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日本文學の發生と展開-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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仙、文 畢 の 教 生

輩街的表現とは汲め把捉されたる概念ゑ出現する事であり感性化する箪である。−カント一 文撃の歴史とは物の言ひ方の欒遷である。表現の襲撃芝讐に考へ、紡二にその文単的に欒化して行く順序を 考へるべきであらう◇ ヤ鰭人類の歴兜のうちで、喜びとか悲しみ等冨ふ感動︵EmOtiOn︶を美しく表現する窃が如何にして牽強しに か、此の久遠の心情兜とも冨ふべきものを考へるならば、普通君々の考へる文単に表はされたる所謂文単なるもの は、飴うにも新らしい存在でしかない事に気付くであらう。殊に日本に於ては原始文字の存在が確められで居ら す、若し亦紳代文字や紡織文字等が存在しにとしても、それ等は口諦文教とは極めで関係の薄いもので、例へば木 帳面の如く⋮単なる記憶的符既に過ぎなかつにであらうと思はれる。従って漢字の涯釆が償々千九六百年か高々武 千年位しか遡れないとすれば、それ以前に於ける冨葵に依って前ひ誹られた久しい口詞文輩の時代と言ふものが 高超高等帝菜辟校紀元二千六甘牢記念論文集

日本文畢の螢鐘ヾ︼展開

杉 村 欣 三

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考へられねばならぬ。亦漢字が渡米しTもそれが心情の表甥に迄利川されるに至ったのは、大概推古靭以来汽車 時代に入つでからであると見て大過無い棟である。 口調文聾と冨つでも、翠なる晋の蟹田や個々の言葉ではない。尤も﹁あ1﹂とか﹁春﹂とか言った偶々の言某 でも共虚に感情が動いてゐるならば、それは何等か文革的なものであると貫ふ事も出来るであらう。然し乍ら個 々の言菓は結局概念の識別を表現する象徴形態に止まり、厳密生息昧に於ける文革形態ではあり得ない。文革形 憩とは、或る質的な文拳精紳が素材を媒として表現されたものを言ふのである。従って文革の後生の問題は、文 革は如何堤る過程に於て如何なる形態の下に蟹生したかと言ふ事を取扱はねばならぬであらう。 文革の獲生に関する諸説には信仰短波詮・感動起泌説・融合終生説・個人蟹生認等があり、信仰起源説は叙事 詩を以て最初の文革形態としで居㌔文献的・民俗的に比較的豊か草根擁を有した診であるが、躍密にはその説 く所が宗教の敢合性と信仰儀式の攣化恐展のみを貧祓して、主観の情緒的活動と首ふ文単蟹生の自律的内子を極 端に軽祀する嫌ひがある。一方感動竃泌訟は・文革の婆生を、利郡の感動・叫びに求め株とするもので、古今和 歌集の序文にも見られる古い常識であるが、此れも亦心理的過程の嘉に偏して潤野の狭い感がある。通常此等 の単語は封立するものと見られてゐるが、生命現象の客観的考察からす・れば、決して互ひに相容れないものでな く、却つでその何れか二万に片付けやうとする魔に誤りがあると冨ひ得られるであらう。此れは元釆同〓堺象の 二面的観察であると言ふべきである。敢愈黎全貌と個人戦生説も亦同様である。 日本文準の密生と展開 一三二九

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三三〇 高碑高等商業撃校紀光二千六有年記念論文集 文単の形態に紺する説は、その問の言語の性質に依って必ずしも加定しではゐない、例へば抒情詩・叙事詩・ 劇の三枝に分ける事は最も普通の分析であるが、成ひは文借上より韻文と散文に分つ場合、詩的内容の有無に依 って詩と散文に分つ場合等あつて、然も驚際に於ては此等分類の限界は明瞭で無く、精細生活の役郷化に従って 形態も亦複難攻して居り、原始時代と耀も必ずしも明瞭とは冨へぬのである。 モウルトンは文革の原始形態は民話舞踏︵Ba−−ad Dancの︶でぁるとし、此れを中心として、叙述と表出、韻文 と散文の四方向へ考展し、文革形態の六要素︵抒情詩・叙事詩・小説・物語・膵兜・戯曲︶を抽出してゐる。ベ エクは詩と散文を対立せしめる尊からその論を進めで居り、マールホルツはその文革配的立場に於て様式妃を主 調し、文革と詩との概念を院則しでゐる。 然し乍ら様式と形態とは、結局個々の作品の両面に過ぎす、その形態は往々にして株式と関係明ける事に依っ て明瞭となるものである。例へば古事記の形態に就いて見ても、頻してこ鱒に言はれる如く叙事詩であるか、或 ひは革なる・閣兜に過ぎないかと富ふ関越にしてむ、⋮単に形態論の上から諭するのみでは永久に解決し得るもので はない。そこには叙事詩的・抒情詩的・劇的蟄素があり、亦散文化されたる政治的歴史文単としての性質も多分 に存する.のである。古事記の株式的特性は、賓にかゝる全ての要素を抱括しで、それを以て苗代の本質を采疲 し、永遠に姿薗せるものとしての怜質を戯興せんとした魔に見用されねばならぬのである。 文革は結局人間の所産であり、人間は常に外界と交渉を持ってゐるのであるから、常然文単の蟹生には、その

