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アジア研究

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Academic year: 2021

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[研究ノート] はじめに 19世紀末、「膠州湾租借条約」によるドイ ツの青島租借(1898 年)とそれにともなうドイ ツ資本の進出を契機に、青島では膠済鉄道の 敷設や青島港の建設など近代的な都市インフ ラが整備されていった。それらがもたらした 青島を中心とする山東省商品流通市場の形成 と商品生産の促進は、山東省全体を中国国内 市場や世界市場と結び付けるようになった。 さらに、第 1 次世界大戦期の日本資本の青島 進出にともない、山東省の輸出入貿易は拡大 し、近代企業が創設され、さらなる発展が遂 げられた。 優れた地理的環境および後背地の豊富な資 源に恵まれた青島は、1898 ∼ 1914 年の約 17 年間ドイツに租借され、第 1 次世界大戦期の 8年間(1914 ∼ 1922 年)および日中戦争期の 8 年間(1937 ∼ 1945 年)は日本の支配下に置か れた。ドイツと日本によるこの 30 数年間にわ たる青島経営は、青島の都市形成から経済的 発展、さらに工業化の実現と深くかかわって いた。 しかしながら、このようなドイツ・日本と青 島との政治・経済関係およびそれら関係が築 かれた歴史的な要因は経済史研究の対象とし てはほとんど取り上げられてこなかった。植民 地史、租借地史の研究も満州、香港、台湾、 上海などを中心に行われたに過ぎず、青島に はほとんど言及してこなかった。近年の青島 に関する研究も、青島占領中の日本の軍政・ 民政実施の立場から、青島権益の獲得、青島 日本紡績業の経営状況などに限定して論じる にとどまり、ドイツ・日本の青島進出が青島 および山東省全域へ与えた影響やその相互関 係にはほとんど触れてこなかった。他方、中 国における研究は、ドイツ・日本の青島進出 が青島の産業および経済発展に対して抑圧 的、略奪的であったとして、そのマイナス点だ けを強調するものがほとんどであった。 本論文では、まずドイツ・日本の青島進出 を占領と開発の両側面から理解しようという 視点から、ドイツ租借前の青島および青島租 借をめぐるヨーロッパ諸国による争奪戦からド イツの租借に至るまでの経緯、およびその特 権獲得の実態を概観する。次に、青島を支配 したドイツ、さらには日本が都市「青島」の 形成・開発の過程で採った占領政策の展開、 資本の投入状況、都市の構築とインフラ整備、 青島返還後および日中戦争期の都市拡張計画 とその実施などの具体的内容の検討を通じて、 ドイツ・日本の青島進出が都市形成・発展、 および工業化へ与えた影響を明らかにする。 Ⅰ ドイツの青島への進出の要因と目的 1. 青島の地理上の位置と自然環境 青島は山東半島の南西部にある膠州湾湾口 の東側、険しく美しい崂山山脈の先端に位置 し、その西には広い膠州湾を抱き、南と東に

ドイツ・日本の青島進出とインフラ整備

1897

∼ 1945 年を中心に

欒 玉璽

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は黄海を隔てて日本と朝鮮半島を望み、3 面 が海に囲まれた陸地の岬にある町である。青 島は北緯 36 度 4 分、東経 120 度 19 分の位置 にあり、日本の東京都、アメリカのサンフラス シスコ、スペイン南端のジブラルタルとほぼ同 緯度である。日本の門司から 565 海里、大連 から 270 海里、上海から 400 海里の距離にあ り、年間平均温度 12.1 度、中国の中では最も 日本に似通った地域とも言われている。膠州 湾は山東半島でいちばん大きい海湾であり、 海湾の周囲は 160 km 余り、面積約 500 km2 で ある。湾内の海水域が広くて深く、波も静か であり、冬は凍結せず、船舶の停泊に最も適 した海湾となっている。また、青島の後背地 は、山東省全体、山西、河南、河北各省の一 部など面積約 50 万 km2に及び、その人口は約 3,000万人(1911 年当時)に達し、落花生、綿花、 大豆、葉タバコ、麦わら真田、生糸などの中 国の主要な生産地であった。それは、この地 が外国工業製品の消費市場としての大きな可 能性と、そのみかえりとなる輸出品の生産地 としての可能性を持っていたということであ る。 膠州湾地域は唐の時代から既に外国船舶お よびジャンクの入出地としてよく知られてい た。その後のジャンク貿易の発展にともなっ て、1850 年代までに膠州湾は山東省の商品、 特に海産物交換の中心地およびジャンクの停 泊港として、大きな役割を果たしていた(工藤、 1914: 4)。1860 年代にアジアに植民地を獲得し ようとした欧州列強は膠州湾の優れた地理的 位置、港湾条件および経済・貿易・軍事上の 重要性を認識し、それら諸国の船舶が頻繁に 出入りし始めた。これを契機に膠州湾は清朝 政府に重視されるようになり、1891 年には鎮 守府衛門が設置され、約 1,500 人の兵士が膠 州湾に移駐し、沿岸防衛の重要な地域となっ た。3 年後の 1894 年、日清戦争が勃発し、山 東半島の先端の威海衛は戦場となった。この 戦争以降、膠州湾・山東半島における利権を 獲得しようとする姿勢を欧州列強はさらに強 めた。 2. 膠州湾の利権をめぐる列強の争奪 アヘン戦争後、イギリス、ロシア、フランス、 ドイツなどの西洋列強は積極的に中国へ進出 し、その船舶が頻繁に膠州湾に出没し始め、 膠州湾周辺および後背地の自然環境や築港条 件などを調査した。1860 年 4 月から 10 月の間 にイギリスの艦隊が膠州湾地域で数回にわた り調査・測量し、最初に膠州湾の優れた地理 上の位置を認識し、その後、この膠州湾で軍 艦を停泊させることが時折あった。1884 年の 清仏戦争によって、フランスも膠州湾の地理 的優位性を認識し、膠州湾を基地として中国 北部に進出することを繰り返し言明した。さ らに、ドイツは東アジアにおける軍事・経済 的な基地を得るために、1869 年に著名な地 質・地理学者フェルディナンド・フォン・リヒ トホーフェン(Ferdinand von Richthofen, 1833– 1905)を東アジアに派遣し、中国福建省の厦 門と三沙湾、浙江省の舟山島を調査した後、 山東省の全地域を周り、鉱山や各種物産など を詳しく調査し、特に膠州湾地域を数回にわ たって調査した(田口、1934: 2)。リヒトホーフェ ンの有名な著書『中国 全 5 巻』(China, 5Bde. und Atlas)の第 3 巻(1883 年出版)は山東省の 位置、自然状況などを論述し、さらに、1898 年出版された『山東および膠州湾』(Schantung

