたつ の聖句の中にその答えを見出しました。 『イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさ い。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように 愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」』(マタイ22:37~40) 『だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によ って洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わり まで、いつもあなたがたと共にいる。」』(マタイ28:19~20) このふたつの聖句をもとに、リックさんが見出した教会の目的は次の5つだと言います。 目的1『心を尽くして主を愛すること』 この目的を具体化したものが『礼拝』。 目的2『自分のように隣人を愛すること』 このことを具体化したものが『奉仕』。教会は人々に奉仕するために存在する。奉仕とは人々の必要に 応え、イエスの御名によって人々の傷をいやし、神の愛を示すことで、愛を持って人々に接するとき、 彼らに奉仕しているのである、と説明されていました。だから、教会で『聖なる者たちは奉仕の業に適 した者とされ』(エフェソ4:12)るようになるのです。 目的3『行って弟子をつくること』 このことを『伝道』と呼んでいる。これが2番目の聖句に含まれる3つの要素の第1。教会は神の言葉 を伝えるために存在する。私たちはキリストの使節であり、その使命は世界を福音化することである。 目的4『バプテスマ(洗礼)を授けること』 私たちはクリスチャンとして、「信じる」だけでなく、「帰属する」ために召されている。ひとり気まま に生きるのではなく、キリストの家族という共同体に連なって生きるべきである。エフェソの信徒への 手紙2章19節のリビングバイブルの訳『あなたがたはもはや、神にとって見知らぬ他国人でも、天国 に縁のないよそ者でもありません。神の家族の一員であり、神の国の市民なのです。すべてのクリスチ ャンと共に、神の一家を構成しているのです。』 目的5『従うように教えること』 この目的を表す言葉として「弟子訓練」というのが用いられる。教会は神の民を育て、教育するために

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存在する。弟子訓練は、人が思考、感情、行動において、よりキリストに似た者となることを手助けす るプロセスである。このプロセスは、人が新しく生まれたときから始まり、残る生涯中続くものである。 『このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるよ うに、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。』(コロサイ1:28) 『こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、 わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリス トの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。』(エフェソ2:12~13) このような5つの目的のために、教会は、未だキリストの福音 に触れていない人々を教会の礼拝に招き、洗礼を授け、奉仕の 業をさせ、キリストの弟子として育て、仕僕として、伝道に送 り出す、というプロセスをたどると言うのです。彼の教会は毎 週1万人が来るそうです。そしてそれを同心円の図で区別して います。これは一番大きな同心円である(現在31万人いる)「住 民」を招き、教会の礼拝に来させて「群衆」(現在の礼拝出席者 毎週約1万人)にし、洗礼を受けると「会衆」(礼拝出席者の平 均約5千人)と言って、教会員になる。その会衆に奉仕の業を させて、「弟子」(礼拝出席者の平均3千5百人)ができる。そ の弟子の中から「仕僕」が約1500人となって教会の中心的 奉仕者という構成になっている、ということです。 著者は大変鋭い指摘をしています。 『千人以上の名が名簿に載っていながら、礼拝には二百人足らずしか集まらない教会で話したことがあ る。そのような教会員を持つことにどんな価値があるのだろうか。もし、あなたの教会の教会員数が礼 拝出席者より多いのなら、教会員の定義についてまじめに考えてみるべきである。 教会員よりも礼拝出席者が多いほうが、まだ教会につながっていない伝道対象者を引きつけ、集める のに効果がある。ある教会の伝道が効果的と言える良い基準は、「会衆」としての教会員に加えて、最 低その25パーセントの「群衆」が出席していることである。教会員二百人なら、平均出席者は少なく とも二百五十人はいるべきである。もしそうでないなら、あなたの教会のほとんど誰も未信者を誘って いないことになる。』 また著者は人生の成長プロセスとして、野球のダイヤモンドを 想定し1塁目指して「人々をキリストに導き、教会に加盟する ように導くクラス」。2塁を想定し「霊的に成熟するよう導くク ラス」。3塁を目指して「奉仕に必要な熟練技術を身につけさせ るクラス」。本塁を目指して「世界中にキリストを伝える働きに 参加を募るクラス」などがあるそうです。 私は、宮崎聖三一教会が力を入れるべき活動は、先ず、「住民を 群衆に」して、キリストを知らない人々に、礼拝を通し、また 集会を通して、キリストを知ってもらいたい。そのためには、

