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「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位 ─「春秋經」の正月卽位法の再検討に及ぶ ─

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全文

(1)

「原左氏傳」と清華簡「?年」における?世と?位 ─

「春秋經」の正月?位法の再検討に及ぶ ─

著者

吉永 慎二郎

雑誌名

集刊東洋学

117

ページ

1-23

発行年

2017-06-30

URL

http://hdl.handle.net/10097/00129931

(2)

1 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永)

﹁原左氏傳﹂と清華簡﹁繫年﹂における卽世と卽位

││

﹁春秋經﹂の正月卽位法の再検討に及ぶ

││

𠮷

慎二郎

周知のように﹃左傳﹄が﹁左氏經﹂の注釈として成立し 得ているのはその解経文 ︵杜預の云う変 例 ︶1 ︵ ︶ の存在に拠る。 ﹃ 左 傳 ﹄ か ら こ の 解 経 文 や 後 時 の 付 加 伝 文 を 除 い た 史 伝 文 を中心としたテキストをここに﹁原左氏 傳 ︶2 ︵ ﹂と称する。 本稿は﹁原左氏傳﹂と清華簡﹁繫 年 ︶3 ︵ ﹂における卽世と卽 位の用語と書法に注目して両テキストの関係を考察し、そ れ を 手 が か り に﹁ 春 秋 左 氏 經 ﹂︵ 以 下﹁ 春 秋 經 ﹂ と 称 す ︶ の踰年称元・正月卽位法の問題を検討し、これを﹁古本竹 書紀年﹂及び﹁今本竹書紀 年 ︶4 ︵ ﹂をも参照し、 特に﹁春秋經﹂ の正月卽位法の再検討に及ぶものである。 一│ ︵一︶   卽世について│祭祀的なる概念 ﹁ 繫 年 ﹂ で 注 目 さ れ る こ と の 第 一 は、 ﹁ A卽 世、 B卽 位 ﹂ という卽世と卽位を一対にして用いる書法が 14例と頻用さ れていることである。 一方、伝世文献ではこの﹁ A卽世、 B卽位﹂という一対 のタイプの書法は ﹁原左氏傳﹂ にのみ 1例見える。即ち ﹃左 傳﹄成公十三年に、 晉の呂相が秦に告げる外交の辞に﹁穆 ・ 襄卽世、康・靈卽位﹂とあるのがそれである。 この﹁卽世﹂の訓詁・解釈については、㈠﹁世を終ふ﹂ 、 ㈡﹁世に 卽 つ く﹂ 、の二説が行われており、 ﹃左氏會箋﹄には この二種の﹁卽世﹂の釈が看取し得る。 ㈠は、 ﹃左傳﹄成公十三年﹁無禄獻公 卽世 ﹂の會箋が﹁越 語﹃先人就世。 ﹄韋注﹃ 就世、終世也 。﹄ 就・卽同義 。就訓 爲成。成字、其終卒之義。故韋 以終世 釋 之 ﹂とし、又同昭 公二十六年﹁穆后及大子壽、早夭 卽世 。﹂の會箋が﹁ 卽世、 終世也 。﹂ とする例である。 ﹃國語﹄ 周語上に ﹁王卽齊宮 ︹王 齊宮に卽く︺ ﹂、周語中には﹁無卽 慆 淫︹ 慆 淫に卽く無し︺ ﹂ と あ り そ の 韋 昭 注 が﹁ 卽 は 就 な り ︶5 ︵ ﹂ と 釈 し て い る よ う に、 集刊東洋学 第一一七号 平成二十九年六月 一 −二三頁

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2 會箋の﹁就・卽は同義なり﹂は穏当な解釈と言えよう。 しかし、會箋が越語下の﹁先人就世、不卽位﹂の韋昭 注﹁ 就 世 は 終 世 な り ﹂ に よ り 就 を 成、 成 を 終 卒 の 義 と し、 以 て﹁ 卽 世 ﹂ を﹁ 終 世︹ 世 を 終 ふ ︺﹂ と 訓 ず る の は、 原 義 から離れるものとなろう。そもそも韋注が就を終とし﹁就 世、 終世也﹂とするのは、 秦漢の際の通釈的字書である﹃爾 雅﹄釋詁下が﹁求、 酋、 在、 卒、 就、 終 也 ︶6 ︵ ﹂とするように、 古 文 読 解 に 往 々 見 ら れ る 便 宜 的 通 釈 に よ る 訓 詁 と 言 え よ う ︶7 ︵ 。これを一義的に熟語の解釈に適用するのは誤読に至る 恐れなしとしない。もしこの會箋の訓詁によるならば、 ﹁卽 位﹂は﹁終位︹位を終ふ︺ ﹂の意味となるからである。 また﹁卽﹂の原義に﹁終﹂の意を求め得ぬことは、白川 静氏の次の字説を参考と為し得よう。 卽 皀 きゅう と 卩 せつ に従う。皀は 𣪘 、文献に見える 簋 き で盛食の 器。卩は跪坐する形で、その 食器の前に坐ること、席 に 卽 つ く こ と を い う。 ︹ 説 文 ︺ 五 下 に﹁ 食 に 卽 く な り ﹂ とあり、⋮。 金文の冊命形式をしるすものに﹁位に卽 く﹂ 、命を受けるときに﹁命に卽く﹂とい う ︶8 ︵ 。 に も か か わ ら ず﹁ 卽 世 は 終 世 な り。 ﹂ と の 解 釈 が 通 行 し てきたのは、 戦国末の伝世文献 ﹃韓非子﹄ 亡徵第十五の ﹁輕 其適正、 庶子稱衡、 太子未定、 而主 卽世者 、可亡也。 ﹂や﹁主 數 卽世 、嬰児爲君、大臣 專󠄂 制、樹羈旅以爲黨、數割地以待 交者、可亡 也 ︶9 ︵ 。﹂等の用例︵ ﹃國語﹄ ﹃左傳﹄ ﹃韓非子﹄以外 の戦国諸子には卽世の用例は見えない︶では、この便宜的 訓詁で本文理解に殆ど支障を生じないことによろう。 だ が、 ﹁ 繫 年 ﹂ に 頻 用 さ れ る﹁ A卽 世、 B卽 位 ﹂ の よ う に卽世と卽位が一対に用いられる文の理解では、この訓詁 は明らかに先のような矛盾を露呈するのであ る ︶10 ︵ 。 次 に ㈡ の 読 み は、 ﹃ 左 傳 ﹄ 昭 公 十 九 年﹁ 其 卽 世 者︹ 其 の 世に卽く者︺ ﹂の會箋が、 ﹁死則 入于一代二代之數 、故曰卽 世︹死すれば則ち一代二代の數に入る、故に世に卽くと曰 ふ︺ 。﹂と釈するものである。これは、例えば﹃國語﹄楚語 下 第 十 八 に 楚 の 昭 王 に 觀 射 父 が 対 え て、 ﹁ 古 は 民 神 雑 は ら ず、⋮。是れ神の處位・次主を制して、之が牲器・時服を 爲 つく らしめ、 而るのち先聖の後の光烈ありて、 能く山川の號、 髙祖の主、宗廟の事、昭穆の世 、⋮ を知りて明神を敬恭す る 者 を し て 以 て こ れ が 祝 た ら し む。 ﹂ の﹁ 世 ﹂ の 意 味 と 相 通 じ る も の で あ る。 つ ま り、 宗 廟 の 先 代 の﹁ 世 ﹂︵ 昭 穆 の 世代︶に﹁ 卽 つ く﹂こと、即ち﹁宗廟に祀られて先代となる ︵所謂亡き數に入る、鬼籍に入る︶ ﹂ことを意味するものと 解 さ れ る。 し た が っ て、 ﹁ 卽 世 ﹂ の﹁ 世 ﹂ は﹁ 祖 霊、 鬼 神 としての世代﹂の意味と解せられる。 白川静氏が﹁世﹂の﹁ 歺 がつ に従う字形は、世代の観念を含 めたものであろ う ︶11 ︵ ﹂ とするように、 ﹁繫年﹂ が ﹁卽世﹂ の ﹁世﹂

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3 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永) を︿ 歺 がつ ︵割れた骨︶偏に 枼 ﹀の字に作るのは、右のような 含意を示すものと言えよう。 さ れ ば、 ﹁ A卽 世、 B卽 位 ﹂ と は﹁ Aは︵ 先 代 と し て ︶ 世に卽き、 Bは︵嗣子として︶位に卽く﹂との対応関係と 為るものと解せられよう。 この点で、高木智見氏が金文の﹁世﹂の字︵ 歺 偏に 枼 の 字 を も 含 む ︶ の 考 察 を 踏 ま え、 ﹃ 左 傳 ﹄ の﹁ 卽 世 ﹂ に つ い て﹁ ﹁ 世 に つ く ﹂ と は、 具 体 的 に は 死 に よ っ て 始 祖 以 来 の 祖 先 の 系 譜 の 末 端 に 名 を 占 め る と い う こ と ︶12 ︵ ﹂ と す る の は、 至当の解釈と言えよう。 こ れ を 要 す る に、 ﹁ 卽 世 ﹂ の 本 来 の 意 味 は、 ㈠ の﹁ そ の 世 を 終 ふ る ﹂ こ と で は な く、 ㈡ の﹁ ︵ 宗 廟 の ︶ 先 代 と し て の世に 卽 つ く﹂ ことである。前者では ﹁世﹂ は ﹁この今の世﹂ の意味であり、後者では﹁世﹂は﹁ 宗廟の先代の昭穆の世 ︵鬼神の世︶ ﹂のことなのである。 この古語の誤解により㈠の釈が行われてきたのであった が、 清華簡﹁繫年﹂テキスト出現により改めて㈡の﹁卽世﹂ の原義︵古義︶が確認される事になったと言えよう。 一│ ︵二︶   ﹁原左氏傳﹂の卽位の事例       │祭祀における卽位 さ て、 こ の 宗 廟 の 先 代 と な っ た 立 場 か ら 嗣 子 の﹁ 卽 位 ﹂ について語るのが、次の﹁原左氏傳﹂の文である。 ① ︵左傳 ・ 昭二十五年︶ 冬。 ⋮。 十一月。 宋元公將爲公故、 如晉。 夢大子欒卽位於廟、 己與平公服而相之 。︵箋曰 ﹁服、 朝服也。 ﹂︶⋮。宋公 行。己亥。卒于曲棘。 宋の元公は、魯の昭公の為に晉に行かんとし途上に宋の 曲棘に卒する。その出発に当たり、宗廟において先君平公 と己が朝服︵尸の装束︶し先代として祭主である大子の卽 位を 相 たす けるのを ﹁夢﹂ に見たと云う ︵﹃左傳﹄ の多くの弑君 ・ 弑太子の例に見るように先君の意を反映した順当なる世襲 は当時の難事であった︶ 。ここに﹁卽位﹂は、 ﹁宗廟におい て先代を祀る祭主の位に卽く﹂ことである。 ﹁ 位 ﹂ と は﹁ 一 定 の 位 置 に 立 つ ﹂ の 義 で あ る こ と を 白 川 静氏の次の字説は明らかにするが、 ﹁繫年﹂ が﹁卽位﹂ を﹁位﹂ の初文を用い﹁卽 立 ﹂と表記することと符合する。 位 人 と 立 と に 従 う。 ︹ 説 文 ︺ 八 上 に﹁ 中 庭 の 左 右 に 列す。之を位と謂ふ﹂とし、 字を会意とする。 立とは、

