• 検索結果がありません。

1980年代の日韓のイノベーション政策の比較研究 ―産業政策と福祉政策の曖昧な境界を中心に―

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "1980年代の日韓のイノベーション政策の比較研究 ―産業政策と福祉政策の曖昧な境界を中心に―"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1980 年代の日韓のイノベーション政策の

比較研究

―産業政策と福祉政策の曖昧な境界を中心に―

Innovation Policies in Japan and Korea in the 1980s:

Industrial Policy as Social Policy

尹 海圓

Haewon YOUN 本研究はテクノポリス政策の決定過程における日韓政府の対照的な方針転換、つまり、日本の地理的集中 から分散への転換と、韓国の地理的集中から分散、再び集中への回帰という現象を説明するために次の仮説 を提示する。 経済分野において政治家と有権者がクライエンテリスティックな関係を結ぶ日本では、政策に伴う雇用保 障の効果が特殊利益とみなされ、産業政策の支援対象は分散し福祉政策化する傾向が強い。一方、日本に比 べ相対的にプログラマティックな関係に基づく韓国では、雇用保障が一般利益と見なされる時期を除き、産 業政策の支援対象は集中する傾向が強い。 テクノポリス政策は両国ともに当初は産業政策として構想されたが、日本では、本政策による雇用保障を 特殊利益とみなした政治家の介入により、支援対象は分散し福祉政策的な効果が強まった。韓国でも、当時 一般利益と見なされた雇用保障に対応する中で一時期支援対象が分散するが、経済成長が再び一般利益とし て重視されるにつれ、支援対象は集中し産業政策的な効果が強くなった。 KEY WORDS: 日韓比較、東アジア福祉レジーム、クライエンテリズム、イノベーション政策 † 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程

(2)

I.

 問題の所在

本研究は日韓のイノベーション政策の空間的特徴を 1980 年代の先端産業研究団地政策(以下、テクノポ リス政策とする)の決定過程を中心に分析する。テクノポリス政策の決定過程における日韓政府の対照的な 方針転換、つまり、日本の地理的集中から分散への転換と、韓国の地理的集中から分散、再び集中への回帰 を説明するために、本研究は次の仮説を提示する。日韓では経済分野において政治家と有権者とのリンケー ジの在り方が異なるため、当初の官僚の政策意図としては同じだったものが政策決定過程を経る中で異なる 政治的圧力にさらされた結果、最終的な政策内容に差異が生じた。 1970 年代以降、原油価格の高騰や環境汚染問題により、既存の資源集約型産業の成長潜在力が限界に達 し、先進諸国は自国の産業構造を技術及び知識集約型に高度化する努力を始める。これに伴い、先端技術能 力を備えるうえでイノベーション1が生まれやすい環境の構築が重要であるとの認識が形成され、その構築 に向けて多様な政策努力が行われる。学問領域でこの認識はイノベーション・システム論として展開する。 イノベーション・システムとは、新しい知識の創出、導入、改善、拡散が行われる公共と民間セクター とのネットワークである(Freeman 1987: 1)。この議論はイノベーションを支える空間の範囲により、国家 (Lundvall 2007)、地域(Cooke et al. 1997)、セクター(Malerba ed. 2004)中心のものに分かれている。

これまでこれらの議論では各国のイノベーション・システムの在り方や関連政策の内容及び効果が分析さ れてきたが(Carlsson 2007)、政策形成を巡る政治のダイナミズムへの関心は限定的であった。それはこれ らの議論が経済成長における知識の重要性を論じる経済学から出発したからだと考えられる。ただ、イノ ベーション・システムの構築は経済政策の新たな類型として政治と公共政策との関係に対しても重要な知見 を与える可能性がある2 上記の問題意識を踏まえ、1980 年代から日韓政府が当該政策課題に対し示した態度は注目に値する。 Freeman(1995)は 1980 年代以降の日韓経済の良好なパフォーマンスの理由として効率的なイノベーショ ン・システムの構築を挙げており、この時期に日韓政府は産業構造を技術及び知識集約型に高度化するべ く、先端技術能力の確保に向けての政策案作りに取り組んでいた。 ところが、日韓政府がイノベーション・システムを構想していく様子を見ると興味深い差異が観察され る。すなわち、1980 年代に入って日本政府は日本版シリコンバレーを目指して全国で 1 カ所のテクノポリ スの助成計画を構想する。しかし、政策決定の過程ではその数に拡大への圧力がかかり、政策決定の最終段 階になると 26 カ所のテクノポリスを助成する方針に転換する。 他方で、1980 年代半ばから同様な政策を構想していた韓国政府も、当初は全国で 1 カ所のテクノポリス の助成計画を構想した。しかし、1987 年の民主化前後では日本政府の経験を踏襲するかのように助成計画 の団地数を 17 カ所まで増やす。ただ、政策決定の最終段階になると、韓国政府は突然計画を白紙に戻し、 中央政府が助成する団地を 2 カ所に限定する方針に切り替えた。 上記の違いは実に興味深い。日韓は発展志向型国家モデルとして政府が経済発展の過程に積極的な介入を 行い(Johnson 1982; Amsden 1989)、経済成長戦略においても多くの共通点を示してきたからである。より正  1) イノベーションとは、商品、生産過程、材料、組織などの新しい組み合わせが現れ、広がり、利用される事象であ る(Lundvall 2007: 101)。  2) 狭義のイノベーション政策は科学技術政策を意味するがこの定義は全体像を十分にとらえていない。本稿では、産 業政策、地方政策、労働政策、教育政策を包含する概念としてイノベーション政策をとらえる。そして、日韓のイ ノベーション政策は先端産業の立ち上げと密接な関係を結んでいたため、イノベーション政策と先端産業政策の用 語を併用する。

(3)

確にいえば、日韓に工業化の時差が存在する中で、韓国政府の経済政策は日本の経験の影響を強く受けてき た。特に、その影響は 1965 年以降日本からの借款と技術協力によりさらに強まる(安倍・金編 2015)。 イノベーション・システムの観点からすると、日韓政府は大手企業を中心とする製造業を経済成長のエ ンジンとして重視し、海外技術の学習と改良に基づく産業構造の高度化を絶えず図ってきた(Johnson 1982; Amsden 1989)。そうした中で両国政府は再び技術及び知識集約型産業への高度化を図ろうとし、自前のイノ ベーション・システムの構築に取り組む。しかし、その際に両政府は対照的な政策転換の経緯をたどったわ けである。 では、日韓政府はなぜ異なる様子を見せたのか。本研究は日韓の産業政策と福祉政策の曖昧な境界に注目 して次の仮説を提示する。日韓では経済分野において政治家と有権者とのリンケージの在り方が異なるた め、当初の官僚の政策意図としては同一だったものが政策決定過程を経る中で異なる政治的圧力にさらされ ることになった。つまり、日本では雇用保障という福祉政策的な効果が、韓国では先端技術能力の構築とい う産業政策的な効果が重視されるよう圧力を受け、それが原因となり、政策の差異が生じたのである。

II.