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内部的原因と外部的劫横とが考へられねばならぬ。

にさる、にしたもるとるらう、

文革は或る文革的精紳が素材を拡として表現されたものであるとは、とりも直さす文畢は、肇偶の感楷︵素閃︶

が狙象︵動機︶移入れて生す怖緒を育英の上表明︵形態枕︶のであ富ひ得であ此

れは同時に文革祭生の過程を示すものと冨ふべきである。如何なる原始的輩術でも、封象の具有する意味を恐見 し、それを鰻験する番無くしては恐生し得ないであらうから、塾術は結局ある判象を劫械としT、主観の情緒的 活励の結果生れたと見るべきである。故に判象の具有する意味と主観の情緒との端的な化合、其應に塾術の胚芽 があると冨ひ得るのである。 然らば、原妬人の主観の情緒的活動を刺衝した魔の封象は、主としで何鹿に求められるべきであらうか、勿論 それは無限にあったと考へられる。彼等にとつてはあらゆるものが驚異川詠嘆の判象であつたらうし、漠然王る 賽想を感性化する審に楷びを持つのは、原始以来人間に興へられたる白己表現の東熊でもある。 生物が過去から明在迄進化恕展して釆た過程を挑めると、其魔に∵定の方向が認められる。それは常に肖己保 存の方向へ進む事である。諸々の錆びも苦悶も唯自己保存の故にのみ経験される所で、生命を維持する韓が鯨び でふγり、.同時に苦悶でもあつたのである。食ふ事が錆びであり、物資を得る事が苦悶であつた番は、あらゆる生 物に通サる現象であつた。戯して、外界の威邸と生命の矛盾、恐怖と悲哀等の幾多の苦悶を克服し、自己分裂を 静二して生命の歓貰が餞験された時、それを塾術に表現すべき本能が働らくと雷ふ寄が考へられる。 日本又顧の教生と展開

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三三こ 高松高等商業堪校紀元二千六官年記念論文集 然らば、彼等の矛盾・苦悶を克服すべきものは何であつたか、人間に於ては生活の物質的條件と精紳的條件と は、同等の資格で春亜種を持つでゐる。文革の牽生以前に於ても、此の二つの條件は平行しでゐた。太古に於け る種族移動の原因さへも、物資獲得の慾求以外に、宗教的憤隙がー太陽崇井目東方崇葬‖西方崇拝石火山崇丼等 1より重大な姿索として存在したらしい。最も無智蒙昧なりし時代に於てさへ、なほ兜宗教︵Pre−邑i耶i害S︶の 布衣が考へられてゐる。寧ろ彼等の内観的信仰條件は、贅生活上の勢力としては絆臍力以上では無かったか、少 くも、それは自己保存の手段としての努働や性欲に封して、常に緻導的な地位にあつたのではないかとさへ考へ られる。此の意味に於て、原始人の主偶の情緒的活動を偶恕した所の動閑は、主としr宗教生活内に求めらるべ きである。 兜宗教の要素としては、禁忌・卜占“魔淡等が考へられる。それ等は如何に簡革なものであらうとも、生きん が烏のま要なる方便であつて、積極的には物資の特待︰生成語展・車隔の招釆を目的とするものであり、消極的 には禍寄の橡防逃避等を目的とするものである番は晋ふ迄もない。併してそれらの光術は、有壁観︵Anim註sm︶ や有棺血税︵Animism︶の上に立つものであつて、自然崇揮1・児物崇拝‖麗戚の観念等の種々な概念はあつても、大 部分精蚕信仰の上に立つものであり、有飯観に於ける精察が人態紳として人格化されるに至つて、始めて有榊観 ︵Theis臼︶ へと蟄展して行くのである。その過程は矢張りトオテミズムと幣接な関係にあるものであらうり 日本原始宗教は、大概宥恕観乃至精笈崇葬を基調とする状態にあり、その後ツングウス系種族の倍率するシヤ

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ーマン教の渡来があつてア≡、ズムトトオテミズムと接燭した事が想像出来る。故に原始紳遭は、必ずしもシヤ