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人々が、キリストを知るために教会に来るように企画することが先ず何より大切に思えるのです。私た ちは、何をすることによって、この地の人々にキリストを知ってもらうことができるか、具体的な方法 を考えましょう。 ここまで、昨年の総会では話しました。 そして、昨年は何とかして教会に人々を招くためにどうするか、2月の第4日曜日から、教会の宣教を 考える会を始めて、教会案内を作ることに着手しました。まだ、最終的なものは出来ていません。しか し、その中で、映画会をしてはどうか、子どものための料理教室をしてはどうか、などの案が出てきて、 先ずはプロジェクターを買って、映画や礼拝で使えるように、視聴覚設備の充実を図り、また、礼拝堂 の水銀灯も、切れかかっていましたけれど、LED に替えることができました。そして、7月29日の 夏のお楽しみ会では、子どもたちと一緒に「いのちをいただく」という、10分ほどの話を一緒に学ぶ ことができました。そして、翌日には、教区建築準備委員会の説明にもそれが使えました。 10月になって、カズオ・イシグロという日系イギリス人の小説家がノーベル賞を受賞することになり、 それに合わせて「わたしを離さないで」「日の名残り」「上海の伯爵夫人」などを上映し、12月からは、 第2と第4金曜日の午後2時と午後7時から行っています。 さて、それで、今年はリックさんの本の半ばあたりにある、第3部 第11章「戦略を開発する」とい うところを考えてみたいと思います。 先週の日曜日は、イエス様がガリラヤ湖で漁師をしていた、シモンと兄弟アンデレ、そしてゼベダイの 子ヤコブとその兄弟ヨハネがイエス様の弟子になったお話でした。この話の中心は、イエス様が言われ た「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉でした。 この人間をとる漁師、という発想は、イエス様が初めて言われたのではなく、イエス様より600年も 前に預言者の口から出てきた言葉でした。先週は、延岡でその話をしました。 エレミヤ書第16章16節から18節 『見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは 多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。わたしの目 は、彼らのすべての道に注がれている。彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたし の目から隠すこともできない。まず、わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる。彼らがわたしの地を、 憎むべきものの死体で汚し、わたしの嗣業を忌むべきもので満たしたからだ。』 エレミヤは、紀元前587年のエルサレムの都が東の国バビロニアによって滅ぼされるのを目撃した預 言者です。神様はイスラエルの人々が神様に逆らって生きている罪を裁くために、敵軍であるバビロニ アを使って、ちょうど漁師が魚を釣り上げるように、イスラエルの人々を捕獲される、と言っているの です。ですから、エレミヤは裁きのために人間をとる漁師が遣わされる、と言うのですが、イエス様の 場合は救いのために人間をとる漁師にするため、弟子たちを集められる、というわけです。

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さて、私は昨年の話同様、最初にリックさんの指摘した5つの目的を挙げました。 この5つの目的とは、 1 心を尽くして主を愛すること。 その具体的な方法として、私たちは礼拝をしているのです。 2 自分のように隣人を愛すること。 人々への奉仕のために教会は存在する。ところが多くの教会は、 本当に奉仕と呼べるものをわずかしかしない。奉仕の働きではなく、集会出席によって、信仰深さが図 られることが多い。教会員は椅子を温めるだけで、時間ばかりが過ぎてゆく。 3 行って弟子をつくること。これが「伝道」ということで、行くところどこでも、福音を分かち合い、 キリストの降誕、十字架上の死、復活、再臨の約束を世界に伝えなければならない。 4 洗礼を授けること。キリストのからだとして、新しく交わりに加わる人が必要になる。 5 従うように教えること。 これは「弟子訓練」と言われます。ただ洗礼を受けるだけでなく、その 人がキリストを伝える弟子になることが大切だということです。 これらの目的の内で、1番の礼拝とか、4番の教会に来始めた人に洗礼を授けるとか、5番の弟子訓練 というのは教区では教育部の守備範囲です。そして2番の奉仕と3番の伝道が、伝道部の仕事というこ とになります。ただ、2番の奉仕の方は、伝道部の優先課題にはならず、まずは、教会に来ていない周 囲の人々を教会に来てもらうために、どうするか、その方法を考えるのが、今の伝道部の課題のように 思えます。というのは、先ず地域の人々を教会に招き、彼らに洗礼を授け、そののち、信仰を一層深め て、クリスチャンとしての価値観を十分に持ったうえで、社会への奉仕、社会問題への取り組みが可能 になるのであって、それがなければ、社会の中の政治運動に巻き込まれるだけで、クリスチャンとして の奉仕とは言えないものになってしまう危険があるからです。それで、今年は伝道部の課題のために、 この本の11章「戦略を開発する」という部分を学ぼう、ということにしました。 この章を始めるにあたり、著者のリックさんは2つの聖句を挙げています。 Ⅰコリント9:22~23『弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。 すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、 わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。』 マタイ4:19『イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。』 二番目は、今日の福音書と共通する、マタイの方の聖句です。 さて、この章でリックさんは、彼とお父さんが釣りに行った時、お父さんは釣りの名人で、次々と魚を 釣り上げるけど、自分はさっぱり釣れないので、その違いを考えたそうです。お父さんは魚の習性をよ く知っていて、どんな魚はどこにいて、いつ頃餌を食べようとするのかよく知っている。そして魚を取 るためには、はいずりまわったり、腰まで水に浸かったりして魚をとろうとするけど、自分は居心地の 良い場所で釣り糸を垂らしていた、というのです。 不幸にも、多くの教会は人をすなどるのに、これと同じような活力を欠いたやり方をしている。伝道を しようとする相手を理解する時間をとることも、戦略を持つこともない。できるだけ居ごこちの良い状 態のままで人をすなどることを望んでいる。でもイエス様は、何を語るべきか、だけでなく、どのよう に伝えるべきかをも、教えてくださっている。マタイとルカの10章にはそれが書かれている、という のです。