 先行研究の検討

両国のテクノポリス政策の決定過程を比較分析した政治学の研究は存在しない3。ただ、日本のテクノポリ ス政策に関しては、当時の先端産業政策として重要な位置を占めていたために、政策内容やその効果につい て立ち入った分析がなされてきた。それらの研究は日韓の違いを理解する上での手がかりになる。 第一に、政策担当者の判断が誤りであった可能性である。日本は多数の地域にテクノポリスを助成するこ とにより、限られた国家資源を分散させることになった。イノベーション・システムの構築には多大な資源 と時間が必要なため、日本版シリコンバレーを目指していたとすれば、日本の政策担当者の判断は楽観的す ぎるところがある。したがって、塚原(1994)や伊東(1998)は日本のテクノポリス政策が先端産業政策と しては失敗したと評価する。 しかし、両国の政策担当者とも当初は少数の団地を構想しており、構想段階において両者の判断に差異は なかった。日本の政策担当者が誤った判断を下したと結論づけるためには、最初 1 カ所だった計画が 26 カ 所まで増えることになった経緯、そして、韓国においてもその数が一旦 17 カ所まで増え、それが再び減じ ることになった経緯の検討が必要である4 第二に、日韓では最初からテクノポリス政策の意図が異なっていた可能性がある。これについては日本の テクノポリス政策を産業立地の分散政策として評価した根岸(2018)の議論が示唆的である。彼によると、 日本のテクノポリス政策は先端産業の地方分散を通じた地方発展にその目的があり、その点で本政策は一定 の成果をあげたと評価する。彼の評価はテクノポリス政策の目的が先端技術能力の構築だけにあったわけで はないことを示唆する。 しかし、ではなぜ日本では最初 1 カ所しか構想されず、その後、指定地域の拡大をめぐって激しい論争が  3) ただ、韓国のテクノポリス研究としては、1970 年代から助成されてきた大テ ド ク徳研究団地を扱うものと 1990 年代後半 に試みられるテクノパーク政策を扱うものが存在する。  4) 一方、韓国のテクノポリスの数が日本より少なくなったことには日本に比べ産業基盤が脆弱だった社会経済的条件 も影響したと考えられる。ただ、それは数の少なさという結果は説明できても、1 カ所から 17 カ所、そして再び 2 カ所という変動の方向性とその幅は説明できない。そして、社会経済的条件により助成する数に減少のバイアスが かかっていたとしても、既に産業基盤が整っていた東南(慶南)地域さえ支援対象から外されたことは、支援対象 の限定という韓国政府の決定が能力の問題ではなく意志の問題であったことを示唆する。

(4)

生じたのか。そして、地域間所得格差の問題がより深刻であった韓国ではなぜ最終的には 2 カ所しか指定さ れなかったのか。当該政策を異なる政策分野にあらかじめ落とし込んで説明するだけでは、そもそも日韓に おいてなぜ同じ政策が異なる意図のもとで構想されたのか、さらに、その後の方針がなぜ揺れたのかを十分 に説明できない5 要するに、政策内容の合理性と官僚主導を前提とする先行研究では、政策形成に働いた政治の論理が十分 に検討されていない。当初の意図が同じであってもその政策から複数の効果が期待できるとき、政策の重点 を最終的に決めるのは政策決定者たる政治家である。したがって、日韓政府の異なる政策対応を説明するた めには、政策の当初の意図と最終的な内容を区別し、政策の決定過程において両者の間に乖離を生じさせた 政治家の政策選好と役割を分析の射程に入れる必要がある。 一方、日韓政治の研究分野では経済政策における族議員と大統領の影響が分析されてきた(Ramseyer and Rosenbluth 1993;猪口・岩井 1987;大西 2005)。ただ、産業政策を扱う先行研究は農業や商業分野における 競争制限的な規制に焦点を当てるものが多く(建林 1997;Calder 1988;渡部 2000;斉藤・浅羽 2012)、テ クノポリスのようなイノベーション政策の決定過程において政治の影響がどのように現れるかは十分に究明 されていない。 さらに、日韓の経済政策における政治的要因に注目する先行研究は日韓ならではの福祉レジームの特徴を 積極的に扱っていない。戦後社会保障支出による再分配の度合いが低かった日韓では経済政策が福祉政策的 な側面を併せ持ってきた(Kwon 1997;宮本 2008;Estévez-Abe 2008)。日韓の産業政策に内在するこの福祉 政策の側面と両者間の緊張関係を考慮せずには両国の相違を十分に理解できない。 そして、先行研究の多くは一国研究であるがゆえに、日韓の比較が可能な理論を新たに提示する必要があ る6。ここからは、当時の韓国が政治体制の転換を経験していたことを考慮し、テクノポリス政策の相違を政 治体制レベルで説明することの限界を検討した後、本稿の理論仮説を提示する。 まず、政治体制の違いが権力維持に必要な支持基盤の広さを意味する場合、民主化前後の韓国に比べ必要 な支持基盤の範囲が広い日本では、テクノポリス政策がより一国単位の便益を目指すと考えられる(Bueno de Mesquita and Smith 2011)。しかし、これは事実にそぐわない。日本では一国単位の便益より選挙区単位に 細分化された空間の便益が重視され、むしろ、韓国において一国単位の便益が重視されている。

一方、政治体制指数の動きで政策転換を説明することも困難である。韓国の Polity 5 スコアは 1987 年 6 月 29 日までの –5 から 88 年 2 月 25 日までの移行期を経て、その後 98 年まで +6 を記録する。韓国が日本と同様 な動きを見せ始めたのは日本との差が最も大きかった –5 の 1985 年であり、対照的な決定が下されたのはその

差が最も小さかった +6 の 1990 年である7(Marshall and Gurr 2020)。この動きは V-Dem(2016)でも同様である。

さらに、韓国の民主化運動を率いてきた金キムヨンサム泳三が大統領になった 1993 年からも日本のようなイノベー

ション政策における地理的分散の傾向は現れない。日本のイノベーション政策の地理的分散は先端企業の誘 致を通じた地方発展と表裏一体の関係にあったが、この時期の韓国政府はむしろグローバル化を唱えて国内 の先端企業に対し海外への進出を促している(Fitzgerald and Y. Kim 2005)。

 5) ただ、根岸(2018)は 1960 年代から 90 年代までの日本の産業立地政策の理念においては効率性と公正性の間に揺 らぎがあり、政策結果はアクター間の対立と協調の産物だと説明する。彼の議論は、政策に内在する再分配の論理 や政治的側面に焦点を当てた点で、本稿に対しても重要な知見を提供する。ただ、彼の議論ではテクノポリス政策 が公正性の理念に基づくことが前提とされているため、テクノポリス政策の決定過程の中での変化や日韓の違いを 説明するロジックとしては課題が残っている。  6) その意味で政治学の観点から日韓の比較分析を行った斉藤・浅羽(2012)や C.-h. Park(2008)などの研究は本稿 の理論仮説を構築するうえでも貴重な知見を与える。  7) –10 から –6 までは独裁国、–5 から +5 まではアノクラシー、+6 から +10 までは民主主義国と分類されている。日 本は 1952 年以来 +10 を記録する。

(5)

III.