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4 儀礼のとき、一定の位置に立つ形であるから、立が位 の初文 。⋮。 ︹諫 𣪘 ︺には﹁ 王、大室に 各 いた り、立︵位︶ に 卽 つ く ﹂のように、王の行為をいうこともあ る ︶13 ︵ 。 したがって、 元来 ﹁卽位﹂ は、 ﹁卽位哭 ︹位に卽きて哭す︺ ﹂ ︵ 左 傳・ 宣 十 八 年 ︶ の よ う に 礼 に 習 見 す る 用 語 で あ り、 先 の①の﹁大子欒の廟に卽位す﹂とは大子が﹁宗廟に於いて 祭主の位置に 卽 つ く﹂ことであると了解される。 このように、先代の﹁卽世﹂と嗣子の﹁卽位﹂とは相対 応して︿祭祀を通して君位を世襲すること﹀を意味し、祭 祀と政事とはここに一体として営まれている。 さて、この先代の卽世と嗣子の卽位が確認される祭祀の 場とは殯礼である。 周 知 の よ う に 殯 礼 は、 ﹃ 説 文 ﹄ 四 下 に﹁ 殯 は、 死 し て 棺 に在りて、將に葬柩に 遷󠄆 さんとし、之をす。歹賓に从 ふ、 は亦聲。夏后は胙階に殯し、 殷人は兩楹の閒に殯し、 周人は階に殯 す ︶14 ︵ ﹂と説くように、尸を棺におさめる大斂 を 経 て 賓 階︵ 周 の 場 合 ︶ で 為 さ れ る 喪 礼 で あ る。 ﹃ 禮 記 ﹄ 王制は ﹁ 天子七日にして殯し 、七月にして葬す。 諸侯五日 にして殯し 、五月にして葬す。 大夫・士・庶人三日にして 殯し 、三月にして葬 す ︶15 ︵ ﹂ と説いている。 ﹃禮記﹄ 喪大記に ﹁喪 有無後、無無主︹喪に後無きことあり、主無きこと 無し︺ ﹂ と言う如く、喪礼は必ず祭主を立て、それは先ずこの殯礼 において決する。故にこの殯礼の祭主となることが ﹁卽位﹂ に他ならな い ︶16 ︵ 。 次の例では、魯の定公は、先君昭公が晉の乾侯にて十二 月に客死し、 殯礼を行い得ぬ為に、 踰年しても卽位はなく、 昭公の喪︵尸︶が翌年の夏六月癸亥に魯に至り、その五日 後の戊辰の日の殯礼にて卽位したことを記す。 ② ︵左 傳 ・ 定元年︶ 六月。癸亥 。公之喪至自乾侯。 戊辰。 公卽位 。︵杜注 諸侯薨、五日而殯。殯則嗣子卽位。 ︶ 即ち先君の殯礼の祭主と為ることが卽位にほかならない。 次に諸侯の君位ではないが卿である孟孫氏の殯礼での卽 位事例が﹁原左氏傳﹂に見える。 ③ ︵左 傳 ・ 襄二十三年︶ 孟莊子疾。⋮ 。公鉏謂季孫曰、 ﹁孺 子 秩、 固 其 所 也。 若 羯 立 、 則 季 氏 信 有 力 於 臧 氏 矣。 ﹂ 弗 應。 己 卯。 孟 孫 卒 。 公 鉏 奉 羯、 立 于 戸 側 。 季 孫 至、 入哭而出、 曰、 ﹁秩焉在 。﹂ 公鉏曰、 ﹁羯在此矣 。﹂季孫 曰、 ﹁ 孺 子 長。 ﹂ 公 鉏 曰、 ﹁ 何 長 之 有。 唯 其 才 也。 且 夫 子之命也。 ﹂ 立 羯 。 秩奔 邾 。 孟孫が卒すると、 公の左宰の公鉏は孟孫の嗣子に介入し、

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5 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永) 嫡︵適︶長子の秩をさしおいて庶子の羯を殯礼の喪主の位 置 即 ち 戸 の 側 に 立 た し め︵ 杜 注﹁ 戸 の 側 は、 喪 主 な り ﹂︶ 、 喪賓の季孫に挨拶せしめた。これにより羯が孟孫の当主と 確 定 し て 卽 位 し︵ 羯 を 立 つ ︶、 一 方 秩 は 亡 命 し て い る。 や はり祭祀の﹁卽位﹂が政事のそれを決定すると言えよう。 このように﹁卽世﹂と﹁卽位﹂とは、本来は祭祀的なる 概念であることが知られるのである。 二│ ︵一︶   ﹁原左氏傳﹂における卽世 今﹁原左氏傳﹂における﹁卽世﹂の全ての用例を、網羅 的に示すと次のようになる。 ① ︵成 十 三 年 ︶ 夏 。 四 月。 戊 午。 晉 侯   呂 相 を し て 秦 に 絶 た し む。 曰 は く、 ﹁ 昔 我 が 獻 公 と 穆 公 と に 逮 び、 相 好 よ し、 ⋮。 無禄なる獻公 世に卽く 。 穆公 舊德を忘れず、 ⋮用て 我が文公を 集 な す。是れ穆の成なり。⋮。無禄な る 文 公 世 に 卽 く 。 穆   不 弔 を 爲 し、 我 が 君 を 蔑 死 し、 我が襄公を 寡とし、⋮。我が襄公未だ君の舊勲を忘れ ず。 而して社稷の 隕 お つるを懼る。 是を以て 殽 の師有り。 ⋮。 穆・襄 世に卽き 、 康・靈 位に卽く 。 康公は 我に之 れ自りて出ず。⋮。君亦た禍の 延 なが きを悔ひて、 而 すなは ち福 を先君獻・穆に徼めんと欲し、伯車をして來たりて 我 が 景 公 に 命 ぜ し む 。 曰 は く、 ﹃ 吾 れ 女 と 好 よしみ を 同 じ く し 惡を棄て、 復た舊德を脩め、 以て前勲を追念せん﹄と。 言誓未だ就かず、景公 世に卽く 。 我が寡君 是を以て令 狐 の 會 有 り。 ⋮﹂ と。 ︵ こ れ 以 下 の 本 稿 所 引 文 の 四 時 は□の囲みを付し四時記載法を明示。 ︶ ② ︵成十六年︶ 秋 。⋮。 曹人   晉に ひて、 曰はく、 ﹁我 が 先 君 宣 公 世 に 卽 き て 自 り、 國 人 曰 は く、 ﹃ 之 を 若 何 せん﹄と。憂ひ猶ほ未だ弭まず。而して又 我が寡君を 討ちて 、以て曹國社稷の鎭公子を亡す。⋮﹂と。 ③ ︵襄二十九年︶ 冬 。⋮。 裨諶 曰はく、 ﹁善の不善に代は るは天命なり。其れ焉くんぞ子産を辟けんや。⋮。子 西 世に卽けば 、將た焉くにかこれを辟けん。⋮﹂と。 ④ ︵昭 十 九 年 ︶ 冬 。 晉 人   幣 を 以 て 鄭 に 如 き、 駟 乞 の 立 つ故を問はしむ。駟氏懼る。⋮。 子産 待たずして客に 對 へ て、 曰 は く、 ﹁ ⋮。 若 し 寡 君 の 二 三 臣 に し て 其 の 世に卽く 者を、 晉の大夫にして專ら 其の位を制すれば 、 是れ晉の縣鄙なり。何の國を之れ爲さん﹂と。客の幣 を辭して其の使に報ず。晉人之を舍く。 ⑤ ︵昭二十六年︶ 冬 。⋮。十二月。癸未。王 莊宮に入る。 王子朝   諸侯に告げしめて 、曰はく、 ﹁昔武王殷に克ち、 成 王 四 方 を 靖 ん じ、 康 王 民 を 息 いこ へ、 母 弟 を 並 び 建 て、 以 て 周 を 蕃 屛 せ り ﹂ と。 亦 曰 は く、 ﹁ 吾 れ   文 武 の 功

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6 を 專 ら 享 く る 無 し。 ⋮。 昔 先 王 の 命 に 曰 は く、 ﹃ 王 后   無ければ則ち擇びて長を立つ。年鈞しければ德を以 てし、德鈞しければ則ち卜を以てす﹄と。王   愛する を立てず、公卿私無きは、古の制なり。穆后及び大子 壽、早に夭に 世に卽く 。單 ・ 劉、私を贊けて少を 立て 、 以て先王を間せり。亦た唯だ伯仲叔季、 之を圖れ﹂と。 このように﹁原左氏傳﹂の卽世は、③鄭の裨諶以外の例 では、 ①晉侯が呂相をして秦に絶交せしめる言、 ②曹人︵大 夫︶が晉に請う言、④鄭の子産が晉の大夫に対える言、⑤ 周の王子朝が諸侯に告げる言のように、いずれも外交的政 治的なフォーマルな言辞として記されている。 他方 ﹁原左氏傳﹂ の歴史記述文には周知のように ﹁卽世﹂ ではなく ﹁卒﹂ が習見し、 ﹁春秋經﹂ では ﹁卽世﹂ は皆無で、 やはり﹁卒﹂が習見す る ︶17 ︵ 。先述のように﹁卽世﹂が祭祀的 含 意 を 有 す る 用 語 で あ る の に 対 し て、 ﹁ 卒 ﹂ は 世 俗 的 実 務 的︵この世中心の︶用語で祭祀的含意は皆無である。 両 者 を 比 較 す る と、 ﹁ 世 に 卽 く ﹂ は﹁ 卒 しゅつ す︹ を は る ︺﹂ に比して、祭祀的含意を有し、フォーマルな外交的政治的 言辞として用いられている点などから、雅言︵丁重なる言 葉︶であると言えよう。 これは﹁卽世﹂↓﹁卒﹂という書法変遷の可能性を窺わ せるが、一方その逆の想定は困難であろうと考えられる。 二│ ︵二︶   ﹁原左氏傳﹂における当年卽位 ﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ は、 踰 年︵ 翌 年 ︶ 称 元 法︵ 會 箋 に 云 う﹁ 年 を踰えて元を改む﹂の原則︶による魯の十二公の紀年が縦 軸を為し、各年の四時︵春夏秋冬︶に列国の記事が言わば 横糸として配列されている。 ﹁原左氏傳﹂について、諸侯の﹁卽位﹂の様相をみると、 次 のように前君主の薨去︵卒︶を受けて︵その当年に︶直 ちに為されている。 ① ︵隱 三年︶ 八月。 庚辰。 宋の穆公卒す 。 殤公   位に 卽 く 。 ② ︵隱 四 年 ︶ 衞 人   公 子 晉 を 邢 に むか ふ。 冬 。 十 二 月。 宣 公   位に 卽 く 。 ③ ︵莊 六 年 ︶ 春 。 王 人   衞 を 救 ふ。 夏 。 衞 侯 入 る。 公 子 黔牟を周に放ち、甯跪を秦に放ち、左公子泄・右公子 職を 煞 ころ す。乃ち 位に卽く 。 ④ ︵莊 三 十 二 年 ︶ 八 月。 癸 亥。 公   路 寢 に 薨 ず 。 子 般 位 に卽く 。 黨氏に次す。 冬 。 十月。 己未。 共仲   圉人犖 をして 子般を黨氏に賊せしむ 。成季陳に奔る。 閔公を 立つ 。 ⑤ ︵文十四年︶ 子叔姫   齊 の昭公 に妃たり。 舍を生む。 ⋮。 夏 。五月。 昭公卒す 。 舍   位に卽く 。 ⑥ ︵襄 十 九 年 ︶ 夏 。 五 月。 壬 辰。 晦。 齊 の 靈 公 卒 す 。 莊