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マタイの10章には「十二人を派遣する」、ルカの10章には「七十二人を派遣する」話が登場します。 特にユダヤ人のために書かれたマタイの方では、「異邦人の道に行ってはいけない。また、サマリア人 の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」と言われま す。これはイエス様がほかの民族に対して偏見を持っていたのではなく、弟子たちが最も伝道しやすい 人々、彼ら自身と似ている人々を対象にした。イエス様は、相手を排除するのではなく、効果的に伝道 するために対象を特定された、ということだと著者は解説しています。 そして、自分たちを受け入れる人を相手にするのであって、受け入れる気のない人に何度も戸を叩くの は、時間の無駄である、と言います。このことを著者は魚釣りにたとえて「釣ろうとしている相手を知 る」「魚が食いつく場所に行く」などと言います。 そして、それに続く著者の主張には「魚のように考えることを学ぶ」「魚を彼らのことばで釣り上げる」 「複数の釣り針を使う」「地域に伝道するにはお金がかかる」「魚釣りは真剣な仕事である」という言葉 が続きます。これらは、もっと突っ込んで学ぶ必要があるところなので、別の機会に読みましょう。 教会に集まるクリスチャンは、クリスチャン同士の関心や言葉などを話すようになって、かかわらなけ ればならない人々、釣り上げる魚である、教会の周りの人々に届くような方法を忘れてしまっているの ではないか。そのためには、常にクリスチャンではない人々を友達に持ち、その人たちが、どんなこと に関心を持ち、教会にどんなイメージをもっているか、知っておく必要があるというわけです。 著者が教会を始めるにあたり、町の人々に聞き取り調査をしたときに、基本的不平が四つあると言って います。 ①教会、とりわけ説教は退屈である。その内容は私の生活と関係がない。 最も刺激的な書物である聖書を取り上げて、人をうんざりさせることのできる教会の技量には、驚か される。多くの教会は、パンを石に変える奇跡を行っているのである。 ②教会は、来た人に不親切である。教会に行ったなら、邪魔者扱いでなく歓迎されていると感じたい。 教会用語や讃美歌や進行がわからないので、みじめになり、教会員たちから裁きの目で見られているよ うに感じた。来会者が監視されていると感じないで、歓迎されていると感じるように努めること。 ③教会は、私より私のお金に関心があるのだ。 未信者は献金のアピールに神経質になっている。著者の教会は献金の際、献金しなくてもよいと告げる ことで対処した。献金は教会に加入している人のためであることを説明する。 ④教会は子どもの面倒をきちんと見てくれるかどうか心配だ。 若い夫婦に伝道しようと思うなら、彼らの子どものために優れたプログラムを用意しなければならない。 わたしたちは、教会に新しい人が来ることを期待しているのですが、そのためには、来てほしい人が何 を求めているのか、それを探り、それに応えられる私たちにならなければ、魚釣りは成功しないのでは ないか。もっと一歩も二歩も教会から出て行って、人々が教会に信頼をおいて入ってくることができる ように努力する必要があるように思うのです。そのような心構えで、教会の伝道活動に取り組みたいと 思います。

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