 理論仮説

まず、分析対象とする時期を設定する。日本の場合、テクノポリス政策が構想され、「高度技術工業集積 地域開発促進法」が制定される 1979 年から 1983 年までを分析対象とする。他方で、韓国の政策決定は日本 の経験が注目される 1983 年から様々な政策案が構想された末に政策方針の急激な転換が為される 1990 年ま でを分析対象とする。 次に、テクノポリス政策における日韓政府の対照的な方針転換、つまり、日本政府の地理的集中から分散 への転換と、韓国政府の地理的集中から分散、再び集中への回帰に対し、本稿は以下の仮説を設定する。 経済分野において政治家と有権者がクライエンテリスティックな関係を結ぶ日本の政策決定過程では特殊 利益志向が強く、産業政策による雇用保障の効果を自分の支持基盤向けの特殊利益と認識する政治家の介入 により、産業政策の支援対象を分散させ福祉政策化する傾向が強い。一方、日本に比べ相対的にプログラマ ティックな関係に基づく韓国では、一般利益志向が強く、雇用保障が一般利益と見なされる時期を除き、産 業政策の支援対象を集中させる傾向が強い。 まず、本稿は日韓の産業政策と福祉政策の間の曖昧な境界、特に、両政策ともかかわっている雇用の側面 に注目する。産業政策とは、工業或いは製造業に関する政策として産業基盤の整備、産業間の資源配分、産 業組織の調整を行い(小宮 1984: 3–4)、資源の効率的な配分を目指すものである。一方、狭義の福祉政策と は、社会保険、公的扶助、社会サービスといった社会保障を担う政策であり(宮本 2008: 2)、富の再分配を 重視するものである。 これまで二つの政策は政策理念や目標が異なるがゆえに別々のものとして扱われる傾向にあったが、東ア ジア福祉レジームの議論が指摘するように(Kwon 1997; Aspalter 2006)、日韓の産業政策にこのような考え方 を適用することには問題がある。 なぜなら、日韓では公共部門による社会保障支出の度合いが低く8、産業政策が企業、そしてそれらが立地 する地域の雇用や地域住民の生活に多大な影響を及ぼす構造となってきたからである。つまり、日韓の労 働者の収入は賃金所得によるところが大きく、社会保険の費用分担やその給付も雇用と連動するため(梁 2008;Estévez-Abe 2008)、企業とかかわる産業政策は人々の雇用に影響することで福祉政策とも密接な関係 を持った。 その結果、経済効率に基づくはずの日韓の産業政策は福祉政策としての再分配の論理と不安定な共存関係 に置かれてきた。雇用保障のために非効率的な中小企業を支援したり過度な産業基盤の整備を行ったりする ことは、資源の効率的な配分を目指すはずの産業政策が、福祉政策が目指すところの再分配の論理をもって 為されてきたことを示唆する(宮本 2008;Estévez-Abe 2008;Calder 1988)。 つまり、両国では、社会保障という典型的な福祉政策が十分でない中で、産業政策が断続的に福祉政策の 機能的等価物の役割を果たしてきた。福祉政策の機能的等価物とは、狭義の福祉政策には含まれないが、雇 用の創出や維持に貢献することで福祉政策の役割を果たすものを指す(宮本 2008: 31–34;Estévez-Abe 2008: 30–41)。福祉政策の機能的等価物は、政策意図が狭義の福祉政策とは異なる。そのため、両概念は区分すべ きである。  8) 社会保障支出の項目には、高齢、遺族、障害、業務災害、傷病、保険、家族、積極的労働政策、失業、住宅、生活 保護が含まれている(OECD 2020)。1980 年時点において、日本の GDP に対する公共部門による社会保障支出の 割合は 10% であり、OECD 平均の 14.4%、米国の 12.8%、英国の 15.6%、ドイツの 21.8%、スウェーデンの 24.8% に比べてかなり低い。一方、韓国の GDP に対する公共部門による社会保障支出の場合、1990 年の時点でも 2.7% に過ぎず、日本の 10.9% に比べてもはるかに限定的である(OECD 2020)。

(6)

ただ、本稿では、日韓の産業政策が福祉政策の役割を肩代わりする事象に焦点を当てており、産業政策が もともと目指すはずの資源の効率的な配分を犠牲にして再分配の論理を重視することになった点を明瞭に表 すため、福祉政策を広い意味でとらえることとする。つまり、本稿で用いる「広義」の福祉政策は、社会保 険、公的扶助、社会サービスといった形で富の再分配を行う狭義の福祉政策と、当初の政策意図は富の再分 配ではないが結果的に雇用保障の形で富の平準化効果を持つ福祉政策の機能的等価物からなる9 上記のことを踏まえ、日韓の違いは、産業政策が最初の意図から離れ福祉政策の機能的等価物化するメカ ニズムの違いとして理解できる。ゆえに、両国の違いを理解するためには、低い社会保障支出に起因する雇 用保障に対する社会側からの圧力が、政治家を経由して産業政策の決定過程に反映される在り方を検討する 必要がある。 では、説明変数である政治家と有権者とのリンケージの在り方について説明する。本稿では経済分野にお ける政治家と有権者との関係において、日本の事例をクライエンテリスティックな関係に基づく政策決定過 程、韓国の事例を、日本に比べ相対的にプログラマティックな関係に基づく政策決定過程と設定する。 二つの概念の定義は多様であるが、本稿においてクライエンテリスティックな関係は、繰り返される相互 作用を前提に、特定の集団に政策的な便宜を約束して得票を狙う関係と定義する。一方、プログラマティッ クな関係は、不特定多数に向けて社会問題の解決ビジョンを提示して支持を狙う関係と定義する(Kitschelt and Wilkinson 2007; Stokes 2009; Hicken 2011)。本稿が注目する両者の違いは、票と政策便宜との交換関係に おける属人化の度合であり、その違いは経済政策の内容が特殊利益志向か一般利益志向かに影響する。

一つ断っておく点として、本稿で韓国をプログラマティックな関係であるとするのは、経済分野に限定し た上での日本との相対的な比較に基づくものである。理想的なプログラマティックな関係とは、複数の政 党があらかじめ特定のイデオロギーや政策信念に基づき政策パッケージを提示し、有権者も政党間の違い や政策内容を認識して選挙に臨むことである(Kitschelt and Wang 2014: 44–45)。ゆえに、その基準から 1990 年代末までの韓国の事例を一般論としてプログラマティックな関係と定義することには無理がある(Wang 2012)。

しかし、一国内でも政治家と有権者との関係は政策分野ごとに異なり(Cheeseman et al. 2014: XII)、地域 主義が韓国有権者の投票行動に強く影響する中ても、経済成長と再分配の争点が政権支持への重要な評価基 準となってきたことも事実である(B. Kim 2008;金・兪 1997;朴 1993)。その評価基準としては、行政府 と与党が主導する一国単位の経済パフォーマンスが重要だった点で、日韓比較の文脈に限って「経済分野」 における韓国の政治家と有権者との関係は「相対的に」プログラマティックな性質を持つ10 日本の政治家と有権者とのクライエンテリスティックな関係の起源は戦前にさかのぼり、戦前の政治エ リートによる国家資源の統制、政治エリートと地方名望家との提携、それを支える社会経済的条件としての 地主の小作農に対する強い影響力などが指摘されている(Scheiner 2006: 75–82)。そして、この関係は戦後 の地方政治家や後援会、中選挙区制度の存在と相まって現在の関係を形作っている。 戦後日本の政治家と有権者とのクライエンテリスティックな関係の要素として重要なのは、議員の当選回 数の多さ、候補者中心の選挙戦略、そして、個別政治家による利益誘導が可能な政策決定構造である。 第一に、議員の当選回数の多さを見る11。第 36 期衆議院議員(1980 年~ 83 年)511 人のうち初当選の割  9) 本稿における「広義」の福祉政策は、宮本が「生活保障」と呼ぶものである(2008: 2)。 10) 韓国の状況は政策理念や内容ではなく、経済成長など同様な政策目標に対する推進能力をめぐって競う誘意性モデ ル(Valence Politics)とも近い。ただ、誘意性モデルはダウンズの空間モデルと前提とする理論が異なり(Clarke et al. 2009)、二つモデルの関係についてはさらなる検討が必要なためにここでは扱わないことにする。 11) 本稿では衆議院議員に焦点を当てる。日本の議会は両院制をとるが、総理大臣の指名、予算、法律案の議決に衆議 院の決定が優先されること、また、内閣不信任案の決議は衆議院のみに与えられていることから、衆議院が政策決

(7)

合が 7.24%、初当選と再選を合わせた割合は 23.29% に過ぎず(菅原 2020)、韓国の 1988 年の国会議員 299 人のうち初当選の割合が 55.18%、初当選と再選を合わせた割合が 75.59% に達することとはっきりとした対 比をなす(韓国国会 2020)。これは日本の政治家が特定の集団とクライエンテリスティックな関係を構築す る十分な時間を保持していたことを意味する。 第二に、候補者中心の選挙運動と彼らの政策決定過程への介入の制度化であり、それには戦後からの中選 挙区制という選挙制度が重要な役割を果たしてきた。理論の外的妥当性の観点からクライエンテリズムの起

源を中選挙区制に求めることには懐疑的な立場が存在するが(Kitschelt and Wilkinson 2007)12、少なくとも戦

後日本の政治家の行動を説明するうえで中選挙区制が与えてきた影響を考慮することは欠かせない(Scheiner 2006)。

1980 年代の衆議院議員は 511 名が定数 2 ~ 6 の中選挙区 129 カ所で選ばれている。自民党が過半数をと るには 129 の中選挙区で 256 名を当選させる必要があり、一つの選挙区で 2 名以上の当選を目指さなけれ