ーマ一∵ズムを基調とすると言ふ事は断定出釆ない棟であるが、次第にそれが勢力・を得て細道の主要素となつた寄

は炭はれないe然しr、そのシヤーマ芸ムに於て、特に着るしい教連を途げたものが富軍籍仰であつたと考へ

られる。

何れの信仰を間はす、倍例外無く硯葦の生活を離れでは存在しなかった、比較的進歩した紳遣にした所で、死

後の世努栄華観念等は問題になちぬ桂薄絹である。だが、さうした現驚的宗教は生命に即して見れば極めで合

理的であつで、物忌み・祓ひ・太占∴夢告・紳憑り等の侶仰行為は、何れも外界の恐怖から逃れ、心身を強力な

らしめ、病毒を駆逐すると冨ふ現驚生活の必要に迫らわてゐないものはない。それを厳重に拗行する事に依って

生命の矛眉は克服され、その豊展が期せられた。信仰上の眞蟄さは常然敢倉的道徳的制約となり、共同生活に於

ける凍縛となった。相違観念が更に甜先崇拝に恐展するに至って、宗教生活は次第に彼等の費消全般を規定する

様になつた。然して、苗代神道の最も敬遠した氏族共同鰭の時代に於ては、宗教は現賛辞清の理念としで存在し

た。紳へ、仕へる事に依って平等なる共同の生活を営むのである。理想と現賛の背反が如く、偵他と葦春との糾合

ご執した境地が開かれたのである。

かくの如く文化現象としての宗教生活は、飽く迄現賓そのものを統仙して行く理念セあつに。従って、挫折過

程の基礎たる物資の碓得︵労働︶や性欲の充足に於ても、常に密接に関係してゐたであらう事は常然考へられる塵 目本文撃の常盤と展開 三三三

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高聡高等商米袋校紀元二千六官年記念論文集 \ 〓三凹 でめり、寧ろ支配的勢力を持ってゐたとさへ考へられる。挿話を見れば、そこに文畢の蟹生すべき眞囚の潜んで ゐる事が知られる。彼等の主観の情緒的活動を刺簡するものは、賛にその金柑榊㌧仝生命を矛盾なきものとして 統一し得る所の宗教儀式であり、而も此の儀式は、経済活動塩びに性生活と幣接な関係を保ちつつ、常に集困的 な児的宗教生活の中に含まれてゐるものである。 モウルトンやグロツセの言ふ民話舞踊とか原始演劇なるものも、宗教的意義を持つものと考へられる。巫女が 神懸りしで唱へる兜文も、仙薬固の宗教的狂踏乱舞と音楽嚇手の中から蟄生するものと考へられる。古語拾造に ある仲手歌舞して、﹁あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ﹂と唱へにのは、馴柾の嚇子とも富 ひ得るであらうが、かかる感動詞を含む聯チや舞輯は、同時に文箪教生の原型質と見て良いと思はれる。勿論か かる狂錯乱舞も宗教的意味を持つ限り、そこから教生するものは革なる抒情的なものでなく、紳に封する希求と して、狩独・農耕の順なる促進、死の恐怖と罪械の楔紋、闘争の勝利等が物語られ、それに封寺る紳の託宣も、 生存の賓用的効果を蔚らすものでなければならぬ。グロツセが、原始民疲の叙事詩の内容を見るに、常に珪存競 争を論ってゐると言ってゐるのも此の放である。 かくて文単車生の外部的動機としての儀式は、シャーマニズムに求められるのである。然もシャーマニズムに 於て漁連しにものは音盤信仰であり、此れが文革教生をⅧ盾助長したのである。〓閤この言語に勢髄ありとする 観念は飴程原始的なものであつて、有蟻親信仰時代の草生らしく、必ずしもシヤーマ.ユズムにのみ附臆したもので

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は無い棟であ′る。 凡そ宗教生活の存する以上、其鹿に軸や精盤に封して仙窟の態度・観念がある。その態度・糊念が具憫的に行 為の上に表れたものが、児術であり儀式である。それが帥への思念であるならば、所哺となるであらうし、更に言 語の上に表れたならば、仰の信仰を叙述する事となるのである。則ち紳話がそれである。翻の叙述でも信仰を基 礎とする以上、その叙述は生命の無いものではなく、﹁語り梱ぎ言ひ視ぎ行かむ﹂とする叙述の帥秘力の考へられ るのは富然であらう。亦、感動・希求の具鰻的表瑛として、言語を以て粘怨に呼びかけたのであれば、紳への希 求がその根粧に於て生命の保護磁展にある以上、呼びかけにも亦錆命のこもつた璽難が考へられ、それに封する 反應があると言ふ信仰の起るのは蓋し常然である。兜宗教の雷光の淡も、恐らくは此の観念に基くものであらう と忍はれる。 かくの如き貰或信仰は、原始人が生命の矛盾を克服しで牽展する過程に於て、故も法要な信仰形態の皿として、 必然的に存在したものである。併して、それが児言の漁連に苔興する桝は甚大であり、文革形態の額生にも雄要 な要素として認められねばならぬのでゐ電。彼等が叙事的・抒情的、戎ひは劇的要豪富へも含んだであらう光∵ を、器物を打ち鳴らす嚇チの雑音と、舞踏の律動的基調の中に唱へる時、そこには自ら言懸の神秘力が覆挿され てゐにのである。 以上の如く、粕紳的現象たる信仰生活s元的行為乃至儀式が、文革替生の重要な原因であつ十事は明らかであ 日本文撃の蟹座と展開 三三弄