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7 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永) 公   位に卽く 。 このように当時の宋・衞・魯・齊の諸侯は前君主の薨去 及び卒後ほどなく卽位している。したがって当年卽位が当 時の諸侯の卽位の実態と知られる。 やや複雑なのは、亡命先から他国諸侯や国内大夫の擁立 により入国して卽位する晉の文公と悼公の例である。 ⑦ ︵僖 二 十 四 年 ︶ 廿 四 年。 春 。 ⋮。 二 月 。 甲 午。 晉 師 軍 于廬 柳 、秦伯使公子 縶 如晉師。⋮。 壬寅。公子入于晉 師 。 丙午。入于曲沃 。 丁未。 朝于武宮 。戊申 。使殺懷 公于 高 梁。 ⋮。呂・郤畏偪、將焚公宮而弑晉侯。寺人 被 見。 公 使 讓 之、 且 辭 焉。 曰、 ﹁ ⋮。 ﹂ 對 曰、 ﹁ 臣 謂 君之入也、 其知之矣。若猶未也、 又將及 。君命無二、 古之制也。除君之惡、唯力是視。 蒲人・狄人、余何有 焉。 今君 卽位 。其無蒲・狄乎。⋮。 ﹂公見之。以 告。 晉 の 文 公 重 耳 は 秦 伯 の 後 ろ 盾 で 二 月 壬 寅 に 晉 に 入 国 し、 四日後の丙午に曲沃に入り翌日武宮︵杜注﹁文公の祖、武 公 の 廟 な り ﹂︶ に 朝 し て 祖 霊 へ の 祭 祀 を 行 い そ の 祭 主 の 位 に 卽 き︵ 卽 位 し ︶、 そ の 翌 日 に 晉 君 と し て 命 じ て 懐 公 を 殺 させる。呂・郤氏らは畏れ公宮を焚いて文公を殺さんとす るが、かつて獻公・惠公に仕えて文公を殺さんとした寺人 披は、 ﹁今君卽位す﹂と今や文公に仕えんとする。その﹁卽 位﹂とは武宮での礼︵祭祀︶を指すものと解せられる。 ⑧ ︵成 十 八 年 ︶ 春 。 王。 正 月。 庚 申 。 晉 欒 書・ 中 行 偃 使 程 滑 弑 厲 公 、 葬 之 于 翼 東 門 之 外、 以 車 一 乘 。 使 荀 罃 ・ 士魴 周子于京師、而 立之 。生十四年矣。 大夫 于 淸 原。 ⋮。庚午。盟而入 。館于伯子同氏。辛巳。 朝于武 宮 。 不臣者七人 。 ⋮ 。 二月。乙酉。朔 。 晉悼公 卽位 于朝 。始命百官。 晉の厲公は大夫に弑せられ、悼公︵周子︶は十四歳にし て亡命先の京師からその大夫らに迎えられて入国し、正月 辛 巳 に 武 宮 に 朝 し︵ 祭 祀 的 卽 位 ︶、 そ の 五 日 目 の 二 月 一 日 に朝廷に卽位︵政事的卽位︶して百官に命を発した。武宮 に朝した後﹁臣たらざる者七人を逐ふ﹂たことは卽位︵祭 祀的卽位︶後の君権行使を意味している。朝廷での卽位は 先君の弑逆という政治的混乱を収束し、君位継承を百官に 宣明にする政事的儀礼で、祭祀の五日目に為されている。 これらの例では内乱含みの政治的要素が大きく作用して いるが、必ず祖廟への祭祀︵祭祀的卽位︶を踏んで卽位が なされている。その卽位法に特段の変化はなく、礼の規範 を 踏 ま え て︵ 先 君 の 殯 礼 に 代 わ る 祖 廟 へ の 祭 祀 を 踏 ん で ︶

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8 可及的迅速に為されている。したがってその実態は当年卽 位の原則に変更を齎すようなものではないと言えよう。 二│ ︵ 三︶   ﹁原左氏傳﹂ ﹁春秋經﹂の卽位と称元 さ て、 ﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ に お け る 魯 侯 の 紀 年 法 は、 こ の 卽 位 の後に踰年して正月を迎えた年を元年と称するもので、踰 年称元法である。これを卽位法と併せて﹁当年卽位・踰年 称 元 法 ﹂︵ 先 君 崩 御 ま た は 薨 去 の 年 を 当 年 と す る ︶ と 称 す ることができよう。 また、若しここに先君崩御または薨去の当年において卽 位 し 直 ち に 称 元 し た 場 合 は、 ﹁ 当 年 卽 位・ 当 年︵ 立 年 ︶ 称 元法﹂ と称することが出来よう ︵周知のように日本の大正 ・ 昭和・平成の改元はこの例となる︶ 。先の一│ ︵二︶②の魯 の定公の卽位は、先君昭公の薨去を魯に喪︵尸︶の至った 時点と名目的に看做して五日後に殯礼・卽位が為されてい る事に鑑みれば、当年卽位・当年称元の例と言えよう︵但 しこの一例に限られる︶ 。 こ れ に 対 し て、 ﹁ 春 秋 經 ﹂ の﹁ 元 年。 春。 王。 正 月。 公 卽 位。 ﹂ は、 先 君 崩 御 も し く は 薨 去 の 年 を 踰 え て 称 元 し そ の正月に卽位したとする。これは、 ﹁踰年称元 ・ 正月卽位法﹂ と称すべき卽位法である。 春秋期の諸侯の称元が歴史的実態として、踰年称元か或 いは当年称元かは、検討を要する問題であり、平㔟隆郎氏 による問題の指摘と年表の提示がなされてい る ︶18 ︵ 。 さて、この三者をここに列挙すると次のようになる。 甲 当年卽位・当年称元法     先君︵先王︶崩御又は 薨去の年に卽位し当年を元年と称す 乙 当年卽位・踰年称元法     先君︵先王︶崩御又は 薨去の年に卽位し踰年を元年と称す 丙 踰年称元・正月卽位法     先君︵先王︶崩御又は 薨去の踰年を元年とし正月に卽位す 甲・乙の場合は、 卽位↓元年 となり、共に当年卽位であ る。丙の場合は、 元年正月↓卽位 となり、踰年正月卽位で ある。 ﹁原左氏傳﹂は乙、 ﹁春秋經﹂は丙の書法に当たる。 三│ ︵一︶   ﹁繫年﹂における卽世と卽位 今﹁繫年﹂における卽世と卽位の用例を含む原文の書き 下し文を網羅的に記すと次のようになる︵本稿所引の﹁繋 年﹂の本文は﹃清華大學藏戰國竹簡︵貳︶ ﹄下冊の︻釋文︼ 一三六∼二〇〇頁の表記に拠り、釋文の括弧内に通釈字を 記すものはそれを用い、 ﹁卽立︵位︶ ﹂の場合のみ釋文と通 釈字を併記した。原文通り□は欠字、句読点は一部を改め

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9 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永) ている。また [   ]は 𠮷 永による注記及び推定の文である︶ 。 ① ︵第 一 章 ︶ 昔 周 の 武 王 ⋮。 厲 王 に 至 り、 厲 王 大 い に 周 に虐し、卿士・諸正・萬民厥の心に忍びず、乃ち厲王 を彘に歸す。共伯和 立つ 。十又四年。厲王   宣王を生 む。宣王 立︵位︶に卽く 。共伯和   宋に歸る。⋮。 ② ︵第 二 章 ︶ 周 の 幽 王   妻 を 西 申 に 取 り、 平 王 を 生 む。 王 或 ま た 褒 人 の 女 を 取 る、 是 れ 褒 姒 な り、 伯 盤 を 生 む。 褒姒   王に嬖せらる。王と伯盤と平王を逐ふ。平王西 申に走る。幽王師を起こし、平王を西申に圍む。申人 畀 あた へず。繒人乃ち西戎を降し、以て幽王を攻む。幽王 及び伯盤乃ち滅び、 周乃ち亡べり 。邦君諸正乃ち幽王 の弟余臣を 虢 に 立つ 。是れ攜の 惠王なり 。 立ちて 廿 又 一年、 晉の文侯仇乃ち惠王を 虢 に殺す 。周   王亡きこ と九年なり。邦君諸侯、ここに始めて周に朝せず。 晉 の文侯乃ち平王 を 少鄂に 逆 むか へ、 之を京師に 立つ 。三年。 乃ち東徙し、成周に止まる。晉人ここに始めて京師を 啓けり。 [﹁廿﹂は釈文のまま。 ] ③ ︵第 二 章 ︶ 鄭 の 武 公 亦 た 東 方 の 諸 侯 を 正 す。 武 公 世 に 卽き 、莊公 立 ︵位︶ に卽く 。莊公 世に卽き 、昭公 立 ︵位︶ に卽く 。其の大夫高之渠彌   昭公を殺す 、而して其の 弟の子眉壽を 立つ 。 齊の襄公   諸侯を首止に會し、子 眉 壽 を 殺 し、 高 之 渠 彌 を 車 轘 し、 改 め て 厲 公 を 立 つ 。 鄭以て始めて正し。⋮。 ④ ︵第 四 章 ︶ ⋮。 周 の 惠 王 立 ち て 十 又 七 年。 赤 翟 王 峁 𧆹𧆹唐 師 を 起 こ し、 衛 を 伐 ち、 大 い に 衛 師 を

敗 り、 幽 侯これに滅ぶ。翟遂に 衛 に居る。 衛 人乃ち東して河を 渉り、曹に遷り、ここに戴公申を 立つ 。公子啓方は齊 に奔る。戴公 卒す 。齊の桓公   諸侯を會し、以て楚丘 に城き、公子啓方をここに□[立つ] 。是れ文公なり。 文公 世に卽き 、成公 立︵位︶に卽く 。⋮。 ⑤ ︵第 六 章 ︶ 晉 の 獻 公 の 婢 妾 を 驪 姫 と 曰 ふ。 其 の 子 奚 齊 の君たるを欲するなり。乃ち 大子共君を讒して之を殺 す 。 或 ま た 惠公及び文公を讒す 。文公は 狄 に 奔り 、惠公 は梁に奔る。獻公 卒す 。乃ち奚齊を 立つ 。其の大夫里 之克乃ち 奚齊を殺して 、其の弟悼子を 立つ 。里之克又 悼 子 を 殺 す 。 秦 の 穆 公 乃 ち 惠 公 を 晉 に 内 る[ 入 る ]。 惠 公   秦 公 に 賂 し て 曰 は く、 ﹁ 我 れ 後 に 果 た し て 入 れ ば、君をして河を渉り、梁城に至らしめん﹂と。惠公 旣 に 入り 、乃ち秦公に背き、予へず。 立ちて 六年。秦 公   師を率ゐ、惠公と韓に戰ひ、惠公を止めて 以 ゐ て歸 る。⋮。秦の穆公乃ち文公を楚より召し、 懷 公の室を 襲はしむ。晉の惠公 卒す 。 懷 公 立︵位︶に卽く 。秦人   師を起こして以て文公を秦に 内る 。晉人   懷 公を殺し