ばならない13。したがって、所属政党による差別化が困難な候補は個人の後援会を中心に支持基盤を構築し、

党内の政務調査会を通じて支持基盤への利益誘導を図る(Ramseyer and Rosenbluth 1993;Krauss and Pekkanen 2011;建林 2004)。 権力維持のためにすべての選挙区で複数の候補を当選させる必要があることは産業政策にも重要な意味を 持つ。一国を単位とする産業政策の論理が選挙区を単位とする政治の論理と相容れない場合があるからであ る。産業立地がその典型であり、経済効率に基づく産業立地の偏りは選挙区の形をとる全国土からの支持調 達構造と緊張関係にある。 さらに状況を複雑にするのは日本の低い社会保障支出である。1973 年の福祉元年を皮切りに日本では社 会保障支出が一時期増加するが、その後のオイルショックによりその支出拡大には歯止めがかかる。ただ、 その空白を埋める形で日本の産業政策は福祉政策の代替的な役割までを果たしてきた(宮本 2008;Estévez-Abe 2008)。 もともと産業による国民経済発展の便益は国民全体が共有できる。ただ、当該産業が立地する地域におけ る雇用の創出や維持の便益は受益集団にとって特殊利益にもなる。再分配の度合いの低さにより産業そのも のが国民所得に重要な意味を持つがゆえに、産業政策には支援対象や立地をめぐる競合が常に激しい。 さらに、所属政党による差別化が困難な自民党の政治家は自身ではなく党の手柄となる国民経済の発展よ り、個別支援に伴う政治的利益に敏感にならざるを得ない。その結果、産業政策は個別政治家の支持基盤と なる選挙区内の有権者向けの特殊利益の提供手段とみなされ、政策支援の対象を分散させようとする政治的 圧力が生じることになる。 他方で、経済分野において韓国の政治家と有権者との間で日本に比べ相対的にプログラマティックな関係 が形成されることに重要だったのは、戦後立法府が正常に機能せず経済政策が行政府によって主導される中 でも、国会議員選挙は持続的に行われ14、個別の国会議員は選挙区活動を通じて有権者との相互作用を続け てきた点である。 その過程において、大統領と与党の戦略によって頻繁に入れ替わる個別政治家は経済分野において政府と

定過程を主導すると考えられているからである(Ramseyer and Rosenbluth 1993: 21)。

12) 彼らはクライエンテリズムの在り方を規定する要因として、経済発展、政党間競争、政治化された経済ガバナン ス、民族多様性を取り上げている。 13) 例えば、1984 年の衆議院選挙で自民党議員 259 人のうち 229 人、つまり 91.5% は同一選挙区でほかの自民党候補 と競合する(Calder 1988: 63)。 14) 1948 年 5 月 10 日の第 1 代国会議員選挙から 1988 年 4 月 26 日の第 13 代国会議員選挙まで 13 回の国会議員選挙が 定期的に行われてきた。

(8)

与党の方針に従う行動規範を形成し、彼らと相互作用する有権者も個別政治家を通じた利益誘導を期待でき ず、政党を中心とする投票行動のパターンを形成する。つまり、経済分野に限り、個別政治家と有権者の相 互作用は、行政府と与党が進める一般利益志向の経済政策を媒介に行われたわけである。

まず、国会議員の活動内容や役割認識において、権威主義時期の国会議員(1973 ~ 78 年の第 9 代、1981 年~ 85 年の第 11 代、1985 年~ 88 年の第 12 代)と民主化後の第 13 代国会議員(1988 年~ 92 年)との間

では大きな変化がみられない(C. Kim et al. 1984;Yoon 1985;C.-w. Park 1988;宋 1991)15

彼らは選挙区活動を重視し、選挙区民の苦情にも対応するが、小規模の公共事業の誘致を高位官僚や党執 行部に要請する以上には、選挙区への利益誘導を狙って経済政策の決定過程に体系的に介入する動きは民主 化後も見当たらない(金鎭國 1997)。これは民主化前後において GDP に対する中央政府統合財政規模の割 合や統合財政収支が安定的な推移を示していたことにも反映されている(E- ナラ指標 2020)。 そして、一般利益を目指す経済政策が特殊利益を狙う個別政治家によって歪められる度合いが少なかった ことを示す例として、民主主義が完全に定着した 2000 年の時点においてさえ、国会の財政経済常任委員会 に所属する国会議員 20 名のうち、経済政策の決定過程において国会がより重要な役割を果たすべきと考え る人は 3 名に過ぎない反面、大統領と行政府が重要な役割を果たすべきと答えた議員は 17 人に上がったこ とがあげられる(Jang and Shin 2008: 65)。

上記の傾向は有権者の態度にも影響する。民主化後の有権者の投票行動に最も重要な影響を与えたのは地 域主義であるが、地域主義に基づく投票行動は下記の三つの理由により、経済分野において政治家と有権者 が相対的にプログラマティックな関係を形成することと両立可能であったと考えられる。 第一に、地域主義は政党リーダーを中心とするクライアンティズムの形成をもたらしたが、この関係の影 響は産業政策の決定過程にまでは及ばなかった(Chang 1998)。第二に、地域主義に基づく政党間の対立は、 有権者が政党を中心に投票する誘因を与えた16。第三に、地域主義に基づく政党でも国会議員選挙や大統領 選挙で勝利するためにはソウル、京畿、仁川、江原の浮動票を獲得すべきであり、代案的な政策対立軸が不 在の中で経済パフォーマンスは重要な評価基準となっていた(B. Kim 2008;金・兪 1997;朴 1993)。 その結果、有権者は選挙区内の個別政治家を通じて産業政策の決定過程に体系的に介入できるとの期待を 形成せず、一国単位の経済パフォーマンスが政府や与党に対する重要な評価基準となってきたと考えられ る。金融危機のさなかではあるが、1997 年から 99 年までに 1000 名あまりの有権者を対象としたサーベイ 調査においても、有権者の 72 ~ 77% が経済政策は専門官僚が担当すべきと答え、経済政策の便益を特殊利 益の観点からとらえていないことを傍証する(Jang and Shin 2008: 68)。

ゆえに、政策決定過程では、一国単位の経済効率を重視する官僚の論理と、政権支持の最大化を狙う大統 領と党執行部の論理が強い(金興起 1999;崔 2007)。韓国の政策決定過程では、受益集団を特定できるが動 員できる数が少ない特殊利益志向の政策目標より、政党としてより多くの有権者にアピールできる一般利益 志向のものが好まれ、産業政策の支援対象は効率の観点から集中する傾向がある。 ただ、例外はある。つまり、上記の集中傾向は一国単位の経済パフォーマンスがより多くの有権者の支持 を調達できるとの前提に立っている。しかし、効率に基づく産業政策が富の集中と格差の問題を引き起こす 15) 参考として、第 11 代と第 12 代の国会は定数 2 の中選挙区 184 議席と全国区 92 議席からなっている。与党が過半 数をとるためには 139 議席が必要だが、全国区議席の 3 分の 2 の 61 を中選挙区議席の第一党に配分するルールの ため、中選挙区で確保すべき数は 78 にすぎない(中央選挙管理委員会 2009: 213–216)。ゆえに、与党は 92 の中選 挙区において、一つの選挙区につき一人の候補者の当選を目指し、日本のような党内競争は生じなかった。 16) 1988 年の国会議員 299 人のうち初当選の割合が 55.18%、初当選と再選を合わせた割合は 75.59% に達する(韓国 国会 2020)。この短い在任期間では自前の支持基盤とクライエンテリスティックな関係を形成することが時間的に も困難である。

(9)