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三三六 高埜じ同等商業学校紀元二千六百咋記念論文集 るが、同時に文革蟄生の梶原が、坐物としての人間それ臼憾の持つ肉濃的及び粍紳的條件、乃至は生理的及び心 理的條件のーー⊥ぞれは究極に於て、生物叫般の合目的性に依って統一される所のー中に存する事も、輝ひ待な い新嘗である。自己表塀の本然性が、塾術・文畢を生む根泌であると云ふ心理解約美挙の説明も、文畢の起源を 肉餞的欲望に置く所の生理心理笹的訟明も、生命の合目的性に囲聯せしめて、始めて理脅される。 宗教儀式も人間の合目的々活動の結果生れたものであるが、此れは文拳の草生にとつては、むしろ環堺的他律 間は、まだ文字を持たない原始的な時代から、簡軍な宗教的児術を次々に 的要素であり、外部的原因である。人 張生せしめた、そしで、それが這の様式1−1シヤーマテズム的なる一に造語達しに時、此れを契機として 文革は後生するに至ったのである。則ち、文革は人間の生理的傑件を主とする欲望及び心理的過程としでの主観 の情緒的活励︵感動︶と言ふ自律的閃子が、文化現象としで既に存在する宗教儀式と云ふ他律的因子と結合する番 に依つて蟄生したのである。少くも主観の情緒的活動を呼び起し、それ新二つの文革として形態化せしめ㍍客肌 的封象が、宗教的儀式であつ仁と冨ひ得るであらう。 然らば・かくしで教生した文革形態は如何なるものであつにか、叫般に抒情詩は内的主観的感情を直接に袈媒 するものであり、叙事詩は外的客観的世界の現象を動機として表現するものであるが、・文畢を番生しに原始良疲 に於て彼等の純粋感情を、∵つの文挙形態として表現する力と、客観的せ界を山女撃形態として表現する力と が、別々に然かも何れかが兜に蟹生すると冨ふ様な寄が、果して可能であらうか、彼等の感情は信仰生活の申に

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あつて、硯賛の矛盾を克服せんとする希求の念則ち﹁いのり﹂に依って紛二されてゐにと冨ふ前提が忙しいとすれ ば、そこに願誓を述べて車稿を儲ふ例の本質を持つに叙事的抒情文革形態−−明朝封打如きーーが、最初に饅生 したと富ひ得るのではなからうか。 抒情文拳形態が単調に教生しにと冨ふ人々は、飴りに心理的過糧を遭硯しすぎて、教生の外在的因子を見落し 防であり、叙事文単形態を故初とすると云ふ人々は、常に賛辞的因子の探求にのみ急で、内泰的心珊的過程を腱 硯する傾きがある。 此所に日本文挙の原始形態は、叙事的押構文拳形態であつたと言つても、それは現有の祀詞の如き形式を指す カケアヒ ので無く、むしろ叙事詩的打情詩的なものの混汚しに状態で、多少の演劇的要素が、唱和相聞の形で含まれでゐ たであらう。然し乍らモウル十ンの所謂民謡無機と富ふ様な原型質が、数千年の口詞時代の闇に分化せやして、 憧空手空軋に至って急激に教展したとは考へられないじ亦、古事記に来れた文革形態を以て、葦生常初の原始 形態を兵へるものと噺する革も困難である。従って、この叙事的抒情文革形態と首ふものも、久しい口調文薮の 常勅に於で考へらるべきである。その原始形態が、長い俸承の問に梢々長大な形を持っ様になつたものが、叙事 詩であり、二女堺始形熊から分化した抒情的分子は、斬らしい敢愈の牽展と相倹って佃悼的抒情詩としで、魚激 に敬達するに至ったのである。 モウルトンの富へる如く、民諭舞躇が文革の牽生に紬係してゐた事は勿論である。攫って舞躇及び青葉場末 ‖本文塾の殴座と展開 三三七

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が、意識的r無意識的に組僻して、言語に表現された文革性以外に何等か律動的質素を備へてゐにと忍・はれる。 娃嫡式に詔部の語り口を許して﹁其峯似歌登渉疏詞﹂とある如く、成る程度の歌希性は持ってゐたであらう。 日本に於ける音楽の原始的なものとして、如何なるものがぁつたかは明確には判らないが、石器・木片・鈴等 で拍子をとる程度のものが、諭ふ者の補助として狩衣しにのであらう。原始民族にあつては舞踊に依る律秦的枕 序が主で、青果に依る旋律などは附属物にすぎなかったらしい。 癖躇と音楽と詩歌の児後に銅しても碓説がある詳では笹いが、力︵エネルギー︶の飴刺としで、或ひは運動本能 に基くものとしで、史に亦、遊戯本能の表わとして、藤生挙的に舞楷を以て塾術蛮生の東川とするのが、有力な 臆説であるらしい。ともかくも、舞躇と音楽とは詩歌より先に存在したとしても、革なる輩生としての畔びも同 株に古くからあつたと考へられるし、それらのものが、宗教儀式を契横として急激な賛連をしたと見るべきであ ら,つ○ 舞踏が文革の硬生に盈安な原閤となり得るとせば、それは如何なる意味を持つものであらうか、生物単者は、 ﹁白身を保養する鵠、失はれたるエネルギーの快復の焉行はれる。﹂と冨ひ、人類拳者は、﹁音楽を揮ふ舞踏は、多 く戦ひと狩撤の模倣であるごとし、或ひは性的意味を持たさうとする。何れにしても、生坤的亦経済的意味を持 ってゐる詣は確かであるが、要するに紳を祀る際の共同的困欒と、労働を恢接する時の四肢の律動に伐つで生れ たものと施るべきであらう 高松甘−hI韓商業箪校紀禿二十六百年記念論文集