und Kiautschou, Berlin, 1898)では膠州湾および山 東省の地理、鉱産資源、港湾海域、周辺環境 などを詳しく述べている。とりわけ、福建省

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の厦門と三沙湾、浙江省の舟山島、山東省の 日照と膠州湾の 5 地域の地理、環境、資源、 他列強の関係などの比較を行った後、膠州湾 が最も優れた地理上の位置と港湾条件を持つ との結論を下した。 リヒトホーフェンの調査を基礎としてドイツ 東洋艦隊司令官のアルフレッド・フォン・ティ ルピッツ(Alfred von Tirpitz, 1849–1930)は、膠 州湾の軍事的・経済的調査をさらに進めると 同時に、1896 年 12 月 14 日、中国に駐在する ドイツ領事館は中国政府に 50 年間の膠州湾租 借を要求した。しかし、この要求は当時の清朝 政府によって一度は拒絶された。その後の 1897 年 2 月、ドイツ政府は世界的に有名な築港技術 者ゲオルグ・フランチウス(Georg Franzius, 1842– 1919)をはじめとする調査団を派遣し、膠州 湾築港の適否を再び調査させた。その調査報 告書には膠州湾の気候、水深、築港、資源、 交通条件など 28 項目について論述があり、膠 州湾の経済的価値については次のように述べ ている。「膠州湾は後背地と鉄道を以て連絡す べく、その線路には石炭その他の鉱山あり且 つ山東省は人口多く、購買力強く、その位置 は他の開港場の貨客をも吸収し得るを以て港 としての価値は頗る大なり。特に天津港の如 く結氷せず不凍港なるは極めて利益と謂うべ し、目下山東省の貿易は主に天津を呑吐港と せるが、冬期数箇月間氷結するがためにその 不便少なからず上海貿易業者に取 ( マ マ ) りても天津 港氷結し、4 月の解氷を待って一度に多数の 商品を送らざるからざるを以て金融不利大な るが、膠州湾にして開港場とならば彼我の利 する所鮮少ならず山東内地への距離も天津又 は煙台よりも膠州湾の方近し…山東省の経済 上価値大なる事は何人も異論なき所特に石炭 及び各種の鉱物に富むドイツにして膠州湾に 根拠を設ければ山東省を勢圏とし更らに各方 面にドイツの商業を拡張すること容易なり…」 (田原、1914: 60)。 この調査報告書とリヒトホーフェンの調査報 告書を総合的に分析したドイツ政府は、膠州 湾が東洋におけるドイツの基地として最も適 切であることを認識し、膠州湾地域での築港 や鉄道敷設工事などの実施計画を策定した (中村、1925: 120)。ドイツ政府がこの膠州湾占 領の目的を達成する好機を狙っていたまさに そのとき、1897 年 11 月 1 日に山東省巨野県内 でドイツ人宣教師殺害事件が起きた。11 月 7 日、上海に停泊していたドイツ海軍艦隊は膠 州湾に進駐するよう命令を受けた。海軍少将 のディーデリヒスは 11 月 10 日に 3 隻の巡洋艦 を率いて上海を出港し、11 月 13 日に膠州湾 に到着した。上陸した 3 名のドイツ海軍士官 は、膠州湾地域の陸上の軍事防衛状況を探知 することを隠し、青島に駐在する鎮守府長官 に敬意を表すとともに、膠州湾で海軍演習の ために入港した旨を告げた。鎮守府官員はこ の訪問者を疑うことなく、通常の挨拶を返し た後、陸上に留まって会食をともにするよう招 待した。このように中国側の鎮守兵士総数お よび砲台などの情報を獲得したドイツ艦隊は、 11月 14 日早朝、戦略的拠点を占拠するため に、600 人の陸戦隊隊員と水兵を上陸させた。 鎮守府長官はドイツ兵士の上陸を演習と確信 し少しも疑わず、鎮守府衛門の前を通過する ドイツの武装陸戦隊に対し、通訳を通じて「ド イツ兵士の上陸を歓迎し、世界に精鋭の誉れ 高きドイツ兵の来り演習するは我々の予期せ る幸福にして、我守備隊も参観して大に得る 所あるべし」(田原、1914: 66)と語って、誠意 を表した。ドイツ兵士の 1 部隊はすぐに兵器 倉庫・火薬倉庫などの拠点を何らの抵抗を受

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けずに占領した。主要な拠点を占拠した後、 ドイツ海軍少将は鎮守府長官にメッセージを 送り、3 時間以内に保塁・銃砲・弾薬などの 青島軍事要塞と武器をドイツ海軍に渡すこと を要求した。鎮守府官兵は完全に包囲された ため、抵抗を試みることもできず、約 1,500 名 の守備官兵が青島港北部の滄口に引揚げ、正 午には軍事施設や軍事武器の引き渡しが終 わった。このような不誠実と謀略によって、ド イツ兵士は砲火を使わずに青島を占領した。 ドイツが膠州湾を占領した後、ドイツ外務 大臣は青島の占領および中国における列強と の関係について、次のように述べた。「東洋に おいて、イギリス、フランス、ロシアの 3 国は 堅固な基地を有し、スペイン、ポルトガル、 オランダなどの国も拠点を有するが、我がドイ ツだけはそれを保有していなかった。膠州湾 は我々が東洋において商業上の発展や政治的 な勢力を拡大する基礎であり、イギリスの香 港、フランスの広州、ロシアの満州のように、 青島は中国に進出する入口である。中国には 4億の人口と 960 万 km2の面積があり、世界 市場の中でも最も前途があるところである。 我々は中国において他の列強と同一の地位と 均等な機会を持ち、この有望な中国市場を決 して放棄せず、また同市場を経済的、政治的、 物質的、精神的に進歩させていきたい」(田原、 1914: 95–96)。このような目的を持っていたドイ ツ政府は、引き続き膠州湾長期占領計画を策 定しながら、清朝政府との交渉を始めた。結 局 1898 年 3 月 6 日にドイツは清朝政府との間 に「膠州湾租借条約」を締結した。 Ⅱ ドイツ租借地政策の展開(1897 ~ 1914 年) この「膠州湾租借条約」1)に基づき、膠州湾 地域を 99 年間租借したドイツは、立地条件の よい膠州湾を中国における軍事的・経済的基 地として、全面的に開発し始めた。ドイツ政 府は膠州湾租借地を含む全体の開発建設の担 当者に海軍省を指名し、海軍省の直轄下に膠 州湾総督府を設け、総督に軍事を含む全権を 与えた。膠州湾総督は青島のドイツ海軍艦隊 の強化および中国におけるイギリス、ロシア、 フランスの軍事力と対抗するために、軍事施 設の構築に着手し、海域と陸地の両方に埠頭、 砲台、軍営など軍事防衛施設を築いていった。 それと同時に、膠州湾およびその後背地の 広大な経済地域の開発と経済力の拡大のため に、青島を東洋における商業的な発展の拠点 とするいわゆる「百年計画」を策定し、都市 の建設、鉱山の開発、交通機関の整備を通じ て、商品流通手段の強化と輸出入貿易の発展 に力を注いだ。この計画を達成するために、 近代的輸出入貿易の発展に適応する青島港を 一等港として設計し、膠州湾を世界交通の要 路とし、中国北部における貿易の中心地とな るように建設した。そして、広大な中国市場 にドイツ工業製品を販売し、また豊富な資源 と農産物を輸出するために、膠州湾を自由貿 易地域として全世界に開放した。この経済的 自由と行政の独立は、膠州湾租借地の商業的 植民地経営の施策および膠州湾官吏の選抜な ど多方面で現われていた。1898 年に膠州湾総 督府および行政機構を設立し、立法・司法な どの法律機関を整備することによって、膠州 湾地域を次第にドイツの植民地としていった。 1. 行政機関の設置 膠州湾租借地の最高行政機関はドイツの海 軍省直轄の膠州湾総督府で、行政長官である 総督は必ず現役海軍軍人から選ばれ、租借地