と、公共部門による社会保障支出の割合が低い韓国ではその不満への対応も産業政策に頼らざるを得ない。 その場合、産業政策は雇用保障を通じた格差是正の手段として活用され、支援対象は分散する傾向が生じ る。 しかし、経済効率を犠牲にしながら再分配の論理だけで多くの有権者からの支持調達を続けることは困難 である。したがって、韓国の政策決定過程では、格差是正が一般利益として断続的にみなされる時期を除 き、産業政策の支援対象は集中する傾向が強い。 次に、被説明変数であるテクノポリス政策の効果について説明する。本政策の当初の意図は先端技術能力 の向上にあった。テクノポリスは当該団地内に立地する先端企業のイノベーション活動を支え一国の産業競 争力や GDP 成長に貢献する。ただ、先端産業団地の構築には多大な資源と時間が必要なため、産業政策的 な効果が重視される場合、政策支援は集中せざるを得ない。したがって、造成団地の数が一つか二つに絞ら れる場合、テクノポリス政策の決定過程では当初の意図どおり産業政策的な効果が重視されたといえる。 一方、本政策には福祉政策的な効果も存在し得る。テクノポリスが立地する地域は雇用の創出や維持によ る利益を追加的に享受し、地域住民たちにとってテクノポリスによる雇用保障の効果は福祉給付の意味合い を持つ。したがって、政府が先端産業政策の特徴である政策支援の集中方針を転換して造成団地の数を増や していった場合、テクノポリス政策の決定過程では福祉政策的な効果が重視されたといえる。 上記の理論仮説に基づき、日韓の事例を概観すると次のとおりである。日本の官僚は当初先端技術能力の 獲得を意図して全国 1 カ所のテクノポリスを構想する。しかし、日本の与党政治家は、本政策による雇用保 障の効果を自分の支持基盤に提供できる特殊利益と認識し、政策決定過程に介入する。その結果、テクノポ リスの造成予定数は急増し、本政策の決定過程では、雇用保障という福祉政策的な効果が重視されることに なる。 一方、韓国の官僚も最初先端技術能力の獲得を意図して 1 カ所のテクノポリスを構想する。しかし、当時 政党間の対立軸となっていた格差是正に対応すべく、韓国の与党政治家は雇用保障を一般利益と認識し、テ クノポリス団地の造成予定数を増やしていく。ただ、格差是正の政治的争点としての価値が下がった時点で 団地の造成予定数は再び激減し、本政策の決定過程では、初期の意図どおり産業政策的な効果が重視される ことになる。

IV.

 日本の事例分析

1.日本のテクノポリス政策の特徴 (1)先端技術能力の獲得を意図した政策構想 テクノポリスは 1980 年 3 月に産業構造審議会による「80 年代の通商産業政策の在り方に関する答申」で 初めて提起された概念であり、先端産業、研究施設、住居を結合させたシリコンバレーのような先端産業団 地を目指していた(伊東 1998: 3;武田 2011: 53)。そして、テクノポリス政策は基本的に製造業の高度化政 策であり、日本の産業を技術および知識集約型に高度化することを目的としている(タツノ 1988: 200)。 一つのテクノポリスは 1,500 ヘクタールの空間に 4 万人を収容し、その造成に 5,400 億円を投入すること が想定される(根岸 2018: 135)。最初の構想では、国が一つを造成した後、最終的には地方自治体の主導で 6 カ所程度のテクノポリスを構築していく。そのために中央政府は 3 兆円の財政支援を行うとし、その支援 規模の大きさは当時のメディアからも注目を集めている(日経産業新聞,p. 1, 1981/12/28)。 テクノポリスが想定する技術開発のメカニズムとは、外部から先端企業を誘致し、これらを中心に研究活

(10)

動と産業活動が結合する一つのイノベーション・システムを構築することである。したがって、これには外 部からきた先端企業を支える地元中小企業の役割も重要になる。先端企業は地元中小企業に支えられて研究 や産業活動を営み、この連携を通じて先端企業の技術や情報は地元中小企業にも拡散していく。 地方の観点からすると、テクノポリス政策は先端企業の誘致や地元企業の高度化を通じて地方経済の発展 が期待できる政策であったわけである(Fujita 1988: 576–579)。ただ、問題は全国に 1 カ所という当初の構想 からして、先端技術能力の構築を目指す過程で経済発展の機会を得られる地方は非常に限られていたことで ある。 (2)福祉政策的な効果が強まったテクノポリス政策 次に、本政策が結果としてどのような効果を持つことになったのかを検討する。テクノポリス法は 1983 年 4 月 27 日に成立し、1984 年から 1989 年まで合計 26 のテクノポリスが指定された17。指定地域には「テク ノポリス開発機構」が設立され、テクノポリスに立地する企業や研究開発活動への支援が行われる。支援の 内容としては、税制上の優遇措置、ベンチャー企業に対する金融・経営・技術支援、産学共同研究支援、労 働者の訓練プログラムの運用などがあげられる(伊東 1998: 34–35;Fujita 1988: 569)。 本政策への評価は注目する側面によって異なる。これから検討する二つの研究は同一の結果に対して対照 的な評価を下している。食い違う評価はテクノポリス政策の本質を如実に表す。結論からいえば、本政策は 最初少数の先端企業を中心とする先端技術能力の構築を意図していたが、結果としては様々な地方産業の支 援を通じた雇用保障政策に切り替わっている。 まず、塚原(1994)は本政策の先端産業育成の効果に焦点を当て、1980 年と 90 年のデータをもとに 26 のテクノポリスの工業出荷額、工業付加価値額、工業従業者数、人口の伸び率を全国平均と比較する。彼の 結論を先取すると、テクノポリスの間では業績の差が大きく、先端産業の成長率もテクノポリス以外の地域 と比べて大差はない。したがって、本政策は成功していない。 具体的にみると、上記の四つの指標において 26 テクノポリスの平均値(65.2%, 45.3%, 10.3%, 6%)は全 国の伸び率を上回る(57%, 41.4%, 8.5%, 5.6%)。ただ、全国平均値を上回る指標が多いか(四つ)下回る指 標が多いか(三つ)を基準に分けてみると、13 カ所は良好18で 10 カ所は低調19であり、テクノポリス間では 偏差が大きい(塚原 1994: 220–222)。 そして、テクノポリス地域において先端技術産業20の工業付加価値額の全業種に占める割合は 11% から 15% に伸び、先端技術産業による工業付加価値額の伸び率も全業種の 70% を上回る 127% となっている。 しかし、それも先端産業全般の成長によるものではなく、一部地域における電子計算機部門の突出した成 長によるところが大きい。ゆえに、本政策による先端産業育成の効果は限定的であるとされる(塚原 1994: 222)。 反面、根岸(2018)はテクノポリス政策を産業立地の地方分散による地方発展政策として位置づけ、塚原 17) 新潟県(長岡→信濃川)、富山県(富山)、静岡県(浜松)、広島県(広島中央)、山口県(宇部)、熊本県(熊本)、 大分県(県北国東)、宮崎県(宮崎)、鹿児島県(国分隼人)、秋田県(秋田)、栃木県(宇都宮)、北海道(函館、 道央)、岡山県(吉備高原)、福岡県・佐賀県(久留米・鳥栖)、長崎県(環大村湾)、青森県(青森)、兵庫県(西 播磨)、香川県(香川)、宮城県(仙台北部)、福島県(郡山)、岩手県(北上川流域)、山形県(山形)、長野県(浅 間)、山梨県(甲府)、愛媛県(愛媛)(根岸 2018: 175)。 18) 信濃川、浜松、熊本、県北国東、宮崎、国分隼人、宇都宮、吉備高原、仙台北部、北上川流域、山形、浅間、甲 府。 19) 広島中央、宇部、秋田、函館、道央、久留米・鳥栖、青森、西播磨、香川、愛媛。 20) 医薬品、通信機械器具、電子計算機、電子応用装置、電子計測器、電子・通信部品、医療機械器具、光学機械器 具。

(11)