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10 て 文公を 立つ 。⋮。 [以を特に﹁ 以 ゐ る﹂と読む時は﹁引き連れる ・ 率いる ・ 伴う﹂の 意 ︶19 ︵ 。以下同じ。 ] ⑥ ︵第九章︶ 晉の襄公 卒す 。靈公高   幼し、 大夫聚り謀り、 ⋮乃ち靈公を 立つ 。ここに襄公を葬る。 ⑦ ︵第十一章︶楚の穆王 立ちて 八年。⋮。穆王 世に卽き 、 莊王 立︵位︶に卽く 。⋮。 ⑧ ︵第 十 五 章 ︶ 楚 の 莊 王 立 つ や 、 呉 人   楚 に 服 す。 ⋮。 莊王 立ちて 十又五年。⋮。莊王 世に卽き 、共王 立︵位︶ に 卽 く 。 ⋮。 王   申 公 に 齊 に 聘 す る を 命 ず。 申 公 ⋮、 齊より遂に逃げて晉に適き、晉より呉に適く。ここに 始めて呉・晉の路を通じ、呉人に楚に叛くを教ふ。以 て靈王に至る。靈王   呉を伐ち、⋮、呉人ここに又楚 に 服 す。 靈 王 世 に 卽 き 、 景 平 王 立︵ 位 ︶ に 卽 く 。 ⋮。 景平王 世に卽き 、昭王 立︵位︶に卽く 。⋮。 ⑨ ︵第十六章︶ 楚の共王 立ちて 七年。 令尹子重   鄭を伐ち、 ⋮。晉の景公   諸侯を會して以て鄭を救ふ。⋮、共王   鄖 公をして晉に聘せしめ、且つ成を許す。景公   翟之 茷 をして楚に聘せしめ、且つ成を修めしむ。未だ還ら ずして、景公 卒す 。厲公 立︵位︶に卽く 。⋮。厲公亦 た禍せられて以て死し、後 亡 な し。 ⑩ ︵第 十 七 章 ︶ 晉 の 莊 平 公 立︵ 位 ︶ に 卽 く 。 元 年 。 公   諸侯に 湨 梁に會す。⋮。平公 立ちて 五年。晉亂る。欒 盈出でて齊に奔る。⋮。 ⑪ ︵第 十 八 章 ︶ 晉 の 莊 平 公 立 ち て 十 又 二 年、 楚 の 康 王 立 ちて 十又四年なり。⋮。康王 世に卽き 、孺子王 立︵位︶ に卽く 。靈王   令尹と爲る。令尹   趙文子及び諸侯の 大夫に會し、 虢 に盟ふ。孺子王 世に卽き 、 靈王 立︵位︶ に 卽 く 。 靈 王 先 ず 兵 を 起 こ し、 諸 侯 に 申 に 會 し、 ⋮。 靈王 禍せられ 、景平王 立︵ 位︶に卽くや 、晉の莊平公 世に卽き 、昭公・頃公皆早に 世し 、簡公 立︵位︶に卽 く 。景平王 世に卽き 、昭王 立︵位︶ に卽く 。⋮。晉と 呉と會して一と爲り、以て楚を伐ち、方城に 𨳮 もんせ む。遂 に諸侯に召陵に盟ひ、中山を伐つ。晉師大いに疫し 且 か つ飢ゑ人を食らふ。楚の昭王   伊・洛を侵し、以て方 城 の 師 に 復 す。 晉 人 且 つ は 范 氏 と 中 行 氏 と の 禍 有 り、 七 歲 甲を解かず。諸侯   鹹泉に同盟し、 以て晉に反す。 今に至るまで齊人以て晉に服せず、晉公以て弱し 。 ⑫ ︵第 十 九 章 ︶ 楚 の 靈 王 立 ち て 、 旣 に 陳・ 蔡 を 縣 と す。 景平王 立︵位︶に卽きて 、改めて陳 ・ 蔡の君を邦[封] じ、各の其の 邦に復せしむ。景平王 世に卽き 、昭王 立 ︵ 位 ︶ に 卽 く や 、 陳・ 蔡・ 胡、 楚 に 反 し、 呉 人 と 楚 を 伐つ。⋮。昭王 旣 に邦に復り、ここに胡に克ち、蔡を 圍む。昭王 世に卽く 。獻惠王 立ちて 十又一年。蔡の昭

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11 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永) 侯申懼れ、⋮。楚人ここに蔡を縣とす。   ⑬ ︵第 二 十 章 ︶ 晉 の 景 公 立 ち て 十 又 五 年。 申 公 屈 巫   晉 より呉に適く。ここに始めて呉・晉の路を通じ、二邦 好 よしみ を爲し、 以て晉の悼公に至る。悼公 立ちて 十又一年。 公   諸侯に會し、以て呉王壽夢と 虢 に 相 見 まみ ゆ。晉の簡 公 立 ち て 五 年。 呉 王 闔 盧 と 楚 を 伐 つ。 闔 盧 世 に 卽 き 、 夫差王 立︵位︶に卽く 。晉の簡公   諸侯に會し、以 て 夫 差 王 と 黄 池 に 相 見 ゆ。 越 公 句 踐   呉 に 克 つ。 越 人   呉の晉と好を爲すを因襲す 。晉の敬公 立ちて 十又一年。 趙桓子⋮。 晉 の幽公 立ちて 四年。 ⋮。 今に至るまで、 晉 ・ 越以て好を爲す 。 ⑭ ︵第 二 十 二 章 ︶ 楚 の 聲 桓 王 立︵ 位 ︶ に 卽 く 。 元 年 。 晉 公止   諸侯に任に會す。⋮。晉の 魏文侯斯   晉師を從 へ、晉師大いに齊師を敗る 。⋮。齊と晉と 成 たひら ぐ、齊侯   晉軍に盟ふ。 晉の三子の大夫   齊に入り、陳和と陳淏 とに 溋 門の外に盟ふ。曰はく、 ﹁長城を修むる毋かれ。 廩丘を伐つ毋かれ﹂ と。 晉公   齊の俘馘を周王に獻じ、 遂に齊侯貸 ・ 魯侯顯 ・ 宋公田 ・ 衛侯虔 ・ 鄭伯駘を 以 ゐ て、 周王に周に朝 す ︶20 ︵ 。 ⑮ ︵第二十三章︶ 楚の聲桓王 立ちて 四年。宋公田 ・ 鄭伯駘、 皆楚に朝す。⋮。聲王 世に卽き 、 悼哲王 立︵位︶ に卽 く 。⋮。 明 歲 、 ⋮。 明 歲 、 ⋮。 明 歲 、 ⋮。 厭年 、 韓取 ・ 魏 擊   師を率ゐて武陽を圍み、以て 郜 の師に復す。魯 陽公   師を率ゐて武陽を救ひ、晉師と武陽の城下に戰 ふ。 楚師大いに敗る。魯陽公・平夜悼武君・陽城桓定 君、 三執珪の君⋮これに死す 。楚人盡く其の旃 ・ 幕 ・ 車 ・ 兵を弃て、犬逸して還る。陳人ここに反って王子定を 陳に入る。楚邦以て城を 亡 うしな ふこと多し。 ⑯ ︵第 二 十 三 章 ︶ 楚 師 將 に 武 陽 を 救 は ん と す。 王   平 夜 悼武君に命じ、人をして齊の陳淏に師を求めしむ。陳 疾目   車千乘を率ゐ、 以て楚師に武陽に從ふ。 甲戌 。晉 ・ 楚、 以て戰ふ。 丙子 。齊師   嵒に至り、 遂に還る。 [網 掛け部は日干支で干支紀日法の使用を示す。 ] 以 上 の﹁ 繫 年 ﹂ の 本 文 に つ い て、 ま ず 注 目 さ れ る の は、 例えば⑩﹁晉莊平公 立︵位︶に卽く 。 元年 。﹂ 、⑭﹁楚聲桓 王 立︵ 位 ︶ に 卽 く 。 元 年 。﹂ 等 の 書 法 で あ る。 こ れ は 卽 位 ↓元年 を示し、先述の三種のうち甲﹁当年卽位・当年称元 法﹂又は乙﹁当年卽位 ・ 踰年称元法﹂の書法と理解される。 これをいずれかに特定し難いのは、 ﹁繫年﹂ には ﹁元年春﹂ の類の四時︵春夏秋冬︶記載法︵その使用の場合は明らか に踰年称元を示す︶が見えないからである。いずれにせよ ﹁繫年﹂の書法からは当年卽位であることが知られる。 次に、先君 Aと嗣君 Bとの関係を示す書法について検討

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12 すると、次のように整理される。 i   ﹁ A卽世、 B卽立︵位︶ ﹂の書法︵ 14例で楚王 9[⑦ ⑧ ⑪ ⑫ ⑮、 う ち 3例 は 平 王 か ら 昭 王 へ の 同 一 例 ]、 鄭君 2[③] 、晉君 1[⑪] 、衛 君 1[④] 、呉王 1[⑬] ︶  │   先述のように殯礼や宗廟︵祖廟︶の祭祀による ﹁ 君 位 の 世 襲 ﹂ を 示 す。 当 年 卽 位 と 解 さ れ る。 な お ﹁ A卽世﹂単独は⑫の昭王の 1例。 ii   ﹁ A卒。 B卽立 ︵位︶ ﹂ や ﹁ B卽立 ︵位︶ ﹂ の書法 ︵前 者は晉君の 2例[⑤⑨] 、後者は 5例で周王 1[①] 、 晉 君 1[ ⑩ ]、 楚 王 3[ ⑪ ⑫ ⑭ ]︶   │   祭 祀 及 び 政 事による﹁君位の世襲﹂を示す。当年卽位と解され る。 ﹁卽世﹂ と ﹁卒﹂ は二者択一的に用いられている。 なお﹁繫年﹂全体では﹁ A卒﹂は 8例︵晉君 6、 衛 君 1、宋君 1︶。 iii   ﹁︵ C︶ 立 B﹂ の 書 法︵ 9例 で 周 王 2[ ② ]、 鄭 君 2 [ ③ ]、 衛 君 1[ ④ ]、 晉 君 4[ ⑤ ⑥ ]︶   │   国 内 大 夫や他国諸侯 ︵ C︶ に ﹁擁立されて君位を世襲する﹂ ︵ 多 く 弑 君・ 弑 太 子 を 伴 う ︶ こ と を 示 す。 Cは 明 示 されないこともある。 iv   ﹁ B立 ﹂ の 書 法︵ 1例 で 周 王 即 ち 共 伯 和 の 例[ ① ]︶   │   世襲に限定されず﹁君位に立つ﹂を意味する。 v   こ の iii ivの 型 の﹁ 立 ﹂ を 書 せ ば﹁ 卽 立︵ 位 ︶﹂ を 重 ねて書するに及ばない。 ﹁立﹂の外延︵概念の範囲︶ は﹁ 卽 立︵ 位 ︶﹂ を 包 括 す る。 又﹁ 立 ﹂ は 政 治 性 が 強調された書法と言える。 vi   ﹁卽立︵位︶ ﹂を書して重ねて﹁立﹂を書する場合は ﹁立つや、立ちて﹂の意︵⑧楚莊王、⑫楚靈王︶で、 ﹁ 立 ○ ○ 年︵ 立 ち て ○ ○ 年 ︶﹂ [ ② ④ ⑤ ⑦ ∼ ⑬ ⑮ ] も 同じ。 vii   ﹁卽 立︵ 位 ︶﹂ を 書 し て 重 ね て﹁ 卽 立︵ 位 ︶﹂ を 書 す る場合は﹁卽位するや、 卽位して﹂の意︵⑪景平王、 ⑫楚景平王・昭王の例︶と解される。 ま た、 ﹁ 繫 年 ﹂ で は 第 二 十 三 章 に お い て 干 支 紀 日 法 が 用 いられている。一方四時記載法は見られない。 三│ ︵ 二︶   ﹁繫年﹂テキストの成書時期 ﹁ 繫 年 ﹂ テ キ ス ト の 成 書 時 期 に つ い て は、 二 十 三 章 に 見 える﹁楚悼王﹂の諡号が最後であることから、李 學 主編 ﹃清華大學藏戰國竹簡︵貳︶ ﹄﹁繫年﹂ ︻説明︼は﹁可知此篇 作於楚肅王或更晩的楚宣王之世、 和︽清華大學藏戰國竹簡︾ 第一輯所収的︽楚居︾時代大致相同。 ﹂︵一三五頁︶と肅王 遅くとも宣王の時代とし、 ﹁楚居﹂ と同時期とする。その ﹁楚 居﹂の年代は、李 學 主編同︵壹︶ ﹁楚居﹂ ︻注釋︼八〇に