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守備軍の各級別の指揮官および軍政部・民政 部など各部門官員の長官として、膠州湾の軍 事的、経済的な開発と建設に関する全ての指 揮権を持っていた。また、膠州湾のみならず 北京、上海、漢口に駐在するドイツ軍隊をも 管理した。総督府は軍政部、民政部、軍民共 同管理部など 6 部門に分けられ、軍政部の海 軍参謀長は、要塞および海軍の砲兵、工兵な どに対する一切の軍政を管理し、総督不在あ るいは支障がある時、辞令を待たず総督を代 理することができた。民政部は民政長官の下 に土地、警察、衛生、学校などを管轄した。 総督府直轄には経理局、土木局などがあり、 郵便局はドイツ逓信省に直属し、裁判所は司 法裁判のみ膠州湾総督に属した。 また、中国人行政においては民政部に中国 人係を設置し、通訳官の 1 人がそれを担当し ていた。中国人の事情に関する諮問機関とし て、1902 年に施行した中国人委員会令により、 委員会が中華商務局の山東省出身の 6 名と他 省出身の 3 名および青島市における欧州商社 の代理者 3 名合わせて 12 名の委員をもって組 織されていた。1910 年にはこの委員会が廃止 されるとともに、総督府の監督機関として総 督を自ら会長とする参事会が設立され、その 構成は各行政部長および 4 名の市民代表から なっていた。青島の市民代表は総督府の参事 会の政務に参与するほか、学務委員、地価評 定委員、貧民と寺院問題委員なども兼任し、 総督府の施政と膠州湾の開発に積極的に協力 をした。市民代表と他の総督府参事委員との 間に意見の相違や衝突がある時には、市民の 希望と意見を尊重することが総督府の膠州湾 経営の 1 つの大きな特色であると言われてい た(田原、1914: 180–182)。 2. 資本投入と都市インフラ整備 (1)投資総額と投入分野 1898∼ 1913 年の 16 年間におけるドイツの 青島への投資総額は 197,381,861 マルクで、そ のうちドイツ国庫からの投資額は 162,480,904 マルク、その他の 34,900,957 マルクは租借地 内からの収入であった。また、1914 年の投資 額をも加えると、約 2 億マルクもの巨額が投 入されたことになる。なお、鉄道の敷設と鉱 山の開発は民間投資であったため、この投資 総額には含まれていない。表 1 から分かるよう に、政府からの投資は 1901 年から 1907 年ま でがピークで、毎年 1,000 万マルク以上であっ た。その後の青島港の完成と鉄道の開通にと もなう租借地内の収入の増加につれて政府か らの投資は減少したものの、年間投資総額は ほとんど変わらなかった。租借地内の収入(主 に関税、電気・水道料金、地租など)は 1908 年 の 144,991 マルクから 1912 年の 6,870,000 マル クへと増加している。 これらの投資は都市整備費、軍事費、軍民 共同費などの 6 項目を主な対象とするもので あった。その内訳は、都市基盤・道路整備費 が総額の 38%(市街の整備、道路敷設、水源地の 拡大、発電所の建設、学校の設立など 50 項目)、 軍事費 27%(各種の軍事施設、海軍・陸軍の庁舎 および給料や生活費など)、軍民共同費 17%(車 両補充費、軍隊病院運営費、建築資材費など 13 項 目)、民政費 9%(総督府、司法、警察など公務員 の給料、教育費など 15 項目)、官営事業費 8.5% (造船所と発電所の運営費および職員給料、上下水 道維持費、徳華大学運営費など 8 項目)、恩給基 金 0.5% であった(謝、1920: 116–119)。 (2)青島市街地の建設とインフラ整備 青島の都市建設については、都市の位置選 択から始まり、最終的に崂山から膠州湾に続

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く山脈の西側に当たる地域が都市青島の最適 地として選ばれた。青島ドイツ総督府は 1899 年に「青島都市建設計画」を策定した。この 計画は都市面積 12 km2 、人口 10 万人の規模 で、都市の南部沿岸一帯をヨーロッパ人居住 区として、北部を中国人居住区として立てら れた。膠州湾内に青島港を新設し、敷設中の 膠済鉄道と直接連絡し、膠済鉄道客運駅を青 島市区の中心部に置くことなどを明示した。 この「青島都市建設計画」により、1899 年か ら当該地域の 67 の自然村の土地と建物が買収 され、そこにはドイツ風の諸官庁、商会、守 備軍本部、各国領事館、銀行、警察署、学校、 迎賓館などが建てられ、膠州湾における政治 の中心地となった。街路名もベルリン街、ブ レーメン街のように全てドイツ名が付けられ た。こうしてこの地域はヨーロッパ風の近代的 市街地となるが、元青島村の所在地であった ため、1899 年 10 月にドイツ皇帝の許可を受け て、ドイツ海軍大臣はこの新市街地を青島市 と命名した。 ヨーロッパ人街の北部にある大鮑島地区は、 ドイツや欧米など外国資本の商社や商店およ び中国人の大商社などが並んでおり、ドイツ 風、中国風の建物が混在している青島市の商 業区域であった。この区域には大通りが通っ ており、この間の丘陵にはドイツから持ってき た樹木が植えられた。ここに居住する中国人 の多くは、青島ドイツ総督府より青島への投 資者に与えられる優遇政策に応じて全国各地 から移住した資本家、富豪、商人など、いわ ゆる富裕層社会の人々であった。 市街中心地から離れた台東鎮地区には中国 人の中小の会社や商社および家内手工業者な どが多数在住し、主に中国風の建物が並び、 青島市街地および大鮑島地区の建設のため、 元の青島村・大鮑島村に居た多数の元住民が ここに移住させられた。さらには、近代青島 表 1 青島におけるドイツの投資(単位:マルク) 年 度 政府投入 租借地(収入)投入 投入総額 1898年 5,000,000 360,226 5,360,226 1899年 8,500,000 200,096 8,700,096 1900年 9,780,000 213,000 9,993,000 1901年 10,750,000 300,000 11,050,000 1902年 12,044,000 360,000 12,404,000 1903年 12,353,142 455,000 12,808,142 1904年 12,583,000 505,000 13,088,000 1905年 14,660,000 636,000 15,296,000 1906年 13,150,000 1,048,000 14,198,000 1907年 11,735,500 1,542,700 13,278,200 1908年 9,739,953 1,725,800 11,465,753 1909年 8,545,005 3,620,597 12,165,602 1910年 8,131,016 4,584,868 12,715,884 1911年 7,703,940 5,834,670 13,538,610 1912年 8,297,566 6,280,000 14,577,566 1913年 9,507,782 7,235,000 16,742,782 合 計 162,480,904 34,900,957 197,381,861 (出所) 謝(1920: 115)のデータにより作成。

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港の完成と国内・国際航路の開通にともなっ て、市街地北側の大港に隣接する区域(港区) は速やかに発展し、次第に青島の貿易と商売 の中心地となっていった。また、青島の都市 建設と発展にともなって、青島ドイツ総督府 はさらに 1910 年に「青島新都市拡張計画」を 策定し、都市面積 50 km2 、人口 15 万人の規 模に改めた。 このように青島市の構築、各種施設および 住宅の建物が建てられると同時に、主要道路、 一般道路、馬車路なども敷設され、1913 年ま でに 146,000 km の石で舗装された道路が作ら れ、道路の両側に、一輪車と荷馬車用の広い 花岡岩の敷石が敷かれた。80% の道路に街灯 が備えられ、アカシア、ポプラ、日本松、桜 などの街路樹も植えられた。市内の街路のほ かに、青島周辺および山東省の各地に通じる 道路も作られた。このようにわずか 15 年前に は樹木もなく、舗装道路もない貧困な漁村に すぎなかった青島は、道路が整備され、住宅 が整然と並び、手入れの行き届いた庭園と街 路樹の並ぶ歩道がある近代都市となっていっ た(アノン、1939: 228–229)。 インフラである給排水施設の建設について みると、1902 年までに貯水量 400 トン以上の 貯水池を 4 ヶ所完成させた。さらに商業の発 展と人口の増加によって、毎日の必要用水量 は 1,000 m3となり、1908 年からは李村川を利 用するようになった。延長約 70 km の配水管 を設置後、年間 552,500 m3の用水量にも十分 に給水がなされ、すべての青島住民にとって 水道水の飲用が可能となった。給水事業の費 用は約 200 万マルクであった。それと同時に 全長約 77 km の下水道が雨水と汚水とに分け て敷設され、その費用は約 600 万マルクであっ た(大内、1918: 199–202)。 電力、郵便、通信施設の整備についてみる と、1903 年 以 前 に は 工 場 と 埠 頭 用 に は 5,000 kwの発電機によって発電し、街灯は石 油ランプが使用された。1903 年になると青島 発電所が設立され、工場、港湾埠頭、街灯の すべてに電力が供給された。1898 年に青島郵 便局が開業されて以降、山東省内には郵便局 が 10 ヶ 所 設 立 さ れ、 郵 便 物 は 1899 年 の 647,400通から 1906 年の 2,878,000 通へと増加 し、1907 年までに青島のほか、南京、上海、 北京など全国の 13 ヶ所でドイツ郵便局が開設 された。1899 年に電話業務が開始され、1911 年 まで の 契 約 件 数 は 790,794 件 で あ っ た。 1904年には青島より煙台、上海との海底電信 が開通し、上海から太平洋諸島を経てドイツ 本国に通じた。1909 年から青島信号山に海軍 無線電信局が開設され、電信は最初にドイツ 本国、ニューヨークなどとの間で開通し、後 にはアフリカなどのドイツ領の諸植民地との間 で開通した。1914 年以降、20 年間にわたって 青島でこの無線電信局が運用された(外務省調 査部、1940: 100–103)。このようにエネルギー、 情報関連のインフラも整備されていった。 衛生研究機関や病院なども多数設立され た。衛生研究機関としては病菌研究所と化学 試験研究所の 2 つの施設があり、病菌研究所 は主に伝染病の予防研究に従事して年間の研 究成果は約 120 件にのぼった。化学試験研究 所は給水、食品、生活用品、薬品などの研究 と試験に従事し、年間試験数は 800 件以上で あった。病院は総督府立病院としての海軍衛 戍病院、ファーベル(Faber)病院、カトリック 教会病院など合計で 8 ヶ所が設立された。こ れらの病院のうち 7 ヶ所は青島市民に開放さ れていた。その中で規模の最も大きいのは海 軍衛戍病院であった。この病院は 1898 年に着

