連載企画(伝統産業と表面科学 ⑫)
最新技術と伝統の知恵の複合化
濱 田 泰 以
伝統みらい教育センター長 〠 606-8585 京都府京都市左京区松ヶ崎御所海道町 京都工芸繊維大学 (2017 年 8 月 18 日受理)Compounding the Latest Technology and
Traditional Wisdom
Hiroyuki H
AMADAKyoto Institute of Technology, Matsugasaki-Goshokaidocho, Sakyo-ku, Kyoto 606-8585 (Received August 18, 2017)
1.伝統産業工学,そして伝統みらい学
“伝統産業を…”と問われると,「…」には“守る”と 入るのが常套の考えであるように思われる。伝統産業 品,工芸品は長年の我々の先人達が作り上げてきた製品 群であるが,使われてこそ製品であるとすると,生活様 式などが大きく変わってしまった現代においてそれらの うちのかなりの数の製品は使われなくなってしまってい るのが現状であろう。そうだとしたら,使う人がいな い,いわゆる売れない製品に価値はあるのだろうか? “守る”必要があるのだろうか? こうした疑問は自ず と浮かび上がってくる。“守る”べきは製品そのもので はなく,製品を作る工程,ものづくりであるということ をここでは主張しておきたい。 前述のように,先人達が長年にわたって創意工夫を重 ねてきたものづくりには,多くの多くの多くの知恵が込 められている。今に生きる私達からは想像もできない努 力が積み重ねられてきたことと推察される。先人達の知 恵を今のものづくりに応用することができないかと考え たのが,我々が提唱している伝統産業工学なのである。 なぜ「工学」と名付けた分野が必要なのかというと, 伝統産業におけるものづくりは「師匠の背中を見て覚え なさい」という方式であることが多い。また,ある特定 の人しか知らない秘伝,口伝などもあり,ものづくりを 知ろうとするには困難が伴う。これらは暗黙知と呼ばれ る。これを科学技術の測定方法を駆使して形式知に変換 し,ものづくりを知ろうとする人,ものづくりを応用し ようと考える人たちの前に披露することが必要である。 これを伝統産業工学と呼んでいる。 伝統産業工学は総合工学であり,材料から始まり,成 形,できあがったものの構造,その物性,さらにその機 能を研究していくものである。ものづくりの暗黙知を形 式知化する過程において,データなり理屈なりをうまく 並べることで,ものづくりの伝承のツール,教材ができ あがることになる。冒頭の“守る”を技能の伝承として 捉えるならば,伝統産業工学ではそれを包含していると いえよう。伝統産業工学は幅が広い。 伝統産業工学で得られた形式知を今のものづくりに応 用するだけでなく,さらに使うことはできないかと考え られたのが,「伝統みらい学」である。一つは青少年へ の教育に向けての展開である。伝統産業工学で得られた 成果を語るとき,単なる工学からの視点だけではなく, 歴史,文化もかかわってくることは容易に理解できよ う。すべての科目をうまく配置すれば,素晴らしい総合 学習の教材となり得るであろうし,一つの題材を追いか けることも意味のあることになる。伝統みらい学は青少 年に我が国の歴史や文化とともに,ものづくりを中心に 据えた前に向かっていく勇気と気力を与えることにな り,今後の発展が期待できる。2.暗黙知の形式知化―漆製品を例に―
私達は漆塗り,蒔絵に関しては下出祐太郎先生と共同 研究をさせていただいている。きっかけは先生の講演を 聴講したことによる。Fig. 1 はそのときの筆者のメモを まとめたものである。左側は先生のお話から気づいたこ とを書いてあり,右はそれに対してどのように形式知化 していくか,形式知の目標や応用を記したものである。 わずか 30 分ほどの講演であり,かつ軽妙な語り口であ るがゆえ,メモすることも忘れてしまいそうだったの で,気がついたことを書き留めた。項目は少ないかもし 表面科学 Vol. 38, No. 12, pp. 632-634, 2017 特集「伝統産業と表面科学」れない。しかし,知恵の宝庫であると実感したことは記 憶に新しい。その衝撃の勢いを借りて共同研究を申し込 んでいる自分がいて,「ほな,やりましょうか」と快諾 を得た。話は逸れるが,伝統産業工学の対象となりうる のは,製品ではない。内容でもない。ものづくりの工程 を見せていただけるか否かにかかっている。したがっ て,秘伝の製品には対応不可能である。 さて早速に,漆塗り試験片の作成をお願いした。下地 の板は市販のアクリル板であった。Fig. 2 はその断面写 真である。試験片を固定するためにエポキシ樹脂に包埋 している。驚いたことに,アクリル板の表面よりも漆塗 りの表面の方が平滑であることがわかる。ここまで平滑 なのだ,と感心したものである。いや,驚いた,驚い た。この驚きが研究には必須である。これらの観察か ら,漆塗り層の厚さを測定した。その結果を Fig. 3 に示 す。塗り方を変えたもの,材料の違うもののデータも示 しており,おおよそ 50∼60 μm の厚さであることがわ かる。その漆塗りの層に刃物を挿入し,その抵抗値を測 定した。比較のためにポリプロピレン射出成形に対して も同様の実験を行った。