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〓 文 畢 の 展 開

日本文撃の原始形態か歌論牲を持って、ゐた串は眈に述べに。酬膿、口承の歌謡史には山貰しで、その啓栗方面 の二つの術語が久しく大鰐同じ川語例を保ち乍ら行はれてゐる。かたるとうたふとがそれである。旋緋に乏しく で中身から云へば叙事風雪比較的長箆の詞章を諭ふのが、初日引せあり、その反封に、心理緋動の激しさから乗 施律豊かな抒情詩傾向の・大概に短篇な論ひものを唱へる串を封利と糾しで釆たのである。此の二つの附託 る は、何方が蒐に椚釆たかは謀らぬが、詞苧こしでは瑚‖捌の方が兜である。その内から段々と封mu到明の要素が 意識せられる様になつで釆て、遊離の田釆る様な形になり、果は劉立の位置を占める様になつたのである。 執拗射ち歌物語であるが、今日の朗謂歌物語にあつては∵単に歌が物語の誼要なる蒜芸茅なしてゐるに過 ぎないもの、則ち歌と文畢よりなるものと、歌が物語全部を取扱ってゐる長歌形式のものとがあるが、後者の方 が古いのではないかと考へられる。尤も長歌形式と言っても、今日の所謂歌論的なるものではなく、もつと叙事 的要素を多く含んだ散文的樺文とで虻云ふべきであらうが、少くも今日の散文革の意識と富ふものは、文字侍釆 以後のものと考へて良いのではなからうか、今日倦へられる古事記が、口承のものその儀ではあるまいと言ふ痍 由も此所から出費する。併し古寮記にあつては、少くもその態度は物語中心ではあるが、未だ歌論が弼立件を持 つ蓬にほ至って居らす、﹁狭井河よ 璽且ち確り 畝火山 木の葉騒がす 風吹かんとす﹂ −伊錦嵐余規準・− 日本文塑の教生と展開

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ニ︰PqO 高松嵩静粛栄華校紀元二千六百年記企論文集 と言った二札自然鑑賞と見える歌も、物語の⋮部を馬す偶意的な人事関係の歌として扱はれて居り、靖寄託金閣 も亦、叫偶の歌物語とも見る事が出来る。併しそれが謁薬賃になると、なほ物語的な要素を多分に含んではゐる が、 は一、文字の侍釆・茨文革の影響も勿論考へられるが、内部的に発達しで釆たより大きな力の存在を牲落す事は〓 釆塞い。 宗教儀式一に開聯して教生した文革に於て、侍承きれる言語句は全て、界雷・相調の難であつた。すべてが軸心 ラコト.、 セリフ 章言と考へられた光言の申に、副晴着の身ぶらが吏に科白巨費生させ、稚と詞との筒別が隼じ、その詞の部分が放 も神秘なものと考へられろ桂になつて行つに。さうすると、発言の中、虞に寮費な部分として劇的舞踏者の著す る批の短い詞が者へられる様になり、此の部分は抒情的色彩が濃くなつて行く、それにつれて嬰日の本釆の部分 は次節に嘲切刻化して、叙事束分は愈々深くなり≡人病態東森は茶々加はつて行くのである。かくして担釆に﹂ 封の部分は紳の眞富として盈要組され、嬰百が記録される様になっても、殆ど全て口傭として省略されたのであ ても、ことばの文に常る抒情部分を貫く見たのである。それがとりも醸さすうたであり、其の諷謂疲うたふから 引用測と須月村人訴へ︶とが分化して釆にのである。 完言の中、宗教儀顧・行事の本線を語ると共に、その詞章どほりの作淡を作ふものと、既に作法・行事を英っ る。の引射で言へは、紳の動作に作つで番ゼられる所謂天つのりとの 類である。その信仰が侍って叙事詩になつ