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工され、約 2 万坪の敷地に 300 万マルクの資 金を投じて 1902 年に完成された。内科、外科、 婦人科、小児科、精神病科、結核病科などの 15診療科および薬局からなり、301 の病床を 持っていた。医師は院長を含めて 16 名で、い ずれも海軍軍医であった。患者受診数は年間 約 38,000 人であった。最新の医療設備があり、 医療水準が高いため、青島地域で最も有名な 病院として人々によく知られていた(欒、2003: 108)。 また、市街やインフラの整備にともなって、 中国人の他に欧米人および日本人なども青島 へ進出し、膠州湾租借地の総人口は 1898 年 の約 64,000 人から 1913 年の 165,000 人以上へ と約 3 倍まで増加した。1913 年当時の青島市 街人口の 60,484 人のうち、ドイツ人(軍人およ び家族を除き)は 1,855 人、そのほかの欧米人 214人、日本人 316 人、その他外国人は 26 人 であった。これら日本人は、主に三井物産青 島出張所、横浜正金銀行青島支店、日本綿花 会社、岩城汽船会社、岩橋商店、湯浅商店、 写真館などに勤務、あるいは経営していた。 これら商社や商店の経営者は業務の拡大に努 力すると同時に、日本人実業クラブを設立し、 各種情報の交換などを通じ、相互の発展を 図った(工藤、1914: 22)。 (3)土地制度と植林 膠州湾占領後、土地制度の確立はドイツが 最も困難を感じた問題である。占領時にはわ ずかに地租台帳があるだけで、土地所有者の 土地面積・所在地など基本的な事項を明示す る記録がなかった。このような状況に直面し た膠州湾総督府は、香港や上海などの土地制 度の実例に鑑み、ただちに土地政策を講じた。 まず租借地内の土地の売買を禁止し、投機行 為を封じこめ、地価騰貴防止を図った。1898 年 4 月 20 日に発布された「地租規則」は、従 来の土地台帳により、これまでと同一の地租 率を徴収することを明示した。そして、土地 測量部を設置して租借地内の土地面積の測量 を行った。1898 年 9 月 2 日に「膠州湾土地法」 が発布された。1899 年 4 月 15 日には土地登 録局を設けて土地の売買・売買価額の勘定・ 賃貸などを行い、総督府が漸次に土地を買上 げ、続いてこれを土地使用者に貸し付けた。 この土地政策は土地騰貴および投機行為を防 止することが目的であり、後に列強諸国が植 民地を経営する際、これをよく真似たと言わ れる(田原、1914: 229–238)。 膠州湾の植林も青島ドイツ総督府が重視し た主要事項で、総督府を設立すると同時に山 林局が設置された。これはドイツ「森林学」 を移植するだけではなく、水源の涵養、荒山 の利用、砲台などの軍事施設を隠蔽する等の 観点から必要であったからである。1899 年か ら毎年約 10 万マルクを支出し、10 数年間後 の 1912 年までに、アカシア、日本松、杉など 各種幼樹で租借地を蔽い、植林総面積は 1,266 ヘクタールに及び、植林に関する総経費は約 229万マルクに達した(庄、2000: 604)。また、 山林局は植林知識を普及させるために山林技 師のハーストを専門官として雇用し、専ら租 借地内の植林に従事させた。林業学校も設置 し、簡単な林学課程を開講するとともに、附 属の実験植林場と樹苗育成場を開設した。さ らに、約 80 ヘクタールの植物園も設立し、各 種の樹木、果樹、花草など全種類 650 種をも 園内で栽培した。このような多額の経費の投 入、植林技術の普及、および総督府山林局の 10数年間の努力によって、膠州湾租借地のみ ならず、膠済鉄道沿線および各種の停車場付 近は小さな森林に見えるようになった。「この

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青島の美観を整え、市民の保健上の見地から 市内と周辺の山野に雄大な植林計画を実施し たのは優秀な林務官ハーストで、科学的な樹 種の選定や植林技術を熱心に指導した。この 植林政策の成功が緑のアカシア林に映える赤 い屋根の美しい青島を実現したのである」と 評価したのは、青島日本中学校第 14 回(1931 年)卒業生の平岡正助であった(青校史編委会、 1989: 196–197)。 3. 近代交通機関の膠済鉄道・青島港の整備 1899年 6 月、山東鉄道会社(Schantung Eisenbahn Gesellschaft)が徳華銀行・ドイツ国民銀行・ド イツ商業銀行などのシンジケートの 5,400 万マ ルクの資本金で設立された。1899 年 9 月に膠 済鉄道(青島―済南)工事が開始され、1904 年 6 月 1 日に膠済鉄道の本線と支線の 445 km 全線が開通した。軌道幅はドイツ本国の鉄道 と同じく 1.435 m、一般時速は約 50 km、最高 時速は 60 km、沿線の主要駅には倉庫や停車 場なども整備され、総工事費は 5,290 万マルク であった。膠済鉄道の全線開通後、青島―済 南2) 間の運転列車は 1 日 24 本で、急行列車 2 本、旅客・貨物混成列車 12 本、貨物列車 10 本が走っていた(アノン、1939: 245)。その旅客 輸 送 は 1905 年 の 803,527 人 か ら 1913 年 の 1,317,438人 へと 1.6 倍 に 増 え、 貨 物 輸 送 は 1905年 の 310,482 トン から 1913 年 の 946,610 トンへと 3.1 倍に増加した。貨物は石炭以外 に輸出品の落花生、大豆、綿花、小麦などの 農産物や輸入品の綿糸布、マッチ、染料、鉄 道材料などであった。さらに、輸送時間にお いても、以前には青島から済南まで馬車で 5 日間がかかっていたものが、鉄道開通後の約 8時間へと大幅に短縮された(欒、2003: 109)。 このように膠済鉄道の開通は、沿線の済南、 周村、張店、維県など山東省の諸都市と諸市 場を青島と結び付け、農産物の商品化および 農業生産力の向上、農民収入の増加に大きな 影響を与えた。 青島港は、ドイツの築港技師ゲオルグ・フ ランチウスによる膠州湾の水深・ 風力・ 地 形・ 地質などの実地調査と測量のデータに よって、湾の東部沿岸を最適地として建設さ れたものであった。その築港の設計と実施企 画に基づき、外洋船舶用の「大港」、山東省 沿岸を航行するジャンクや漁船用の「小港」、 および各種船舶停留用の船渠からなっていた。 工事は 1899 年 3 月に着工され、1906 年に完 成し、その築港費は 5,200 万マルクに達した。 青島大港は強い西北からの風を防ぐために円 形の大防波堤が築かれ、この全長 4,600 m の 大防波堤で囲まれた港内面積は約 120 万坪、 港内干潮時の水深が 10 m、西南方向に 280 m の出入口が設置された。大港内には 4 つの埠 頭が築造され、第 1 埠頭は商船専用埠頭であ り、埠頭には 4 棟の倉庫が建てられ、3 本の鉄 道引込線が敷設され、列車と商船との間の貨 物の積み換えが容易であった。第 2 埠頭は海 軍専用埠頭であり、埠頭には 4 棟の倉庫と 4 本の鉄道引込み線が敷設された。この第 1 埠 頭と第 2 埠頭を合わせて 6,000 トン級の船舶 12隻の繋留が可能であった。第 4 埠頭は石油 専用埠頭であり、この埠頭の陸地側にはスタ ンダードやアジアティックなど石油会社の導油 管・貯油槽や石油荷揚場があり、石油がタン ク船から貯油槽に直接給油された3) 。第 5 埠頭 は大防波堤の最先端のところに築かれ、倉庫 や石炭貯蔵場などが設置された大型貨物専用 埠頭であった。そこには青島造船所が建てら れ、船舶修理用のためにドイツから 1 つの浮 乾ドックが持ち込まれ、据付けられた。この