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13 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永) ﹁肅王爲悼王子、 ︽楚居︾不記悼王子肅王之謚、該篇很可能 作於其在位時。 ﹂︵一九二頁︶と肅王期の可能性が高いとし ている。資料に即しての無理の無い推論と思われ る ︶21 ︵ 。 即ち﹁繫年﹂は﹁楚居﹂と同様に肅王期︵史記・六 國 年 表では前三八〇 ∼ 前三七〇年、平 㔟 年表では前三八五 ∼ 前 三七五 年 ︶22 ︵ ︶の作である可能性が高いとしてよいであろう。 さ て、 ﹁ 繫 年 ﹂ テ キ ス ト の 注 目 さ れ る 第 二 点 は、 第 一 章 の﹁ 乃 ち 厲 王 を 彘 に 歸 す。 共 伯 和 立 つ 。﹂ と の 共 伯 の 王 権 簒奪の記事である。 従来この事は伝世文献には明記が無く、 ﹃史記﹄ 十二諸侯年表序には ﹁太史公   春秋 ・ 曆譜諜を讀み、 周の厲王に至りて、未だ嘗て書を廢して歎ぜずんば非ざる な り ︶23 ︵ ﹂との記事があるものの、太史公の読んだ﹁春秋﹂と は何かが不明であった。一方、史記・周本紀は﹁召公・周 公、二相   政を行ふ、號して共和と曰ふ﹂と記す。この周 本紀の記事からすれば﹁太史公﹂が歎じた理由は全く理解 し 難 い。 ﹃ 左 傳 ﹄ 所 収﹁ 春 秋 左 氏 經 ﹂、 ﹃ 公 羊 傳 ﹄﹃ 穀 梁 傳 ﹄ とその所収﹁春秋經﹂にも周の厲王のことは記されていな い。但し﹃國語﹄周語上に﹁厲王虐なり。⋮。王を彘に流 す﹂ とし、 ﹃左傳﹄ 昭公二十六年には ﹁厲王は心   戻虐なり。 萬民忍びず。王を彘に居らしむ。諸侯   位を釋てて以て王 政に 間 たづさ はる。宣王   志有りて、 而る後に官を效す﹂と記す。 これらは史記・周本紀よりは踏み込んでいるが、基調は同 じで共伯和の簒奪︵自立︶には言及していない。 だが、 西晉の咸寧五年 ︵二七九年︶ 汲郡出土とされる ﹃汲 冢紀年﹄の輯佚・校補本である﹁古本竹書紀年﹂には﹁共 伯和、 王位を 干 をか す﹂と周本紀には無い記載がなされている。 従来これは孤証とされてきたが、この﹁繫年﹂の傍証によ り、共伯和による王位の簒奪を﹁太史公﹂が常に歎じてい たとの趣意が、ここに明らかとなったと言えよう。 夙に﹃墨子﹄明鬼下篇には﹁周の春秋﹂ ﹁燕の春秋﹂ ﹁宋 の春秋﹂ ﹁齊の春秋﹂についてその記事が引用されている。 戦国期に﹁魯の春秋﹂のみならず列国の﹁春秋﹂の行われ たことは否定し難い。されば、 太史公の読んだ﹁春秋﹂が、 ﹁周の春秋﹂ 或はこの ﹁繫年﹂ のような類の ﹁春秋 ︵史記︶ ﹂ という想定も可能性としては排除されないと言えよう。 こ こ に、 ﹁ 繫 年 ﹂ の 様 相 を そ の 第 一 章 か ら 第 七 章 ま で に ついて概観すると、第一章は、周の武王の功業、共伯和の 自 立︵ 簒 奪 ︶、 宣 王 の 卽 位 と 周 の 衰 退 を 記 す。 第 二 章 は、 周の幽王の失政と周の滅亡、諸侯の惠王擁立、晉の文侯の 惠王弑殺と文侯による平王の擁立及び東遷、そして晉の勃 興、鄭の武公の功業、鄭の莊公を経て昭公の高之渠彌によ る弑殺、齊の襄公による諸侯の会と鄭の乱の平定、楚の文 王の漢陽への経略を記す。第三章は、周の成王が旧殷の商 蓋の民を西に移しこれが秦の先人となったこと、周の東遷

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14 後に秦が周の墳墓を守り、秦が始めて大となったことを記 す。第四章は、成王による 衛 の康叔の封建とその後の赤翟 による 衛 の滅国、 齊 の桓公が諸侯を会して楚丘に城き 衛 の 文公を立てた功業と、又も翟に伐たれた 衛 が帝丘に遷るを 記す。第五章は、蔡侯と息侯の陳女息嬀をめぐる争い、楚 の文王による息の滅亡と文王が息嬀を 以 ゐ て帰り成王を生ん だこと、文王の北方経略を記す。第六章は、晉の獻公の妾 驪姫による後嗣をめぐる争い、秦の穆公による惠公の入晉 と卽位、惠公の背信による韓の戦い、そして晉の文公の諸 国亡命と秦の穆公による文公の入晉と卽位、秦・晉の 好 よしみ を 記す。第七章は、 晉の文公の城濮の戦による楚への勝利と、 文公が楚の俘馘を周王に献じ、踐土に諸侯の盟主となり覇 者の功業をとげたことを記す。 こ の よ う に 見 る と、 ﹁ 繫 年 ﹂ は 一 国 の 史 記︵ 春 秋 ︶ で は なく列国史の集成による﹁天下の史記﹂とも称すべき構成 となっていることが窺えよう。これに対比し得るのは﹁原 左氏傳﹂となろう。但し﹁繫年﹂には未だ四時記載法は無 く、それより古い史記︵春秋︶の形態と考えられる。 また第一章の共伯和の自立や第二章の晉文侯の平王擁立 の功業は﹁原左氏傳﹂には無いことも注目される。 更 に、 ﹁ 繫 年 ﹂ の 書 法 が﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ に 比 し て 一 次 資 料 に即した古樸さを示すと思われる要素は、楚王の呼称の問 題 で あ る。 ﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ や﹁ 春 秋 經 ﹂ で は﹁ 楚 王 ﹂ を 敢 え て﹁ 楚 子 ﹂ と 中 国 の 周 王 の 五 等 爵 の 第 四 位 を 以 て 呼 称 し、 中国の秩序に位置付けんと意図する政治的呼称︵一種のメ タ言語的呼称︶ が習用される。だが ﹁繫年﹂ は ﹁楚の文王﹂ ︵二、 五章︶に始まり、 ﹁穆王、 莊王﹂ ︵十一章︶ 、﹁莊王﹂ ︵十 二、 十三章︶ 、﹁莊王、 靈王、 景平王﹂ ︵十五章︶ 、﹁共王﹂ ︵十 六章︶ 、﹁康王、 孺子王、 靈王、 景平王、 昭王﹂ ︵十八章︶ 、﹁靈 王、景平王、昭王、獻 惠 王﹂ ︵十九章︶ 、﹁簡大王﹂ ︵二十一 章︶ 、﹁聲桓王﹂ ︵二十二章︶ 、﹁聲桓王、 悼哲王﹂ ︵二十三章︶ と記す。つまり﹁原左氏傳﹂や﹁春秋經﹂の﹁楚子﹂とい う メ タ 言 語 metalanguage 的 手 法︵ 対 象 に つ い て 記 述 す る 対象言語 object language に対し、対象言語の記述内容に記 述的操作を加える手法︶ではなく、実際の楚王の謚号を用 いている。この点にも﹁繫年﹂の先行性が窺えよ う ︶24 ︵ 。 次に﹁繫年﹂全体の叙述を概観すると、②の第二章の晉 の 文侯 の平王擁立の功業と、⑭の第二十二章の晉の魏 文侯 ︵ 共 に 文 侯 ︶ の 大 勝 に よ る 晉 の 勤 王 の 業 と、 ま た 引 用 文 に はないが第三章の ﹁周室既に卑し﹂ と、 ⑪の第十八章の ﹁晉 公以て弱し﹂の状況とは、ともに本末相呼応して三晉の勃 興に帰結している。 そして、⑪と⑬の波線部に見える﹁繋年﹂テキスト編者 の﹁今﹂とは、晉の弱体化と魏・趙・韓が周王より諸侯の

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15 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永) 命を受ける周の威烈王二十三年・晉の烈公十六年︵六國年 表、前四〇三年︶直前の状況を示している。また⑭の晉公 の周王への 齊 の俘馘の献上も魏文侯らの三晉の功で、清華 簡﹁ 繫 年 ﹂ 注 釋 十 六︵ 同 一 九 五 頁 ︶ が﹁ 晉 公 は 晉 の 烈 公、 此の時は當に是れ晉烈公の十六年なるべし。三晉   齊の俘 馘を獻ずるを以て名と 爲 し、周王に諸侯と 爲 すを命ずるを 要求す。 ﹂とするのは妥当な見解と言えよう。 さ れ ば、 ﹁ 繫 年 ﹂ テ キ ス ト は、 ⑭ の 第 二 十 二 章 ま で が 一 種の﹁天下の史記﹂として晉︵三晉︶の立場にて第一次成 書 し た 可 能 性 が 想 定 さ れ︵ 前 四 〇 〇 年 前 後 ︶25 ︵ ︶、 更 に 楚 の 記 事が中心になり干支紀日法を用い編年体にも近づいている 二十三章を含むテキスト全体の最終成立は、先述のように 楚王の諡号や﹁楚居﹂との相同性から肅王期と推定される のである。 ま た、 以 上 の 二 、 三 の 考 察 か ら﹁ 繫 年 ﹂ と﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ の記事や書法は、共に当年卽位において共通する。故に春 秋期の卽位の実態は当年 卽 位を原則とするものであると結 論し得る。 更に、 用語と書法等から見ると ﹁原左氏傳﹂ に比して ﹁繫 年﹂はより先行する可能性が想定されるのである。 四   ﹁春秋經﹂の踰年称元・正月卽位法 ここに﹁春秋經﹂と﹃左傳﹄の十二公の元年及びその薨 去年の当該記事を一覧にすると次のようになる︵経は太字 で記す。左 傳の ︿   ﹀部分は解経文を示す。 ︶ ① 隱 公 ︹ 経 ︺ 元 年 。 春 。 王 。 正 月 。 ⋮ 。 十 有 一 年 。 冬 。 十 有 一 月。 壬 辰 。 公 薨 。   ︹ 左 ︺ 生 桓 公 而 惠 公 薨 。 是 以 隱 公 立 而 奉 之。 元 年。 春 。 王。 周 正 月。 ︿ 不 書 卽 位、 摂 也。 ﹀ ⋮。 十 一 年。 十 一 月。 ⋮。 壬 辰 。 羽 父 使 賊 弑 公 于 寪 氏。 立桓公 。 ② 桓公 ︹経︺ 元年。 春 。王。 正月。公卽位 。   ⋮ 。十有 八 年。 夏 。 四 月。 丙 子 。 公 薨 于 齊 。  ︹ 左 ︺ 元 年。 春 。 公卽位 、脩好于鄭 。鄭人 復祀周公、卒易 祊 田。公許 之。 ⋮。 十八年。 ⋮。 夏 。 四月。 丙子 。 享公。 使公子 彭生 乘 公。 公薨 于車。 ③ 莊 公 ︹ 経 ︺ 元 年。 春 。 王。 正 月。 ⋮。 卅 有 二 年。 ⋮ 秋 。 八月。 癸亥 。 公薨 于路 寢 。 冬 。 十月。 己未 。 子般 卒 。  ︹ 左 ︺ 元 年。 春 。︿ 不 稱 卽 位、 文 姜 出 故 也。 ﹀ ⋮。 卅二年。 秋 。 ⋮。 八月。 癸亥 。 公薨 于路寢。 子般卽位 。 次于黨氏。 冬 。 十月。 己未 。 共仲使圉人犖 賊子般 于黨 氏。成季奔陳。 立閔公 。