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で、唯完音のみ侍、へるものとが刑凍て釆た。鉄塊淡の起源を説く天岩戸の鋼業は、物部氏侍承の銭魂淡を行ふ枝− になつてからは、儀穏とは知関係な神聖な本線詩になって失つてゐたし、大祓榊を以で祓へを修する時代に指つ では、素糞鳴専を始めと説く天つ罪の祓への完言仁−天上忠行から追放に至る物語を含む711も、固つ非の起鯨 麒ぎの事始めを説明した完言十−伊弊諾命の黄泉訪問から橿原の礫ぎ迄を含む1−も、革なる誰明釣竿に過ぎな くなつで央つで居る。 榊苺の背景たる歴史を説くものと、紳寄の都度現饗の事件としてくり返ず劇詩的効果を持つものとの間には、 何うしても意義分化が起らないではすまなくなる。これが叩豊己から叙事詩の恐生する主要な原因である。充兼叩几 青ば過去を説くものでなく、常に過去を祝賀化して説くものであつた。それが後に過去と瑛泰との帥係を説くも 辺ばかりになつにのは、大きな攣化であるっ叙事詩の本義は硯賛の歴史的基礎を詮く鮎 にある。而もなほ全然佃兄 雷以来の叩几力を失った軍なる説話詩と迄は見られてゐなかった。矢張り神秘力は、これを唱へると冒醒めて乗る ものとされでゐにのである。叙事詩に於ては∴引闇の部分が威力の泌と考へられたのは、荒言以来とは言へ、 粕の文の宗教的債低減退に封して、その短い抒情部分に精粋の集るものと見られたのは尤な事である。 豪富の中の﹂引潮は叙慧肘の抒情部分を教生させたが、それ白身は後に問定して短い莞文或は諺となつた㌃の が多かつた′楼である。叙事詩の中の抒情部分は、その威力の侶仰から成立事情の似た事件に対しても州ルカを哲郎 するもの主して、他の文から分離して謳はれる様になつ七行った。これが物語から歌の猫立する経路であると共 月■本文掛の設崖せ展顔 三川山

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に、造かに創作詩の時代を促す原動力となつたのである。冊ル言の線名が古くはよごとであつたのに判しで、もの 明月Mと言ふのが叙璽冊の苗名であり、それから腔落した行怖部分が,封吊であつた。 別口の単利の姿は、紳の選言として信仰せられに留である。これが次第に約つで行つて、函入関答の昭和糾問 の鰯詰形を州定させで衆た。久しい年月は歌壇を中心にしで、さうしに煽い引出一㌢育て・、旋頭歌哲意識に上ら せ、故に新らしくは長歌の末段の五句の猫立楯向のあつにのを仰せて、痴歌を成立させ仁のである。奈良朝にな っても、大歌等の用途から見で、うl口が児文としての方而を見せでゐるのは、雀は兇言が訳読化したのではなか った、発言中の琴首なるーHq灯光力の信仰が残ってゐたのである一日 封門叫はその哲児想の相克から、懲釆の曲節を失ひさへせすば、替へ文句や成立の事情の鐙ふ封までも、効果 を衷はすと言ふ信仰が出来る廠になり、追っては古い詞葦に、時・魔の安常件を持たせる焉の改作を加へる様に もなる。歌掃⋮その他の唱和細事が、次翔に文革動機に接近させて生活を洗練させて狩ってゐた。創作力の皿励まつ た時代になつて、拗曲・整形から横田。改作と進んで釆た。引出㍍、円山な創作へ移って行く様になつたのは常 トノ火力ヒムPホギ...■−t 然でみるり殴禦・婁譜のうには、家讃め・人讃め・路裁・暴追のう仁を分化し、覇魂の側からはは讃め・婁算ぎ・ 嬬偲び・貿毒・揉歌・所願起請等に展開しに。 短歌が囁架から離れて創作物と行アり、文畢意識を展いて行ったのは亦軍欒の御蔭であつに、此の分桝の原因の 刀リホオ ユヒムPウタグ 表面にHlたものは、﹁宴遊即事﹂の﹁振日吟詠﹂にあつ仁と忍ばれる。新彙の宴及び腰にあっての恨嘩蛸ぎから一 高松高等商染撃校紀元二千六甘牢記念論文集 三関二

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出て衆た﹁眼目吟詠﹂は次箱に叙景詩を分化して釆に。列座共通の幽愁の諷詞が既に意識されT、抒情賛憩の激 しさを静め、普偏の誇調から徐々に自巳槻服へと向はせてゐたのである。其併へ支那宮廷の宴遊の洪式と北ハに、 閑地・帝徳蛸蕾り文雛が入り込んで来たのである。常時の、文物を先進囲風に改める事に忽であつた人々が、如 何に大きくこの影響を受けたかは充分察せられる。 公卿・段上人の歌が、民謡・詞曲亦は唱文としての製作から箕撃意識を加へ始めに頃吼ものは主としで樽釆の 叙事詩、戎ひはその断簡である例の由練ある和歌の新時代的瑚経であつた。叙事晩の収・倦記小静・怖 兜・擬白 幡惜艶史の影響が新叙事詩を作り出した様に・梢々遅れて揆詩の偶察決・張想淡が、宴遊・蹄族の歌の上に移さ れて叙景藷を産み出した、公卿以下の短歌が文革態度をとつたのは、更にその叙農詩以後の事である。叙事分子 の多い抒情詩から客観態度を止痛す迄には、常然眼目風物を讐喩化する古くからの奇想癖を脱却せねばならなか ったし、亦、讐喩する竹りに象徴に近付ける努力もつまれねばならなかった。人間以外に日然界を詠嘆の封象と して認めた事は、極めて自然なる展開ではあ左が、構文拳の叙景淡の影響も考へねばならぬ。叙景に微せす抒情 に反る表現上の不確嘗煙を、ある鮎迄切り放ったのは、何としても漢詩からの歎禽である。則ち、漸て教生し来 った創作態度を塾へる役目をしにのが渓文拳の素養であつたのである。 日本に於て叙柴詩は、そ∧なに早くは教法しでゐない。うつかりすると帥武天皇の后仰須索敵珊墳が、天皇の 崩御の後に作られたと冨ふ二首牽叙景詩と思ふが、これは虞の叙景詩では無い、偶意的な人事関係の歌である事 日本文函の螢座と展開 三四≡