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浮乾ドックの容搬力は 16,000 トンであった。 第 4、第 5 埠頭にも列車で石油・石炭などの 大型貨物が運べるように鉄道引込線も敷設さ れ、鉄道との直結的な輸送が可能となった。 こうした整備の結果、青島港は築港技術、港 内設備、輸送能力などの点で中国およびアジ アにおける近代港としてよく知られ、当時の 最大級の海洋汽船にとっても安全かつ便利な 停泊港となっていた。 膠済鉄道と青島港が整備されるにつれて、 多数の外国海運会社、商社、金融機関が次々 と青島に進出し、青島港の輸出入貿易は著し く発展していった。その輸出入貿易額は 1900 年 の 1,277,000 元 から 1913 年 の 92,195,000 元 へと増加していった。1914 年の第 1 次世界大 戦勃発のため貿易額は一時的に減少したもの の、その後も順調に発展し、1922 年の貿易額 は 152,047,000 元に達した。 このようにドイツによる近代的交通機関の 整備と青島都市の近代的経営を契機として、 山東省の農産物と手工業品が商品化されると 同時に、山東省の諸市場および周辺諸省の市 場は直接あるいは間接に青島と結ばれ、山東 省全域にわたる商品流通市場が形成され、世 界商品流通市場とも結び付くようになった。 1913年の輸出入貿易額は当時の山東省全域の 人口 1 人当たり約 4 元に相当し、山東省の商 品経済、農民生活の改善および経済的、社会 的な構造の変遷にきわめて大きな影響を与え た。それはフリッツ・ゼツカーが指摘するよう に「半ば疑 マ マ 結するが如きこの経済体に新なる 血液を注入し、脈拍確乎たる新生命を与える ものは、外部より来る力である。青島はその 地理学上の位置より見れば、ある意味におい て一種の貯水池の如く、膠済鉄道はそれに注 ぐ大運河の如き地位にある。そしてこの大運 河は恰もその地方を不意不動の経済的永眠状 態より引き離して擁塞停滞する経済の河流を 開通するものである」(南満鉄経調会、1935: 3)。 以上のような膠州湾租借地の建設について、 青島海関税務長のドイツ人オルメルは『関税 十 年報 告 1902–1911』において、「この 10 数 年間の努力を通じて、青島は物質と文化の面 で大きな業績を上げ、経済の発展と住民生活 の改善とも非常に著しかった。青島住民はド イツ資本による公共施設の整備とともに、さま ざまな便利がもたらされたことに満足してい た。この事実は中国と中国人にとって、実際 的な教育の過程であったと思われる。このよ うな短期間に自給自足で活気のない漁村がい かにして繁栄する貿易都市に発展させられる かということも証明された」(青島市档案館、 1986: 145)と述べた。また、青島日本中学校 卒業生の平岡正助は「ドイツの青島開発の偉 業は、現在も青島が中国の重要な商工業、軍 港都市であり、また美しい街として観光都市 でもあることで評価できると思う。さらに、そ の建設期間を数えるときは、わずか 17 年弱の 年月であり、その超スピードぶりが理解できよ う。山東半島の漁村は近代欧州式都市に怱然 として変貌したのである。ドイツの膠州湾一 帯の開発建設に対する取り組みは甚だ熱心ま た科学的で、その成果は高く評価されている。 これは我々がまた実感したことでもある」(青 校史編委会、1989: 195)と述べていた。 このようにドイツの膠州湾租借地の開発建 設に対する成果は、肯定的に評価すべきであ ろう。科学的な開発計画による 10 数年の建設 期間が経過し、1914 年に第 1 次大戦が勃発し た時点では、膠州湾租借地の中核の青島市街、 青島港、鉄道など主要な施設はほとんど完成 していた。また、近代技術を活用して建設さ

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れた青島造船所や発電所などは当時のアジア でもトップレベルの施設であった。さらに、 ヨーロッパ風の街並はポプラ並木を持った清 潔な舗装道路が敷かれ、給排水設備、学校、 病院、電信局や郵便局が設けられ、新鮮な食 肉と野菜を供給する近代的屠畜場、野菜栽培 場が整えられた。 Ⅲ 日本占領政策の展開(1914 ~ 1922 年) 1. 日独戦争の勃発と日本軍の青島進駐 1914年 8 月、ヨーロッパでは全面的な戦争 が勃発した。当時の国際情勢により、北京駐 在のドイツ公使は日本の対ドイツ宣戦は必至 と予見し、「青島を中国に返還し日本との交戦 を避けてはどうか」と提案したが、青島ドイ ツ総 督・ 海 軍 大 佐ワルデック(Alfred Meyer Waldeck, 1864–1928)は 8 月 18 日に「臣は青島 を最後まで死守することを誓約す」の決意を ドイツ皇帝に打電すると、翌 19 日には海軍大 臣から総督に「青島を死守せよ」との返電が あった(青校史編委会、1989: 199)。その後、戦 火は拡大して東洋まで及び、日本も日英同盟 を口実に参戦した。 日本は膠州湾と膠済鉄道をドイツから奪取 するために、中国領土である山東半島におい て戦闘を開始しようとした。この情勢を見た 中国政府は日本の対独開戦と戦争の中国への 波及を阻止するために、8 月 6 日に中立を宣 言し、次いでドイツと膠州湾の返還交渉を始 めた。しかし、日本の反対とイギリス、フラン スの圧力に遭い、この交渉を中止せざるを得 なくなった。その後 8 月 15 日、日本の大隈内 閣は「対独最後通牒文」を採択し、8 月 23 日 にはドイツから最後通牒に対する回答がない ことを口実に対独宣戦を布告した。宣戦布告 後、8 月 27 日、加藤定吉中将を司令官とする 日本海軍第 2 艦隊は膠州湾に出動し、海上封 鎖を行った。独立第 18 師団長神尾光臣中将 指揮の約 51,700 名の陸軍部隊は 9 月 2 日に山 東半島北部の龍口に上陸し、10 月の初めに膠 済鉄道全線を占領、海軍第 2 艦隊と連携して、 海陸両面から青島攻略戦が進められた。また、 一部のイギリスの陸海軍部隊も加わり総攻撃 の準備は整っていった。 一方、当時青島ドイツ守備軍司令官ワル デック海軍大佐が指揮した約 5,000 名のドイツ 陸・海軍部隊はオーストリアから青島に派遣 された一部兵力とともに青島において連合戦 力を形成し、臨戦態勢に入った。10 月 31 日、 日本陸軍部隊の約 30,000 名兵士は陸上から、 海軍第 2 艦隊は海上から青島要塞総攻撃を 行った。この攻撃には世界戦史上で始めて航 空母艦が出陣し、海軍航空隊と陸軍航空隊も 参加した最初の立体攻略戦となった。青島ド イツ陸海軍部隊も近代の武器装備を用いて陸 海上の多側面の砲台から応戦した。日独両軍 の砲撃戦は 1 週間続いたが、11 月 7 日ついに ワルデック守備軍司令官は青島の開城を決意 し、降伏を申し出た。ワルデック守備軍司令 官の降伏の申し出を受けた日本攻撃軍司令官 神尾中将は市街や市民に混乱が生じないよう に、日本前線軍の前進をただちに停止させ、 軍隊は青島市内には進出しなかった。戦後、 青島の開城降伏について、ワルデック守備軍 司令官は「多数の非戦闘員市民を抱えた青島 を破壊と犠牲から守り、また、召集兵の多い 守備軍兵士の生命も救いたい」(青校史編委会、 1989: 199)と当時の降伏の理由を述べた。青 島都市は戦争での激しい破壊から救われたと は言え、青島市民および一般家庭にとっては 非常に悲惨なものとなった。統計によれば、 この戦争で青島市民の死亡者は 40 人以上、