(1994)のデータとさほど変わらない指標を提示しながら本政策の効果を肯定的に評価する。彼はテクノポ リス地域を四つのグループに分けて下記のように説明する(根岸 2018: 168–169)。 第一のグループ21は先端産業の成長率がかなり高く、それが製造業(全業種)の成長率と連動するケース であり、第二のグループ22は、先端産業の成長率は高いが、既存の基礎素材型産業の不振によって製造業 (全業種)の成長率が低いケースである。これら地域は少なくとも政策支援が先端産業の育成になされたと 理解できる。 一方、第三のグループ23は、製造業(全業種)の出荷額の年平均増加率は高いが先端産業の出荷額の年平 均増加率が低いケースであり、第四のグループ24は、先端産業の成長率が全国平均とほぼ変わりなく、一般 製造業の成長率も全国平均を下回るケースである。つまり、第三と第四のグループ地域における政策支援は 一般製造業になされ、先端産業の立ち上げが目指されていたわけではない。 では、当初先端技術能力の構築を意図していたテクノポリス政策が、なぜ様々な地方産業の支援を通じた 雇用保障政策に変わったのか。テクノポリス政策の意図に対する学者間の認識のずれやテクノポリス政策に おける性質の変化を理解するためには、そもそも 1 カ所としていた指定地域がなぜ 26 カ所まで増えること になったのかの経緯を検討する必要がある。 2.福祉政策的な効果が重視される政策決定過程 (1)産業政策として始まった先端産業都市の構想 1970 年代においては、第一次石油危機以来基礎素材型工業が比較優位を失い、環境問題が深刻であった ため、新しい成長戦略が模索されていた(Fujita 1988: 574–576)。テクノポリス構想は 1979 年末に通産省内 の立地公害局の私的諮問機関であった「立地と環境政策研究会」で少数の工学者、起業家、経済官僚によっ て形作られ、シリコンバレーのような先端産業団地の造成が目標とされた(タツノ 1988: 187–191;武田 2011: 53) このアイディアは 1980 年 3 月に産業構造審議会の名前で通産省の「80 年代の日本の産業構造」に対する 答申の形で初めて公開される。ここでテクノポリスの具体的な在り方は明確にされなかったが、日本の新 しい経済成長の動力として全国に一つか二つの先端産業都市を造成することを目指すと発表した(タツノ 1988: 192)。 ここで注目すべきことは、テクノポリス構想が先端産業団地の造成を通じて先端技術能力の構築と地方発 展を同時に図るものではあったが(伊東 1998: 3–4)、政策の強調点はあくまで先端技術能力の構築にあった ことである。立地する地域の経済発展にテクノポリスが貢献することは確かであるが、テクノポリスの構築 には多大な時間や資源が必要なため、この政策対象の範囲は限定的なものであった。 (2)テクノポリス政策の福祉政策化 ところがこの計画が公になると 40 県がテクノポリスの母都市として意欲を表明するなど地方から大きな 関心を呼ぶことになる(タツノ 1988: 192)。この政策が先端企業の誘致と地元企業の高度化によって地方経 済の活性化に資すると期待されたからである(伊東 1998: 7)。 この熱狂的な反応の中で通産省の外郭組織である「産業研究所」内に設置された「テクノポリス ʼ90 建 21) 県北国東、宮崎、青森、山形、北上川流域、甲府、熊本。 22) 秋田、環大村湾、仙台北部、信濃川、道央、函館、国分隼人。 23) 首都圏とその周辺の浅間、郡山、宇都宮地域。 24) 香川、宇部、愛媛、広島中央、西播磨、富山、久留米・鳥栖地域。

(12)

設研究会」は 1980 年 7 月に「テクノポリス ʼ90 建設構想について」という報告書を発表する。ここでは 1990 年までに国家プロジェクトとして全国に一つか二つの先端産業都市の設立を検討するとし(伊東 1998: 18)、この時点で通産省はこれから五つ程度の候補地を選定していく考えでいた(日本経済新聞朝刊,p. 5, 1980/11/25)。 しかし、通産省の政策方針は激しいロビー活動にさらされていく(タツノ 1988: 204)。公共事業の予算を どれほど勝ち取るかは政治家の生存と直接にかかわる問題であったが、テクノポリスは当時の日本において 最も規模の大きな公共事業の一つであった(Fukui and Fukai 1996)。

実際、当時の通産省立地公害局長の神谷和男は、全国的な関心が政策の方向性を変えたことを語る25。彼 によると、最初の 1 カ所という計画は地方に当該政策への関心を持たせてもらうために中央政府が試験的に 助成する意味合いが強い。したがって、地方がすでに高い関心を表明している中で、支援対象を絞ってその 意欲をくじけさせる理由はないとの旨の発言をしている(根岸 2018: 134)。 したがって、その後通産省の計画には方向性の修正がみられる。通産省の外郭組織の「産業研究所」内に 設立された「テクノポリス ʼ90 建設構想委員会」が 1981 年 6 月に出した「テクノポリス ʼ90 建設の方向」で は、テクノポリスの地方経済への貢献が新たに強調され、前回の報告書がテクノポリスの構築に先端企業の 誘致を重視したのに対し、今回の報告書では地元中小企業の高度化が強調されている(伊東 1998: 20–21)。 そして 1981 年に五つ程度の候補地を選び出して 1982 年に 1 カ所を指定するという前年の方針を転換し、 基本構想調査地域という名前で 19 の地域を選定した(日経産業新聞,p. 18, 1982/02/19)。基本構想調査と は候補地の県が自らどのようなテクノポリスの在り方が可能であるかを検討する作業であり(武田 2011: 57–58)、この作業を管理するため 1981 年 8 月に「日本立地センター」内に「テクノポリス ʼ90 建設構想委 員会」が設立される。 ここで注目すべきは、地方発展が政策目標としてあらためて強調されたことである。これは先端技術能力 の構築に伴う副次的な効果としての地方発展という当初の構想から、地方発展のための先端技術能力の構築 へと政策の重点が微妙に変わったことを意味する。この方向性の修正はその後の指定地域の範囲をめぐって 多大な影響を及ぼすことになる。 そして、地方発展とともに地元中小企業の役割が改めて強調されているが、それは自然な帰結である。地 方経済の発展は大手企業の誘致か地元中小企業の高度化に頼るしかない(Rothwell 1989: 51–52)。しかし、 効率を重視する大手企業にとって先端産業の立ち上げよりも地方発展が重視されることになった団地に立地 する誘因は弱い。その結果、大手企業に移転の誘因を与えるためにも、あるいは、大手企業の役割を補うた めにも地元中小企業の役割が重要になったわけである。 さらに、候補地域の練り上げが進んでいない中、本報告書では中央政府による財政支出の抑制と地方政府 主導の事業推進が提言されている(伊東 1998: 20–21)。地方政府の主導とは実質的には地方政府による財源 の負担を意味し(伊東 1998: 80–81)、少数の団地に国家資源を集中投入することが困難になりつつある中で、 予想外の造成数拡大の圧力に対応すべく、地方政府や民間セクターによる財政負担の分担が構想され始めた わけである。 さて、1982 年 4 月にはテクノポリス ʼ90 建設構想委員会によって「テクノポリス基本構想調査総合報告 書」が公開され、この報告書をもって構想としてのテクノポリス政策は完成する(伊東 1998: 22)。ここで も地元中小企業の高度化を通じた地方発展という方向性が堅持され(伊東 1998: 23;日経産業新聞,p. 1, 1982/03/27)、この報告書では 19 の基本構想策定地域から開発構想策定地域を選定するための基本方針が発 25) ただ、彼はテクノポリス政策の目標がそもそも地方発展にあったと述べている点で、彼の発言が本稿の理論仮説を 支持するわけではない。

(13)