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は前述S通りである。日払捕需を始めて行った紅のは黒人である。人臍にはをれに達し仁ものはあつでも、ノ未だ 意識しての努力ではなかつに。黒人には亦〓梯の常時としては進んだ文革上の概念が見られる、開椋の興ったも のを作らうとする和歌式上の計測もあつたらしいが、併し多くはそれに規はされない作品を残して居り、自然抑 焉をなし途げてゐる。内部のものから外部のものを歌ひ出さうとして釆たこの傾向を、大成させたと思はれるの は赤人であるJ此等の天才詩人が、卑′、叙景詩を持ち来すに大いに功労があつたのである。彼等以前に功精ある 人も無いではないが、此の二人が最も秀れてゐた校である。元来日本の叙景詩には常に抒情気分が附加されてゐ て、平安朝以後も、この叙景に依って忍ひを述べようとする傾向は結いて居り、眞の叙景詩は無かったとさへ冨 ふ事が出来る。今云ふ叙景詩は比較的早く出て、新抒情詩より∴止悪光んじてゐるものである。 .かくて叙事詩の抒情部分、則ち引﹁嘲の部分が歌として﹁分化をなし遂げで失へば、その地の文は徐々に児力 を喪失しっ∼昌仙の叙事敗の訟訴詩として敢展して行くか、混びて失ふしかなかったであらう。この説話詩の恐 展がとりも直さすものが.たりである。 文字が渡来し普及するに件れて、その用途も記憶的符放から離れて、心情を表現する鶉に用ひられ始めた、少 くとも篤実集の作られる頃には、文字が文畢の領域に於で租首廣い領域を占める様になつてゐたハノロ話文勢たる 引潮抽剥が記録された事は、聞く文畢が見る文単へと移った事である。聞て文革としで秀れたものが、その億 ぬちに見る文撃と化した時、その俊秀牲料持続し得ない事は飴りに明療である。.常然、此所に新らしき修郡淡を 高松路箪商業単座扁元±千六菅井記念論文集 ≡四囲

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る。児育としての信仰を失ってからも、未だ舞の筋歌としてあつた限りは、その口承炸を失っては居なかつた、 現在の物語が、舞の筋歌その偉であるとは考へられない迄も、舞の在来がその物語の侍承を助けてゐに事ほ考へ られる。桝が、これが記録されると英に、その教諭性を喪失して、知の筋歌から漸次素試しへと移って行ったの である。萬葉集奄五の松浦河物語になると、最早純然たる文単作品で、舞の手振りのあつた疾跡等見る苛もⅢ来 なぐなつて失ってゐる。併し、こ取にはこの展開恨奈良朝から窄安朝初如たかけで徐々に行はれた棟である。 刷偲、物語の後屈に関しては、物語自身の問題と共に、俸承者︵構成者︶の態度・理解が亦大きな安東射たして ゐる。則ち物語を培漉して行くうちに、侍承者の意志・選搾・批判が混入されで行くのである。例へば、ある 種の就女の、人の重たる番を許されなかつた億仰の名残かと恩はれる展開の手兄奈狸の物語を取り上げて見て も、次々に斬らしい解捧め附隠して行く、その幾通りかの攣展の跡を見る苛が肘来る。ある時期に行はれた二つ の説明か、次の時代には最早満足を鹿へなくなるのである。例へそれが本釆は盈要なるべき要素であつたとしで も、信仰的背景が喪央しで経ってからは、局面を展開さすべき重要な要索をねすのでなければ、直ぐに忘却し去 られ、興味本位に選持された他の部分が、文革的潤色む施され、誇調きれて表れて来る寄も少くない。それが問 れは箕革上を通じて最も大きな展開であつたであらう。 必野とするに寮つたのである。かくては文興奮識自照が攣嘩せねばならなかつた。聞く文革から見る文革へ、そ 無論ものがたりは、その性質上素謡しでなく、 日本文撃の静座と展開 舞を作ってゐた寄は、浦島謝謂や羽衣認許を果ても明瞭であ 三四宜

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乎の此ハ鴨を得る焉に必要とあれば、本釆闘係のない別の物語から遊離して釆仁歌を、新ににとり入れで打ぐと言