Fig. 4 に荷重と押し込み深さの 関係を示す。射出成形品では押し込んでいく深さが増え ると,一様に増加していた(ここでは斜めに刃物を一定 速度で挿入しているので,横軸の時間は押し込み深さと 同義である)。 それに対して,漆製品では図に示すように水平荷重が 階段状となっている。ある一定荷重を示した後に荷重が 上昇し,また一定の値を示す。射出成形品で見られた一 様な荷重上昇は,厚さ方向の構造が均質であることを示 しており,一方の漆製品では不均質性が現れた。特に, 漆塗りの層は幾層かに分かれた層構造を示していること がわかる。 下出先生に「ピカピカな漆板から艶消しの板までを 10段階程度に塗り分けしていただけませんか?」とお 願いした。艶が異なる漆塗り板の作製である。できあが った板の写真が Fig. 5 である。写真技術不足でその差は 濱 田 泰 以 633
Fig. 2. (color online). Cross-sectional picture of URUSHI coating on acrylic board.1)
Fig. 3. (color online). Result of thickness measurement of URUSHI layer.1)
Fig. 4. (color online). Results of depth and resistance value of URUSHI boards.1)
明確には見られないかもしれない。それら板の光沢度を 測定した。Fig. 6 にその結果を示す。照射角度が異なる データが併記されている。横軸は塗り板の番号である。 20度のデータを見ると,光沢度の値は 0 から 100 まで に広く分布しており,艶が異なることがよくわかる。こ こで驚くべきことは,板番号 3 から 7 までは光沢度の変 化はほぼ直線的である。もちろん,光沢度の値が板番号 によって入れ替わることはない。これが匠の技なのであ る。ついで漆塗り表面の粗さを測定し,その結果を Fig. 7に示す。この結果と Fig. 6 で示した艶との相関を見て みると,凹凸波長が 0.01 mm 以上の表面粗さと関係し ていることがわかる。 これらが暗黙知の形式知化の一例である。共同研究は これ以外にも,塗りの動作の解析,塗るときにどこを見 ているのか,姿勢はどうかなど成形に関するものから, 漆塗りに近いプラスチックフィルムの表面の評価,塗料 の評価に関する見極めの研究などへと及ぶ。さらに,艶 のあるなしで考えると同じ黒でも人に与える印象は異な るので,どの艶が好まれるかなど興味は尽きることがな い。驚きと感動の研究は今なお進んでいる。 話は再び逸れるが,このような研究を行うと,ロボッ ト化や新しい材料の出現を促して,現在の伝統産業が弱 くなっていってしまうのではないか,との危惧する向き がある。筆者には以下の質問をよく受ける。「あなたの 研究は伝統産業潰しではないか?」。それで潰れるもの であれば,それまでと考えることができる。何度もいう が,先人達の知恵が詰め込まれた現在の匠たちのものづ くりは,それ如きで潰れるものではない。下出先生がい う「新しいプラスチックフィルムの中には私が見ても漆 製品に近いものがあります。それらの出現は大いに歓迎 です。そういうものがどんどん出てくることによって, 本来の漆塗りの良さが認められるからです」と。まった く心配はない。それが匠の技である。
3.形式知化されたデータをどう使うか?
前章の最後にも少し触れたが,伝統産業工学のアプロ ーチで得られた形式知化データをどう使うかが問題であ る。まずこれらデータはどこで見ることができるのか? 基本的には論文ベースであるが,それらをまとめてネッ ト上で閲覧できるように現在準備中である。何に使える のか? それは,それぞれの人が考えること,としか答 えようがない。Fig. 1 で示したように,ものづくりには 様々な切り口がある。わかりやすくするために以下の六 つに分けて考えてみる。材料,成形,構造,物性,機 能,感性。ある材料を成形を経て構造を固定化し,それ はある物性を持っており,そして機能がある。最終的に 人の感性に訴える製品となる。人に愛される製品となる わけである。伝統のものづくりから何を学んでいけば良 いかはそれぞれの人の置かれている立場などによって異 なるが,人に愛される製品を目指すことには変わりはな いかもしれない。「最新技術と伝統の知恵の複合化」と いう本稿のタイトルからかけ離れた内容になってしまっ たことをお詫びしたい。私達は先人たちの知恵という大 きな財産を持っていることを忘れないで生きたい。文
献
1) 下手祐太郎 : 京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究 科博士論文 (2010). 表面科学 第 38 巻 第 12 号 (2017) 634Fig. 6. (color online). Measurement result of glossiness of URUSHI boards.1)
Fig. 7. (color online). Result of measuring the roughness of the surface of the URUSHI boards.1)