表された。 しかし、1982 年 8 月の最終報告書では 19 地域すべてが開発構想策定地域と指定される(日本経済新聞朝 刊,p. 1, 1982/08/05)。開発構想策定地域は 1983 年から開発計画の内容と技術能力に応じて段階的にテクノ ポリスと指定されるため、この発表は事実上全候補地に指定可能性を開いた。これは 6 月の中間報告の際に 19 の基本構想策定地域のうち半分程度に選り抜くとした方針を大幅に変える決定だった(日本経済新聞朝 刊,p. 4, 1982/06/19)。 この点に関して通産省内では候補地を絞るか否かをめぐって激しい対立があったそうであるが、この問題 がいかに政治化したのかは下記の新聞記事によく表れている。 「……実際、政府、自民党内でテクノポリスへの関心がにわかに強まってきたが、これが 十九地域全部が開発構想地域に決まったひとつの背景となったことは否定出来ない。昨年末発 足したばかりの自民党の『工業再配置促進議員連盟』が、春先から三週間おきに『テクノポリ ス勉強会』を開いてきているのは政治家の関心の高さを物語る一つの例証である。安倍通産相 が、対外通商協議の忙しい合間をぬって、内政の目玉としてテクノポリス行政を重視してきた のも党内の雰囲気を反映している。……鈴木首相や安倍通産相の“お墨付き”が相次いで出た ことで、『絞らない方針』は七月のヒアリング終了時には大勢となっていた。」(日経産業新聞, p. 1, 1982/08/14) 1982 年 11 月にはテクノポリス建設促進のため 264 名からなる超党派の議員連盟が発足する(日経産業新 聞,p. 1, 1982/11/20)。これによりテクノポリスの指定問題は明確に政治化し、日本のテクノポリス政策の 決定過程では福祉政策的な効果が決定的に重視されることになる。1982 年 12 月には自民党税制調査会で 1983 年税制改正案にテクノポリス建設推進税の創設が認められ、通産省は法案の作成作業に入る(日経産 業新聞,p. 1, 1982/12/25)。 当時大蔵省が超緊縮財政を主張していたためこの法案作りをめぐって論争があったが(根岸 2018: 139)、 テクノポリス議員連盟が選挙を控えて通産省を後押ししたことが自民党税制調査会の審議を通ったことに影 響したとされる(日本経済新聞朝刊,p. 5, 1983/04/14)。通産省が関係省庁と協議して作成した「高度技術 工業集積地域開発促進法(テクノポリス法)」は自民党の政務調査会と総務会を経て、1983 年 4 月 1 日に国 会に提出される。 その後の政策過程では通産省による先端産業政策としての整合性の維持努力と政治家による指定地域の拡 大圧力が併存し、政策方針が揺れる様子が見られる。たとえば、山中貞則通産大臣(第 43 代、1982–1983) は 1983 年 3 月 19 日の参院予算委員会で 19 地域をテクノポリスとしてすべて承認することはあり得ないと したが(日本経済新聞朝刊,p. 1, 1983/03/20)、この方針は自民党議員の立場と相容れないものであった。 立場の食い違いは衆議院商工委員会においても観察でき、複数の議員が本政策が地方発展を目指す限り条 件を満たさない候補地は通産省が条件を満たさせて指定すべきと意見を述べているが、通産大臣は選定の基 準を緩めると政策の整合性が失われる恐れがあると否定的な見解を示している(第 98 回国会衆議院商工委 員会会議録,1983/04/13)。 テクノポリス法は 1983 年 4 月 27 日に成立するが、1984 年 2 月に通産省は結局 19 の地域すべてをテクノ ポリスとして指定すると発表する。その後さらにその数は増え、1989 年まで合計 26 のテクノポリスが指定 されていく。この選択は条件が整っていない地域までを含むことになり、先端技術確保の観点からの効率は 決定的に低下する(伊東 1998: 79–81)。

(14)

V.

 韓国の事例分析

1.産業政策的な効果が重視される政策決定過程 (1)産業政策として始まった先端産業都市の構想 韓国では 1983 年頃から日本のテクノポリス政策に対する関心が現れ(毎日経済,p. 8, 1983/05/26)、1984 年からは韓国政府も政府出捐研究機関を通じてテクノポリス建設の検討を始めている(京郷新聞,p. 5, 1984/04/09)。 韓国の新聞は本政策について地方発展を可能にする科学技術政策として紹介する。日本のテクノポリスが 当初の計画とは違って 19 カ所まで増えたことを触れながらも、計画変更による先端産業政策としての問題点 よりは地方発展政策としての魅力を強調し、テクノポリス政策を地方発展政策として評価している(毎日経 済、p. 8、1983/05/26)。メディアのレベルでは当該政策における福祉政策の側面が注目されていたといえる。 ただ、1984 年の時点で科学技術処と経済企画院は、1973 年から大テジョン田市に研究団地として助成してきた 大テ ド ク徳研究団地をテクノポリスとして発展させる計画を構想するだけで、助成地域を拡大することについては 効率上望ましくないと慎重な態度を示す(毎日経済,p. 1, 1984/09/26)。政府はまだ明確な政策方針を立て てはいないが、先端技術能力の構築を目指す政策としてテクノポリスを認識していた。 (2)テクノポリス政策の福祉政策化 ところが、与党の民主正義党は突然 1985 年推進予定の事業として、地方にテクノポリスを建設し、そのた めに先端産業団地法を制定する計画を発表する(毎日経済,p. 6, 1985/02/12)。本計画は 1985 年 2 月の第 12 代国会議員選挙の当日に発表されたことからして選挙を強く意識したものであった。当時権威主義体制に対 する不満が高まる中、経済分野では地域間所得格差の是正や地方発展が重要な課題となっていたからである。 ただ、選挙結果は政府に危機感を覚えさせるものであった。この選挙では政治参加が禁止されていた野党政 治家が復帰したこともあり、野党に対する支持が急増したからである(中央選挙管理委員会 2009: 406)。第一 党に有利な全国区議席の配分ルールにより与党の民主正義党が国会議席の過半数を確保することには問題がな かったが、選挙結果は政府が権力安定を図って地方発展という政策課題により積極的になる契機となった。 これを受けて、1985 年 7 月に商工部は民主正義党の計画に呼応する形で先端産業団地の造成法の立案計 画を発表する(毎日経済,p. 1, 1985/07/10)。この計画の中では指定地域に関する詳細は示されていないが、 先端技術能力の構築を目指して 1970 年代からすでに助成してきた大徳研究団地以外にも地方に先端産業団 地を新しく建設するとし、この流れで翌年 3 月に研究依頼を受けた韓国開発研究院は清チョンジュ州・光クァンジュ州・全チョンジュ州・ 裡イ リ里を科学技術都市とする提案を政府に提出する(毎日経済,p. 8, 1986/03/25)。 そして、商工部の計画とは別の形で科学技術処も地域ごとに研究団地を造成して最終的に 6 カ所を建設す る計画を発表する(毎日経済,p. 6, 1986/01/06)。テクノポリス政策は先端産業と科学技術をともに扱って いるために、商工部と科学技術処はその主導権を巡って争いながら各々の計画を進めていく。 1986 年以降の計画ではいずれも助成地域の拡大が見られ、この傾向は政策の強調点が地方発展を支える 福祉政策的な側面に移ったことを意味する。これはテクノポリス政策の在り方を検討した韓国開発研究院 が出した報告書のタイトルが「技術集約産業と地域開発政策」であったことからもうかがえる(毎日経済, p. 1, 1986/03/25)。 ただ、日本の事例からもわかるように、シリコンバレーのようなイノベーション・システムの構築には多 大な資源と時間が必要なため、福祉の観点から助成団地の数を増やして限られた国家資源を分散させると、

(15)