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16 ④ 閔 公 ︹ 経 ︺ 元 年。 春 。 王。 正 月。 ⋮。 二 年。 ⋮。 秋 。 八 月。 辛 丑 。 公 薨 。  ︹ 左 ︺ 元 年。 春 。︿ 不 書 卽 位、 亂 故 也。 ﹀ ⋮。 二 年。 ⋮。 秋 。 八 月。 辛 丑 。 共 仲 使 卜 齮 賊公 于武 闈 。成季以僖公 邾 。共仲奔莒。 乃入 立之 。⋮。 成風⋮而 屬僖公焉 。故成季 立之 。 ⑤ 僖 公 ︹ 経 ︺ 元 年。 春 。 王。 正 月。 ⋮。 卅 有 三 年。 ⋮。 冬 。 ⋮。 十有二月。 公至自齊。 乙丑 。 公薨 于小 寢 。   ︹左︺ 元 年。 春 。︿ 不 稱 卽 位、 公 出 故 也。 ﹀ ⋮。 卅 三 年。 ⋮ 冬 。公如齊。朝且弔有狄師也。反、 薨 于小寢。 ⑥ 文公 ︹経︺ 元年。 春 。王。 正月。公卽位 。⋮。十有八 年。 春 。 王。 二 月。 丁 丑 。 公 薨 于 臺 下 。  ︹ 左 ︺ 元 年。 春 。 王使内史叔服来會葬。 ⋮ 。 十八年。 春 。 ⋮ 。 二月。 丁 丑 。 公 薨 。 ⋮。 夏 。 ⋮ 。 六 月。 葬 文 公。 秋 。 ⋮ 。 文 公 二 妃 敬 嬴 生 宣 公 。 ⋮ 。 宣 公 長 而 屬 諸 襄 仲 。 ⋮ 。 冬 。 十月。仲 殺 悪及視、而 立宣 公 ︶26 ︵ 。 ⑦ 宣公 ︹経︺ 元年。 春 。王。 正月。公卽位 。⋮。十有八 年。 冬 。 十月。 壬戌 。 公薨 于路 寢 。  ︹左︺ 元年。 春 。 王。 正月。 公子 如齊 女。 ⋮。 十八年。 ⋮ 。 秋 。 ⋮。 公 孫歸父以襄仲之立公也有寵、欲去三桓以張公室。與公 謀而聘于晉、 欲以晉人去之。 冬 。 公薨 。 季文子言於朝、 ⋮。 東門氏。 ⑧ 成公 ︹経︺ 元年。 春 。王。 正月。公卽位 。⋮。十有八 年。 ⋮ 秋 。 ⋮ 八 月。 ⋮。 己 丑 。 公 薨 于 路 寢 。   ︹ 左 ︺ 元 年 。 春 。 晉 侯 使 瑕 嘉 平 戎 于 王 。 ⋮ 。 十 八 年 。 ⋮ 秋 。 ⋮八月。 ⋮。 己丑 。 公薨 于路 寢 。 ⑨ 襄公 ︹経︺ 元年。 春 。王。 正月。公卽位 。 ⋮ 。卅有一 年。 ⋮。 夏 。 六 月。 辛 巳 。 公 薨 于 楚 宮。 ︹ 左 ︺ 元 年。   春 。 己亥 。 圍宋彭城。 ⋮。 卅一年。 ⋮。 夏 。 ⋮。 六月。 辛巳 。 公薨 于楚宮。⋮。 立 胡女敬歸之子 子野 。次于季 氏。 秋 。 九月。 癸巳 。 卒 。 毀也。 ⋮。 立 敬歸之娣齊歸 之子 公子 禂 。穆叔不欲。⋮。武子不聽。卒 立之 。 ⑩ 昭公 ︹経︺ 元年。 春 。王。 正月。公卽位 。⋮。卅有二 年。⋮。 冬 。十有二月。 己未 。 公薨 于乾侯 。  ︹左︺ 元 年。 春 。 楚公子圍聘于鄭。 ⋮。 卅二年。 春 。 王。 正月。 公在乾侯。⋮。 冬 。⋮。十二月。⋮。 己未 。 公薨 。 ⑪ 定公 ︹経︺ 元年。 春 。王。三月。晉人執宋仲幾于京師。 夏 。 六月。 癸亥 。 公之喪至自乾侯 。 戊辰 。 公卽位 。 ⋮。 十有五年。 ⋮。 夏 。 五月。 ⋮。 壬申 。 公薨 于高 寢 。  ︹左︺ 元年。 春 。 王。 正月。 辛巳 。 晉魏舒合諸侯之大夫于狄 泉。 將 以城成周。 ⋮ 。 夏 。 ⋮ 。 六月 。 癸亥 。 公之喪至 自 乾 侯 。 戊 辰 。 公 卽 位 。 ⋮ 。 十 五 年。 ⋮。 夏 。 五 月。 壬申 。 公薨 。 ⋮ 。 秋 。七月。 壬申 。姒氏卒。 ⋮。 ⑫ 哀公 ︹経︺ 元年。 春 。王。 正月。公卽位 。  ︹左︺ 元年。 春 。楚子圍蔡。

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17 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永) ﹁ 春 秋 經 ﹂ は﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ と 同 様 に 四 時 記 載 法 や 干 支 紀 日法 ︵波線部︶ を用い、 先君薨去の年を踰えて称元する ﹁踰 年称元﹂の書法である。 そ の 上 で、 ② 桓 公・ ⑥ 文 公・ ⑦ 宣 公・ ⑧ 成 公・ ⑨ 襄 公・ ⑩昭公・⑫哀公の七公の経の記事は、 ﹁正月卽位﹂を記す。 一方、① 隱 公 ・ ③莊公 ・ ④閔公 ・ ⑤僖公の経に﹁正月卽位﹂ の 記 事 は な く、 ﹃ 左 傳 ﹄ の 解 経 文 に 例 え ば ①﹁ 卽 位 を 書 せ ざ る は、 攝 な れ ば な り ﹂、 ③﹁ 卽 位 を 稱 せ ざ る は、 文 姜 出 ず る 故 な り ﹂ の よ う に、 正 月 卽 位 の﹁ 不 書 ﹂﹁ 不 稱 ﹂ の 理 由を記す。即ち、 これら解経文は経文における﹁正月卽位﹂ 記載の不履行の理由を説明し、逆にそれを経の原則として 改めて確認させるものとなっている︵本稿冒頭と注に記す 杜預の﹁変例﹂はこれらの解経文を指す︶ 。 したがって、 ﹁春秋經﹂は、 ﹁踰年称元・ 正月卽位法 ﹂を 桓公と文公以降 ︵定公を除く︶ の経文に於いて用いており、 これを経の書法の原則に立てんとするものと言えよう。 一方、 解経文を除く﹁原左氏傳﹂は踰年称元ではあるが、 ﹁ 經 ﹂ と は 対 照 的 に 魯 公 の 卽 位 に つ い て の﹁ 正 月 卽 位 ﹂ の 明記は皆無である。即ち、先の文に 隱 公は惠公末年に﹁隱 公立つ﹂ 、桓公は隱公十一年十一月に﹁桓公を立つ﹂ 、閔公 は 莊 公 三 十 二 年 十 月 に﹁ 閔 公 を 立 つ ﹂、 僖 公 は 閔 公 二 年 秋 に﹁ 之 を 立 つ ﹂、 宣 公 は 文 公 十 八 年 十 月 に﹁ 宣 公 を 立 つ ﹂、 昭公︵子 禂 ︶は襄公三十一年秋に﹁之を立つ﹂と、いずれ も先君薨去の当年に卽位したことを記している。また⑪定 公の場合も、 先述のように名目的な当年卽位と看做し得る。 さらに、桓公元年の左 傳 の﹁春。公卽位﹂については、桓 公は先述の如く隱公薨去の当年十一月に﹁桓公を立つ﹂と し て 卽 位 し て お り、 先 の﹁ 繫 年 ﹂ の 書 法 v vi viiに 鑑 み、 こ の 記 事 は﹁ 公   位 に 卽 く や 、 好 よしみ を 鄭 に 脩 む。 云 々﹂ と、 昨年末卽位以来の桓公の外交を示す文と解せられる。もと より﹁正月﹂は書されておらず﹁正月卽位﹂の表現ではな い。 こ れ を 要 す る に、 ﹃ 左 傳 ﹄ 所 収 の﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ の 魯 公 卽 位の記事も当年卽位を示すものと確認され、先の考察と併 せ考えると、やはり﹁繫年﹂や﹁原左氏傳﹂における当年 卽 位 が 春 秋 期 の 即 位 の 実 態 を 反 映 し て い る と 理 解 さ れ る。 これに対して ﹁春秋經﹂ と ﹃左傳﹄ の解経文は、 ﹁正月 卽 位﹂ という新たな原則を立てんとしていることがここに明らか となるのである。 五   ﹁古本竹書紀年﹂と﹁今本竹書紀年﹂の書法 先述の﹃汲冢紀年﹄は所謂竹書紀年であるが宋代に散逸 し、 そ の 輯 佚 本 が 淸・ 朱 右 曽 編﹃ 汲 冢 紀 年 存 真 ﹄ で あ り、

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18 その王国維による校補本が次に記す﹁古本竹書紀年﹂であ る ︶27 ︵ 。 まず、その﹁古本竹書紀年﹂より 卽 位・称元に関する主 な記事を摘記すると次のようになる。 ① 昌 意 ⋮。 黃 帝 死 七 年。 其 臣 左 徹 乃 立 顓 頊。 ⋮。 帝 堯。 元年。 丙子 。⋮。 ︵ 年干支 ︶  ② 夏后氏。禹。⋮。禹 立 四十五年。啓。⋮益干啓位、啓 殺之。 ⋮。 相。 后相 卽位 。 居商邱。 元年 。 征淮夷畎夷。 二年。⋮。后荒 卽位 。元年 。以玄圭 于河。⋮。后發 卽位 。元年 。諸夷 于王門。⋮ 。︵ 卽位↓元年 ︶ ③ 商。 ⋮。 仲丁 卽位 。 元年 。 自亳遷于囂。 征于藍夷。 ⋮。 ︵ 卽位↓元年 ︶ ④ 周。武王。十一年。 庚寅 。周始伐商。⋮。武王年五十 四。 成 王。 康 王。 六 年。 齊 太 公 望 卒。 ⋮。 昭 王。 ⋮。 昭王末年。⋮、王南巡不返。 穆王。元年 。⋮。三十七 年。伐越、大起九師。⋮。共王。 懿王。元年 。⋮。孝 王。 七 年。 冬 。 大 雨 雹、 ⋮。 夷 王。 二 年。 ⋮。 七 年。 冬 。雨雹、 大如礪。厲王。⋮。共伯和 干王位 。共和十 四 年。 大 旱、 火 焚 其 屋。 伯 和 簒 位、 立。 秋 。 又 大 旱。 其年周厲王死。宣王 立 。⋮。 ︵ 四時 記載法 、年干支 ︶ ⑤ 魏。武侯十一年。城洛陽及安邑王垣。⋮。惠成王伐 ⋮。六年。四月。 甲寅 。徙都于大梁。⋮。 ︵ 日干支 ︶ ﹁ 古 本 竹 書 紀 年 ﹂ で は、 ② ③ の 記 事 の 語 順 に 明 ら か な よ うに卽位して然る後に元年を称し、更に④では四時記載法 を用いる。つまり︿当年卽位﹀し、その上で当年若しくは 踰年に称元したとする書法︵ 卽位↓元年 ︶である。① ∼ ③ では当年称元か踰年称元かは明らかではないが、④の四時 記載法に拠る記事の存在を見ると、周以後は踰年称元法を 用いているものと解される。また﹁繫年﹂ ﹁原左氏傳﹂ ﹁春 秋經﹂と同じ干支紀日法︵波線部︶に、新たに干支紀年法 ︵①④の太傍線部の二例︶を用いてい る ︶28 ︵ 。 次に、同じ竹書紀年テキストを称するものの、明代の偽 書とされる﹁今本竹書紀 年 ︶29 ︵ ﹂について、 同様に摘記すると、 次のようになる。 ① 黃帝軒轅氏。 元年。 帝 卽位 。 ⋮。 帝顓頊高陽氏。 元年。 帝 卽位 。⋮。帝 嚳 高辛氏。 元年。帝 卽位 。⋮。帝堯陶 唐氏。 元年。 丙子 。 帝 卽位 。 ⋮。 ︵ 元年↓卽位、 年干支 ︶ ② 帝 禹 夏 后 氏。 元 年。 壬 子 。 帝 卽 位 。 ⋮。 帝 啓。 元 年。 癸亥 。帝 卽位 于夏邑 。⋮。 ︵ 元年↓卽位、年干支 ︶ ③ 殷 商 成 湯。 十 八 年。 癸 亥 。 王 卽 位 。 ⋮。 外 丙。 元 年。 乙亥 。 卽位 。⋮。盤庚。 元年。 丙寅 。王 卽位 。⋮。帝