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1,548世帯が被害を受け、被害額は 1,900 万元 に達した(陸、2001: 44)。 2. 日本占領政策の展開 1914年 11 月 14 日、日本軍は膠州湾租借地、 膠済鉄道および沿線鉱山の占領により、「膠州 湾租借条約」の諸権利を継承したほか、対中 国の 21 ヵ条項4)の特権も持っていた。これら の条項と特権に基づき、日本軍は 1922 年 12 月の撤退まで膠州湾租借地と膠済鉄道を占領 した。その間、統治政策は最初の軍政から、 1917年に民政へと転換した。ドイツに代わっ た日本は、都市基盤が基本的に整備されたこ の青島を中国における政治力あるいは軍事力 の拡大の基地として、山東省全体へと権益を 拡大しようとした。また、膠済鉄道および新 鉄道の敷設による鉄道網を山東省とその周辺 地域にまで広げ、これを通じてその物産を青 島に集中するとともに、日本製品をこれらの 地 域 に 売り込 もうとし た(桂 川、2003: 240– 241)。そして、青島を長期的に占領するため に、1916 年以降、工業の誘致策として、地価、 税金、製品の輸送と販売などの面での優遇政 策を打ち出すとともに、工業区域を漸次整備 し、青島を近代商工業都市として発展させる という構想を作り上げた。要するに日本は山 東省およびその周辺に政治的な勢力と経済的 な権益を確保することを目指し、青島をその 基地にしようとして長期的占領政策を実施し ていったのである。 (1)行政機関の設置 1914年の日独戦争によって、青島の商業、 工業、交通などの運営がほとんど中断された。 日本軍は青島に入ってから、各種都市機能を 復興すると同時に、前述の青島統治政策を実 施するための各行政管理機関を取り急ぎ設置 した。青島守備軍司令官は青島統治機関の最 高責任者として青島の軍事的、経済的な開発 と建設に関する一切の権力を持った。初代守 備軍司令官は日独戦争を指揮した神尾光巨中 将であった。青島日本守備軍の都市行政管理 は 1917 年 9 月以前の軍政時期とその後の民政 時期との 2 つ時期に分けられる。1914 年 12 月 1日、青島守備軍の軍事令第 1 号が布告され、 守備軍による占領地の軍政がその日より実行 され、都市施設および青島港の復旧工事も同 日に開始された。旧ドイツ租借地を青島と李 村の 2 つの行政管理区に分け、それぞれに軍 政署を設立し、その下に各種の管理機関を置 き、軍事行政以外の都市行政および司法に関 する一切の事務を担当した。山東鉄道部も設 置され、膠済鉄道、鉄道附属鉱山、埠頭事務 およびその付帯事務を管理した。 1917年 9 月 29 日、青島守備軍民政部条例 が公布され、守備軍司令部に民政部が置かれ た。10 月 1 日、民政部事務分掌規程が定めら れ、秋山雅之介法学博士が初代民政部長官に 就任した。軍事行政を除く一切の事務は軍政 から民政に改められ、民政部長官の管轄と なった。区域行政としては、青島、李村、坊 子に民政署を設置し、青島以外の膠済鉄道沿 線の行政管理は、坊子民政署(租借地境界から 張店に至る沿線)や民政部事務官兼済南日本領 事(張店から済南および博山・淄川炭鉱に至る沿 線)に任された。また、青島守備軍司令部に は民政部のほかに、元軍政部の代わりに陸軍 部、憲兵隊などの軍事機構も設置された。青 島市街および膠済鉄道沿線に歩兵 4 個大隊の 兵員約 2,400 名を配置した。警察事務は憲兵 隊が担当し、1920 年の統計によれば、青島市 街に 4 個憲兵分隊および 25 個憲兵派出所の憲 兵 402 名および中国人警察 204 名、鉄道沿線

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に 4 個憲兵分隊および分遣所の憲兵 450 名お よび中国人巡捕 150 名を配置した。このよう に膠州湾租借地以外に、膠済鉄道の保護にも 注意を払ったのである。 (2)資本投入と都市インフラ整備 青島日本守備軍は日独戦争によって破壊さ れた都市施設の復旧および都市規模の拡大の ために、多額の資本を投入した。1914 ∼ 21 年 の青島日本守備軍軍政部と民政部の収支状況 は表 2 の通りである。この 8 年間の総収入は 約 1 億 1,330 万円、実際の投資は約 1 億 3,430 万円、不足額約 2,100 万円は日本政府より支 出された(青島市档案館、1986: 156)。 これらの投資は主に戦後の復興、膠済鉄道、 青島港、都市インフラなど設備の増設、およ び軍事費に用いられた。青島日本軍政及び民 政の実施にともなって、多くの日本人が青島 に進出した。1914 年の 396 人から 1915 年 9 月 には 14,000 人へと増加した。日本人が急速に 青島に進出することを見ていた青島日本守備 軍は青島市街地の東北にある滄口で約 300 万 坪の土地を購入し、これら日本人の住宅用地 および商工業の開設用地として提供した。さ らには、日本企業の誘致策として、購入した 土地を廉価で日本企業に貸与するとともに、 都市拡張計画では、市街地が青島港及び滄口 方面に拡張され、そこに商工業区域が構築さ れ、日本人街が形成され、その地が日本人 (1921 年の 24,500 人)の活動拠点とされた。都 市機能の中心を輸出入貿易市場である青島港 区および近代工業区である滄口に移転させた のは、日本守備軍が青島港と膠済鉄道を中心 とする貿易や近代工業振興の実権を持つため であった。 青島市街の拡張とインフラ整備については、 1918年 4 月までにドイツ占領時代がすでに着 手しながらも未だ完成していなかった市街の 建設を続けて完成するとともに、日本人人口 の急増に対応するための住宅地と商業地の新 設が主要な目的とされた。1918 年夏から本格 的な整備事業として工場区域の開設および都 市拡張計画が実施された。青島市の東北にあ る台東鎮およびそれと連続する滄口地区が工 業区域として整備され、日本企業の急速な進 出にともなって、台東鎮西側の高地から土砂 を採取し、青島港の北側の海を埋め立て造成 地とすることによって、獲得した約 45 万坪の 土地をその西側の鉄道沿線の広大な未開発地 の四方と接続させることにより工業区域はさら に拡大した。統計によれば、1915 ∼ 1919 年ま 表 2 青島日本軍政部・民政部の収入と支出状況(単位:円) 年 度 収 入 額 支出(投入)額 政府収支額 1914年 1,914,127 857,721 +1,056,406 1915年 4,852,984 6,361,225 –1,508,241 1916年 7,958,749 7,555,821 +402,928 1917年 11,567,196 11,287,410 +279,786 1918年 18,843,547 20,591,370 –1,747,823 1919年 23,075,084 29,069,553 –5,994,469 1920年 21,549,025 26,942,409 –5,393,384 1921年 23,513,255 31,624,101 –8,110,846 合 計 113,273,967 134,289,610 –21,015,643 (出所) 青島市档案館(1986: 156)のデータにより作成。