イノベーション政策としての整合性は犠牲になりかねない。当時の新聞ではすでにこのトレードオフの関 係が認識され、先端産業政策としての観点から指定地域の拡大を危惧する声が現れている(毎日経済,p. 2, 1986/03/26)。 ただ、その後もテクノポリス政策の内容は確定せず名称や政策対象だけを変えていく。1986 年 9 月に商 工部は「高度技術工業都市開発推進案」を発表し、清チョンジュ州・光クァンジュ州・全チョンジュ州・裡イ リ里・ 順スンチョン天の 5 カ所を高度技術工業 都市として開発し、既存の大徳研究団地には技術集約産業団地を加え、そのための関連法を制定するとした (毎日経済,p. 1, 1986/09/15)。しかし、この計画もこれ以上は進展せず、1989 年 10 月に「先端産業発展 5 カ年計画」として改めて提示されることになる。 一方、科学技術処も 1987 年には 8 カ所の科学研究団地の助成計画を新たに打ち出し(毎日経済,p. 1, 1987/05/06)、1989 年 1 月には計画を変えて技術地帯網計画を発表する。この内容によると、全国を五つの 圏域に分けて各々の圏域ごとに複数の拠点都市をテクノポリスとして助成し、五つの圏域をつなげる。当該 計画は 17 カ所のテクノポリスの助成を計画し、そのための促進法の制定も構想している(毎日経済,p. 8, 1989/01/26; p. 8, 1989/03/08)。 上記の状況下で 1988 年 4 月 16 日にはテクノポリス政策の内容が定まっていないにもかかわらず、大統 領の政治的判断で政治的抑圧の被害を受けてきた光州地域のテクノポリス建設だけが先に確定される(鄭 根埴 1994: 99)。さらに、1988 年 4 月 26 日の第 13 代国会議員選挙では与党が過半数を切り、これはテクノ ポリス政策における地方発展の側面がさらに重みを持つきっかけとなる(鄭根埴 1994: 97;毎日経済,p. 8, 1989/02/02)。 (3)テクノポリス政策の産業政策への回帰 ところが、本政策は突然方向性を変えていく。その発端は商工部と科学技術処が政策の主導権をめぐって 争う中でいかなる案も進まなかったことである。したがって、1989 年になると与党の民主正義党も政策遅 延による政治的負担を意識し、商工部と科学技術処の計画を統合させて 9 月には定期国会で先端育成法を推 進すると発表し、両官庁に妥協を求める(京郷新聞,p. 6, 1989/06/01)。 しかし、1989 年 11 月になっても両官庁は政策内容や支援対象とする業種、権限の所在を巡って妥協点を 見つけられず、おのおのの法律案を主張し続ける。民主正義党は仲介役となって二つの案の単一化を図った ものの、結局、定期国会での立法は見送られた(毎日経済,p. 1, 1989/11/02)。 民主正義党は 1990 年 1 月に改めて先端技術関連法案を上半期中には制定すると発表して推進の意志を明 確にするが(ハンギョレ,p. 2, 1990/01/19)、この努力が功を奏したか、2 月にはひとまず経済企画院傘下 「先端技術産業発展委員会」において科学技術処を中心とする「先端技術および産業発展 7 カ年計画」が確 定する。それに伴って関連法も 5 ~ 6 月中には制定されることになった(京郷新聞,p. 2, 1990/02/23;毎日 経済,p. 3, 1990/02/23)。 しかし、この計画についても商工部は反発し、当該計画は 6 月までに一向に進まない(毎日経済,p. 1, 1990/03/06;ハンギョレ,p. 8, 1990/6/23)。そして、この膠着状態は候補地域の住民たちが全く予想してい なかった結果につながる。つまり、1990 年 7 月に政府はようやく「科学および産業技術発展基本計画」を まとめて最終案を発表するが、この内容はこれまでの計画をひっくり返し、テクノポリス計画の性格を根本 的に変えるものであった。 本計画によると、テクノポリス助成のための特別法の立法は中止となり、政府が主導していたテクノポリ ス計画は白紙に戻る。ただ、すでに団地の助成が進んでいる大徳研究団地と光州だけは国家団地として計画 を継続し、残りは地方団地として地方政府の主導で独自に行うこととした(東亜日報,p. 6, 1990/07/06;毎 日経済,p. 1, p. 3, 1990/07/06;京郷新聞,p. 7, 1990/07/06)。

(16)

その代わりに先端産業及び科学技術支援は個別企業による研究開発活動を財政および金融面で間接支援す る形になる(毎日経済,p. 3, 1990/07/06)。つまり、本政策は先端産業団地の助成を通じた地方発展政策か ら、先端技術能力の構築を目指す先端産業政策へと急変したわけである。この時点では政策目標として地方 発展は言及されず、もっぱら先端技術の確保だけが強調され、テクノポリスは実質的に大テ ド ク徳研究団地に絞ら れることになる。 テクノポリス政策の方向性が急変した直接の原因は商工部と科学技術処間の管轄権の争いにあり、ここに は 1990 年まで経済政策を経済省庁に一任した盧泰愚大統領の経済政策の管理方式も影響したようにみえる (鄭正佶 1992: 41)。ただ、より根本的な理由は両官庁の対立を調整しながらこれまでテクノポリス政策を地 方発展の手段としてアピールしてきた民主正義党の方針転換である。 なぜなら、先端産業発展を目指していかなる政策案が構想されるにしても、その政策には政府による支援 が必要なため、最終的な計画が発表されるまでに政府と与党は政策の在り方について議論を続けてきたから である。その議論の内容には、7 月の最終計画をまとめた先端技術産業発展委員会の役割や権限、構成も含 まれており(ハンギョレ,p. 2, 1990/05/14)、最終的な方針転換が与党の了解を得ずになされたとは考え難 い。 与党の方針転換のきっかけとなったのは 1990 年 1 月に行われた 3 党合同である。当初テクノポリスを地 方発展政策として位置づけたのは、多くの有権者にアピールするうえで一国単位の経済成長より地域間所得 格差の問題がより重要だったからである。ただ、1990 年 1 月に三つの保守系政党が合同して国会で過半数 を確保できたことによって、地域間所得格差の政党間競争の争点としての政治的価値は低下した(李 1994)。 なぜなら、当時韓国の政党は特定の地域を基盤としていたため、保守系 3 党の合同は西南地域を基盤とす る政党を除き、地域政党が一体になったことを意味するからである。その分、地域間所得格差という争点は 政党間の対立軸として意味が薄まり、その後、政府と与党はソウル、京畿、仁川などの浮動層によりアピー ルできる側面、つまり、経済成長を支える産業政策としてテクノポリス政策を再び位置づけ、団地の数を減 らしたと考えられる。 実際、第 6 共和国の経済政策を分析した研究は 3 党合同後与党の経済政策の方針が変わったことを指摘す る。つまり、1980 年代末の与小野大の時期に与党の経済政策決定者たちは中小企業と中産階級の支持を取 り入れるために階層間および地域間の均衡発展を重視する姿勢をとっていた。しかし、3 党合同後彼らはそ れまでの福祉と公平を目指す政策を放棄し、大手企業を中心とする経済成長の路線に戻ったわけである(李 1994: 259–262)。 その方針転換の背景には 1980 年代末からの景気悪化も存在する。つまり、1980 年代末からの労働コスト の増加を含め一連の再分配及び改革政策は製造業部門における労働生産性や輸出成長率に悪影響をもたら し、それらにも起因する景気悪化は再分配政策を求めていた中産階級そのものからも徐々に批判を招き始め る(李 1994: 260)。 したがって、経済成長を犠牲にする形での格差是正の努力が支持調達の戦略としてその魅力が少しずつ低 下していく中で、3 党合同は方針転換の決定的なきっかけとなったわけである。その後、政府と与党はより 多くの有権者の支持を調達するうえで再び経済成長を重視し、テクノポリス政策は福祉政策から先端産業政 策に位置づけが変わることになる26 26) 韓国のテクノポリスの数が日本より少なくなったことには、日本とは違って地方住民の意思を中央政府に持続的に 伝える基盤となる地方自治が進んでいなかったことも影響したと考えられる。ただ、地方分権改革前の日本におい ても知事の権限は限られ、地方議会議員の影響力も国会議員の選挙系列での活動と密接な関係にあった点で(打越 2005: 159–163)、政策決定過程の主導権はあくまでも中央政治家が握っていた。韓国に比べ日本の地方住民の意見 が中央政治家に届きやすかったのは確かであるが、当時韓国の国会議員が彼らの政治的生存を政党リーダーや政党

参照

関連したドキュメント

Customary international law as reflected in the 1982 LOS Convention provides that belligerent and neutral surface ships, submarines, and aircraft have a right of transit

笹川平和財団・海洋政策研究所では、持続可能な社会の実現に向けて必要な海洋政策に関する研究と して、2019 年度より

国連海洋法条約に規定される排他的経済水域(以降、EEZ

社会システムの変革 ……… P56 政策11 区市町村との連携強化 ……… P57 政策12 都庁の率先行動 ……… P57 政策13 世界諸都市等との連携強化 ……… P58

さらに体育・スポーツ政策の研究と実践に寄与 することを目的として、研究者を中心に運営され る日本体育・ スポーツ政策学会は、2007 年 12 月

 そこで,今回はさらに,日本銀行の金融政策変更に合わせて期間を以下 のサブ・ピリオドに分けた分析を試みた。量的緩和政策解除 (2006年3月

○福安政策調整担当課長 事務局から説明ですけれども、政策調整担当の福安でございま

EC における電気通信規制の法と政策(‑!‑...