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19 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永) 辛。 元年。 己亥 。王 卽位 。⋮。 ︵ 元年↓卽位、年干支 ︶ ④ 周武王。 ⋮。 十七年。 命王世子誦于東宮。 冬 。 十有二 月。 王 陟。 年 五 十 四。 成 王。 元 年。 丁 酉 。 春 。 正 月。 王 卽位 。命冢宰周文公 總 百官。 庚午 。周公誥諸侯于皇 門。 夏 。 六月。 葬武王于畢。 ⋮。 三十七年。 夏 。 四月。 乙丑 。 王陟。 康王。 元年。 甲戌 。 春 。 正月。 王 卽位 。 ⋮。 厲王。 元年。 戊申 。 春 。 正月。 王 卽位 。 ⋮。 二十六年。 大 旱。 王 陟 于 彘。 ⋮。 共 伯 和 歸 其 國。 大 雨。 宣 王。 元年。 甲戌 。 春 。 正月。 王 卽位 。 周定公 ・ 召穆公輔政。 ⋮。 四 十 六 年。 王 陟。 ⋮。 ︵ 元 年 正 月 ↓ 卽 位、 四 時 記 載法、年干支、日干支 ︶ ﹁ 今 本 竹 書 紀 年 ﹂ が﹁ 古 本 竹 書 紀 年 ﹂ と 異 な る の は、 一 貫する︿ 元年↓卽位 ﹀の書法である。特に④の周の記事で は明らかに ﹁春秋經﹂ と同軌の踰年称元 ・ 正月卽位法によっ て記事が書かれていることが知られる。 六   ﹁繫年﹂ ﹁原左氏傳﹂ ﹁春秋 經 ︵春秋左氏 經 ︶﹂ ﹁古 本竹書紀年﹂及び﹁今本竹書紀年﹂における用 語と書法の比較 ここに各テキストの書法における、 I卽世 、 II踰年称元、 III当年卽位、 IV踰年正月卽位、 V四時、 VI干支紀日、 VII干 支紀年、の有無を一覧にして示すと次のようになる。          I   II   III   IV   V   VI   VII 繫年        ○   △   ○        ○ 原左氏 傳      ○   ○   ○      ○   ○    春秋經         ○      ○   ○   ○   古本竹書紀年      ○   ○      ○   ○   ○ 今本竹書紀年      ○      ○   ○   ○   ○     ︵繫年が踰年称元か当年称元かは確定し難いので△︶ このように﹁繫年﹂と﹁原左氏傳﹂と﹁古本竹書紀年﹂ は当年卽位で共通し、書法の類縁性と発展性が窺え る ︶30 ︵ 。こ れに対して、 ﹁春秋經﹂の踰年正月卽位は偽書とされる﹁今 本竹書紀年﹂とのみ共通し、干支紀年を除けば両者は同一 の様相となる。そこに﹁春秋經﹂を権威とする後世の経学 的思惟により﹁今本竹書紀年﹂が作為されたことが看取さ れよう。 七   結びとして 以上の出土資料を介しての考察から浮かび上がるのは、

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20 x   ﹁繫年﹂│﹁原左氏傳﹂ │﹁古本竹書紀年﹂ y   ﹁春秋經﹂ │﹁今本竹書紀年﹂ というテキストの時系列的及び類縁的關係である。 こ の xの 系 列 で は、 ﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ と﹁ 繫 年 ﹂ の 卽 世 と 卽 位 等 の 検 討 を 通 し て、 先 君 崩 御・ 薨 去 の 年 の︿ 当 年 卽 位 ﹀ が春秋期の卽位の実態であったことが明らかにされた。 一方 yの系列では、 ﹁春秋經﹂の﹁元年。春。王の正月。 公   位に卽く﹂という踰年の︿正月卽位﹀の書法で共通す る が、 そ の 春 秋 期 の 実 態 と し て の 裏 付 け は、 ﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ にも、出土資料﹁繫年﹂ ﹁古本竹書紀年﹂にも求め得ない。 つまり、この﹁春秋經﹂の正月卽位法は﹁ 經 ﹂とその解 経文においてのみ論ぜられているものと言える。そしてそ の ﹁春秋經﹂ と相対応するのが偽書である ﹁今本竹書紀年﹂ であるという構図が、ここに明らかとなったのである。   注 ︵ 1︶   杜 預 は そ の﹃ 春 秋 經 傳 集 解 ﹄︵ 十 三 經 注 疏﹃ 重 栞 宋 本 左 傳 注 疏 附 挍 勘 記 ﹄ 本 所 収 ︶ の﹁ 春 秋 序 ﹂ に お い て﹁ 其 微 顯 闡 幽、 栽 成 義 類 者、 皆 據 舊 例 而 發 義、 指 行 事 以 正 褒 貶。 諸 稱書不書先書故書不言不稱書曰之類、 皆所以起新舊發大義、 謂 之 變 例。 ︹ 其 の 顯 な る を 微 に し 幽 な る を 闡 か に し て、 義 類 を 栽 成 す る 者 は、 皆 舊 例 に 據 り て 義 を 發 し、 行 事 を 指 し て 以 て 褒 貶 を 正 す。 諸 の﹁ 書 ﹂﹁ 不 書 ﹂﹁ 先 書 ﹂﹁ 故 書 ﹂﹁ 不 言 ﹂﹁ 不 稱 ﹂﹁ 書 曰 ﹂ を 稱 す る の 類 は、 皆 新 舊 を 起 こ し 大 義 を 發 す る 所 以 な り、 之 を 變 例 と 謂 ふ。 ︺﹂ ︵ 句 点・ 括 弧・ 書 き 下 し 文 は 𠮷 永 ︶ と 述 べ て い る。 こ の 経 文 を 具 体 的 に 指 し 或 は 引 用 し て 説 明 す る 伝 文 の 類 を 杜 預 は 変 例 と 称 す る。 こ れ が こ こ に 言 う 解 経 文 で あ る。 な お、 解 経 文 を 劉 歆 に 由 る と す る 劉 逢 祿 の 説 の 不 可 な る こ と は、 鎌 田 正﹃ 左 傳 の 成 立 と其の展開﹄ ︵昭和三十八年、 大修館書店︶ が詳論している。 ︵ 2︶   筆 者 は こ の﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ よ り、 春 秋 左 氏 経 が 抽 出・ 編 作 の 手 法 に 拠 り︵ 他 史 料 の 援 用 も 含 め て ︶ 制 作 さ れ た と の 体 系 的 な 仮 説 を 提 起 し て い る。 詳 し く は 拙 著﹃ 戰 國 思 想 史 研 究 │ 儒 家 と 墨 家 の 思 想 史 的 交 渉 │ ﹄ 第 二 部 第 二 章﹁ ﹃ 左 傳 ﹄ の 資 料 的 性 格 ﹂︵ 平 成 十 六 年︵ 2004 ︶ 五 月、 朋 友 書 店 ︶、 拙 稿﹁ ﹁ 春 秋 左 氏 経 ﹂ の﹁ 原 左 氏 伝 ﹂ か ら の 抽 出・ 編 作 と そ の 成 立 過 程 に つ い て │ 隠 公 期﹁ 春 秋 左 氏 経 ﹂ 抽 出 編 作 挙 例 及 び﹁ 卒 ﹂ の 記 事 を 中 心 に │ ﹂︵ ﹃ 秋 田 大 学 教 育 文 化 学 部 研 究 紀 要   人 文・ 社 会 科 学 ﹄ 第 64集、 平 成 二 十 一 年︵ 2009 ︶ 三月︶ 、 拙稿﹁春秋左氏経 ・ 伝の﹁卒﹂記事の﹁名﹂と﹁謚﹂ に つ い て │ 作 経 原 則 と し て の﹁ 名 ﹂ │ ﹂︵ ﹃ 中 国 研 究 集 刊 ﹄ 玉 号︵ 総 60号 ︶、 平 成 二 十 二 年︵ 2010 ︶ 一 月 ︶、 拙 稿﹁ ﹁ 春 秋 左 氏 經 ﹂ の 作 経 メ カ ニ ズ ム に つ い て の 考 察︵ 一 ︶ │ 哀 公 期﹁ 左 氏 経 ﹂ の﹁ 原 左 氏 伝 ﹂ か ら の 抽 出・ 編 作 挙 例 と そ の 分 析 を 中 心 に │ ﹂︵ 前 掲 紀 要 第 66集、 平 成 二 十 三 年︵ 2011 ︶ 三 月 ︶、 拙 稿﹁ 春 秋 経︵ 左 氏 経 ︶ の 作 経 メ カ ニ ズ ム に つ い て の 考 察︵ 二 ︶ │ 昭 公 期﹁ 左 氏 経 ﹂ の﹁ 原 左 氏 伝 ﹂ か ら の 抽 出・ 編 作 挙 例 と そ の 分 析 よ り │ ﹂︵ 前 掲 紀 要 第 67集、 平