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での 5 年間に青島市街の建物面積が 58,667 坪 に拡大し、青島市街建物総面積 85,858 坪の 68%を占め、 建 築 費は 約 620 万 元に達した (寿、1986: 108)。このように日本人を対象とし た住宅区のほか、貿易、銀行、郵便、電信、 ホテル、百貨店などの業務に従事する商業区 域および近代綿紡績業を中心とする工業区域 も整備された。市街地の拡張と商工業区域の 整備にともなって、道路の新設や補修も行わ れ、投資額は 20 万元に達した。 インフラである給排水施設の建設について も、市街地の拡大、人口の増加や商工業の発 展にともなって、その施設の延長と新設が求 められた。ドイツが開発した水源地で新たに 12の井戸を掘ったほかに、青島から 14 km 離 れた白沙河の左側に約 72,000 m2の水源地およ び約 130 km の上水道を新設し、1 日あたりの 給水能力が 7,500 m3に達した。また、四方と 滄口でそれぞれ 4,000 トンと 400 トンの貯水池 およびそれと接続する上水道を新設した。さ らに排水施設も大幅に拡張され、1921 年まで に各種の下水道が約 136 km に達し、ドイツ人 が作った約 77 km を除いて、約 59 km の下水 道が増設された。 また、青島市街および鉄道沿線に多数の電 信局が設置され、鉄道沿線の停車場構内で一 般公衆電報を取扱った。青島や済南などの8ヶ 所ではそれぞれの中国電報局と接続し、外国 や中国国内他地域に発信し、着信することが できた。しかしながら、日本の電報取扱い料 金が低廉すぎて中国の電報業務を侵害したと か、鉄道付属地以外の民有地を占有して電柱 を建設するとかが中国側の抗議の対象となっ た(清水、1977: 119)。 さらに、近代工業の設立はこの時期の大き な特徴であった。1916 年以降、日本の紡績業 は青島への投資を急速に行っていった。とい うのは、これら企業は青島およびその周辺の 豊富な原材料や廉価な労働力などを求めたか らであった。事実、1922 年までに前述の青島 郊外の滄口や四方で、内外綿紡績、大日本紡 績、鐘淵紡績などの大手紡績企業 6 社が進出 し、紡績工業製品の生産、流通、販売市場の 支配へと乗り出した。1917 年の青島日本守備 軍民政部の調査によれば綿紡績、製糸、燐寸、 製塩、製粉などの日本企業が青島に進出した。 1935年までに紡績業だけで 9 社の 19 工場が 設立され、投資額は約 12,000 万円に達した。 これら近代企業の進出とともに、先進的生産 設備の導入、新製品の開発などを通じて、合 理的な経営管理体制が青島に定着した。その 結果、日本の各企業は大きな利益を獲得した が、青島もまた地元民間企業の設立が促進さ れ、当時の中国で工業の成長が最も速い地域 の 1 つとなり、後に中国の綿紡績工業の基地 と称されるようになった。 以上のように日本は、日独戦争で被害にあ たった各種施設の復旧をするとともに、青島 に進出した多数の日本人の居住、投資、商工 業利潤の拡大などのために、さまざまな便宜 を与えたと言われる。1922 年当時の青島市街 面積はドイツ時代の 3 倍の広さに拡大し、商 工業区域が新設され、貿易センター、電信局、 青島中学校、金融機関など大型の建物が完成 された。都市インフラがさらに整備され、諸 工業が青島に進出した結果、青島は日本の支 配下で近代工業都市に変貌したと言える。そ れと同時に、青島地域の人口も 1913 年の約 165,000人から 1922 年の約 290,000 人 へ 増 加 していった。

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Ⅳ 返還後および日本による再占領後の都 市建設(1923 ~ 1945 年) ワシントン条約に基づき、1922 年 12 月 10 日に青島の主権が中国政府に引き渡され、12 月 15 日に青島に駐留していた日本守備軍は青 島を後にした。このように 1897 年からドイツ による 17 年間、日本による 8 年間あわせて 25 年間占領された青島は正式に中国の管轄下に 置かれた。青島を接収した北京中央政府は 「山東懸案解決に関する条約」に基づき、青 島を通商地として開放し、青島での外国人の 自由な居住や商工業の設立と経営などを許可 した。しかし、当時の中国国内の戦争と戦乱 などの影響で、その都市行政管理と都市開発 は安定していなかった。そのため、1937 年ま での約 15 年間には新たな都市開発と拡張が見 られなく、ほぼ停滞した状況であった。比較 的分散していた都市の空地に商業区域、ス ポーツ・文化施設、生活サービス施設および 住宅区などが新設されることを通じて、中心 市街地は青島港の周辺地域と相互に結び付け られるようになった。 1937年 7 月の北京盧溝橋事件の勃発によっ て、日中両国は全面戦争に突入した。7 月 28 日に日本軍は北京・天津を占領し、8 月 13 日 に戦火は上海に飛び、青島の情勢も不安な状 態に陥った。12 月 13 日、南京国民政府を陥 落させた後、1938 年 1 月 10 日には日本軍陸 戦大隊は青島郊外に上陸した、青島は戦禍に 遭うことなく占領された。青島を再び占領し た日本軍は長期間にわたって青島を支配する ために、「青島特別市地方計画」と「大青島 都市計画」を策定し、青島港と膠済鉄道など 海・陸交通機関を利用して、青島を華北地域 における重要な軍事基地と経済勢力拡大の門 戸とするようにした。これらの都市計画に基づ いて、1939 年 6 月に青島北部の膠県、即墨県 の両県を青島特別市の行政区域に編入した。 これにより青島特別市の面積は 8,500 km2 、人 口は 180 万人に達し、旧市街地と比べ面積は 約 15 倍、 人 口 は 約 3.5 倍 に な っ た。 ま た、 1940年 10 月に完成した 3 本の南北主幹線道 路は市街地と台東鎮とを接続した。さらに、 1942年に市街地から 20 km 離れた流亭地区で は、軍用空港が建設された。これにより青島 の海・陸・空の立体交通体系が完成した。こ のように青島市街地域は東北部の台東鎮に広 げられ、膠県と即墨県が市街地域の供給地と され、膠州湾の沿岸に沿って南北 25 km、東 西 4 ∼ 9 km の帯状都市となった。その人口も 1942年には 586,421 人に達した。 このように 1937 年以降約 8 年間に大青島都 市計画が策定されたが、中国の全国的な抗日 戦争の燃え上がりや戦争よる日本経済への悪 影響などにより、この計画が全面的に実現さ れることはなかった。日本軍の青島占領は政 治的、経済的な侵略を目的としたにもかかわ らず、環膠州湾の帯状都市形態の確立、緑地 空間の増設、住宅区と工業区の再整備など、 その後の青島都市の長期的な整備にとって、 この都市計画は大きな意味を持っていた。ま た、この時期には市内交通、観光施設などが さらに整備された。1945 年当時、青島市は自 然と人文景観とが一体化し、商業、工業、港 湾、観光など各産業部門が揃い、都市機能が 完備され、加えて陸海空の近代交通網も整備 された都市であった。 おわりに このように 50 年間にわたる青島の都市形成 と整備過程を見ると、都市経営・管理の主体 が数回にわたり交替したり、政治的混乱によ