った様な革も行はれてゐる。

叙事詩の本義が規蟹の鷹取的基礎を謝く研にあつに事は既に準へ仁、﹁何々は何々を以で妬めとす﹂と言った

コトハジ 言始空の他説が、‖本説話の上に相賞翫範な地位を占めてゐるのもこの放であらう。こうしに訟謂は、その仰几

言としでの宗教的惜偶の減退すると北ハに、落し明朗な地口嘲となb、誕ひ物語として漸次鳥滞物語化して打った

のは、止ひを得ない仕儀であつた。日本文革の出で来はじめの裁と言はれる﹁竹取物語﹂の妻軍ひの部分に、こ

の諺物語は、そのくづれた姿を止めてゐる。

完言に、細事の背景としての歴史を訟くものと、扁事の際に於ける硯驚的事貰として説くものと二つのち面が

あった如く、説話にも、督峨と現賀的なる世間咄とがある。背州はその性質上貧想的分子多く、海中閲・天閥密

の洒秘的なる想像餌界と、人間生活との交渉に興味の中心がある。か1る紳柑感が、文堪を作り⋮して来る梶木

となり、文由的物語を綾展し→行くのであるが、元来紳秘的であつにこの期の説話は、支那俸釆の榊仙繹・彿説

等を多くその贅展にとり入れて複雑化し⊂行ってゐる。薦某集の竹取翁歌よト隼安朝の竹取物語への磯展に、そ

れを見る事が出来る。

一方仲間哺にあつでは、現簡約と冨つ・でも、多くは﹁草︰⋮・ありけり﹂と言った甘咽形式に依って詐られで

ゐるのが常であつて、その態既には、相常の距離と飴跡があり、精密に昔咄と置別するには多少の困難計作ふ如

高松品等商葉蟄校紀元二千六首隼記念論文集 ≡四六

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きものもあるが、少くも≠聞咄として樽へらわる薦には、大衆の共通の感傷をそゝる美しい或ひは悲しい事柄で なければならない。かヽる物語が、他の人々に依って更に叫暦の時間経過後に披はれる時には、そこにはこ㈲の 距離と愴裕とが生じ、物語の美しい部分のみが、二骨ほのかに美しく表れて乗る寄は言ふ迄もないであらう。或 る部分は根調され、或る部分は忘却し去られ、戎ひは他の類似詮話や歌と結び肘き、構成者の解鐸を加へて展開 して行くのである。盆前と無閻係な、時には内容的に矛屑するとさへ忍ばれる歌が、説話巾に兄出されるのは 所謂﹁はめ物﹂に過ぎないのであって、この理由に依るものである。 聴衆の北ハ喝を必穿とする説舐にあつては、記録彼の展開か、無意識の中に見る文革としての、完成の方向に向 ってゐ仁であらう審は、充分に察せられる。 かくして訟試は徐々に見る文勢としての新らしい文革性を展開せしめて行くのであるが、この新らしき意昧に 於ける放初の文撃的作‖冊としで、吾々は紳仙繹系統の竹取物語を見出すのである。この弘仁年間の作よ侍へられ る竹取物語は、薔共に見る竹取翁の物語とは全然欒貌して終ってゐるが、その系統をひくものである事は疑ひも ない。島麗の竹取翁は、恰匪過渡期にあるものとしての姿を留めて居り、光の形とはかなり建化してゐるらし く、紳仙繹の影響も濃く複雑化してはゐるが、猶、日本嵩釆の箭舞の銅輩としての僻も残して屠り、内容的にも 矛眉多く、仙作者の創作に見られる統山性に快けてゐる。朗が、平安朝のそれになると眈に文革的号気持が動い てゐて、かげり文革的潤色が行はれてゐる。此所に文革的と富ふのは仙作者の意粗に依って生する朗のものを富 日本文撃の螢鑓と展開 三川七

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三四八 高松高等商業壁校鱒空手六昔年記念論文集 ふのであつて、此の鮎が、此の物語の日本文拳の親と目される所以である。亦この平安朝に於ては、昔咄系統に 施する物語としで、他に落窪物語・軍津傑物語等があら、萬菓に多く見られた﹁草・⋮ありけり﹂紗の世間咄的 歌物語も、多くの断片的な説話の福相きれた形態をともるのとしては大和物語、山作者の臼健駒形態をとるもの としては伊勢物語上しで、北ハに純然たる文革的作品として表れて釆てゐる。此所迄乗れば、最早源氏物語の誕生 もさして国難では無かつた筈である。 歌集としても、恰度この展開の初期に生れた周凝集にあつては、物語的要素多く、紳仙繹・甘咄・倣間嘲等の 雑多な葬が見られるが、平安朝の古今和歌集になると、最早物語は影をひそめ、更に長歌・旋頭歌も殆ど秦を見 せす、短歌の全盛を見るに至り、五七調より七五調への柑換の跡が見られ、既にその序文は立派な山つの文輿論 をさへなしでゐるのである。 かくて日本文拳は平安朝初頭に於て、親らしい第二の恐足を持ったと晋ひ得るであらう、言はばこれから後 は、文拳の有史時代に入る繹である。 参 考 文 献 西 村 眞 次 代 久 聡 浄一氏 モ ウ ル ト ン 氏 日本文化史概論 日本文軍機寵 文数の近代的.研究

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土 新 株 旗 手 居 ロ 遠 野 光 信■ 久 吉 凶 日本文単の教生と展開 知 夫 雄 治 空 氏 上代人の民俗信仰 現代美挙思潮 文撃の輩生︵岩波講座︶ 有償研究 国文単篇 叉撰論︵岩波講座︶ 弐四九 義

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