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21 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位(𠮷永) 成 二 十 四 年︵ 2012 ︶ 三 月 ︶、 拙 稿﹁ 対 于 春 秋 経︵ 左 氏 経 ︶ 的作経機構考察 ︵三︶ │在定公期 ﹁左氏経﹂ 従 ﹁原左氏伝﹂ 抽 出・ 編 作 的 挙 例 和 其 分 析 │ ﹂︵ 國 立 臺 灣 大 學﹃ 經 學 與 文 學 國 際 學 術 研 討 會   會 議 論 文 集 ﹄、 平 成 二 十 四 年︵ 2012 ︶ 三 月 ︶、 拙 稿﹁ 春 秋 経︵ 左 氏 経 ︶ の 作 経 メ カ ニ ズ ム に つ い て の 考 察︵ 四 ︶ │ 文 公 期﹁ 左 氏 経 ﹂ の﹁ 原 左 氏 伝 ﹂ か ら の 抽 出・ 編 作 挙 例 と そ の 分 析 よ り │ ﹂︵ 前 掲 紀 要 第 68集、 平 成 二 十 五 年︵ 2013 ︶ 三 月 ︶ 等 参 照。 又 科 研 報 告・ 拙 稿﹃ 春 秋 左 氏 経 文 の 原 春 秋 左 氏 伝 か ら の 抽 出・ 編 作 と そ の 作 経 メ カ ニ ズ ム の 研 究︵ 上 ︶﹄ ︵ 平 成 二 十 五︵ 2013 ︶ 年 三 月、 私 家 版、 秋 田 活 版 ㈱ 印 行、 全 124頁 ︶、 拙 稿﹃ 同︵ 中 ︶﹄ ︵ 平 成 二 十六年︵ 2014 ︶九月、 同上、 全 130頁︶ 、 拙稿﹃同︵下︶ ﹄︵平 成 二 十 七 年︵ 2015 ︶ 十 月、 同 上、 全 192頁 ︶ が あ る。 こ れ ら に て﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ か ら の 抽 出・ 編 作 に よ る﹁ 經 ﹂ 制 作 の メ カニズムを解明し、 ﹁原左氏傳﹂の成立を前三六五年頃、 ﹁春 秋左氏經﹂の成立を前三五一年頃との見解を提示した。   な お、 本 稿 所 引 の﹃ 左 傳 ﹄ は 竹 添 進 一 郎 編﹃ 左 氏 會 箋 ﹄ 三十巻︵御府舊抄巻子金澤文庫本、 明治四十四年、 冨山房、 漢 文 大 系 第 十・ 十 一 巻 ︶ 本 を 底 本 と す る。 句 点・ 括 弧・ 書 き 下 し 文 等 は、 こ れ を 参 照 し つ つ 𠮷 永 に よ る。 用 字 は 底 本 表記を基本とするが一部に常用字表記も用いる。 ︵ 3︶   本 稿 所 引 の﹁ 繫 年 ﹂ は 清 華 大 學 出 土 文 獻 研 究 與 保 護 中 心 編、 李學主編﹃清華大學藏戰國竹簡︵貳︶ ﹄︵二〇一一年、 上海中西書局︶による。書き下し文・傍線等は 𠮷 永。 ︵ 4︶   ﹁ 古 本 竹 書 紀 年 ﹂ は 淸 朱 右 曽 輯 録・ 王 國 維 校 補﹃ 古 本 竹 書 紀 年 輯 校 ﹄︵ 四 部 刊 要 世 界 文 庫、 中 華 民 國 四 六 年 ︶、 ﹁ 今 本 竹 書 紀 年 ﹂ は 梁 沈 約 附 註・ 明 范 欽 訂﹃ 竹 書 紀 年 ﹄︵ 上 海 商務印書館縮印天一閣刊本、四部叢刊初編所収︶による。 ︵ 5︶   本 稿 所 引 の﹃ 國 語 ﹄ は 上 海 商 務 印 書 館 縮 印 杭 州 葉 氏 蔵 明 刊本 ﹃國語﹄ 二十一巻 ︵四部叢刊初編所収︶ による。句点 ・ 書き下し文は 𠮷 永。以下同じ。 ︵ 6︶   ﹃ 爾 雅 ﹄ は 十 三 經 注 疏﹃ 重 栞 宋 本 爾 雅 注 疏 附 挍 勘 記 ﹄ 本 による。句点は 𠮷 永。 ︵ 7︶   ﹃ 爾 雅 ﹄ は﹁ 詁 訓 の 指 歸 を 通 ず る ﹂︵ 郭 璞﹁ 爾 雅 序 ﹂︶ も の で、 ﹁ 19編 か ら 成 り、 初 め の 釈 詁・ 釈 言・ 釈 訓 は、 古 典 の 中 か ら、 動 詞・ 形 容 詞・ 代 名 詞 な ど、 そ れ ぞ れ 類 義 語 を 並べて、 最後に。普通の言葉で解説する。 ﹂︵阿頼耶順宏 ﹁爾 雅 ﹂ 日 原 利 国 編﹃ 中 国 思 想 辞 典 ﹄ 162頁、 研 文 出 版、 一 九 八 四 年 ︶ と い う も の で、 古 典︵ 詩・ 書 等 ︶ の 類 義 語 を 当 代 通 用 の 語 を 以 て 通 釈 す る と い う 手 法 を 取 っ て い る。 類 義 語 の 共 通 性 を 当 代 通 用 の 語 に よ り 把 握 す る に は 便 利 だ が、 こ れ を 以 て 類 義 語 相 互 に お け る 及 び 類 義 語 と 当 代 通 用 の 語 に お け る 語 彙 が 全 く 同 義 と は 必 ず し も な ら な い こ と は 自 明 で あ る。 ﹁就世、終世也﹂を便宜的通釈と称する所以である。 ︵ 8︶   白川静 ﹃字統﹄ ︵一九八四年、 平凡社︶ 五五三頁。なお ﹃字 統﹄原文のルビの一部は省略に従う。以下同じ。 ︵ 9︶   ﹃ 韓 非 子 ﹄ は 上 海 商 務 印 書 館 縮 印 宋 鈔 本﹃ 韓 非 子 ﹄ 二 十 巻︵四部叢刊初編所収︶による。句点・傍線は 𠮷 永。 ︵ 10︶   浅 野 裕 一﹁ 史 書 と し て の 清 華 簡﹃ 繫 年 ﹄ の 性 格 ﹂︵ 浅 野 裕 一・ 小 沢 賢 二﹃ 出 土 文 献 か ら 見 た 古 史 と 儒 家 経 典 ﹄ 二 〇

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22 一二年、 汲古書院︶は、 ﹁武公は 世を 即 え 、 荘公即位す﹂ ︵同 六 二 頁 ︶ と 読 む。 ま た 廖 名 春﹁ 清 華 簡︽ 繫 年 ︾ 管 窺 ﹂︵ ﹃ 深 圳 大 学 学 報 ﹄ 第 二 九 巻 3期、 二 〇 一 二 年 ︶ は、 ﹁﹃ 即 世 ﹄ 当 讀為﹃既 殜 ﹄、 也就是﹃既歿﹄ ﹂とし﹁ ︽漢語大詞典︾解﹃就 世 ﹄ 為﹃ 猶 言 逝 世。 就、 終 ﹄、 也 有 欠 准 确 ﹂ と、 ﹁ 終 世 ﹂ の 釈 は 正 確 で は な い と し つ つ も、 ﹁ 即 世 ﹂ を﹁ 既 歿 ﹂ と 釈 す る︵傍線は皆 𠮷 永︶ 。いずれも確訳とはし難い。 ︵ 11︶   白川静前掲書四九二頁。 ︵ 12︶ 高 木 智 見﹃ 先 秦 の 社 会 と 思 想 ﹄︵ 二 〇 〇 一 年、 創 文 社 ︶ 一二九頁。   ︵ 13︶   白川静前掲書十五頁。 ︵ 14︶   ﹃ 説 文 ﹄ は﹃ 説 文 解 字 注 ﹄ 本︵ 中 華 民 国 五 十 九 年、 藝 文 印書舘︶による。句点・書き下し文は 𠮷 永。 ︵ 15︶   本 稿 所 引 の﹃ 禮 記 ﹄ は 十 三 經 注 疏﹃ 重 栞 宋 本 禮 記 注 疏 附 挍 勘 記 ﹄ 本︵ 嘉 慶 二 十 年、 江 西 南 昌 府 學 開 彫 ︶ に よ る。 句 点・書き下し文は 𠮷 永。以下同じ。 ︵ 16︶   尾 形 勇﹁ 中 国 の 即 位 儀 礼 ﹂ は﹁ 唐 代 の﹁ 伝 位 ﹂ の ば あ い に は﹁ 柩 前 即 位 ﹂ が 通 例 で あ っ た。 ⋮。 す な わ ち、 七 日 間 の﹁ 殯 ﹂ の 期 間 中 に 殯 所︵ お お む ね 柩 が 移 置 さ れ た 太 極 殿 ︶ に お い て 新 皇 帝 は 即 位 し た の で あ る。 ﹂︵ 井 上 光 貞 編 ﹃ 東 ア ジ ア に お け る 儀 礼 と 国 家 ﹄ 二 五 頁、 一 九 八 二 年、 学 生 社 ︶ と す る。 唐 代 の み な ら ず 周 初 の 康 王 即 位 が 殯 礼 に て 為 さ れ た と の﹃ 尚 書 ﹄ 顧 命 の 記 事 の 如 く、 歴 代 の 即 位 は こ の殯礼即位︵柩前即位︶を基軸に行われている。 ︵ 17︶   ﹁ 原 左 氏 傳 ﹂ の﹁ 卒 ﹂ は 187例、 又﹁ 春 秋 左 氏 經 ﹂ の﹁ 卒 ﹂ は 175例 で、 こ の う ち 82例 は 経・ 伝 共 通 の 例 で あ る。 そ の 詳 細 及 び﹁ 國・ 爵・ 名 ﹂ の 書 法 の 含 意 に つ い て は、 拙 稿﹁ 春 秋 左 氏 経・ 伝 の﹁ 卒 ﹂ 記 事 の﹁ 名 ﹂ と﹁ 謚 ﹂ に つ い て │ 作 経 原 則 と し て の﹁ 名 ﹂│ ﹂︵ ﹃ 中 国 研 究 集 刊 ﹄ 玉 号、 平 成 二 十二年︶参照。 ︵ 18︶   平 㔟 隆 郎﹃ 新 編   史 記 東 周 年 表 ﹄︵ 一 九 九 五 年、 東 京 大 学出版会︶参照。 ︵ 19︶   大槻文彦 ﹃新訂大言海﹄ ︵昭和三一年、 冨山房︶ 2187頁参照。 ︵ 20︶   浅 野 裕 一 前 掲 書 は﹁ 遂 に 斉 侯 を 以 て 貸 し、 ⋮。 ﹂︵ 85頁 ︶ と 読 む が、 ﹁ 繫 年 ﹂ 注 釋︵ 193頁 ︶ も 指 摘 す る 如 く 貸 は 齊 の 康 公 の 名 で、 ﹁ 以 ﹂ は﹁ 引 き 連 れ る ﹂ の 意 で あ る。 左 傳・ 僖 廿 六 年 に﹁ 公 以 楚 師 伐 齊、 取 。 凡 師 能 左 右 之 曰 以。 ﹂ と云う。 ︵ 21︶   浅 野 裕 一 前 掲 書 も、 ﹁﹃ 繫 年 ﹄ の 成 書 時 期 は 楚 の 肅 王 の 時 代 か 遅 け れ ば 次 の 宣 王 の 時 代 と 考 え ら れ る ﹂︵ 59∼ 60頁 ︶ と し、 又﹁ 肅 王︵ 在 位 前 三 八 〇 年∼ 前 三 七 〇 年 ︶ の 時 代 に編集作業が終了した可能性が高い﹂ ︵ 102頁︶とする。 ︵ 22︶   平㔟隆郎前掲書 155∼ 157頁。 ︵ 23︶   本 稿 所 引 の﹃ 史 記 ﹄ は﹃ 史 記 ﹄ 全 十 冊 本︵ 中 華 書 局 版、 一九五九年︶による。一部句点・書き下し文は 𠮷 永。 ︵ 24︶   吉 本 道 雅﹁ 淸 華 𥳑 繫 年 考 ﹂︵ ﹃ 京 都 大 學 文 學 部 研 究 紀 要 ﹄ 五 二 号、 二 〇 一 三 年 三 月 ︶ は、 ﹁﹃ 繫 年 ﹄ は 諸 侯 の 序 列 に つ き、 ﹃ 春 秋 經 ﹄ と は 異 な っ た 認 識 を 示 し て い る。 す な わ ち、 ﹃繫年﹄は、 ﹃春秋經﹄の﹁晉侯﹂ ﹁秦伯﹂ ﹁許男﹂を用いず、 ﹁ 晉 公 ﹂﹁ 秦 公 ﹂﹁ 許 公 ﹂ を 用 い る。 ま た﹃ 春 秋 經 ﹄ が 蠻 夷

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