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り一時的には発展が停滞したりしたものの、 1897年から実施された資本主義都市の経営・ 管理体制は 1945 年まで一貫して維持されてい たことが明らかになった。近代資本主義国の ドイツと日本によるインフラの整備、近代工業 への投資と商品生産の促進が国内市場および 国際市場の工業需要に基づいて工業生産関係 を再編成し、特に紡績業を中心とする青島の 工業化を速やかに進めることができた。この 過程は、約 6 万人の農漁村から約 58 万人を擁 する近代商工業都市への形成過程であり、植 民地都市から近代資本主義都市への変遷過程 でもあったと言える。 この都市形成と変遷過程で青島および山東 省経済が構造変化をもたらした主要な原因は、 主として中国の旧い経済体制から生れたもの ではなく、開港通商後導入された資本主義の 先進的な生産及び市場管理体制が誘発した産 業の進歩や社会の進歩の結果であった。その 発展過程では、山東省の官僚、産業者、農民 など各層の懸命な自助努力があったことはも ちろんであるが、ドイツと日本という資本主義 国の管理システム、資本、技術の導入が果た した役割も否定できないであろう。具体的に はドイツが、青島の地理上の位置と自然条件 および後背地の農産物産地と広大な消費市場 などの周辺環境を有効に利用し、都市インフ ラの整備、近代交通機関の青島港と膠済鉄道 の建設を通じて、鉄道沿線の商品流通市場の 形成と青島輸出入貿易の拡大を実現させた。 その商品流通の拡大と輸出入貿易の増加につ れて、山東省全域および周辺省の商品流通機 構も青島都市を基点とする近代的な交通網に 組み込まれ、世界商品流通市場と結び付けら れた。これにより青島の工業化あるいは山東 の工業化の基礎が整えられたと言える。 その後ドイツに代わって日本は、インフラが 整備されたこの青島に新市街の拡張や商品流 通市場の拡大を求めるとともに、青島および 後背地の豊富な原材料と労働力、広大な消費 市場と便利な交通手段を基礎に、とりわけ綿 紡績業を中心とした工業へ積極的な投資を行 い、近代的工場を次々と設立した。これらの 企業の設立にともなって、青島では地元民間 企業の設立が促され、短期間に軽工業を中心 とする青島の工業化の展開が実現した。 このように青島の自然・地理的条件および 後背地環境などとドイツと日本の近代資本主 義の経営及び管理理念、多額の投資と世界商 品流通市場とが有効に結びつけられたことは、 青島が速やかに近代商工業都市へと発展して いく主要な原因となった。対照的に、国際貿 易の経験において青島より 30 数年以上長い歴 史を持ち、地理的位置や自然条件などが青島 とほぼ同じであった煙台5) は、インフラの未整 備や経営者の近代的経営及び管理理念の不足 などの原因によって、国際貿易も経済もほぼ 停滞したままであった。まさに都市の形成と 発展には、都市経営者の経営管理理念と政策 方向とが直接に結び付いていることはもちろ ん、商工業、交通、通信、金融など各産業お よび社会的、経済的基盤とも緊密に結びつい ていることが必要であり、そのどれが欠けても 不可能であった。 ところで、このように青島の都市形成と発 展過程が同時期に形成された中国の他都市と 全く異なっているのは、青島都市の最初の設 計と建設者が近代資本主義国のドイツだから であった。ドイツ人は青島地域の地理的位置 と自然環境に基づき、その都市設計と建設を して、ヨーロッパ都市の色彩と風格に満ちた 青島都市を構築した。その合理的構造配置、

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自然との結び付き、山を海と接続させる手法 などは今日の専門家にも高く評価されるだけ でなく、青島を中心とする山東省の商品生産 の促進、商品流通市場の形成、工業化の展開 などの施策も非常に高く評価されており、青 島の発展の重要な条件であった。 (注) 1) 「膠州湾租借条約」の主要な内容とドイツの特権 は次の 3 点である。①ドイツ政府は膠州湾およびそ の周辺約 552 km2 の陸地面積(274 の村、約 64,000 人の中国住民を含む)および満潮時の湾内水面面積 並びに水面面積内にある諸島を 99 年間租借し、そ の地域内における一切の主権を保有する。②山東省 内での鉄道敷設権および鉄道沿線の鉱山採掘権を持 つ。③山東省内での各種産業の設立、経営、投資、 雇用などもすべてドイツ人が優先権を持つ。 2) 山東省都の済南は中国で有名な古都、1914 年の 人口が約 27 万人で、中国資本のシルク・綿花などの 取引商社が約 130 社であった。この済南は富の集散 地として有名で、とくに膠済鉄道の開通によって、 青島と呼応する内陸都市として飛躍的に発展してき た。当時の青島と同様に、ドイツ・イギリス・アメリ カ、ロシア商社の進出および山東省内外の中国商人 の進出も見られた。この都市は青島後背地の集散市 場として、青島貿易の半分以上がこの市場で取引さ れた。 3) 第 2 埠頭と第 4 埠頭の間に建設する予定の第 3 埠 頭はドイツ総督府の 1915 年の予算に入ったが、日 独戦争のため、その工事が行われなかった(20 年 後の 1936 年に日本資本で完成された)。 4) 1915年 5 月 に 中 国 政 府 が 承 認 し た 日 本 対 中 の 21ヵ条の要求の主要な内容は、①山東半島の旧ド イツ権益の継承、②遼東半島の租借と南満州・東部 モンゴルの権益および満鉄などの権益期間の延長 (99 年間)、③炭鉱の日中合弁、④中国沿岸の島・港 湾の他国への不割譲などである。 5) 煙台は青島より約 170 km 離れた北東部にある港 町であり、「天津条約」により 1862 年に開港され、 1910年代まで山東省および中国北部の国際貿易の 中心的な港であった。 (参考文献) 日本語 アノン(1939)、「青島及び膠州湾ドイツ租借領」 『経済時報』第 16 号、224–249 ページ。 大内丑之助(1918)、「ドイツ経営時代における膠 州湾施政の研究」『支那研究資料』支那中国研究 会、125–236 ページ。 外務省調査部(1940)、『ドイツ対支経済勢力の全 貌』日本国際協会。 桂川光正(2003)、「日本軍政と青島」(千田稔編『ア ジアと「半島空間」』思文閣)239–256 ページ。 工藤謙(1914)、『膠州湾事情』有斐閣。 清水秀子(1977)、「山東問題」『国際政治』第 56 号、 117–136ページ。 田口福壽(1934)、『青島港と佐藤船長』青島海事 協会。 田原天南(1914)、『膠州湾』満洲日々新聞社(大 連)。 青島日本中学校校史編委会(1989)、『青島日本中 学校校史』校史刊行会。 中村謙介(1928)、「山東の鉄道・鉱山及青島港に就 いて」『満鉄調査時報』第 8 巻第 6 号、120–145 ページ。 南満鉄経済調査会(1935)、『山東省業経済の発展 とその破局的機構』南満鉄経済調査会。 欒玉璽(2003)、「ドイツ・日本の進出と青島の工業 化」『経済学論究』第 56 巻第 4 号、99–134 ページ。 中国語 謝開勲(1920)、『二十二年来之膠州湾』上海:上海 中華書局。 寿楊賓(1986)、『青島海港史(近代部分)』北京: 人民交通出版社。 庄維民(2000)、『近代山東市場経済的変遷』北京: 中華書局。 青島市档案館(1986)、『帝国主義与膠海関』北京: 档案出版社。 陸安(2001)、『青島近現代史』青島:青島出版社。 (らん・ぎょくじ 関西学院大学大学院 E-mail: [email protected]

参照

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